2022年5月2日月曜日

4月書評の8

◼️ イタロ・カルヴィーノ
  「まっぷたつの子爵」

善と悪は必ずしも噛み合うものではない。

イタリアの作家、イタロ・カルヴーノは、友人の書評コラムで知り「不在の騎士」を読んだ。今回も設定が愉快で、少し考えさせるように仕向けている。

子爵メダルドはトルコとの戦争に出陣し、砲弾でまっぷたつとなり、右半身だけの姿で生き延びる。領地に帰ったメダルドは量刑を厳しくするなど恐怖政治を行い、自ら動植物をまっぷたつに切ったり、嫌がらせ、意地悪を行ったり、果ては放火をするようになる。

そんなメダルドも村娘パメーラに恋をし、悪事を行いながらも弱味をのぞかせる。

その頃、メダルドの左半身が現れ、あちこちで善行を施す。人々はそれぞれを「悪半」「善半」と呼び「善半」を称える。しかしー。

童話のたぐいなら話が直線でつながりそうだ。実際大きな流れはそのルートを辿る。しかし、さすがにイタリアの国民的作家、ところどころの屈折率が高いかも。

語り手はメダルドの一族に生まれた甥っ子で、いまは独りで暮らしている少年。なにやら童話っぽい方向が散らされている。しかし人物や集団はなかなかクセがある。

医者だが診療はせず人魂の研究などをしているヘンな男トレロニー。かつてはキャプテン・クック船長の船の船医でトランプの名手だったらしい。また馬具商兼車大工のピエトロキョード親方は、悪半メダルドの命により一斉に多くの人を縛り首にする装置や拷問の道具などを、その職業意識によってか、精巧に造り上げながらも自分が作るものの用途が残虐なためいつも悩んでいる。


領地の癩病患者の集落は音楽に溢れた、さながら退廃した芸術家村のようだし、ユグノー教徒たちは厳しい規律で自給自足をしているが、自分たちの教義は忘れかけている。

パメーラはどこか女神っぽい風格も漂わせる、利発でやんちゃな娘。残虐な悪半メダルドも恋には純粋で、駆け引きに応じざるを得ない。

そして、クライマックスの悪半と善半の対決は描写がはっとするほど哲学的な面を見せ、多くの暗示を感じさせる。

作中に出てくる集団は、パルチザンとしてナチスと戦ったカルヴィーノが当時の社会状況の暗喩という部分が大きいようだ。

一読ではさすがに分からないけれども、例えその実感がなくとも楽しめる。寓話や伝説っぽい雰囲気を漂わせつつ鋭く刺す、そんな作品だと思う。



◼️ 伊勢英子 柳田邦男
「見えないものを見る 絵描きの眼・作家の眼」

迫力のある読み物だった。伊勢英子の絵は何かを宿している。

書評サイトで、大学生のためのテキストだという「ベーシック 絵本入門」をいただいた。とても興味深い本だった。その中に伊勢英子の描いた、宮澤賢治作の「水仙月の四日」という絵本が紹介されていて、さっそく図書館で読んだ。

あっという間に吹雪になり、小さな男の子が行き倒れる。絵と、雪と、子ども、吹雪を司る雪童子(ゆきわらす)。救出という光。幻想的、象徴的で、少しベタに見えなくもないが、絵が、胸に迫る独特の力を持っていた。

この本は検索している時に知って興味が湧いた。2人の講演、対談を収録したもの。

絵描きとノンフィクション系の作家・柳田さん。この2人はそれぞれの人生を歩み、晩年結婚したようだ。

最初の方はそれぞれの眼ー、絵描きの眼、作家の眼について、講演が収録されている。伊勢さんはチェロの心得があり、行き詰まった時に幼いわが子を連れて、「鳥の歌」で高名なチェリスト、カザルスの足跡を追ってポーンとスペインの山村へ行ってしまう。そもそもまた宮沢賢治「よだかの星」の夕焼けの色を知りたくて岩手まで行ったりしてた人で行動力はとんでもなくあるけれど、少し理解し難い人かも、というイメージが少しあった。

しかし、対談に移ると柳田氏による「死の医学への日記」という末期ガン患者への医療をテーマにした新聞紙上の大型連載に挿絵を描いていた時のエピソードに引き込まれた。まずは絵本作家だった伊勢さんが畑違いの、しかも厳しいネタのノンフィクションというのに緊張してしまったところから始まって、どのように絵が変遷したのかを追っていく。

たまたま伊勢さんの絵本「風の又三郎」を目にして指名した柳田氏が「出た!」と叫んだのは、背中に大きな羽根をつけた天使が光り輝く玉を胸に抱いている11回めの絵だったという。柳田さんが期待していた「違い」とか「伊勢英子が持っている特別なもの」が連載の内容をさらに深く表出させるものだったのではと思う。

この絵は同時期に描いた絵本「水仙月の四日」の表紙に若干のバリエーションをして描かれている。自分が読んで感銘を受けた本にそんな背景があったとはびっくりだった。

一方伊勢さんはやはり悩んでいた。専門用語も多く密かに勉強もした、末期ガンで余命いくばくもない方のケアという難しい内容に臆して、最初は付け焼き刃で描いていると、友人からどうしてそんなに肩に力の入った絵を描くのか、と言われたそうだ。その後「出た!」という絵は何回もあった。満開の桜の下で天使のような少女が下を向いて花びらを散らしている絵は美しくも儚く暗示的だ。

実は連載の途中から絵描きである伊勢さんの父親が末期ガンの宣告を受けたという。葛藤に苦しみながら、伊勢さんの絵はまた変化していった。花咲く野辺に立つ老画家とその足もとで無心に花を摘む幼い女の子、また幼い子どもを残して旅立たねばならない母親の話ではパジャマ姿の男の子が立ったまま枕に顔をうずめている絵・・母の匂いを求めているこの作品を、伊勢さんは泣きながら描いたという。

そして最終回は、大きな砂時計の落ちゆく砂を見つめる天使のような少女。少女の足場は棘のあるバラの枝、砂時計の上のガラスはほとんど空になって、そこからいく筋もの雲が透明に重なって流れ出ている絵。見た父親は自分の事だな、と確かめて、いい絵だ、と娘に告げた。

この、一種異常とも言える状況下での、ギリギリの創作。そして同時期の「水仙月の四日」。

絵描きの眼、ノンフィクション作家の眼、それぞれ興味深いものだけれども、それが命を媒介として強く作用し合った現象の不思議。

とても良い読書でした。

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