最近チラシでブックカバーを作るのが趣味になっていて、単行本も文庫も新書も、やたら折る。有用そうなチラシやパンフレットを見たら取っておくようになっている。楽しい。
レオンが死んでひと月。何年もリビングにふとん敷いて、最後の方は座椅子を倒して一緒に寝てたのが、毎日ベッドに寝るようになってまだしっくり来ない。楽にはなったけどねー。
レオンを思い出す。母を思い出す。時が経っても会いたい、話したい。そういうものだと知る人生の晩年。
◼️ 巽好幸「富士山大噴火と阿蘇山大爆発」
改めて読むといろいろゾッとしてしまった。阿蘇が巨大カルデラ噴火を起こしたら、ほんとうに、凄惨なことになる。
タイトルが富士山大噴火、だけだったら読まなかっただろう。福岡市ベッドタウン生まれの私は阿蘇山に何回も行った。幼い頃から母が、阿蘇山が爆発したらあんた、こっちまで火山灰が降りよったとよ、と言っていた。たしかに熊本・宮崎に遊びに行ったら車に火山灰がうっすら積もることは普通にあるけれど、さすがに福岡まで火山灰来んやろ、と思っていたし体験したこともなかった。しかし、阿蘇のカルデラで大規模噴火が起きたら、それこそ福岡なんてもんじゃなくて、日本が危なくなるー。
特に東日本大震災以降「日本列島は活動期に入った」とする説がよく出ているが、これは本当か?という検証のため、なぜ日本列島は地球上でも有数の地震と火山の密集域なのか、を説明していく。日本を取り巻く地域のプレートテクトニクス、地震の原因、火山のもととなるマグマの生成、地震と火山活動の関連などが序章に述べられている。
次は富士山噴火について。宝永大噴火(1707年)から噴火していないため休火山だと習ったけども、死火山とされていた御嶽山が爆発したことをきっかけに休火山、死火山という言葉は使われなくなったと。地学選択なのに知らなかった笑。そもそも火山活動は数万年単位のものであり、現代では富士山はバリバリの活火山という認識だそうだ。富士山は独立型で美しいフォルムをした巨大火山。なぜそうなのか、が語られる。日本の海底には富士山をはるかにしのぐ標高5500mの火山もあるらしい。
富士山が20日間に渡り火山灰が降り続いた宝永年間並みの噴火をした場合、日本には偏西風が吹いているから東側に火山灰が流れると予想して東京湾をまたいで房総半島一帯まで2センチの火山灰が積もると予想されている。よく言われるように首都圏が混乱するのは間違いない。
しかし、というか・・阿蘇一帯の巨大カルデラがもしも大噴火を起こしたら、富士山の噴火とは次元の違う被害が出るらしいのだ。
カルデラとは大噴火により放出されたマグマの空間が陥没した窪地のこと。阿蘇のカルデラは東西18キロ、南北25キロで世界有数。大ざっぱな理解ではこの下に巨大なマグマ溜まりが形成される。
巨大カルデラ噴火のエネルギーは富士山宝永噴火の1000倍以上と推定される。阿蘇一帯に巨大な噴火が起きた場合、九州北部ほぼ全域は高温の火砕流で壊滅的被害を受ける。火山灰の量は近畿で50センチ。木造家屋の半数近くは全壊、首都圏も20センチ、北海道でも5センチ積もる。
火山灰は怖い。10センチ程度まで積もったら交通系は完全マヒ、つまり救援活動もできない。ガラス質の粒子が詰まることで発電はできなくなり、給水もストップせざるを得なくなる。健康被害やPCの動作不良も重なる。
阿蘇が最後に巨大カルデラ噴火を起こしたのは8万7000年前、日本全体でも鹿児島の鬼界カルデラで起きた7300年前のものが最後。今後100年で発生確率は1%だそうだ。著者は列島全体にわたる被害の甚大さを訴え続け、観測体制と防災対策の充実を主張しているとのこと。しかし目の前に台風、水害、地震というすぐに対策すべき災害が多く横たわっている現状からさすがにこの確率では理解を得られないという。
最初の方では、最近専門家と称する人が間違った主張をしているなど、マスコミ批判や畑違いの論文不祥事まで持ち出して我こそは専門家、と述べる論調にヤな感じを抱いていた。でも相手にされなくとも、明日起きるかもしれない巨大災害の危険を訴え続ける姿勢に、ちょっとイイ印象を覚えてしまった。実際読み込める本だった。
南海トラフ地震の発生確率が首都直下型地震よりはるかに高いとの論にまたゾッとする。
巨大な火山に囲まれた窪地の平野の風景、やまなみハイウェイ、ギザギザの根子岳、草千里、噴火口、異様な光景や植生、スケールの大きさはいつも心をくすぐった。ついでに言えば焼きとうもろこしも大好きだった。
阿蘇は世界一のカルデラ、とは九州育ちなら誰もが聞いたことのあるフレーズだろうと思う。実際には世界一でも、日本一ですらない。屈斜路湖カルデラの方が大きいとこの本にも書いてある。公式HPにも世界一、とは記載していないようだ。
異様な、憧れの世界、阿蘇に今作で別の顔を見た思いだ。毎年のようにある自然災害。せいぜい夜間断水くらいで、深刻な災害に遭ったことがなく、阪神大震災の時はまったく意表を突かれた。いまは心の準備はある。個人的にはあの日から本当に変わったなと実感している。
◼️ 小林朋道「先生、頭突き中のヤギが尻尾で笑っています!」
子モモンガ、か、かわいすぎる。
書評サイトで見てタイトルだけで面白そう!と借りてきた本。予想通りなかなか楽しかった。
なんといっても最初の章の子モモンガのつぶらな瞳がかわいすぎる。実験のためにモモンガを巣箱ごと大学に持ち帰ったら想定外にエアコンが止まった影響で死んでしまった。数日後、ひょっとして雌モモンガだとしたら、と思いつき巣箱を探ってみると3匹の子モモンガが見つかった。
スポイトでミルクを与え育てる。著者の手や首、肩などから離れず遊ぶ子モモンガ。髪の毛を毛づくろいしたり耳たぶを甘噛みしたり。やがて子モモンガも身体から離れて飛びついたりするようになる。
そこで子モモンガが発する「ガーグルガーグルガーグル!」という鳴き声が成獣の求愛行動のものと同じと気づき、なぜそういう類のことが起きるのか、という動物行動学的な説明に移る。
やがて子モモンガを森に帰す。情愛いっぱいの著者の正直がいい。普通に都会で生活してるとそんなことはとてもないからいい追体験。
で、大学の敷地に生えていたキノコ、ニセショウロの傘の部分に著者はモモンガの顔をマジックで描いて、大学の別の先生が天然の模様とカン違いして興奮した、という笑い話につながったりしている。さらにモモンガの研究合宿がヤマネの研究になった体験もある。
タイトルはヤギの、遊びの時もあるが真剣などつきあいにもなる頭突きについての実体験、研究。ヤギに関しては鳴き声で肉親を聞き分けた行動をするか、という実験もある。
その他ヤドカリ、また体験をもとにした著者のスギへの想いなどなども盛り込まれている。おもろかしくて、さらさら読めて、時に専門的。
シリーズ本はまだまだあるので、先が楽しみだ。
2022年3月26日土曜日
3月書評の7
3月は快調に読んでる感じ。こういう時は読むのが楽しい。
スポーツで話が合う真子は毎日一度は後ろから抱きついてきて、寒いと私のベッドで一緒に寝る。はあ、高3やのに、こう親離れせんでだいじょぶかいな。ある意味羨ましいね。私はとてもそんなことできなかったからね。
◼️ 奥山景布子「キサキの大仏」
平城京時代のクライマックスの1つ、大仏建立と光明皇后の姿。時代ファンとして楽しめた。
いつも飛鳥・奈良時代の本を探している。特に光明皇后は興味の焦点。著者さんは大学で主に平安時代の古典研究で博士号を持ってる人のようだ。
読む前に書の本で、光明皇后が書き写した「楽毅論」の文字を眺めた。ゴツゴツとして「雄渾」と称されるらしい。発願の国分尼寺・法華寺の国宝十一面観音像。豊かな髪の優美な姿は光明皇后がモデルと伝えられ、文字と姿のギャップに人間っぽさが伺えてくすっとなる。
物語はまさに光明皇后、安宿媛(あすかべひめ)が自分の文字のごつさと、整然として綿密な夫の首(おびと)、つまり聖武天皇の文字と比べるところから始まる。
藤原不比等の娘で36歳になった皇后・安宿。皇太子である娘の安倍内親王(後の孝謙天皇)、上皇(退位した元正女帝)ら、そして仲睦まじい夫の首と政権の中枢を担っていた。首は政治においてなにかと自分の不徳と責任を抱え込みがちな性格。そんな折、都が天然痘によるパンデミックとなり、政治の実務にあたっていた不比等の息子たち、安宿の頼れる兄たち4人全員が亡くなってしまうー。
この時代における皇族と藤原氏台頭の歴史は永井路子「美貌の女帝」が印象深かった。
安宿は聖武天皇の皇太子時代に宮中へ夫人として入った。藤原氏四兄弟は、対立していた皇族の長屋王を陰謀によって抹殺、その後、藤原氏出身の娘として初めて后となった。経緯から四兄弟の相次ぐ病死は長屋王の祟りとも噂され、世情穏やかならぬものがあった。
藤原氏の無理押しで皇后となった安宿媛、遷都を繰り返し、巨大すぎる盧舎那仏を造ろうとムチャを言う聖武天皇、さらに女性東宮や一部の部下の重用への反発、謀反の動きなどなど、加えて朝鮮半島の動きも不穏で内憂外患の状態だった。
長屋王の変でダーティなイメージが強いせいか、聖武天皇や施薬院などを作った光明皇后をポジティブに扱った作品はどちらかといえば少ないイメージがある。
実際に法華寺で観音像を観たり、皇后の文字を追ってみたり、正倉院展で大仏開眼当日の装飾品を目にしたりしてみると、どこか違和感があった。
まあ不穏でないと面白くないのも小説だし、ずっと権力をほしいままにした藤原氏へは自然な反発心が湧くのは確かだけれども。少なくとも両方の立場の作品があってもいいかなと。
今作にどれくらい専門的な学説から導かれたものが入っているかは分からない。大仏造営に関して犠牲者の多さ、使役の厳しさを描く小説もある中で、さまざまな事を前向きに捉えている作品である。
光明皇后の優秀さ、慈悲心、ひたむきさ、そして美しさを創り上げる一方で、娘の安倍内親王から見たウザさ、上皇の目線などを入れているのがおもしろい。
専門的な知識に軽さも同居していて、また断片的に知っていた人物たちがオールスター出演しており、ちょっと地味かもではあるが、時代ファンとしては大いに楽しめたかな。
長い道のりがあっての大仏開眼へやっと辿り着いた、というのを実感できる割にはコンパクトな小説でもある。ラストの和歌には悠久の人の想いもにじむ。聖武天皇発願の東大寺、光明皇后発願の法華寺と、やはりどこかで心を合わせていたのは確かだろうと。
我が背子とふたり見ませばいくばくか
この降る雪の嬉しくあらまし 光明皇后
奈良を訪れるのは楽しい。また行こう。
◼️ 没後20年 ルーシー・リー展 カタログ
楽しかった。自らの素晴らしいスタンスを貫いた陶芸家さんというのが、読むほどに分かる。
2015年に開催された展覧会のカタログ。妻が行ってきて、カタログがあるのは知っていた。先に読んだ原田マハの本をきっかけにようやく目を通したけども、読めば読むほど、革新性、独自性を求めたすばらしい陶芸作家さんというのがよく分かる。
1902年、ウィーンに生まれたリー、本名ルツィエ・ゴンペルツは、クリムトらのウィーン分離派、建築家ヨーゼフ・ホフマンのウィーン工房など大きな芸術的変遷の流れの中で育つ。バウハウスにも影響を受けたようだ。
ウィーン工業美術学校で頭角を表し、万博で金メダルを獲得するなど順調に才能を開花させたルーシー、しかしユダヤ人であったため、ナチスの手を逃れてロンドンへ移住する。ロンドンでは全くの無名扱いだった。
戦中は需要が高かった陶製のボタンを作って生計を立てた。このカタログにはたくさんの種類のボタンが載っていて目を奪われる。自分の視野が広がる気がする。
リーは古代の青銅器にヒントを得て、針などの金属で細い線を引く「掻き落とし」やその溝に色土を入れたりする「象嵌」という手法を確立していく。このカタログには多くの作品の写真がある。1958年頃の線文大鉢は細かい斜め格子模様を書き、赤の線となるように象嵌が施してある。模様を描き、刷毛で色土や釉を塗り込み、乾いたら刷毛ではみ出た部分を取り除くそうだ。フリーハンドでこの破綻のない仕上がり。ここまで読んでくると、シロート目に見てもす、すごい、と思える。
また、ゴツゴツ、デコボコした表面に複雑な色調となる「熔岩釉」は釉薬を徹底的に研究していたルーシーが生み出した最も特徴的な釉薬のひとつだとか。
高い台座部分、金属の光沢が出るブロンズ釉、首の長い花器、持ち手のついたポットやピッチャーなど、世に認められ独自の特徴を創り上げていったルーシーは1970年代以降の晩年、独自のピンク、青などの鮮明な色彩をより強く打ち出し、さらにこれまでの手法をミックスさせていく。
彼女は圧倒的な知識と実証経験をもとに、注文通りの色を現出させることができた。焼成では自分の計算通りに仕上がるよう、電気窯の使用にこだわったという。また形と装飾との問題に向き合い、理知的に柔軟に解決していった。
うーんすばらしい。青ニット線文碗やピンク線文鉢でごはん食べてみたい。あるいは原田マハが持っていったおみやげの、色とりどりのおられやおかきを渋系の色の鉢に盛っても良さそうだ。
ルーシー・リー展またないかなあ。今度は絶対観に行くぞ。
スポーツで話が合う真子は毎日一度は後ろから抱きついてきて、寒いと私のベッドで一緒に寝る。はあ、高3やのに、こう親離れせんでだいじょぶかいな。ある意味羨ましいね。私はとてもそんなことできなかったからね。
◼️ 奥山景布子「キサキの大仏」
平城京時代のクライマックスの1つ、大仏建立と光明皇后の姿。時代ファンとして楽しめた。
いつも飛鳥・奈良時代の本を探している。特に光明皇后は興味の焦点。著者さんは大学で主に平安時代の古典研究で博士号を持ってる人のようだ。
読む前に書の本で、光明皇后が書き写した「楽毅論」の文字を眺めた。ゴツゴツとして「雄渾」と称されるらしい。発願の国分尼寺・法華寺の国宝十一面観音像。豊かな髪の優美な姿は光明皇后がモデルと伝えられ、文字と姿のギャップに人間っぽさが伺えてくすっとなる。
物語はまさに光明皇后、安宿媛(あすかべひめ)が自分の文字のごつさと、整然として綿密な夫の首(おびと)、つまり聖武天皇の文字と比べるところから始まる。
藤原不比等の娘で36歳になった皇后・安宿。皇太子である娘の安倍内親王(後の孝謙天皇)、上皇(退位した元正女帝)ら、そして仲睦まじい夫の首と政権の中枢を担っていた。首は政治においてなにかと自分の不徳と責任を抱え込みがちな性格。そんな折、都が天然痘によるパンデミックとなり、政治の実務にあたっていた不比等の息子たち、安宿の頼れる兄たち4人全員が亡くなってしまうー。
この時代における皇族と藤原氏台頭の歴史は永井路子「美貌の女帝」が印象深かった。
安宿は聖武天皇の皇太子時代に宮中へ夫人として入った。藤原氏四兄弟は、対立していた皇族の長屋王を陰謀によって抹殺、その後、藤原氏出身の娘として初めて后となった。経緯から四兄弟の相次ぐ病死は長屋王の祟りとも噂され、世情穏やかならぬものがあった。
藤原氏の無理押しで皇后となった安宿媛、遷都を繰り返し、巨大すぎる盧舎那仏を造ろうとムチャを言う聖武天皇、さらに女性東宮や一部の部下の重用への反発、謀反の動きなどなど、加えて朝鮮半島の動きも不穏で内憂外患の状態だった。
長屋王の変でダーティなイメージが強いせいか、聖武天皇や施薬院などを作った光明皇后をポジティブに扱った作品はどちらかといえば少ないイメージがある。
実際に法華寺で観音像を観たり、皇后の文字を追ってみたり、正倉院展で大仏開眼当日の装飾品を目にしたりしてみると、どこか違和感があった。
まあ不穏でないと面白くないのも小説だし、ずっと権力をほしいままにした藤原氏へは自然な反発心が湧くのは確かだけれども。少なくとも両方の立場の作品があってもいいかなと。
今作にどれくらい専門的な学説から導かれたものが入っているかは分からない。大仏造営に関して犠牲者の多さ、使役の厳しさを描く小説もある中で、さまざまな事を前向きに捉えている作品である。
光明皇后の優秀さ、慈悲心、ひたむきさ、そして美しさを創り上げる一方で、娘の安倍内親王から見たウザさ、上皇の目線などを入れているのがおもしろい。
専門的な知識に軽さも同居していて、また断片的に知っていた人物たちがオールスター出演しており、ちょっと地味かもではあるが、時代ファンとしては大いに楽しめたかな。
長い道のりがあっての大仏開眼へやっと辿り着いた、というのを実感できる割にはコンパクトな小説でもある。ラストの和歌には悠久の人の想いもにじむ。聖武天皇発願の東大寺、光明皇后発願の法華寺と、やはりどこかで心を合わせていたのは確かだろうと。
我が背子とふたり見ませばいくばくか
この降る雪の嬉しくあらまし 光明皇后
奈良を訪れるのは楽しい。また行こう。
◼️ 没後20年 ルーシー・リー展 カタログ
楽しかった。自らの素晴らしいスタンスを貫いた陶芸家さんというのが、読むほどに分かる。
2015年に開催された展覧会のカタログ。妻が行ってきて、カタログがあるのは知っていた。先に読んだ原田マハの本をきっかけにようやく目を通したけども、読めば読むほど、革新性、独自性を求めたすばらしい陶芸作家さんというのがよく分かる。
1902年、ウィーンに生まれたリー、本名ルツィエ・ゴンペルツは、クリムトらのウィーン分離派、建築家ヨーゼフ・ホフマンのウィーン工房など大きな芸術的変遷の流れの中で育つ。バウハウスにも影響を受けたようだ。
ウィーン工業美術学校で頭角を表し、万博で金メダルを獲得するなど順調に才能を開花させたルーシー、しかしユダヤ人であったため、ナチスの手を逃れてロンドンへ移住する。ロンドンでは全くの無名扱いだった。
戦中は需要が高かった陶製のボタンを作って生計を立てた。このカタログにはたくさんの種類のボタンが載っていて目を奪われる。自分の視野が広がる気がする。
リーは古代の青銅器にヒントを得て、針などの金属で細い線を引く「掻き落とし」やその溝に色土を入れたりする「象嵌」という手法を確立していく。このカタログには多くの作品の写真がある。1958年頃の線文大鉢は細かい斜め格子模様を書き、赤の線となるように象嵌が施してある。模様を描き、刷毛で色土や釉を塗り込み、乾いたら刷毛ではみ出た部分を取り除くそうだ。フリーハンドでこの破綻のない仕上がり。ここまで読んでくると、シロート目に見てもす、すごい、と思える。
また、ゴツゴツ、デコボコした表面に複雑な色調となる「熔岩釉」は釉薬を徹底的に研究していたルーシーが生み出した最も特徴的な釉薬のひとつだとか。
高い台座部分、金属の光沢が出るブロンズ釉、首の長い花器、持ち手のついたポットやピッチャーなど、世に認められ独自の特徴を創り上げていったルーシーは1970年代以降の晩年、独自のピンク、青などの鮮明な色彩をより強く打ち出し、さらにこれまでの手法をミックスさせていく。
彼女は圧倒的な知識と実証経験をもとに、注文通りの色を現出させることができた。焼成では自分の計算通りに仕上がるよう、電気窯の使用にこだわったという。また形と装飾との問題に向き合い、理知的に柔軟に解決していった。
