2022年8月14日日曜日

8月書評の4

暑い夏。高校野球は佳境、バスケット🏀は仙台での男女代表4連戦。男子今回は馬場雄大が参加。入ると活躍するのはさすが。馬場ブーンと友人が呼んでいた変形レイアップ、ボールホーク、リバウンドに速攻。


河村は相変わらず入るとディフェンスが引き締まりスピードが上がる素晴らしいシックスマン。須田が3ポイントを連発し、井上宗一郎がインアウトともにがんばる。だんだんと日本代表のコアが出来上がってきた感じだ。スタメンPGの富樫はさすが。


週明けから、すべて解禁予定。やっと終わりだ〜。とりあえず、髪を切ろう。



◼️ いせひでこ「空のひきだし」


絵本作家、挿絵画家さんのエッセイ。求めているものに出会った感覚。パチッパチッと感応しながら読みました。



伊勢英子さんは、献本の絵本学入門書で知り、宮沢賢治の童話を絵本化した「水仙月の四月」で、どこか没入できるものを覚え、今年読んだ「見えないものを見る 絵描きの眼・作家の眼」には感銘を受けた。


そして図書館で見かけたこの本は、ちょっと私的にヤバかったですね〜。


エッセイとメモ入りのスケッチ。子どもたちには、雲に魂を奪われて雲ぼけしているので雲母、と呼ばれているという著者のキーワードはもちろん雲、空、チェロ、宮沢賢治、北海道、やはり絵描きだった父の死、愛犬の死、蜜蜂、スケッチ、色・・そして気分転換と旅。


「日常の生活では描ききれない何かがほこりのようにたまりすぎると、私はキャンバスを注文する」


この時届いたのは、百号の巨大キャンバス。白い溶剤で下地塗りを始める。


「はじめのひと刷毛を滑らせたとき、ざあっと部屋に風が吹いた。冬の凍った空の高みを駈けながら、自らの音に耐えかねてむせぶような風の声にたちすくむ」


やがて、落ち込む。


「雲ひとつない青空にまるで奥行きをみつけられないように、完全に画布と自分とのキョリ感を失っている」


どうする・・?


「白さの向こうからお呼びがかかる瞬間まで、何日でも待とう。私の物語が語れる時まで、私の歌がうたえる時まで」


このエッセイのラスト


「朝が来た。

   私は化粧をしない」


ダイジェストだとなかなか伝わらないかもしれない。昔、あるフィギュアスケート選手がチャイコフスキー「白鳥の湖」をフリーの曲に選び、意気込みを訊かれたとき


「私は氷上の白鳥になりたい」


と言ったとか。表現者、アーティストというのはプロフェッショナリズムと、独特の感性を持っているものだと思う。その人の個性、人生に深く根ざしている。それを文の形に表したものが読みたい、できればその人にしか出来ない表し方で、という気持ちが常にある。


誤解を恐れず私なりの言葉を使うと、アーティストは良いキレ方をしている、普通の人と違うものを持っている。行き過ぎた感性が人間の中にある。それを見たい。


伊勢さんの文章は私の興味のあるものを絡め、期待に応えてくれている。表現だけでなく、読み物としてもとても面白い。


「公園の樹々がいっぺんにパレットになったみたいな広場では空が晴れがましいカオをして何か描かれるのを待っている。キンモクセイのオレンジの粉々を下地に塗り込めましょうか。トチノキとイチョウの黄色のどちらがお好き?赤や白茶や紫(ふじ)色はサクラの落ち葉から昨夜の雨をしぼればすぐに採りだせる。ひまな私はえのぐの調合を考えながら歩く」


読んだり見たり聴いたりしたとき、しばしば自分が感じたものをどう表現するか考えてしまう時がある。終盤「幻日」という珍しい現象を目にしたときの言葉の連なりや、一目惚れして買い大事にしていたフラット3つの金のネックレスの描き方が美しい。


飛行機雲、キリストの言葉「エリ エリ ラマ サバクタニ」、パウル・クレーの「赤いフーガ」、三岸節子、星野道夫の死、個展の作品たち、全てパチッパチッと感応する音がするようだ。


個人的に、今年2頭の愛犬が立て続けに旅立ったこともあり、飼い犬グレイに想いを馳せるところも心に響いた。


思い入れすぎか・・しかし好きなものは仕方がない。理由はない。不思議に心が騒ぐものがそこにある。ブルッフやシベリウスのヴァイオリン協奏曲に浸る時のようだ。


なんか、解放される気がするんだよね。そのまま、自由に書いてほしい。



◼️ 泉鏡花「夜行巡査」


観念小説だとか。タイトルからいろいろ想像しますね。


明治28年、1895年に発表され、こないだ読んで書評を上げた「外科室」とともに泉鏡花の出世作です。どちらも何があるんだらう?といろいろ考えてしまうタイトルですね。


