2018年12月17日月曜日

いいこと

先週はミシュランの一つ星お寿司屋さんを堪能して、金曜の夜はふたご座流星群のピークだった。

寿司はどのネタもホントに美味しくて至福。

ふたご座流星群は最初南東ばかり観ていて、SNSの情報を見て北東を見ると大きく長いのが流れ、以後観ている画角の真ん中にデカい、長いのが出現してくれるというのが相次ぎ、大満足の観測となった。

半袖シャツの上に長袖ヒートテック、ハイネックのごく分厚いフリース地セーターにダウン、ネックウォーマー、耳まで隠れる毛糸の帽子、サンダルでなく靴を玄関から持ってくる。身体は全然だが、靴下いちばん分厚いのを二重履きしてるのに足先が冷えた。

ここ数年観ているが、あまり出現しない年もあれば、多いけどまさにシュッと細いのが音もなく流れる年もある。今年のように数と大きさが揃った年は初めて。数が多いといっても45分くらいで7つほどなんだけどね。

でも低い空から大阪湾に落ち込むような軌道のものには感動すら覚えた。決して写真に残せない感動。良かった。

土日はママ不在。皮膚科で薬もらって散髪して買い物して帰り犬を安心させ昼ごはん食べて散歩に行って晩ごはん食べてから部活忘年会の息子を迎えに出る。

久しぶりに来た摂津本山ってオシャレで都会だなあと。遅くまで空いてるらしい本屋で待って帰った。皆で写真撮ってるのが楽しそうだった。こういう時、親はホッとする。

日曜は息子グースカとよく寝て外出せず。夕方から冷たい雨。晩ごはんは冷凍チャーハンとフライドチキン、ポテトサラダ。夜シン・ゴジラ観て面白かった。あれくらい東京を破壊しまくるとね。新幹線爆弾、在来線爆弾も笑えた。有川浩「海の中」を思い出した。映画でも観に行こう、と言っても最近外出じたいしない息子が来年の続編?を観に行きたいと言ったのも珍しい。

今週は暖かくなるとか。気温差激しいなあ。

いいこと

2018年12月9日日曜日

少忙


写真は哲学の道近くの紅葉。


ちょっとだけ忙しいこの頃。だいぶ慣れてきた。


妻が夜に用があるという日、帰りのスーパーで冷凍チャーハンと餃子と唐揚げを買って帰ると、近くに住む方からおでんが届いていた。息子と美味しくいただいた。久しぶりに腹いっぱい。


所属するアニソンの会、今回は1才ちょっとの子連れさんのためキッズルームで童謡大会。全部持つわけもなく途中からいつものようにポップス大会となったが、お子さま終始機嫌良さそうで泣きも眠りもしなかった。


京都で居酒屋レストランのおかみさんをしてる同級生がいて、今年の忘年会はその店で開催。2階は居住スペースを宴会場していて広々とした部屋でのびのび。


ちょっと早く行ってセレクトブックショップへ。阪急京都線特急で河原町、京阪四条へ橋を渡って出町柳、出口とバスの系統を確かめてバス停・・ってめっちゃ並んでる、けどそかまでキュウキュウにはならずに立って乗れる。6駅目の4駅目が銀閣寺道。ほう、なるほどちょっと道分かってきた。今出川通の突き当たりみたいなとこが銀閣寺、白川通を折れてから2つめ、錦林車庫前が目的のバス停。京都の方角は分からない。スーパーの交差点を東に、とある。太陽を見て沈んでいく方向が西と見当をつけ逆に渡るとあった。


ホホホ座京都。1階は新本、こだわりが見える。2階は古本。どちらもオシャレめだが、なんかですな、古本は整理とこだわりが足りないような気がした。古本で「京都文学散歩」という地元出版の本を買って帰る。


哲学の道。実に36年ぶり。冬は何もないなぁと思いつつ少年の頃を思い出す。またバスに乗って銀閣寺道から出町柳。


宴会は楽しかった。おかみさん、なんか私が話しやすいのかやたらご指名でボーイ業をやってた。まあ1年の時同じクラス、3年の運動会は応援団とチアガール、ほんで彼女の弟さんはバスケ部の後輩という縁はある。そこまで親しんだ記憶はないけどでもそれが同窓会の良さ。高校の時まったく話したことない人も今は仲良く話すし。


2次会の誘いもあったが帰る。出町柳からなら直通で帰れるし、9時から帰っても11時にしか着かないから。あと1時間遅れたら午前様。やっぱ京都って泊まって観光するのが理想だな。


雨がちの週は暖かく、金曜日の帰りからいきなり寒くなった。ホントに寒い。夕方犬の散歩に行った時、耐えられないくらい寒かった。年末年始並み、とテレビで言ってたがようは真冬並みだということ。暦的には冬なんだけど、これまで温かすぎた今年。こりゃ次週は体調崩す人が続出しそう。でも風邪ひかない私は多分だいじょうぶだけど。自信というか馬鹿だしいぃ。いやいや。ひかないんです。


土曜日は歯医者。私はいつも土曜朝に定期検診を予約する。受付の若い女性いわく


「歯科衛生士が1人やめるので予約取れにくくなっちゃいます。」


聞いて欲しそうだなと感じたから

「人の入れ替わりがあるんですね」

と穏やかに言うと


「結婚で1人辞めるんです」


歯科衛生士だから受付の彼女ではない、と思う。だけどはにかんでおっしゃる。


私の

「おめでたいことですから。」で双方笑顔で会話は終わった。


んで、ワンコの散歩中。


公園の下、山茶花咲く空き地でワンコの散歩中、気がつくと後ろに、見事なカットのプードルが来た。

「これは、きれいだねー」

と思わず声が出た。


この時点で年下であろう女性、くらいしか意識してなかった飼い主は

「きょう美容室行ってきてえー」


ジャージに高校名が入っている。スポーツ部活の高校生か。相手を伺うワンコたち。2頭がくるくる回るように動きリードがからむ。よくあることで飼い主は両手を使いからみを解く。


「プードルとは相性がいいんだけど、どうかな?」

「(うちの犬はこういう時いつも吠えるんけど)きょうは怒らへん」


ほどなく犬同士が離れた。少女とプードルは階段を昇っていった。


堺でいまサラ・ベルナール展というのをやってて、ロートレックとミュシャが展示されてるとか。同じところに、いずれ行きたいと思っていた与謝野晶子文芸館もある。こりゃ行かなくちゃ。駅からも近いらしいし。だいたい堺には市立の「ミュシャ館」なるものがあるようだし。