うーんすばらしい。青ニット線文碗やピンク線文鉢でごはん食べてみたい。あるいは原田マハが持っていったおみやげの、色とりどりのおられやおかきを渋系の色の鉢に盛っても良さそうだ。
ルーシー・リー展またないかなあ。今度は絶対観に行くぞ。
2022年3月21日月曜日
3月書評の6
3連休初日、病院と図書館、買い物
2日め 買い物
3日め 神戸を朝散歩
ひんやりとした寒の戻り。3日めは曇りがちで最高気温14度、冷え冷えとしている。春のアタマには神戸港にポートタワーを見に行く。今年は整備工事中で白い幕に覆われていた。
最近新しい水族館ができたのはメリケンパークの向かいの第一突堤。ここはやがてBリーグ現西宮ストークスが2024〜25シーズンから本拠地を移す新アリーナができる予定なのでなんとなく視察。
三宮からまっすぐ海へ下りてたぶん歩いて20分、もう少しくらいはかかるけれども、許容範囲の近さかなと。未来はすぐ来る。さてさて。
◼️ 河井寛次郎「立春開門」ほか
陶芸作家・河井寛次郎の随筆。2月とはどういう季節か。風物に宿ったもの。
前に読んだ原田マハの著書で取り上げてあった河井寛次郎に興味を持ち読んでみました。青空文庫には4つの文章が掲載されてます。
「雑草雑語」
「社日桜」
「蝶が飛ぶ 葉っぱが飛ぶ」
「立春開門」
1つひとつは短く、一気に読んでしまいました。
◇「雑草雑語」には罌粟(けし)、柿、矢車草、南瓜、山百合、烏瓜、コスモス、柘榴・・主に土着の雑草の花がどのように野に育っているか、人間、子どもたちとの関わりがどうだったか、というのを散文的に表している。
品種改良や新しい外来種にはやや批判的だが、古くからの帰化草はまた、なじみ深いものとしている。
「柿は驚くべき誠実な彫刻家だ。自分を挙げて丹念に刻つた同じ花を惜げもなく地べたへ一面にばらまいてしまふ。こんな仇花にさへ一様に精魂を尽してゐる柿。」
原田マハも特にこのくだりをとりあげて称賛していた。
◇「社日桜」
昔この一本で丘中が埋まったと言われた立派で大きな雲のような桜。いまはなく、染井吉野が賑々しく取って代わっている。しかしまだ丘の向こうや山の麓の農家に山桜がひっそりと咲いて静かに行く春を惜しんでいるのは変わらない、という篇。
◇「蝶が飛ぶ 葉っぱが飛ぶ」
戦争が終わりに近づいた頃、京都の清水寺近くに住んでいた著者は、東京、大阪、神戸が空襲で焼き尽くされた時分、いずれは京都もそうなると怖れ、毎日東山に登って、明日は再び見ることが出来ないかもしれない町を見つめていた。しかし、そんなある日、著者は突然ある悟ったように安らかな思いが湧きあがったー。
この実感は、諦念とも言えるし、前向きな心象とも捉えられる。実感であることには間違いはない。
◇「立春開門」
2月はどういう季節か。炬燵の愛おしい存在感から始める。炬燵ってたしか太宰治も短編の中で不思議な箱と言ってたけども、現代の我々にとっても当時の人々にとっても形が違うとはいえ心のふるさと的なものなのかなと。
節分が済むと立春、とはいえまだ寒い。子どもたちはハゼの煮物や網蝦を蕪や大根や赤貝の煮たもの、蔬菜に舐め味噌、そして湯煎餅(あべかわもち)をほくほくと食べていたー。
能の演目「鉢木」なども取り上げて、2月の風物と考察を論じてある。勝手な推論ではあるが、何を描くときには、その対象について、背景について、研究し考える。よく知ろうとする。植物に宿るもの、物言わぬ静かな、はるかな歴史と宿っているもの、そんなことを著そうとしているように思える。人の心は深く考えていることは夥しい。すべてが自分、作品にこもるもの、ということだろうか。
2月の金沢に行ったらちょうどお祭り中で、雪の中露店で売っていた熱々の粕汁のようなものを食べたことを思い出す。あとはお餅に砂糖醤油とか。まだ寒い中、春の兆しと準備がほの見える2月は私も大好きだ。
河井寛次郎は若い頃学校や研究所で釉薬の研究をした後陶工となる。1920年代にバーナード・リーチ、濱田庄司らとともに民藝運動に参加した。見る限りその作風、デザインは暖かにして小粋で心をくすぐられる。
京都の清水五条に記念館があるのは知らなかった。ひさびさに清水寺行って、寄ってみようか。彼の文章は本にもなっている。作品を生で観てから、また読もう。
◼️ 原田マハ「20 CONTACTS
消えない星々との短い接触」
いい読み物ですっかり「星」たちに浸った。
たまたま地元ショッピングセンターの安売り書棚で見かけたもの。持って帰って開けてみたらサイン本だった。原田マハ、これでサイン本2冊め。まさか実はすべての本に印刷されたものなのだろうか?今度本屋で確かめてみよう、なんて。ちなみに辻村深月のサイン本も持ってます。
さて、原田マハへ自分から指令が下る。2019年にICOM・国際博物館会議が京都で開催されるのに合わせ、清水寺で「CONTACT つなぐ・むすぶ 日本と世界のアート」という展覧会が催される。ついては、展示予定のアーティストのうち物故者、つまり亡くなっている20人の方たちに会って話を聞いて、掌編を書け、というもの。興味深い20人。
猪熊弦一郎
ポール・セザンヌ
ルーシー・リー
黒澤明
アルベルト・ジャコメッティ
アンリ・マティス
川端康成
司馬江漢
シャルロット・ペリアン
バーナード・リーチ
濱田庄司
河井寛次郎
棟方志功
手塚治虫
オーブリー・ビアズリー
ヨーゼフ・ボイス
小津安二郎
東山魁夷
宮沢賢治
フィンセント・ファン・ゴッホ
知らない人もいるけれど、逆に好奇心が湧く。洋画家はマティス大好き、ほかはマハ作品でおなじみって感じ。世界のクロサワに、シンドロームの川端先生に手塚治虫に、東山魁夷に宮沢賢治ときた。
バーナード・リーチに関してはよく知らなかった。なるほど、「リーチ先生」という著作その関係だったのかと。
軽妙な感じでアーティストゆかりの家などを訪問する原田マハ本人。そして、1人ひとりに持っていくおみやげがめっちゃ気になる。
四国名産の一六タルトを三越の包み紙をデザインした猪熊弦一郎に、九段下・一口坂「さかぐち」の色とりどりのおかきとあられの詰め合わせはルーシー・リーに。ル・コルビュジェと共同デザインを行った女流建築家・デザイナーのシャルロット・ペリアンには京都・和久傳のれんこん菓子「西湖」。
スーパーにたまたま一六タルトあったからきょうのおやつに買って食した。
彫刻家ジャコメッティは先日大阪・中之島美術館のオープニングコレクション展で「鼻」を観てきたばかりだ。陶芸家ルーシー・リーは妻が好きだけどまだよく見てないので本貸してもらおう。ビアズリーも最近美術展でよく出ている。棟方志功は大原美術館で観たなあ。手塚治虫は趣味で記念館が近くにあるし、川端先生は言うに及ばず、東山魁夷は大規模な展覧会で心酔した。宮沢賢治も関連書籍含めてよく読んでいる。
こう、美術に興味ある人なら誰しも触れたことがあるような巨匠たちを軽いタッチで紐解いてゆく。それは柔らかく無駄のない表現で、短くも核心を突き、思わず微笑んだり、その人が持つ背景や雰囲気に浸ったりできて、気持ちよく仕上げている。原田マハ・マジックですね。
最も興味を惹かれたのは河井寛次郎という陶芸作家で、調べてみると作品の色とデザインが独特のほどよい優美さを醸し出していて、ピキピキと自分の感覚が鳴る音がした。京都・の清水寺近くに記念館があるとのことで、これは行かなければリストに入ってしまった。また文筆家だそうなので、作品を観た後に読もうと思う。
原田マハはこの展覧会の総合ディレクターで、時間のない中、ものすごい熱意で美術館長やコレクターとの直接交渉を自らやったとか。
原田マハはキュレーターという経験を生かした美術小説という新しいジャンルを切り拓き、破竹の勢いで突き進んでいるトップランナーだと思う。しかし告白すれば私はその小説に部分的な難を感じ、もっとこうすればよくなったのになどと思ったりしてきた。
ただそういう人は男女の作家問わずたまにいる。この本の解説にもあるように一旦はその手練手管に呑まれてしまうからこそ少し悔しく思うのだ。
それにしても見識の深さ、なのに堂に入っているおちゃらけさ笑には特に今回感心した。巨匠たちは、まぎれもなく「星」なのだ。われわれはその人生が放つ光を浴びているのだ、と思えた。
だんだん原田マハが自分の中で大物化してきた。感応いたしました。
2日め 買い物
3日め 神戸を朝散歩
ひんやりとした寒の戻り。3日めは曇りがちで最高気温14度、冷え冷えとしている。春のアタマには神戸港にポートタワーを見に行く。今年は整備工事中で白い幕に覆われていた。
最近新しい水族館ができたのはメリケンパークの向かいの第一突堤。ここはやがてBリーグ現西宮ストークスが2024〜25シーズンから本拠地を移す新アリーナができる予定なのでなんとなく視察。
三宮からまっすぐ海へ下りてたぶん歩いて20分、もう少しくらいはかかるけれども、許容範囲の近さかなと。未来はすぐ来る。さてさて。
◼️ 河井寛次郎「立春開門」ほか
陶芸作家・河井寛次郎の随筆。2月とはどういう季節か。風物に宿ったもの。
前に読んだ原田マハの著書で取り上げてあった河井寛次郎に興味を持ち読んでみました。青空文庫には4つの文章が掲載されてます。
「雑草雑語」
「社日桜」
「蝶が飛ぶ 葉っぱが飛ぶ」
「立春開門」
1つひとつは短く、一気に読んでしまいました。
◇「雑草雑語」には罌粟(けし)、柿、矢車草、南瓜、山百合、烏瓜、コスモス、柘榴・・主に土着の雑草の花がどのように野に育っているか、人間、子どもたちとの関わりがどうだったか、というのを散文的に表している。
品種改良や新しい外来種にはやや批判的だが、古くからの帰化草はまた、なじみ深いものとしている。
「柿は驚くべき誠実な彫刻家だ。自分を挙げて丹念に刻つた同じ花を惜げもなく地べたへ一面にばらまいてしまふ。こんな仇花にさへ一様に精魂を尽してゐる柿。」
原田マハも特にこのくだりをとりあげて称賛していた。
◇「社日桜」
昔この一本で丘中が埋まったと言われた立派で大きな雲のような桜。いまはなく、染井吉野が賑々しく取って代わっている。しかしまだ丘の向こうや山の麓の農家に山桜がひっそりと咲いて静かに行く春を惜しんでいるのは変わらない、という篇。
◇「蝶が飛ぶ 葉っぱが飛ぶ」
戦争が終わりに近づいた頃、京都の清水寺近くに住んでいた著者は、東京、大阪、神戸が空襲で焼き尽くされた時分、いずれは京都もそうなると怖れ、毎日東山に登って、明日は再び見ることが出来ないかもしれない町を見つめていた。しかし、そんなある日、著者は突然ある悟ったように安らかな思いが湧きあがったー。
この実感は、諦念とも言えるし、前向きな心象とも捉えられる。実感であることには間違いはない。
◇「立春開門」
2月はどういう季節か。炬燵の愛おしい存在感から始める。炬燵ってたしか太宰治も短編の中で不思議な箱と言ってたけども、現代の我々にとっても当時の人々にとっても形が違うとはいえ心のふるさと的なものなのかなと。
節分が済むと立春、とはいえまだ寒い。子どもたちはハゼの煮物や網蝦を蕪や大根や赤貝の煮たもの、蔬菜に舐め味噌、そして湯煎餅(あべかわもち)をほくほくと食べていたー。
能の演目「鉢木」なども取り上げて、2月の風物と考察を論じてある。勝手な推論ではあるが、何を描くときには、その対象について、背景について、研究し考える。よく知ろうとする。植物に宿るもの、物言わぬ静かな、はるかな歴史と宿っているもの、そんなことを著そうとしているように思える。人の心は深く考えていることは夥しい。すべてが自分、作品にこもるもの、ということだろうか。
2月の金沢に行ったらちょうどお祭り中で、雪の中露店で売っていた熱々の粕汁のようなものを食べたことを思い出す。あとはお餅に砂糖醤油とか。まだ寒い中、春の兆しと準備がほの見える2月は私も大好きだ。
河井寛次郎は若い頃学校や研究所で釉薬の研究をした後陶工となる。1920年代にバーナード・リーチ、濱田庄司らとともに民藝運動に参加した。見る限りその作風、デザインは暖かにして小粋で心をくすぐられる。
京都の清水五条に記念館があるのは知らなかった。ひさびさに清水寺行って、寄ってみようか。彼の文章は本にもなっている。作品を生で観てから、また読もう。
◼️ 原田マハ「20 CONTACTS
消えない星々との短い接触」
いい読み物ですっかり「星」たちに浸った。
たまたま地元ショッピングセンターの安売り書棚で見かけたもの。持って帰って開けてみたらサイン本だった。原田マハ、これでサイン本2冊め。まさか実はすべての本に印刷されたものなのだろうか?今度本屋で確かめてみよう、なんて。ちなみに辻村深月のサイン本も持ってます。
さて、原田マハへ自分から指令が下る。2019年にICOM・国際博物館会議が京都で開催されるのに合わせ、清水寺で「CONTACT つなぐ・むすぶ 日本と世界のアート」という展覧会が催される。ついては、展示予定のアーティストのうち物故者、つまり亡くなっている20人の方たちに会って話を聞いて、掌編を書け、というもの。興味深い20人。
猪熊弦一郎
ポール・セザンヌ
ルーシー・リー
黒澤明
アルベルト・ジャコメッティ
アンリ・マティス
川端康成
司馬江漢
シャルロット・ペリアン
バーナード・リーチ
濱田庄司
河井寛次郎
棟方志功
手塚治虫
オーブリー・ビアズリー
ヨーゼフ・ボイス
小津安二郎
東山魁夷
宮沢賢治
フィンセント・ファン・ゴッホ
知らない人もいるけれど、逆に好奇心が湧く。洋画家はマティス大好き、ほかはマハ作品でおなじみって感じ。世界のクロサワに、シンドロームの川端先生に手塚治虫に、東山魁夷に宮沢賢治ときた。
バーナード・リーチに関してはよく知らなかった。なるほど、「リーチ先生」という著作その関係だったのかと。
軽妙な感じでアーティストゆかりの家などを訪問する原田マハ本人。そして、1人ひとりに持っていくおみやげがめっちゃ気になる。
四国名産の一六タルトを三越の包み紙をデザインした猪熊弦一郎に、九段下・一口坂「さかぐち」の色とりどりのおかきとあられの詰め合わせはルーシー・リーに。ル・コルビュジェと共同デザインを行った女流建築家・デザイナーのシャルロット・ペリアンには京都・和久傳のれんこん菓子「西湖」。
スーパーにたまたま一六タルトあったからきょうのおやつに買って食した。
彫刻家ジャコメッティは先日大阪・中之島美術館のオープニングコレクション展で「鼻」を観てきたばかりだ。陶芸家ルーシー・リーは妻が好きだけどまだよく見てないので本貸してもらおう。ビアズリーも最近美術展でよく出ている。棟方志功は大原美術館で観たなあ。手塚治虫は趣味で記念館が近くにあるし、川端先生は言うに及ばず、東山魁夷は大規模な展覧会で心酔した。宮沢賢治も関連書籍含めてよく読んでいる。
こう、美術に興味ある人なら誰しも触れたことがあるような巨匠たちを軽いタッチで紐解いてゆく。それは柔らかく無駄のない表現で、短くも核心を突き、思わず微笑んだり、その人が持つ背景や雰囲気に浸ったりできて、気持ちよく仕上げている。原田マハ・マジックですね。
最も興味を惹かれたのは河井寛次郎という陶芸作家で、調べてみると作品の色とデザインが独特のほどよい優美さを醸し出していて、ピキピキと自分の感覚が鳴る音がした。京都・の清水寺近くに記念館があるとのことで、これは行かなければリストに入ってしまった。また文筆家だそうなので、作品を観た後に読もうと思う。
原田マハはこの展覧会の総合ディレクターで、時間のない中、ものすごい熱意で美術館長やコレクターとの直接交渉を自らやったとか。
原田マハはキュレーターという経験を生かした美術小説という新しいジャンルを切り拓き、破竹の勢いで突き進んでいるトップランナーだと思う。しかし告白すれば私はその小説に部分的な難を感じ、もっとこうすればよくなったのになどと思ったりしてきた。
ただそういう人は男女の作家問わずたまにいる。この本の解説にもあるように一旦はその手練手管に呑まれてしまうからこそ少し悔しく思うのだ。
それにしても見識の深さ、なのに堂に入っているおちゃらけさ笑には特に今回感心した。巨匠たちは、まぎれもなく「星」なのだ。われわれはその人生が放つ光を浴びているのだ、と思えた。
だんだん原田マハが自分の中で大物化してきた。感応いたしました。
2022年3月19日土曜日
3月書評の5 ふたたび
肝心の書評を上げてなかった〜。100円ショップで買ったところ美味い!となったベイクチョコ。愛器のクロマティックハーモニカと吹けないオカリナ😅
◼️ フョードル・ドストエフスキー
「やさしい女 白夜」
うむむ。男女の微妙な距離感と悲劇
ドストエフスキーとトルストイは読んだことがない。図書館で目に入ったので借りてみた。ある意味対照的な2篇。
【やさしい女】
41歳の質屋は、最近よく店に来る魅惑的な16歳の女が窮地にいることを知り、結婚してともに住む。最初は明るくふるまう女だったが、沈黙を好む質屋の男との暮らしに、次第に反抗的、情緒不安定になっていく。
女も男も誠実な心根はあり、光も見えそうになるのだが、悲しいカタストロフィが訪れる。男女双方にも人間的なネガティブな部分が現れていて、緊張感を生む仕掛けもある。沈黙と心のうち。100年以上も前の小説で、一歩引いてストーリーに横たわるものを見つめた時、妙に現実感を覚えた。
【白夜】
サンクトペテルブルクに住む友だちのいない青年はある夜、男に絡まれたのを助けた縁で17歳のナースチェンカと親しくなる。「私に恋しないで」釘を刺すナースチェンカは、ある男の帰還を待っている、と話し出す。
「やさしい女」が重い沈黙とすれば、こちらはもう言葉の洪水笑。孤独で夢見がちな男はしゃべるしゃべる。ナースチェンカも明るく感情豊か。ラストは予想通り。予定調和。夜のシーンが多く、白夜を想像して読むと異国的な雰囲気が広がる、かな。喜劇的でもある。
ロシア文学には疎い。おそらく多分に戯曲的で、名作とはまた書き方が違うのだろう。映画でブレッソン監督の「やさしい女」デジタルリマスター版は見送ってしまったけども、どんな作りをしたんだろうと、物語を読んだ後いまさらながら考えてしまった。
◼️ 多和田葉子「地球にちりばめられて」
言語が著者の重要なモチーフなのかと。発見だった。興味をかきたてられる。
献本でいただいた「日本文学の見取り図」に多和田葉子が取り上げてあり、この作品が詳しめに紹介してあった。
「乗り間違いが新しい展開を生み、聞き間違いが新しい言語を生み出す。言葉に秘められていた過去の記憶や未来の可能性が、偶然によって取り出される」
多和田葉子はドイツ在住でドイツ語で作品を書く。母語ではない言葉で小説を書くこと、また多言語が入り乱れるヨーロッパでの生活経験に裏打ちされたある種の思考感覚がにじんでいる気がする。実際エッセイにも言語意識について述べられているようだ。さて、このお話はどういうものか?
