金星と細い三日月🌙で底辺を作り
頂点の木星へと繋いだら縦長い直角三角形。幻想的でした。ちょっと福岡タワーを思い出したりなんかして。
神戸の三宮・元町へぶらっと。がっつりと焼売・唐揚げ定食ごはん味噌汁おかわり自由を食べ、春節祭でにぎわう南京町で甘味のごま団子。海側へ通り抜け、モダンな建築に入った小さな店舗が点在するおしゃれな裏路地・乙仲通り。味のあるビル5階の小粋な本屋、1003へ。移転後初訪問、ぐっと広くなってスッキリした配置。1冊古書を買って帰った。
休日がらみの週末はバスケ🏀の代表戦。今夏日本でも行われるワールドカップ予選最終ウインドウ。日本はイラン、バーレーンに快勝し6連勝。開催地枠で出場は決まっているが、自力でも予選突破ができた結果となった。
予選が始まった=オリンピック後の新チームが始動したころは中国にメタメタにやられてて、なんて弱いんだとガッカリしたものだが、トム・ホーバスのバスケット🏀が実践でき、新戦力も出てきてここ最近はうまくいって結果も出ている。
でもまだまだ。ワールドカップで対戦するアメリカやヨーロッパのチームはもっともっと強い。まさにこれから。夏が楽しみだ。
明日からは順調に春めいていくという。朝から小雪がチラつく中、きょうが最後の冬の日かもといっちばん厚いダウンにモフモフのブーツでお出かけ。寒かった。図書館に着いたときはその暖かさに溶ける心地がした。
もう3月やね。
◼️ 入江敦彦「テ・鉄輪」
テ・テツワではなくテ・かなわと読む。五徳を冠し丑の刻参りをする鉄輪の女。その化身か、キリという女ー。
ホラー連作短編 IN 京都 。京都修行中の身には歩いた名所が怪異の舞台となってたりして、なかなか味わい深かった。
私にとって鉄輪とは能の演目だ。観たことはないけど、画家上村松園が謡を題材にすると著書で読み、謡曲をストーリーにしたり解説したりしている本をいくつか読んだ。で、鬼好きというところから、この話は気に入っている。
鞍馬の山峡にある貴船神社の社人に夢のお告げがある。丑の刻参りをしている都の女に伝えよ、と。女は自分を捨てた夫に報いを受けさせようと遠い道のりを毎晩通ってきていたのだった。社人は真夜中に来た女に神託を伝える。三つの脚に火を灯した鉄輪(五徳)を頭にかぶるなどして怒りの心を持つなら、望み通り鬼となる、と。
果たして女は鬼となり、元夫と後妻を苦しめるが、安倍晴明に退けられるー。
この連作短編では、鉄輪の井戸のそばにあり、鉄輪の女の絵を置く町屋カフェ、サロン・ド・テ・鉄輪を構える店主の女、関水キリと、おそらく著者の「センセ」が、多くの怪異に出逢う。
鉄輪の女はキリの半身であり、縁切りのご利益を秘めた鉄輪の井戸水で茶を点て、悪縁から逃れたいと望む者たちの願いを叶えるキリー。数々の怪異の場にセンセを付き合わせる、もしくは、はからずも巻き込まれたセンセを救う。
大文字の火で焼身自殺したカップル(テ・鉄輪)、また紫野の今宮神社で歌う美しい怪物、巴御前(麗人宴)。
センセの旧友が浮気を繰り返し女たちの恨みを買い、祇園界隈で魔に襲われたり(修羅霊)、陶器などを修復する店の男がかつて事故で子をなくし贄を求める話だったり(金繍鬼)。また良い絵を描くために火をつけた画家にセンセが夜の御所で出逢うものであったり(施画鬼)、京都と京都人の風情たっぷりに怪しくおどろおどろしく書き下している。
着物、建築の部分の名称、伝統色、植物に至るまでよく調べられ、文章に織り混ぜられていて、プロの物書きの力量を見る。
また、冒頭の短編には和泉式部が出てくるし、巴は言わずと知れた木曾義仲の愛人にして女武者、「修羅霊」は伊勢物語と蜻蛉日記を足したような風情もあり、絵を描くために火をつけるのは古典を題材にした芥川龍之介「地獄変」そのもの。
古典の風合いがベースに取り入れられ、この物語集をより重厚に、禍々しくしている。
巴御前の話は、御所の北西、金閣寺との間くらいに位置する紫野が主要な舞台。大徳寺納豆が知られる大徳寺、あぶり餅で有名な今宮神社あたりは紫式部が生まれ育ったという説もあり、落ち着いて静かな風情が好きでよく通っている。松風という和菓子を売る松屋藤兵衛、お取り寄せにハマっているサカイの冷やし中華などが劇中に出てきて嬉しかった。ほか京都各地のよく行ったり行ってみたかったりする地名や店名が出て感興をもよおさせる。
そして「施画鬼」の導入では夜の御所内を通り抜けている。
いま身を浸している夜は平安時代と地続きなのだ。
という一文で一気に妖しさと、闇の黒さと京独特の雰囲気が湧き立った。変な感覚かもだが、夜の御所を歩いてみたくなった。
練り込まれた京都ホラー。会話は京言葉で交わされる。彼岸と此岸を行き来しているかのようなキリも魅力的なキャラである。
次回は完結編かな。続きがもしあれば読みたいところだ。渡辺綱が鬼・茨木童子に襲われた一条戻橋にも行ってみたいな。
友人からニュージーランドのオペラ歌手、キリ・テ・カナワは関係あるのかしらと。寡聞にして知らなかったけれども、関西人だし、絶対ここから来てると確信しております^_^
2023年2月26日日曜日
2023年2月21日火曜日
2月書評の9
鏑木蓮さんも亡くなられた。「イーハトーブ探偵」続き読みたかった。合掌。福岡県人の松本零士さんも。なんかため息出る。合掌。
◼ 堀辰雄「かげろふの日記・曠野」
創作と原作との境が微妙かな。堀辰雄の王朝もの。
本編に入る前に最近の事象を。
・長く楽しませてもらった永井路子さんが亡くなられた。「美貌の女帝」「裸足の皇女」など古代もの好きだった。ありがとうございました。合掌。
・ミステリマガジンにジョルジュ・シムノン特集。めったにないと思い購入したら、「メグレと若い女の死」がパトリス・ルコント監督により映画化され来月封切だそうで、メグレもルコントも好きな私には喜ばしい。原作も偶然去年読了した。
「イーハトーブ探偵」の鏑木蓮さんも鬼籍に入られた。続き読みたかった・・合掌。
さて、堀辰雄である。堀辰雄といえば造詣の深いフランス文学のエッセンスを日本に取り入れた人。「風立ちぬ」「菜穂子」などは西洋絵画的なイメージの作品だ。今回は古典を題材とした王朝もの小説。独自色をより日本文学へ融合させようという狙いだったらしい。
王朝もの執筆の経緯を書いた「七つの手紙」では下宿していた油屋が火事となり執筆ノートなどが焼けてしまった。これ、石川達三が命からがら逃げ出したなどかなり危険な火事だったようだが堀はかなりサラリと書いている。これも堀辰雄流か?笑
「かげろふの日記」はもちろん、藤原道綱母が夫である藤原兼家との確執と心のありようを書き連ねた「蜻蛉日記」がベースとなっている。
藤原兼家は道綱母の他にも妻がいた。憎らしいあまり、道綱母は藤原氏の権力者で藤原道長の父でもある兼家が夜通ってきても閉め出したままにしたりする。間に立つ2人の息子道綱は右往左往。しかし兼家も通いが途絶えたりはするが、長い年月、なぜか道綱母にこだわり何かと連絡したり立ち寄ったりする。
「かげろふの日記」は有名なエピソードを中心として、道綱母の心持ちを書き下したもの。続く「ほととぎす」は晩年兼家の別の愛人の娘を引き取り、この「撫子」に猛アタックをかける道綱の上司右馬頭の君とのやりとり等が記されている。
「更級日記」をモチーフとした次の「姨捨」とともに「ほととぎす」はかなり文調も平明になり、筆がノっている感じも受ける。ラストの「曠野」は京都、近江の畿内を舞台とした悲恋、悲しい女の人生の物語。どこか伊勢物語のような風味もある。関西へと旅しのちに「大和路」を著した堀が収穫を活かした話だという。
北村薫「六の宮の姫君」に触発されて芥川龍之介の王朝ものと出典の今昔物語集を読み比べたことがある。芥川は古典のエッセンスをそのまま活かしたり、思い切って劇画的にしたりと変幻自在なイメージ。芥川に私淑していた堀が王朝ものドラマを描くのは感じるところもある。
「姨捨」「曠野」には堀辰雄らしい柔らかさも見えたけども、「かげろふの日記」「ほととぎす」あたりは原典と創作の境目が分からず微妙だったかなと。
「蜻蛉日記」は室生犀星が素材として「かげろうの日記遺文」という小説を著している。堀の「かげろふの日記」が1937年、室生はかなり後の1958年、交友のあった2人。
「遺文」では、兼家の別の相手である「小路の女」が室生により冴野という名を与えられ、原作にはない、冴野と道綱母が対決する場面などが挿入される。緊迫した台詞のやり取りの末、はかなげで立場の弱い冴野が道綱母に投げつけた言葉が、原作の「蜻蛉日記」の、いわばグチばかりのぐだぐだ感をもグサリと貫くようで、感銘を受けた覚えがある。
それに比べると「風立ちぬ」のテーマをもとに感興を添えたという堀の方は、やはり薄く色が滲むようで明瞭ではないかも。しかし、去年読んだ初期短編集「羽ばたき」でもやっぱり堀辰雄、と思わせる特徴があったし、もう少し読み込んで、堀らしさ、に触れてみたいと思っている。
今回はその途上ということで。
◼ 堀辰雄「かげろふの日記・曠野」
創作と原作との境が微妙かな。堀辰雄の王朝もの。
本編に入る前に最近の事象を。
・長く楽しませてもらった永井路子さんが亡くなられた。「美貌の女帝」「裸足の皇女」など古代もの好きだった。ありがとうございました。合掌。
・ミステリマガジンにジョルジュ・シムノン特集。めったにないと思い購入したら、「メグレと若い女の死」がパトリス・ルコント監督により映画化され来月封切だそうで、メグレもルコントも好きな私には喜ばしい。原作も偶然去年読了した。
「イーハトーブ探偵」の鏑木蓮さんも鬼籍に入られた。続き読みたかった・・合掌。
さて、堀辰雄である。堀辰雄といえば造詣の深いフランス文学のエッセンスを日本に取り入れた人。「風立ちぬ」「菜穂子」などは西洋絵画的なイメージの作品だ。今回は古典を題材とした王朝もの小説。独自色をより日本文学へ融合させようという狙いだったらしい。
王朝もの執筆の経緯を書いた「七つの手紙」では下宿していた油屋が火事となり執筆ノートなどが焼けてしまった。これ、石川達三が命からがら逃げ出したなどかなり危険な火事だったようだが堀はかなりサラリと書いている。これも堀辰雄流か?笑
「かげろふの日記」はもちろん、藤原道綱母が夫である藤原兼家との確執と心のありようを書き連ねた「蜻蛉日記」がベースとなっている。
藤原兼家は道綱母の他にも妻がいた。憎らしいあまり、道綱母は藤原氏の権力者で藤原道長の父でもある兼家が夜通ってきても閉め出したままにしたりする。間に立つ2人の息子道綱は右往左往。しかし兼家も通いが途絶えたりはするが、長い年月、なぜか道綱母にこだわり何かと連絡したり立ち寄ったりする。
「かげろふの日記」は有名なエピソードを中心として、道綱母の心持ちを書き下したもの。続く「ほととぎす」は晩年兼家の別の愛人の娘を引き取り、この「撫子」に猛アタックをかける道綱の上司右馬頭の君とのやりとり等が記されている。
「更級日記」をモチーフとした次の「姨捨」とともに「ほととぎす」はかなり文調も平明になり、筆がノっている感じも受ける。ラストの「曠野」は京都、近江の畿内を舞台とした悲恋、悲しい女の人生の物語。どこか伊勢物語のような風味もある。関西へと旅しのちに「大和路」を著した堀が収穫を活かした話だという。
北村薫「六の宮の姫君」に触発されて芥川龍之介の王朝ものと出典の今昔物語集を読み比べたことがある。芥川は古典のエッセンスをそのまま活かしたり、思い切って劇画的にしたりと変幻自在なイメージ。芥川に私淑していた堀が王朝ものドラマを描くのは感じるところもある。
「姨捨」「曠野」には堀辰雄らしい柔らかさも見えたけども、「かげろふの日記」「ほととぎす」あたりは原典と創作の境目が分からず微妙だったかなと。
