2020年9月24日木曜日

誕生日はイスラム映画祭②





2日目も同じ時間に行ったら、今度は3番だった。整理券1本目が4番で2本目が2番。きのう3本全部、2枚と言ってた先頭の彼女は毎年たくさん観てるんだろう。2本目はおととし上映された作品なのである。だから観ない、だから2番。

1220まで2時間ちょい。メリケンパーク行ったら女子高校生の、多分チアクラブが制服でダンスを撮影していた。ぶらぶらして南京町。豚まんと春巻きとチャーハンと胡麻団子。少しずつ買い食いがここの楽しみ。喫煙可の古そうな喫茶店に入ってアイスコーヒーで涼む。この感じ好きやな〜。

映画館近くの古本屋。神戸は古書店が散在している。幸田文「流れる」、長野まゆみ「あめふらし」買う。

んで2本観て、帰り焼肉屋集合で誕生日ディナーしてもらって、後半ドトウの4連休は終わり。

この日の映画評。

◼️「ゲスト:アレッポ・トゥ・イスタンブール」トルコ=ヨルダン


【イントロダクション】

シリアのアレッポで暮らしていた8才のリナは爆撃で家族を失い、まだ赤ちゃんの妹を連れ、隣人の美容師、マリヤムとともにイスタンブールへと逃げのびる。しかし早々にホームレスとなってしまうー。


感想

リナは家族が死んでしまったことを受け入れられず、家へ帰ってママを探したい、と強く望んでいる。リナもそうだが、この物語の中心はマリヤムだ。自分の家での暮らしから、一転して難民となり、国境ではイスラム国勢力とおぼしき武装集団にかどわかされそうになる。保護してあげているリナからは、私の母親はあなたじゃない、遠い国へ連れて行かないで、と反発され、勝手な行動に振り回される。周囲からは「実の娘でもないのに、国境に置いてくればよかったんだ!と散々に言われ倒す。でも、マリヤムにも、リナとその妹しか、もう家族はいない。


難民になる前は、おしゃれで美人な美容師。しかし受け入れ先のトルコではやっかいもの、雨が降った公園で地べたに寝て、着るものは汚れ、恵んでもらったパンを食べる。


観た中では最も悲惨だった。リナも、マリヤムも過酷な環境に置かれ、ポツポツと希望は見えるものの、最後まで明るくはならない。これが現実で、この作品を私のような外国人が見る、すなわち映画の力。

マリヤム役の俳優はヨルダン人、リナは本当に難民の子だとか。


トルコには移民関連の作品が多い。すでに移民・難民をパンパンになるまで受け入れている国家ならではか。


◼️「花嫁と角砂糖」イラン


【イントロダクション】

イラン中央部、ヤズドという古い町でのおはなし。5人姉妹の末っ子、パサンドの婚礼が決まった。相手は海外在住の隣家の息子。婚前式の日、姉妹とその家族、親戚たちが集まってきて大騒ぎ。父親がいないパサンドは、母とともに母の兄、伯父の家で過ごしていた。叔父は猛獣狩りの名手で重鎮的存在。婚前式のための角砂糖を作っていた。その頼りになる叔父が頓死するー。


感想

ほかの作品に比して、鏡を使った絵作り、トラディショナルなカット割り、照明を使った仕掛け、などを意識させる、本格的な劇映画だと言える。


ベネツィア映画祭最高賞を取ったインド映画「モンスーン・ウェディング」という作品は結婚式に集う人々の人間模様を描く、というものだった。こちら「花嫁と角砂糖」もよく似ている。


にぎにぎしい女たち、子供たち、クセのあるオヤジたち。海外にいる夫からのプレゼント、そして、いかにも従順な末っ子顔パサンドの幸せそうなこと。詩経の


桃の夭々たりその葉蓁々しんしんたり

桃の木々の若々しさよ。 盛んに茂る桃の木の葉よ。 (その葉のように栄える家庭をもつであろう)


嫁ぐ若い娘のみずみずしさを桃に例えた言葉を地で行っている。


加えて、色とりどりのチャドルやヒジャブ、数々の料理や家の調度品が目を惹く。しかし伯父が角砂糖を喉に詰まらせて頓死、慌ただしく葬儀への準備が始まる。与太者と思われていた男が意外に頼りになったり、真面目な聖職者がガン告知を受けて呆然自失したり、故人の妹、パサンドの母が泣かずおかしくなってしまったり。


そんな中、伯父の息子、パサンドの従兄ガセムが父の死を聞いて兵役から帰郷する。もともと伯父はガセムとパサンドを娶せようと思っていて、2人は互いに憎からず思っていた。婚姻の支度が進んでいるのを見てガセムはすぐに帰ってしまう。パサンドは親戚に言う。「四十日間の喪が明けたら結婚のことをはっきりさせる」


なにやら不穏な先行きを匂わせつつ終わり。結婚から葬式、どちらも大騒ぎ。盛りだくさんで、まぎれもない名作でした。



全体としては、ブルカを強制するような原理主義的なものはなく、おおむねみなヒジャブはしているが、服装に関して他はあまり宗教色がない。ラマダンはそっと織り込まれる感じ。また、アキラも8才のリナも、「一時婚はハラール(合法)よ!」というダイアン・キートン似のルブナーさんも、田舎町が舞台の「花嫁と角砂糖」の登場人物たちも、皆スマホやノートPCのテレビ通話を普通に使いこなす。


ちょっとびっくりしたのが、みな外でも寝ちゃうこと。「イクロ」のファウジの父親が深夜に帰ってきて、あーあ疲れたとそのまま玄関前のレストスペースで掛布をひっかぶって寝てしまったり、「花嫁と角砂糖」でも屋上で寝たり、イスラム圏に蚊はいないのか?と思ってしまった。中東ならともかく、インドネシアでそんなことないよなと。


ラストに大書。この映画たちの女優さんは、みな本当にきれい!!

誕生日はイスラム映画祭





いつもGWにやっているイスラム映画祭が今年はこの4連休にあるという。平日には行けないので休日2日間に絞って朝からGO!

9時10分くらいに着いたらもう先客。初日は2番。10時まで谷崎潤一郎「蓼食う虫」読みながら待つ。アーケードの中でさして暑くなく待てた。前の人は3本とも、2枚!と気合い入ってた。3番の整理券もらって私は2本目と3本目。14時までかなり時間あり。

スマホのバッテリーが異常膨張してたので三宮まで歩いて換えに行く。どうせ時間はある。途中ブックオフに寄って北村薫「詩歌の待ち伏せ2」購入。スマホ預けて待ち時間にちょっとウロウロ。東急ハンズ閉まっちゃうんだなあ・・。受け取って昼ごはん、本当は一風堂で博多ラーメンセット食べたかったがもう並んでて断念。ポートタワーへ行ってテレビで取り上げられてたオムそばめしを食べる。のんびり歩く。コロナで久々の神戸ぶらぶら。いろいろ見て楽しむ。

ポートタワーって実はポイントで、神戸の市街地は路上喫煙禁止区域、しかもコロナで公共の灰皿は全て使用禁止。正直新橋じゃあるまいし早く解禁してよと思うのだが・・。もちろん屋内の喫煙所はたいがい閉まっている。しかし!ポートタワーだけは外に灰皿があるのである。ここ中心に動くのが賢明?