デンマーク・コペンハーゲンの大学で言語学を研究しているクヌートは、留学中に故郷の島国が消滅してしまい、自力で独自の言語「パンスカ」を作り出したという女性Hirukoをテレビで観て興味を持ち、テレビ局に電話してHirukoに承諾をもらい会うことに。
聞けばHirukoは同じ島国の言葉である「ウマミ」という言葉のついたイベントがあり、実演会場に行けば同じ母語の人に会える可能性があるので、翌日ドイツの歴史ある都市・トリアーへ行く予定だという。クヌートは一緒に行く約束をする。
まずクヌートがHirukoのことをアイスランド出身の歌姫、ビョークの若い頃に似ていると描写し、さらにテレビ局でデンマーク出身の映画監督、ラース・フォン・トリアーとすれ違う、というのが充分な面白みだ。
ラース・フォン・トリアーはビョークを主役に据えてミュージカル的な要素を取り入れた「ダンサー・イン・ザ・ダーク」という作品でカンヌの最高賞パルム・ドールを獲得している。ふふっと笑ってしまう。
Hirukoは新潟の出身だと自分で言う。なぜ日本が消滅してしまったのかは描かれていない。トリアーでは、クヌートを気に入った女装のインド人男性・アカッシュやイベントに出演する予定だったテンゾという男性の恋人、ノラと出会い、皆でテンゾが居るというノルウェーのオスロに向かう。
つながりつながりの旅。言語はどんどんとつながっていき、Hirukoが同郷の人と母語で話すことを達成するためのチームらしいものができる。なんかにぎにぎしくて楽しい。
言葉を取り巻く国際的なチームではデンマークとグリーンランドの関係やカースト制度にまで話が及ぶ。知的で創作的だと思う。
多和田葉子はシロクマが主人公の「雪の練習生」、全米図書賞をとった「献灯使」とも、茫洋とした、何かを秘めているがあまりハッキリとは言わない、みたいな小説だった。そんな人なのかなと思っていた。
しかし、今作は人間の若者が主役で、得意の非現実の設定で、Hirukoを中心としたパーティーが出来上がり、ちょっとヘンではあるけれどふつうの人間世界で、成り行きにも工夫が凝らしてあり面白い。
章ごとに視点が変わり、クヌートからHiruko、ノラらがモノローグを展開していく。それらから微妙なすれ違いと偶然の構図が見える。どんどんと各地へ移動していくのも楽しい。またアルルのカルメンという女にひっかかって、なんてくだりにもまた微笑み。なんてまあ洒落っ気の強い。
ハルキっぽさも感じつつ、これらのワクワク、くすくすするようなミックス具合がまたいい感じで刺激的。もどかしさも、性格設定も。ちょっとヘンな加減もGOODである。
多和田葉子の新しい、大きな特徴、側面を見出した経験となった。意外で新たな魅力の発見だった。途中で、これは、おもしろい!と嬉しくなった。
続編もあるようなので、ぜひ読もうと思う。
◼️ フョードル・ドストエフスキー
「やさしい女 白夜」
うむむ。男女の微妙な距離感と悲劇
ドストエフスキーとトルストイは読んだことがない。図書館で目に入ったので借りてみた。ある意味対照的な2篇。
【やさしい女】
41歳の質屋は、最近よく店に来る魅惑的な16歳の女が窮地にいることを知り、結婚してともに住む。最初は明るくふるまう女だったが、沈黙を好む質屋の男との暮らしに、次第に反抗的、情緒不安定になっていく。
女も男も誠実な心根はあり、光も見えそうになるのだが、悲しいカタストロフィが訪れる。男女双方にも人間的なネガティブな部分が現れていて、緊張感を生む仕掛けもある。沈黙と心のうち。100年以上も前の小説で、一歩引いてストーリーに横たわるものを見つめた時、妙に現実感を覚えた。
【白夜】
サンクトペテルブルクに住む友だちのいない青年はある夜、男に絡まれたのを助けた縁で17歳のナースチェンカと親しくなる。「私に恋しないで」釘を刺すナースチェンカは、ある男の帰還を待っている、と話し出す。
「やさしい女」が重い沈黙とすれば、こちらはもう言葉の洪水笑。孤独で夢見がちな男はしゃべるしゃべる。ナースチェンカも明るく感情豊か。ラストは予想通り。予定調和。夜のシーンが多く、白夜を想像して読むと異国的な雰囲気が広がる、かな。喜劇的でもある。
ロシア文学には疎い。おそらく多分に戯曲的で、名作とはまた書き方が違うのだろう。映画でブレッソン監督の「やさしい女」デジタルリマスター版は見送ってしまったけども、どんな作りをしたんだろうと、物語を読んだ後いまさらながら考えてしまった。
◼️ 多和田葉子「地球にちりばめられて」
言語が著者の重要なモチーフなのかと。発見だった。興味をかきたてられる。
献本でいただいた「日本文学の見取り図」に多和田葉子が取り上げてあり、この作品が詳しめに紹介してあった。
「乗り間違いが新しい展開を生み、聞き間違いが新しい言語を生み出す。言葉に秘められていた過去の記憶や未来の可能性が、偶然によって取り出される」
多和田葉子はドイツ在住でドイツ語で作品を書く。母語ではない言葉で小説を書くこと、また多言語が入り乱れるヨーロッパでの生活経験に裏打ちされたある種の思考感覚がにじんでいる気がする。実際エッセイにも言語意識について述べられているようだ。さて、このお話はどういうものか?
デンマーク・コペンハーゲンの大学で言語学を研究しているクヌートは、留学中に故郷の島国が消滅してしまい、自力で独自の言語「パンスカ」を作り出したという女性Hirukoをテレビで観て興味を持ち、テレビ局に電話してHirukoに承諾をもらい会うことに。
聞けばHirukoは同じ島国の言葉である「ウマミ」という言葉のついたイベントがあり、実演会場に行けば同じ母語の人に会える可能性があるので、翌日ドイツの歴史ある都市・トリアーへ行く予定だという。クヌートは一緒に行く約束をする。
まずクヌートがHirukoのことをアイスランド出身の歌姫、ビョークの若い頃に似ていると描写し、さらにテレビ局でデンマーク出身の映画監督、ラース・フォン・トリアーとすれ違う、というのが充分な面白みだ。
ラース・フォン・トリアーはビョークを主役に据えてミュージカル的な要素を取り入れた「ダンサー・イン・ザ・ダーク」という作品でカンヌの最高賞パルム・ドールを獲得している。ふふっと笑ってしまう。
Hirukoは新潟の出身だと自分で言う。なぜ日本が消滅してしまったのかは描かれていない。トリアーでは、クヌートを気に入った女装のインド人男性・アカッシュやイベントに出演する予定だったテンゾという男性の恋人、ノラと出会い、皆でテンゾが居るというノルウェーのオスロに向かう。
つながりつながりの旅。言語はどんどんとつながっていき、Hirukoが同郷の人と母語で話すことを達成するためのチームらしいものができる。なんかにぎにぎしくて楽しい。
言葉を取り巻く国際的なチームではデンマークとグリーンランドの関係やカースト制度にまで話が及ぶ。知的で創作的だと思う。
多和田葉子はシロクマが主人公の「雪の練習生」、全米図書賞をとった「献灯使」とも、茫洋とした、何かを秘めているがあまりハッキリとは言わない、みたいな小説だった。そんな人なのかなと思っていた。
しかし、今作は人間の若者が主役で、得意の非現実の設定で、Hirukoを中心としたパーティーが出来上がり、ちょっとヘンではあるけれどふつうの人間世界で、成り行きにも工夫が凝らしてあり面白い。
章ごとに視点が変わり、クヌートからHiruko、ノラらがモノローグを展開していく。それらから微妙なすれ違いと偶然の構図が見える。どんどんと各地へ移動していくのも楽しい。またアルルのカルメンという女にひっかかって、なんてくだりにもまた微笑み。なんてまあ洒落っ気の強い。
ハルキっぽさも感じつつ、これらのワクワク、くすくすするようなミックス具合がまたいい感じで刺激的。もどかしさも、性格設定も。ちょっとヘンな加減もGOODである。
多和田葉子の新しい、大きな特徴、側面を見出した経験となった。意外で新たな魅力の発見だった。途中で、これは、おもしろい!と嬉しくなった。
続編もあるようなので、ぜひ読もうと思う。
3月書評の5
1990年代末から2000年代初頭のイラン映画ブームの火付け役ともいえるアッバス・キアロスタミ監督の特集を各地でやっている。先日はまさに人気を集めた「友だちのうちはどこ?」そして先日はカンヌ映画祭の最高賞パルム・ドールを獲得した「桜桃の味」。これには外された。
自殺願望の裕福らしい男が自殺するから確かめて死んでたら埋める仕事を引き受けてくれ、高額な報酬を払うから、と頼み回る話で、承諾した老人に説得を受ける。老人も白血病で治療費のかかる孫のために引き受けた。男は砂と岩だらけの睡眠薬を飲んで砂と岩だらけの穴に横になる・・
次のシーンって、いきなり男が映画監督のような感じでクルーと撮影している。これまで荒涼とした山は緑に覆われていた。ほんで、エンドクレジット。人生讃歌だそうだ。
ひさびさにさっぱりわからん系を気持ちいいくらいかまされた、やられたなあと。普通に明るめの結末にしてもカンヌのパルムドールは取れなかっただろうな。
2本観たらプレゼントの絵はがきをもらってきた。その日に梅田の老舗喫茶店で食べたオムライス。
自殺願望の裕福らしい男が自殺するから確かめて死んでたら埋める仕事を引き受けてくれ、高額な報酬を払うから、と頼み回る話で、承諾した老人に説得を受ける。老人も白血病で治療費のかかる孫のために引き受けた。男は砂と岩だらけの睡眠薬を飲んで砂と岩だらけの穴に横になる・・
次のシーンって、いきなり男が映画監督のような感じでクルーと撮影している。これまで荒涼とした山は緑に覆われていた。ほんで、エンドクレジット。人生讃歌だそうだ。
ひさびさにさっぱりわからん系を気持ちいいくらいかまされた、やられたなあと。普通に明るめの結末にしてもカンヌのパルムドールは取れなかっただろうな。
2本観たらプレゼントの絵はがきをもらってきた。その日に梅田の老舗喫茶店で食べたオムライス。
3月書評の4
3連休は寒くて天気も荒れてるし、加えてちょっとバテてるな・・と感じるのでのんびりすることに。正直な話、最近タバコ吸ったら左胸が痛い。年齢的にも怖いし、考えようかな。
クッキーはたまにごはんを残す時があるけど元気出ないわけじゃない。もうすぐ12歳。やっぱトシ相応やね。足腰も少し弱ったし。
◼️ エドガー・アラン・ポー
「アッシャー家の崩壊」
最後におわっっ、となる短編。ゴシックホラーの代表作 in Americaらしい。
読むきっかけは、「100分de名著」が今月ポー特集で、次回この「アッシャー家の崩壊」を取り上げるからそれまでに読もうと。ポーは「モルグ街の殺人」は文庫で持ってて、「黒猫」は読んだ記憶があるけれど、「アッシャー家」は確か読んでない。予備知識はまったくなくて最後おわっっと、純粋に驚いた。ある意味幸せ?笑
「私」は少年時代の親友、ロデリック・アッシャーに招かれて由緒あるアッシャー家の屋敷に滞在する。沼の近くにある家屋は古びており陰気だった。蒼ざめた、優美な顔のアッシャーは淡白なものしか食べられず、強い光線に弱く、花の香りに息苦しさを感じ、音楽は弦楽器の音しか受け付けないといった神経症的な自分を自覚しており、死の予感を持っていた。この症状はアッシャー家特有のものー。
アッシャーのギター演奏を聴き、ともに物語を読む生活の中、患っていた彼の双子の妹、マデリン嬢が死んでしまう。
古く歴史のある広い館、神経質な住人、物語と音楽、病気と死、地下の遺体安置の穴ぐら、嵐、そしてラストには赤い月と舞台立ては揃っている。1839年の作品で、いまもってアメリカのゴシックホラーの代表作とされているとか。オーブリー・ビアズリーの挿絵をみたけどもたしかに似合いそうだ。
嵐の中奇怪なものを見た「私」はアッシャーの病気にさわることを恐れ、部屋にあった物語の本を読んで気を逸らせようとする。しかし、読み上げる文章にぴたりと符合する激しい物音が、「私」の耳に聴こえてくる。ああ怖い。
「黒猫」や「モルグ街」と同様に暗く、黒い。その雰囲気が極まった感じである。やや難しい感覚もある。またちょっと直訳にすぎるかなという気もする。ともあれ、ゴシックホラーの金字塔を味わえて満足。
北村薫の「紙魚(しみ)家崩壊」という、大量の蔵書でつぶれそうな家を描いた小説を読んで、あまり意味がわからず頭を捻ったことがある。
今なら少しは分かるだろうか?^_^
◼️ ウィリアム・シェイクスピア「ジョン王」
失政を重ねるジョン王。中世の史実との重なり具合に魅力を感じる。
シェイクスピアは軽快な喜劇と史劇の1500年代末と、四大悲劇に象徴される1600年代初頭で期が分かれるのではとなんとなく思っている。今回は1590年代の作と見られる史劇。史上最低の王様、というふれこみもあるようだ。
ざっと調べたことを書くと、出生の折、父王から土地を与えられなかったことに由来して失地王と呼ばれた。兄で第3回十字軍を指揮した獅子心王・リチャード1世は当初ジョンより年上の弟ジェフリーの子アーサーを王位にと考えていた。しかしアーサーがフランス王のもとにいたため遺言でジョンを指名した。フランス王がアーサーの正当な王位を主張して戦争となり、ジョンは大陸のイングランド領のほとんどを失った。さらにローマ教皇と対立し破門されて数年後屈服、謝罪。国を支える諸侯からは人気がなく、王権を制限するマグナ・カルタ憲章に合意せざるを得なかった。あとでジョンが訴え出て教皇から無効宣言は出されたが、これに怒った諸侯らがフランスに援軍を求めまた戦争になった、というまあ史実に残る失政の繰り返しである。
マグナ・カルタが成立した土地、ラニー・ミードはジェローム・K・ジェロームの名作「ボートの三人男」で出てきたな・・と思いつつ。ジョンの失敗の歴史は、イギリス人にはおなじみ感もあるのかと。しかし、ジョンも連なるプランタジネット朝の源流はフランス貴族だったというのも皮肉で、両国間をややこしくしてたのかもと想像してしまった。
ジョン王のイングランドは12歳の甥・アーサーの王位の正統性を押し立てたフランスと戦争となる。しかし戦場近くのアンジェで市民代表から両家の婚姻を勧められるとジョンとフランス王フィリップはあっさり和睦、アーサーの母コンスタンスは狂わんばかりに嘆く。
しかし和睦も束の間、ジョン王はローマ教皇から破門された。教皇の使者から教皇側となってジョン王のイングランドを攻めるか、教皇を敵に回すか迫られたフィリップは和睦の破棄を選ぶ。ジョンは兄・獅子心王の落とし胤、「私生児」やヒューバートを腹心として戦う。
アーサーをイングランドへ連れてくることに成功したジョンはヒューバートに殺せと命じる。時あたかも、諸侯はアーサーに同情を寄せ、ジョンへの批判の声が高まっていたー。
前半、イングランド側、フランス側の王同士の挑発のやりとり、続いてジョンの母、イングランド皇太后エリナーとアーサーの母、コンスタンスの罵り合い、ローマ教皇を含めた三すくみ。和睦が成ったと思ったらキリスト教の力ですぐ壊れる。新郎のフランス皇太子と花嫁のイングランド側ブランシェ、若い2人は気持ちを通わせているように見えたものの、教皇の割り込みで気持ちと立場の板挟みになり、足元が揺れる。
やっぱりシェイクスピアは上手いな、と思ってしまう。
アーサーとヒューバートの絡みには灯火を見る気がする。芝居心があるくだりだと思う。でもまた暗澹とした状況へ。諸侯も日和見であっちへ付きこっちへ付き・・
プランタジネットの一員となった「私生児」はシェイクスピアによくある道化の役。セリフが多く、毒のあるキャラクターで劇をかき回す。だが1人、王とイングランドに忠実な「私生児」は悲しみの中、最後にこんな言葉で芝居を締める。
「このイングランドは、まず自分で自分を傷つけぬかぎり、これまでもこれからも征服者の足元にひれ伏すことは断じてない」
「イングランドがおのれに対し忠実であるかぎり、我々を悲しませるものは何もない」
混乱の中の心の叫び、当時の観衆はカタルシスを感じたりしたのだろうか。
「ジョン王」は上演回数も少なく人気のない戯曲だそう。たしかに様々にコロコロと状況が変わる中で芯がなく、ドラスティックさに欠け、どのキャラクターにもさして惹かれない
でもキャラの造形や暗愚な王、混乱して収まらない感覚の創出など、やっぱりシェイクスピアは魅惑的だな、と思ってしまうのである。
クッキーはたまにごはんを残す時があるけど元気出ないわけじゃない。もうすぐ12歳。やっぱトシ相応やね。足腰も少し弱ったし。
◼️ エドガー・アラン・ポー
「アッシャー家の崩壊」
最後におわっっ、となる短編。ゴシックホラーの代表作 in Americaらしい。
読むきっかけは、「100分de名著」が今月ポー特集で、次回この「アッシャー家の崩壊」を取り上げるからそれまでに読もうと。ポーは「モルグ街の殺人」は文庫で持ってて、「黒猫」は読んだ記憶があるけれど、「アッシャー家」は確か読んでない。予備知識はまったくなくて最後おわっっと、純粋に驚いた。ある意味幸せ?笑
「私」は少年時代の親友、ロデリック・アッシャーに招かれて由緒あるアッシャー家の屋敷に滞在する。沼の近くにある家屋は古びており陰気だった。蒼ざめた、優美な顔のアッシャーは淡白なものしか食べられず、強い光線に弱く、花の香りに息苦しさを感じ、音楽は弦楽器の音しか受け付けないといった神経症的な自分を自覚しており、死の予感を持っていた。この症状はアッシャー家特有のものー。
アッシャーのギター演奏を聴き、ともに物語を読む生活の中、患っていた彼の双子の妹、マデリン嬢が死んでしまう。
古く歴史のある広い館、神経質な住人、物語と音楽、病気と死、地下の遺体安置の穴ぐら、嵐、そしてラストには赤い月と舞台立ては揃っている。1839年の作品で、いまもってアメリカのゴシックホラーの代表作とされているとか。オーブリー・ビアズリーの挿絵をみたけどもたしかに似合いそうだ。
嵐の中奇怪なものを見た「私」はアッシャーの病気にさわることを恐れ、部屋にあった物語の本を読んで気を逸らせようとする。しかし、読み上げる文章にぴたりと符合する激しい物音が、「私」の耳に聴こえてくる。ああ怖い。
「黒猫」や「モルグ街」と同様に暗く、黒い。その雰囲気が極まった感じである。やや難しい感覚もある。またちょっと直訳にすぎるかなという気もする。ともあれ、ゴシックホラーの金字塔を味わえて満足。
北村薫の「紙魚(しみ)家崩壊」という、大量の蔵書でつぶれそうな家を描いた小説を読んで、あまり意味がわからず頭を捻ったことがある。
今なら少しは分かるだろうか?^_^
◼️ ウィリアム・シェイクスピア「ジョン王」
失政を重ねるジョン王。中世の史実との重なり具合に魅力を感じる。
シェイクスピアは軽快な喜劇と史劇の1500年代末と、四大悲劇に象徴される1600年代初頭で期が分かれるのではとなんとなく思っている。今回は1590年代の作と見られる史劇。史上最低の王様、というふれこみもあるようだ。
ざっと調べたことを書くと、出生の折、父王から土地を与えられなかったことに由来して失地王と呼ばれた。兄で第3回十字軍を指揮した獅子心王・リチャード1世は当初ジョンより年上の弟ジェフリーの子アーサーを王位にと考えていた。しかしアーサーがフランス王のもとにいたため遺言でジョンを指名した。フランス王がアーサーの正当な王位を主張して戦争となり、ジョンは大陸のイングランド領のほとんどを失った。さらにローマ教皇と対立し破門されて数年後屈服、謝罪。国を支える諸侯からは人気がなく、王権を制限するマグナ・カルタ憲章に合意せざるを得なかった。あとでジョンが訴え出て教皇から無効宣言は出されたが、これに怒った諸侯らがフランスに援軍を求めまた戦争になった、というまあ史実に残る失政の繰り返しである。
マグナ・カルタが成立した土地、ラニー・ミードはジェローム・K・ジェロームの名作「ボートの三人男」で出てきたな・・と思いつつ。ジョンの失敗の歴史は、イギリス人にはおなじみ感もあるのかと。しかし、ジョンも連なるプランタジネット朝の源流はフランス貴族だったというのも皮肉で、両国間をややこしくしてたのかもと想像してしまった。
ジョン王のイングランドは12歳の甥・アーサーの王位の正統性を押し立てたフランスと戦争となる。しかし戦場近くのアンジェで市民代表から両家の婚姻を勧められるとジョンとフランス王フィリップはあっさり和睦、アーサーの母コンスタンスは狂わんばかりに嘆く。
しかし和睦も束の間、ジョン王はローマ教皇から破門された。教皇の使者から教皇側となってジョン王のイングランドを攻めるか、教皇を敵に回すか迫られたフィリップは和睦の破棄を選ぶ。ジョンは兄・獅子心王の落とし胤、「私生児」やヒューバートを腹心として戦う。
アーサーをイングランドへ連れてくることに成功したジョンはヒューバートに殺せと命じる。時あたかも、諸侯はアーサーに同情を寄せ、ジョンへの批判の声が高まっていたー。
前半、イングランド側、フランス側の王同士の挑発のやりとり、続いてジョンの母、イングランド皇太后エリナーとアーサーの母、コンスタンスの罵り合い、ローマ教皇を含めた三すくみ。和睦が成ったと思ったらキリスト教の力ですぐ壊れる。新郎のフランス皇太子と花嫁のイングランド側ブランシェ、若い2人は気持ちを通わせているように見えたものの、教皇の割り込みで気持ちと立場の板挟みになり、足元が揺れる。
やっぱりシェイクスピアは上手いな、と思ってしまう。
アーサーとヒューバートの絡みには灯火を見る気がする。芝居心があるくだりだと思う。でもまた暗澹とした状況へ。諸侯も日和見であっちへ付きこっちへ付き・・
プランタジネットの一員となった「私生児」はシェイクスピアによくある道化の役。セリフが多く、毒のあるキャラクターで劇をかき回す。だが1人、王とイングランドに忠実な「私生児」は悲しみの中、最後にこんな言葉で芝居を締める。
「このイングランドは、まず自分で自分を傷つけぬかぎり、これまでもこれからも征服者の足元にひれ伏すことは断じてない」
「イングランドがおのれに対し忠実であるかぎり、我々を悲しませるものは何もない」
混乱の中の心の叫び、当時の観衆はカタルシスを感じたりしたのだろうか。
「ジョン王」は上演回数も少なく人気のない戯曲だそう。たしかに様々にコロコロと状況が変わる中で芯がなく、ドラスティックさに欠け、どのキャラクターにもさして惹かれない
でもキャラの造形や暗愚な王、混乱して収まらない感覚の創出など、やっぱりシェイクスピアは魅惑的だな、と思ってしまうのである。
2022年3月12日土曜日
3月書評の3
マニアな?本2冊。今週からぐっと暖かくなった。クッキーが一時ごはんを食べなくなった。レオンがいなくなったことが関係してるのか・・
◼️ 北原尚彦・村山隆司
「シャーロック・ホームズの建築」
やばい、とひと目で即買い。ホームズ物語に建築は深く関わっている。
シャーロッキアンと建築家が、ホームズシリーズの舞台となる建築物を紹介、絵や図を想像で描き、やや専門的な解説をつけたもの。
この本を見るとプチシャーロッキアンは想像する。隠し部屋があった「ノーウッドの建築業者」「金縁の鼻眼鏡」なんかはどう描いてあるんだろう?