「蜻蛉日記」は室生犀星が素材として「かげろうの日記遺文」という小説を著している。堀の「かげろふの日記」が1937年、室生はかなり後の1958年、交友のあった2人。
「遺文」では、兼家の別の相手である「小路の女」が室生により冴野という名を与えられ、原作にはない、冴野と道綱母が対決する場面などが挿入される。緊迫した台詞のやり取りの末、はかなげで立場の弱い冴野が道綱母に投げつけた言葉が、原作の「蜻蛉日記」の、いわばグチばかりのぐだぐだ感をもグサリと貫くようで、感銘を受けた覚えがある。
それに比べると「風立ちぬ」のテーマをもとに感興を添えたという堀の方は、やはり薄く色が滲むようで明瞭ではないかも。しかし、去年読んだ初期短編集「羽ばたき」でもやっぱり堀辰雄、と思わせる特徴があったし、もう少し読み込んで、堀らしさ、に触れてみたいと思っている。
今回はその途上ということで。
2023年2月19日日曜日
2月書評の8
暖かめで雨がちの週末。今週は日本代表活動でBリーグはブレイク。バスケ沼部は気持ち的にヒマ😎たまった録画を観てます。
同級生が神戸に来たので明石焼きで和やかなお迎えごはん。お気に入り店にまた行けて至福です。
クラシック🎹の話。バッハというのは教会音楽のイメージが強い。老後の楽しみ、なんて敬遠してきた。モーツァルト以降の人の方がダイナミクスも繊細さもある気がしてたし。
その一方で、ヴァイオリン🎻してた人、ピアノ経験者らと話をする中で、奏者さんはバッハが好きだな、何度も感じたことがあった。
今週なにげなくフランス組曲5番を聴いていて初めて、ああ、バッハの旋律、かわいいじゃない、と思えた。聞かせどころがいくつかあって、奏者が気持ちを入れるポイントが見えたように感じた。
ちょっとまた自分が変わったかなっ。
◼️ 梯久美子「サガレン」
北への憧れ、宮沢賢治・・樺太を巡る旅。何もないはずなのに、心が飛ぶ。
なじみの古書店店主さんが宮沢賢治学会員の講師さんで、賢治の話をしていて、すごくいい本、と薦められた一冊。さっそく図書館。私は九州の生まれで北への憧れもある。
鉄子で廃線マニアのノンフィクション作家さんがサハリンの鉄道で旧国境を越す。日露戦争のポーツマス条約で日本が得た樺太の南半分。賢治は未完の童話で「サガレン」と読んでいる。
ロシアでは流刑の島で、訪れたチェーホフが著作を残している。また島国日本では珍しい国境を見るツアーが人気を呼び国境見物に来る人も多かったとか。林芙美子が訪れ、紀行文を書いている。第一部は南部の都市ユジノサハリンスク(豊原)から寝台急行で北上、北緯50度の旧国境を越えて北半分のノグリキへの旅。
そして第二部は宮沢賢治の足跡を追う旅、なのだが、軌道の幅を広げる工事のためサハリン全島で列車がストップ。車での移動となる。
賢治は1923年の8月にサガレンに渡っている。岩手の花巻から青森で青函連絡船に乗り、渡った北海道で列車で稚内まで行き、サガレン南部のコルサコフ(大泊)まで、宗谷海峡を船で渡った。そこからスタロドゥプスコエ(栄浜)まで鉄道に乗った。
日本から進出していた王子製紙大泊工場の知人に花巻農学校の教え子の就職を頼むためで、実際に勤めた卒業生もいた。しかしこの旅は、前年に理解者であり最愛の妹トシを亡くしたための傷心旅行の意味合いが大きかった。
「青森挽歌」「津軽海峡」「旭川」「宗谷挽歌」「オホーツク挽歌」「樺太鉄道」「鈴谷平原」「噴火湾(ノクターン)」と旅中の詩作が進んでいく中で、最初は悲しみに耐えきれなく見えた賢治は、サガレンに上陸してから、光が射したように、またさわやかな気分に包まれたかのように短い期間で作風が変わっている。
「宗谷挽歌」のトシに語りかける部分は胸を衝かれる思いがした。後半は賢治らしい言葉遣いや軽やかさが戻ったようにも見える。
そしてサガレンでの旅の経験はほかの著作にも、取り分け有名な「銀河鉄道の夜」にも活かされている証左が解説される。
賢治を追う旅はひょっとして鉄道移動ができなかったからというのもあるかもしれないが、賢治の著作に寄り添って土地を巡り、植物相などにも言及していて、心が沈み込みたゆたう気分になった。
サガレンは何度も行きたくなるところだという。いかにも何もなさそうではあるが、それでも賢治がある意味浄化されたような気分を味わってみたいとも思う。
同級生が神戸に来たので明石焼きで和やかなお迎えごはん。お気に入り店にまた行けて至福です。
クラシック🎹の話。バッハというのは教会音楽のイメージが強い。老後の楽しみ、なんて敬遠してきた。モーツァルト以降の人の方がダイナミクスも繊細さもある気がしてたし。
その一方で、ヴァイオリン🎻してた人、ピアノ経験者らと話をする中で、奏者さんはバッハが好きだな、何度も感じたことがあった。
今週なにげなくフランス組曲5番を聴いていて初めて、ああ、バッハの旋律、かわいいじゃない、と思えた。聞かせどころがいくつかあって、奏者が気持ちを入れるポイントが見えたように感じた。
ちょっとまた自分が変わったかなっ。
◼️ 梯久美子「サガレン」
北への憧れ、宮沢賢治・・樺太を巡る旅。何もないはずなのに、心が飛ぶ。
なじみの古書店店主さんが宮沢賢治学会員の講師さんで、賢治の話をしていて、すごくいい本、と薦められた一冊。さっそく図書館。私は九州の生まれで北への憧れもある。
鉄子で廃線マニアのノンフィクション作家さんがサハリンの鉄道で旧国境を越す。日露戦争のポーツマス条約で日本が得た樺太の南半分。賢治は未完の童話で「サガレン」と読んでいる。
ロシアでは流刑の島で、訪れたチェーホフが著作を残している。また島国日本では珍しい国境を見るツアーが人気を呼び国境見物に来る人も多かったとか。林芙美子が訪れ、紀行文を書いている。第一部は南部の都市ユジノサハリンスク(豊原)から寝台急行で北上、北緯50度の旧国境を越えて北半分のノグリキへの旅。
そして第二部は宮沢賢治の足跡を追う旅、なのだが、軌道の幅を広げる工事のためサハリン全島で列車がストップ。車での移動となる。
賢治は1923年の8月にサガレンに渡っている。岩手の花巻から青森で青函連絡船に乗り、渡った北海道で列車で稚内まで行き、サガレン南部のコルサコフ(大泊)まで、宗谷海峡を船で渡った。そこからスタロドゥプスコエ(栄浜)まで鉄道に乗った。
日本から進出していた王子製紙大泊工場の知人に花巻農学校の教え子の就職を頼むためで、実際に勤めた卒業生もいた。しかしこの旅は、前年に理解者であり最愛の妹トシを亡くしたための傷心旅行の意味合いが大きかった。
「青森挽歌」「津軽海峡」「旭川」「宗谷挽歌」「オホーツク挽歌」「樺太鉄道」「鈴谷平原」「噴火湾(ノクターン)」と旅中の詩作が進んでいく中で、最初は悲しみに耐えきれなく見えた賢治は、サガレンに上陸してから、光が射したように、またさわやかな気分に包まれたかのように短い期間で作風が変わっている。
「宗谷挽歌」のトシに語りかける部分は胸を衝かれる思いがした。後半は賢治らしい言葉遣いや軽やかさが戻ったようにも見える。
そしてサガレンでの旅の経験はほかの著作にも、取り分け有名な「銀河鉄道の夜」にも活かされている証左が解説される。
賢治を追う旅はひょっとして鉄道移動ができなかったからというのもあるかもしれないが、賢治の著作に寄り添って土地を巡り、植物相などにも言及していて、心が沈み込みたゆたう気分になった。
サガレンは何度も行きたくなるところだという。いかにも何もなさそうではあるが、それでも賢治がある意味浄化されたような気分を味わってみたいとも思う。
2月書評の7
「崖上のスパイ」名匠チャン・イーモウ監督が初めて手がけたスパイ映画観てきました。雪の満洲、出だしの山岳地帯へのパラシュート降下から列車での格闘、逃亡劇、銃撃戦、カーチェイスとかなり本格派で盛りだくさん。雪の白と着衣・夜の黒は色彩感覚に優れた監督らしさが。フレーミングも素晴らしい。手間と資金を惜しんでないのが見て取れます。
去年の1月に観た「ワン・セカンド 永遠の24フレーム」の主演だった2人、チャン・イーとリウ・ハオツンが今回も起用されてました。リウ・ハオツンはかつてのコン・リーやチャン・ツイィーのようにイーモウ・ガールズになったみたいですね。
破滅=死がまさに目の前にある。緊張感がみなぎる作品でした。かつての満洲、ハルビンの大規模セットには上海のような魔都の雰囲気も漂います。
監督らしいユーモア感覚が入り込む余地はないかと思いきや、映画館のチャップリン、フォーク🍴とパン🥐でダンスを模すシーンの挿入には唸りました。
パンフ探すと結構ありました。「あの子を探して」「はつ恋のきた道」「活きる」良かったな〜「HERO」も観たけどなかったかな?
◼️ ウィリアム・アイリッシュ
「黒いカーテン」
アイリッシュはつかみが上手い。かつ、時に表現がピリッとハードボイルド。
1941年、「幻の女」の前年に書かれた200Pくらいのサスペンス。アイリッシュといえば、時間的にギリギリ、とか切羽詰まった感、というイメージだけある。この作品も、つかみは上々。
フランク・タウンゼントは崩れた家の下敷きになり救出されて目が覚める。意識が朦朧としていた。幸い身体は大事なかったが、違和感を感じながら自宅に帰ってみると、無人の部屋となっていた。大家に住所を聞いて訪ねた妻には驚愕され、3年半行方不明だったと聞く。やがて、怪しい男が彼を尾行し始める、地下鉄でまこうと電車に飛び乗った時、男はピストルを抜いたー。
よくあるパターンなのかも知れないが、記憶をなくした男がその間別人になって、というのはポンっと提示されると興味を惹かれ、グイッと引っ張られる感じがする。主人公が自分に起きていることを辿る最初の時間は、読者への引きとともに説明になっている。
不可思議な状況と怪しいサスペンスを突きつけるのはウマい。そして空白の3年半を探る間はひとつずつ、少しずつ明らかになっていく、じりじり感を楽しめるようになっている。
「幻の女」の冒頭、夜は若く、彼らも若かったが、夜の空気は甘いのに、彼の気分は苦かった、という出だしが有名。この作品も地下鉄で男を振り切った場面の
「照明のきらめくプラットホームは、トンネルの闇に変わって、電車はスピードを増していった」
という表現だったり、過去に向き合うと決めて妻といったん別れるシーンの、胸に響いてくるような車の警笛音だったりと、さりげなく光や闇、音を使って巧みに効果を織り交ぜていると思う。
後半はついにネタバレ、自らに降りかかった嫌疑を晴らそうとするフランク。そして罠がー。
読み終わってみれば、お手軽にドキドキできるサスペンス、という感じで後半はオチが読めてしまうかも。男が記憶をなくした原因もその間の詳細も明かされないで終了。現代ものとは違うなあと。でも語られなくてもその方がいいかな、という気になってくるから不思議だ。
技巧が際立つアイリッシュ。すぐ読めてしまうしそこそこ楽しめるし、オススメです。
去年の1月に観た「ワン・セカンド 永遠の24フレーム」の主演だった2人、チャン・イーとリウ・ハオツンが今回も起用されてました。リウ・ハオツンはかつてのコン・リーやチャン・ツイィーのようにイーモウ・ガールズになったみたいですね。
破滅=死がまさに目の前にある。緊張感がみなぎる作品でした。かつての満洲、ハルビンの大規模セットには上海のような魔都の雰囲気も漂います。
監督らしいユーモア感覚が入り込む余地はないかと思いきや、映画館のチャップリン、フォーク🍴とパン🥐でダンスを模すシーンの挿入には唸りました。
パンフ探すと結構ありました。「あの子を探して」「はつ恋のきた道」「活きる」良かったな〜「HERO」も観たけどなかったかな?