おしゃれな古本屋行って佐藤泰志「黄金の扉」購入。やべ、小さめのバッグがパンパンに・・

やっと見る。この日は2本観て夜帰る。神戸に日が落ちるまでいるの久しぶり。

合間に黄色の公式ムック本買う。若い店員の子に、ぜったい買った方がいいですよ、明日にはなくなりますよ、永久に手に入りませんよ、ボクも欲しいんですから!と力説されて笑いながら買う。今年は5周年でこれまでの全ての作品が紹介されている。去年は四十九日で福岡帰ったし、おととしは観たいのほとんど見れなかったんだよな。

以下映画評。

◼️「イクロ 私の宇宙(そら)」

                                          インドネシア


【イントロダクション】

高名な天文学者を祖父に持ち、宇宙飛行士を夢見る少女・アキラ。宇宙をテーマにした動画コンテストがあり、優勝賞品は宇宙飛行士センターへの招待。アキラは女性宇宙飛行士で植物学者のスラヤ博士の存在を知り動画出演を頼み込むー。


感想

バンドン工科大学が作った映画。インドネシアでは科学も宗教も同じように未知の領域を扱うものであり、積極的な推進策が取られているとのこと。


アキラはスラヤ博士の言葉で成長し、会話を宇宙での植物栽培に行き詰まっていたスラヤ博士もまた、アキラの熱意に打たれる。


アキラは恵まれた家の子。一方で、アキラに憎まれ口をきく男の子、ファウジは貧乏で、しかし優秀、家族思いのナイスガイ。奨学金を得て先の学校へ行くため試験に合格するが、自分のために都会で父親が苦労しているのを見て、学校に行くのをやめて田舎で商売を手伝う、と言い出す。実際お金のために父親は怪しいブツの運び屋となり逮捕され、アキラの父親の弁護士が釈放へ手を尽くす。


試験でコーランを美しい声で歌うファウジが印象的。


◼️「ハラール・ラブ(アンド・セックス)

                                          レバノン=ドイツ


【イントロダクション】


3組の夫婦関係、オムニバス作品。


①やんちゃ盛りの2人の娘を持つアワーテは家事育児に疲れ気味。おまけに夫は毎晩求めてくる。アワーテははたと、第二夫人を迎えさせようと思いつき、若くきれいで従順なバルドーを連れてくる。


②親が決めた結婚、嫌な相手とようやく離婚したルブナーは、小さなブティックで働きながらの独り暮らし。さっそく意中の男と「一時婚」制度を利用して付き合う。さらに、オーストラリアに居る弟のもとで店を開くべくビザを申請していた。


③モフタールの夫バトゥールは、とんだヤキモチ焼きでキレ症。なにかと揉めてはすでに2回離婚している。2人は好き合っていてバトゥールのかんしゃくが収まるとすぐ元サヤとなる。イスラム社会では3回めの離婚はそう簡単に復縁できない。しかしまた嫉妬が原因で、ついに・・


感想

①はコメディタッチ。第二夫人ボルドーは第一夫人の言うことに従順、決定権は自分にあり、アワーテは束の間の解放とマウント感を味わうが、すぐに危機感が忍び寄る。コーランでは第四夫人まで認められているが、充分に愛せない場合は一人にせよ、という意味の記述もあるそうで、それが意識されてそう。ただ、重心は家事育児すべて背負わされがちな妻、にあり、ここは万国共通かも。

「そんなに怒らなくても・・」

「怒ってないわよ!」

という会話もリアル^_^


②ブティックに勤める傍ら、いい男と付き合い、海外での将来も明るい展望が開けているルブナー。女優さんも妙齢の色気を発散し「いい女」を地で行っているが、やがてすべてが暗転する。「ハラール」は「合法」という意味のようで、母親から一時婚を責められたルブナーが「でも合法よ!」と言い返すときに発している。法を守っても社会的な白眼視があり、外国との関係性も微妙。ドラマに社会がほの見える。


③荒れ荒れだがやはりドタバタのコメディーと言えるでしょう。復縁するには元妻が一度他の男と結婚することが求められ、床入りしないと成立しない。バトゥールは金でダミー夫を用意するが、という話。バトゥールの言葉の端々に、コーランとイスラム社会の女性蔑視感がよく見える。


「イクロ」に比べると、ゆるゆるの作品。セリフも蠱惑的。夫婦関連の法律と社会をアダルト的にうまく演出していたかなと。



2020年9月20日日曜日

9月書評の4





マメアサガオは秋の花。

4連休。前半2日はいつもどおり。冬スーツクリーニング、首のリハビリ、ブックオフ、図書館等々。午前中で帰る。土曜は半袖短パンを後悔するくらい涼しく、きょうで着納め、と日曜日ジーンズ薄い上衣で出たら暑かった。難しい初秋。家にいても着ないと寒い、着ると暑い。やれやれ。

◼️幸田文「おとうと」


全編に憂いが横たわる。両親と弟、そして主人公の女学生・げん。みずみずしく悲しい物語。


幸田文の代表作で1956年、昭和31年の作品。先日幸田文のエッセイ「番茶菓子」を読んで、今度は小説初読み。感性豊かで滋味深い文章表現は直接的に心に染み込む感覚がする。設定には著者の家族体験が深く根ざしている。


げんは17歳の女学生。作家の父と継母が不仲で家計的にも楽ではなく、また継母はリューマチ病みで家事はすべてげんが担っていた。3つ下の弟・碧郎とは、いつも長い土手を一緒に歩いて通学していた。ある日、友人に怪我をさせたと濡れ衣を着せられたことがきっかけで、碧郎は不良グループに出入りするようになり、みるみる態度や言葉遣いが変わっていくー。


息子を甘やかす父親、血が繋がっていない姉弟を持て余し、不機嫌な母。不良グループに入って怖いものがなくなったように振る舞い、トラブルの絶えない碧郎。げんは振り回される。誰も、げんのことは気に留めない。当然のように家事や用事をさせっぱなしである。


碧郎とは姉弟ならでは、そんな境遇だからこそ心が通う時もあるが、この弟も含め、家ではほとんどげんは省みられない。なんともやりきれない状況だが、げんは爆発したり変にねじ曲がったりはせず、家と弟のために誠実に尽くす。感情の起伏が激しく、不良になってしまう碧郎とあまりに対照的だ。


弟が万引きをして逃げているのを目撃したことで、碧郎との間に溝ができ、一緒に学校に行かなくなった時の描写にうなる。


「道は凍てついている。桜は裸でごつごつしている。川は黙々と下へ下へと走りくだっている。川波の頭は削いだように三角だ。ひゅうっと吹きあげて来る風、その温度が計ってみたい。この冷たさ痛さは何度という温度なんだろう。おそらく温度というものじゃなくて寒度とか氷度とかいうものだろうと悔しくなる。それほど川からの風は残酷な風だった」


誰も話し相手がいないげんの、17歳の女性の若く幼い感受性に合わせたような心象。やがてこの寒さがもとで、碧郎の盗みも露見してしまう。


関東大震災を挟む、大正末期の時代設定である。また、幸田露伴を父に持ち、父は継母と不仲であり、弟がいた著者の家庭がベースになっているようだ。


17歳のげんにも、つきまとう男が出てきたりと、続く弟のトラブルと相俟って飽きさせない。また年齢特有の、清しくみずみずしい色気ともいえるものや、危うさが匂う。


生々しい家庭状況、暗く引いた下地に、姉妹が、浮かび上がる。げんには縁談がある。相手は銀行マンで、ニューヨークに赴任する前に身を固めたいというものだった。心惹かれるげん。しかし、げんは「てんからぴしゃりと」断る。この時、ニューヨークに行っていれば、人生は劇的に変わり、嫌な家庭を脱出し、英語と国際マナーも身につけ、裕福に暮らせる可能性があった。しかし、


「アメリカの魅力より弟を去って行くことの危惧のほうが、はるかに大きなものであった。亡くなった生母のおもかげがちらちらと弟の中に見えていた。(中略)いま弟をひとりぽっちにしてはおけない心がしきりだった。」


そこまでも、と思わないでもないが、納得するようなシチュエーションを作っているし、どこか夫だのみだけの結婚は危うい気も漂わせる。


やがて碧郎は不治の病に侵される。ここもまた当然、医師に若い女性はよろしくないと言われても、げんがひたすら看病する。命を見つめ、死病の肉親と向き合い、病院や病気にまつわる色を畏怖する。そして、悲しい物語はラストへとー。やはりホロリとしてしまう。


