2020年9月20日日曜日

8月書評の6





兵庫・芦屋市の谷崎潤一郎記念館を訪問。「蓼食う虫」を買ってきた。

◼️松村栄子「京都で読む徒然草」


花はさかりに、月はくまなきをのみ見るものかは。芥川賞作家の徒然草拾い読み・訳出・解題。文章が柔らかく心に落ちる。


吉田兼好の本名は卜部兼好で、このペンネーム?は「吉田山の兼好さん」という意味があるそうだ。吉田山は、出町柳から京都大学の方かな。なんとなく訪ねたい気にもなった。


友人とのやりとりで「徒然草」という言葉が出て、そういえば読んでなかったと図書館に行ったら、「僕はかぐや姫」を書いた芥川賞作家、松村栄子さんが訳出しているので面白そうだと借りてきた。松村さんは静岡出身で関東の大学だが、京都在住で、阪神ファン。この本は京都新聞社が出版している。新聞の連載をもとにしたものらしい。


さてさて、拾い読みのそのまた拾い読み書評ー。


◇第一八九段

「日々に過ぎ行くさま、かねて思ひつるには似ず。一年(ひととせ)の中(うち)もかくの如し。一生の間も又しかなり。」


面倒と思っていたことはあっさり済んで、容易なはずのことが悩みの種になる。一日として思った通りには進まない。一年中こんな具合だ。一生も同じだ。


順に追っていくのではなく、200余りある段の中からテーマごとに関連ある2つ、3つをチョイスして訳出、松村さんが解説をつける形。ちなみにこの章は「予測できないという予測」。


抜粋した文章の前には今日これをしようと思っても急用が入ったり、待ち人は都合が悪くなり、約束もしてなかった人が来る、アテにしてたことはうまくいかず、意外なところで望みがかなう、とある。そうだよねー、人生そんなもん、と深くうなずいてしまった。


◇第一一七段


「よき友三つあり。一つには、物くるる友、二つには医師(くすし)。三つには、智恵ある友。」


この文の前には、友だちにしたくない者として、身分の高すぎる人、若い人、病気知らずの人、のんべえ、血の気の多い武士、嘘つき、欲張りが挙げてある。


老境に差し掛かっていると見える吉田兼好だだけに、嫌う理由は少しずつわかる気もする。大人になってきたからこその本音か。広い知識と鋭い洞察力を持ちながら、書き方は慎重。よき友、は、妙に偽悪的+茶目っ気も匂わして、やはり最後が一番言いたい、でもどこか、心を通わせたい、あきらめたくない、という願望が見える。


実は十二段で、自分と同じような感性を持つ人と語らい、議論もしたいが、実際にはそんな人はいなくて、ほんの少しの愚痴を言おうにも通じない人ばかり。本音の言える友は遠い、ということが述べられている。うむうむ。


少ししめしめした話になった。次は明るめ。


◇第六二段

「延政門院いときなくおはしましける時、院へ参る人に御言づけとて申させ給ひける御歌。


ふたつもじ牛の角もじすぐなもじ

ゆがみもじとぞ君はおぼゆる


こひしくおもひまゐらせ給ふとなり。」


後嵯峨上皇の皇女である延世門院さまがおさなくあらせられたとき、上皇の御所に行く人にご伝言された歌。


ふたつ文字(=こ)牛の角文字(=ひ)まっすぐな文字(=し)ゆがみ文字(=く)とぞあなたを思う。

お父様がこひしく思われますと詠まれたわけだ。


吉田兼好は歌人であり文人。古今集、源氏物語、新古今集の歌の批評などが見える。「徒然草」にはイケメンの高貴な若者を取りあげた段もあり、こむつかしくて明るくない人生論も多い中、明るい光の役割を果たしている。この段は利発で可愛らしい姫さまを描いており、思わず表情が緩む。松村さんいわく

「徒然草ワールド微笑ましく彩ってくれる幼な雛のような存在」としている。



◇第一二七段


「あらためて益なき事は、あらためぬをよしとするなり。」


変えてもよいことがないなら、変えないほうがよいことだ。


第二二段で何かにつけ昔は良かった、いまは言葉遣いも乱れている、と書き、九九段では堀川太政大臣が古い唐櫃を取り替えようとしたが、何百年と経たものだからと配下が反対したからやめた、という逸話を入れての、この段。


ふつうに読むと、懐古趣味か、と思っても仕方がない。しかし松村さんは昔がしたわしいのは多分に好き嫌いの問題で、昔の方が正しいとは一概に言えず、兼好法師は、そのことも分かっていて、距離を置いて見ている部分もあるのではないか、と言っている。確かに一二六段も裏を返せば、変えて良くなるなら変えるべきだ、とも読める。


この章で面白かったのは2001年の中央省庁再編で大宝律令以来の大蔵省をなくすことになり、反対意見も出た。その時首相の橋龍は「では検非違使庁を復活させるか」と切り返したとか。その話、ぜひやってほしいな、警察庁の検非違使庁化!