◼️ ウィリアム・アイリッシュ
「黒いカーテン」
アイリッシュはつかみが上手い。かつ、時に表現がピリッとハードボイルド。
1941年、「幻の女」の前年に書かれた200Pくらいのサスペンス。アイリッシュといえば、時間的にギリギリ、とか切羽詰まった感、というイメージだけある。この作品も、つかみは上々。
フランク・タウンゼントは崩れた家の下敷きになり救出されて目が覚める。意識が朦朧としていた。幸い身体は大事なかったが、違和感を感じながら自宅に帰ってみると、無人の部屋となっていた。大家に住所を聞いて訪ねた妻には驚愕され、3年半行方不明だったと聞く。やがて、怪しい男が彼を尾行し始める、地下鉄でまこうと電車に飛び乗った時、男はピストルを抜いたー。
よくあるパターンなのかも知れないが、記憶をなくした男がその間別人になって、というのはポンっと提示されると興味を惹かれ、グイッと引っ張られる感じがする。主人公が自分に起きていることを辿る最初の時間は、読者への引きとともに説明になっている。
不可思議な状況と怪しいサスペンスを突きつけるのはウマい。そして空白の3年半を探る間はひとつずつ、少しずつ明らかになっていく、じりじり感を楽しめるようになっている。
「幻の女」の冒頭、夜は若く、彼らも若かったが、夜の空気は甘いのに、彼の気分は苦かった、という出だしが有名。この作品も地下鉄で男を振り切った場面の
「照明のきらめくプラットホームは、トンネルの闇に変わって、電車はスピードを増していった」
という表現だったり、過去に向き合うと決めて妻といったん別れるシーンの、胸に響いてくるような車の警笛音だったりと、さりげなく光や闇、音を使って巧みに効果を織り交ぜていると思う。
後半はついにネタバレ、自らに降りかかった嫌疑を晴らそうとするフランク。そして罠がー。
読み終わってみれば、お手軽にドキドキできるサスペンス、という感じで後半はオチが読めてしまうかも。男が記憶をなくした原因もその間の詳細も明かされないで終了。現代ものとは違うなあと。でも語られなくてもその方がいいかな、という気になってくるから不思議だ。
技巧が際立つアイリッシュ。すぐ読めてしまうしそこそこ楽しめるし、オススメです。
2月書評の6
◼️ アナトール・フランス「バルタザアル」
芥川龍之介訳
東方の三賢人の1人、バルタザアルについての創作。アナトール・フランスの短編読んでみた。
先日アナトール・フランス「舞姫タイス」を読み、調べてたら傾倒していた芥川龍之介訳の短編があると知り青空文庫で探してみた。ごく短いお話。
エチオピアの若き王バルタザアルは駱駝の隊列を組んでシバの女王バルキスを訪ねる。バルキスの美しさに心を奪われたバルタザアルは、庶民に身をやつして夜に外出したいというバルキスの誘いで、奴隷を装って出かける。場末の居酒屋で食事をし、金を持ってなかったために踏み倒そうとしたところ乱闘となりバルタザアルは頭に怪我を負い、その血はバルキスの胸に流れる。しかし水のない川床で2人は抱き合い夜を過ごす。
通りがかりの盗人の一隊が、美しいバルキスを売りとばそうと2人を縛り上げる。暴れたバルタザアルは悪党のナイフで腹に深傷を負ってしまう。やがて護衛兵が来て2人を救出、バルタザアルは15日間人事不省に陥るが、その間にバルキスは新たな恋人コマギイナの王を作っていた。激昂したバルタザアルにバルキスはにべもない。傷が開いて再び倒れたバルタザアルはエチオピアへ帰り、学問に打ち込み、新しい星を発見する。
バルタザアルの愛がなくなったと聞いたバルキスは馬象駱駝を連ねてエチオピアに向かい、バルタザアルはその姿を見て心を動かされる。しかし星が王の中なる王が幼な児となって生まれる。汝を導いてその幼な児の下へ導く、われに従へ、とバルタザアルに告げる。
バルタザアルは星の語った通り、没薬を持ってユダヤのベツレヘムへ出発、途中メルキオルとガスパアと落ち合って三人でマリヤのもとへと辿り着いたー。
バルタザールは黒人として絵に描かれることもある。この物語でも黒人の設定である。イエスが誕生してまもなくやってきて拝んだという東方の三賢人については新約聖書にも詳細は書かれていない。正直よく知らないけれども、この設定も創作だと思われる。
血気盛んな王が移り気な女との経験を経て、側近の魔法師や宦官の望むような立派な王となる成長物語、というところだろうか。また教訓を含む寓話でもある。
シバの女王は同タイトルの曲を小学校の学習発表会で演奏し、メロディも未だに覚えている。今回でなんとなくシバの女王のイメージが出来てしまったかな。バルタザールは佐藤亜紀氏の小説「バルタザールの遍歴」等書き物のタイトル、また多くの絵画の題材になっていて、三賢人、三博士の1人と言うことは知っていた。
「舞姫タイス」とパターンは違うけれども、キリスト教に男女のことが絡むパターンは同じ。その関係性が物語の主人公に与える影響をうまく史実に落とし込む、という作品性がおもしろいと思う。
芥川の頃には東方の三賢人というモチーフが目新しく、小説の種になりやすかったのかも知れない。太宰も「駆込み訴え」などでキリスト教を題材としている。
遠い西洋の歴史のエピソードはやはり物語性に富む。新約聖書の世界ならなおさら神性が際立つ。
短く、啓発されるおもしろいお話でした。
芥川龍之介訳
東方の三賢人の1人、バルタザアルについての創作。アナトール・フランスの短編読んでみた。
先日アナトール・フランス「舞姫タイス」を読み、調べてたら傾倒していた芥川龍之介訳の短編があると知り青空文庫で探してみた。ごく短いお話。
エチオピアの若き王バルタザアルは駱駝の隊列を組んでシバの女王バルキスを訪ねる。バルキスの美しさに心を奪われたバルタザアルは、庶民に身をやつして夜に外出したいというバルキスの誘いで、奴隷を装って出かける。場末の居酒屋で食事をし、金を持ってなかったために踏み倒そうとしたところ乱闘となりバルタザアルは頭に怪我を負い、その血はバルキスの胸に流れる。しかし水のない川床で2人は抱き合い夜を過ごす。
通りがかりの盗人の一隊が、美しいバルキスを売りとばそうと2人を縛り上げる。暴れたバルタザアルは悪党のナイフで腹に深傷を負ってしまう。やがて護衛兵が来て2人を救出、バルタザアルは15日間人事不省に陥るが、その間にバルキスは新たな恋人コマギイナの王を作っていた。激昂したバルタザアルにバルキスはにべもない。傷が開いて再び倒れたバルタザアルはエチオピアへ帰り、学問に打ち込み、新しい星を発見する。
バルタザアルの愛がなくなったと聞いたバルキスは馬象駱駝を連ねてエチオピアに向かい、バルタザアルはその姿を見て心を動かされる。しかし星が王の中なる王が幼な児となって生まれる。汝を導いてその幼な児の下へ導く、われに従へ、とバルタザアルに告げる。
バルタザアルは星の語った通り、没薬を持ってユダヤのベツレヘムへ出発、途中メルキオルとガスパアと落ち合って三人でマリヤのもとへと辿り着いたー。
バルタザールは黒人として絵に描かれることもある。この物語でも黒人の設定である。イエスが誕生してまもなくやってきて拝んだという東方の三賢人については新約聖書にも詳細は書かれていない。正直よく知らないけれども、この設定も創作だと思われる。
血気盛んな王が移り気な女との経験を経て、側近の魔法師や宦官の望むような立派な王となる成長物語、というところだろうか。また教訓を含む寓話でもある。
シバの女王は同タイトルの曲を小学校の学習発表会で演奏し、メロディも未だに覚えている。今回でなんとなくシバの女王のイメージが出来てしまったかな。バルタザールは佐藤亜紀氏の小説「バルタザールの遍歴」等書き物のタイトル、また多くの絵画の題材になっていて、三賢人、三博士の1人と言うことは知っていた。
「舞姫タイス」とパターンは違うけれども、キリスト教に男女のことが絡むパターンは同じ。その関係性が物語の主人公に与える影響をうまく史実に落とし込む、という作品性がおもしろいと思う。
芥川の頃には東方の三賢人というモチーフが目新しく、小説の種になりやすかったのかも知れない。太宰も「駆込み訴え」などでキリスト教を題材としている。
遠い西洋の歴史のエピソードはやはり物語性に富む。新約聖書の世界ならなおさら神性が際立つ。
短く、啓発されるおもしろいお話でした。
2023年2月11日土曜日
2月書評の5
ドラ・マールスペシャル!