私にも姉がいるが、姉弟の感じがうまく出ている、とは思う。感性が先に立つようにも、見えつつ、けっこう計算されたストーリー進行があるように見える。


最後に、文テイストの一文を。

「じみは粋の通り過ぎ。はでは幼いはでに飽きてようやく粋になりたがる。その粋をまた通り越してじみに納まる。」


着物が大好きな幸田らしい書き方。こういうのがあると、作品が豊かになる。幸田文、もう少し読んでみようと思う。



◼️二葉亭四迷「浮雲」


新しい時代の、新しい文体。内容もキャラクター設定にも移りゆくステージの匂いがあふれている。苦悩を捉えた作品だが、読んでいてとても楽しかった。


明治20年に刊行された小説で、言文一致体の嚆矢とされ、後世の作家に大きな影響を与えたとされる。同時に江戸時代の延長の戯作風な作りからも脱していた。坪内逍遙の名を使ってしか出版できず、その出来に納得できない著者本人が


「くたばつて仕舞へ!」と放った言葉が"二葉亭四迷"というペンネームになったという。


さてさて、その文章、どんなもんだろうと興味深く読み出した。なにやら講談調でリズムが良い。


「途上人影(ひとけ)の稀れになった頃、同じ見附の内より両人(ふたり)の少年(わかもの)が話しながら出て参った。一人は年齢(ねんぱい)二十二三の男、顔色は蒼味三分に土気七分、どうもよろしくないが、秀でた眉に儼然(きっ)とした眼付で、ズーと押徹った(おしとおった)鼻筋、唯惜(ただおしい)かな口元が些と(ちと)尋常でないばかり。」


これは主人公・内海文三の登場シーン。くだけた感じで人が語っているかのよう。二葉亭四迷は落語の語りを研究したという情報もどこかで見たような。


物語開始前の著書自身の「はしがき」はもっと戯作調だ。解説によれば「今日、言文一致体の最初のこころみと言われているこの小説が、この時代の文章観のなかでどれほど孤独で不安なこころみであったかを暗示するものである。」とのこと。


また公文書は長いこと漢文で、明治になっても続いていた(確か)。同時期の夏目漱石もそうだが、かなり漢文の知識が深いなと思う。読んでてやはり他の作家を意識してるのかな、という共感した。


【イントロダクション】

官吏である内海文三は、東京の叔父・園田孫兵衞宅に住まわせてもらっていた。文三は従姉妹のお勢に恋し、お勢の母・お政も一時そうした心づもりだったが、人員整理で文三が失職したことからひどく冷たく扱うように。そのうちに文三の同僚でクビにもならず、如才なく上司の機嫌を取り、女性の扱いも上手い本田昇が園田家に頻繁に来るようになり、お勢の喜んでいる様子を見て文三は落ち込む。


まじめだが覇気のない、世渡り下手な文三と、軽くて世渡り上手、如才ない本田の対比がメインの一つ。本田はリストラされるどころか1段階出世までする。


またお勢も、勉強する女を標榜し、西洋の編み物も習うなど、当時の新時代の雰囲気を写実的に伝えてくる。自分の気持ちが見えない十七のお勢。



文三は職を失い、叔母にはボロクソに言われ、本田にはプライドを傷つけられる。さらに気になっているお勢を本田に奪われるんじゃないかとクヨクヨ。なんか、縮図というか、うーん、本田の立ち回りの組み立ても、いかにも、という感じだ。


口語脈を持った文語体で、明治維新が成り、いまだ世相雑然としている中で、それぞれのキャラが悩んでいるのがよくわかる。本田はさすがに見切りが早い。文三とお勢はずっと悩む。


さすがに私的には「文三、はよ仕事を探せ」とツッコミたくもなった(笑)ほんのりと希望が見えるようなラストは嫌いではないが、未完かなと感じさせるところもある。


なるほど、日本の文学の未来を切り開いた一個の作品はこんな風なのか、と。テンポのある形で、分かりやすく世相があって、それぞれの心のうちとエピソードを上手に織り成している感覚。決してスッキリしているわけではないが、よく考えてあるのは分かるし、それでいて図式は複雑というわけではない。


これはメモしておこう、という程度に文語や知識、言い回しが程よく読み手に響く。読んでいて、嬉しくなる。最近同じ感じになったぞたしか、と考えたら、太宰劇場を楽しんだ「新樹の言葉」だった。ビブリア古書堂の栞子さんは、お気に入りの本を読んでる時、少し興奮したり、惚けたような表情を浮かべるが、私は口元が緩む感じ。気分が良い。


それにしても二葉亭四迷は寡作にして激動の人生を送ったんだね。たしか四迷のスパイもの小説?があるけど、中国に行ったり、ロシア語習ってペテルブルクに行ったり、なるほどそういう背景か、と思ったりした。


気がつけばいつのまにか変わっていた、10年ひと昔というのは社会の常だろうと思うしかし明治の御一新は歴史的にあまりにもその差が激しい。江戸の戯作調を脱出しようとしたのは、海外の小説が広く流布して、読み物を芸から芸術へと高めようとしていたのか。そう思って、文人たちは新しい風潮を筆にしたのか。すっきりとした話とは言い難いが、時代の息吹に浸った感慨がある。


満足でした。


9月書評の3





◼️佐藤圭「英語はすべて2文でつながる」


+ワン、一文を足すとかなり違う、ということが伝わってくるテキスト。長年眠らせていた、英語脳の部分が緩やかに再始動したかな。


私は文系で、社会人になってシンガポールに長期出張をした際、自分の中の英語力がそれなりに活用されているのを感じ、英語の映画を観るのが楽しかったりした。


しかしそれも、はるかかなた。相当長い間、英語は仕事になんの関係もなく、知識は脳の奥深くにしまいこまれている。最近になって、英語の感覚を取り戻したいと思うようになり、そのきっかけを探していた。


正直おそるおそるといった感じで読み始めた。


まずは日本語で、会話の時に1文足すだけで会話が生き生きすることを示す。次に、話したい内容を一度別の日本語に置き換えてみる練習。


「気が進まない」「やりたくない」

I  don't  want  to  do  that.


「経済が活性化する」

「人がたくさんお金を使っている様子」

People  begin  to  spend  a  lot  of  money.


なるほど。「お金を使う」でスペンド、がスッと出てこなかったのでショックを受けたが、ともかく昔やってたような気が。この部分、なかなかみっちりやるよう、ページ数が割かれている。つまりは大事なとこ。日本語での言い換え、いくつも例文を考えてみる。少しだけれど脳が柔らかくなったような気もしてくる。


で、いよいよ1文を足すエクスサイズ。


パターン1Thank youI'm  sorryといった定型句にもう1文足す形。優しいところから入ってて、しかもTo  be  honest(正直に言うと)や、You  know  what?(ねぇねぇ、知ってる?)といった、会話の実践的なフレーズが出てきてて嬉しい。学生の読み書き英語学習では少なくともことさら習わなかった。


会話の幅を広げるため、Youを主語にして文を始めるクセをつける、ふむふむ。ifに続く動詞は未来のことでも現在形、そ、そうだったっけ、そうだよな(苦笑)。


パターン2ではぐっと難易度が上がる感じ。扱う言葉自体は読めるが、言えるかというのはやはりハードル高い。でもたしかに1文足せば、会話が広がるのはよく分かる。例えばこんな感じ。


1文+具体例(such  asを続ける)】

I  like  classical  music, such  as  Bach  and  Mozart.

(クラシック音楽が好きです。例えばバッハやモーツァルトのような。)



1文(感想)+問いかけ(疑問文を続ける)】

The  show  was exciting.  Have  you  ever  

seen  it  before?

(そのショーは面白かったです。見たことがありますか?)


なんかは、最初の1文だけで終わらせることもできるが、後を続けることで相手にも会話を続ける材料が提示される。


レッスンは、1課題ごとに見開きページの定形になっていて、左ページで例文をたくさん示してくれているから、右ページの英文を作ってみる練習問題にもなんとかついていける。パターン2まで来ると、目に見えて考え込んだり停滞することが増え、読むスピードが落ちる。でも必要な時間なんだなと思いつつページをくっていく。


such  as(例えば)のほか、I  mean,(つまり)、By  the  way,(ところで)のような言いまわしから、butを使った展開、andでのつなぎ、そして5W1Hの使い方までみっちり、という感じだった。


やはり読んでいるとハッとすることも多い。

「〜したらいいと思うよ」というshouldの意味合いは腑に落ちたし、同じ表現を繰り返してもう1文、例えば


Thank  you.  It's  very  kind  of  you.

