◼️ 高樹のぶ子「業平」
伊勢物語は味わい深さが落葉として心に落ちる。雅やかな平安の時が淡く感じられる。
図書館予約してから9か月、やっと回って来た。「100分de名著」のインパクトばかりでなく、伊勢物語がいかに愛されているか、稀代の色男であり抜群の歌人であり、謎の多い在原業平を、クッキリと見える主人公として、この物語を小説化する、というのがいかに人々の心に刺さったか、推し量れるというものだ。
在原業平は825年に生まれた、平城天皇、桓武天皇の孫。父の阿保親王が後継争いに巻き込まれることを嫌い、臣籍降下させ在原性を名乗ることとなった。世は藤原良房、基経の権力が強まり、伴善男、源融らが対立勢力となる。業平は、歌人としては一流だが政治の世界では表に立てず、惟喬親王、紀有常ら負け組ともっぱら付き合いが深かった。
「初冠」の姉妹たちとの明るく初々しい出逢いとやり取り、若く傷つきやすい心根の業平を優しく受け止める大人の、右京の女から始まり、数々の恋を描いている。そして業平の官位、立場や交友する人々、また政治的な成り行きなどが織り込まれている。
伊勢物語には数々の名歌と儚い恋、失脚、人生の道行、また筒井筒のような若く青く溌剌とした恋のエピソードなども盛り込まれている。全体として感じるのは在原業平の遠さ、薄さとでもいおうか、平安時代の貴族の典雅さとは対局にあるようなファンタジックな部分でもある。
この小説は、短い章を積み重ねながら、基経の妹、藤原高子(たかいこ)との恋愛譚、その昇華点、「芥川」へ向かって緊張感を高めていく。背負って、大雨の中逃げて、鬼に遭うー。
そして今一つのクライマックスは、惟喬親王の妹であり、権力争いの波紋で伊勢神宮の斎王となる恬子(やすこ)内親王との恋。役目として伊勢へと出張した業平は、斎王の暮らす神秘的な館でついに一夜を共にするー。
清らかでなければならない斎王が男と契る、あってはならない過激なストーリーに伊勢物語が書かれた当時は騒然となったとか。
高子、恬子、両方の話とも、業平にとっての存在感と、片や天皇の妻となり、片や1人で意に沿わぬ伊勢行き、というそれぞれの境遇、運命を構築し、そのはざまで揺れる業平の心持ちを描き出している。
古典を読むだけでもドラマチックな要素を、古文と現代語訳の中間のような文体で、活き活きと、華麗で幻想的で人間らしく彩っている作品。微笑みながら読んでしまう。
劇中、業平が源融や兄行平と訪れたいまの兵庫・芦屋は住まいに近く、またその際観に行った神戸の布引の滝の部分にも親近感が湧く。布引の滝を見ての歌。
ぬき乱る人こそあるらし白玉の
間なくも散るか袖のせばきに
白玉の緒を引き抜き、このように散らせる人がいるにちがいない。美しい白玉が間を置かず散り落ちることよ。それを受けとめ包むには、私の袖はこわなに狭く小さいのですが。
晴るる夜の星か河辺の蛍かも
わが住む方の海人のたく火か
あれは晴れた夜空の星でしょうか。それとも河の近くを飛ぶ蛍でありましょうか。さもなくば、わたしの邸がある芦屋の灘の海人が焚く篝火でありましょうか
この2首はおぼえておこうと思った。
まだまだ有名な話と名歌は多く盛り沢山。とても全部は書き尽くせない。
ちはやぶる神代もきかず竜田川
からくれないに水くくるとは
の竜田川や、筒井筒の井戸は毎年のように行きたく思うがまだ訪ねていない。作中にも出てくる、嵯峨野の源融の屋敷の後に立ったという嵐山の清涼寺は昨年行ってきた。
古典作品に正面から取り組み、新解釈を芳醇な文体と巧みな構成、流れで小説化した著者に拍手と御礼を。業平は光源氏に比べるとやはり地味なんだけれど、人間的でありつつ、どこか超越したところにいるような業平の淡さを強く残している部分に好感が持てた。
◼️ Authur Conan Doyle
「The Norwood Builder」
(ノーウッドの建築業者)
追い込まれるホームズ、しかし決定的な手がかりが・・!