◼️ 隈研吾「建築家、走る」
戦後第四世代の隈研吾。批判精神とニヒリズムからのエネルギー。集中して読める本。
近代建築に興味を持ち始めたのは最近のことで、最初はホント、雰囲気のよさを何となく感じているだけ。いまもあまり変わらない。ただ一級建築士の友人に話を聞いたり本を読んだりするうちにやっぱり知識がついてきて、最近は楽しめるようになってきた。なんかミョーに興奮するし笑
フランク・ロイド・ライトの建築を見に行って著書を読み、ウィリアム・メレル・ヴォーリズの作品を見学して著書を読んだ。コルビュジエについての本を読んだ。代々木体育館や東京都庁を手掛けた丹下健三の本では日本の戦後建築家史が分かった。
そしてこの著書では、戦後建築の概要と現代の建築家が取り組むことが紹介されている。その批判精神、功績も認めながら時にザパッと斬る筆致の明快さが楽しい。
日本で建設関係の会社をやめてアメリカに行き、建築批評の本を書いたり、有名なポストモダン建築の巨匠にインタビューしたりしていた人らしくウマいなと思う。
さて、戦後の第一世代は丹下健三、第二世代が丹下の弟子の槇文彦、磯崎新、黒川紀章ら。そして第三世代が安藤忠雄や伊東豊雄となるそう。時代性でいえば、第二世代までは公共建築を含め大規模で象徴的な建物が出来た時代、安定的な国内発注形態があり、第三世代はバブルが弾けた後もまだお金があった時期。著者の第四世代は建築需要はすでに満たされ、国際コンペに挑むしかない、と述べる。
建築としては、コンクリート打ちっぱなし、ガラス、鉄を使った、機能的で透明感のある工業化社会の制服のようなモダニズム建築が20世紀を風靡した。装飾は罪悪、と言われた大量生産、大量消費の波が建築にも及んだ時代。かくして建築はおもしろくなくなった。
隈研吾がアメリカから帰国した時はバブルの最中で、個人事務所を開いてまもなくからどんどん仕事は入ってきた。隈は「反・20世紀」的な、その場所でしかできない、際立って特別な建築を考えており、自動車メーカーのショールームも兼ねた拠点を設計する。しかし猛烈な批判にさらされ、東京での発注は以後10年間まっなくなった。
その間、地方で建物がほとんど「見えない」展望台や、その道の職人たちとともに石の美術館を造ったりしたこと、また海外で活動したことで展望が開けていく。
そして私が東京時代毎日そばを通って通勤していて、上司があんなビルに勤めたいよなあ、と言っていたADK松竹スクエアで中央に復帰する。以後サントリー美術館、根津美術館、そして歌舞伎座建て替えと著名で大規模な作品を手掛けるようになる。
本書では海外での仕事のリアルな詳細や建築に反映されている社会の鋭い分析がなされている。リスクをとらないサラリーマン社会、それが建築をつまらなくする。耳が痛いなあ。どの企業もリスクを回避するには、というのが俎上に上っていて、私もその中で過ごしている。まさにいまのリアルだ。
こうだ、と主張する本を読む時は、つとめて距離を置くよう心がける。でも内容がおもしろくて、気がつくと夢中になって読んでいた。歴史を踏まえた建築界の概観も知的好奇心を刺激するし、どんな発想で、工夫で、結果何が生まれたのか、読むのが楽しい。多忙を極め、オレ流をつらぬく隈さんは柔軟でモーレツ、部下にもそれを求める。終盤はまあ、出来るトップはこう思うものだなあ、と言う感想もあった。
やべ、やっぱ建築は楽しい。国内に数少ないライトの建築が地元にあり、おととしの秋観に行って、去年の秋はライトの弟子のライト風建築の見学会に行って大いにワクワクした。年明けには大阪市中央公会堂のコンサートに行ったり、ヴォーリズ屈指の名作の一般公開に申込み、楽しんできた。この、すばらしいなと感じる、刺激される感覚が、ガッキーのCM風に言うと、こたえられん。また観に行かなきゃ。
丹下健三とその弟子、隈研吾さんの作品と少しずつ詳しくなっていくのが嬉しいこの頃でした。
◼️ 隈研吾「建築家、走る」
戦後第四世代の隈研吾。批判精神とニヒリズムからのエネルギー。集中して読める本。
近代建築に興味を持ち始めたのは最近のことで、最初はホント、雰囲気のよさを何となく感じているだけ。いまもあまり変わらない。ただ一級建築士の友人に話を聞いたり本を読んだりするうちにやっぱり知識がついてきて、最近は楽しめるようになってきた。なんかミョーに興奮するし笑
フランク・ロイド・ライトの建築を見に行って著書を読み、ウィリアム・メレル・ヴォーリズの作品を見学して著書を読んだ。コルビュジエについての本を読んだ。代々木体育館や東京都庁を手掛けた丹下健三の本では日本の戦後建築家史が分かった。
そしてこの著書では、戦後建築の概要と現代の建築家が取り組むことが紹介されている。その批判精神、功績も認めながら時にザパッと斬る筆致の明快さが楽しい。
日本で建設関係の会社をやめてアメリカに行き、建築批評の本を書いたり、有名なポストモダン建築の巨匠にインタビューしたりしていた人らしくウマいなと思う。
さて、戦後の第一世代は丹下健三、第二世代が丹下の弟子の槇文彦、磯崎新、黒川紀章ら。そして第三世代が安藤忠雄や伊東豊雄となるそう。時代性でいえば、第二世代までは公共建築を含め大規模で象徴的な建物が出来た時代、安定的な国内発注形態があり、第三世代はバブルが弾けた後もまだお金があった時期。著者の第四世代は建築需要はすでに満たされ、国際コンペに挑むしかない、と述べる。
建築としては、コンクリート打ちっぱなし、ガラス、鉄を使った、機能的で透明感のある工業化社会の制服のようなモダニズム建築が20世紀を風靡した。装飾は罪悪、と言われた大量生産、大量消費の波が建築にも及んだ時代。かくして建築はおもしろくなくなった。
隈研吾がアメリカから帰国した時はバブルの最中で、個人事務所を開いてまもなくからどんどん仕事は入ってきた。隈は「反・20世紀」的な、その場所でしかできない、際立って特別な建築を考えており、自動車メーカーのショールームも兼ねた拠点を設計する。しかし猛烈な批判にさらされ、東京での発注は以後10年間まっなくなった。
その間、地方で建物がほとんど「見えない」展望台や、その道の職人たちとともに石の美術館を造ったりしたこと、また海外で活動したことで展望が開けていく。
そして私が東京時代毎日そばを通って通勤していて、上司があんなビルに勤めたいよなあ、と言っていたADK松竹スクエアで中央に復帰する。以後サントリー美術館、根津美術館、そして歌舞伎座建て替えと著名で大規模な作品を手掛けるようになる。
本書では海外での仕事のリアルな詳細や建築に反映されている社会の鋭い分析がなされている。リスクをとらないサラリーマン社会、それが建築をつまらなくする。耳が痛いなあ。どの企業もリスクを回避するには、というのが俎上に上っていて、私もその中で過ごしている。まさにいまのリアルだ。
こうだ、と主張する本を読む時は、つとめて距離を置くよう心がける。でも内容がおもしろくて、気がつくと夢中になって読んでいた。歴史を踏まえた建築界の概観も知的好奇心を刺激するし、どんな発想で、工夫で、結果何が生まれたのか、読むのが楽しい。多忙を極め、オレ流をつらぬく隈さんは柔軟でモーレツ、部下にもそれを求める。終盤はまあ、出来るトップはこう思うものだなあ、と言う感想もあった。
やべ、やっぱ建築は楽しい。国内に数少ないライトの建築が地元にあり、おととしの秋観に行って、去年の秋はライトの弟子のライト風建築の見学会に行って大いにワクワクした。年明けには大阪市中央公会堂のコンサートに行ったり、ヴォーリズ屈指の名作の一般公開に申込み、楽しんできた。この、すばらしいなと感じる、刺激される感覚が、ガッキーのCM風に言うと、こたえられん。また観に行かなきゃ。
丹下健三とその弟子、隈研吾さんの作品と少しずつ詳しくなっていくのが嬉しいこの頃でした。
2月書評の4
ピカソ展はごくわずかのNG作品以外、オール写真OK😁。だんだん変わってきてるのかな。
しばらくはピカソ展の作品シリーズです。
◼️ 林望「夕顔の恋」
読み終わりたくないな・・という感慨。光源氏の理想の愛人、夕顔の解題。物語としての深み。
源氏物語の序盤、第一帖「桐壺」に続く箒木三帖、「箒木」「空蝉」「夕顔」。その中から主に「箒木」の「雨夜の品定め」、そしてつとに有名な「夕顔」との出逢いから別れまでを取り上げて解説している書。空蝉も少し出てきます。
序盤のクライマックスともいえる場面、そして光源氏の理想の愛人、恋人として知られる儚げな夕顔の人となり、17歳の光源氏の態度、心持ちはもちろん、物語としてのゆかしさ、深みをじっくりと、かつ分かりやすく述べている。成り行きは知っているからなおさら読み終わりたくない気分に襲われた。やっぱ源氏物語、好きですね。。
「夕顔」にまつわる著者の話は、2帖前の「箒木」に始まります。五月雨の夜、光源氏とライバルで竹馬の友、頭中将、そして身分は低いけれどもおそらく心安い友人の左馬頭、藤式部丞の4人が集まりどんな女性がいい、どんな妻がいい、とメンズトークが繰り広げられる、これまたよく知られる場面です。主に多弁な左馬頭が話し、光源氏は聞き役に回っています。
その中で身分は高くなく、つまり地方国司や没落したもと上流貴族の女に、あばら家など意外なところで出くわすと興味がそそられる、という話が出てきます。光源氏はクールに聞いていましたが、この話が夕顔のくだりの伏線になっているとのこと。ふむふむ。
そして頭中将は涙ながらに、かつて通っていた女で娘まで産ませたけれども、自分の妻の恨みを買い、その後姿を消した「常夏」のことを語ります。
光源氏は六条御息所と行き逢っていたころ。また人妻である空蝉に猛アタックを仕掛けてフラれるという恋愛的スリリングな帖も挟み、夕顔との出逢いに進みます。
光源氏は六条御息所のところ(ここでは明示はされておらず、後に出てくる)へ行く途中、道中の中休みを兼ねて乳母が病だというので五条付近にある家へと出かけます。乳母は光源氏の従者惟光の母でした。
惟光宅の隣に、若い女が何人かいる気配の、荒れた邸があり、垣根には蔓草、夕闇に白い夕顔の花が咲いていました。光源氏が取りにやらせたところ、黄色い袴の女の童が出てきて、香を焚きしめてかぐわしい香りのする真っ白な扇を差し出して、これに置いて、その花を差し上げなさいませ、と渡します。
乳母の家に持って入ると、使っている人の袖の香りが移っているようで、女らしい良い香りが広がります。そしてよく見ると扇には達筆で歌が。
心あてにそれかとぞ見る白露の
光そへたる夕顔の花
女官、女童らは、蔀しとみのすき間から外を窺っている様子。光、というのはもしや有名人の光源氏では、という暗示でしょうか。浮かび上がる儚げな白とともにしみわたるようなメッセージを発する歌です。
そしてこの場面は彩り豊かです。夕闇、蔓草の緑、白い夕顔の花、黄色の袴、女童の黒髪や幼い肌の白さも浮かぶよう。決め手のような白い扇からは匂いまで感じさせます。
その後この歌を送った、女主人のような者の姿はなかなか見えずわからず。著者によればそれも興味を喚起する一因だそう。しかし光源氏の思いを遂げるため惟光は邸の女と通じ、その手引きでついに夕顔とねんごろになります。
付き合ってみると、控えめながらもの慣れて、しかし可愛らしさを失わず、男を責めるようなことも言わず、房事もあったのでしょう、光源氏は夢中になってしまいます。
光源氏もあまり目立つ行動はしたくなかったため、顔を隠すなどしていましたが、ある時ついに正体を露わにします。しかし夕顔は最期まで名さえ告げるませんでした。
