◼️幸田文「番茶菓子」
名手とされたエッセイは、文スタイル。時代と、著者の道が見えるような気がする。
文学史の本で名手、と読んでから、幸田文の随筆には興味を持っていた。たまたま入手した、幸田文の娘の青木玉が書いた「幸田文の箪笥の引き出し」に強い感銘を受けた。さてようやく読んでみると、文スタイルとでもいうような流れを持つ筆致だった。なんか、ハマる。私などは一介の読者で、こういうのも恐縮するが、その文章には、人生がにじみ出ている気がした。
「花の小品」「夏の小品」「きものの小品」「きものの四季」「秋の小品」「冬のこばなし」「春の小品」「夏のこばなし」「たべものの四季」「おしゃれの四季」「新年三題」「一日一題」
12の章があって、その中にまた小タイトルのエッセイがいくつもある、といった構成。文筆家として売れた後の暮らしも垣間見えるが、基本は父・幸田露伴と家で過ごした、もしくは娘・玉と生活したあまり裕福でない時代がベースとなっていて、その時に身についた生活感覚をもとに描いているようだ。
梅の園で女が不倫の待ち合わせ?をしていたら刑事らしき男が来て「奥さん、どこへ逃げたって、あなたのからだからは梅の花の匂いがするんですよ」
人から聞いた話ということだが、その後の文を見ても、もひとつ分からない。最初の章にこんな文章が来て、ちょっと難しめの日本語の言い回しもあるし、不思議な感じもあったが徐々に慣れてくる。そうすると、筆も落ち着いてきたようにも見えてくる。なにせ幸田文はきものに関する話が豊富、というか、入れ込んでいる、と言ってもいいほど。
「きものの四季」の「夏のきもの」が楽しい文章。
「夏は、かっかと暑くてさっと涼しい風が吹いて、ごろっぴかりと雷さまがおこって、叩きつける夕立があがると、大きな虹が七彩の橋をかけわたして見せる、といった季節である。・・大胆に、冒険的に、颯爽とありたい季節なのである。」
で、ゆかた。
「ゆかたの味は、一言に云えば、『夏』なのだある。」と言い切り、うるささは禁物、さっと買って、さっと着て、ちょいと団扇でも持ったら美人になった気がするし、したがって涼しくなる、と。明快で読んでて清しい。
幸田文の好みは白地に藍一色の大ざっぱな柄。
「それも年齢よりややはでに、花模様のおとなし向きも、格子の粋も、吉原つなぎの伝法もなんでもかんでも間口を拡げてしゃっと着てしまうのが楽しい。大胆に自分の型を破る冒険を敢てすることができるのは、ゆかたの颯爽たるありがたみ」と。
もちろんとつとつとした章も、くすりと笑う話もあるのだが、たまにこう、すぱっと言い切るのが気持ちいい。
この賞からもうひとつ。夏の終わり、気を遣わないうちへでかける文は古い着物を身につける。それを見た幸田露伴は新しいものを着て行け、と言う。ちょっと長いが露伴のセリフを引用ー。
「夏という季節もそこまで来れば老いて衰えているし、風物も荒れて曝(さ)れている。そのなかでしおたれたものを着ていれば、いい若いものが薄ねぼけて見える。ものの初めには活気があるが別れには情があるべきものだ。(中略)夏の終わりにはたとえ木綿でも新しいものをしゃんと着て、(夏と)別れようという心意気がほしいものだ。別れ際に風情のない女になんでおしゃれも着物もあるものか」
まあ説教くさいというか、文も父・露伴のことは口うるささに閉口気味な心持ちを別の文章でも漏らしているが(笑)、これ、どこか納得してしまったし、このあと文も夏を見送るのに新しいのを着ていたら夏は終わりを華やいで、では皆様さようなら、ごきげんようとまた来年を約束するなどと思う、と書いている。
私も、もう古いのでいいや、暑さもあとひと月くらいだし、と、楽な言い訳を自分にすることが多かったりしてちと刺さる。
「たべものの四季」では、初児を産んだばかりの若い奥さんと料理の話をしていて、顔の造作、その輝きに若さを見、思い出して、五月はきらきら光る月だ、一年じゅうでずば抜けた月、五月の料理は、きらきらと若い味がほしい、と終わる。
ここまで来ると、滋味深い日本語の文章表現や、控えめながらも悪意の抜けた伸びやかな内容にひきこまれている。文スタイル。
「おしゃれの四季」には小粋なエピソードが。長雨の日、幸田家の門から玄関への敷石道は萩が倒れて道が無くなっている。そこへ来客。台所仕事をしていた文には、垣の隙間から客の足元だけが見える。客は蛇の目傘を広げて、萩の下へ差し込み、くるくると回して萩を起こして道を作りながら玄関まで行き着いた。みごとなことで、花もきれい、傘もきれい、足も人もきれい。露伴に話すとおしゃれだねえ、と感心。