(ありがとう、あなたは優しいのね)


なんかは、小説の訳出でよくある繰り返しで、これが英語の感覚なのかと思った。


またWhy  don't  we〜?、In  comparison  with(〜と比べて)なんかは新しい知識をゲットした気分である。ほとんど忘れないためにいまここでわざと書いている(笑)。


レッスンページを全部終え、残りを開けると、特段案内されていたわけでもないのに、書くレッスンの練習問題の解答例が全レッスン分、シンプルに整理されて書き連ねてある。例文を見て、あとは自分で考えましょう、形式だと思っていたからちょっとびっくり。ここで復習ができる。なかなかニクい構成だった。


もちろん1回読んだ、この本でレッスンしただけでは英会話が上達することはあり得ない。今回は、1文プラスのレッスンと同時に、英会話、英文についての「慣れ」を少しでも上げられたのが大きかったと思う。継続は力、というか、継続しないと失われる。うーん、シャーロック・ホームズ原文読みを本気でやってみようかな。リスニングもやりたいな、という気になっている。


長年眠らせておいた英語脳、感覚を呼び覚ますには良い本だった。




◼️宮部みゆき

「おそろし 三島屋変調百物語事始」


怪談シリーズ初章。ひさびさの宮部みゆきはゆったりとして、洞察豊かで、残酷で、やっぱりどこか、小憎らしい(笑)。


本友がまとめて貸してくれたので、しばらくかけて読破しようかなと。私は宮部みゆきをあまり読まない。「火車」「理由」「小暮写真館」「荒神」くらいかな。


川崎宿の旅籠屋の娘、おちかは自分を巡る悲惨な出来事から、叔父、伊兵衛が営む江戸は神田三島の袋物屋「三島屋」に引き取られ暮らしていた。ある日、急な用で伊兵衛が外出した折、碁の約束があった建具商・松田屋藤兵衛を迎えたおちかは、庭の曼珠沙華を異様に恐れた藤兵衛から、成り行きで身の上話を聞くことになる。それは、兄弟の間の、人間臭くあまりに悲しい因縁話だった。


おちかから事情を聞いた伊兵衛は一計を案じ、礼金付きで不可思議な話を集めている、と街中にふれ、おちかに聴き手を務めさせるー。


藤兵衛の話が「第一話  曼珠沙華」。「第二話  凶宅」は、おたかという女から聴く。錠前直しを生業としていたおたかの父が、不思議なお屋敷と出会い、やがて百両やるから住んでくれ、と頼まれる、魔の家の話。


そして、おちかの口から語られる自身に起きたこと。人間の嫌な部分がむき出しになったような「第三話  邪恋」


「第四話  魔鏡」は、明るく福顔の女が話す、離れて暮らしていた姉弟と手鏡に関する、悲惨で、背筋に氷があたるような、かつ美しい話。そして「第五話 家鳴り」でつながる。


宮部みゆきに手が伸びない理由は、好みでないむごさがありそうなこと、そして、できすぎていること。この作品も表現もストーリーも文調も深みがあり、人間の心をとてもよく考えている印象を受ける。


第五話、おちかが奇怪な出来事の元凶に向かっていく一連の展開の中で、これからも出てくるであろう、悪魔の手先のような番頭風の男に、読み手が物語を読みながら薄く、しかし確かに気になっていた、その核心を語らせる。百物語、今後を感じさせ、心の闇のさらなる深奥を認識させる仕込みには唸ってしまうものがあった。


感想としては、個々の物語や趣向はおもしろ凶々しかったものの、最終章を含めやや強引さがあったかなという気はする。深みを味わいつつ、その構成の完成度は、考えられたプロットだからこそ、ちょっも小憎らしいものを感じたりして、クスっとなったりする。


でも、シリーズでどっぷりつかってみるのも悪くないと思っている。やっぱり、読まないで遠ざけるより読んでみるのが本読みの本筋。このさい先入観を持たず心を白くして、楽しんでみようかと。


◼️恩田陸

「ブラザー・サン シスター・ムーン」


最初エッセイかな?と思う。文学部、ジャズのビッグバンドに所属していた恩田陸が、経験をベースにして創った物語。



恩田陸の経歴といえば、仙台のイメージがまずある。またやはりワセダの、作家編集者を本気で目指す人の学部じゃないか、とも記憶している。やっぱワセダ、ジャズ研のトップが相当なレベルだと業界にも認知されライブハウスの枠を持つ、だなんて、世界の成り立ちを感じたりする。


楡崎綾音、箱崎一、戸崎衛(まもる)の3人は高校の同級生で同じ大学。綾音と衛は一時付き合ったが自然消滅、綾音と一は、部屋に単独でも遊びに行く気のおけない友人。一と衛も会えば話す仲。3人は高校の屋外授業で同じ班になったとき、人が消えたようにいなくなった田舎町で、空から川に落ちた蛇を見たー。


大学時代の4年間、というものテーマに3人それぞれの目線で捉えた作品。巻末の対談で著者本人が語っている通り、綾音の目線の第一部「あいつと私」では貧乏で地味な女子学生ライフときっかけ、への出逢いが語られる。リアルすぎるし、あれ?これって小説じゃなくてエッセイだったっけ?と思ってしまう。

「あいつと私」は石坂洋次郎の小説タイトル。また、ちょうど兵庫は芦屋の谷崎潤一郎記念館に行った帰りに読んでて谷崎も出てきたから暗合に嬉しくなったりした。


第二部「青い花」は衛のモダンジャズ研究会での4年間。「レギュラー」と呼ばれるトップチームは業界でも評判となり、ライブハウスの枠も持つ。レギュラーを目指してしのぎを削る衛たち。しかしトップチームでアルトサックスが抜群に上手い先輩もまた一般就職の道を選ぶ。


ジャズは好きで、なかなか楽しめた。アルトサックスが、どれくらい上手いのか聴いてみたくなる。しかし私も楽器の才能が欲しかった。恩田陸みたく、ジャズバンドなんかに挑戦してみればよかった。やっぱみんなポジティブだなあ、なんて思ったり。衛のバンドのリーダー、オズマが京都のボンボンで、その関西弁が入っていることがリアリティを強めていた。


第三部「陽のあたる場所」は前の2話にもちょいちょい出てくる箱崎の話。時代は移り、金融系に就職した一は、高名な映画監督になっている。主語を揺らす、短いブロックごとに変えたりして、少し物事に距離を置き冷静な一のスタンスをある意味人間臭く炙り出している。大学での年月は回想。工夫が見て取れる。


うーん、ちょっと腹黒いかも笑。インタビュアーを刺しまくり。「陽のあたる場所」は綾音、衛と観に行ったイタリア映画のタイトル。



最終の「糾える縄のごとく」は3人をつなぐ校外活動の篇。最後に大学の先輩、第二部でアルトサックスのモデルとなった方と恩田との対談となっている。


私は地元の大学で、友人と大学の時くらい、東京に出て感性を磨きたかったね、と話したこともある。ことに東京六大学というのは特別感があって、こうやってテーマの小説や人の話を聞いていると、日本の中心にぐっと近づいているような雰囲気を感じる。作家編集者を本気で目指す者たちが作家デビューした恩田にやっかみの態度を向けた、というか述懐も、さもあらんと思える。


大学4年間はなんだったんだろう?総括の機会も必要もいまのところないし、ショボかったなあと思うが、懐かしく思い出す。あまりスケールの大きい話ではないが、感慨を新たにした作品だった。

9月書評の2





晩夏と初秋のあいだ。いつもの歩道橋は帰る時間帯にきれいな暮れの景色。みんな写真撮ってた。

◼️恩田陸

「ブラザー・サン シスター・ムーン」


最初エッセイかな?と思う。文学部、ジャズのビッグバンドに所属していた恩田陸が、経験をベースにして創った物語。



恩田陸の経歴といえば、仙台のイメージがまずある。またやはりワセダの、作家編集者を本気で目指す人の学部じゃないか、とも記憶している。やっぱワセダ、ジャズ研のトップが相当なレベルだと業界にも認知されライブハウスの枠を持つ、だなんて、世界の成り立ちを感じたりする。


