2022年8月21日日曜日

8月書評の5

スコットランド国立美術館展に行ってきた。エル・グレコ、コレッジョ、デル・ヴェロッキオ、ティツィアーノ、ベラスケスにレンブラント、スコットランドらしくターナーにコンスタブル、ルーベンスにコロー、ルノワールなど有名画家の作品たち。これという目玉はなかったけども、ルネサンスからバロックへ、18世紀のパリを中心とした隆盛へ、そして19世紀以降、印象派などによる価値観の変遷へという流れがよく分かった気がした。

宗教画ばかりでなく、貴族から農民への日常、風俗、また広大な風景画も描かれるようになっていたが、やはり写実を中心とした絵が多かった。時代ごとに絵を並べるてみると、ずーっと写実的な、おおざっぱに言えば似た作風で推移してきている。特に近代では常に新しいものが求められる傾向が顕著な中、たしかにサロンの権威もあったと思うけども、モネらが既存の絵画から斬新な芸術へと舵を切りたくなるのも理解できるような。改めてなるほどと思った。

ちなみにシャーロック・ホームズの宿敵モリアーティ教授が愛してやまないジャン=バティスト・グルーズの作品も1点。「教本を開いた少年」表情と空気感はさすが。似たような絵が多くとも、たとえばベラスケスの作品などにはおっ、と思わせる違いを感じる。

ランチは神戸三宮の老舗洋食屋、グリル十字屋のポークチャップ、六甲ライナーに乗って小磯良平美術館へ。美術館は基本涼しいとこでゆったり出来るのでまさに夏向きの娯楽😆

小磯は、中之島美術館オープニングコレクション展で観た「コスチューム」という作品が良かった。和装、洋装、外国人留学生のモデル、ヌード、バレリーナ、舞妓と、女性の肖像を多く描いている。

今回は水色のワンピースを着て籐の?椅子に座る婦人像がよかった。

さて、ぼちぼち帰ろうかな、という時に喫茶の方を見たらウマそうなパンケーキが。厚焼きにカットされた大きな桃の果実、ナッツ、アイス。一も二もなく食べました。いや美味かったー。

神戸は、どこに何があるか、行き方も分かるし、安心してムダなく回れる。あまり大きな都市ではないけれど、福岡から出てきてから長年のホームタウン。たまにはこんなのもいいな、と思った夏の日なのでした。

◼️ 林望「トッカータ 光と影の物語 洋画編」

図書館で見かけた本。日本画編もあるらしい。

コロー「曲がり道」
ターナー「アイルズワース、ザイオン・フェリー・ハウスー日没」
ホイスラー「スピークホール No.1」
オキーフ「月とニューヨーク」
ルノワール「"大水浴"のための裸婦習作」
チネリー「円い窓と鳥籠のそばで扇を持つ中国人女性」
スランタン「若い娼婦」
ホッパー「ハイ・ロード」
ドゥグーヴ=ド=ヌンク「血の沼」
ロートレック「馬上の人の習作」
コンスタブル「ハムステッドの荒野・遠景に『塩の箱』と呼ばれる家」
ハーゼンクレーヴァー「感傷的な娘」
レンブラント「学者の肖像」

の絵をモチーフに8ページくらいの物語が綴ってあり等の絵がカラーで掲載されている。ストーリーは怪奇物語、といった風情でそれぞれ不思議でおどろおどろしい部分もある。

ただし、絵のことはまったく説明されず、物語と絵の関係にも言及はない。「大人の絵本」というふれこみだ。

由来が分からないので受け取り方にとまどう。ストーリー自体も、正直尻切れで余韻が感じられない。ただの創造も、説明がないのも、遊び心なのかもだが、肝心な部分がないとやはり楽しめないですわね。あちこちどうもうーんというのが目につく本。


スランタン「若い娼婦」の絵から創った「銘『蜻蛉(せいれい』」は日本の鼓を扱っていて、日本人画商、林忠正の名前も出てくる。原田マハ「たゆたえども沈まず」を思い出したかな。

まあよく創り込まれた村上春樹の短編集を読んだ直後だったので、余計に粗さが目についたのかも。


◼️ 村上春樹「神の子どもたちはみな踊る」

ひさびさに、ハルキの「らしい」短編集。

村上春樹はたまに読みたくなる。読んでなかった本が目に入ったので借りた。少し以前の、阪神大震災を絡めた作品集。

「UFOが釧路に降りる」
「アイロンのある風景」
「神の子どもたちはみな踊る」
「タイランド」
「かえるくん、東京を救う」
「蜂蜜パイ」

が収録されている。それぞれに震災のニュースが出てきて、間接的に影響を及ぼす。

長年の女房が突然冷静に出て行く、自分の空虚さを思う、「かえるくん」は得意の、まったくファンタジックな話。それぞれに事情がある主人公がその人生を振り返る内容となっている。これまで読んだ著作のテイストが繰り返されている向きもある。とても「らしい」といえばそう。

表題作の「神の子どもたちはみな踊る」で宗教団体の信者の母とともに布教していた主人公は、後の作品「1Q84」のNHK集金人の父について行っていた子、という設定を想起させる。踊る場面はなぜか藤沢周の芥川賞作品「ブエノスアイレス午前零時」を思い出したりなんかした。

特にラストの「蜂蜜パイ」は著者の分身である主人公の男がかつての恋愛、そこに欠けていたもの、と10数年の後に邂逅していて、過去のいくつもの作品で見てきたような内容。欠落は、ほんのちょっとしたこと、でも自分が脱皮できなかった部分であり、いい年齢の大人ゴコロをくすぐる。主演グループの女性の顔は最近聴きに行ったヴァイオリニストの神尾真由子をずっと想像しながら読んでいた。

まあその、不思議で、やっぱりちょっと変わっているんだけども、うまく落ち着いている。ただ、これは何を表しているんだろう?と深く考えることはやめとこうかな、といつものように思う。

村上春樹氏が中高生時代を送ったのはいまの私の地元。実は震災を題材とした作品は読まなかった。自分に大した被害はなかったけれどもやっぱり震災の衝撃は生々しい。

物資を送ってくれた人、会いに来てくれた友人、そのすべてに感謝をしながらも、未熟な私はうまく感情を表せなかったり、スタンスを測りかねたりしていた。福岡や東京の友人と震災の話題になってもどう説明していいか分かんないし、暗くなるしとあまり話さなかった。距離感というものを浮き彫りにしたのが震災だったかもしれない。

まあその、25年以上経ったし、大人だしでもはや感傷的にはなれない。逆にその距離感を感じた作品集でもあったかな。

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