2022年5月13日金曜日

5月書評の4

GW最終日は母の日ということで、ケーキ。Eテレの「グレーテルのかまど」で知ったサヴァランが食べたくなって一緒に買ってきた。

ブリオッシュの部分にリキュールじゅくじゅくでオトナ味でした。

昔神戸で食べて、こ、これは違う!と思ったケーキのイデミ・スギノがついに閉店。もう1回食べたかったなあ。ブログで「イデミ・スギノとそれ以外」と書く人もいた。東京での成功も素晴らしい。純粋に味で勝っていると思う。願わくば、もう1回神戸に来てくれないかな。


◼️ 多和田葉子「言葉と歩く日記」

エクソフォニーの多和田葉子の「言語観察日記」。たくさんの朗読。

エクソフォニー、とは母国語の外に出た状態のことらしい。著者はドイツ在住で日本語とドイツ語で小説を書き、日本では芥川賞、ドイツでゲーテメダル、さらに「献灯使」で翻訳部門の全米図書賞を受賞している。

通常の日記とは別に、2013年の年始から4月半ばまで書かれた言語観察日記だそうだ。ちょうどこの時期は、日本語で書いた小説をドイツ語に翻訳したことがなかった著者が「雪の練習生」で初めてチャレンジする期間にあたっていたとのこと。忙しく各国を行き来する日々の中、日本語、ドイツ語ほかの、ことばに関する考察がなされている。ドイツ語は大学1年の教養課程までなので分からないところもある。男性名詞、女性名詞、格、日本語が難解だということはよく聞くが、ドイツ語もめんどくさい、表現に影響が出るという視点はなかなか新鮮だった。

ニュアンスというのは考えだすと難しい。著者は「公園に行くと、野良犬がいた」で考える。

主語をわたしとすると、わたしは犬がいると期待して公園に行ったわけではない。また例えば「豆腐を押してみると、意外に硬かった」といったように公園に行った結果、期待を裏切られたことがあったわけでもない。「カーテンの色を白に変えてみると、急に部屋が明るくなった」のように、何かを働きかけてその結果こうなった、というわけでもない。

ドイツ語に訳す際、「わたしが公園に行った時、公園には野良犬がいた」「わたしは公園に行き、そこに犬がいるのを発見した」としてしまうと、「無数の偶然からなる渦に巻き込まれて、かたちのない期待やかすかな驚きを味わいながら、次に何が起こるかわからないけれど、多少のんびりかまえている、という感じが出ない」そうでやっぱり「公園に行くと、野良犬がいた」が肌にぴったりくるそうだ。これとは別に、「リアリティ」という言葉がドイツ語に訳しにくい、という話もふむふむ、となったりした。

源氏物語を与謝野晶子訳で読んだ際、一文が長くて訳しにくすぎる、というのが伝わってきた覚えがある。源氏はむしろ外国語に訳した方が読みやすく意味を取り易い、と外国人の誰かが書いていた。そうかもしれない。先行の訳もあり、たとえ意味がその通りであれ飛躍した表現や思い切った省略がしにくいかも。

ただ著者の悩みはもっとミニマムでニュアンスが細かい。こういうことが難しいからこれまで日本語訳してこなかったのかも。でもこのチャレンジで何かの殻を破りたかったのかもしれない。かも、かも。

それにしても驚くのが、ドイツ各地はもちろん、頻繁に各国のイベントに招かれること、さらには自作を自分で朗読するという企画の多さである。著者の場合は日本語、ドイツ語のいずれか、もしくは両方で朗読している。朗読の形を変えて何回もやったり、ダンスを組み合わせたり、学生とのワークショップがあったり、にぎにぎしく頻度が多い。

本の中でもアメリカ、トルコ、ルクセンブルク、イタリア。ヨーロッパは距離が近い。小さい自治体でも外国から作家を招いて朗読会やワークショップをやる。そんな文学フェスティバルは海外の文化なのだろうか。日本で文学のイベントというと講演、みたいなイメージがあるけども、私が見逃してるだけ?日本でも開催されてるのか?なんて思ってしまった。楽しそうだ。