微服、あまりきれいでない衣服を身につけるなど微服、身をやつして通っていた光源氏、やがてもっと一緒にいたいと、自分の持ち物でかなり侘しい所にある広い家に連れ出します。
理由はつけてあるものの、なんでこんな怖いとこに行くのか、とは単純に思いますよね。私的には夢中の恋、相手が身元不明、尋常ではないシチュエーションで若い光は気持ちに任せて走ってしまったという見方もありかもですね。魅入られた感を強くするものでもあります。
この家で、嫉妬にかられた六条御息所の怨霊と思われる霊が現れて取り憑き、夕顔は死を迎えます。遺体を運ぶ惟光、その時こぼれる長い黒髪、寺に安置された夕顔を見つめる光の嘆き、幻のような恋のエピローグは悲しみに満ちています。
夕顔の世話役の女房で後に光源氏に仕える年配の女性・右近がその身の上を明かします。夕顔の親はもとは三位中将の娘で、親に早く死なれたため薄幸な生い立ちだったこと、頭中将に見初められ娘を産んだこと、頭中将の奥方にひどく脅され、住まいを変えたことなどを話します。光源氏もこの女は頭中将の話に出てきた常夏ではないかとずっと思っていました。
見方を変えると、紫式部が念を入れて撒いていた種がここで結実していますよね。雨夜の品定めで提示された、没落した家の女性との意外な出逢い、六条御息所との関係と嫉妬、相手は常夏。直前の帖で空蝉をギリギリものにできなかったことも要素の1つだと思います。
どこまでも「らうたげ」な女、夕顔。おそらくは多くの男の心を自然に魅了する、魔性とも言えるものを持っていたのでしょう。巡り合った光源氏は若く理想的な恋に夢中になり、それはやはりずっとは続かなくて、滅びた原因も光源氏自身の所業にありました。
なんというか、怪異と周到さ、そして表現、さまざまな要素の見事な散らし方、読み手を引き込む力はやはり素晴らしいものがあると思います。
有名な場面、ゆったりと解説に浸れてとても満足感に包まれました。
川端康成は源氏物語を日本最高の物語でいまだこれを超えるものは出ていない、と評しています。川端シンドロームな私はこの言葉に影響されちゃってる部分もあります。でも、物語の進め方、ヤマの作り方とそのエキセントリックさ、色彩感、音感、場面のバランス、はかなさなどなど、なにより残る印象の強さは読んでいて舌を巻くものがありました。紫式部はすばらしい作家さんです。
おおげさなこと言いますが、読む前と後では、自分が明らかに変わってしまいました。いやー思い込んでますね。
さて、光源氏はこの悲しみの後も、もちろんプレイボーイぶりは衰えません。次の帖は若紫。このタイミングも実にいい。後には夕顔と頭中将の娘が成長し、絶世の美女、玉鬘として現れます。
ああこうやってたまに源氏に浸るのはやめられませんね。解説本あさってしまいそうです。
しばらくはピカソ展の作品シリーズです。
◼️ 林望「夕顔の恋」
読み終わりたくないな・・という感慨。光源氏の理想の愛人、夕顔の解題。物語としての深み。
源氏物語の序盤、第一帖「桐壺」に続く箒木三帖、「箒木」「空蝉」「夕顔」。その中から主に「箒木」の「雨夜の品定め」、そしてつとに有名な「夕顔」との出逢いから別れまでを取り上げて解説している書。空蝉も少し出てきます。
序盤のクライマックスともいえる場面、そして光源氏の理想の愛人、恋人として知られる儚げな夕顔の人となり、17歳の光源氏の態度、心持ちはもちろん、物語としてのゆかしさ、深みをじっくりと、かつ分かりやすく述べている。成り行きは知っているからなおさら読み終わりたくない気分に襲われた。やっぱ源氏物語、好きですね。。
「夕顔」にまつわる著者の話は、2帖前の「箒木」に始まります。五月雨の夜、光源氏とライバルで竹馬の友、頭中将、そして身分は低いけれどもおそらく心安い友人の左馬頭、藤式部丞の4人が集まりどんな女性がいい、どんな妻がいい、とメンズトークが繰り広げられる、これまたよく知られる場面です。主に多弁な左馬頭が話し、光源氏は聞き役に回っています。
その中で身分は高くなく、つまり地方国司や没落したもと上流貴族の女に、あばら家など意外なところで出くわすと興味がそそられる、という話が出てきます。光源氏はクールに聞いていましたが、この話が夕顔のくだりの伏線になっているとのこと。ふむふむ。
そして頭中将は涙ながらに、かつて通っていた女で娘まで産ませたけれども、自分の妻の恨みを買い、その後姿を消した「常夏」のことを語ります。
光源氏は六条御息所と行き逢っていたころ。また人妻である空蝉に猛アタックを仕掛けてフラれるという恋愛的スリリングな帖も挟み、夕顔との出逢いに進みます。
光源氏は六条御息所のところ(ここでは明示はされておらず、後に出てくる)へ行く途中、道中の中休みを兼ねて乳母が病だというので五条付近にある家へと出かけます。乳母は光源氏の従者惟光の母でした。
惟光宅の隣に、若い女が何人かいる気配の、荒れた邸があり、垣根には蔓草、夕闇に白い夕顔の花が咲いていました。光源氏が取りにやらせたところ、黄色い袴の女の童が出てきて、香を焚きしめてかぐわしい香りのする真っ白な扇を差し出して、これに置いて、その花を差し上げなさいませ、と渡します。
乳母の家に持って入ると、使っている人の袖の香りが移っているようで、女らしい良い香りが広がります。そしてよく見ると扇には達筆で歌が。
心あてにそれかとぞ見る白露の
光そへたる夕顔の花
女官、女童らは、蔀しとみのすき間から外を窺っている様子。光、というのはもしや有名人の光源氏では、という暗示でしょうか。浮かび上がる儚げな白とともにしみわたるようなメッセージを発する歌です。
そしてこの場面は彩り豊かです。夕闇、蔓草の緑、白い夕顔の花、黄色の袴、女童の黒髪や幼い肌の白さも浮かぶよう。決め手のような白い扇からは匂いまで感じさせます。
その後この歌を送った、女主人のような者の姿はなかなか見えずわからず。著者によればそれも興味を喚起する一因だそう。しかし光源氏の思いを遂げるため惟光は邸の女と通じ、その手引きでついに夕顔とねんごろになります。
付き合ってみると、控えめながらもの慣れて、しかし可愛らしさを失わず、男を責めるようなことも言わず、房事もあったのでしょう、光源氏は夢中になってしまいます。
光源氏もあまり目立つ行動はしたくなかったため、顔を隠すなどしていましたが、ある時ついに正体を露わにします。しかし夕顔は最期まで名さえ告げるませんでした。
微服、あまりきれいでない衣服を身につけるなど微服、身をやつして通っていた光源氏、やがてもっと一緒にいたいと、自分の持ち物でかなり侘しい所にある広い家に連れ出します。
理由はつけてあるものの、なんでこんな怖いとこに行くのか、とは単純に思いますよね。私的には夢中の恋、相手が身元不明、尋常ではないシチュエーションで若い光は気持ちに任せて走ってしまったという見方もありかもですね。魅入られた感を強くするものでもあります。
この家で、嫉妬にかられた六条御息所の怨霊と思われる霊が現れて取り憑き、夕顔は死を迎えます。遺体を運ぶ惟光、その時こぼれる長い黒髪、寺に安置された夕顔を見つめる光の嘆き、幻のような恋のエピローグは悲しみに満ちています。
夕顔の世話役の女房で後に光源氏に仕える年配の女性・右近がその身の上を明かします。夕顔の親はもとは三位中将の娘で、親に早く死なれたため薄幸な生い立ちだったこと、頭中将に見初められ娘を産んだこと、頭中将の奥方にひどく脅され、住まいを変えたことなどを話します。光源氏もこの女は頭中将の話に出てきた常夏ではないかとずっと思っていました。
見方を変えると、紫式部が念を入れて撒いていた種がここで結実していますよね。雨夜の品定めで提示された、没落した家の女性との意外な出逢い、六条御息所との関係と嫉妬、相手は常夏。直前の帖で空蝉をギリギリものにできなかったことも要素の1つだと思います。
どこまでも「らうたげ」な女、夕顔。おそらくは多くの男の心を自然に魅了する、魔性とも言えるものを持っていたのでしょう。巡り合った光源氏は若く理想的な恋に夢中になり、それはやはりずっとは続かなくて、滅びた原因も光源氏自身の所業にありました。
なんというか、怪異と周到さ、そして表現、さまざまな要素の見事な散らし方、読み手を引き込む力はやはり素晴らしいものがあると思います。
有名な場面、ゆったりと解説に浸れてとても満足感に包まれました。
川端康成は源氏物語を日本最高の物語でいまだこれを超えるものは出ていない、と評しています。川端シンドロームな私はこの言葉に影響されちゃってる部分もあります。でも、物語の進め方、ヤマの作り方とそのエキセントリックさ、色彩感、音感、場面のバランス、はかなさなどなど、なにより残る印象の強さは読んでいて舌を巻くものがありました。紫式部はすばらしい作家さんです。
おおげさなこと言いますが、読む前と後では、自分が明らかに変わってしまいました。いやー思い込んでますね。
さて、光源氏はこの悲しみの後も、もちろんプレイボーイぶりは衰えません。次の帖は若紫。このタイミングも実にいい。後には夕顔と頭中将の娘が成長し、絶世の美女、玉鬘として現れます。
ああこうやってたまに源氏に浸るのはやめられませんね。解説本あさってしまいそうです。
2月書評の3
地元図書館が入るショッピングビルに行ってみると「どうする家康」の等身大パネルがあってほおーと。イベントがあるのかな。
フィンランド映画「コンパートメントNo.6」カンヌでグランプリ(最高賞はパルム・ドール、グランプリは2位ってとこかな)受賞。アカデミー賞にもゴールデングローブ賞にもタイトルが上がっている。
夫を含め何でも持っている年上の女性の愛人。自分に対する関心の低さに傷ついたまま、女は旅に出る。北の果てへ、考古学的に価値のある岩絵を見にー。コンパートメントで同室はなんと失礼で粗野な若い男だったー。
展開が演劇みたいに早いなと。心の旅路は分かるし表情も生きている。でもなんかカンヌ〜って感じだった。
ピカソ展へ。日本未公開のものも含め数が多かった。同時代人のクレーの絵も数があった。私の好きなマティスにも響く作品があり満足。
近くの刀の装具展も回って帰る。
まあまず良い気分転換だったかな。
◼️ いせひでこ「まつり」
なんの予備知識もなく手にしたら、先月読んだ「大きな木のような人」のヒロインさえらがいた。
主にヨーロッパ、特にスペインやパリのイメージもあるいせひでこさん。今回は日本のまつり。どんなんだろう、と開いてびっくり。さえらがいたのです。何の予備知識もなかったのにこの暗合。だから読書はおもしろい、ワタクシ天才的なハナを持ってる?なんて思っちゃいました笑
「ルリユールおじさん」は植物図鑑の本を修理して欲しくてパリの街を探し歩く少女ソフィーが主人公。
「大きな木のような人」には植物学者になったソフィーの職場があるパリの植物園、そこへ毎日のように絵を描きにくる少女さえらが、ソフィーの同僚の学者、木のおじさんと仲良くなります。
日本へ帰ったさえら。ストーリーは木のおじさんとさえらの手紙から始まります。
親愛なるさえらへ
きみの大きな木より
内モンゴルでナラ、ボルネオでマングローブ
アマゾンで密林の研究をする木のおじさん。
さえらは5月、おじいさんが作ってくれた「さえらの小さな庭」にひまわりの種を植えます。
なんとさえらのおじいさんは庭師なのです。
きょねんパリで木の先生といっしょに育てたひまわりのように大きな花が咲くといいな。
「大きな木のような人」ではソフィーとおじさんにひまわりの種をもらい、咲いた花を届けたソフィー。小さく描かれたその黄色がひときわ印象に残ってます。
