2020年9月20日日曜日

9月書評の4





マメアサガオは秋の花。

4連休。前半2日はいつもどおり。冬スーツクリーニング、首のリハビリ、ブックオフ、図書館等々。午前中で帰る。土曜は半袖短パンを後悔するくらい涼しく、きょうで着納め、と日曜日ジーンズ薄い上衣で出たら暑かった。難しい初秋。家にいても着ないと寒い、着ると暑い。やれやれ。

◼️幸田文「おとうと」


全編に憂いが横たわる。両親と弟、そして主人公の女学生・げん。みずみずしく悲しい物語。


幸田文の代表作で1956年、昭和31年の作品。先日幸田文のエッセイ「番茶菓子」を読んで、今度は小説初読み。感性豊かで滋味深い文章表現は直接的に心に染み込む感覚がする。設定には著者の家族体験が深く根ざしている。


げんは17歳の女学生。作家の父と継母が不仲で家計的にも楽ではなく、また継母はリューマチ病みで家事はすべてげんが担っていた。3つ下の弟・碧郎とは、いつも長い土手を一緒に歩いて通学していた。ある日、友人に怪我をさせたと濡れ衣を着せられたことがきっかけで、碧郎は不良グループに出入りするようになり、みるみる態度や言葉遣いが変わっていくー。


息子を甘やかす父親、血が繋がっていない姉弟を持て余し、不機嫌な母。不良グループに入って怖いものがなくなったように振る舞い、トラブルの絶えない碧郎。げんは振り回される。誰も、げんのことは気に留めない。当然のように家事や用事をさせっぱなしである。


碧郎とは姉弟ならでは、そんな境遇だからこそ心が通う時もあるが、この弟も含め、家ではほとんどげんは省みられない。なんともやりきれない状況だが、げんは爆発したり変にねじ曲がったりはせず、家と弟のために誠実に尽くす。感情の起伏が激しく、不良になってしまう碧郎とあまりに対照的だ。


弟が万引きをして逃げているのを目撃したことで、碧郎との間に溝ができ、一緒に学校に行かなくなった時の描写にうなる。


「道は凍てついている。桜は裸でごつごつしている。川は黙々と下へ下へと走りくだっている。川波の頭は削いだように三角だ。ひゅうっと吹きあげて来る風、その温度が計ってみたい。この冷たさ痛さは何度という温度なんだろう。おそらく温度というものじゃなくて寒度とか氷度とかいうものだろうと悔しくなる。それほど川からの風は残酷な風だった」


誰も話し相手がいないげんの、17歳の女性の若く幼い感受性に合わせたような心象。やがてこの寒さがもとで、碧郎の盗みも露見してしまう。


関東大震災を挟む、大正末期の時代設定である。また、幸田露伴を父に持ち、父は継母と不仲であり、弟がいた著者の家庭がベースになっているようだ。


17歳のげんにも、つきまとう男が出てきたりと、続く弟のトラブルと相俟って飽きさせない。また年齢特有の、清しくみずみずしい色気ともいえるものや、危うさが匂う。


生々しい家庭状況、暗く引いた下地に、姉妹が、浮かび上がる。げんには縁談がある。相手は銀行マンで、ニューヨークに赴任する前に身を固めたいというものだった。心惹かれるげん。しかし、げんは「てんからぴしゃりと」断る。この時、ニューヨークに行っていれば、人生は劇的に変わり、嫌な家庭を脱出し、英語と国際マナーも身につけ、裕福に暮らせる可能性があった。しかし、


「アメリカの魅力より弟を去って行くことの危惧のほうが、はるかに大きなものであった。亡くなった生母のおもかげがちらちらと弟の中に見えていた。(中略)いま弟をひとりぽっちにしてはおけない心がしきりだった。」


そこまでも、と思わないでもないが、納得するようなシチュエーションを作っているし、どこか夫だのみだけの結婚は危うい気も漂わせる。


やがて碧郎は不治の病に侵される。ここもまた当然、医師に若い女性はよろしくないと言われても、げんがひたすら看病する。命を見つめ、死病の肉親と向き合い、病院や病気にまつわる色を畏怖する。そして、悲しい物語はラストへとー。やはりホロリとしてしまう。


私にも姉がいるが、姉弟の感じがうまく出ている、とは思う。感性が先に立つようにも、見えつつ、けっこう計算されたストーリー進行があるように見える。


最後に、文テイストの一文を。

「じみは粋の通り過ぎ。はでは幼いはでに飽きてようやく粋になりたがる。その粋をまた通り越してじみに納まる。」


着物が大好きな幸田らしい書き方。こういうのがあると、作品が豊かになる。幸田文、もう少し読んでみようと思う。



◼️二葉亭四迷「浮雲」


新しい時代の、新しい文体。内容もキャラクター設定にも移りゆくステージの匂いがあふれている。苦悩を捉えた作品だが、読んでいてとても楽しかった。


明治20年に刊行された小説で、言文一致体の嚆矢とされ、後世の作家に大きな影響を与えたとされる。同時に江戸時代の延長の戯作風な作りからも脱していた。坪内逍遙の名を使ってしか出版できず、その出来に納得できない著者本人が