さらに「ぶな屋敷」「三破風館」「ウィステリア荘」など建物の名前そのものがタイトルの屋敷はどんなものか?
読む前に楽しみなことこの上ない。21もの建築物が取り上げられている。
もちろんスタートは数々の事件の起点となり、王様や金持ち、庶民の老若男女も含めたさまざまな依頼者、レストレイド、グレグスンらの警察関係者ときに犯人、悪党が出入りしたベイカー街221Bの部屋。
「ボヘミアの醜聞」で劇中の重要な場所、アイリーン・アドラーが住んでいたブライオニー・ロッジ、「まだらの紐」のチーターやヒヒが放し飼いにされたストーク・モーラン屋敷、「四つの署名」のポンディシェリ荘・・さらにスコットランド・ヤードや、ホームズ&ワトスンが出会ったバーツ、セント・バーソロミュー病院もある。
おおむね最初のページに正面から見た建物の全景があり、事件の説明、作中での建物の描写の部分を抜粋し、建築学的に考察する。その後に俯瞰図や解説の入った見取り図、ポイントとなる部屋の詳細図などがある。
シャーロッキアン的に有名な「マスグレイヴ家の儀式書」の舞台、ハールストン屋敷の西日問題など、ワトスンの文章だけでは絵や図として描くのが困難なケースもあったようで、検討を重ねて解決している。
ワンバーワンクラスの人気を誇り、私も大好きな「バスカヴィル家の犬」の大きなバスカヴィル館については期待を持って読んだけれど、後の方の絵が少なくて肩透かし、と思っていたら巻末付録にも絵があって少し埋め合わせられたかな。たしかにこの物語は荒涼としたムアで主要な動きがあるんだけれど、逃亡犯にロウソクを使ってコンタクトするシーンや肖像画で気づくシーンなど入ってたら嬉しかったかなと。
「金縁の鼻眼鏡」のヨックスリー・オールド・プレイスやハールストン屋敷のなどは詳細、ほかもビジュアル的にも楽しめる。また錠や鎧戸、主人と使用人の寝室の階層、造りなど建築用語、知識も好奇心をくすぐる。
いまホームズ原文全作品制覇に挑戦中なので、都度この本を開いてより想像力を膨らませようかな。
知り合いの書店関係者によれば売れ行きはいいとか。切り口により面白い本ができるものだなと思う。
◼️ 大島和人「B.LEAGUE誕生」
かつて怒っていた。いまはBリーグ好き。
それにしても実行力とスピードがすごい。
中高とバスケットボール部活だった私はかつて怒っていた。スラムダンクの流行、田臥勇太のNBA挑戦、日本のチームへの復帰と盛り上がる契機はいくつもあった。しかし特に男子の日本代表はいつまで経っても弱いし、協会の会長選挙は流会につぐ流会で大もめになっている気配が小さい記事で伝わってくる。
何をしとるんだ、何をもめてるんだ、サッカーはとっくに成功しているじゃないか、なかなか改革が進まないことにいちバスケファンとしてイライラしていた。
当時男子のトップリーグには日本を代表する企業がズラリと並んでいた。バスケット、バレーボールはチーム人数も少ないし、ほとんどが大卒で入る。将来は安泰、親も納得しやすいだろう。実によくできたシステムだと思う。
しかしだから、名門チームの廃部が相次ぎ、代表強化につながるプロ化に踏み切るのは遅れていた。JBL、JBLスーパーリーグ、新JBL、NBLと長くないスパンで変遷を繰り返し、そのうちにプロリーグであるbjリーグができ、日本バスケットボール協会は追認した。バスケットボール界の現代化の目は見えなかった。
開催地となった2006年世界選手権での巨額赤字が引き金となって内輪もめが極に達し、2007年日本協会の役員改選では評議員会の流会が相次いだ。この本によれば正常化するまで20カ月かかったらしい。びっくりでしょう。
そんなバスケ界が動いたのは、外圧によってだった。FIBA国際バスケットボール連盟が改善を求めて2013年に警告、2014年11月には制裁処分を課した。男女ともに国際大会から締め出され、解除されなければリオオリンピックの予選に出られない。特に女子はオリンピック出場、上位進出の有力候補だった。
・男子2つのトップリーグの統一
・日本協会のガバナンスの強化
・男女日本代表の強化策確立
がFIBAが投げかけたテーマだった。
実は私も、この強硬策に反発心を覚えたことがある。独立リーグがあるのは別におかしいことではないんじゃないか、強引すぎるのでは、と。バスケ先進国とは言えない日本に何でこうまでFIBAがこだわるのか。しかし本を読み込むと、何度も来日したバウマン事務総長の狙いは深かった、というか、天啓に導かれたというか、この弁護士は、バスケが好きすぎる一面もあるだろうと思える。
現実的には世界選手権後に大もめになったことを知ってたからこのままではオリンピックを任せられない、といった感覚、地元出場なしとなりかねない事態は放っておけない、日本のマーケット力、アジアのモデルの確立、といった理由はあったかも知れない。
FIBAの課題はそのまま日本の弱点だったし、戦術も巧妙。リオ五輪、女子の出場を「人質」に取った。もちろんFIBAも落としどころを考えていたはずだ。
短時間でなんとかしなければ、となって、リーダーに川淵三郎を据えたことが大正解だった。川淵氏と右腕となった弁護士さんの立ち回りの見事さはそのままこの本の読み応え、である。
企業チームとbjリーグチームの参加、協会評議員全員の辞任をクリアーして、書くと簡単だが実質半年という短期間で最難関事項を仕上げてしまう。そして2016年秋、新生Bリーグは開幕した。
私も毎週のように観ているが全試合の配信を実現し、人気も上々だ。これまでを知っているだけに夢みたいな気分である。八村塁や渡邊雄太といったNBAプレイヤーが誕生、女子代表はオリンピックで銀メダル、女子に変革をもたらしたトム・ホーバスが男子監督に就任と、期待値が高まり続けている。
地域密着、そのために5000人収容できるホーム会場で8割開催、というB1加入の条件は、地方の体育館を回っていた当時からすると厳しすぎる条件とも思われたようだ。しかし千葉や宇都宮、大阪は成功しているし、沖縄にも1万人収容のアリーナができてワールドカップが来年開催される。神戸にもできる。Jリーグの流れを汲む要件は正解だったと言える。
自著「独裁力」では控えめにしていた川淵さんの行動の効果も右腕となっていた境田弁護士の証言です、すごいと率直に思える。その川淵さんも、
「『バスケットボールの素人が、何をそんな偉そうに改革できると思っているんだ?』という感じの人がいて、バスケの幹部関係はみんなそうだった」
話を聞きに行った先でそんな態度に遭ったと述懐している。Jリーグを成功させた78歳の方への対し方。こんなところに積年の原因がある、というのは言い過ぎだろうか。
外圧がなければ、東京オリンピックがなければ、川淵三郎氏がいなければ・・Bリーグはそうやって偶然の要素が功を奏して成立した。ここは忘れてはならないだろう。
男子日本代表の強化も、まだ途上。前回のワールドカップ、オリンピックと続く国際大会の連敗をまず止めて、パリオリンピックに出場するのが現実的な目的だ。
周囲の影響でだんだん詳しくなって来た私も、Bリーグや各カテゴリの大会、そして代表戦をこれからも本当に楽しみにしている。
◼️ 北原尚彦・村山隆司
「シャーロック・ホームズの建築」
やばい、とひと目で即買い。ホームズ物語に建築は深く関わっている。
シャーロッキアンと建築家が、ホームズシリーズの舞台となる建築物を紹介、絵や図を想像で描き、やや専門的な解説をつけたもの。
この本を見るとプチシャーロッキアンは想像する。隠し部屋があった「ノーウッドの建築業者」「金縁の鼻眼鏡」なんかはどう描いてあるんだろう?
さらに「ぶな屋敷」「三破風館」「ウィステリア荘」など建物の名前そのものがタイトルの屋敷はどんなものか?
読む前に楽しみなことこの上ない。21もの建築物が取り上げられている。
もちろんスタートは数々の事件の起点となり、王様や金持ち、庶民の老若男女も含めたさまざまな依頼者、レストレイド、グレグスンらの警察関係者ときに犯人、悪党が出入りしたベイカー街221Bの部屋。
「ボヘミアの醜聞」で劇中の重要な場所、アイリーン・アドラーが住んでいたブライオニー・ロッジ、「まだらの紐」のチーターやヒヒが放し飼いにされたストーク・モーラン屋敷、「四つの署名」のポンディシェリ荘・・さらにスコットランド・ヤードや、ホームズ&ワトスンが出会ったバーツ、セント・バーソロミュー病院もある。
おおむね最初のページに正面から見た建物の全景があり、事件の説明、作中での建物の描写の部分を抜粋し、建築学的に考察する。その後に俯瞰図や解説の入った見取り図、ポイントとなる部屋の詳細図などがある。
シャーロッキアン的に有名な「マスグレイヴ家の儀式書」の舞台、ハールストン屋敷の西日問題など、ワトスンの文章だけでは絵や図として描くのが困難なケースもあったようで、検討を重ねて解決している。
ワンバーワンクラスの人気を誇り、私も大好きな「バスカヴィル家の犬」の大きなバスカヴィル館については期待を持って読んだけれど、後の方の絵が少なくて肩透かし、と思っていたら巻末付録にも絵があって少し埋め合わせられたかな。たしかにこの物語は荒涼としたムアで主要な動きがあるんだけれど、逃亡犯にロウソクを使ってコンタクトするシーンや肖像画で気づくシーンなど入ってたら嬉しかったかなと。
「金縁の鼻眼鏡」のヨックスリー・オールド・プレイスやハールストン屋敷のなどは詳細、ほかもビジュアル的にも楽しめる。また錠や鎧戸、主人と使用人の寝室の階層、造りなど建築用語、知識も好奇心をくすぐる。
いまホームズ原文全作品制覇に挑戦中なので、都度この本を開いてより想像力を膨らませようかな。
知り合いの書店関係者によれば売れ行きはいいとか。切り口により面白い本ができるものだなと思う。
◼️ 大島和人「B.LEAGUE誕生」
かつて怒っていた。いまはBリーグ好き。
それにしても実行力とスピードがすごい。
中高とバスケットボール部活だった私はかつて怒っていた。スラムダンクの流行、田臥勇太のNBA挑戦、日本のチームへの復帰と盛り上がる契機はいくつもあった。しかし特に男子の日本代表はいつまで経っても弱いし、協会の会長選挙は流会につぐ流会で大もめになっている気配が小さい記事で伝わってくる。
何をしとるんだ、何をもめてるんだ、サッカーはとっくに成功しているじゃないか、なかなか改革が進まないことにいちバスケファンとしてイライラしていた。
当時男子のトップリーグには日本を代表する企業がズラリと並んでいた。バスケット、バレーボールはチーム人数も少ないし、ほとんどが大卒で入る。将来は安泰、親も納得しやすいだろう。実によくできたシステムだと思う。
しかしだから、名門チームの廃部が相次ぎ、代表強化につながるプロ化に踏み切るのは遅れていた。JBL、JBLスーパーリーグ、新JBL、NBLと長くないスパンで変遷を繰り返し、そのうちにプロリーグであるbjリーグができ、日本バスケットボール協会は追認した。バスケットボール界の現代化の目は見えなかった。
開催地となった2006年世界選手権での巨額赤字が引き金となって内輪もめが極に達し、2007年日本協会の役員改選では評議員会の流会が相次いだ。この本によれば正常化するまで20カ月かかったらしい。びっくりでしょう。
そんなバスケ界が動いたのは、外圧によってだった。FIBA国際バスケットボール連盟が改善を求めて2013年に警告、2014年11月には制裁処分を課した。男女ともに国際大会から締め出され、解除されなければリオオリンピックの予選に出られない。特に女子はオリンピック出場、上位進出の有力候補だった。
・男子2つのトップリーグの統一
・日本協会のガバナンスの強化
・男女日本代表の強化策確立
がFIBAが投げかけたテーマだった。
実は私も、この強硬策に反発心を覚えたことがある。独立リーグがあるのは別におかしいことではないんじゃないか、強引すぎるのでは、と。バスケ先進国とは言えない日本に何でこうまでFIBAがこだわるのか。しかし本を読み込むと、何度も来日したバウマン事務総長の狙いは深かった、というか、天啓に導かれたというか、この弁護士は、バスケが好きすぎる一面もあるだろうと思える。
現実的には世界選手権後に大もめになったことを知ってたからこのままではオリンピックを任せられない、といった感覚、地元出場なしとなりかねない事態は放っておけない、日本のマーケット力、アジアのモデルの確立、といった理由はあったかも知れない。
FIBAの課題はそのまま日本の弱点だったし、戦術も巧妙。リオ五輪、女子の出場を「人質」に取った。もちろんFIBAも落としどころを考えていたはずだ。
短時間でなんとかしなければ、となって、リーダーに川淵三郎を据えたことが大正解だった。川淵氏と右腕となった弁護士さんの立ち回りの見事さはそのままこの本の読み応え、である。
企業チームとbjリーグチームの参加、協会評議員全員の辞任をクリアーして、書くと簡単だが実質半年という短期間で最難関事項を仕上げてしまう。そして2016年秋、新生Bリーグは開幕した。
私も毎週のように観ているが全試合の配信を実現し、人気も上々だ。これまでを知っているだけに夢みたいな気分である。八村塁や渡邊雄太といったNBAプレイヤーが誕生、女子代表はオリンピックで銀メダル、女子に変革をもたらしたトム・ホーバスが男子監督に就任と、期待値が高まり続けている。
地域密着、そのために5000人収容できるホーム会場で8割開催、というB1加入の条件は、地方の体育館を回っていた当時からすると厳しすぎる条件とも思われたようだ。しかし千葉や宇都宮、大阪は成功しているし、沖縄にも1万人収容のアリーナができてワールドカップが来年開催される。神戸にもできる。Jリーグの流れを汲む要件は正解だったと言える。
自著「独裁力」では控えめにしていた川淵さんの行動の効果も右腕となっていた境田弁護士の証言です、すごいと率直に思える。その川淵さんも、
「『バスケットボールの素人が、何をそんな偉そうに改革できると思っているんだ?』という感じの人がいて、バスケの幹部関係はみんなそうだった」
話を聞きに行った先でそんな態度に遭ったと述懐している。Jリーグを成功させた78歳の方への対し方。こんなところに積年の原因がある、というのは言い過ぎだろうか。
外圧がなければ、東京オリンピックがなければ、川淵三郎氏がいなければ・・Bリーグはそうやって偶然の要素が功を奏して成立した。ここは忘れてはならないだろう。
男子日本代表の強化も、まだ途上。前回のワールドカップ、オリンピックと続く国際大会の連敗をまず止めて、パリオリンピックに出場するのが現実的な目的だ。
周囲の影響でだんだん詳しくなって来た私も、Bリーグや各カテゴリの大会、そして代表戦をこれからも本当に楽しみにしている。
2022年3月8日火曜日
3月書評の2
クラシックも1年ぶりくらいかな。ギターの村治佳織でアランフェス協奏曲、メンデルスゾーン「イタリア」を挟んでショパンコンクール2位の反田恭平はもちろんショパンのコンチェルト1番。
webでは100回以上は聴いたけど、ショパンのピアノ協奏曲の生演奏は初めて。ホールの一角と専門的な集音が施されたメディアを通すものとは違うな、というのが最初の感覚。オケの熱演にここでホルン、ここはピチカートか、なんて反応する。やっぱりライブは楽しい!