さて、10月、ちんじゅの森のお祭りの日、おじさんはついに来日を果たします。抱きつくさえら。ちょっと感動。やはりホームの日本ではさえらに自然な笑顔が目立ちます。
おじいさんの案内でさえらと杉並木の街道を歩く木のおじさん。和歌山・高野山の奥の院に続く道を思い出します。スケールの大きい、自分がミニチュアになってしまったような巨木の列、その上に白く光が見える。壮大な風景、なのにいせさんの絵はどこかコンパクトな印象を与えます。
かつて松尾芭蕉も新緑の季節に通ったとかで旅僧姿の2人、芭蕉と曾良でしょうか、一方は杖をついています、を緑と青、白の光が鮮やかな中に薄鼠の衣の人と強い印象を投げかけるページ。
それをめくると、現実は一気に秋深まりつつある祭りの準備。引いて練り歩くいわゆる屋台の製作中。森の木の葉の黄色、龍の彫刻の木目、さらに鳳凰は赤。この場面転換の素晴らしさ、熟練を感じさせるヴィヴィッドさにはやられました。
手古舞の衣装に身を包んだ可愛らしいさえら。完成した屋台は金と木目と黒、そして屋根の下などの暗部は魅惑の紫色。効いています。屋台は綱を引き、屋根の上には若者が立って踏ん張り、巡行を盛り上げます。
暮れ方、おはやし、灯火、龍に鳳凰、火の鳥ー
祭りのイメージはシンプル。想像力をかき立てます。
ちんじゅの森の夜の濃紺の下で祭りの赤が映えます。
我が家の地元の祭りも、よく似ています。隣が巡行のゴールとなる神社だったこともあり、秋になればお囃子の練習、本番クライマックスは神社で、大勢の見物人が見守る中、屋台はぐるぐる回る、よく聞き取れなかったけれど、掛け声が変わり
「まっせえこんかい!」
雄叫びのようなものを数回上げて終わりとなっていました。
祭りの後。寝てしまったさえらをおんぶするおじさん。物語の途中にはヒノキは柱に、カシは車に、ヤナギ、トチ、イチョウは彫刻にと恵みの活かし方に触れられています。「チェロの木」という作品にも、楽器の素材となる木、森の描写があり、いせさんらしいな、と考えます。
思い返せば、宮沢賢治「水仙月の四日」をはじめとしていせさんは決して和を描かない人ではないのでした。でもここ最近読んだ本のイメージで意識がヨーロッパに行っていて、音楽でいう転調のようなものを勝手に自分の心の中で味わっちゃいました笑。それにしても、今作でヨーロッパと日本の秋、土着の祭りをつなぎ見事に描き出した技には脱帽でした。
この連作はまだ続きがあるのだろうか?いまは知らない方がいいと感じています。
フィンランド映画「コンパートメントNo.6」カンヌでグランプリ(最高賞はパルム・ドール、グランプリは2位ってとこかな)受賞。アカデミー賞にもゴールデングローブ賞にもタイトルが上がっている。
夫を含め何でも持っている年上の女性の愛人。自分に対する関心の低さに傷ついたまま、女は旅に出る。北の果てへ、考古学的に価値のある岩絵を見にー。コンパートメントで同室はなんと失礼で粗野な若い男だったー。
展開が演劇みたいに早いなと。心の旅路は分かるし表情も生きている。でもなんかカンヌ〜って感じだった。
ピカソ展へ。日本未公開のものも含め数が多かった。同時代人のクレーの絵も数があった。私の好きなマティスにも響く作品があり満足。
近くの刀の装具展も回って帰る。
まあまず良い気分転換だったかな。
◼️ いせひでこ「まつり」
なんの予備知識もなく手にしたら、先月読んだ「大きな木のような人」のヒロインさえらがいた。
主にヨーロッパ、特にスペインやパリのイメージもあるいせひでこさん。今回は日本のまつり。どんなんだろう、と開いてびっくり。さえらがいたのです。何の予備知識もなかったのにこの暗合。だから読書はおもしろい、ワタクシ天才的なハナを持ってる?なんて思っちゃいました笑
「ルリユールおじさん」は植物図鑑の本を修理して欲しくてパリの街を探し歩く少女ソフィーが主人公。
「大きな木のような人」には植物学者になったソフィーの職場があるパリの植物園、そこへ毎日のように絵を描きにくる少女さえらが、ソフィーの同僚の学者、木のおじさんと仲良くなります。
日本へ帰ったさえら。ストーリーは木のおじさんとさえらの手紙から始まります。
親愛なるさえらへ
きみの大きな木より
内モンゴルでナラ、ボルネオでマングローブ
アマゾンで密林の研究をする木のおじさん。
さえらは5月、おじいさんが作ってくれた「さえらの小さな庭」にひまわりの種を植えます。
なんとさえらのおじいさんは庭師なのです。
きょねんパリで木の先生といっしょに育てたひまわりのように大きな花が咲くといいな。
「大きな木のような人」ではソフィーとおじさんにひまわりの種をもらい、咲いた花を届けたソフィー。小さく描かれたその黄色がひときわ印象に残ってます。
さて、10月、ちんじゅの森のお祭りの日、おじさんはついに来日を果たします。抱きつくさえら。ちょっと感動。やはりホームの日本ではさえらに自然な笑顔が目立ちます。
おじいさんの案内でさえらと杉並木の街道を歩く木のおじさん。和歌山・高野山の奥の院に続く道を思い出します。スケールの大きい、自分がミニチュアになってしまったような巨木の列、その上に白く光が見える。壮大な風景、なのにいせさんの絵はどこかコンパクトな印象を与えます。
かつて松尾芭蕉も新緑の季節に通ったとかで旅僧姿の2人、芭蕉と曾良でしょうか、一方は杖をついています、を緑と青、白の光が鮮やかな中に薄鼠の衣の人と強い印象を投げかけるページ。
それをめくると、現実は一気に秋深まりつつある祭りの準備。引いて練り歩くいわゆる屋台の製作中。森の木の葉の黄色、龍の彫刻の木目、さらに鳳凰は赤。この場面転換の素晴らしさ、熟練を感じさせるヴィヴィッドさにはやられました。
手古舞の衣装に身を包んだ可愛らしいさえら。完成した屋台は金と木目と黒、そして屋根の下などの暗部は魅惑の紫色。効いています。屋台は綱を引き、屋根の上には若者が立って踏ん張り、巡行を盛り上げます。
暮れ方、おはやし、灯火、龍に鳳凰、火の鳥ー
祭りのイメージはシンプル。想像力をかき立てます。
ちんじゅの森の夜の濃紺の下で祭りの赤が映えます。
我が家の地元の祭りも、よく似ています。隣が巡行のゴールとなる神社だったこともあり、秋になればお囃子の練習、本番クライマックスは神社で、大勢の見物人が見守る中、屋台はぐるぐる回る、よく聞き取れなかったけれど、掛け声が変わり
「まっせえこんかい!」
雄叫びのようなものを数回上げて終わりとなっていました。
祭りの後。寝てしまったさえらをおんぶするおじさん。物語の途中にはヒノキは柱に、カシは車に、ヤナギ、トチ、イチョウは彫刻にと恵みの活かし方に触れられています。「チェロの木」という作品にも、楽器の素材となる木、森の描写があり、いせさんらしいな、と考えます。
思い返せば、宮沢賢治「水仙月の四日」をはじめとしていせさんは決して和を描かない人ではないのでした。でもここ最近読んだ本のイメージで意識がヨーロッパに行っていて、音楽でいう転調のようなものを勝手に自分の心の中で味わっちゃいました笑。それにしても、今作でヨーロッパと日本の秋、土着の祭りをつなぎ見事に描き出した技には脱帽でした。
この連作はまだ続きがあるのだろうか?いまは知らない方がいいと感じています。
2月書評の2
永井路子さんの古代、奈良もの好きだった。この紫の背に白の背文字がしぶくて貫禄があって良かった。楽しませていただいて心から感謝申し上げます。合掌。
ミステリマガジン、ジョルジュ・シムノン特集なんてめーーったにないだろうと買っちゃいました。3月に「メグレと若い女の死」の映画あるんですね。最近読んだ!とびっくり。しかも監督はパトリス・ルコント。「髪結の亭主」「仕立て屋の恋」「タンデム」に「タンゴ」「イヴォンヌの香り」「大喝采」「フェリックスとローラ」とか観に行ったなあ。ブームだった。
「仕立て屋の恋」もメグレシリーズ。でもこの映画ではただのワキ役なんだけどね。
◼️ アナトール・フランス「舞姫タイス」
動機、はシンプル。傾倒したという芥川もこの作品読んでたのかな、なんて思う。
理由、動機、は物語にとって大切なことがある。例えばオルハン・パムク「雪」では主人公が恋焦がれた女が裏切る理由はシンプルでストンと落ちる。今作も物語の芯が、自明であったところへ戻って終わり。なんとなく、結局それかーいという感がないでもないけども。
エジプトはナイル川流域、イエスに仕える身として修行に励む修道院長パフニュス。もとは富裕な家に生まれ放蕩な暮しをしていたがやがて宗教の道に入った。パフニュスはかつてアレクサンドリアに住んでいた時に見たタイスー劇場女優にして高級娼婦ーを思い出し、悔悛させ清らかな道へいざなうため旅に出る。
一方タイスは少女のころ、懐いていた黒人の奴隷が信心深く、洗礼を受けていた。その奴隷はのちに殉教し聖人と称えられた。やがて美しさを見出されて踊り子となり、富裕な客に身を任せるようになった。そしてパフニュスは少年の頃、タイスの家の前まで行ったことがあったのだった。
突然訪ねてきたパフニュスを、最初はもの慣れた態度であしらっていたものの、やがてタイスは熱い言葉に打たれ、すべてを棄てて修道院に入る道を選ぶ。
タイスを女性修道院に送り届けたパフニュスの名声は高まっていく。しかし彼は苦しんでいた。悪魔がさまざまな形で、彼を肉欲へと誘惑するのだ。最終的に聖人アントニウスにまみえるパフニュスだったがー。
最初は正直、うわこれ読み通せるだろか、と思った。キリスト教の・・理屈が多い。クソまじめで偏屈なパフニュスが、明らかに過度な思い込みを果たさんとかつての故郷へ向かう。途中で会った者にも自分の意見を押し付け気味。どうもカンチガイっぽく見える。
自分の意見をまくしたてるパフニュスに対し、タイスはもう少し冷たく突き放すかたたき出すかなどと思いきや、その幼い胸に刻み込まれた原風景とも言える体験を経て大人になっていたため説得されてしまう。このタイスの過去くらいからぐっと面白くなり、興味深く読み進んだ。
予想に反してタイスはパフニュスについていく。さあ街のアイドルであるタイスを取られまいと男たちは大騒動。燃える炎に石つぶてが飛ぶ。このへんシェイクスピアのような立ち回り。どこか戯曲っぽくて面白い。
パフニュスは幻影に苦しむ。悪魔に取り憑かれていると思い込む。その現れ方もさまざまで長くて読み応えがある。悩み苦しむ中でパフニュスは不思議な力を身につけて、聖人としての評判が本人の意思と関係なくどんどんと沸騰していくのがコメディみたいでもある。そしてその悩みの正体を、町では愚直で通っていた者が言い当てるー。実に小説的だと思う。
確かに読んでいると芥川龍之介っぽい気もする。一見異常と思える成り行きがわかりやすい理由によって落ちたり、因果応報を含ませているのも似ているか。「羅生門」「藪の中」「南京の基督」なんかを思い出させる。
悪魔の攻め方や舞台の設定なぞがいかにもおどろおどろしく憎たらしく、怪しい雰囲気を出している。
芥川の作品のほか、先に出したパムクと、あとはなぜか窪美澄「ふがいない僕は空を見た」なんて想起した。そこまで長い物語ではないが、場面場面がなんか劇画的ではっきりしており、上手に描き分けて流れを作っているようにも感じられる。
芥川も「舞姫タイス」を読んだのだろうか。どう受け止めたのか、不条理さとシンプルさ、ストーリーの噛み合わせについて考えたのだろうか。
芥川龍之介が訳した「バルタザアル」も読んでみようかな。「タイスの瞑想曲」も聴いてみよう。
ミステリマガジン、ジョルジュ・シムノン特集なんてめーーったにないだろうと買っちゃいました。3月に「メグレと若い女の死」の映画あるんですね。最近読んだ!とびっくり。しかも監督はパトリス・ルコント。「髪結の亭主」「仕立て屋の恋」「タンデム」に「タンゴ」「イヴォンヌの香り」「大喝采」「フェリックスとローラ」とか観に行ったなあ。ブームだった。