図書館で北原白秋詩集と、三好達治が書いた「萩原朔太郎」という本を見つける。さらに、読みたいと思っていた与謝野晶子訳の源氏物語文庫で全巻あるのを確認。借りようかとも思ったけど、積ん読の消費が遅れるので見送り。雨月物語もきょうは見送り。


京都で買ってきた「京都文学散歩」では宮尾登美子の「序の舞」とか沢野久雄「夜の河」、中河与一「天の夕顔」、大仏次郎「帰郷」あたりも読みたくなった。青空文庫で梶井基次郎「檸檬」を読む。寺町二条の果物屋で買ったレモンを、三条の丸善の本を積み上げた上へ置く。素晴らしい短編だ。丸善では本の上にレモンを置いて行く人が後を絶たなかったとか。


なんかこう、感性をツンツンされる情報が多かったな。さあ寒い中お仕事だ。






2018年12月1日土曜日

11月書評の5

早いものでもう師走。あー年賀状気にしなくちゃ。

さて、11月は20作品20冊。古典と文豪ものが相変わらず多いな。あとアート系。

いまもう出来ないであろう大記録に挑戦中。詳しくは年末のグランプリ発表で!


朝井まかて「眩(くらら)」

ちょっと長めに。
快作だと思う。女絵師・葛飾北斎が娘、葛飾応為・お栄の画業人生。

ずっと文庫を待ってたものを速攻購入してしばし積ん読。東京出張の往復新幹線で読了。新幹線は時間もゆったりしてよく読める。江戸ものだし気分も乗った。

去年、人でごった返す北斎展に行ってきた。さすが世界のホクサイ、生で観ると感じるものが大きく、人の熱気で溢れる中堪能した。その中にこの本の表紙にある「吉原格子先之図」も出品されていた。その陰影の付け方にが日本画らしくない繊細さがあり、ちょっと変わった絵だな、と思った記憶がある。物語の最後の方にこの作品名の一章があり楽しめた。やはり観た、北斎との共作「菊図」にも作中で触れられている。

絵師としてのお栄、娘として、女としてのお栄、叔母・姉としてのお栄を描く、まさに女の一生もの。幕末に近い時期の江戸、山あり谷あり、大河ドラマ形式で、父・北斎が齢90まで生きたためこの小説のほとんどに北斎が登場し、富嶽三十六景をはじめとする名作の製作の過程が盛り込まれ、興味深さを増している。

快作である。特に次のお栄の心象の表現には感心した。

「絵なら、己がかつて一度も持ち合わせたことのなかった人生だって描けるのだ。花魁の豪奢な美しさや女芸者の婀娜(あだ)、町娘の可憐さ、どれもあたしには縁のない代物だけど、筆でなら描ける。これを描いた絵師はいかほど美しいのだろうと勘違いしてくれたら、それも面白いじゃないか。」

突然出てきてもわかりにくいかな。この心象は終盤のほうに出てくる。お栄のここまでの人生と生き方が濃縮されているようで、どこかいじらしさまで感じさせる言葉で少しジンと来た。

またお栄が家事をしないことに小言が多い夫の元を去る時の言葉。解説によれば飯島虚心「葛飾北斎伝」に書かれているものらしい。

「妾(わらわ)は筆一枝あらば衣食を得ること難からず何ぞ区々たる家計を事とせんや」

作中でお栄がどう言っているかは読んでみてください。

言葉と威勢と心意気が折り合っていてサッパリと格好いい。日本語的にも魅力あり。これを口にすることによって出来る心の傷と向き合う、という側面もある気もする。

さて、日本画や版画のこともよく調べていてかなり詳細に仕上げている。読み手の好奇心を満足させる。作品の良さは疑いがないが、ちと考えてみたい。以下は朝井まかての思い出批評のようなものです。

朝井まかての直木賞受賞作「恋歌」はハードカバーで読み、2014年の私的ランキング1位にした。歌と厳しい現実、幕末の激動に女性の視点が伸びやかで活き活きとしていて、物語を超えるものを感じたから。超然とした作品だった。

その後「ちゃんちゃら」「すかたん」「ぬけまいる」といった初期作品を楽しく読んだ。こちらは江戸や大阪の庶民的、人情的でちょっとコミカルな感じだった。

次は「阿蘭陀西鶴」。偉人の伝記物語。史的な事実を踏まえつつ、市井の人として、等身大の西鶴を描いていたと思う。ここに来て少しベタな感じがあった。

そして今回の「眩(くらら)」である。北斎の娘として画業に生きた女絵師という特殊な人生。長屋に住み借金に追われて甥っ子時太郎のトラブルも頻発する。また女の部分も押さえた人生。

今回最初は、またベタな風に向いているのかなと思って入った。お栄が酒を煽ったり煙管をふかしたりといったところはイメージ付けもあるのだろうと受け取った。時太郎関連はしつこめだな、というのもあったし。

でも、お栄の姿を描きこんで、描きこんで進むうちに、物語として超然としたものがまた少し見えたような気がした。

もちろん題材により時代により設定のテイストは違うものだと思う。でも、初期作品に比べいわば異色作だったひとつの形「恋歌」から朝井まかてはまだ進化中でないかと思わせる。

好きな作家さん。すべて追いかけて読んでるわけではないが、次はどんな小説を書いてくれるのか、本当に楽しみにしている。

原田マハ「いちまいの絵」

26まいのアートを読み解く。じんわりと感じるいい本。

取りあげた名画について、原田マハが自分との出逢いと思い出、解説をしたためている。

・バプロ・ピカソ「アヴィニョンの娘たち」
・作者不詳 秘儀荘「ディオニュソスの秘儀」
・ジョット・ディ・ボンドーネ
「聖フランチェスコの伝説」
・サンドロ・ボッティチェリ
「プリマヴェーラ(春)」
・レオナルド・ダ・ヴィンチ「最後の晩餐」
・ポール・セザンヌ「セザンヌ夫人」
・エドゥアール・マネ「バルコニー」
・クロード・モネ 大壁画「睡蓮」
・エドガー・ドガ「エトワール」
・フィンセント・ファン・ゴッホ「星月夜」
・グスタフ・クリムト
「アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像I」
・ヨハネス・フェルメール
「真珠の耳飾りの少女」
・ジョルジョ・モランディ
「ブリオッシュのある静物」
・フランシスコ・デ・ゴヤ
「マドリッド、1808年5月3日」
・アンリ・マティス「ダンス」
・アンリ・ルソー「夢」
・パブロ・ピカソ「ゲルニカ」
・オーブリー・ビアズリー
「おまえの口に口づけしたよ、ヨカナーン」
・カジミール・マレーヴィチ「黒の正方形」
・ジャクソン・ポロック
「Number 1A,1948」
・マーク・ロスコ
「シーグラム壁画
壁画 No.4のためのスケッチ」
・フリーダ・カーロ「テワナ衣装の自画像、あるいは私の考えの中のディエゴ、あるいはディエゴへの思い」
・ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジォ「聖マタイの召命」
・ギュスターヴ・クールベ
「オルナンの埋葬」
・エドヴァルド・ムンク「叫び」
・東山魁夷「道」