楡崎綾音、箱崎一、戸崎衛(まもる)の3人は高校の同級生で同じ大学。綾音と衛は一時付き合ったが自然消滅、綾音と一は、部屋に単独でも遊びに行く気のおけない友人。一と衛も会えば話す仲。3人は高校の屋外授業で同じ班になったとき、人が消えたようにいなくなった田舎町で、空から川に落ちた蛇を見たー。


大学時代の4年間、というものテーマに3人それぞれの目線で捉えた作品。巻末の対談で著者本人が語っている通り、綾音の目線の第一部「あいつと私」では貧乏で地味な女子学生ライフときっかけ、への出逢いが語られる。リアルすぎるし、あれ?これって小説じゃなくてエッセイだったっけ?と思ってしまう。

「あいつと私」は石坂洋次郎の小説タイトル。また、ちょうど兵庫は芦屋の谷崎潤一郎記念館に行った帰りに読んでて谷崎も出てきたから暗合に嬉しくなったりした。


第二部「青い花」は衛のモダンジャズ研究会での4年間。「レギュラー」と呼ばれるトップチームは業界でも評判となり、ライブハウスの枠も持つ。レギュラーを目指してしのぎを削る衛たち。しかしトップチームでアルトサックスが抜群に上手い先輩もまた一般就職の道を選ぶ。


ジャズは好きで、なかなか楽しめた。アルトサックスが、どれくらい上手いのか聴いてみたくなる。しかし私も楽器の才能が欲しかった。恩田陸みたく、ジャズバンドなんかに挑戦してみればよかった。やっぱみんなポジティブだなあ、なんて思ったり。衛のバンドのリーダー、オズマが京都のボンボンで、その関西弁が入っていることがリアリティを強めていた。


第三部「陽のあたる場所」は前の2話にもちょいちょい出てくる箱崎の話。時代は移り、金融系に就職した一は、高名な映画監督になっている。主語を揺らす、短いブロックごとに変えたりして、少し物事に距離を置き冷静な一のスタンスをある意味人間臭く炙り出している。大学での年月は回想。工夫が見て取れる。


うーん、ちょっと腹黒いかも笑。インタビュアーを刺しまくり。「陽のあたる場所」は綾音、衛と観に行ったイタリア映画のタイトル。



最終の「糾える縄のごとく」は3人をつなぐ校外活動の篇。最後に大学の先輩、第二部でアルトサックスのモデルとなった方と恩田との対談となっている。


私は地元の大学で、友人と大学の時くらい、東京に出て感性を磨きたかったね、と話したこともある。ことに東京六大学というのは特別感があって、こうやってテーマの小説や人の話を聞いていると、日本の中心にぐっと近づいているような雰囲気を感じる。作家編集者を本気で目指す者たちが作家デビューした恩田にやっかみの態度を向けた、というか述懐も、さもあらんと思える。


大学4年間はなんだったんだろう?総括の機会も必要もいまのところないし、ショボかったなあと思うが、懐かしく思い出す。あまりスケールの大きい話ではないが、感慨を新たにした作品だった。


◼️小林剛

「テレワークの『落とし穴』とその対応」


コロナ禍で一気に導入が進んだテレワーク。

労使双方の戸惑いと細かい難点を捉え、社会の状況を概観する。ふむふむ。


帯の文言がなかなか刺激的。アメリカのIBMはリモートワークのパイオニアでそのプログラムを数十年続けてきたが、2017年に突然、地域のオフィスに移るか、辞めるか、と在宅勤務者に迫った。アメリカのヤフーは2013年に在宅勤務禁止。在宅勤務は協同、コラボレーションに向いてない、集団でいた方がイノベーティブ、という理由のようだ。


この現象は、両社とも業績悪化に直面しており、打開のための大きな方針転換に絡んだもののようだ。時期も状況も全く違う。ただ理由が参考にはなる。


さて、コロナ禍で企業は出社率を極端に下げなければならなくなった。未知のウィルス、外国では毎日何百人も死んでいき、病院は野戦状態・・。状況が見えない中、テレワークを導入する際、充分な準備が出来なかったところも多いのではと推測される。


勤怠管理はどうするのか、また導入コスト、削減できるコストは?リモート会議の特徴と進め方、情報セキュリティの問題、私の会社でもあった「ハンコ出社」、電子契約の問題点等々、導入時に会社が迷ったであろう点の現象と対策などが紹介されている。


5月に実施された、在宅勤務の効率についてのアンケートでは、3割強が効率アップと答えているのに対し、効率ダウンは6割以上となっている。


そりゃそうだ。だっていきなり出社基本のあり方が社会ごと崩れたのだから。あまり驚きはしない。


自分にしてみれば、会社というのはやはり環境が整っていて、コミュニケーションに時間がかからない。直接会話を交わせばすぐ終わることも多い。やはり出社の方が効率的。在宅勤務と両方やっての正直な実感。でも子持ちの優秀な女性社員からは、すごく助かっていて、いいやり方です、という言葉を聞いている。立場、役割、年齢層により違うだろう。


残業や労災、強まる孤立感、長時間労働をついしてしまう人もいる。対応すべき問題はたくさん。在宅勤務の評価をするにはそこに合った仕事の考え方と制度が必要だ。また、働かないおじさんの存在など、現今の状況以前からあったがよりクローズアップされた事象もある。


ことテレワークに関しては、コロナという、例えば悪いが劇薬のような出来事があって、考えるきっかけになったと見るべきだろう。オフィスを削減する企業もあるようだが、世の中進んでるからとかコスト削減、という視点ばかりでない、働き手にも納得感のある方向に進んで欲しいなと、思う。

9月書評の1




谷崎潤一郎記念館の庭。京都で住んでいた潺湲亭を模している。執筆部屋からはこの池が見える。

8月は12作品12冊。トータル98作品。8月で100を突破しなかったのは久しぶりかな。

◼️シリン・ネザマフィ「白い紙/サラム」


胸に突き刺さる、イラン・イラク戦争、そしてタリバン進出によるアフガニスタンの現実。読んでよかった。映画化しないだろうか。


文学界新人賞を受賞した「白い紙」と「サラム」の2篇が収録されている。著者さんはテヘラン生まれで神戸大学・大学院卒業後大手電機メーカーにシステムエンジニアとして就職した方。読み始めてから気がついたが、女性です。


◇白い紙


イラン・イラク戦争でテヘランから家族とともに田舎町に移った少女は、医師の父の患者の息子で同じ学校のハサンと親しくなる。ハサンは秀才でテヘランの大学に行き医者になるのが夢だった。やがてイラクの侵攻により少女の街にも空爆が始まる。ふたたびの疎開が決まった少女、街では兵士を狩り集める動きが活発になっていた。大学を受験したハサンはー。


◇サラム


日本の大学の女子留学生、ペルシャ語が母語の「私」は、アルバイトで入国管理局に収監され、難民認定を求めているアフガニスタンの少女、レイラの通訳をするようになる。ペルシャ語に近いダリ語、ハザラ人のレイラは最初は無表情だったが、担当弁護士の熱意もありだんだん身の上を話すようになる。タリバンの迫害で家族を殺された彼女はおじのいる日本に逃げてきたレイラはやがて仮釈放となって難民支援の団体に引き取られる。しかし、9.11同時多発テロが起き、アフガン人全体への反感が強まるー。


インタビュー記事を見ると、テヘラン在住時、小学生時代を日本で過ごしたイラン人の転校生が来て、話を聞くうちに日本への興味が膨らんでいったらしい。また、中東ではどの世代の人であれ、戦争、内戦、革命、移民、難民、それらのなにかを経験していて、人生の軌道が変わる不条理なことを経験しているとも。