この話をこう締める。
「おしゃれは女一代、かっきりと誰かの胸に焼きつくほどなおしゃれがいつかはやってみたいものだと、私はもうおばあさんですがそう思っています。」
カッコいい。
また、同じ章では、若いかたが和服を着てくれるのは、あとつぎができたような気がして嬉しい、と書く。
花が一斉に咲く季節、
「花の中にオリーヴの無地をつけて、白い襟を細くひきしめているひとが立っていたりすると、和服というのはこんなにも女を見ごたえさせる着物なのかと思ってしまいます。」
「ただ単に着物を着るというのではなくて、女ごころを身に纏うと云ったらいいでしょうか。」と優しく心意気を説明して、できれば季節ごとに着てほしい、と勧める。
文章はチャーミングなのだが、先ほど書いた、これなんだっけ、という日本語が多いので調べ調べして読むため、時間がかかる。おさんどん、文色(あいろ)が消える、夏され、すがれた、冥利が悪い、etc。でもいいこともあった。数年前、高い街路樹の上の方に、大きな花が咲いてて、なんの木かすぐググったが分からず、そのままになっていたが、「朴(ほお)の花」というのが出てきて、調べたら、これだ!となった^_^
略歴を見る限り、文は幼少時母を亡くし、女子学院をでて結婚、玉をもうけるが離婚し実家へ。戦争を経て、文筆活動を始めたのは露伴が死去した後、43歳頃からで、露伴との思い出を綴り世に認められた・・んだと思う。
作家のそばの人生、40代からの、作家人生。きものについて書くのは後年の心の余裕とも思えるが、露伴とともに暮らした、貧乏な歳月がこのにじみ出る価値観を育てたのでは、と思える。
まだまだ小説も、エッセイも。文スタイルを極めたい。小説「きもの」も読みたい!
◼️原田マハ「太陽の棘」
泣かされた。戦後すぐの沖縄、美術もの。題材は重い。深い余韻には明るさと、尾を引く苦さの残滓が同居する。
実話を元にした物語だと思う。著者が沖縄の美術館に行って人の繋がりを発見したようだ。あまり評判を呼んだ作品ではないと記憶しているが、読み終わって、原田マハはこのような物語創作を志向しているんじゃないかな、と思えた。
故郷のサンフランシスコに婚約者を残し日本に赴任したアメリカ軍の精神科医、20代半ばのエド。同僚のアランたちと外出した折、画家の集落である「ニシムイアートビレッジ」を偶然見つける。
生き生きとした絵と画家たちの人柄はエドを惹きつけ、非番のたびに通うようになる。東京美術学校を出てアメリカ滞在経験もあるタイラら画家たちは、軍人に家庭用の絵やシーズンの絵はがきを売ったりして糊口をしのいでいた。エドはたくさんの絵を購入し、本国から取り寄せた画材を贈るなど付き合いを深めるが、当時の沖縄の現実、溝が交流に影響を及ぼすー。
最後の、著者本人の「謝辞」まで読むと、余韻の中にカバーの絵への感慨が響いてくる。
アメリカ軍側の視点で描かれ、えぐいというほど沖縄戦の描写はなく、あまり振りかぶりすぎてはおらずコンパクトである。ストーリーはストレートっぽい。
エドとタイラらの間に亀裂が走った後のエピソードには瞳が潤む。タイラの妻、メグミの描写も南国ぽくていいし、少年っぽいアランら医師チームの性格付けは清々しい。刺さるようなヒガの才も冴えている。
読む前の作品の印象が強すぎる場合、同じ著者の別の作品にはつい厳しくなってしまう。原田マハもそう。「楽園のカンヴァス」「ジヴェルニーの食卓」で魅了されて以降、あの感動を越してくれ、という願いがあるんだろうか。川端康成が「処女作を超えるのは難しい」と書いたのが分かる気もする。原田マハ以外には朝井リョウにもそう考える。
今回も、タイラの行動はアメリカンっぽい展開、描き方がどうも「デトロイト美術館の奇跡」と似てるなあと考えたり、相変わらず感動へ誘導するような筆にはちょっと警戒したりした。
しかし、読了後の深い余韻は久し振りに味わったものだった。温かい交流を見守った後の充足感、別れの少しの悲しみと、沖縄が置かれた現実への苦さと後ろめたさ、尾を引いて、いまもその中にいる。
原田マハものとしては、ピカソなモネなど有名な作品、画家を扱ったわけではなく、どれかというと地味な印象かも。しかし、美術ものでない小説を含め原田マハをそれなりに読んだ身として、こんな物語を描きたかったんじゃないかなあ、と感じた。ニシムイの画家たちの絵がある沖縄県立博物館・美術館に行きたくなった。
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