という26枚。あー長かった。でも書きながら1枚ずつ絵を見直した。

生で観たことあるのは「道」と「叫び」くらいかな。「星月夜」もなんか記憶が。「睡蓮」はいろんなバージョンが数あるので大きいのから小さいのまでいくつか展覧会で観たことはある。

それぞれ解説を読むと、画家の環境とその時代、想いがよく分かる気がする。世に衝撃を与えた、というものもいくつかある。

ピカソの「アヴィニョンの娘たち」はよく知られているように絵画の常識を打ち破り世界を変えた作品。レオナルド・ダ・ヴィンチも、原田氏によれば、絵画革命は過去千年に2度起こり、その騎手がピカソとレオナルドだったそうだ。

マネやモネは絵画界に大きな変革をもたらしたし、ビアズリーは聖者の首に口づけするサロメを描くというタブー破りをした。庶民の現実を描くことで、クールベは保守的な画壇に反旗を翻した。マティスの激しい色彩はフォービズムという呼称を付けられた。私も絵は好きだが、あまり体系的に理解しているわけではないのでなかなか面白かった。

どれも興味深いが、心に残ったのは原田マハがある小説を書くきっかけとなった「セザンヌ夫人」。美しい絵では全くないが、夫婦関係、家族の生活を写しているようで逆に好ましい。「接吻」で有名なクリムトはまったく素晴らしいオリジナリティを生み出したし、「真珠の耳飾りの少女」の解説はかきたてられるものがある。ぜひ同名の小説入手したい。

「聖フランチェスコの伝説」はかつて故坂東眞砂子氏の「イタリア・奇跡と神秘の旅」という本のたしか冒頭の話で、フランチェスコの遺骸に殺到する人々の熱狂が描かれていたことを思い出した。

原田マハはドガやモネは「ジヴェルニーの食卓」で、アンリ・ルソーは「楽園のカンヴァス」で、ゲルニカはもちろん「暗幕のゲルニカ」で小説の題材にしている。まだ読んでないがゴッホは「たゆたえども沈まず」で描かれているようだ。

江國香織がやはり自分の好きな絵について書いた「日のあたる白い壁」も大事にとってあるけれど、小説家さんの絵画エッセイはとても面白く、きれいに心に着地する。また探そう。

谷崎潤一郎「お艶殺し」

堕ちていく男女の果て。まあ黄金パターンではある。

質屋駿河屋の番頭である新助は、店の一人娘、お艶と恋仲になり、駆け落ちする。頼っていった船宿の船頭、清次に謀られお艶と引き離された新助に清次の子分、三太が斬りかかかったー。

拉致されその美貌を買われたお艶は芸者となり人気を得て忽ちやり手となる。新助は生き延びてお艶と再会するが・・という展開。

まず謀られて拉致されるところに「安寿と厨子王=山椒大夫」を思い出した。人が良かったはずの番頭は優柔不断でお艶に引きずられ、運命の輪で殺しをしてしまう。それなりに羽振りの良い質屋の箱入り娘からすっかり世慣れて変わってしまったお艶との仲は暗転する。もう破滅へ向かって転落の一途ですね。

「月に吠えろ!萩原朔太郎の事件簿」で朔太郎たちが谷崎の「お艶殺しはいいな」という話をカフェでする場面があって、図書館にあったなと借りてきた。

合間合間に挿入される江戸の風景の描写が、控えめながらも美しく、黒く、物語の進行を盛り上げる。タイトルで話の行く先は見えるが、決まったパターンで破滅のラストに向かっていくのを見守る感覚も悪くない。

大正4年に発表された作品。谷崎は着るものに詳しく描写が多く、柄にはこだわりも感じられる。また漢字が難しくて分からない語も多い。中国の古典で素養を得たのだろうか。
また感覚的に谷崎の文章はきれいと思える。

ただ、この手の話にはありがちだが、ちょっと警戒が足りないかも、優柔不断すぎるかも、という都合の良さもほの見えた。

「金色の死」も収録。

紀貫之「土佐日記」

男もすなる日記というもの。一族郎党、大騒動の帰京。

日記文学と言われる。国司・土佐守として地方赴任していた紀貫之が任期を終え土佐から京都へと帰る道中を描いたもの。なんと55日も(!)かかっている。

古今和歌集筆頭クラスの選者である紀貫之が女性に扮し、ひらがなを用いて書いたことは有名な話。

年の瀬12月21日に土佐官舎を出てから翌年2月16日に京都へ入るまで、何日に何をしたのか1日ももらさず書きつけてある。日記は数日分まとめたのもある。

海路は土佐から四国を東にぐるりと回り、徳島の鳴門から淡路島の南をほぼ真東へ渡って大阪の和泉へ至り、北上して淀川へ入り遡る旅程。当時は帆船ではなく手漕ぎ船。度重なる悪天候でなかなか船旅は進まず、乗る人はひどい船酔いに悩まされた。また紀貫之は土佐守として海賊を取り締まったが、その海賊たちが復讐に来るのではないかと怯えながらの旅でもあった。

紀貫之は女子のふりをしながら、しゃれのめしたり、水浴びの際どい場面を描き出したりと読み物として読む人を愉しませようとしている。創作部分もおそらく多く、日記文学と言われるゆえんである。

また心憎くがめつい船頭、歌詠みが得意でおしゃまな女童など人間模様を織り混ぜながら日記は進む。ひとつの特徴として、土佐へ連れて行き当地で亡くなった娘を偲び嘆く母親の歌が何度も出てくる。来た時子どもがまだなくて、土佐で産み、帰りに連れて帰る女も多い。母の悲しみはひとしおだ。

淀川に入り、伊勢物語で在原業平が花見をして

世の中に絶えて桜の咲かざらば
春の心はのどけからまし

と詠んだ渚の院を通る。伊勢物語の業平の歌はもう一首取り上げられていて、この時代になじんだ物語だったことが分かる。

日記には和歌も出てくる、が、私のようなシロートさんでもこれは・・という感じのものも多い。この作品は創作の部分もあり、京に帰ってから書いているし、なあんか、和歌の達人紀貫之がわざと下手に作ってるんちゃうか、と思わないこともない。いや研究もされてるでしょうし、現状どんな理解なのか分かりませんよ。分かりませんけどそう感じたと。