息を呑んで見つめていたショパンコンクール、いまいるのはその近似空間なんだなと意識する。
第1楽章途中で涙ぐんで、2楽章でたゆたう感覚に浸って、3楽章では、弾けないけれども指が勝手に動く。弾き切りでもうどんだけテンション上がったか。アンコールではショパンコンクールでおそらく初めて演奏されたという、ラルゴ「神よ、ポーランドをお守りください」。たまりません。
反田恭平、マイクを持って出て来た。あいさつかな、いや、なんかステージ前方に椅子が用意されている。最後は、村治佳織と指揮者(ヴァイオリン)と反田恭平でピアソラ「アヴェ・マリア」のコラボ。大サービス、大満足。
村治佳織と反田恭平、両方のオケつきの協奏曲を1回のコンサートで観られるっていうのがそもそもホントぜいたく。アランフェス協奏曲はとても好きな曲で、赤基調の衣装がよく似合っていた村治さんのステージも情緒たっぷり。有名な第2楽章の、イングリッシュホルンとギターが織りなすパートは心の弦をも振るわせる、なんちって。イタリアはやっぱり第1楽章好きだなあ。
ホールを出て駅までたそがれ時の帰り道、高校生と思しき女性たちや若い男性2人連れが、ショパンのコンチェルトのメロディーを楽しそうに口ずさんでいる。こちらもテンション上がりすぎて、寒さの中頭がぼうっと。帰ってグッタリしちゃったのでした。
翌日は映画「ナイル殺人事件」。アガサ・クリスティーの映画はケネス・ブラナーが前回「オリエント急行の殺人」を作り、今回は「ナイルに死す」。富豪の若い女性のエジプトでの新婚旅行、招待客たちはそれぞれクセがある者たち。そして殺人が起きる。要素が多すぎて、サスペンスドラマに近いかな。アガサのエンタテインメント性が出ている作品。ふむふむと見た。
友人にもイベントが多かったりして、にぎやかめな週末。チーズケーキはよく行く大型書店のカフェで。本を読む人が多い店、90分の時間制。
日曜帰り道はいきなりの雪。いまは晴れている。春の空、やね。
◼️ Authur Conan Doyle
「A Case Of Identity(花婿失踪事件)」
ホームズ原文読み16作め。今回は存在感のある、メアリ・サザーランド嬢登場!
ホームズものには英語の原タイトルとよく知られている邦訳タイトルが直訳でないものもあります。「アイデンティティ」「アイデンティティの事件」とかいうのも映画とか本格小説みたいで悪くない気もしますが、タイトルの大仰さに話の内容ががついていかないので正直(笑)分かりやすいこれまでのものでよかろうという感想ですね。
さて、第1短編集「シャーロック・ホームズの冒険」の3つめという初期の作品です。「ボヘミアの醜聞」で人気沸騰し、誰もが知る「赤毛組合」と力作が続いた後はちょっと社会派?でコンパクトな事件。巨軀で派手で一途、シリーズの中でも異彩を放つメアリ・サザーランド嬢が舞台に上がります。
序盤は長くホームズとワトスンが議論しているというパターン。
life is infinitely stranger than anything which the mind of man could invent.
「日常生活とは人間の頭で考え得るすべてのものよりずっと奇妙だ」
there is nothing so unnatural as the commonplace.
「平凡よりも不自然なものはない」
そういうテーマです。ホームズは同様のことを他の短編中でも言っています。このくつろぎの時間で、ホームズは中央に大きなアメジストがついた金の嗅ぎタバコ入れを取り出し「ボヘミアの醜聞」の依頼人、ボヘミア王からの贈り物であると明かします。この事件が「ボヘミア」からあまり時をおかずに起きたことが分かりますね。
またホームズはやはりとても大きなダイヤモンドのついた指輪をも見せびらかします。こちらはワトスンにも話すことのできない事件でオランダ王家からのものだと。事件で宝石はいくつも取り扱っているものの、ホームズの持ち物としては珍しい宝石に囲まれた光景。質素なベイカー街の部屋でもちょっと異様です。
さてそんな話をしていると、ホームズが窓の下に依頼人らしき女性を発見します。
I saw that on the pavement opposite there stood a large woman with a heavy fur boa round her neck, and a large curling red feather in a broad-brimmed hat which was tilted in a coquettish Duchess of Devonshire fashion over her ear.
「通りの反対側に大きな女性が立っているのが見えた。立派な毛皮の襟巻きを首に巻き、大きな巻いた赤い羽根のついたつば広帽は、コケティッシュなデボンシャー公爵夫人風に片耳を覆っていた」
デボンシャー公爵夫人とは、18世紀後半に社交界の花形で政治活動にも関わったジョージアナ・キャベンディッシュさんのようです。伝記映画もあります。肖像画を見ると、なるほど帽子を極端に傾けてますね。
しばらく逡巡している様子、その神経質な仕草を見て、ホームズはaffaire de coeur、恋愛事件だと目星をつけます。
ようやく階段を上がってボーイの後ろにぬっと立っていたメアリ・サザーランド嬢、ホームズは優しく招き入れます。そしてさっそく近視であること、タイプライターの仕事をしていること、ひどく慌てて出てきたことを見抜き、メアリ嬢をびっくりさせます。
メアリは母が若い男・ウィンディバンクと再婚し、3人家族。stepfatherつまり継父はメアリより5歳歳上なだけです。ウィンディバンクは商社の外交員だとのこと。メアリは叔父が遺してくれた債権があり、年に100ポンドの収入になります。タイプライターの収入もあるので、一緒に暮らしている間はその100ポンドを両親に渡していると話します。
ウィンディバンクは娘が外出するのをあまり好みませんでしたが、継父が仕事でよく行くフランス出張の折、メアリは亡き父親関係のガス配管業者のball、舞踏会に出かけ、そこでホズマー・エンジェルという紳士と恋に落ちました。ホズマーはメアリの家にも来て、メアリの母もたいそう彼のことを気に入りました。しかし継父がそういうことを嫌うため、彼がまたフランスに行っている間に会いました。
ホズマーは出納係をしている事務員で、会社に寝泊まりしており、メアリは手紙も会社管轄の郵便局留めで出しているとのこと、ホズマーからの手紙はタイプライターで打ったものでした。
恥ずかしがり屋で昼より夜出歩くことを好み、弱々しい声、いつも色のついた眼鏡をしていました。さらにもじゃもじゃのもみ上げに口髭を生やしていました。
ついにホズマーは継父が帰ってくる前に結婚すべきだと言い出しました。ものすごい熱心さで、
whatever happened I would always be true to him
何があってもかれに忠誠を尽くすと誓わせました。
先週の金曜日、結婚式の朝、教会へと別々の馬車に乗った2人。ホズマーはfour-wheeler四輪馬車に乗り込みました。そして教会についた馬車の中に、新郎はいませんでした。忽然と消え失せ、それからメアリはホズマーと会っておらず、ホームズに相談に来たというわけでした。
どうでしょう、かなり思わせぶりですね。当日の朝ホズマーは
even if something quite unforeseen occurred to separate us, I was always to remember that I was pledged to him
もし本当に予測できないことが自分達を引き裂いても、いつも、私、メアリが彼に誓ったことを、忘れてはならない
と念を押していました。メアリは彼には何かが起きた、それを予期していたからあんなことを言った。彼はとても親切であんな風に置き去りにはしない人だ、と必死です。
メアリの母親は怒り、このことはもう口にするなと言い、継父は、仮に故意に消息を絶ったとして、メアリから金を借りていたわけでもないし、彼に利益はない、いつかまた消息が聞けるだろうとのんきです。
メアリはろくに眠れず心配していると言い、ついにはハンカチに顔を埋めて泣き出してしまいました。
ホームズは調査を請け負い、きっと決定的な証拠が出るだろう、この件は私に任せなさい、と取りなします。そして
try to let Mr. Hosmer Angel vanish from your memory, as he has done from your life.
「ホズマー・エンジェル氏のことは、あなたの人生から去ったものとして、記憶から消し去りなさい」
とアドバイスします。彼にはもう会えない、と。
人相書きと彼からの手紙を預かり、メアリの家と継父の会社の住所をもらい、ホームズは重ねて全ての出来事は封印しなさい、と言います。しかし
You are very kind, Mr. Holmes, but I cannot do that. I shall be true to Hosmer. He shall find me ready when he comes back.
「ご親切にありがとうございます、ホームズさん。でもできません。私はホズマーに忠誠を尽くします。彼は帰ってきたとき、私がすぐにでも結婚できる用意ができていると知るでしょう」
思い詰めたら一途なところを見せて去ります。
このシーンをワトスンは
For all the preposterous hat and the vacuous face, there was something noble
「妙ちきりんな帽子とぼんやりとした顔にもかかわらず、若干の気品があった」
と表現しています。ホームズも
I found her more interesting than her little problem
「彼女の小さな問題よりも、彼女自身の方が興味があった」
と漏らしています。もちろん女性を信用しないというホームズのことだから、女性としてではなく、人間観察という意味で、でしょうが笑
ホームズにとって、事件じたいは
rather a trite one
ちょっとありふれたもの、らしく
1877年(この事件は1888年)、さらには去年にも「この手の事件がヘーグであった」とのこと。
それからメアリについてのワトスンの間違った見立てを正しつつ、ブーツは片方ずつ別々のものだった、だから慌てて出てきたと分かった、などとワトスンが気づかなかったことを並べます。
そしてシティの会社と、継父とに手紙を書き、継父とは明日の6時にここで会えないから尋ねる、そしたら事件はしばらく棚上げだ、と。ワトスンはベイカー街の部屋から出ます。「ボヘミアの醜聞」「四つの署名」そして「緋色の研究」事件でホームズが見せた推理力と行動力を思い起こしながら、きっと解決するだろうという期待と確信をを胸に。この時は結婚してて、同居はしてなかったんですね。
仕事が忙しかったワトスンが翌日息せき切ってベイカー街へ着くと、ホームズは椅子に丸くなってうたた寝していました。一日中化学実験をやってたと見えてテーブルにはフラスコや試験管がずらりと並び、塩酸の刺激臭が漂っていました。
Well, have you solved it?「解決したのか?」
Yes. It was the bisulphate of baryta.
「ああ、硫酸バリウムだった」
No, no, the mystery!
「ちがうちがう!謎、じけん!」
なんておマヌケな会話があった後すぐに継父、ミスターウィンディバンクが到着しました。
髭を剃り上げ、ホームズものにはこの
clean-shavenという表現がよく出てきます、30歳くらいのがっしりした体格、鋭く目つきでいぶかしげな視線を投げ、椅子に座りました。
ホームズは6時に会うことを応諾したタイプ打ちの手紙を受け取っていました。
ウィンディバンクは、私の意に反してご迷惑をお掛けして、あれは興奮しやすく衝動的でして、こうと思い込んだらコントロールするのは難しいのです、と父親らしい弁解をします。が、次のひと言はホームズをカチンとさせました。
how could you possibly find this Hosmer Angel?
「どうやってあなたにこのホズマー・エンジェルを見つけられるというのでしょう?」
On the contrary「それは違いますね」
I have every reason to believe that I will succeed in discovering Mr. Hosmer Angel.
「私はホズマー・エンジェルを見つけられると確信するに足る全ての証拠を押さえています。」
即座に応じるホームズ。ウィンディバンクは激しく驚いて手袋を取り落とします。そ、それは喜ばしい、とおざなりのひと言を添えて。
ホームズはまずタイプライターのことに言及します。それぞれに個性があるものだ、と。ウィンディバンクからホームズ宛ての手紙に例をとり、eにかすれ、rに小さい欠損がある、他にも14カ所特徴がある、と。
そして、失踪した男からメアリに宛てた手紙にもすべて同じ特徴があると断じます。
ウィンディバンクは椅子から跳び上がり、その男を捕まえられるのならその時は知らせてください、と慌てて帰ろうとします。
ホームズは逃しませんでした。
Certainly「いいでしょう」ホームズは出入り口のドアに鍵をガチャリとかけ、
I let you know, then, that I have caught him!
「お知らせしましょう。彼を捕まえました!」
え、どこだ、としらを切るウィンディバンクに
Oh, it won't do – really it won't
「無駄ですな、まったくもって無駄だ」
There is no possible getting out of it, Mr. Windibank. It is quite too transparent, and it was a very bad compliment when you said that it was impossible for me to solve so simple a question. That's right! Sit down and let us talk it over.
「逃げるところはどこにもない。ウィンディバンクさん、あまりにも明白だ。それにしてもひどい挨拶でしたな。私にこんな単純な謎を解くのが不可能だとは。よかろう!座って話そうじゃないか」
「こ、これは起訴できない」
ウィンディバンクは声を詰まらせます。
残念ながらそうだ。しかし見たことがないくらい残酷で利己的で無情な企みだ。
ホームズは事件のあらましを語ります。ウィンディバンクは金目当てで歳の離れた婦人と結婚した。娘には年に100ポンドもの収入があり、継父はこれを自由にできた。しかし娘・メアリがもし結婚して独立したら入ってこなくなる。
そのため奸計を企てる。妻であるメアリの母親を言いくるめ、色付き眼鏡をかけ、もみ上げに口髭で変装し、声を変えてメアリに近づき夢中にさせた。
メアリは予想以上に夢中になる。しかしいつまでも続けることはできない。だから、結婚式の当日、貞節の誓いをさせ、劇的に姿を消した。彼女に永遠の印象を与え、別の求婚者を近づけないために。
ウィンディバンクはホームズの説明が終わる頃には落ち着きを取り戻していました。悪びれもせずあざ笑いながらこう言い返します。
It may be so, or it may not, Mr. Holmes,
「そうかもしれないし、そうでないかもしれないよ、ホームズさん」
but if you are so very sharp you ought to be sharp enough to know that it is you who are breaking the law now, and not me. I have done nothing actionable from the first, but as long as you keep that door locked you lay yourself open to an action for assault and illegal constraint.
「しかし鋭いあんたなら、いま違法行為をしているのは私でなくあんただと分かるだろうよ。おれは起訴されるようなことは最初から何もしちゃいない。あんたがそのドアに鍵をかけている限り、監禁と脅迫で起訴される立場に身を置いているってことなんだぜ」
ホームズはその通りだと認め、鍵を開けます。しかし負けてる名探偵ではありません。
「これほど罰を受けるのにふさわしい男はかつていなかった。もしこの若い女性に兄弟か男の友人がいたら、鞭で打ち据えたはずだ、この野郎!」
さらにあざけりの表情をするウィンディバンクにムカついたホームズ、
it is not part of my duties to my client, but here's a hunting crop handy, and I think I shall just treat myself to– –
「依頼人に対する職務には含まれんが、ここに狩猟用の鞭がある。いっそ月に代わっておしおきを!」
最後の方は意訳ですが笑、ホームズが素早く鞭に歩み寄ると、ウィンディバンクは必死で逃げ出します。
ホームズは解説をします。ホズマー・エンジェルなる人物は、その奇妙なふるまいから、強い動機を持っていることは明白だった。この件で利を得るのは継父、そして2人の男は一緒にいたことがない。色付き眼鏡に奇妙な声、もじもじゃのヒゲ、タイプで手紙を打つのは筆跡を隠すためでは?
ホームズはホズマー・エンジェルの人相書きから変装を思わせるものを取り除いた顔を、おそらく自分で描き、ウィンディバンクが勤める会社に封書で送って誰が似てる人いない?と聞いた。おそらくホームズの名声を知っていたであろう会社からは、それは当社のジェームズ・ウィンディバンクだと返事が来た。タイプライターの特徴を確かめるためウィンディバンク本人に手紙を出し、タイプで打った返事を入手した。
ちなみに新郎のホズマー・エンジェルが消えたのは、両側に扉のある四輪馬車に片方の入り口から乗って、こっそり逆側へ降りたというわけでした。
彼女、メアリ・サザーランド嬢にはどうするんだ?とワトスンが訊くと、たぶんいくら言っても信じないだろう、と見通しをこぼし、
There is danger for him who taketh the tiger cub, and danger also for whoso snatches a delusion from a woman.
「虎子を得ようとする者に危険あり、女から思い込みを奪おうとする者も同じ危険あり」
という古いペルシャの詩を口にします。これでエンド。果たして依頼人になんて言ったのでしょうね。
さて、前回読んだ「白面の兵士」もそうでしたが、このお話は、通常の短編の3分の2くらいの長さです。なぜかというと、どちらもホームズの捜査活動がなく、事件にも進展がないからです。今回はほぼ安楽椅子探偵、ロッキングチェアーデテクティブでしたね。
それゆえ読み応えはもうひとつで、小悪党の立ち回りを鞭で脅すだけなので迫力もありません。なんか酷評してますね笑。
しかしそこは絶好調時のドイル、メアリ・サザーランド嬢という、いくらでもデフォルメして描けそうな存在感のある女性を印象付けます。
ホームズ・シリーズには、多くの印象深い女性が登場します。「四つの署名」のメアリ・モースタン、ワトソン妻ですね。パスティーシュ、パロディでも大人気の不二子ちゃん的存在「ボヘミアの醜聞」のアイリーン・アドラー、「まだらの紐」のヘレン・ストーナー、こちらも継父が娘の財産を狙う話でした。「ぶな屋敷」のヴァイオレット・ハンター、「孤独な自転車乗り」のヴァイオレット・スミス、「ソア橋」のグレイス・ダンバーその他たくさん。
私的には行方不明の夫の捜索でホームズの世話をする「唇のねじれた男」のセント・クレア夫人も、聡明で、愛嬌があって感じがいいと思ってます。
その中でも巨体でハデハデしく純粋なワーキングウーマン、メアリ・サザーランドは異彩を放っていますね。ホームズ・シリーズの出演者としていないと困る、みたいな。パロディにぜひ出演して欲しいですね。
この話はスケールこそ小さいものの、ドイルの細かい仕掛け、設定も見えて、良き一篇の物語、といった色合いがありますね。
クラシックも1年ぶりくらいかな。ギターの村治佳織でアランフェス協奏曲、メンデルスゾーン「イタリア」を挟んでショパンコンクール2位の反田恭平はもちろんショパンのコンチェルト1番。
webでは100回以上は聴いたけど、ショパンのピアノ協奏曲の生演奏は初めて。ホールの一角と専門的な集音が施されたメディアを通すものとは違うな、というのが最初の感覚。オケの熱演にここでホルン、ここはピチカートか、なんて反応する。やっぱりライブは楽しい!
息を呑んで見つめていたショパンコンクール、いまいるのはその近似空間なんだなと意識する。
第1楽章途中で涙ぐんで、2楽章でたゆたう感覚に浸って、3楽章では、弾けないけれども指が勝手に動く。弾き切りでもうどんだけテンション上がったか。アンコールではショパンコンクールでおそらく初めて演奏されたという、ラルゴ「神よ、ポーランドをお守りください」。たまりません。
反田恭平、マイクを持って出て来た。あいさつかな、いや、なんかステージ前方に椅子が用意されている。最後は、村治佳織と指揮者(ヴァイオリン)と反田恭平でピアソラ「アヴェ・マリア」のコラボ。大サービス、大満足。
村治佳織と反田恭平、両方のオケつきの協奏曲を1回のコンサートで観られるっていうのがそもそもホントぜいたく。アランフェス協奏曲はとても好きな曲で、赤基調の衣装がよく似合っていた村治さんのステージも情緒たっぷり。有名な第2楽章の、イングリッシュホルンとギターが織りなすパートは心の弦をも振るわせる、なんちって。イタリアはやっぱり第1楽章好きだなあ。
ホールを出て駅までたそがれ時の帰り道、高校生と思しき女性たちや若い男性2人連れが、ショパンのコンチェルトのメロディーを楽しそうに口ずさんでいる。こちらもテンション上がりすぎて、寒さの中頭がぼうっと。帰ってグッタリしちゃったのでした。
翌日は映画「ナイル殺人事件」。アガサ・クリスティーの映画はケネス・ブラナーが前回「オリエント急行の殺人」を作り、今回は「ナイルに死す」。富豪の若い女性のエジプトでの新婚旅行、招待客たちはそれぞれクセがある者たち。そして殺人が起きる。要素が多すぎて、サスペンスドラマに近いかな。アガサのエンタテインメント性が出ている作品。ふむふむと見た。
友人にもイベントが多かったりして、にぎやかめな週末。チーズケーキはよく行く大型書店のカフェで。本を読む人が多い店、90分の時間制。
日曜帰り道はいきなりの雪。いまは晴れている。春の空、やね。
◼️ Authur Conan Doyle
「A Case Of Identity(花婿失踪事件)」
ホームズ原文読み16作め。今回は存在感のある、メアリ・サザーランド嬢登場!
