◼️稲垣足穂「天体嗜好症」
ディレッタントの極みだなあと思う。星と少年愛、映画愛。
先日、大阪の建築祭で多くの見学開放された建物を回っていた際、階段の魔術師の異名を取る村野藤吾設計のビルの5階に狭い古書店があり、そこで目に入った。このところ紫金山・アトラス彗星を撮影(スマホ)したりしていたのでタイトルですっと手に取った。記念にもなるかな、と。
実は稲垣足穂は「一千一秒物語」を読んでもういいかなリストに入っている作家さんだった。天体の題材や街、風景の刹那的な切り取り方は好ましいが何せわけわかんない笑。わからないなりに滋味が感じられればいいが、あまりない。ないとこも良さなんだろうか。むしろ詩の方が成立しそうだ。
で、1928年の今作。短編小説はタイトル通り星、夜空の題材も多く、星新一を少しとりとめなくしたような感じもある。そして少年同士の触れ合い。このへんは川端康成、三島由紀夫、最近では長野まゆみなどでも触れているから独特の面映さ、緊張感と少しのエロさに確立された芸術性はあるかなと思っている。それらの要素を含んだ物語には、分からないのもいくつかあれ、ふむふむと読ませるものはあったかな。
小説のほかに評論も収録されているがこれが分からない。一般にこの時代の文人は外国、例えばフランスの文芸などに詳しいという印象がある。稲垣足穂はさまざまな分野の国外国内の歴史、出来事、文芸その他に博識だと思う。しかしこれを断片的に、ごっちゃに詰め込んで展開するから、読んでる方は文章が宙を飛んで頭の上を過ぎていくのを眺めてるだけといった感覚に陥る。しかし、
「わたしたちが雨に濡れたアスファルトの上をリムジンに乗って走るのも、六月の夜の都会の空に黄色い花火を燃した飛行機が宙返りするのも、港の灯を反射したボギー電車がポールの先から緑色の火花を零して遠い街角を曲っていくのも、同様な好例であろう」(耽美主義について)
耽美主義の例を綴るのにこんな文章を書いてくるのも嫌いになりきれないとこだ。ちなみのこの巻では、2組の台車に車体を乗せて、カーブなどの時にそれぞれの台車が違う動きをするというボギー電車が、よほど好きなのか何回も出てくる。
「こういう空間化した時間を台にしているからこそ、其処では自然界に有り得ない逆行が可能だということを言い添えよう。見よ、黒煙は元の煙突に向かって流れ込み、蒸気はピストン内に吸いこまれ、列車はあとずさりして地平線に点となって没する」
生ける時間を具有した絵画に比べて映画は撮られたものを死物化してしまうと述べた後のアペンディクスとして述べられたこの一言にはふむ、そうだよな、と共感した。現代でも空間、時間はそのままでは過ぎ去るだけで、決して再現しない。いや誰もがスマホを持っててすぐ記録できる現代だから思うのかも。人間からみて、逆回しは面白く、琴線に響くもので、およそ100年前ならなおさらそうだろうと思える。時間というものの捉え方が変わったかも。
稲垣足穂は映画について概して批判的ではあるが、チャーリー・チャップリンは認め、さらにラリー・シモンという喜劇俳優にかなり肩入れしていたようだ。映画評論はそれなりに面白く読んだ。
こう書いてくるとなんか楽しんで読んだ雰囲気も出ているかもだけども、ホンマに進まなかったのが正直。
稲垣足穂は有名作家が価値を認めて次々と評価したこともあり1970年ごろひとつのブームを迎えたという。ほー。
またいつか、読むかな、いや目の前にあったら手に取っちゃうかも。まあしばらくはブランクを置こう^_^
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