その中で、1月17日、待ちに待った船出、夜明け方の月が海に映る中を船が進む場面。

影見れば波の底なるひさかたの
空漕ぎわたる我ぞわびしき

水に映る月影を見ると、波の底に大空が映っているが、その中を漕いで行く私は、なんとちっぽけで頼りない存在なのか、と。天空を進んでいるような、ファンタジックな表現だ。悪天候の足止めや船の環境にイライラしたりとなにかとストレスが見える日記の中では、いやだからこそ目立つ幻想的な表現だ。

大騒ぎの大移動。なかなか楽しめました。

11月書評の4

先週末、東京に行ってかつての文芸仲間と会合。本好きの話はやっぱ面白い。だいぶ親しくしていたので久しぶりに(中には少なくとも7年ぶりという人も!)会っても違和感なし。

かなりのめり込んでしまう。角田光代訳の源氏物語がなんと1刷4000円で出た話とかもう好きな人ならではの話題がたくさん。

写真は汐留日テレタワーと資生堂ビルに挟まれたとこのイルミネーション。


河野裕「いなくなれ、群青」

うーーむ。合わなかったな。ラノベライズしたあの人って感じ。

書店の目立つところに置いてあった記憶がある。どんなんかなと読んでみた。

高校生の僕・七草は、気がついたら孤島・階段島に来ていた。住人は「捨てられた」者が来る島だと言う。高校に通い寮で暮らし生活の心配はない。ある日、かつて親しくしていた真辺由宇が島に現れるー。

どこまでも真っ直ぐな由宇は島にいることに納得せず、出る方法を探す。七草は以前と同じように由宇に振り回される。そんな中、この島を統べる魔女宛ての落書きがされ、騒ぎとなる。

異世界、主軸となる男女の関係性、それぞれにキャラ付けしていい味を出している人々、ちょっと変わった会話、エピソード、オチと上手く組み立てられている。男女の関係性もちょっと譲ればまああるかもしれない。

似ているだけで、それぞれは単体で評価した方がいいのだろうけども、村上春樹に似すぎかな。私は決してハルキストではないし、そのベクトルで作品に向かい、批評しようとは思わないが気分的にもひとつなのは避けられない。色々な要素がちょっと理屈先行、頭で考え過ぎかなと思う。

よくできていてサラサラ読めるけど、どうも合わなかったかな。昔読んだ乾ルカ「君の波が聞こえる」を思い出した。


宮沢賢治「ポラーノの広場」

社会、人間、宗教。相変わらずいろいろなものを感じさせる童話集。

最初の表題作「ポラーノの広場」が長く、ほか収録されている「黄いろのトマト」「氷と後光(習作)」「革トランク」「泉ある家」「十六日」「手紙一~四」「毒蛾」「紫紺染について」「バキチの仕事」「サガレンと八月」「若い木霊」「タネリはたしかにいちにち嚙んでいたようだった」
らはそれぞれ20ページにも満たないが、やはり独特の自然表現が透き通ったもの存在を知らしめる。

「ポラーノの広場」はモリーオ市博物局の役人キューストは山羊を捕まえてくれた少年・ファゼーロやその友達のミーロとポラーノの広場を探し当てお祭りに加わる。キューストたちは県会議員の山猫博士ことデストゥパーゴと険悪な雰囲気となりファゼーロが決闘でデストゥパーゴを傷つけてしまう。その翌々日、警察に出頭要請を受けたキューストはファゼーロが行方不明になったことを知るー。

権力とその腐敗、良い共同体のあり方、をテーマに描いた物語。ポラーノの広場に行き着くまでが幻想的でもある。賢治の童話らしくあいまいで粗めなところもあるが、流れは分かりやすい。

「黄いろのトマト」は幼い兄妹に起きた傷つく出来事の話。語り手の蜂雀、ハチドリの焦らし加減が小憎らしく面白い。

他は自然の表現が美しく楽しい「若い木霊」が面白かったかな。季節は春。枯れ草の上を若い木霊がずんずん歩いて行く。ヒキガエルの言葉を聞き、黄金色のやどり木と話をし、鴇(トキ)にだまされる。やんちゃで、かわいらしい。

山男や夜鷹などおなじみの賢治キャラクターも出演する童話集。だらしなかったり、微笑ましいかったり、泥臭かったりするさまざまなテイストの小編がたくさん。もちろん理系的な言葉も入っている。また、らしさに浸った。

岡倉覚三(天心)「茶の本」

日本のお茶の歴史、西洋との対比。心意気を示した作品。

美術家、思想家の岡倉天心が1906年、明治39年アメリカで出版した本で1929年、昭和4年に日本語に訳されたもの。先にドイツやフランスで訳されたらしい。

第一章 人情の椀
第ニ章 茶の諸流
第三章 道教と禅道
第四章 茶室
第五章 芸術鑑賞
第六章 花
第七章 茶の宗匠

から成る。語句の注や解説を入れても100ページに満たない本ながら、読むにはなかなか時間がかかった。それは新書のように茶の歴史や技術などを系統立ててやさしく説明している文章ではないから。

第一章はお茶は八世紀の中国で高雅な遊びのひとつとして、日本では十五世紀に茶道に高められた。から入るのはいいのだが、西洋は東洋の文化を理解していない、という論調の文章が入ってくる。うむ、この人はやはり海外で出した著者「東邦の理想」の冒頭で「アジアは一なり」と書いた人だった。ともあれ世界の茶の歴史に軽く触れる。

第ニ章は古代中国と日本の茶の歴史。煎茶、抹茶(ひきちゃ)、および淹茶(だしちゃ)。
初期の茶は茶の葉を蒸して臼に入れてつき団子にして米や橘の皮、牛乳などと煮るものだった。唐の時代には茶道の祖陸羽が出て「茶経」をまとめた。宋の時代に茶の葉を臼で挽いて粉にし、お湯で溶かす現代の抹茶ができ、宋の文化が元の侵略により途切れた後しばらくして淹茶が根付いたらしい。

