台風2号の湿った空気が梅雨前線を刺激したことによる大雨、予報に従い、ひさびさの在宅にした。それなりの量が1日中朝近くまで降ったが、思ったより強くなく終了、幸い線状降水帯には襲われなかったようだ。中四国、和歌山ではひどかったみたいだから、エアポケットだね。
大正、昭和と現代、2人の画家が描く魚の絵の展覧会を観に行った。
大野麥風は明治生まれ、日本画で、水中の風景に魚が泳ぐ絵を描く、いわば動きがある絵。
長嶋祐成はまだ40歳、京大出で石垣島に移住している。水彩で図鑑のように静的で綺麗な姿を描く。
日本画の方が少し落ち着いて暗めではあるけども、どちらも鮮やかに細かく魚の色や模様を描いていて、どう書いてるのか、目を近づけて確かめることしばしば。ベタっと塗ってある部分も、離れて見ると見事な光沢に、メタモルフォーゼしてる感じだった。
写真ではなくて絵で描く意味も考えたりしました。写真はリアルだけれども、光に大きく左右される。対して絵はコントロールできる。見たい模様を実物以上にはっきり見せることもできる。でもそもそも別物で、目的が違うとこもあるよね、とか。
規模の大きくない展示、最近けっこう行ってます。今回は運河沿いの会場、雨上がりの晴れ、夏の暑さの走り。この時期ならではの清新な雰囲気を感じることができました。
◼️長野まゆみ「夜啼く鳥は夢を見た」
・・しかし長野まゆみは、耽美幻想とでもいおうか暑く眩しく、涼しく、そして妖しい。
ブレイクした「少年アリス」の翌年、1990年の作品。「野ばら」に続く初期の文章は夏の強烈な自然をベースとしながら、さまざまな感覚を織り交ぜ、絵画の連なりのような独特の風情を描き出す。
白く燥(かわ)いた道。盛夏、頑健な紅於(べにお)は病弱な幼い弟、頬白鳥(ほおじろ)を連れ、炎天下の中を田舎の祖母の家に向かっていた。一休みした紫薇(さるすべり)の木のそばには子どもが沈んだという流言のある沼があった。頬白鳥は沼からルリルリルリ、という音を聴く。
祖母の家に住む草一、色白な美少年の従弟のことを紅於は苦手だった。祖母の家の庭の奥では湧水に水蜜が冷やしてあり、頬白鳥はその冷たさを喜ぶ。
夜中に目を覚ました紅於は、草一が寝巻のまま、沼のそばを、ルリルリルリ、と水笛を鳴らしながら歩いているのを見る。
好奇心旺盛な頬白鳥は沼の音、水蓮の花や泥の底にあるという果実、そして泥と水の心地よさに惹かれ、たびたび沼で危うい行動をする。紅於は弟に厳しく当たりながらも、心配している。草一は存在感が薄く、超自然的な生き物のよう。なんか紅於が、振り回される常識人役で微笑ましくもあるが、幻想とライトホラー気味の展開で終わる。筋として理屈が通るわけではない。
しかしまあ、やはり長野まゆみの、特に初期作品は惹かれる表現が数多い。ここまで書いてきたように田舎の夏の暑く白いまぶしさの上に描かれる物事の、なんと芳醇なことか。陰には湧水があり水蜜がある。まさに、みずみずしい。
「早一は、すッと手を伸ばして水の中から水蜜を摑み出した。頬白鳥に差し出された果実は天鵞絨の表皮に水滴をはじいて煌めいていた。草一の指先から、蜜の匂いに満ちた湧水の滴が零れ落ちている。その手は水の中の月に似て透徹るように白い」
動かない水と泥にも水蓮の、不思議にしん、とした姿があり、田舎の夏の夜の涼しく濃密な空気も押し寄せてくる。そういった表現の中で少年それぞれの描写の、エッジが際立つ。
「紅於は溜め息をついて、弟の枕もとにしゃがみこんだ。暗闇の中で弟の顔を探す。窓から射す僅かな月燈りに、蒼白い頬は、さらに蒼い影を落として、枕の中に沈んでいた」
好みはあるかもしれないが、私はこの長野まゆみ独特の筆致がやっぱり好きである。心の良きところを衝かれる気がする。部分もその集合が醸し出す全体も、幻想的で工夫された映画の場面が思い浮かぶ感覚。またルリルリルリ、水笛もこの音も効いている。小憎らしいくらい巧みだ。
もうたくさん読んで、何を読んでどれを読んでないかも定かでないけれど、続編っぽい「魚たちの離宮」も読みたいなと。まだまだ楽しめそうだ。
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