バックハウスイリエのドーナツ、クリームパン。ホンマに美味い!ドーナツ食べた時声が出た。「うまっ」
◼️「ちひろの昭和」
表情、しぐさ、そして水彩の色使い。ちひろの絵は日本のアイコン。
そんなちひろの、子どもの絵のような・・好きなフレーズ。私はジャン・ジャンセンの絵が好きで、長野は安曇野のジャンセン美術館を訪れたいと常々思っている。そして、近くにある岩崎ちひろの美術館にも行きたい。webで情報を見た後、図書館で目にした。
瞳を描く表情は楽しさとともに子どもの微妙な感情をも捉えている気がする。そのしぐさは、可愛らしい、と感じるとともに、観る者に共感を呼ぶ一瞬を描き出しているようだ。
何より着るもの、背景、風景の色使いには感嘆する。背景と服とで赤や緑を重ねてみたり、大胆に差をつけてみたり。長いスカートのひだと布地のたっぷりさを、何種類かの色を薄く小さく使って表し、風合いまで感じさせる。水彩のぼかしの味も効きまくっている。
1939年に生まれインテリの両親のもとで育った岩崎ちひろ。絵の才は抜きん出ていた。しかし両親は家庭を持つことを望み、10代で意に沿わぬ相手と結婚させられ、最初の夫とはまもなく死別する。戦後、共産党主宰の芸術学校に入り出会った夫と結婚するさいは、特に芸術家としての妻の立場を尊重すること、などの誓いを立てさせたとか。
戦後訪れた高度経済成長による技術の進歩によって、微妙な色合いも印刷できるようになった。また子どもの成育に熱を入れる世相もあり、時代にマッチしたちひろの絵は広く認められるようになった。
子どもの絵は、長男の子育てに大きく影響されたようで、素人目に見ても、年代によって描き方が変わっているのが分かる。
というように、いい年のオジさんは年がいもなくキュウンとしていたわけだが、絵を見る前に、本を開いてすぐのちひろ自身の文章に惹きつけられた。
自分は若い頃には戻りたくない、という。あんな下手な絵しか描けない自分にもどってしまったとしたら、これはまさに自殺もの、という一文には苦笑いとともにそうだろうな、という感慨も湧く。地味な苦労をして、失敗を重ねて一歩ずつ進んできた、その気概が覗く。
親になってー
「私の若いころによく似た欠点だらけの息子を愛し、めんどうな夫が大切で、半身不随の病気の母にできるだけのことをしたいのです。(中略)大人というものはどんなに苦労が多くても、自分のほうから人を愛していける人間になることなんだと思います」
ちひろの絵は、いわゆるプロレタリア美術にそぐわないとよく批判の対象になったという。絵の背景に思想が滲むのはある意味深みだが、絵を思想や価値観で斬るのはあまり感心できない。
ちひろの絵に漂う、ある種のリアルさ、感情、は、実感のこもったメッセージを投げかけている、ということかも知れない。
なんて。気楽に観られるのもいいことだよね。
さて、いつ行こうかな。
◼️ 矢口高雄
「釣りキチ三平の釣れづれの記 平成版」
やたら感動しながら読んでいた。ホントに懐かしい、あの頃。よく釣りしたなと。
「釣りキチ三平」は家に全巻あった。鮎、鮒といった河川湖沼の釣りから、カナダではキングサーモン、ハワイではカジキ釣りの大会でのビッグファイトまで、主人公の三平と取り巻く人々の縦横無尽の活躍が読んでいて楽しかった。四万十川のアカメ、キャスティング大会、クロダイ編など思い出深い。とりわけ好きなのは北海道で幻の魚・イトウを狙うシリーズだった。
矢口高雄氏監修の海釣り、河川湖沼の釣りのガイド本を読んで対策を練り、道具も揃えて、ハリスと針を自分で結んだりして、釣りに出かけた。
ウェーダーという長靴を買って山の渓流でヤマメ釣り。エサ釣りでピシッと合わせる。細長い小判状の斑紋模様、パーマークが特徴的なヤマメの美しさは愛おしい。ハヤ(ウグイ)を清流で、爆弾釣りといったいわゆる吸い込みの仕掛けで筑後川や手近な池で鮒を釣り、冬場船に乗って島に渡りカレイを狙ったりした。
2020年、著者の訃報に触れた際も寂しさを感じたけれども、こうして著作を読み込んでみるとノスタルジーと、当時の裏側を知り好奇心が満たされる感覚で、やたら感動モードになる。
「サスケ」などの白土三平に憧れて銀行員をしながら漫画家を目指していた頃の話、「バチヘビ」というシリーズでツチノコブームの一翼を担ったこと、「釣りキチ三平」が始まるまでと、大当たりして大人気作家だった当時の回想。こぼれ話も満載である。
三平は年をとらない、永遠の11歳。ストーリーマンガ、との位置付けで、昭和14年に生まれ秋田の集落で育ち社会人の釣り好きとして30歳近くまで秋田で過ごした著者の郷土愛、東北愛、さらには人生観が深く滲み出ている。
10年続いたマンガの中では、出稼ぎに出て行方不明となった三平の父親を探す事も1つのテーマとなっている。三平の大きな兄的存在で釣りのパートナー、魚紳さんが全国各地へ三平を連れて釣り歩くのは、父捜索の旅でもある。
そして三平を育てた祖父にして竿作りの名人、一平じいさんとの別れ。最終話を書き上げた際は氏が出版社に原稿を持参し、終了を記念したパーティーも催された。10年続いた連載、ある日、家で1人呑んでいるテーブルに、ミニ三平が現れ、終わらせよう、といつもの訛りで話したそうだ。
「10年ひと区切りって言うでねえか」
余談だが、三平のこういった言葉は、こまっしゃくれた風味が妙な説得力を生む。
「だって口が悪い人は心はきれいだって言うでねえか」
というセリフは仲間内で話をする時に使ったこともある。
マンガが熱い時代のこと、ウルトラマンを生んだ男たちのドラマで、いかにおもしろい作品を世に出すか、製作者たちが熱く語り合っていた場面を思い出す。「釣りキチ三平」はウルトラマンが始まった昭和40年代の末にスタートした。まさに世代で、このジェネレーションのエネルギーが後のジャパニメーションの力に繋がったんだなあ、なんて考える。
マンガ界に新たなジャンルを切り開き、大きな影響を与えた金字塔、「釣りキチ三平」の最終話は悲しさと感動が詰まっている。著者は創作者としてクールでいたつもりが、書き上げた後、まったくアイディアが浮かばないという後遺症に悩まされたとか。
こう熱く語りながら、「釣りキチ三平 平成版」は最初の方しか読んでない。まだ読むものが残っているのは幸せでもある。カムチャッカ編が読みたいなあ。探してみよう。
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