第三章は道教の話で、ちと意味が取れず読むのに難渋した。

茶室の章はわが国の茶の湯の話で分かりやすい。千利休が始めた茶室。水屋と玄関(待合)と露地と茶室(数寄屋)、その解説と思想。いいですね。

露地を作る奥意とされる歌

見渡せば花ももみじもなかりけり
浦のとまやの秋の夕暮れ 藤原定家

この歌は千家流に伝えられるおきて書の一つなのだとか。

一方で西洋批評家は日本の美術品が均整を欠いているとしばしば言うが、と極東の美術の考え方を述べ、さらに日本における洋式建築の無分別な模倣を嘆いてもいる。

第五章は、道教徒の物語「琴ならし」などを挙げながら、芸術を鑑賞する、味わう力の大事さを語り、美しいものではなく、昨今の流行品を欲する世間一般の風潮を批判している。

花の章は、ちょっと感情的かな。花に呼びかけ散文詩のよう。中華、日本における花の扱いや考え方を引いている。そしてラスト、宗匠の章は千利休の話。利休がわびの本意とて吟じていたという歌。

花をのみまつらん人に山里の
雪間の草の春をみせばや 藤原家隆

山本兼一の直木賞作品「利休にたずねよ」は読んだけど、もっと知りたくなる。

読んだ後振り返って俯瞰してみればだいたいどんな事が書いてあるか分かるが、読んでる最中はそうでもなかった。なんか話が飛んだり、言いたいことに夢中になるイメージがあって理解しにくかった。でもこうして見るとちゃんとそれなりにまとまってるな(笑)。中華、日本の史料にかなり造詣が深く、幕末生まれ、明治の人の偉大さを感じる。

そもそも古典のビギナーズクラシックにこの本があるとどこかで見て興味を持っていたらブックオフでもとの本が目の前にあったからひょいっと買ってきた。別に古典言葉ではなく現代語で書かれている。ビギナーズ読んだらより理解できるんだろうか。

ボストンと日本を行き来し、ついに日本語の本を書かなかった美術界の権威、岡倉天心。画家ではなくて美術史家、美術評論家と紹介される。

私が手にしたのは第一刷が昭和4年の97刷版。しかし日本語訳してもそれなりに難しく東洋の言葉が多いのに、英語でどう表したのかなと、ちょっと思った。

ナンシー・スプリンガー
「エノーラ・ホームズの事件簿~ふたつの顔を持つ令嬢~」

ホームズ家14歳の末妹、エノーラが令嬢失踪事件に挑む!

どれかというと児童向けかと思う。4~5巻出ているシリーズ。

シャーロックやマイクロフトの妹、エノーラは淑女に育てられるのを嫌い家出する。同じく居所不明の母と連絡を取り、資金を得てロンドンに探しもの捜索の事務所を開く。エノーラは夜はシスターの姿で貧しい人に施しをしていたが、ある日暗闇で突然後ろから首を絞められ、人事不省にー。

やがてエノーラは準男爵家の令嬢が失踪している事を知り、捜査に乗り出す、というもの。女子の心理、ロンドンの最貧困層の描写があり、またマルクスの資本論が出てきたりと思想的な時代背景も描かれる。

コスプレっぽいのもまたラノベらしい。シャーロックは感情的となり、エノーラの行方を突き止めようとやっきになるがエノーラは出し抜いてみせる。シャーロックはまあ、本当のところは何を考えているか分からない、ひょっとして淑女ではなく望む道を歩ませてやりたいのかも、だが、総じてわからず屋の兄というイメージで、あまりいい役ではない(笑)。

ベースはしっかりと踏まえている。でも浮き沈みしつつまあエノーラの活躍と女性視点が主で、あまりSherlockianぽさを小粋に匂わせる仕掛けはなかったかな。

タイトルのふたつの顔、というのは物語の大きな流れとオチに絡んでいて、前者の方は分かるが、オチのその部分はもうひとつ明瞭ではなく、迫力不足だったかな。

続きも図書館にあるのでまた読もう。

11月書評の3

ちょっと最近、経験したことのないショックがあった。でも、忙しくてじっくり考える余裕がない。

よく思うが、年齢を重ねるごとに自分だけ、の領域が増える。今回も人に話を聞いて欲しい、私の気持ちを正確に理解して欲しい、と思わないこともない。でもそう簡単にいかない。相手によっては吐露されたところで迷惑に感じるだろうし、自分として強くありたい。そのバランスは難しい。

まあ今回は幸いというか意外というか話さずにいられない、というほどの状態にはならない。ある意味冷たいのかも知れない。


野本陽代「ベテルギウスの超新星爆発」


ベテルギウスが大爆発を起こす、というのがにわかにトピックとなった時期があった。


この本はベテルギウスの爆発の噂をトリガーに、星の一生やこれまでの観測技術と理論の歴史、そしてら1990年頃から激しく動いている最新理論の現状を網羅している。ベテルギウスの話はちょっとだけ。


さすがに理論の詳細は文系には分からんぜよ。面白いけどね。


さて、オリオン座の右肩の赤い星ベテルギウスは太陽の1000倍の直径を持つ赤色超巨星。太陽系に持ってくれば木星軌道くらいまでの大きさ。チョー巨大なのである。


で、距離はというと640光年。天の川銀河内である。史上地球に最も近い位置での超新星爆発になるので、どういう影響が出るのか、という危惧もないではない。しかし結論から言えばこの遠さで超新星爆発をしても、地球には何ら影響はないとのこと。明るさは半月くらいになり、しばらくは昼でも見えるようになるらしい。


一時期2011~12年くらいにベテルギウスの爆発が突然脚光を浴びたような記憶はある。NHKスペシャルを録画して観た。それは2009年にアメリカの観測チームが天文学会でベテルギウスの大きさがこの15年間で15%収縮している、と発表したのが発端のようだ。


ベテルギウスは点ではなく球として観測できる数少ない星で、2010年1月にはパリのチームが表面に大きな白い模様が2つ見られた画像を発表、さらにドイツのチームが、観測の結果、ガスが活発に動いていて表面はデコボコしている、とレポートした。もともとベテルギウスはいつ爆発してもおかしくない末期の星だから、新聞が超新星爆発の兆候、と書いた。


大きさに関しては実は中間赤外域での観測で、直径の2、3倍離れた分子の層を見るものだったとのこと。近赤外域での観測では大きさは変わってない。つまり来ている毛皮のコートになにかしらの変化はあったがコートを着ている人間には変化なし、ということだとか。しかしベテルギウスの表面のガスが活発に動いているのは確かだそうだ。


中ほどは正直他の本でも読める内容。


1990年頃ビッグバン理論が確定し、さらに宇宙は予想に反して加速して膨張していること、宇宙には見えないが質量のあるダークマターが確実にあること、など最新の状況はあまり押さえてなかったから勉強になった。


肉眼で見える超新星爆発は日本ではおうし座で1054年に起きたものが藤原定家によって「明月記」に記録されている。出来るものなら観たいけれど、爆発の時期は今日から10万年後まで幅があるから・・やっぱムリだなこりゃ。


ガブリエル・ガルシア=マルケス

「エレンディラ」


「孤独」以外ばかり読む。魔術的リアリズム?