ホームズものには英語の原タイトルとよく知られている邦訳タイトルが直訳でないものもあります。「アイデンティティ」「アイデンティティの事件」とかいうのも映画とか本格小説みたいで悪くない気もしますが、タイトルの大仰さに話の内容ががついていかないので正直(笑)分かりやすいこれまでのものでよかろうという感想ですね。
さて、第1短編集「シャーロック・ホームズの冒険」の3つめという初期の作品です。「ボヘミアの醜聞」で人気沸騰し、誰もが知る「赤毛組合」と力作が続いた後はちょっと社会派?でコンパクトな事件。巨軀で派手で一途、シリーズの中でも異彩を放つメアリ・サザーランド嬢が舞台に上がります。
序盤は長くホームズとワトスンが議論しているというパターン。
life is infinitely stranger than anything which the mind of man could invent.
「日常生活とは人間の頭で考え得るすべてのものよりずっと奇妙だ」
there is nothing so unnatural as the commonplace.
「平凡よりも不自然なものはない」
そういうテーマです。ホームズは同様のことを他の短編中でも言っています。このくつろぎの時間で、ホームズは中央に大きなアメジストがついた金の嗅ぎタバコ入れを取り出し「ボヘミアの醜聞」の依頼人、ボヘミア王からの贈り物であると明かします。この事件が「ボヘミア」からあまり時をおかずに起きたことが分かりますね。
またホームズはやはりとても大きなダイヤモンドのついた指輪をも見せびらかします。こちらはワトスンにも話すことのできない事件でオランダ王家からのものだと。事件で宝石はいくつも取り扱っているものの、ホームズの持ち物としては珍しい宝石に囲まれた光景。質素なベイカー街の部屋でもちょっと異様です。
さてそんな話をしていると、ホームズが窓の下に依頼人らしき女性を発見します。
I saw that on the pavement opposite there stood a large woman with a heavy fur boa round her neck, and a large curling red feather in a broad-brimmed hat which was tilted in a coquettish Duchess of Devonshire fashion over her ear.
「通りの反対側に大きな女性が立っているのが見えた。立派な毛皮の襟巻きを首に巻き、大きな巻いた赤い羽根のついたつば広帽は、コケティッシュなデボンシャー公爵夫人風に片耳を覆っていた」
デボンシャー公爵夫人とは、18世紀後半に社交界の花形で政治活動にも関わったジョージアナ・キャベンディッシュさんのようです。伝記映画もあります。肖像画を見ると、なるほど帽子を極端に傾けてますね。
しばらく逡巡している様子、その神経質な仕草を見て、ホームズはaffaire de coeur、恋愛事件だと目星をつけます。
ようやく階段を上がってボーイの後ろにぬっと立っていたメアリ・サザーランド嬢、ホームズは優しく招き入れます。そしてさっそく近視であること、タイプライターの仕事をしていること、ひどく慌てて出てきたことを見抜き、メアリ嬢をびっくりさせます。
メアリは母が若い男・ウィンディバンクと再婚し、3人家族。stepfatherつまり継父はメアリより5歳歳上なだけです。ウィンディバンクは商社の外交員だとのこと。メアリは叔父が遺してくれた債権があり、年に100ポンドの収入になります。タイプライターの収入もあるので、一緒に暮らしている間はその100ポンドを両親に渡していると話します。
ウィンディバンクは娘が外出するのをあまり好みませんでしたが、継父が仕事でよく行くフランス出張の折、メアリは亡き父親関係のガス配管業者のball、舞踏会に出かけ、そこでホズマー・エンジェルという紳士と恋に落ちました。ホズマーはメアリの家にも来て、メアリの母もたいそう彼のことを気に入りました。しかし継父がそういうことを嫌うため、彼がまたフランスに行っている間に会いました。
ホズマーは出納係をしている事務員で、会社に寝泊まりしており、メアリは手紙も会社管轄の郵便局留めで出しているとのこと、ホズマーからの手紙はタイプライターで打ったものでした。
恥ずかしがり屋で昼より夜出歩くことを好み、弱々しい声、いつも色のついた眼鏡をしていました。さらにもじゃもじゃのもみ上げに口髭を生やしていました。
ついにホズマーは継父が帰ってくる前に結婚すべきだと言い出しました。ものすごい熱心さで、
whatever happened I would always be true to him
何があってもかれに忠誠を尽くすと誓わせました。
先週の金曜日、結婚式の朝、教会へと別々の馬車に乗った2人。ホズマーはfour-wheeler四輪馬車に乗り込みました。そして教会についた馬車の中に、新郎はいませんでした。忽然と消え失せ、それからメアリはホズマーと会っておらず、ホームズに相談に来たというわけでした。
どうでしょう、かなり思わせぶりですね。当日の朝ホズマーは
even if something quite unforeseen occurred to separate us, I was always to remember that I was pledged to him
もし本当に予測できないことが自分達を引き裂いても、いつも、私、メアリが彼に誓ったことを、忘れてはならない
と念を押していました。メアリは彼には何かが起きた、それを予期していたからあんなことを言った。彼はとても親切であんな風に置き去りにはしない人だ、と必死です。
メアリの母親は怒り、このことはもう口にするなと言い、継父は、仮に故意に消息を絶ったとして、メアリから金を借りていたわけでもないし、彼に利益はない、いつかまた消息が聞けるだろうとのんきです。
メアリはろくに眠れず心配していると言い、ついにはハンカチに顔を埋めて泣き出してしまいました。
ホームズは調査を請け負い、きっと決定的な証拠が出るだろう、この件は私に任せなさい、と取りなします。そして
try to let Mr. Hosmer Angel vanish from your memory, as he has done from your life.
「ホズマー・エンジェル氏のことは、あなたの人生から去ったものとして、記憶から消し去りなさい」
とアドバイスします。彼にはもう会えない、と。
人相書きと彼からの手紙を預かり、メアリの家と継父の会社の住所をもらい、ホームズは重ねて全ての出来事は封印しなさい、と言います。しかし
You are very kind, Mr. Holmes, but I cannot do that. I shall be true to Hosmer. He shall find me ready when he comes back.
「ご親切にありがとうございます、ホームズさん。でもできません。私はホズマーに忠誠を尽くします。彼は帰ってきたとき、私がすぐにでも結婚できる用意ができていると知るでしょう」
思い詰めたら一途なところを見せて去ります。
このシーンをワトスンは
For all the preposterous hat and the vacuous face, there was something noble
「妙ちきりんな帽子とぼんやりとした顔にもかかわらず、若干の気品があった」
と表現しています。ホームズも
I found her more interesting than her little problem
「彼女の小さな問題よりも、彼女自身の方が興味があった」
と漏らしています。もちろん女性を信用しないというホームズのことだから、女性としてではなく、人間観察という意味で、でしょうが笑
ホームズにとって、事件じたいは
rather a trite one
ちょっとありふれたもの、らしく
1877年(この事件は1888年)、さらには去年にも「この手の事件がヘーグであった」とのこと。
それからメアリについてのワトスンの間違った見立てを正しつつ、ブーツは片方ずつ別々のものだった、だから慌てて出てきたと分かった、などとワトスンが気づかなかったことを並べます。
そしてシティの会社と、継父とに手紙を書き、継父とは明日の6時にここで会えないから尋ねる、そしたら事件はしばらく棚上げだ、と。ワトスンはベイカー街の部屋から出ます。「ボヘミアの醜聞」「四つの署名」そして「緋色の研究」事件でホームズが見せた推理力と行動力を思い起こしながら、きっと解決するだろうという期待と確信をを胸に。この時は結婚してて、同居はしてなかったんですね。
仕事が忙しかったワトスンが翌日息せき切ってベイカー街へ着くと、ホームズは椅子に丸くなってうたた寝していました。一日中化学実験をやってたと見えてテーブルにはフラスコや試験管がずらりと並び、塩酸の刺激臭が漂っていました。
Well, have you solved it?「解決したのか?」
Yes. It was the bisulphate of baryta.
「ああ、硫酸バリウムだった」
No, no, the mystery!
「ちがうちがう!謎、じけん!」
なんておマヌケな会話があった後すぐに継父、ミスターウィンディバンクが到着しました。
髭を剃り上げ、ホームズものにはこの
clean-shavenという表現がよく出てきます、30歳くらいのがっしりした体格、鋭く目つきでいぶかしげな視線を投げ、椅子に座りました。
ホームズは6時に会うことを応諾したタイプ打ちの手紙を受け取っていました。
ウィンディバンクは、私の意に反してご迷惑をお掛けして、あれは興奮しやすく衝動的でして、こうと思い込んだらコントロールするのは難しいのです、と父親らしい弁解をします。が、次のひと言はホームズをカチンとさせました。
how could you possibly find this Hosmer Angel?
「どうやってあなたにこのホズマー・エンジェルを見つけられるというのでしょう?」
On the contrary「それは違いますね」
I have every reason to believe that I will succeed in discovering Mr. Hosmer Angel.
「私はホズマー・エンジェルを見つけられると確信するに足る全ての証拠を押さえています。」
即座に応じるホームズ。ウィンディバンクは激しく驚いて手袋を取り落とします。そ、それは喜ばしい、とおざなりのひと言を添えて。
ホームズはまずタイプライターのことに言及します。それぞれに個性があるものだ、と。ウィンディバンクからホームズ宛ての手紙に例をとり、eにかすれ、rに小さい欠損がある、他にも14カ所特徴がある、と。
そして、失踪した男からメアリに宛てた手紙にもすべて同じ特徴があると断じます。
ウィンディバンクは椅子から跳び上がり、その男を捕まえられるのならその時は知らせてください、と慌てて帰ろうとします。
ホームズは逃しませんでした。
Certainly「いいでしょう」ホームズは出入り口のドアに鍵をガチャリとかけ、
I let you know, then, that I have caught him!
「お知らせしましょう。彼を捕まえました!」
え、どこだ、としらを切るウィンディバンクに
Oh, it won't do – really it won't
「無駄ですな、まったくもって無駄だ」
There is no possible getting out of it, Mr. Windibank. It is quite too transparent, and it was a very bad compliment when you said that it was impossible for me to solve so simple a question. That's right! Sit down and let us talk it over.
「逃げるところはどこにもない。ウィンディバンクさん、あまりにも明白だ。それにしてもひどい挨拶でしたな。私にこんな単純な謎を解くのが不可能だとは。よかろう!座って話そうじゃないか」
「こ、これは起訴できない」
ウィンディバンクは声を詰まらせます。
残念ながらそうだ。しかし見たことがないくらい残酷で利己的で無情な企みだ。
ホームズは事件のあらましを語ります。ウィンディバンクは金目当てで歳の離れた婦人と結婚した。娘には年に100ポンドもの収入があり、継父はこれを自由にできた。しかし娘・メアリがもし結婚して独立したら入ってこなくなる。
そのため奸計を企てる。妻であるメアリの母親を言いくるめ、色付き眼鏡をかけ、もみ上げに口髭で変装し、声を変えてメアリに近づき夢中にさせた。
メアリは予想以上に夢中になる。しかしいつまでも続けることはできない。だから、結婚式の当日、貞節の誓いをさせ、劇的に姿を消した。彼女に永遠の印象を与え、別の求婚者を近づけないために。
ウィンディバンクはホームズの説明が終わる頃には落ち着きを取り戻していました。悪びれもせずあざ笑いながらこう言い返します。
It may be so, or it may not, Mr. Holmes,
「そうかもしれないし、そうでないかもしれないよ、ホームズさん」
but if you are so very sharp you ought to be sharp enough to know that it is you who are breaking the law now, and not me. I have done nothing actionable from the first, but as long as you keep that door locked you lay yourself open to an action for assault and illegal constraint.
「しかし鋭いあんたなら、いま違法行為をしているのは私でなくあんただと分かるだろうよ。おれは起訴されるようなことは最初から何もしちゃいない。あんたがそのドアに鍵をかけている限り、監禁と脅迫で起訴される立場に身を置いているってことなんだぜ」
ホームズはその通りだと認め、鍵を開けます。しかし負けてる名探偵ではありません。
「これほど罰を受けるのにふさわしい男はかつていなかった。もしこの若い女性に兄弟か男の友人がいたら、鞭で打ち据えたはずだ、この野郎!」
さらにあざけりの表情をするウィンディバンクにムカついたホームズ、
it is not part of my duties to my client, but here's a hunting crop handy, and I think I shall just treat myself to– –
「依頼人に対する職務には含まれんが、ここに狩猟用の鞭がある。いっそ月に代わっておしおきを!」
最後の方は意訳ですが笑、ホームズが素早く鞭に歩み寄ると、ウィンディバンクは必死で逃げ出します。
ホームズは解説をします。ホズマー・エンジェルなる人物は、その奇妙なふるまいから、強い動機を持っていることは明白だった。この件で利を得るのは継父、そして2人の男は一緒にいたことがない。色付き眼鏡に奇妙な声、もじもじゃのヒゲ、タイプで手紙を打つのは筆跡を隠すためでは?
ホームズはホズマー・エンジェルの人相書きから変装を思わせるものを取り除いた顔を、おそらく自分で描き、ウィンディバンクが勤める会社に封書で送って誰が似てる人いない?と聞いた。おそらくホームズの名声を知っていたであろう会社からは、それは当社のジェームズ・ウィンディバンクだと返事が来た。タイプライターの特徴を確かめるためウィンディバンク本人に手紙を出し、タイプで打った返事を入手した。
ちなみに新郎のホズマー・エンジェルが消えたのは、両側に扉のある四輪馬車に片方の入り口から乗って、こっそり逆側へ降りたというわけでした。
彼女、メアリ・サザーランド嬢にはどうするんだ?とワトスンが訊くと、たぶんいくら言っても信じないだろう、と見通しをこぼし、
There is danger for him who taketh the tiger cub, and danger also for whoso snatches a delusion from a woman.
「虎子を得ようとする者に危険あり、女から思い込みを奪おうとする者も同じ危険あり」
という古いペルシャの詩を口にします。これでエンド。果たして依頼人になんて言ったのでしょうね。
さて、前回読んだ「白面の兵士」もそうでしたが、このお話は、通常の短編の3分の2くらいの長さです。なぜかというと、どちらもホームズの捜査活動がなく、事件にも進展がないからです。今回はほぼ安楽椅子探偵、ロッキングチェアーデテクティブでしたね。
それゆえ読み応えはもうひとつで、小悪党の立ち回りを鞭で脅すだけなので迫力もありません。なんか酷評してますね笑。
しかしそこは絶好調時のドイル、メアリ・サザーランド嬢という、いくらでもデフォルメして描けそうな存在感のある女性を印象付けます。
ホームズ・シリーズには、多くの印象深い女性が登場します。「四つの署名」のメアリ・モースタン、ワトソン妻ですね。パスティーシュ、パロディでも大人気の不二子ちゃん的存在「ボヘミアの醜聞」のアイリーン・アドラー、「まだらの紐」のヘレン・ストーナー、こちらも継父が娘の財産を狙う話でした。「ぶな屋敷」のヴァイオレット・ハンター、「孤独な自転車乗り」のヴァイオレット・スミス、「ソア橋」のグレイス・ダンバーその他たくさん。
私的には行方不明の夫の捜索でホームズの世話をする「唇のねじれた男」のセント・クレア夫人も、聡明で、愛嬌があって感じがいいと思ってます。
その中でも巨体でハデハデしく純粋なワーキングウーマン、メアリ・サザーランドは異彩を放っていますね。ホームズ・シリーズの出演者としていないと困る、みたいな。パロディにぜひ出演して欲しいですね。
この話はスケールこそ小さいものの、ドイルの細かい仕掛け、設定も見えて、良き一篇の物語、といった色合いがありますね。
3月書評の1
映画はアッバス・キアロスタミ特集で「友だちの家はどこ?」を観た。大人たちに翻弄される8歳の男の子。思ったほど感動を呼ぶものではないけも、ラストが小憎らしい。先にチケットを買ってミナミの天狼院書店に行ってランチした。
◼️泉鏡花「龍潭譚」
鏡の向こうを覗いているかのような異界。
文学史の本で異界の話として知り、読んでみた。泉鏡花はやはり「高野聖」の怪しく美しいイメージが強い。今回は倒錯的なテイストのある異界。神隠しの物語と言われているようだ。
少年・ちさとは1人で山へ出かける。一面に夥しい躑躅またツツジが紅に咲き誇っていた。すれ違いざま薪を担いだ男が「危ないぞ」と言う。ちさとは羽虫を見つけ追ううちに道に迷う。
ふと子どもの声が聞こえてそちらに行ったちさとは神社の境内でかくれんぼに誘われ、鬼になる。目をつぶっているうちに子どもたちはいなくなる。女が来て、社の裏の穴ぐらへ案内する。やがて四つ足の魔物の気配を感じ、穴へ隠れ震える。外では家の下男や、優しい姉が探しに来たような声がしているが、ちさとは魔物の誘いだと思い出て行かない。しかしやはり姉を恋しく思い後を追いかけるが行ってしまった。
神社の手洗いで水に映した自分の顔に驚くちさと。顔は異形となっていた。姉が来て、人違いだった、と言って去る。
泣きながら追いかけたちさとは大きな沼に突き当たり、気を失う。
気がついてみると、女がいる家で布団に寝ていた。大変な毒虫、ハンミョウに触れて顔が変わっていたのだ、姉が間違えるのも無理はない、じっと寝ておいでと言う女は、添い寝をして乳房をちさとに含ませる。かつて姉は許してくれなかった。ちさとが外の暴風の音に怖気付くと、女は胸の上に短刀を置いて寝た。
ちさとは添い寝している女に幼い頃亡くした母の面影を見て触ろうとするが幻かのように女にさわることがでにない。短刀を手で引くと刃が女を傷つけ夥しい血の海に。しかし押さえたちさとの手に血の色はつかず、よく見ると赤い絹の着物だった。
目が覚めると女の家の爺に背負われていた。あの沼へ来て、爺はちさとを舟に乗せて漕ぎ出す。岸で見送る女の顔がくるくる廻る。爺はちさとを家のそばに置いて帰った。
いきなり叔父に捕えられ、家の中で柱に縛られたちさと。悪魔に憑かれたような異形となり、医者にも診てもらったがまともに扱われず、親しかった友だちにさえ、さらわれものの、狐つきとののしられ、石を投げられる。優しい姉も憎らしく思えて暴れるちさと。寺で多くの層に誦経してもらう。嵐の中、姉は襟を開いてちさとを胸にかき抱くー。
古語の中、話し言葉のセリフにハッとする。よく解読できないせいか、泉鏡花の作品は、まるで湯気で曇ったガラスを通してようやく見える光景のようで、なおかつ異様にきれいで印象的だったりする。
異界はすでに一面のツツジの紅から始まっている。光沢のあるハンミョウ、毒、不思議な稲荷の社、消える子ども、四つ足の魔物、現れたり消えたりする姉、異形、不思議な女の肉体、刃、流れる血と真紅の着物。妙によそよそしく敵意のあるふるさと、嵐・・。
これでもかとばかり異界を作り出し倒錯的なニュアンスを散りばめる。終わりだけあっさりめ。鏡花ワールド全開の一篇を楽しんだ。
◼️「日本文学の見取り図
宮崎駿から古事記まで」
読みながら作家・作品の流れと相似点、相違点に感応する。ふくらみを実感した。
前半は日本文学で表現されてきた概念、モチーフについてジャンル別、総括的に述べていく。時代を超えたメディア、異界、ジェンダー、戦争、旅について、続いて古典の和歌、物語、芸能、国学、近現代では恋愛、子ども、探偵小説・・なにせ日本文学の見取り図である。切り口はたくさんある。前半だけでも上下巻くらいの研究書になりそうな雰囲気である。
「メディア」には作家にとっての貧困期、逆に売り手市場としての時代の変遷が描かれる。ふむふむ。「異界」とても惹かれる。泉鏡花「龍潭譚」チェック。「楢山節考」「砂の女」「猫町」読んだなあ。
「絵画」では17世紀末、日本初の女性絵本作家・居初(いそめ)つなの紹介がある。作品を見てみたくなる。
そしてタイトル通り宮崎駿、村上春樹、多和田葉子、川上弘美といった現代作家、文豪時代の近代作家、そして江戸時代から古事記の古典文学作品75項目、特徴と最新の研究情報がずらりと並んでいる後半。楽しめましたねー。
後半は現代から古代へ、歴史教科書、文学史とは逆に並んでいて斬新。ゲームでいうとラスボスが古事記。これはこれで、古典の重みがさらに増す雰囲気でおもしろい。
現代作家は深く探求したことはない。最近興味を持っている多和田葉子やなじみの薄い作家さんたちの捉え方、情報は興味深い。文学史的に人で区切って解説してあるのは新鮮だった。
文豪たちはここ数年手を伸ばして読んでいる。既読作品についての再評価、未読作品の興味喚起などなかなかワクワクするが、明治期から昭和期からの流れを改めて眺めると、それぞれの特質もまた見えて来る。俳句の正岡子規の客観写生に興味が湧く。たまたま本友が孫弟子とも言える高野素十の俳句に感銘を受けた、とLINEで言ってきたりして楽しい。私も万葉集好きだよシキさん。
・リービ英雄「星条旗の聞こえない部屋」
「千々にくだけて」
「模範郷」
・多和田葉子
「エクソフォニー 母語の外へ出る旅」
「地球にちりばめられて」
「星に仄めかされて」
・坂口安吾「道鏡」
「明治開化 安吾捕物」
などなどメモする。
いわゆる古典。江戸期から遡っていく。まだそんなに触れていないから近松、西鶴にも詳しくなりたい。雨月物語、記憶を探る、いいですねー。能の謡曲には興味があっていくつか読んだ。「風姿花伝」。芸能事始め。聖徳太子と秦河勝。まあ疑義はあるだろうけれど。太子が秦氏に与えたという日本最古とされる仏像を観に行ったなあ。
さらに遡る。古今和歌集、やまと歌は、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなりにける。
その後の文の解説が詳しい。力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ・・浸ります。礼楽思想、詩は口にするもの。論語かなにかで読んだ覚えがある。祖母がよく百人一首を独特の節をつけて詠じていた。
平安末期、最近読んだ大鏡。源氏物語、枕草子。中宮定子と彰子、きぱっとした有能な清少納言と紫式部、和泉式部、赤染衛門といったそうそうたるメンバーが思い浮かぶ。さらに金字塔ともいえる伊勢物語、在原業平は永遠のヒーロー。そして竹取物語。ノータッチだった和漢朗詠集、菅家文草にも興味。
万葉集、日本書紀、古事記で大団円を迎えると「読み切った」意識が高揚して満足感が。
やはり学者さんの論なので難解なところもある。しかし研究視点も参考になった。
通常の文学史の本では1人の作家に深堀りがなされてないケースが多いけれども、がっちりと網羅的に並ぶと作家個人の理解とは別に、時代や、書くもののテイストの流れが見える。また断片的に得てきた知識がつながり、心がふくらむような感覚にとらわれる。
文学史、勉強しました!