読書量も多く、映画も演劇も良く観ているようだし、トピックも豊富。考えもあちこちに跳ぶし、言語学の理論的な話があるかと思えば、文学賞の受賞で帰国した際、東京モノレールの駅名に想像力を広げたり。ここは私も初めて東京に行った時のことを思い出した。天空橋や昭和島にはジブリとかガリバーとか考えるし、整備場、流通センターってえらい粗い駅名だし。天王洲アイルはまだなかったかな。

その他、ドイツでは夏目漱石はほとんど知られておらず井上靖の評価が高いとか、日本語にはわかる、と不安、が多いという話、またドイツの1人称はichしかなく、「『あたし』とか『俺』など社会のしがらみの中で体臭を放つ日本語と比べて」無色透明である、などというくだりは表現も含めて面白かった。

こだわりすぎてるかな、なんて思う部分も含め多彩な話題でそこそこ楽しめた。多和田葉子氏には興味を惹かれつつも、ちょっと距離を置いて付き合いたい、という感覚である。なんとなく、だが。今回は先に読んだ「地球に散りばめられて」でかつての日本語を話す人を探し求めるHirukoと著者の姿が重なった。

日本語オンリーだけれど、言語学には興味がある。ふむふむ、という本だった。

◼️ 長野まゆみ「兄弟天気図」

キリリンコロンー狗張り子の鈴の音とともに。数十年前の日常と不思議。

東京・水天宮の近くに住む三姉弟。末っ子の弟史(ちかし)は中学生の兄・兄市(けいいち)と近所がすべて知り合いのにぎにぎしい界隈で暮らしている。出産を控えた姉の姉美(えみ)や友だちにはもう「ちぃ坊」と呼ばれたくない年頃だ。安産祈願で戌の日の水天宮に行った時、姉美が兄そっくりの少年を見かけ、弟史がまだ生まれる前に幼くして死んだ弟介(だいすけ)だと言い出す。「キリリンコロン」やがて弟史も狗張り子の鈴の音とともに、少年と、死んだ祖母の姿を目にするようになる。そしてある日、兄市が行方不明となり、弟史は鈴の音を聞くー。

下町は、湯屋、銭湯が社交場、甘味屋の小父さん小母さんも小さい頃からの顔なじみ。蜜豆、心太、夏蜜柑、枇杷に紅強飯(おこわ)。明治生まれのおじい、おばあが普通にいて子どもにも話しかける。

湯屋の番台には兄市の同級女子の知波、弟史の友人は父親が子どもの名前を真実一路としたかったがために「まみ」とからかわれる真実(まこと)は幼い弟、一路(かずみち)の面倒を見る。

火事、不思議な幽霊、神隠しー。

昭和生まれも元号3つめを迎えてしばらく。やがてほら、あの人はさ、昭和生まれだからさ、とか言われだすんだろか。確か小さい頃、日本最高齢の方は最後の幕末生まれ、という記事を見たような気がする。

あとがきにかいてあるけれども、著者の描きたかった世界は追想の中の子供時代のことだと思う。なんということはない話に100ページほどの物語にしっとりした風情と長野まゆみ風エッセンスが詰まっていて久しぶりに味わった。

長野まゆみは「少年アリス」以来飛ばしまくってた気がするのだが、名前も小難しい漢字も少し抑え気味かな、という感じもする。今回は意味をつけてるからで、それでも変わっているといえばそれまでだけども。蜜蜂とか銀色とか銅貨、黒糖蜜、ほどのインパクトはないかなと。

美少年路線の頃は女性じたいあまり出てこなかった。泉鏡花賞、野間文芸賞を取った「冥途あり」はまた別種の独特さに筆力の抽斗の多さ深さを感じたものだ。

今作は90年代の作品。でも少し変化の兆しが出てるのだろうか。

長野まゆみはおもしろい。折に触れ読みたい作家さんだと思う。

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