マルケスといえばコロンビアの人で「百年の孤独」のノーベル賞作家。魔術的リアリズムを操るという。私はひどく読みにくい「族長の秋」、比較的分かりやすく文芸的な「予告された殺人の記録」を読んだ。どれかというと幻想文学はニガテめで、でもマルケスはつい読んでしまう。今回は短編集。


「大きな翼のある、ひどく年取った男」

「失われた時の海」

「この世でいちばん美しい水死人」

「愛の彼方の変わることなき死」

「幽霊船の最後の後悔」

「奇跡の行商人、善人のブラカマン」

「無垢なエレンディラと無情な祖母の信じがたい悲惨の物語」


が収録されている。最初の「大きな翼」はなかなかインパクトが強かった。まさにタイトルのような男が若夫婦の家に落ちていて、見せ物にして金を稼ぐ話。最後は良かったなあ、と牧歌的な雰囲気が漂う。


短いが「美しい水死人」も印象深い。ものすごい美丈夫の水死体を整える女たちの感情と現象。


「幽霊船」「ブラカマン」は幻想的でラストがブラック。


そして「エレンディラ」はごうつくばりの祖母にこき使われていた14才のエレンディラが風の強い日に家を火事にしてしまい、祖母に「この損を償え」と身体を売ることを余儀なくされる。やがてエレンディラの噂は広まり、行列が出来るようになった。何度も逃げ出すが、その度に連れ戻されるエレンディラ。


最後に祖母の金を持って疾走するエレンディラには複雑な、でも理解しやすい歪みを感じてしまう。


悲惨な部分もあるし、突然幻想的にもなるけれど、まあ分かりやすくて心に訴えるものはあるような。オチが面白いのもあるし。何より個性的で、話がきれいではないのがリアルっぽくもある。南米のストーリーはまた特殊な色がある。


興味深かった。


清少納言「枕草子」


才気煥発という言葉が似合う清少納言。ちょっとベルト・モリゾをイメージした。


図書館のビギナーズ古典コーナーでタイトル見てたら読みたくなった。


ご存知、王朝文学を代表する随筆。学生時代に触れた部分を改めて読み思い出の旅をした、なんてね。


春はあけぼの、とか、やうやう白くなりゆく山際、なんてノスタルジーだけでなく、やはり美しさ、表現力を感じる。いやー紫立ちたる雲の細くたなびきたる、もきれいで、いと懐かしい。


夏の蛍は一つ二つ、秋の夕暮れのカラスは三つ四つ二つ。風情に満ちて章段の言葉の操り方も軽やかだ。


冬はつとめて。さむっ!だが分かるような気はする。張りつめたような寒い冬は季節の象徴でもある。


うつくしきもの。瓜に描きたる稚児の顔。雀の子の、鼠鳴きするに躍り来る。


いやいいですね。いかにもかあいらしい。


雪のいと高う降りたるを・・「少納言よ、香炉峯の雪、いかならむ」と仰せらるれば、御格子上げさせて、御簾を高く上げたれば笑はせ給ふ。


微笑ましい中宮定子とお付きの女房たちのエピソード。藤原道隆の娘・中宮定子に仕えた清少納言。定子は時の帝の妻だが、その栄華は1年半くらいしか続かなかった。


道隆が急死、父の弟道長が猛然と権力へチャージをかけたため、後ろ盾を失った定子は帝の寵愛頼みの身の上となり、第二子を産んだ際に25才で亡くなってしまう。道長の娘で一時は定子と並び后となる彰子に仕えたのが紫式部だった。


清少納言は道長に内通しているという噂を立てられ実家に里下がりしている時、定子からもらった紙に書いたのが枕草子だという。


28才で定子に仕えた清少納言、最初はひどく緊張したようだが、やはりもの慣れてきて書の達人・藤原行成と知的なやりとりをし、百人一首に採られた歌も残している。


「夜をこめて鶏の虚音ははかるとも

   よに逢坂の関は許さじ」


よく知られているようにこの随筆には、清少納言の感性が散りばめられている。あてなるもの、心ときめきするもの、などの賛美ばかりではなく、むしろすさまじきもの  昼吠ゆる犬、の有名な段はもちろん、にくきもの、あさましきもの、くちをしきもの、などなど舌鋒鋭いものも多い。ただ、その生の感情も面白い。ズバッと言うのがやはりいい。


絵に描き劣りするもの、描きまさりするもの、は短いがふむふむとなったし、近うて遠きもの、遠くて近きものは人間的でどこか達観していて興味深い。


才気煥発。

うれしきもの

「我はなど思ひてしたり顔なる人、はかり得たる。女どちよりも、男は、まさりてうれし。」


我こそはと得意顔の人を一杯食わせた時。女同士より、相手が男の方がずっとうれしい。と書いている。話の筋が違うかもだが、「今昔物語集」にも出てきた夫・橘則光は豪胆で思慮深く評判のいい男だったが和歌はからっきしで清少納言にもやり込められる。両方とも気持ちはあったようなのだが、噛み合わなかったと思われる。


才気煥発。

そこまで詳しくないのだが、私は印象派の女流画家、ベルト・モリゾをマネが描いた

「すみれの花束を持つベルト・モリゾ」

がとても好きである。写真のベルト・モリゾには似ていない。だが、彼女が持つ才気、内面を見事に捉えた肖像画だと思う。清少納言を思う時、ベルト・モリゾの絵が浮かんでくる。才気を重ねているが、才木浩人は阪神タイガースの未来のエース。ともあれ、才気は女性の大きな魅力の一つってとこかな。



田中鳴舟

「一週間集中講座 

                 みるみる字が上手くなる本」


「ことめらかさる」と、つい覚えてしまった。エウレカの多い本。


文字を手で書くシーンというのはどれくらいあるだろうか。会社生活ではデスクトップで大半の業務が終わるが、会議でノートパソコンを手に、というスタイルではなくまだまだメモをとる仕事もよくある。また大事な仕事の予習の時はやはりレジュメなんかに手で書き込むものだ。

先日書道家武田双雲氏の著書を読んで字が気になりだし、良寛の手を見てもっと文字の知識を深めたいと思い、とりあえず目に付いた本を買ってきた。最近はホワイトボードの日付とか曜日とか書くときも字が気になったりする。