物語は車夫の老人が、扮装みなりが悪いと巡査から咎められているのを見た職人風の壮佼わかものが、後で事情を訊き、口を極めて巡査のことを罵る場面から始まります。セリフの途中に「維新前」と書いて「むかし」とルビをふっているところに時代感が。


その融通がきかなさそうな巡査は八田義延。時は12月の夜更けです。みすぼらしい女が乳飲み子とともに門のひさしの下にうずくまっています。しかし八田巡査は女の懇願にもかかわらず、


「規則に夜昼はない。寝ちゃあいかん、軒下で」

「いかん、おれがいったんいかんといったらなんといってもいかんのだ。たといきさまが、観音様の化身でも、寝ちゃならない、こら、行けというに」


と追い出してしまいます。ひどいもんです。なにせ交番を出て幾曲がりの道を巡り、再び駐在所に帰るまで、歩数約三万八千九百六十二と決めているようなガチガチの規則男です。


さて、場面変わって、皇居お堀端。若い美女と酔っ払った老人が歩いています。美女・お香は老人のことを伯父さんと呼び、おぼつかない足取りを心配しています。


このお香、両親はすでに亡くなっていました。そして、実は八田巡査と恋仲でした。しかし、八田が結婚を申し込んだところ、親代わりのこの伯父に断られていました。


「あいつもとんだ恥を掻いたな。はじめからできる相談か、できないことか、見当をつけて懸

かかればよいのに、何も、八田も目先の見えないやつだ。ばか巡査!」


と息巻く老人、深夜1時ごろです。そこへ、なんと当の巡査が通りかかります。


2人の前で、老人は一緒にさせない理由?条件?ともつかぬことをグダグダとしゃべり、お香をなぶります。結婚させないのはお香を苦しませるのが目的?ついにお香は声を震わして


「そんなら伯父さん、まあどうすりゃいいのでございます」


と問うのでした。それに答えて老人は恐ろしく倒錯的とも言える理由を告げたのでした。


嘆くお香、八田巡査は木像のごとく固まっていました。心の中に絶痛があってもパトロールの職責を果たせねばなりません。歩数すら決めています。


その時、老人のことばに絶望したお香が駆け出し、堀端の土手に飛び乗った。これは身を投げるか、と思った老人は引き留めようと急ぐ。しかし酔っ払っていたために倒れ、横ざまに、薄氷の張ったお堀へざんぶと落ちてしまいます。


駆けつけた八田巡査に、お香は抱きつきます。しばしの後、巡査は


「お退き」


助けてやる、職務だ、職掌だ、とひややかに口にする八田に、お香は蒼くなって


「おお、そしてまああなた、あなたはちっとも泳ぎを知らないじゃありませんか」


「いかん、だめだもう、僕も殺したいほどの老爺おやじだが、職務だ! 断念めろあきらめろ」


お香を振り切った巡査は、職務に殉じました。


後日人はその仁を称えました。しかし生命とともに愛を棄てた巡査、本当に仁だったのか、憐れむべき老車夫や母子に厳しく当たった巡査を誉めそやす人はいないじゃないか、いかがなものだろうか、と作品は締まっています。


後年の幻想小説、奇想の話を思い起こさせた「外科室」に比べ、こちらはなにかを社会に問いかけるような作品です。観念小説というそうです。


維新後の世情、江戸の市井の風情、その中の巡査の性質には度を外れた部分が、老人の理由には狂気が感じられます。そして、ストーリーはなんとも希望のないところで終わっています。


もひとつ泉鏡花のイメージには合わないものの、なにかしらの「ゆがみ」を深夜のシン・東京、皇居近くの片隅で演出してみせる、小さな極端を現出させたこの話は心に残ります。


ミニなお芝居のような作品でした。


芥川「芋粥」やそのモデルとなった「外套」をちょっと思い出すとこもあるかなと。


極めて小さいことを示す「藕糸の孔中/ぐうしのこうちゅう」、よろめき歩くさま、の「蹣跚たる/まんさんたる」、密かにことを企てすると意の「寝刃ねたばを合わす」など調べた。これくらいの量ならちょうどいいかな、初期の小説。




iPhoneから送信

0 件のコメント:

コメントを投稿