2025年5月12日月曜日

5月書評の4

イスラーム映画祭、10回めが終わり、無期限休止だとのこと。個人の方がやってらしたんですね。すごい労力。おつかれさま、ありがとう。どこかの会社が引き継いでくれないかなあと。

◼️ 「ローカル局の戦後史 九州朝日放送の70年」

福岡・佐賀のテレビラジオ局の歩み。しかし黎明期の動きはダイナミック。

地元福岡で幼少の頃からなじみ深いテレビ、ラジオ。しかも私は学生の頃このKBCさんでアルバイトしてたのです。図書館で新規の本として置いてあり半ば義務感で手にした。

戦後民間放送開局の機運が高まり、ラジオ局からスタート、東名阪地域にまず免許が割り振られた。次々と新局が現れ、やがて田中角栄が新聞系列をもとにして系列を整備した。

争うような新規参入のなかで、KBC九州朝日放送は当初福岡市ではなく、県南部の久留米市を本社としてスタートした。まったく知らなかった。やがてすぐにテレビ放送が始まる。いまや名前の通りテレビ朝日系列のKBCは当初フジテレビの番組を多く放送していたという。これも知らなかった。ホンマかいな。フジテレビから3か月後の番組供給打ち切りの通告が来て、テレビ朝日の前身、NET日本教育放送と急きょ組むことになる。

西鉄ライオンズ、博多山笠の中継開始と地域に密着したローカル局の前時代は熱さを感じる。
母が西鉄ファンで、福岡市内の短大に通い、強かったライオンズをよく観に行っていたとか。日本シリーズで巨人を3連敗の後4連勝で破ったことは地元でもはや伝説だ。

太平洋クラブ、クラウンライターと親会社を変えたライオンズを、私は平和台球場に観に行っていた。若い頃は感じないものだが、いま考えると、世代のつながりを感じてしまう、ナイターやオールナイトニッポンをよく聴いていたKBC、父親も年配のアナウンサーの名前をよく知っていた。たしかテレビ結婚式、という企画に出たんじゃなかったかな両親は。

バイト時代は、ローカルには関係なかったがベルリンの壁が崩れ世界が一気に動いたり、選挙ではマドンナ旋風が吹き、売上税が導入されたな確か。その中で雲仙・普賢岳の悲劇が起こった。KBCは取材カメラマンとカメラ助手が火砕流に巻き込まれ、帰らぬ人となった。職種が違うから親しいわけではなかったが面識はあり、社内の小部屋に設けられた祭壇で拝んだ記憶がある。

野球の記憶がある商圏福岡、ホークスが来て社内は活性化していたと思う。色々と現場のお話も聞いた。

地元密着の端にいて、就職を祝ってもらい、私は関西に来た。いま何十年も経って記憶を掘り起こし、知らなかった過去に触れ、戻らない当時をしみじみ回顧する。

本との出逢いは誠に不思議だ。関西やのに。

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