前置きが長くなったが、タイトルのごとく第1日目から7日目までの章分けで、その中に見開き2ページで、テーマごとにレッスンが重ねてある。


ペンの持ち方から中心と左右対称、点画の間隔、右肩上がりなど基本の解説、うまく見せるポイントなどが展開されている。


前半が漢字中心の章で、中盤はひらがな・カタカナ。また漢字に戻って書きにくい部位、そして行書のレッスンの章となる。


まあやはり行書は先というか、多分自分が書くのは難しい。基本にはやはりふむふむ、だ。


「ことめらかさる」というのは、とりわけ小さく書く文字のこと。ひらがなは漢字より小さく書くのが基本で、「ことめらかさる」はとりわけ小さく書いた方がいい文字だそうだ。漢字では白、日、田、口も小さくした方がバランスが良いらしい。ちなみに本で推してある記憶法ではなく、私が勝手に作った言葉遊びだ。


店、厚などたれの中の部分はやや右寄りに書く、山や土などの小さく書いた方が良いへん、逆に紅や知などつくりを小さく書いた方がいいもの、よこ線は一本だけ長くする、ひらがなのむすびはまるくしない、などそうか、という事が多かった。


書道は小学生の一時期習っていた。習い始めて1年後に地域に少年野球のチームが出来たため毛筆5級、硬筆6級でやめて今に至る。でも何もないけど経験したからか書道には少し興味を持っていて、中学の必修クラブは書道部で文化祭に出品、高校の芸術も書道にした。


でも字は下手。受験の小論文の添削の時、丁寧に何度書いて持ってっても、国語の先生にはもっときれいに書け、と言われたものだ。


姉は教える資格のある段まで取ったから、もう少し習っておけば、なんて今更思ったりする。


いっぺんには覚えきれないな。デスクに置いて折にふれ見直そう。






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11月書評の2

11月は毎週飲み会が入る異常事態・笑。ここ最近は規則正しい生活好きでたまにしか入らなかったのに。年末に近づくとこうなんだな。若い頃は週3とか普通だったんだけど。えらいさんと恒例カラオケで、いつものアニソンや熱唱歌に加え、フォークを歌ってたら、アニソンよりしっとり系のほうが上手い、と言われる。まあ歌い込んだ年月が違うかな、さだまさし。

自分は万葉風の和歌が好きだな、と思う。

「良寛 旅と人生」

市井の僧、良寛の和歌、俳句、漢詩にあふれた本。有名な書の流麗さも楽しめる。

良寛は1758年、越後の出雲崎に生まれ由緒正しい廻船問屋・町名主の長男として学を授けられた。しかし町名主の仕事がうまく出来ず昼行灯と呼ばれ、親の許しを得て家督を弟に譲り禅寺に入る。12年の修行ののち寺を出、托鉢行脚を続けながらやがて故郷の近くの庵・五合庵に住みついた。

よく聞くイメージ通り良寛は手毬の名手で村で子どもと遊び、貧しい暮らしをしながら和歌や漢詩を書いたが、やがて優れた詩歌が評判を呼び、また筆で書いた墨跡、書もすばらしく、良寛の書ということで奪い合いとなるほどだったという。長岡藩主が訪れて長岡へ招くほどだったが良寛はすげなく断った。

晩年にはやはり文芸に秀でた若い尼僧、貞心尼と親しくし、貞心尼選の歌集には良寛の多数の作品が収録されている。

時代は松尾芭蕉が俳諧に新風を吹き込んだ後の、太平の世。西行に憧れ、また万葉集の歌を愛した良寛の作品をいくつか。特に語感に惹かれたのがいくつか。

ちょっと長いが、長歌から。

ももづたふ 弥彦山を いや登り
登りて見れば 高嶺には
八雲たなびき ふもとには
木立神さび 落ちたぎつ
水音さやけし 越路には
山はあれども 越路には
水はあれども ここをしも
うべし 宮居と 定めけらしも

越後の弥彦山にたびたび登って見ると
高い山の頂には幾重もの雲が横に長くたなびき、ふもとには林の木々が厳かに茂り、激しく落ちる水の音は清らかに冴えて聞こえる。
越後の国には多くの山があり、多くの水の流れがあるが、まさしくここをもっともなお社の場所と決められたことよ。

しばしば参詣した弥彦山の神社の辺りを詠んだ長歌。万葉もそうだが、長歌ってテンポが良くて好きである。

むらぎもの心楽しも春の日に
鳥の群れつつ遊ぶを見れば

梅の花いま盛りなりぬばたまの
今宵の夜半の過ぐらくも惜し

むらぎものは心、ぬばたまのは夜にかかる枕詞。良寛は枕詞を多用している。響きも含めて心惹かれる。

秋萩の枝もとををに置く露を
けたずにあれや見む人のため

とををには、たわみしなっている様子。万葉集の用例を踏まえたもの。良き言葉で心のどこかの弦を弾き鳴らされた感じがする。

俳句2題。

水の面にあや織りみだる春の雨

語感により情景描写が鮮明となる。あやおりみだる、という言葉が美しい。

焚くほどは風がもて来る落葉かな

これは、自分の庵で燃やして煮炊きするくるいは風が吹くたび運んでくれる落ち葉で十分間に合う。物に乏しくともこの山中の暮らしは満ち足りているよ、というほどの意味で、長岡藩主が庵を訪れ招いた際、この句を示して断ったという。

他にも、良寛を慕う貞心尼と山がらすと子がらすにそれぞれを例えたやり取りなども微笑ましい。

良寛は、川端康成「美しい日本の私」でも取り挙げられていた。また書家武田双雲氏の著書で、現在でも大変人気のある書だ、と紹介されていた。この本には良寛の手が写真で多く紹介されている。シロートにはさすがに分からないが、一度その魅力を勉強してみたいものだ。

庵に行き子どもと遊んだ才子、詩歌墨跡に優れた言葉が書芸を楽しめた。


芥川龍之介「或る阿呆の一生・河童」

自分を見つめ、死の予感に怯える芥川。

1927年に35歳で自ら命を絶った芥川最晩年の作品集。冒頭の「大導寺信輔の半生」は「私」を主人公とした自伝的なものとして
その作風に一点機を劃した作品らしい。
主人公信輔の、少年時代から20才の青年までの話である。