「仕立て屋の恋」もメグレシリーズ。でもこの映画ではただのワキ役なんだけどね。
◼️ アナトール・フランス「舞姫タイス」
動機、はシンプル。傾倒したという芥川もこの作品読んでたのかな、なんて思う。
理由、動機、は物語にとって大切なことがある。例えばオルハン・パムク「雪」では主人公が恋焦がれた女が裏切る理由はシンプルでストンと落ちる。今作も物語の芯が、自明であったところへ戻って終わり。なんとなく、結局それかーいという感がないでもないけども。
エジプトはナイル川流域、イエスに仕える身として修行に励む修道院長パフニュス。もとは富裕な家に生まれ放蕩な暮しをしていたがやがて宗教の道に入った。パフニュスはかつてアレクサンドリアに住んでいた時に見たタイスー劇場女優にして高級娼婦ーを思い出し、悔悛させ清らかな道へいざなうため旅に出る。
一方タイスは少女のころ、懐いていた黒人の奴隷が信心深く、洗礼を受けていた。その奴隷はのちに殉教し聖人と称えられた。やがて美しさを見出されて踊り子となり、富裕な客に身を任せるようになった。そしてパフニュスは少年の頃、タイスの家の前まで行ったことがあったのだった。
突然訪ねてきたパフニュスを、最初はもの慣れた態度であしらっていたものの、やがてタイスは熱い言葉に打たれ、すべてを棄てて修道院に入る道を選ぶ。
タイスを女性修道院に送り届けたパフニュスの名声は高まっていく。しかし彼は苦しんでいた。悪魔がさまざまな形で、彼を肉欲へと誘惑するのだ。最終的に聖人アントニウスにまみえるパフニュスだったがー。
最初は正直、うわこれ読み通せるだろか、と思った。キリスト教の・・理屈が多い。クソまじめで偏屈なパフニュスが、明らかに過度な思い込みを果たさんとかつての故郷へ向かう。途中で会った者にも自分の意見を押し付け気味。どうもカンチガイっぽく見える。
自分の意見をまくしたてるパフニュスに対し、タイスはもう少し冷たく突き放すかたたき出すかなどと思いきや、その幼い胸に刻み込まれた原風景とも言える体験を経て大人になっていたため説得されてしまう。このタイスの過去くらいからぐっと面白くなり、興味深く読み進んだ。
予想に反してタイスはパフニュスについていく。さあ街のアイドルであるタイスを取られまいと男たちは大騒動。燃える炎に石つぶてが飛ぶ。このへんシェイクスピアのような立ち回り。どこか戯曲っぽくて面白い。
パフニュスは幻影に苦しむ。悪魔に取り憑かれていると思い込む。その現れ方もさまざまで長くて読み応えがある。悩み苦しむ中でパフニュスは不思議な力を身につけて、聖人としての評判が本人の意思と関係なくどんどんと沸騰していくのがコメディみたいでもある。そしてその悩みの正体を、町では愚直で通っていた者が言い当てるー。実に小説的だと思う。
確かに読んでいると芥川龍之介っぽい気もする。一見異常と思える成り行きがわかりやすい理由によって落ちたり、因果応報を含ませているのも似ているか。「羅生門」「藪の中」「南京の基督」なんかを思い出させる。
悪魔の攻め方や舞台の設定なぞがいかにもおどろおどろしく憎たらしく、怪しい雰囲気を出している。
芥川の作品のほか、先に出したパムクと、あとはなぜか窪美澄「ふがいない僕は空を見た」なんて想起した。そこまで長い物語ではないが、場面場面がなんか劇画的ではっきりしており、上手に描き分けて流れを作っているようにも感じられる。
芥川も「舞姫タイス」を読んだのだろうか。どう受け止めたのか、不条理さとシンプルさ、ストーリーの噛み合わせについて考えたのだろうか。
芥川龍之介が訳した「バルタザアル」も読んでみようかな。「タイスの瞑想曲」も聴いてみよう。
2月書評の1
Twitterに読書垢というのがあるのを知り、♯名刺代わりの小説10選で投入してみたら、あっという間にいいねが増加した。以前はつくのが珍しいことだったのにね。読書垢というのはようは本読み、その集まりなことで合言葉みたいなもんである。やり方ってもんだよなあと思う。いまはやたらスキマ時間にTwitterばかり見ててあまりよろしくない笑。まあ流れに身を任せるつもりではあるが、筋トレの間くらいはスマホ見ないようにしよう。
先日行った土佐堀川沿いのオシャレディナーの店。ゴルゴンゾーラチーズとハチミツのピザがめっちゃ美味かった。
◼️柏葉幸子「ブレーメンバス」
幽霊、異世界、異生物が日常に紛れ込むちょっと不思議な話。女性のストレスも滲む。
柏木幸子さんはジブリ作品の発想のもとになったという「霧のむこうのふしぎな町」を読んだ。今回も、基本的には児童小説。微笑ましい巡り合わせや異生物、さらに怖い度高めのホラーっぽいもの、異世界、幽霊、さらにはなんかコメディっぽい現実ものまで盛りだくさん。
「金色ホーキちゃん」
髪を逆立てたロックンローラーがある家族を救う。後日談がいいですね。
「桃から生まれた」
伝説がこんな話に・・次々と不思議な赤ちゃんが。
「ハメルンのお姉さん」
ギスギスした家庭を救うさわやかなお姉さん。ラストがまたいいです。よき短編。
「オオカミ少年」
オオカミ犬が変身。子どものころいかにもありそうな・・探偵!ナイトスクープでやっちゃいそうな仕掛け。
「つづら」
微妙な異生物。も少し読みたいかな。
「ピグマリオン」
今作中一番怖くて長い。ホラー作家さんの作品にあっても違和感ありません。人形もの。
「三人の幽霊」
笑えるようなそうでないような・・3人姉妹は難しいと、次女の女性にも聞いたことがある。
「シンデレラ坂」
深夜に純白のドレス。コメディー?これまた他作家さんの短編集にありそうな一篇。けっこうさわやかな結末で好きですよ。
「みなみはエッちゃんがきらいです」
お母さんの妹エッちゃんの不思議な行動と、母とのおかしな会話のわけは・・やはりドラクエを想像する。
「十三支」
これも姉妹もの。突然消えた叔母。ひとつ増えた干支。その特別な1年とは。
「ブレーメンバス」
それぞれに事情を抱えた、小学生からおばあさんまでの4人の女たち。細部確認してないが、他の話の登場人物にゆかりのある方々がバス停で待つ。
いわゆる嫁という立場に悩んできた女性、不倫、独身女性の昔の恋心などを滲ませた作品が多い印象だった。もはや大人の読み物かも。
不思議さと、女の事情。日常に連なる、少しだけ飛躍した短編ワールド。すぐ読めて楽しめる本でした。
先日行った土佐堀川沿いのオシャレディナーの店。ゴルゴンゾーラチーズとハチミツのピザがめっちゃ美味かった。
◼️柏葉幸子「ブレーメンバス」
幽霊、異世界、異生物が日常に紛れ込むちょっと不思議な話。女性のストレスも滲む。
柏木幸子さんはジブリ作品の発想のもとになったという「霧のむこうのふしぎな町」を読んだ。今回も、基本的には児童小説。微笑ましい巡り合わせや異生物、さらに怖い度高めのホラーっぽいもの、異世界、幽霊、さらにはなんかコメディっぽい現実ものまで盛りだくさん。
「金色ホーキちゃん」
髪を逆立てたロックンローラーがある家族を救う。後日談がいいですね。
「桃から生まれた」
伝説がこんな話に・・次々と不思議な赤ちゃんが。
「ハメルンのお姉さん」
ギスギスした家庭を救うさわやかなお姉さん。ラストがまたいいです。よき短編。
「オオカミ少年」
オオカミ犬が変身。子どものころいかにもありそうな・・探偵!ナイトスクープでやっちゃいそうな仕掛け。
「つづら」
微妙な異生物。も少し読みたいかな。
「ピグマリオン」
今作中一番怖くて長い。ホラー作家さんの作品にあっても違和感ありません。人形もの。
「三人の幽霊」
笑えるようなそうでないような・・3人姉妹は難しいと、次女の女性にも聞いたことがある。
「シンデレラ坂」
深夜に純白のドレス。コメディー?これまた他作家さんの短編集にありそうな一篇。けっこうさわやかな結末で好きですよ。
「みなみはエッちゃんがきらいです」
お母さんの妹エッちゃんの不思議な行動と、母とのおかしな会話のわけは・・やはりドラクエを想像する。
「十三支」
これも姉妹もの。突然消えた叔母。ひとつ増えた干支。その特別な1年とは。
「ブレーメンバス」
それぞれに事情を抱えた、小学生からおばあさんまでの4人の女たち。細部確認してないが、他の話の登場人物にゆかりのある方々がバス停で待つ。
いわゆる嫁という立場に悩んできた女性、不倫、独身女性の昔の恋心などを滲ませた作品が多い印象だった。もはや大人の読み物かも。
不思議さと、女の事情。日常に連なる、少しだけ飛躍した短編ワールド。すぐ読めて楽しめる本でした。
1月書評の11
1月は12.5作品(パムクは上巻だけだから笑)12冊。まあこんなもんかというスタート。ちょっとラノベ児童っぽい方向かな。まあまあ、でも楽しい月ではありました。
京都の中華サカイの冷麺はめちゃうまで我が家の定番になっている。月と火星が接近してきれいだった。
◼️ 天花寺さやか
「京都府警あやかし課の事件簿2」
京都修行中の身としてはめっちゃ参考になる。宇治に嵐山、祇園祭。
ちと事情があり2巻から。京都府警には人外特別警戒隊、通称「あやかし課」が置かれており、霊力を持ったメンバーが登用されている。
主人公の古賀大(まさる)は新人の課員でふだんは二十歳の女性。かんざしを抜くと剣士の男まさるの姿となる。あやかし課のエース坂本塔太郎は時に青龍となり、先輩の琴子は薙刀の名手に変身する。
この巻の最初のお話は、千年を生きている化け猫の月詠(つくよ)がずっと探していた鬼笛の音を聴きつけ、笛を入手した持ち主の若者・聡志の部屋へ長巻という武器を持った少女の姿となって乗り込み、夜な夜な吹けと迫る。聡志はたまたま出会ったあやかし課に相談した、というもの。さらに聡志には鬼笛を狙う別の魔の手が忍び寄っていたー。
笛の由来を考えるうち、在原業平が持っていたものと判明、当の業平も出演して、宇治の平等院鳳凰堂に納めるのが良いとアドバイスする。豪壮な太刀使いとなった敵、渡会が攻撃を仕掛け、月詠は毒矢で敵の手中に落ちる。鬼笛の吹き手を先祖に持つ聡志の身体には異変がー。宇治に向かう中、牛車と自動車のカーチェイスに激しい戦い、果たして鬼笛の行方はー。
朱雀門の鬼笛、は十訓抄などに出てくるらしい。私は確か坂東眞砂子「鬼に喰われた女」で読んだか、違ったか・・今回の物語の中心となる業平の笛は、朱雀門のものとは違うようだが、月詠に鬼笛のことを教えたのは朱雀門の笛、葉二(はふたつ)を吹いた浄蔵である。どちらにしても、月夜の笛、あやかし跳梁する古都の、栄華を誇る鳳凰堂、冴えざえとした音色を想像する。宇治の雰囲気を思い出す。
最初の話からかなり飛ばしている。在原業平、さらに霊いっぱい、ものすごい威力のあやかしがたくさん・・なんかハチャメチャぶりに気持ちよくなってしまうくらいだった。
2話めは一転、恋の話。嵐山、桂川に渡月橋、竹林に縁結びの野宮(ののみや)神社・・大は塔太郎への想いを募らせ、ラブコメ風の味わいも。
私は関西に住みながら長いこと京都シロートさんだった。行かなかったし、有名観光地がどこにあるかも知らず、たまに京博や国立近代美術館に展覧会を観に行ってすぐ帰るくらい。
それが、コロナ前のある年、親族と同窓会、2つの観光ガイドを頼まれてから研究したのがきっかけで、今は大好きになり、情報を集め修行中である。源氏物語も完読、感銘を受け、宇治や嵐山で源氏物語巡りをした。
本も、京都の本屋で、京都関連の小説紹介の本を買ってきて読んだり、中の名建築を訪ね歩いたり、何かと意識している。