第3短編集「シャーロック・ホームズの生還」より。モリアーティと決闘し、死地から生還したホームズがベイカー街へ戻る「空き家の冒険」の次のお話。「生還」は劇的要素が強く、その流れを成している一篇だと思います。
「モリアーティ教授の死以来、ロンドンは妙に面白くない街になってしまった」
London has become a singularly uninteresting city since the death of the late lamented Professor Moriarty.
との言葉から始まる物語。
ホームズとワトスンの部屋に、目をギラギラさせて身なりも乱れた若い男が駆け込んできます。事務弁護士のマクファーレンでした。
I am the most unfortunate man at this moment in London. For heaven's sake, don't abandon me, Mr. Holmes!
「私はこの瞬間、ロンドンで最も不幸な男です。どうか私を見捨てないで下さい、お願いです、ホームズさん!」
とのたまいます。そして、もし私が警察に逮捕されたら・・と口走ります。
Arrest you! said Holmes. This is really most grati–most interesting. On what charge do you expect to be arrested?
「逮捕されると!これは実にありがた、いやいやとても興味深い。なんの嫌疑で逮捕されると予想しているのですか?」
面白い事件に飢えてたんですね笑。ワトスンは
My companion's expressive face showed a sympathy which was not, I am afraid, entirely unmixed with satisfaction.
「ホームズの顔には同情の色が見えたが、残念なことに、満足げなものが完全に混じっていなかったわけではない」
なんか少女マンガ的な可笑しさというか。
マクファーレンくんの事件は、朝刊に載っていました。ノーウッドの高名な建築業者、オウルデイカー氏家の材木置き場が燃え、その日から資産家オウルデイカーは行方不明になった。彼の部屋では金庫が開けられており、重要な書類が散乱していた。氏はベッドに寝た形跡がなく、部屋には格闘の跡があり、薄く血痕も見つかった。そして、部屋にあったオーク材の杖の握りにも血が付いていた。
焼け跡から遺骸が見つかった。昨夜事務弁護士マクファーレン氏がオウルデイカー氏を訪ねており、逮捕令状が出ているー。
杖はマクファーレンくんのものでした。ここへ来るまで、ずっと後をつけられていたと彼は怯えきっています。
そこへスコットランドヤードのレストレイド警部が登場。
I arrest you for the wilful murder of Mr. Jonas Oldacre, of Lower Norwood.
「ロウワー・ノーウッドのオウルデイカー殺害容疑で逮捕する。」
まあ待て、本人の弁を聞いてみようよ、とのホームズの頼みを聞き入れたレストレイド。マクファーレンの話を聞きます。
昨日3時ごろ、オウルデイカーがマクファーリンの事務所に入ってきました。なんと、マクファーレンに全財産を遺すという遺言状を仕立ててくれというのです。自分は独身で、近しい親族もいない。マクファーレンの両親とは昔知り合い、いつも話をよく聞いており、ふさわしい青年と確信したと。
こう書くと、いかにも胡散臭い、過ぎる話ですよね。
で、オウルデイカーは権利書等々を見て理解してくれ、ついては今夜遅くにノーウッドの自分の屋敷に来るように言います。加えて、君の両親には内緒にしてて驚かそう、と固く約束させられます。マクファーレンはオウルデイカーの屋敷を訪問し、深夜に辞去、近くのホテルに泊まりました。そして朝刊を見て驚天動地、これはヤバい!と動転してホームズのところに来たのでした。現場で見つかった血のついた杖はマクファーレンのものでした。
マクファーレンは話を終え、連れて行かれます。
自分に巨額の遺産が入ると分かったマクファーレンが殺したのですよ、というレストレイド。でもさー、まさにその日に殺すなんてするー?揃いすぎてる気もするしー、とホームズ。ホームズには確信があるようでした。
翌日、ホームズはマクファーリンが両親と住むブラックヒース、そしてノーウッドのオウルデイカー邸を回ります。ブラックヒースのマクファーレンママに言わせると、オウルデイカーとは婚約していたことがあるが酷いやつだと分かって別れた。そしたら今の夫との結婚式の朝に、切り刻んだ私の写真を送りつけてきたんだ、と。
さらにノーウッドの調査では、どうも思ったほど経済状況は良くなさそうで、コーネリアスという人物に多額の小切手を振り出していたことが分かりました。
しかしマクファーレンの有罪を覆す有力な証拠は出ず。落胆したホームズに、レストレイドからの電報が届きます。
Important fresh evidence to hand. McFarlane's guilt definitely established. Advise you to abandon case.