「くたばつて仕舞へ!」と放った言葉が"二葉亭四迷"というペンネームになったという。


さてさて、その文章、どんなもんだろうと興味深く読み出した。なにやら講談調でリズムが良い。


「途上人影(ひとけ)の稀れになった頃、同じ見附の内より両人(ふたり)の少年(わかもの)が話しながら出て参った。一人は年齢(ねんぱい)二十二三の男、顔色は蒼味三分に土気七分、どうもよろしくないが、秀でた眉に儼然(きっ)とした眼付で、ズーと押徹った(おしとおった)鼻筋、唯惜(ただおしい)かな口元が些と(ちと)尋常でないばかり。」


これは主人公・内海文三の登場シーン。くだけた感じで人が語っているかのよう。二葉亭四迷は落語の語りを研究したという情報もどこかで見たような。


物語開始前の著書自身の「はしがき」はもっと戯作調だ。解説によれば「今日、言文一致体の最初のこころみと言われているこの小説が、この時代の文章観のなかでどれほど孤独で不安なこころみであったかを暗示するものである。」とのこと。


また公文書は長いこと漢文で、明治になっても続いていた(確か)。同時期の夏目漱石もそうだが、かなり漢文の知識が深いなと思う。読んでてやはり他の作家を意識してるのかな、という共感した。


【イントロダクション】

官吏である内海文三は、東京の叔父・園田孫兵衞宅に住まわせてもらっていた。文三は従姉妹のお勢に恋し、お勢の母・お政も一時そうした心づもりだったが、人員整理で文三が失職したことからひどく冷たく扱うように。そのうちに文三の同僚でクビにもならず、如才なく上司の機嫌を取り、女性の扱いも上手い本田昇が園田家に頻繁に来るようになり、お勢の喜んでいる様子を見て文三は落ち込む。


まじめだが覇気のない、世渡り下手な文三と、軽くて世渡り上手、如才ない本田の対比がメインの一つ。本田はリストラされるどころか1段階出世までする。


またお勢も、勉強する女を標榜し、西洋の編み物も習うなど、当時の新時代の雰囲気を写実的に伝えてくる。自分の気持ちが見えない十七のお勢。



文三は職を失い、叔母にはボロクソに言われ、本田にはプライドを傷つけられる。さらに気になっているお勢を本田に奪われるんじゃないかとクヨクヨ。なんか、縮図というか、うーん、本田の立ち回りの組み立ても、いかにも、という感じだ。


口語脈を持った文語体で、明治維新が成り、いまだ世相雑然としている中で、それぞれのキャラが悩んでいるのがよくわかる。本田はさすがに見切りが早い。文三とお勢はずっと悩む。


さすがに私的には「文三、はよ仕事を探せ」とツッコミたくもなった(笑)ほんのりと希望が見えるようなラストは嫌いではないが、未完かなと感じさせるところもある。


なるほど、日本の文学の未来を切り開いた一個の作品はこんな風なのか、と。テンポのある形で、分かりやすく世相があって、それぞれの心のうちとエピソードを上手に織り成している感覚。決してスッキリしているわけではないが、よく考えてあるのは分かるし、それでいて図式は複雑というわけではない。


これはメモしておこう、という程度に文語や知識、言い回しが程よく読み手に響く。読んでいて、嬉しくなる。最近同じ感じになったぞたしか、と考えたら、太宰劇場を楽しんだ「新樹の言葉」だった。ビブリア古書堂の栞子さんは、お気に入りの本を読んでる時、少し興奮したり、惚けたような表情を浮かべるが、私は口元が緩む感じ。気分が良い。


それにしても二葉亭四迷は寡作にして激動の人生を送ったんだね。たしか四迷のスパイもの小説?があるけど、中国に行ったり、ロシア語習ってペテルブルクに行ったり、なるほどそういう背景か、と思ったりした。


気がつけばいつのまにか変わっていた、10年ひと昔というのは社会の常だろうと思うしかし明治の御一新は歴史的にあまりにもその差が激しい。江戸の戯作調を脱出しようとしたのは、海外の小説が広く流布して、読み物を芸から芸術へと高めようとしていたのか。そう思って、文人たちは新しい風潮を筆にしたのか。すっきりとした話とは言い難いが、時代の息吹に浸った感慨がある。


満足でした。


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