◼️泉鏡花「龍潭譚」
鏡の向こうを覗いているかのような異界。
文学史の本で異界の話として知り、読んでみた。泉鏡花はやはり「高野聖」の怪しく美しいイメージが強い。今回は倒錯的なテイストのある異界。神隠しの物語と言われているようだ。
少年・ちさとは1人で山へ出かける。一面に夥しい躑躅またツツジが紅に咲き誇っていた。すれ違いざま薪を担いだ男が「危ないぞ」と言う。ちさとは羽虫を見つけ追ううちに道に迷う。
ふと子どもの声が聞こえてそちらに行ったちさとは神社の境内でかくれんぼに誘われ、鬼になる。目をつぶっているうちに子どもたちはいなくなる。女が来て、社の裏の穴ぐらへ案内する。やがて四つ足の魔物の気配を感じ、穴へ隠れ震える。外では家の下男や、優しい姉が探しに来たような声がしているが、ちさとは魔物の誘いだと思い出て行かない。しかしやはり姉を恋しく思い後を追いかけるが行ってしまった。
神社の手洗いで水に映した自分の顔に驚くちさと。顔は異形となっていた。姉が来て、人違いだった、と言って去る。
泣きながら追いかけたちさとは大きな沼に突き当たり、気を失う。
気がついてみると、女がいる家で布団に寝ていた。大変な毒虫、ハンミョウに触れて顔が変わっていたのだ、姉が間違えるのも無理はない、じっと寝ておいでと言う女は、添い寝をして乳房をちさとに含ませる。かつて姉は許してくれなかった。ちさとが外の暴風の音に怖気付くと、女は胸の上に短刀を置いて寝た。
ちさとは添い寝している女に幼い頃亡くした母の面影を見て触ろうとするが幻かのように女にさわることがでにない。短刀を手で引くと刃が女を傷つけ夥しい血の海に。しかし押さえたちさとの手に血の色はつかず、よく見ると赤い絹の着物だった。
目が覚めると女の家の爺に背負われていた。あの沼へ来て、爺はちさとを舟に乗せて漕ぎ出す。岸で見送る女の顔がくるくる廻る。爺はちさとを家のそばに置いて帰った。
いきなり叔父に捕えられ、家の中で柱に縛られたちさと。悪魔に憑かれたような異形となり、医者にも診てもらったがまともに扱われず、親しかった友だちにさえ、さらわれものの、狐つきとののしられ、石を投げられる。優しい姉も憎らしく思えて暴れるちさと。寺で多くの層に誦経してもらう。嵐の中、姉は襟を開いてちさとを胸にかき抱くー。
古語の中、話し言葉のセリフにハッとする。よく解読できないせいか、泉鏡花の作品は、まるで湯気で曇ったガラスを通してようやく見える光景のようで、なおかつ異様にきれいで印象的だったりする。
異界はすでに一面のツツジの紅から始まっている。光沢のあるハンミョウ、毒、不思議な稲荷の社、消える子ども、四つ足の魔物、現れたり消えたりする姉、異形、不思議な女の肉体、刃、流れる血と真紅の着物。妙によそよそしく敵意のあるふるさと、嵐・・。
これでもかとばかり異界を作り出し倒錯的なニュアンスを散りばめる。終わりだけあっさりめ。鏡花ワールド全開の一篇を楽しんだ。
◼️「日本文学の見取り図
宮崎駿から古事記まで」
読みながら作家・作品の流れと相似点、相違点に感応する。ふくらみを実感した。
前半は日本文学で表現されてきた概念、モチーフについてジャンル別、総括的に述べていく。時代を超えたメディア、異界、ジェンダー、戦争、旅について、続いて古典の和歌、物語、芸能、国学、近現代では恋愛、子ども、探偵小説・・なにせ日本文学の見取り図である。切り口はたくさんある。前半だけでも上下巻くらいの研究書になりそうな雰囲気である。
「メディア」には作家にとっての貧困期、逆に売り手市場としての時代の変遷が描かれる。ふむふむ。「異界」とても惹かれる。泉鏡花「龍潭譚」チェック。「楢山節考」「砂の女」「猫町」読んだなあ。
「絵画」では17世紀末、日本初の女性絵本作家・居初(いそめ)つなの紹介がある。作品を見てみたくなる。
そしてタイトル通り宮崎駿、村上春樹、多和田葉子、川上弘美といった現代作家、文豪時代の近代作家、そして江戸時代から古事記の古典文学作品75項目、特徴と最新の研究情報がずらりと並んでいる後半。楽しめましたねー。
後半は現代から古代へ、歴史教科書、文学史とは逆に並んでいて斬新。ゲームでいうとラスボスが古事記。これはこれで、古典の重みがさらに増す雰囲気でおもしろい。
現代作家は深く探求したことはない。最近興味を持っている多和田葉子やなじみの薄い作家さんたちの捉え方、情報は興味深い。文学史的に人で区切って解説してあるのは新鮮だった。
文豪たちはここ数年手を伸ばして読んでいる。既読作品についての再評価、未読作品の興味喚起などなかなかワクワクするが、明治期から昭和期からの流れを改めて眺めると、それぞれの特質もまた見えて来る。俳句の正岡子規の客観写生に興味が湧く。たまたま本友が孫弟子とも言える高野素十の俳句に感銘を受けた、とLINEで言ってきたりして楽しい。私も万葉集好きだよシキさん。
・リービ英雄「星条旗の聞こえない部屋」
「千々にくだけて」
「模範郷」
・多和田葉子
「エクソフォニー 母語の外へ出る旅」
「地球にちりばめられて」
「星に仄めかされて」
・坂口安吾「道鏡」
「明治開化 安吾捕物」
などなどメモする。
いわゆる古典。江戸期から遡っていく。まだそんなに触れていないから近松、西鶴にも詳しくなりたい。雨月物語、記憶を探る、いいですねー。能の謡曲には興味があっていくつか読んだ。「風姿花伝」。芸能事始め。聖徳太子と秦河勝。まあ疑義はあるだろうけれど。太子が秦氏に与えたという日本最古とされる仏像を観に行ったなあ。
さらに遡る。古今和歌集、やまと歌は、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなりにける。
その後の文の解説が詳しい。力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ・・浸ります。礼楽思想、詩は口にするもの。論語かなにかで読んだ覚えがある。祖母がよく百人一首を独特の節をつけて詠じていた。
平安末期、最近読んだ大鏡。源氏物語、枕草子。中宮定子と彰子、きぱっとした有能な清少納言と紫式部、和泉式部、赤染衛門といったそうそうたるメンバーが思い浮かぶ。さらに金字塔ともいえる伊勢物語、在原業平は永遠のヒーロー。そして竹取物語。ノータッチだった和漢朗詠集、菅家文草にも興味。
万葉集、日本書紀、古事記で大団円を迎えると「読み切った」意識が高揚して満足感が。
やはり学者さんの論なので難解なところもある。しかし研究視点も参考になった。
通常の文学史の本では1人の作家に深堀りがなされてないケースが多いけれども、がっちりと網羅的に並ぶと作家個人の理解とは別に、時代や、書くもののテイストの流れが見える。また断片的に得てきた知識がつながり、心がふくらむような感覚にとらわれる。
文学史、勉強しました!
2月書評の7
バレンタインはオレンジペースト入り板チョコと、チョコケーキ。ちょこちょこと、時間かけて食べました。
2月はwebも多くて13作品10冊。そこそこおもしろくて、今年も楽しく読めてるなという感じかなっ。
◼️ 大島真寿美「渦 妹背山婦女庭訓 魂結び」
「渦」の意味。勢いと熱さのある操人形浄瑠璃の創作、大阪は道頓堀の物語。関西弁がにぎにぎしい。
直木賞作品は定期的に読んでいる。今回は人形浄瑠璃の話。私のちょいちょいと知っていた知識も、渦に巻き込まれた感じ、というのは僭越すぎるか。
近松半二、近松門左衛門と姻戚関係はまるでない。父親が人形浄瑠璃座のなじみで、近松門左衛門から贈られたという硯を渡され、近松を勝手に名乗った台本の作者。
幼い頃から芝居小屋が立ち並ぶ道頓堀に父に連れられて通い詰め、好きが高じて学問もせず、母に疎まれて家を出、京都で修行を始める。やがて高名な狂言作者となる同年代の並木正三らと刺激し合い、稀代の人形使い、吉田文三郎に揉まれ、その失脚と死を経て成長する。やがて操人形浄瑠璃は歌舞伎に押されて行き、一座を支えていた半二は、大作「妹背山婦女庭訓」を書き始めるー。
立板に水の関西弁。すばらしいテンポとにぎにぎしさ、関西在住者にはその適切さというか違和感なさすぎるところがまた小憎らしい。
半二の兄との婚約を反故にされ、奈良・三輪の里に嫁いだ幼ななじみのお末を訪ね、その境遇と思い、そして奈良の地に触れ天啓を得る。きっかけはなんと夜に浮かんだ赤いオーロラ。そして「妹背山婦女庭訓」を書いている途上、お末の消息がもたらされ、半二の意識の中に、お三輪という娘が現れる。
「妹背山婦女庭訓」を知ったのは最近で、谷崎潤一郎の「吉野葛」だったかと思う。作中で谷崎と目される男は吉野から熊野の山中を歩き回る。そしてかつてここに来たとき、母から「お前、妹背山の芝居を覚えているだろう?あれがほんとうの妹背山なんだとさ」とささやかれたことを思い出す。吉野は義経千本桜などもあり、歴史上の要地でもあり、多くの芝居の舞台なんだなあと読んだ当時は啓発されたものだった。
お末はまた、ご神体を三輪山とする日本一古い神社、大神(おおみわ)神社の里に嫁いだ。山の辺の道があり、大物主大神(おおものぬしのおおかみ)と倭迹迹日百襲姫(やまとととびももそひめ)の蛇伝説も有名。雰囲気を感じる土地だ。創作者の感覚に訴えるものもきっとあるんだろうと思う。
もうひとつ、「渦」の意味の一環。美人画の上村松園に影響されて能の謡曲を調べた時、あれ、これは歌舞伎や浄瑠璃でも聞いたことあるような?という演目がけっこうあった。そんなもんなのかな、と受け止めていたけれど、芝居小屋立ち並ぶ道頓堀の渦の下りを読んでストンと納得がいった。
にぎにぎしい関西弁、人情や仲間意識、想像できるにぎわしさ。
自分が大阪で社会人を始めた部署は皆でひとつの仕事にかかる所帯で、日常の行動も、老いから若きまでのメンバーが一緒の事が多く、なにかあれば、なんやねん、話してみい、そうなん、待て待て、ホンマか!となる、当時でも珍しいところだった。道頓堀仲間の騒がしさに懐かしい気持ちさえ抱いてしまった。関西の人はクセのある人ともうまあく柔らかく付き合っていく。半二と歳の離れた文三郎との関係にそんなところを見たりする。
「妹背山婦女庭訓」は蘇我入鹿や天智天皇、藤原不比等といった豪華キャストでファンタジーのような大河ドラマが展開され、後段は町娘、お三輪が主役となる。そしてファンタジー完結。なかなか複雑かつ壮大なドラマのようだ。
どこかで見てみたいな、と。また三輪山は訪ね登ったこともあるけれど、吉野はまだ未踏。妹山、背山を見に行こうかという気にさせられる。
奈良・吉野への旅の帰途、半二は道頓堀を自分が帰るところと定め恋しさを募らせる。読み手もそれはどこだろうか、と立ち止まって考える。大きな意味で、人生も渦。今に演じ継がれる作品と、芝居小屋や界隈の雰囲気、ほどよい妖気、なにより半二や正三のエネルギーが勢いがあり、美しくおもしろい。
関西弁で似たような流れの物語はあるが、今回は清々しさまで感じた。そんなひと品でした。
◼️ 椹野道流
「最後の晩ごはん 初恋と鮭の包み焼き」
地元ものラノベとホロリとする私。うまく泣かせてくれる。
このシリーズは若い頃に住んでいた付近が舞台で地理もよく分かるし、実在の店が出てきたりするので気に入っている。が、しばらく離れててストーリーがちょっと飛んじゃっている。シリーズものそういうの多数笑。
元アイドル俳優の五十嵐海里は兵庫・芦屋市の「ばんめし屋」で修行する身。大らかな店主の夏神とメガネの精で英国紳士風の姿に変身し店を手伝うロイドと暮らしている。
地元の先生と朗読劇に取り組む海里は不実な夫という役柄を理解できず悩む。解決のため、「ばんめし屋」の常連で朗読する話を書いた有名作家・淡海の取材に同行させてもらう。その際、ロイドが、淡海の愛する妹・純佳の霊の気配が消えていることに気づく。
料理、愛情、そしてネタは幽霊、というパターンの話。海里の母、兄や義姉も微妙にからむ。
今回は特に純佳が消える理由と淡海の心の持ちようが中心になる。死んだら消える、何もなくなる。基本はコミカルな展開ながらこのシリーズの霊の中にもコミュニケーションじたいが難しい場合もある。淡海はかなり幸せな、読み手には羨ましかったりするケースだったりもする、だが、だからこそ終わりが来る、と。
そのくだりはメロメロのメロドラマだったりするわけなのだけれど、やはりホロリとさせられる。
様々なジャンルの本を読む中で、ラノベにはホッとしちゃう部分もやっぱりあるんだな。豚ロース肉のはちみつ焼きと、地元のスイーツに惹かれたな。買いに行くぞっと。
2月はwebも多くて13作品10冊。そこそこおもしろくて、今年も楽しく読めてるなという感じかなっ。
◼️ 大島真寿美「渦 妹背山婦女庭訓 魂結び」
「渦」の意味。勢いと熱さのある操人形浄瑠璃の創作、大阪は道頓堀の物語。関西弁がにぎにぎしい。
直木賞作品は定期的に読んでいる。今回は人形浄瑠璃の話。私のちょいちょいと知っていた知識も、渦に巻き込まれた感じ、というのは僭越すぎるか。
近松半二、近松門左衛門と姻戚関係はまるでない。父親が人形浄瑠璃座のなじみで、近松門左衛門から贈られたという硯を渡され、近松を勝手に名乗った台本の作者。
幼い頃から芝居小屋が立ち並ぶ道頓堀に父に連れられて通い詰め、好きが高じて学問もせず、母に疎まれて家を出、京都で修行を始める。やがて高名な狂言作者となる同年代の並木正三らと刺激し合い、稀代の人形使い、吉田文三郎に揉まれ、その失脚と死を経て成長する。やがて操人形浄瑠璃は歌舞伎に押されて行き、一座を支えていた半二は、大作「妹背山婦女庭訓」を書き始めるー。
立板に水の関西弁。すばらしいテンポとにぎにぎしさ、関西在住者にはその適切さというか違和感なさすぎるところがまた小憎らしい。
半二の兄との婚約を反故にされ、奈良・三輪の里に嫁いだ幼ななじみのお末を訪ね、その境遇と思い、そして奈良の地に触れ天啓を得る。きっかけはなんと夜に浮かんだ赤いオーロラ。そして「妹背山婦女庭訓」を書いている途上、お末の消息がもたらされ、半二の意識の中に、お三輪という娘が現れる。
「妹背山婦女庭訓」を知ったのは最近で、谷崎潤一郎の「吉野葛」だったかと思う。作中で谷崎と目される男は吉野から熊野の山中を歩き回る。そしてかつてここに来たとき、母から「お前、妹背山の芝居を覚えているだろう?あれがほんとうの妹背山なんだとさ」とささやかれたことを思い出す。吉野は義経千本桜などもあり、歴史上の要地でもあり、多くの芝居の舞台なんだなあと読んだ当時は啓発されたものだった。
お末はまた、ご神体を三輪山とする日本一古い神社、大神(おおみわ)神社の里に嫁いだ。山の辺の道があり、大物主大神(おおものぬしのおおかみ)と倭迹迹日百襲姫(やまとととびももそひめ)の蛇伝説も有名。雰囲気を感じる土地だ。創作者の感覚に訴えるものもきっとあるんだろうと思う。
もうひとつ、「渦」の意味の一環。美人画の上村松園に影響されて能の謡曲を調べた時、あれ、これは歌舞伎や浄瑠璃でも聞いたことあるような?という演目がけっこうあった。そんなもんなのかな、と受け止めていたけれど、芝居小屋立ち並ぶ道頓堀の渦の下りを読んでストンと納得がいった。
にぎにぎしい関西弁、人情や仲間意識、想像できるにぎわしさ。
自分が大阪で社会人を始めた部署は皆でひとつの仕事にかかる所帯で、日常の行動も、老いから若きまでのメンバーが一緒の事が多く、なにかあれば、なんやねん、話してみい、そうなん、待て待て、ホンマか!となる、当時でも珍しいところだった。道頓堀仲間の騒がしさに懐かしい気持ちさえ抱いてしまった。関西の人はクセのある人ともうまあく柔らかく付き合っていく。半二と歳の離れた文三郎との関係にそんなところを見たりする。
「妹背山婦女庭訓」は蘇我入鹿や天智天皇、藤原不比等といった豪華キャストでファンタジーのような大河ドラマが展開され、後段は町娘、お三輪が主役となる。そしてファンタジー完結。なかなか複雑かつ壮大なドラマのようだ。
どこかで見てみたいな、と。また三輪山は訪ね登ったこともあるけれど、吉野はまだ未踏。妹山、背山を見に行こうかという気にさせられる。
奈良・吉野への旅の帰途、半二は道頓堀を自分が帰るところと定め恋しさを募らせる。読み手もそれはどこだろうか、と立ち止まって考える。大きな意味で、人生も渦。今に演じ継がれる作品と、芝居小屋や界隈の雰囲気、ほどよい妖気、なにより半二や正三のエネルギーが勢いがあり、美しくおもしろい。
関西弁で似たような流れの物語はあるが、今回は清々しさまで感じた。そんなひと品でした。
◼️ 椹野道流
「最後の晩ごはん 初恋と鮭の包み焼き」
地元ものラノベとホロリとする私。うまく泣かせてくれる。
このシリーズは若い頃に住んでいた付近が舞台で地理もよく分かるし、実在の店が出てきたりするので気に入っている。が、しばらく離れててストーリーがちょっと飛んじゃっている。シリーズものそういうの多数笑。
元アイドル俳優の五十嵐海里は兵庫・芦屋市の「ばんめし屋」で修行する身。大らかな店主の夏神とメガネの精で英国紳士風の姿に変身し店を手伝うロイドと暮らしている。
地元の先生と朗読劇に取り組む海里は不実な夫という役柄を理解できず悩む。解決のため、「ばんめし屋」の常連で朗読する話を書いた有名作家・淡海の取材に同行させてもらう。その際、ロイドが、淡海の愛する妹・純佳の霊の気配が消えていることに気づく。