LESTRADE.
「新しく重要な証拠を入手しましたで。マクファーリンの有罪は確定ですわ。手を引かれたほうがよろしいんちゃいますぅ?」
ともかくもホームズとワトスンは出かけます。得意絶頂のレストレイド。
その決定的な証拠というのは、帽子掛けのある壁についていた、
well-marked print of a thumb
親指の指紋でした。準備のいいことにレストレイドはマクファーレンの指紋の蝋型を持って来ていて、2つは同じでしょ、決定的でしょ、とチョー上機嫌。ふだんさんざんやり込められているホームズを見返すチャンスなのですね。
ワトスンくんも思わず「決定的だ・・」と呟きます。続いてホームズも
It is final
「決定的だ」
しかしその時、ワトスンはピンときます。
Something in his tone caught my ear.
彼の口調の何かが私を捉えた。
ホームズは目を輝かせ、必死に笑いを堪えていたのです。
ホームズはワトスンを連れて散歩に出かけ、邸の周りを調べます。そして帰って来て、調書を書いてたレストレイドくんの所へ行き、持ちかけます。
重要な証人を連れて来るから、巡査何人か貸して、と。ホームズは3人のゴツくて声の大きそうな巡査に2束の藁を運ばせ、バケツに水を用意して、最上階の廊下の突き当たりへ。
藁に火をつけて煙を出して「火事だ!」
すると!奥の壁がパッと開いて、そこから小柄な老人が逃げ出してきました。
Capital!「すばらしい!」
Lestrade, allow me to present you with your principal missing witness, Mr. Jonas Oldacre.
「レストレイド、重要な見逃された証人を紹介させていただきたい。ジョナス・オウルデイカー氏です。」
オウルデイカーは殺されたのではなかったのです。偽装でした。
経済的に行き詰まったオウルデイカーは、自分の別名であるコーネリアス氏に多額の小切手を振り出していました。殺されたフリをして債権者から存在を消し、小切手を換金した原資をもとにどこかで別人として生きようとしたのです。
おまけに、昔自分をフッた憎い女の息子を絞首台に送ることができる。
It was a masterpiece of villainy.
「極悪の名人芸だよ」とホームズが評価した通り、いくつかの目的を同時に達成できる、よくできた最悪の計画でした。
しかしなぜ看破できたのか?
But how in the world did you know that he was in the house at all?
「しかしいったいどうやって彼が家にいると知ったのです?」
レストレイドの(へりくだった態度で先ほどまでとは全然違う)の問いに
The thumb-mark, Lestrade
「あの指紋だよ、レストレイド」
I knew it had not been there the day before.
「僕はあれが前日に無かったことを知っていた」
だから、夜の間に誰かが付けた痕だと確信を抱いたのです。散歩の途中で邸のぐるりを観察し、歩測し、最上階の間取りの不自然さを見抜いていたのです。加えてオウルデイカーは建築業者。隠し部屋1つの設置くらいわけないのでした。ちなみに火事の遺骸は動物の死体だと思われました。
名人芸の陰謀も、勇み足から露見してしまった。チャンスを逃さず、見事にクリアな解決。罪なき若いプリズナーを救い、警察の威信とレ自分個人の評判を守った、とホームズに大感謝のレストレイド。最後の方はこの警部に横柄さなんてまったくありませんでした笑。後に「六つのナポレオン」でも出て来ますが、基本的にやり込められる役のレストレイドはホームズに対して大変な褒め上手のようです。
まあもちろん、遺骸の骨が人間か動物かくらい分からないのか、とか、時間がないからといってマクファーレンの母親くらい話を聞いてないのか、などなどの疑問は残ります。犠牲者が犯人、というのもおそらく当時では斬新だったのでしょう。
顔のない死体は身代わり殺人を疑え、というミステリーの鉄則を踏んだ話でもありますね。オウルデイカーが建築業者だから隠し部屋、というトリックも見事ですし、劇的な解決も、ユーモアも良いかと思います。しかしなぜか、全作品中のインパクトはもう1つ。「火事だ!」が「ボヘミアの醜聞」のニ番煎じっぽいこと、高名な建築業者を犯人にしたのはいいけれど、悪役として決して魅力的ではなかったこと、なんかが理由でしょうか?
うさんくさい話にはウラがある、という教訓でありました。

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