3月は快調に読んでる感じ。こういう時は読むのが楽しい。
スポーツで話が合う真子は毎日一度は後ろから抱きついてきて、寒いと私のベッドで一緒に寝る。はあ、高3やのに、こう親離れせんでだいじょぶかいな。ある意味羨ましいね。私はとてもそんなことできなかったからね。
◼️ 奥山景布子「キサキの大仏」
平城京時代のクライマックスの1つ、大仏建立と光明皇后の姿。時代ファンとして楽しめた。
いつも飛鳥・奈良時代の本を探している。特に光明皇后は興味の焦点。著者さんは大学で主に平安時代の古典研究で博士号を持ってる人のようだ。
読む前に書の本で、光明皇后が書き写した「楽毅論」の文字を眺めた。ゴツゴツとして「雄渾」と称されるらしい。発願の国分尼寺・法華寺の国宝十一面観音像。豊かな髪の優美な姿は光明皇后がモデルと伝えられ、文字と姿のギャップに人間っぽさが伺えてくすっとなる。
物語はまさに光明皇后、安宿媛(あすかべひめ)が自分の文字のごつさと、整然として綿密な夫の首(おびと)、つまり聖武天皇の文字と比べるところから始まる。
藤原不比等の娘で36歳になった皇后・安宿。皇太子である娘の安倍内親王(後の孝謙天皇)、上皇(退位した元正女帝)ら、そして仲睦まじい夫の首と政権の中枢を担っていた。首は政治においてなにかと自分の不徳と責任を抱え込みがちな性格。そんな折、都が天然痘によるパンデミックとなり、政治の実務にあたっていた不比等の息子たち、安宿の頼れる兄たち4人全員が亡くなってしまうー。
この時代における皇族と藤原氏台頭の歴史は永井路子「美貌の女帝」が印象深かった。
安宿は聖武天皇の皇太子時代に宮中へ夫人として入った。藤原氏四兄弟は、対立していた皇族の長屋王を陰謀によって抹殺、その後、藤原氏出身の娘として初めて后となった。経緯から四兄弟の相次ぐ病死は長屋王の祟りとも噂され、世情穏やかならぬものがあった。
藤原氏の無理押しで皇后となった安宿媛、遷都を繰り返し、巨大すぎる盧舎那仏を造ろうとムチャを言う聖武天皇、さらに女性東宮や一部の部下の重用への反発、謀反の動きなどなど、加えて朝鮮半島の動きも不穏で内憂外患の状態だった。
長屋王の変でダーティなイメージが強いせいか、聖武天皇や施薬院などを作った光明皇后をポジティブに扱った作品はどちらかといえば少ないイメージがある。
実際に法華寺で観音像を観たり、皇后の文字を追ってみたり、正倉院展で大仏開眼当日の装飾品を目にしたりしてみると、どこか違和感があった。
まあ不穏でないと面白くないのも小説だし、ずっと権力をほしいままにした藤原氏へは自然な反発心が湧くのは確かだけれども。少なくとも両方の立場の作品があってもいいかなと。
今作にどれくらい専門的な学説から導かれたものが入っているかは分からない。大仏造営に関して犠牲者の多さ、使役の厳しさを描く小説もある中で、さまざまな事を前向きに捉えている作品である。
光明皇后の優秀さ、慈悲心、ひたむきさ、そして美しさを創り上げる一方で、娘の安倍内親王から見たウザさ、上皇の目線などを入れているのがおもしろい。
専門的な知識に軽さも同居していて、また断片的に知っていた人物たちがオールスター出演しており、ちょっと地味かもではあるが、時代ファンとしては大いに楽しめたかな。
長い道のりがあっての大仏開眼へやっと辿り着いた、というのを実感できる割にはコンパクトな小説でもある。ラストの和歌には悠久の人の想いもにじむ。聖武天皇発願の東大寺、光明皇后発願の法華寺と、やはりどこかで心を合わせていたのは確かだろうと。
我が背子とふたり見ませばいくばくか
この降る雪の嬉しくあらまし 光明皇后
奈良を訪れるのは楽しい。また行こう。
◼️ 没後20年 ルーシー・リー展 カタログ
楽しかった。自らの素晴らしいスタンスを貫いた陶芸家さんというのが、読むほどに分かる。
2015年に開催された展覧会のカタログ。妻が行ってきて、カタログがあるのは知っていた。先に読んだ原田マハの本をきっかけにようやく目を通したけども、読めば読むほど、革新性、独自性を求めたすばらしい陶芸作家さんというのがよく分かる。
1902年、ウィーンに生まれたリー、本名ルツィエ・ゴンペルツは、クリムトらのウィーン分離派、建築家ヨーゼフ・ホフマンのウィーン工房など大きな芸術的変遷の流れの中で育つ。バウハウスにも影響を受けたようだ。
ウィーン工業美術学校で頭角を表し、万博で金メダルを獲得するなど順調に才能を開花させたルーシー、しかしユダヤ人であったため、ナチスの手を逃れてロンドンへ移住する。ロンドンでは全くの無名扱いだった。
戦中は需要が高かった陶製のボタンを作って生計を立てた。このカタログにはたくさんの種類のボタンが載っていて目を奪われる。自分の視野が広がる気がする。
リーは古代の青銅器にヒントを得て、針などの金属で細い線を引く「掻き落とし」やその溝に色土を入れたりする「象嵌」という手法を確立していく。このカタログには多くの作品の写真がある。1958年頃の線文大鉢は細かい斜め格子模様を書き、赤の線となるように象嵌が施してある。模様を描き、刷毛で色土や釉を塗り込み、乾いたら刷毛ではみ出た部分を取り除くそうだ。フリーハンドでこの破綻のない仕上がり。ここまで読んでくると、シロート目に見てもす、すごい、と思える。
また、ゴツゴツ、デコボコした表面に複雑な色調となる「熔岩釉」は釉薬を徹底的に研究していたルーシーが生み出した最も特徴的な釉薬のひとつだとか。
高い台座部分、金属の光沢が出るブロンズ釉、首の長い花器、持ち手のついたポットやピッチャーなど、世に認められ独自の特徴を創り上げていったルーシーは1970年代以降の晩年、独自のピンク、青などの鮮明な色彩をより強く打ち出し、さらにこれまでの手法をミックスさせていく。
彼女は圧倒的な知識と実証経験をもとに、注文通りの色を現出させることができた。焼成では自分の計算通りに仕上がるよう、電気窯の使用にこだわったという。また形と装飾との問題に向き合い、理知的に柔軟に解決していった。
うーんすばらしい。青ニット線文碗やピンク線文鉢でごはん食べてみたい。あるいは原田マハが持っていったおみやげの、色とりどりのおられやおかきを渋系の色の鉢に盛っても良さそうだ。
ルーシー・リー展またないかなあ。今度は絶対観に行くぞ。
0 件のコメント:
コメントを投稿