「白い紙」は男女の接触に厳しいイラン社会の中、少年少女が心を通わせる話で、学校、バザール、置かれた環境など、社会の現実が生々しく興味深い。ダイナミックかつエモーショナルであり、心が裂かれるようなラストを迎える。ここまで過酷ではないが、工員が少女への恋から別れを描く「少女の髪どめ」というイラン映画を思い出した。


「サラム」は著者自身、アフガン難民の通訳をした経験から描かれている。窮屈な「白い紙」に比べると、女子大生の主人公には日本の社会的なリアルさ、気軽さが漂う。レイラにはエキゾチックな魅力を持たせてあるが、彼女の行く末もまた不条理に包まれて過酷だ。途中、心中を吐露するレイラに、冷淡とも思える言葉を主人公が漏らす。そのわけは描かれておらず、その点不満だったが、ドラマとして魅力的だった。


どちらか、あるいはどちらも、映画化しないかな、と思う。難しいかな。


「白い紙」は芥川賞候補作でもあり、選評を見てみたが、これがヒドい。日本語がたどたどしい、ぎこちない、お話にとどまっている。私は読了後に知ったが、著者はめっちゃ美人。イラン人が日本語で書いた、という話題性が先行しているのを、気に入らない要素も明らかに入っているように見える。審査員が、賞の対象として見るという前提があるにしても・・いや個人的な感想ですよ。


うーん、薄っぺらか、私はコロッとやられちゃったクチなんだろうか。


一時期イラン映画をよく観てて、いまも関心はあり、最近友人との会話に出てきたから、イランの小説はないかと探してみて行き当たった本。映画でも、いわば異世界である中東の現実を目にするのが好きだった。その延長の興味で、大変興味深く、胸に迫るものがあった。


カメラワークが良くても悪くても、映っているものがなにより大事、という話を聞いたことがある。ま、ここは自分の感性と考えることにしよう。読んでよかった。


◼️太宰治「新樹の言葉」


相変わらず自虐的、破綻っぽいのもあるけども、面白かった一冊でした。


太宰治の黒基調、新潮文庫版は17冊発行されてるのかな。私は今巻を含めて10冊くらい読んでいる。最初はどうして太宰治は熱狂的とも思えるファンが多いんだろう、から読み始めた。今もそうは分からないが、親近感が出てきたのは確か。自虐も、破綻も、パーソナリティと受け止めくすりとしたり、必ずある、キラリとしたところを探す感じで読んでいる。


昭和14年、15年ごろの小説集。井伏鱒二の世話で結婚し、最盛期とみなされる時期に向かう作品たち。


女工さんの唄う声に癒される中、希望と熱意と素朴な若さを見る、ほんの4ページの

I  can   speak」。


い、ろ、は〜を、わ、か、よ、まで少しずつ区切って話を展開する「懶惰の歌留多」。そこそこ楽しめる。


得意の女言葉で短い張り詰めた物語を綴るのは「葉桜と魔笛」。タイトルがいいですね。


そして「秋風記」は湯河原温泉に人妻と死出の旅。こともなげだが、一緒に風呂に入って交わす刹那的な会話が、ある意味美しい瞬間を醸し出す。いきなり来るトラブルと、続くラストもよき味だ。


表題作「新樹の言葉」は生い立ちの縁が復する話で、過激といえばそうな展開だが、その中にえもいわれぬ爽やかさがある。


「花燭」「火の鳥(未完)」「愛と美について」。タイトルがいいですね。愛と美、は他出版社ので読んだような。「ろまん燈籠」へと続く話。兄弟姉妹で物語をつないで創っていく。


貧乏で生真面目な作家が追い込まれて、知り合いというだけの女中さんを頼りに上諏訪温泉に出かける「八十八夜」。若い女中さんの明るいやさしさと、思わぬ展開が面白い。


「春の盗賊」では太宰らしい主人公が、深夜に雨戸の端を破り、内桟を外そうと入ってきた泥棒の手を、あろうことか心を込めて握りしめ、頬ずりまでしようとする。変な親切心?が起こりわざわざ雨戸を開けて泥棒を招じいれ、明かりまで消してやる。金の在り処までしゃべっちゃって、悔しいからとしつこく説教をしている間に泥棒はまんまと逃げおおせる。


吉本新喜劇か!特に最初の方。ツッコミ役は読者ですね。それにしても奥さんの言葉がいいなあと、お金なんか。怪我がなくて何より、でもどろぼうなんかに、文学を説いたりなさること、おやめになったら?


妙に笑えました。なにやってんねんー、ですね。


そっとさりげない女性の優しさが微笑ましい「俗天使」。義絶された生家を投影し広げた物語「兄たち」。かつて「ロマネスク」という作品を書いた思い出の地三島のエピソードと時間の経過を記した「老ハイデルベルヒ」、そして女学校のお友達の恋愛に刺激され、その兄に一瞬の激情を抱く、鮮やかに甘酸っぱい「誰も知らぬ」。


新潮文庫の「走れメロス」には表題作、「女生徒」「富嶽百景」「駆込み訴え」など豊かな作品性を持つ小説が入っている。時代的にそこへとステップするかのような、面白く、感性を刺激する「新樹の言葉」。楽しめる短編集だった。


だいぶ太宰に慣れたような、慣れすぎたような気分です。


8月書評の6





兵庫・芦屋市の谷崎潤一郎記念館を訪問。「蓼食う虫」を買ってきた。

◼️松村栄子「京都で読む徒然草」


花はさかりに、月はくまなきをのみ見るものかは。芥川賞作家の徒然草拾い読み・訳出・解題。文章が柔らかく心に落ちる。


吉田兼好の本名は卜部兼好で、このペンネーム?は「吉田山の兼好さん」という意味があるそうだ。吉田山は、出町柳から京都大学の方かな。なんとなく訪ねたい気にもなった。


友人とのやりとりで「徒然草」という言葉が出て、そういえば読んでなかったと図書館に行ったら、「僕はかぐや姫」を書いた芥川賞作家、松村栄子さんが訳出しているので面白そうだと借りてきた。松村さんは静岡出身で関東の大学だが、京都在住で、阪神ファン。この本は京都新聞社が出版している。新聞の連載をもとにしたものらしい。


さてさて、拾い読みのそのまた拾い読み書評ー。


◇第一八九段

「日々に過ぎ行くさま、かねて思ひつるには似ず。一年(ひととせ)の中(うち)もかくの如し。一生の間も又しかなり。」


面倒と思っていたことはあっさり済んで、容易なはずのことが悩みの種になる。一日として思った通りには進まない。一年中こんな具合だ。一生も同じだ。


順に追っていくのではなく、200余りある段の中からテーマごとに関連ある2つ、3つをチョイスして訳出、松村さんが解説をつける形。ちなみにこの章は「予測できないという予測」。


抜粋した文章の前には今日これをしようと思っても急用が入ったり、待ち人は都合が悪くなり、約束もしてなかった人が来る、アテにしてたことはうまくいかず、意外なところで望みがかなう、とある。そうだよねー、人生そんなもん、と深くうなずいてしまった。


◇第一一七段


「よき友三つあり。一つには、物くるる友、二つには医師(くすし)。三つには、智恵ある友。」


この文の前には、友だちにしたくない者として、身分の高すぎる人、若い人、病気知らずの人、のんべえ、血の気の多い武士、嘘つき、欲張りが挙げてある。


老境に差し掛かっていると見える吉田兼好だだけに、嫌う理由は少しずつわかる気もする。大人になってきたからこその本音か。広い知識と鋭い洞察力を持ちながら、書き方は慎重。よき友、は、妙に偽悪的+茶目っ気も匂わして、やはり最後が一番言いたい、でもどこか、心を通わせたい、あきらめたくない、という願望が見える。


実は十二段で、自分と同じような感性を持つ人と語らい、議論もしたいが、実際にはそんな人はいなくて、ほんの少しの愚痴を言おうにも通じない人ばかり。本音の言える友は遠い、ということが述べられている。うむうむ。