料理、愛情、そしてネタは幽霊、というパターンの話。海里の母、兄や義姉も微妙にからむ。
今回は特に純佳が消える理由と淡海の心の持ちようが中心になる。死んだら消える、何もなくなる。基本はコミカルな展開ながらこのシリーズの霊の中にもコミュニケーションじたいが難しい場合もある。淡海はかなり幸せな、読み手には羨ましかったりするケースだったりもする、だが、だからこそ終わりが来る、と。
そのくだりはメロメロのメロドラマだったりするわけなのだけれど、やはりホロリとさせられる。
様々なジャンルの本を読む中で、ラノベにはホッとしちゃう部分もやっぱりあるんだな。豚ロース肉のはちみつ焼きと、地元のスイーツに惹かれたな。買いに行くぞっと。
2月書評の6
美術館でもらってきた京都国立近代美術館の岸田劉生展のチラシでブックカバー。チラシはなかなかイケるな。
三宮のバスケショップ行ってきた。そこまで広くはないけれど大人気。楽しかった。バッソクとTシャツ買いましたー。
◼️ 橋本治 宮下規久朗
「モディリアーニの恋人」
アメデオとジャンヌ。モディリアーニの絵って、そっけないけど、忘れられない個性と暖かさがあるよね。ヘタウマにも見えるけど^_^
先日新しくオープンした大阪・中之島美術館のオープニング・コレクション展に行ってきた。ここはモディリアーニのヌード作品「髪をほどいた横たわる裸婦」を所蔵している。そして春にはモディリアーニ展を開催する。
興味を持っていたところ、先に読んだ川端康成の本に、モディリアーニの恋人ジャンヌ・エビュテルヌのことが出てきて、調べたらジャンヌは刺してくるような目ヂカラの強い美少女、そして画家と悲劇のカップルだという。図書館検索で引っかかったこの本を借りてきた。川端先生さま、ありがとうございます。
さて、100ページ少しと厚くはない本だけれど、モディリアーニの入門編としては大変充実していた。満足。
ジャンヌ・エビュテルヌのことは後半に出てくる。多くは専門家の学者さんによるモディリアーニの特徴と、変遷の手ほどきだ。
イタリアのトスカ地方に生まれたアメデオ・モディリアーニは大病を患った後、16歳の時に転地療養として、母とイタリア各地を旅行する。ローマ、ナポリ、フィレンツェ、ヴェネツィアなどの教会、美術館で多くの古典作品に触れた。
1906年、21歳でパリに出たモディリアーニはピカソ、スーチン、キスリング、ユトリロ、さらにコクトーなどエコール・ド・パリの時期に集ったほとんどの芸術家、文人らと知り合いになった。セザンヌや、ピカソのブルーピリオド(青の時代)の特徴が初期の作品には見られる。アフリカのプリミティブ・アートにもインパクトを受け、一時期は絵を描かずに彫刻でカリアティード(女像柱)を造った。
やがて絵画に復帰したモディリアーニはキュビズムの影響も受けつつ、誰もが知るスタイルに近づいていった。人物像にこだわるモディリアーニに画商が裸体画を勧め、1916年からヌードを描く。
実際観てきたけれど、モディリアーニのヌード作品は、我々が認識している彼の作風とはまた別で、曲線は魅惑的で表情、身体ともに力強く肉感的、何かのパワーを強く放射する。
そしてこの年、画学生ジャンヌ・エビュテルヌと出会う。18歳だったジャンヌは14歳も年上の画家と恋に落ちた。モディリアーニの有名な女性像の多くはジャンヌがモデルのようだ。
ジャンヌはモディリアーニの娘を生む。しかし2人の幸せな時間は短く、1920年1月、体調を崩していたアメデオ・モディリアーニは急に35歳の生涯を閉じ、その2日後、2人めの子どもを身籠もっていたジャンヌは飛び降り自殺したー。
モディリアーニの死後、作品の価値は急騰した。ロマンスと悲劇、ハンサムな画家と美少女、退廃したエコール・ド・パリの生活、などが強調されたのは画商の戦術とも言われる。解説では、太宰治によく似ている現象となぞらえているのが興味深い。
モディリアーニといえば、首が長くて瓜実顔の婦人の肖像が思い浮かぶ。瞳が無いのは、実はモディリアーニだけに特徴的なのではないし、瞳のある作品もたくさん描いているそうだ。
瞳のあるジャンヌの絵はそれはそれでまたすごく魅力的である。
モディリアーニの全作品を鑑定しカタログ・レゾネを作成した、人呼んで「ミスター・モディリアーニ」さんのインタビューも掲載されている。アフリカ、アジア、オセアニアのプリミティブ・アートと西洋美術の伝統を融合し作品には昇華させたのだそうだ。本作を読み進めた上でこの言葉を咀嚼すると腑に落ちる気がする。
たくさんいる画家の中で、ひと目で分かる個性を備えている者は本当にすばらしいと思う。クリムトやローランサン、もちろんピカソ。マティスも好きだ。モディリアーニにもさまざまな背景があると分かったけれど、モディリアーニのそれは最終的に天才が得た啓示のようなものかとも思う。
モディリアーニはモディリアーニ、という他には無いブランドなのだと納得したい自分がいる。
多少知識がつくと、作家と作品がぐっと身近に感じられる。ボッティチェリのヴィーナスを髣髴とさせるという、ゆるやかな曲線の「ジャンヌ・エビュテルヌの肖像」は倉敷の大原美術館で観ているはずだが覚えてない泣。大山崎の山荘美術館にある「少女の肖像(ユゲット)」をすぐにでも観に行きたい気になってきた。
1歳2カ月で両親に先立たれたアメデオとジャンヌの娘、ジャンヌ・モディリアーニは父の姉マルゲリータのもとで育てられ、成長して美術の研究に携わり「モディリアニ」という本を上梓している。日本でも翻訳出版されているから、ぜひ読んでみたいなあ。古本屋を探そうかな。
◼️ 富岡幸一郎「川端康成 魔界の文学」
川端の作品に浸る、幸せな時間。
川端康成やシェイクスピアはどこかで触れていたい創作者さん。去年の年始に研究したりしたのもあり、全集以外はおおかた読んで、点数も多かった所蔵品のコレクション展にも行って、少し川端にはブランクがあった。
タイトル通り、「魔界」をキーワードに各年代の代表作をひもといていく。敗戦と戦時中に読んでいた「源氏物語」、生い立ちと「十六歳の日記」そして「伊豆の踊子」、新感覚派と呼ばれた頃の「浅草紅団」、戦前から戦中戦後の「雪国」、戦後文学事始め、人により近代最高の文学作品とも評価される「山の音」、茶道の茶碗がポイントともなる「千羽鶴」「波千鳥」の連作。さらに、主人公が下卑ているようにも見える作品で、ヒステリックな批評の声さえあったという「みづうみ」、「眠れる美女」、「片腕」、絶筆の「たんぽぽ」まで。
こうして見ると、特に戦後からかなり魔界と呼ぶにふさわしく、妖しくなっていくように思えるな。
ところどころで1つの中心を成しているのは、ノーベル文学賞の受賞講演を収録した「美しい日本の私」である。
先に書くと、書評にはこれまでの評論をなぞっただけとか、厳しめの意見もあった。まあ私も、言い切りの多さ、やや大げさな表現には違和感もあった。やはり評論より川端の文章そのものを見つめている方が楽しいなと。
しかし、ほとんど既読の代表作の文章引用や捉え方、背景などを順に追っていき、執筆時はどのような時代で作風はこうで、随筆にはこのように書いている、などという展開を読んでいると読んだ作品の内容とその際の心持ちを思い出して楽しくなった。
また「無」の捉え方、おそらくは西洋的価値観を信用しない姿勢など敗戦時、日本古来のかなしみにかえっていくばかりと書いた川端の考えが垣間見えてふむ・・と考え込む。
はっきりと書かない、ということもあり、煙に巻くような表現もあり、ストーリーの組み立て方の性質もあり、川端康成の作品には川端でしか味わえないような、不思議な世界が描かれる。ただ研究者というわけでもない私にとっては、何が魔界かと言えば、結婚直前まで行っていながら破綻した元女給初代との経緯であり、「伊豆の踊子」の清々しさとラストの不思議さ加減であり、「雪国」の恐ろしいほどの冴えであり、「古都」の刹那的な美しさだ。
「山の音」には本当に感服した。あの唐突な能面のシーンや新宿公園の菊子の描写は本当に素晴らしい。
戦後の作品はやはり敗戦により流入してくる文化的な変動に対して人外のところでうごめいている因縁のようなイメージの創作が多いと思う。それはやはり「源氏物語」に連なるものだと思う。
文章の美しさ、そして独特のなにか言葉で表し難いもの、頭で考えたように思えるのにどこか湧き上がってきたように感じられる巧みな設定など、川端はやはり特別だ。
個人的には「美しさと哀しみと」などにあるようなしっとりとした女の恋心の描写も抜群だと思ってしまう。
西洋の虚無とは違う日本の「無」、日本古来のかなしみ・・まだ川端康成で実感として掴んでみたいキーワードは多い。
一方で「美しい日本の私」で川端は、中国の文化を受け入れこなして平安王朝の美を生み出した日本人は明治百年で西洋文化を受け入れ、王朝に比べられるような美、文化を果たして世界に向けて生み出せるのか、期待感をも表している。新しい日本の文学とは何か?
まだまだ川端シンドローム。大好きやね。また未読のもの探して読みたいな。
三宮のバスケショップ行ってきた。そこまで広くはないけれど大人気。楽しかった。バッソクとTシャツ買いましたー。
◼️ 橋本治 宮下規久朗
「モディリアーニの恋人」
アメデオとジャンヌ。モディリアーニの絵って、そっけないけど、忘れられない個性と暖かさがあるよね。ヘタウマにも見えるけど^_^
先日新しくオープンした大阪・中之島美術館のオープニング・コレクション展に行ってきた。ここはモディリアーニのヌード作品「髪をほどいた横たわる裸婦」を所蔵している。そして春にはモディリアーニ展を開催する。
興味を持っていたところ、先に読んだ川端康成の本に、モディリアーニの恋人ジャンヌ・エビュテルヌのことが出てきて、調べたらジャンヌは刺してくるような目ヂカラの強い美少女、そして画家と悲劇のカップルだという。図書館検索で引っかかったこの本を借りてきた。川端先生さま、ありがとうございます。
さて、100ページ少しと厚くはない本だけれど、モディリアーニの入門編としては大変充実していた。満足。
ジャンヌ・エビュテルヌのことは後半に出てくる。多くは専門家の学者さんによるモディリアーニの特徴と、変遷の手ほどきだ。
イタリアのトスカ地方に生まれたアメデオ・モディリアーニは大病を患った後、16歳の時に転地療養として、母とイタリア各地を旅行する。ローマ、ナポリ、フィレンツェ、ヴェネツィアなどの教会、美術館で多くの古典作品に触れた。
1906年、21歳でパリに出たモディリアーニはピカソ、スーチン、キスリング、ユトリロ、さらにコクトーなどエコール・ド・パリの時期に集ったほとんどの芸術家、文人らと知り合いになった。セザンヌや、ピカソのブルーピリオド(青の時代)の特徴が初期の作品には見られる。アフリカのプリミティブ・アートにもインパクトを受け、一時期は絵を描かずに彫刻でカリアティード(女像柱)を造った。
やがて絵画に復帰したモディリアーニはキュビズムの影響も受けつつ、誰もが知るスタイルに近づいていった。人物像にこだわるモディリアーニに画商が裸体画を勧め、1916年からヌードを描く。
実際観てきたけれど、モディリアーニのヌード作品は、我々が認識している彼の作風とはまた別で、曲線は魅惑的で表情、身体ともに力強く肉感的、何かのパワーを強く放射する。
そしてこの年、画学生ジャンヌ・エビュテルヌと出会う。18歳だったジャンヌは14歳も年上の画家と恋に落ちた。モディリアーニの有名な女性像の多くはジャンヌがモデルのようだ。
ジャンヌはモディリアーニの娘を生む。しかし2人の幸せな時間は短く、1920年1月、体調を崩していたアメデオ・モディリアーニは急に35歳の生涯を閉じ、その2日後、2人めの子どもを身籠もっていたジャンヌは飛び降り自殺したー。
モディリアーニの死後、作品の価値は急騰した。ロマンスと悲劇、ハンサムな画家と美少女、退廃したエコール・ド・パリの生活、などが強調されたのは画商の戦術とも言われる。解説では、太宰治によく似ている現象となぞらえているのが興味深い。
モディリアーニといえば、首が長くて瓜実顔の婦人の肖像が思い浮かぶ。瞳が無いのは、実はモディリアーニだけに特徴的なのではないし、瞳のある作品もたくさん描いているそうだ。
瞳のあるジャンヌの絵はそれはそれでまたすごく魅力的である。
モディリアーニの全作品を鑑定しカタログ・レゾネを作成した、人呼んで「ミスター・モディリアーニ」さんのインタビューも掲載されている。アフリカ、アジア、オセアニアのプリミティブ・アートと西洋美術の伝統を融合し作品には昇華させたのだそうだ。本作を読み進めた上でこの言葉を咀嚼すると腑に落ちる気がする。
たくさんいる画家の中で、ひと目で分かる個性を備えている者は本当にすばらしいと思う。クリムトやローランサン、もちろんピカソ。マティスも好きだ。モディリアーニにもさまざまな背景があると分かったけれど、モディリアーニのそれは最終的に天才が得た啓示のようなものかとも思う。
モディリアーニはモディリアーニ、という他には無いブランドなのだと納得したい自分がいる。
多少知識がつくと、作家と作品がぐっと身近に感じられる。ボッティチェリのヴィーナスを髣髴とさせるという、ゆるやかな曲線の「ジャンヌ・エビュテルヌの肖像」は倉敷の大原美術館で観ているはずだが覚えてない泣。大山崎の山荘美術館にある「少女の肖像(ユゲット)」をすぐにでも観に行きたい気になってきた。
1歳2カ月で両親に先立たれたアメデオとジャンヌの娘、ジャンヌ・モディリアーニは父の姉マルゲリータのもとで育てられ、成長して美術の研究に携わり「モディリアニ」という本を上梓している。日本でも翻訳出版されているから、ぜひ読んでみたいなあ。古本屋を探そうかな。
◼️ 富岡幸一郎「川端康成 魔界の文学」
川端の作品に浸る、幸せな時間。
川端康成やシェイクスピアはどこかで触れていたい創作者さん。去年の年始に研究したりしたのもあり、全集以外はおおかた読んで、点数も多かった所蔵品のコレクション展にも行って、少し川端にはブランクがあった。
タイトル通り、「魔界」をキーワードに各年代の代表作をひもといていく。敗戦と戦時中に読んでいた「源氏物語」、生い立ちと「十六歳の日記」そして「伊豆の踊子」、新感覚派と呼ばれた頃の「浅草紅団」、戦前から戦中戦後の「雪国」、戦後文学事始め、人により近代最高の文学作品とも評価される「山の音」、茶道の茶碗がポイントともなる「千羽鶴」「波千鳥」の連作。さらに、主人公が下卑ているようにも見える作品で、ヒステリックな批評の声さえあったという「みづうみ」、「眠れる美女」、「片腕」、絶筆の「たんぽぽ」まで。
こうして見ると、特に戦後からかなり魔界と呼ぶにふさわしく、妖しくなっていくように思えるな。
ところどころで1つの中心を成しているのは、ノーベル文学賞の受賞講演を収録した「美しい日本の私」である。
先に書くと、書評にはこれまでの評論をなぞっただけとか、厳しめの意見もあった。まあ私も、言い切りの多さ、やや大げさな表現には違和感もあった。やはり評論より川端の文章そのものを見つめている方が楽しいなと。
しかし、ほとんど既読の代表作の文章引用や捉え方、背景などを順に追っていき、執筆時はどのような時代で作風はこうで、随筆にはこのように書いている、などという展開を読んでいると読んだ作品の内容とその際の心持ちを思い出して楽しくなった。
また「無」の捉え方、おそらくは西洋的価値観を信用しない姿勢など敗戦時、日本古来のかなしみにかえっていくばかりと書いた川端の考えが垣間見えてふむ・・と考え込む。
はっきりと書かない、ということもあり、煙に巻くような表現もあり、ストーリーの組み立て方の性質もあり、川端康成の作品には川端でしか味わえないような、不思議な世界が描かれる。ただ研究者というわけでもない私にとっては、何が魔界かと言えば、結婚直前まで行っていながら破綻した元女給初代との経緯であり、「伊豆の踊子」の清々しさとラストの不思議さ加減であり、「雪国」の恐ろしいほどの冴えであり、「古都」の刹那的な美しさだ。
「山の音」には本当に感服した。あの唐突な能面のシーンや新宿公園の菊子の描写は本当に素晴らしい。
戦後の作品はやはり敗戦により流入してくる文化的な変動に対して人外のところでうごめいている因縁のようなイメージの創作が多いと思う。それはやはり「源氏物語」に連なるものだと思う。
文章の美しさ、そして独特のなにか言葉で表し難いもの、頭で考えたように思えるのにどこか湧き上がってきたように感じられる巧みな設定など、川端はやはり特別だ。
個人的には「美しさと哀しみと」などにあるようなしっとりとした女の恋心の描写も抜群だと思ってしまう。
西洋の虚無とは違う日本の「無」、日本古来のかなしみ・・まだ川端康成で実感として掴んでみたいキーワードは多い。
一方で「美しい日本の私」で川端は、中国の文化を受け入れこなして平安王朝の美を生み出した日本人は明治百年で西洋文化を受け入れ、王朝に比べられるような美、文化を果たして世界に向けて生み出せるのか、期待感をも表している。新しい日本の文学とは何か?
まだまだ川端シンドローム。大好きやね。また未読のもの探して読みたいな。
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