◇第一三七段


「花はさかりに、月はくまなきをのみ見るものかは。雨にむかひて月を恋ひ、たれこめて春の行方知らぬも、なほあはれに情けふかし。」


桜は満開のときに、月は晴れているときにのみ見るものだろうか。雨を眺めながら月を想ったり、家に閉じこもったまま春の過ぎるのを知らずにいたりするのも、面白く味わい感慨深いものだ。


たぶん古典の授業で習ったのだろう。このフレーズはよく覚えて、さらっと口に出る。


なんでも整っているのが良いわけではない、という話の流れ。A型気質の松村さんはこの段を改めて読み直しグサリときたそうだ。^_^



◇第二〇六段


徳大寺家の右大臣どのが検非違使の長官であったとき、中門の廊下で役所の評議をしてたところ、役人である中原章兼の牛車から牛が離れ、屋敷の中へ入り、長官の座に上り、胃の中のものを反芻しつつ寝そべってしまった。

 

話は、おおこりゃ悪霊の仕業か、陰陽師!となったところを長官の父親が、そんなん足のついてる動物が家に上がっただけやろ、とやめさせるもの。


いやただ、ものすごく高貴な席に牛がどらーんと寝そべってもしゃもしゃやってる図を想像して吹いてしまったってだけです。電車でニヤッとしたら前に座っていたお兄ちゃんに変な目で見られました。



◇第一七二段


「老いぬる人は、精神おとろへ、淡く疎かにして、感じ動く所なし。心おのづから静かなれば、無益のわざをなさず、身を助けて愁なく、人の煩ひなからん事を思ふ。老いて智の若き時にまされる事、若くして、かたちの老いたるにまされるが如し。」


年老いた人は気力が衰え、心は淡白でおおまかなので、動揺するということがない。心は自然と静かであるから無駄なことをせず、身体をきちんと労り、憂いはなく、人に迷惑をかけぬよう心がける。老人の知恵が若いときよりもまさっているのは、若者の容姿が老人よりもまさっているのと同じことだ。


松村さんは幼い、若い時に比べ、今の方が世界の見晴らしは格段によくなり、自分サイズの生き方もわかってきた、若い頃に戻りたいとは思わない、と書いている。


私の高校は同窓会が盛んで、今もひんぱんに同級生と連絡を取っているが、最近女性の1人が、今が一番いい、と言っていた。自分に照らしてみると、若い頃にこだわった小さなことはだいぶどうでもよくなってきている。いろんなものが整っていて過ごしやすい。


お読みになっている方はどうでしょう。戻れると言われたらたとえば高校時代に行ってしまうかも?できれば今の知見はそのままに、というのもまたよく聞く意見です。



徒然草を通読しての兼好のイメージを松村さんは「ガードの堅い人」と書いている。鋭い洞察力を備えているのに、主張したいことを伝聞の話として書いたり、実直に書いてないきらいはありそう。スパッと言い切っているところもあるけれど、角が立たないような気遣いが見えたりもする。素直で伸びやかなものが隠されているように読める部分もある。


取り挙げなかったけれど、南北朝時代は長らく続いた妻問婚と同居婚、妻取り婚が混在していた時期という。その中で兼好さんは妻など持つものではない、と言っててなかなか興味深かった。


美少年が出てくる物語もあり、伝聞もあり、ちょっと俯瞰した目で現世を見つめている項も多く、バリエーション豊か。内容と語り口で軽めに楽しめたのでした。




◼️オルハン・パムク「黒い本」


弁護士ガーリップの妻リュヤーが突然失踪。1980年のイスタンブールを舞台に、ガーリップの自分探しが始まる。うーむ。パムクで最難でした。


幼い頃からひとつ屋根の下で暮らしたいとこで妻のリュヤーが突然いなくなった。ガーリップはリュヤーが同母兄妹で有名なコラムニストのジェラールと共にいると確信しつつ、イスタンブールの街を探し回り、ジェラールの住まいを発見し踏み込むー。


パムクの長編4作め、3作めの「白い城」がアメリカで賞を取り、その報でトルコではパムクを読むのがインテリの証拠、みたいな雰囲気になり5作めの「新しい人生」が大ベストセラーとなった。この2作の間に書かれた作品。


訳者あとがきをそのまま書けば、「黒い本」は失踪した妻を探す男の絶望的な愛の彷徨を、イスラム神秘主義的説話を織り混ぜつつ描いた美しい作品で、トルコでは大変愛されているらしい。ノーベル賞作家であるパムクの最高傑作とするファンも多く、完全読本まで出ているらしい。


いつものごとくというか、目を引く事件が起き、ある程度ミステリー仕立てで読者を引っ張る。トルコ特有の、住宅、食事、街並などあらゆる特徴を取り入れている。社会事情、歴史にもスポットが当たっている。


この小説の舞台はイスタンブールでだいぶ歩き回り、細かい店や、また地図を思い出させる行動など、その描写は都会的レトロをも感じさせる。時代は1980年。クーデターのあった年で、ノスタルジックでもあり、自分たちの国の純文学小説、というのをトルコ国民に感じさせているのではないだろうか。パムクはトルコ語で小説を書く人である。


構成は、国民的人気コラムニスト、ジェラールの、新聞のコラムに書いた文の章と、ガーリップの行動と心象が綴られる章が交互になっていて、非常に暗示的かつ、ジャーナリスティックな色合いもある。


ガーリップがところどころで耳にする不思議な話も、またジェラールの熱狂的ファンがジェラールの部屋にいるガーリップに電話をかけてきて長広舌をふるう場面も、幻想的な物語の読みどころになっていると思う。


それにしてもリュヤーの喪失をキッカケに自分と向き合い、ありのままの自分になりたい、別人になりたい、といわば自分探しを繰り返すのは、なんか既知のパターンのようでもある。


こないだ読んだ「新しい人生」では、読んだ若者の意識を激変させる本が出てくる。この本は何か、という問い合わせも多かったというが、この「黒い本」がそうだと信じる人までいるとか。


さて、正直、難解だった。これまで読んだパムクで最難関。散文的で、やはりイスラムとトルコに根ざした話や例えが多く冗長かと。読んでいて肌感覚としてトルコ人の理解度はぜんぜん違うんだろうな、と思ったし、心の柔らかい部分を衝くかも、と感じたが、私にはなかなかその魅力が分からない。残念。「新しい人生」も詩的でパムク本人も難しい、と言っているが、物語の成り行きと、主題はよく分かり感じるものがあった。

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