少ししめしめした話になった。次は明るめ。


◇第六二段

「延政門院いときなくおはしましける時、院へ参る人に御言づけとて申させ給ひける御歌。


ふたつもじ牛の角もじすぐなもじ

ゆがみもじとぞ君はおぼゆる


こひしくおもひまゐらせ給ふとなり。」


後嵯峨上皇の皇女である延世門院さまがおさなくあらせられたとき、上皇の御所に行く人にご伝言された歌。


ふたつ文字(=こ)牛の角文字(=ひ)まっすぐな文字(=し)ゆがみ文字(=く)とぞあなたを思う。

お父様がこひしく思われますと詠まれたわけだ。


吉田兼好は歌人であり文人。古今集、源氏物語、新古今集の歌の批評などが見える。「徒然草」にはイケメンの高貴な若者を取りあげた段もあり、こむつかしくて明るくない人生論も多い中、明るい光の役割を果たしている。この段は利発で可愛らしい姫さまを描いており、思わず表情が緩む。松村さんいわく

「徒然草ワールド微笑ましく彩ってくれる幼な雛のような存在」としている。



◇第一二七段


「あらためて益なき事は、あらためぬをよしとするなり。」


変えてもよいことがないなら、変えないほうがよいことだ。


第二二段で何かにつけ昔は良かった、いまは言葉遣いも乱れている、と書き、九九段では堀川太政大臣が古い唐櫃を取り替えようとしたが、何百年と経たものだからと配下が反対したからやめた、という逸話を入れての、この段。


ふつうに読むと、懐古趣味か、と思っても仕方がない。しかし松村さんは昔がしたわしいのは多分に好き嫌いの問題で、昔の方が正しいとは一概に言えず、兼好法師は、そのことも分かっていて、距離を置いて見ている部分もあるのではないか、と言っている。確かに一二六段も裏を返せば、変えて良くなるなら変えるべきだ、とも読める。


この章で面白かったのは2001年の中央省庁再編で大宝律令以来の大蔵省をなくすことになり、反対意見も出た。その時首相の橋龍は「では検非違使庁を復活させるか」と切り返したとか。その話、ぜひやってほしいな、警察庁の検非違使庁化!



◇第一三七段


「花はさかりに、月はくまなきをのみ見るものかは。雨にむかひて月を恋ひ、たれこめて春の行方知らぬも、なほあはれに情けふかし。」


桜は満開のときに、月は晴れているときにのみ見るものだろうか。雨を眺めながら月を想ったり、家に閉じこもったまま春の過ぎるのを知らずにいたりするのも、面白く味わい感慨深いものだ。


たぶん古典の授業で習ったのだろう。このフレーズはよく覚えて、さらっと口に出る。


なんでも整っているのが良いわけではない、という話の流れ。A型気質の松村さんはこの段を改めて読み直しグサリときたそうだ。^_^



◇第二〇六段


徳大寺家の右大臣どのが検非違使の長官であったとき、中門の廊下で役所の評議をしてたところ、役人である中原章兼の牛車から牛が離れ、屋敷の中へ入り、長官の座に上り、胃の中のものを反芻しつつ寝そべってしまった。

 

話は、おおこりゃ悪霊の仕業か、陰陽師!となったところを長官の父親が、そんなん足のついてる動物が家に上がっただけやろ、とやめさせるもの。


いやただ、ものすごく高貴な席に牛がどらーんと寝そべってもしゃもしゃやってる図を想像して吹いてしまったってだけです。電車でニヤッとしたら前に座っていたお兄ちゃんに変な目で見られました。



◇第一七二段


「老いぬる人は、精神おとろへ、淡く疎かにして、感じ動く所なし。心おのづから静かなれば、無益のわざをなさず、身を助けて愁なく、人の煩ひなからん事を思ふ。老いて智の若き時にまされる事、若くして、かたちの老いたるにまされるが如し。」


年老いた人は気力が衰え、心は淡白でおおまかなので、動揺するということがない。心は自然と静かであるから無駄なことをせず、身体をきちんと労り、憂いはなく、人に迷惑をかけぬよう心がける。老人の知恵が若いときよりもまさっているのは、若者の容姿が老人よりもまさっているのと同じことだ。


松村さんは幼い、若い時に比べ、今の方が世界の見晴らしは格段によくなり、自分サイズの生き方もわかってきた、若い頃に戻りたいとは思わない、と書いている。


私の高校は同窓会が盛んで、今もひんぱんに同級生と連絡を取っているが、最近女性の1人が、今が一番いい、と言っていた。自分に照らしてみると、若い頃にこだわった小さなことはだいぶどうでもよくなってきている。いろんなものが整っていて過ごしやすい。


お読みになっている方はどうでしょう。戻れると言われたらたとえば高校時代に行ってしまうかも?できれば今の知見はそのままに、というのもまたよく聞く意見です。



徒然草を通読しての兼好のイメージを松村さんは「ガードの堅い人」と書いている。鋭い洞察力を備えているのに、主張したいことを伝聞の話として書いたり、実直に書いてないきらいはありそう。スパッと言い切っているところもあるけれど、角が立たないような気遣いが見えたりもする。素直で伸びやかなものが隠されているように読める部分もある。


取り挙げなかったけれど、南北朝時代は長らく続いた妻問婚と同居婚、妻取り婚が混在していた時期という。その中で兼好さんは妻など持つものではない、と言っててなかなか興味深かった。


美少年が出てくる物語もあり、伝聞もあり、ちょっと俯瞰した目で現世を見つめている項も多く、バリエーション豊か。内容と語り口で軽めに楽しめたのでした。




◼️オルハン・パムク「黒い本」


弁護士ガーリップの妻リュヤーが突然失踪。1980年のイスタンブールを舞台に、ガーリップの自分探しが始まる。うーむ。パムクで最難でした。


幼い頃からひとつ屋根の下で暮らしたいとこで妻のリュヤーが突然いなくなった。ガーリップはリュヤーが同母兄妹で有名なコラムニストのジェラールと共にいると確信しつつ、イスタンブールの街を探し回り、ジェラールの住まいを発見し踏み込むー。


パムクの長編4作め、3作めの「白い城」がアメリカで賞を取り、その報でトルコではパムクを読むのがインテリの証拠、みたいな雰囲気になり5作めの「新しい人生」が大ベストセラーとなった。この2作の間に書かれた作品。


訳者あとがきをそのまま書けば、「黒い本」は失踪した妻を探す男の絶望的な愛の彷徨を、イスラム神秘主義的説話を織り混ぜつつ描いた美しい作品で、トルコでは大変愛されているらしい。ノーベル賞作家であるパムクの最高傑作とするファンも多く、完全読本まで出ているらしい。


いつものごとくというか、目を引く事件が起き、ある程度ミステリー仕立てで読者を引っ張る。トルコ特有の、住宅、食事、街並などあらゆる特徴を取り入れている。社会事情、歴史にもスポットが当たっている。


この小説の舞台はイスタンブールでだいぶ歩き回り、細かい店や、また地図を思い出させる行動など、その描写は都会的レトロをも感じさせる。時代は1980年。クーデターのあった年で、ノスタルジックでもあり、自分たちの国の純文学小説、というのをトルコ国民に感じさせているのではないだろうか。パムクはトルコ語で小説を書く人である。


構成は、国民的人気コラムニスト、ジェラールの、新聞のコラムに書いた文の章と、ガーリップの行動と心象が綴られる章が交互になっていて、非常に暗示的かつ、ジャーナリスティックな色合いもある。


ガーリップがところどころで耳にする不思議な話も、またジェラールの熱狂的ファンがジェラールの部屋にいるガーリップに電話をかけてきて長広舌をふるう場面も、幻想的な物語の読みどころになっていると思う。


それにしてもリュヤーの喪失をキッカケに自分と向き合い、ありのままの自分になりたい、別人になりたい、といわば自分探しを繰り返すのは、なんか既知のパターンのようでもある。


こないだ読んだ「新しい人生」では、読んだ若者の意識を激変させる本が出てくる。この本は何か、という問い合わせも多かったというが、この「黒い本」がそうだと信じる人までいるとか。