今回の作品は、宇治にしても、嵐山にしても、八坂神社にしても、自分が巡り、思い出深かった情景が浮かぶ。題材としては観光地で、誰にもそうかも知れない。しかし読んだ中でも、その出し方が上手な感があった。行ってみようか、という場所もいくつも。嵐山の名刹という祇王寺、気にはなっていた神泉苑など、くすぐられる。
夏の祇園祭、たくさんの小説で触れた、京都の伝統。今回はそれに気概のようなものと、地元市民が自然に持つ思い入れのようなものを感じることができた。
冬の京都は寒いけど、観光客も少ないし、静かな風情があって好きやね。さてまた行こうかな。カフェから渓谷の眺めが素晴らしいという嵐山桂川近くの福田美術館に行きたいな。
京都の中華サカイの冷麺はめちゃうまで我が家の定番になっている。月と火星が接近してきれいだった。
◼️ 天花寺さやか
「京都府警あやかし課の事件簿2」
京都修行中の身としてはめっちゃ参考になる。宇治に嵐山、祇園祭。
ちと事情があり2巻から。京都府警には人外特別警戒隊、通称「あやかし課」が置かれており、霊力を持ったメンバーが登用されている。
主人公の古賀大(まさる)は新人の課員でふだんは二十歳の女性。かんざしを抜くと剣士の男まさるの姿となる。あやかし課のエース坂本塔太郎は時に青龍となり、先輩の琴子は薙刀の名手に変身する。
この巻の最初のお話は、千年を生きている化け猫の月詠(つくよ)がずっと探していた鬼笛の音を聴きつけ、笛を入手した持ち主の若者・聡志の部屋へ長巻という武器を持った少女の姿となって乗り込み、夜な夜な吹けと迫る。聡志はたまたま出会ったあやかし課に相談した、というもの。さらに聡志には鬼笛を狙う別の魔の手が忍び寄っていたー。
笛の由来を考えるうち、在原業平が持っていたものと判明、当の業平も出演して、宇治の平等院鳳凰堂に納めるのが良いとアドバイスする。豪壮な太刀使いとなった敵、渡会が攻撃を仕掛け、月詠は毒矢で敵の手中に落ちる。鬼笛の吹き手を先祖に持つ聡志の身体には異変がー。宇治に向かう中、牛車と自動車のカーチェイスに激しい戦い、果たして鬼笛の行方はー。
朱雀門の鬼笛、は十訓抄などに出てくるらしい。私は確か坂東眞砂子「鬼に喰われた女」で読んだか、違ったか・・今回の物語の中心となる業平の笛は、朱雀門のものとは違うようだが、月詠に鬼笛のことを教えたのは朱雀門の笛、葉二(はふたつ)を吹いた浄蔵である。どちらにしても、月夜の笛、あやかし跳梁する古都の、栄華を誇る鳳凰堂、冴えざえとした音色を想像する。宇治の雰囲気を思い出す。
最初の話からかなり飛ばしている。在原業平、さらに霊いっぱい、ものすごい威力のあやかしがたくさん・・なんかハチャメチャぶりに気持ちよくなってしまうくらいだった。
2話めは一転、恋の話。嵐山、桂川に渡月橋、竹林に縁結びの野宮(ののみや)神社・・大は塔太郎への想いを募らせ、ラブコメ風の味わいも。
私は関西に住みながら長いこと京都シロートさんだった。行かなかったし、有名観光地がどこにあるかも知らず、たまに京博や国立近代美術館に展覧会を観に行ってすぐ帰るくらい。
それが、コロナ前のある年、親族と同窓会、2つの観光ガイドを頼まれてから研究したのがきっかけで、今は大好きになり、情報を集め修行中である。源氏物語も完読、感銘を受け、宇治や嵐山で源氏物語巡りをした。
本も、京都の本屋で、京都関連の小説紹介の本を買ってきて読んだり、中の名建築を訪ね歩いたり、何かと意識している。
今回の作品は、宇治にしても、嵐山にしても、八坂神社にしても、自分が巡り、思い出深かった情景が浮かぶ。題材としては観光地で、誰にもそうかも知れない。しかし読んだ中でも、その出し方が上手な感があった。行ってみようか、という場所もいくつも。嵐山の名刹という祇王寺、気にはなっていた神泉苑など、くすぐられる。
夏の祇園祭、たくさんの小説で触れた、京都の伝統。今回はそれに気概のようなものと、地元市民が自然に持つ思い入れのようなものを感じることができた。
冬の京都は寒いけど、観光客も少ないし、静かな風情があって好きやね。さてまた行こうかな。カフェから渓谷の眺めが素晴らしいという嵐山桂川近くの福田美術館に行きたいな。
1月書評の10
だいぶ更新をサボってしまった。寒波からは穏やかで難はない。来年と同じ、寒すぎないくらいの冬。
◼️ オルハン・パムク「無垢の博物館」上
読みやすいけど、さて、どこへ向かうのか?1970年代の昼メロ的愛憎。
オルハン・パムクは好きだけど、決して読みやすい、理解できるものばかりではない。
「私の名は赤」は中世のミステリ仕立てでおもしろい設定、流れだった。「雪」はミステリでいうクローズド・サークルの中、政治的な色合いの濃い、サスペンス的な話だった。あと「新しい人生」は読みにくい、「赤い髪の女」は先が読めてしまう物語だったけど両方ともテーマが明確で、納得できるものがあった。
逆に「白い城」「黒い本」あたりはなかなか難しかった。って、整理してたら「ペストの夜」というのが新刊で出ているのに気がついた。後で調べよう。
だいたい作品の中で共通しているのが、おおむね男性の主人公が女にだらしないこと。この状況でそれ考えるか、という場面もあったりした。でもかえって、男として、女としての人間臭さを醸し出しているような気もした。
さて、今回は、読みやすいけど、進まない部分があった。やっぱり、女にだらしがないボンボンの主人公。
30歳のケマルは工場経営者である父の次男で、父の会社でポストを与えられ、裕福な暮らしをしている。彼は上流階級の娘・スィベルと結婚することになっており、すでに日常的に身体の関係を持っていた。
ケマルは親戚の娘でブティックに勤め、大学受験を控えている18歳のフュスンの美しさに惹かれ、母が借りていた部屋で男女の仲となってしまう。ケマルはフュスンとの愛欲の日々に陶酔してしまう。やがてスィベルとの婚約パーティーが催され、招待されたフュスンはその日から消息を絶つ。ケマルは傍目にもおかしいほど変調を来たし、スィベルに心配されるがー。
純文学な路線で男女の愛を人間臭く描きたいのかな、と思う。設定の年代は、まだまだ女性の純潔を守らなければならない、という風潮の中で、スィベルやフュスンに「進歩的な」女性の存在を象徴させていると思われる。テロも頻繁に起こる、世相穏やかならぬ中の微妙な恋愛状況をベースとしている。
んー、この裏切りの中でうまく立ち回ろうするがやはりカタストロフィがら訪れ、その余波もある。フュスンに入れあげたおかげでどんどんまずい立場になっていくケマル。さらに、少々変態的に愛の残滓に浸り、どうしようもなく抜け出せずダブルの破局を迎える。
友人の女性が、男も女も若い時は恋愛でみっともないことをしている、と言っていた。当の本人にもあったのかな、などと思いつつ、自分に照らすと、やっぱりある。この上巻の最後の方、フュスンとその家族の前で支離滅裂になってしまうところなどは、誇張されてはいるが、どこか分かるような気もするんだよね。確かに人間臭いといえばそう。
ちょっと予測できる大きな流れ、ひとつひとつの場面で細かい描写を積み重ねるのも非日常をある一定数出すことで生の人間性を浮き彫りにしようとしていると思える。だから長くてダイナミックさが薄くなりがちなのかも知れない。
著者が青春時代を過ごしたであろう1970年代のトルコの猥雑ぶりや食べ物、飲み物にいたるまでの社会風俗の描写には興味をそそられるし、何かと不自由な社会生活はすでにレトロっぽい感覚を呼び起こす。味があるな、と思う。そして身分、金持ちの娘と店員の女の違い、は心理的に大きく反響する。ヨーロッパとアジアの中間、かつて西洋世界と渡り合ってきたトルコの地名は知的好奇心を刺激する。
メロメロドラマの様相を呈している上巻。下巻を読むのはちょっと先になりそうだけれど、ある程度流れはキリまできた。ここからどうなるのか、さらなる破滅型か。どうなのか。さてさて。
◼️ オルハン・パムク「無垢の博物館」上
読みやすいけど、さて、どこへ向かうのか?1970年代の昼メロ的愛憎。
オルハン・パムクは好きだけど、決して読みやすい、理解できるものばかりではない。
「私の名は赤」は中世のミステリ仕立てでおもしろい設定、流れだった。「雪」はミステリでいうクローズド・サークルの中、政治的な色合いの濃い、サスペンス的な話だった。あと「新しい人生」は読みにくい、「赤い髪の女」は先が読めてしまう物語だったけど両方ともテーマが明確で、納得できるものがあった。
逆に「白い城」「黒い本」あたりはなかなか難しかった。って、整理してたら「ペストの夜」というのが新刊で出ているのに気がついた。後で調べよう。
だいたい作品の中で共通しているのが、おおむね男性の主人公が女にだらしないこと。この状況でそれ考えるか、という場面もあったりした。でもかえって、男として、女としての人間臭さを醸し出しているような気もした。
さて、今回は、読みやすいけど、進まない部分があった。やっぱり、女にだらしがないボンボンの主人公。
30歳のケマルは工場経営者である父の次男で、父の会社でポストを与えられ、裕福な暮らしをしている。彼は上流階級の娘・スィベルと結婚することになっており、すでに日常的に身体の関係を持っていた。
ケマルは親戚の娘でブティックに勤め、大学受験を控えている18歳のフュスンの美しさに惹かれ、母が借りていた部屋で男女の仲となってしまう。ケマルはフュスンとの愛欲の日々に陶酔してしまう。やがてスィベルとの婚約パーティーが催され、招待されたフュスンはその日から消息を絶つ。ケマルは傍目にもおかしいほど変調を来たし、スィベルに心配されるがー。
純文学な路線で男女の愛を人間臭く描きたいのかな、と思う。設定の年代は、まだまだ女性の純潔を守らなければならない、という風潮の中で、スィベルやフュスンに「進歩的な」女性の存在を象徴させていると思われる。テロも頻繁に起こる、世相穏やかならぬ中の微妙な恋愛状況をベースとしている。
んー、この裏切りの中でうまく立ち回ろうするがやはりカタストロフィがら訪れ、その余波もある。フュスンに入れあげたおかげでどんどんまずい立場になっていくケマル。さらに、少々変態的に愛の残滓に浸り、どうしようもなく抜け出せずダブルの破局を迎える。
友人の女性が、男も女も若い時は恋愛でみっともないことをしている、と言っていた。当の本人にもあったのかな、などと思いつつ、自分に照らすと、やっぱりある。この上巻の最後の方、フュスンとその家族の前で支離滅裂になってしまうところなどは、誇張されてはいるが、どこか分かるような気もするんだよね。確かに人間臭いといえばそう。
ちょっと予測できる大きな流れ、ひとつひとつの場面で細かい描写を積み重ねるのも非日常をある一定数出すことで生の人間性を浮き彫りにしようとしていると思える。だから長くてダイナミックさが薄くなりがちなのかも知れない。
著者が青春時代を過ごしたであろう1970年代のトルコの猥雑ぶりや食べ物、飲み物にいたるまでの社会風俗の描写には興味をそそられるし、何かと不自由な社会生活はすでにレトロっぽい感覚を呼び起こす。味があるな、と思う。そして身分、金持ちの娘と店員の女の違い、は心理的に大きく反響する。ヨーロッパとアジアの中間、かつて西洋世界と渡り合ってきたトルコの地名は知的好奇心を刺激する。
メロメロドラマの様相を呈している上巻。下巻を読むのはちょっと先になりそうだけれど、ある程度流れはキリまできた。ここからどうなるのか、さらなる破滅型か。どうなのか。さてさて。
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