さて、正直、難解だった。これまで読んだパムクで最難関。散文的で、やはりイスラムとトルコに根ざした話や例えが多く冗長かと。読んでいて肌感覚としてトルコ人の理解度はぜんぜん違うんだろうな、と思ったし、心の柔らかい部分を衝くかも、と感じたが、私にはなかなかその魅力が分からない。残念。「新しい人生」も詩的でパムク本人も難しい、と言っているが、物語の成り行きと、主題はよく分かり感じるものがあった。

8月書評の5





ビッグダックを観に行った8月末日は最高気温37.6度。よく降った梅雨明けがかなり遅くなりチョー猛暑の夏。このフラッペも8月までだった。最終日に夏を味わえてよかった。

◼️堀内興一「昔話北海道 5集」


最終刊。エトロフ島から京の都?まで。読了後の余韻に浸る。


北海道はでっかくて、予想外に異国の香りがあり、奥深さと望遠の広がり、そして畏れを感じさせてくれる。


◇「子どもを背負って立つ岩(稚内市)」


稚内のバッカイコタンの老エリハケは命の恩人というエキゾチックな少女・アシリマツを連れ帰る。アシリマツは身体能力が高く、よく働き、極端な少食だった。やがてエリハケの息子セカチとアシリマツは結婚し男児を設けるが、セカチはアシリマツがふらりといなくなることに気づいていたー。


実は、ですね。なにやら「自分は飯を食べないから嫁にしてくれ」と来たやまんばの話を思い出す。セカチが事実に直面して思い悩む部分に面白みを感じた。


◇「侵入軍を撃退した女(広尾町)」


十勝アイヌの豊かな産物を狙い、北見アイヌが襲撃してきた。北見アイヌの長・チャウシクのもう一つの目的は十勝アイヌの、美人で鳴るツンランケを生け捕りにし妻とすること。軍備に劣る十勝アイヌが敗走する中、ツンランケはー。


タイトルから成り行きは分かるが、哀しみはつきまとう。集の中の物語に多く見られる傾向だ。ちょっとだけ「紅蓮華」を思い出したりした。


◇「無実の罪に泣きくらす女神

                                         (エトロフ島)」


十勝の茂寄という海岸の山に夫婦の神様が住んでいた。倦怠期を迎え、男神は妻の女神を追い出すために奸計を巡らすー。


イオマンテ(熊祭り)で妻に消失マジックを演じさせた夫は、そのことを利用し、シャモ(和人)が貴重品の塩を売りに来た時に、妻を罠にかける。


コミカルな話ではあるが、いつもイオマンテや自分たちをだましてばかりいるシャモの商人、という本筋以外のところに気を引くところがある。


◇「熊の足跡を残して去った老人(八雲町)」


ルコツ岳近くのコタンに、ポンシララと呼ばれる不思議なエカシ(老人)が住んでいた。コタンが食糧難に陥った時、ポンシララはどこからか熊や笹の実を獲ってきた。何度も続く出来事に人々にポンシララは獲物のありかを明かさない。コタンの人々は、ポンシララを酔わせ、あとをつける。するとー。


平和な話。なんか、星野道夫がエッセイでよく語った、アラスカの民の昔話を思い出す。


◇「暁の明星が現れないわけ(厚岸町)」


厚岸のカスンデという音は大変な悪党で、人をだまして家財を失わせたり、女を犯したりを繰り返していた。人々はカスンデを殺すが、生き返って現れる。なんとカスンデは、疱瘡の神パーコロカムイの子だったのだー。


飢餓と疱瘡は深刻な脅威だった。話としてはひねりや構成の妙はないが、それだけに人々の恐れが分かるような・・。


◇「灯りをともす立岩(椵法華村)」


はるか昔、松前の方に、ウエングル(悪者)と呼ばれ人々の憎悪の的となっている男がいた。民家に押し入った夜、仲間の女の猟奇的な振舞いを目の当たりにしてふっつりと悪事をやめ、贖罪のため、多くのアイヌの命を助けようと長い年月をかけて松やにを集めるー。


とどほっけむら、と読むと思う。いま函館市、北海道南東端の方。これ、大分県の青の洞門を掘り抜いた、菊池寛「恩讐の彼方に」に、話の成り行きもよく似ている。「恩讐」は史実に基づいた話。不思議なものです。


◇「非行から立ち直った山(屈斜路湖)」


山である母のカムイヌプリには、トーエトクウシペという手に負えない息子がいた。なにせ山だけに、泥流や火山礫を飛ばして人々に大きな被害を与える。相談の結果、母カムイヌプリは、二度と息子に会わない決心をし、計略をめぐらすー。


ちょっと現代風な内容で書いてある。トーエトクウシペはシンナーを吸って幻覚症状を出した、とか。これも工夫でしょう。


◇「神と遊んだ男(足寄町)」


馬鹿正直な独身の中年男・カムカムは、不作の年、熊を探して山奥へ分け入る。すると、いつのまにか、カムイ(神)たちの宴会にまぎれこんでしまうー。


短く愉しい話。いかにも昔話っぽいかな。


◇「沼の底に閉じこめられた人食刀

                                        (旭川市神居)」


南北朝のころの都では、取り憑かれたように辻斬りを繰り返す妖之介。ある尼僧が妖之介の苦手な蛇を利用して一本の刀に封じ込め、蝦夷地へ送る。しかし二百年後、家事で封印が解かれてしまい・・


尼僧が封じ込めるところまではいかにもな話なのだが、送られたコタンは迷惑だなあと笑。封印が解けて深刻な被害出るし。蛇が多い今巻の締め。


これで第5集まで完読した。20年ほど前の北海道旅行中に買ったシリーズ。懐かしくて、ひとつひとつ驚いたことも思い出して、美味しかったり、美しかったり、摩周湖の神秘的な雰囲気に触れたり、北方領土見て北の国境を生まれて初めて意識したり・・。


思い出フラッシュ、完結。次は、新たな体験を。稚内から網走まで走破したい!


◼️「クリムト:世紀末の美」


パワーと奥行きがあるきらびやかな美の世界。これが芸術だねえ〜。


クリムトやモディリアニなど、芸術が花開いた時代に個性を確立している絵には引力を感じてしまう。やはり唯一無二は素晴らしい。


クリムトといえばなんといっても「接吻」だろうと思う。金色のラグジュアリーで独特のデザインの世界に恍惚と期待の表情が浮かび上がる。接吻そのものが象徴的なのに、そのレベルは昇華しきったように見える。


金箔を多用したり、四角、楕円、曲線、そして色で鮮やかな、そして深遠を表すかのような模様を織り成す。誰が見てもクリムト、という美しい世界。


そして、顔は快感に浸っているかのようで、限られた空間で垣間見せる、常態離れした表情である。もっとも女性らしい瞬間かもしれない。うーんオブラート。ま、これくらいで・・。


女性の顔は、ちと違うかもしれないがミュシャを連想した。デザイン的なバックにまさに浮かび上がる顔、たまにちょっと顔大きいかも、前に出すぎてる、と思わせる感じは強調と受け取るべきものだろうか。


「ユディト」「ダナエ」「乙女たち」エロティックなのだが、やはり綺麗な芸術、と受け取ってしまう。肖像画家としてモテただろうなあ。


「愛」など普通の人物画も上手い!ピカソもそうだが、強い個性を持つ人は、変幻自在で究極な筆のバリエーションがある感触がある。風景画にも描き方、模様にクセが読み取れるようで面白い。総体的な美のバランスが抜群だなあ、と思う。


クリムトは1800年代末から第一次世界大戦期までの人生で、その作品は崩壊前のオーストリア=ハンガリー帝国、美と音楽の都、ウィーン。その世紀末のデカダンスを表していると言われる。世界的にも華やかな文化の時代を駆け抜けた孤高さは読んでて、眺めていて、ため息がでるほど美しい。


たくさんの女性と関係したクリムトの心の伴侶エミーリエ・フレーゲの肖像は昨年観たが、どうも展示の方法が今ひとつで浸れなかったかな。東京のクリムト展、ちょうど出張でしかも可能なスケジュールでありながら観なかったことを今でも後悔している。あーあ、行きたかった。


ウィーンで「接吻」観てみたい!