続く「玄鶴山房」は3人称。奥床しい門構えを持つ家に集う人々のひねくれた面のある人間模様。看護婦の甲野がニヒルである。

「蜃気楼」は鵠沼に暮らした芥川自身をモデルにした短い作品。そして「河童」へと続く。

穂高岳に登山しようとした「僕」は深い霧が晴れるまで休もうと降りた渓谷で一匹の河童を見かける。河童を追いかけた僕は穴に落ちて気を失い、気がつくと河童の国にいたー。

河童の国の人間の世界と違うところ、出産、遺伝、家族制度から政党、ジャーナリズム、宗教にまで及んだその描写は当時大きな反響を呼び批評も多く出たそうだ。ちょっとだけ「ガリヴァー旅行記」も思い出した。「カエルの楽園」も。

そして死の予感が充満した「或阿呆の一生」「歯車」へと続いていく。

私は実は芥川のこの作風の転換について行けず、もうひとつ入り込むことが出来なかった。やはりイメージには王朝もの、寓話風のものが強くあるからだと思う。それらに比べるとキレの弱さがある気がした。

そんな気分で読んでたら「歯車」である。まさに芥川が主人公でホテルで作品を書き、知人友人に会い、街に出て、当時通っていた精神病院にも通う、という成り行き。この本の流れでフツーに読み進めたのだが、途中からぐっと集中力が上がって惹きつけられた。物語は幻覚を見たり、妙な暗合があったりして息苦しさが増し、坂を下るようにどんどん死に近づいていく、闇が濃くなるような雰囲気に鋭い冴えを感じた。

解説によれば「歯車」は名作とする派ともうひとつ派に分かれるようだ。私の好きな川端康成は名作派だそうで、嬉しかったりした(笑)。


柚木麻子「3時のアッコちゃん」

髪をおかっぱに切り揃えた大女、黒川敦子。 神出鬼没のお世話屋さんー。

「ランチのアッコちやん」の続編。アッコさんは東京ポトフ&スムージーの社長。イギリスへ1ヶ月旅行していたということアッコさんはかつての部下・三智子が契約社員として勤めている商社の会議にティーサーバーとして乗り込む。

凝り固まった会議の場を、美味しい紅茶に、ショートブレッドやサンドイッチなど軽食を出し、活性化させる。そして部署の問題が明らかになる。

やっぱり美味しそう。第1話はイギリス風のハイティーがしたくなる。お茶をきっかけに状況が転がり始め、上手くいくのはもちろん出来過ぎの感がないでもないが、現代の会社で普通にありそうな問題を取り上げていて意外にいいなと思ってしまった。

第2話は地下鉄でスムージーを売っているアッコさんが通り掛かりのOLにスムージーを押し付け、おせっかいを焼く。ブラックな状況としつこくて優しいアッコさんが対になって社会問題にも斬り込む。

第3話、第4話にはアッコさんは表立って出てこない。これが関西の話だった。第3話は阪神間、大阪と神戸の間をこう言うが、のオシャレな地域、阪急岡本駅近辺が舞台。東京から来た主人公の女性が関西人の馴れ馴れしさや出没するイノシシに苦しめられる。これ岡本では暮らしたことないけど、イノシシは阪神間では実際に出るんだよね。私の生活圏にも出るし。
第4話は就職活動に失敗し続けている女子大生が大阪の地下街で迷ってしまい、という話。

けっこうその、関西人をステレオタイプに描いていて、話は主人公の過去に及び、落ち込んだ後明るく終わる。ストーリーにそこまで感じるものはなかった。

「ランチ」は強引で上から目線ででも頼りがいのある先輩、アッコさんがランチに関してやはりアドバイスしていき、食生活の変化が原因で物事が好転しだす、という感じだったと思う。ほのぼのとした、でも力のある雰囲気と、なんといっても東京の街の描写が活き活きとしていて新鮮だった。中盤以降はアッコさん出てこないのも今回と同じ。出てこなくとも意外性のあるストーリーだったと思う。

今回はまあ、描写という点では関西の描き方、珍しい岡本の見方にはやはりポジティブな感はあった。

柚木麻子は「終点のあの子」が良くて、「ランチのアッコちゃん」「あまからカルテット」と読み、直木賞候補になった「ナイルパーチの女子会」でちょっと合わないなと思って読んでなかった。

「3時の」は正直さほどインパクトがあるわけではなかったが、期待させるものを感じた。またいくつか読んでみようかな。

川端康成「千羽鶴」

揺れ動く心、女、志野茶碗。戦後の名作。

菊治は亡父と関係のあったちか子主催のお茶会で、令嬢ゆき子の美しさが印象に残る。菊治は帰途、娘・文子と来ていた父の愛人、太田未亡人と2人になり、肌を重ねるー。

ちか子にとって太田未亡人の存在は面白くなく、菊治の父の生前に厳しいことを言ったこともあり菊治とゆき子をくっつけようとする。優柔不断にも見える菊治と煩わしい憎まれ役的存在のちか子。

愛と想い出に溺れた未亡人は急死し、娘の文子もまた菊治に魅かれる。いっぽう、裕福で明るい女所帯に育ち、冷静で女性らしいゆき子の存在感も強い。

菊治も未亡人も文子も罪深さと運命の成り行きに悩む。間に茶の湯と長い年月を経た価値ある茶器が彩りを与え同時に鍵となる。

男女の情、何に魅かれるか、どう感じるかは微妙で、もろく儚い。その表現をじっくりと繰り広げ、いつものごとくいくつもヤマ場が作ってあって飽きさせない。

「千羽鶴」は170ページくらいで一旦閉じ、続千羽鶴となる「波千鳥」が続けて収録してあるが、冒頭の展開に驚く。

「波千鳥」は大分の久住、滝廉太郎の故郷豊後竹田に多くの舞台を割いている。学生時代、列車でも車でも行ったエリアで懐かしかった。

さて、男女のひとかたならぬ俗世の情、女の美しさに日本の美を絡め、もろさ、儚さ、嫋やかさなどを刹那的に醸し出すのが川端康成の手法かなと思う。ただ今回は、罪の感じ方、悩み方がやや過剰にも見えたかな。

独特の美しさはこの作品でも生きていた。でも少しお腹が膨れ気味。川端は間を置いてまた読むとしよう。

11月書評の1

気がついてみれば書くのをサボってました。
例年は秋が短くて、暑かったと思ったらあっという間に気温が下がって冬になり、紅葉シーズンが短いのに、今年は師走に入った来週も20度近くまで上がるとか。珍しく秋の長い年。ではレッツゴー!

松尾芭蕉「おくのほそ道」

生き生きと活動的な芭蕉の名句。感性というキャッチャーミットに重い手応えあり。

俳聖とも呼ばれる松尾芭蕉は46才の春3月に東京・深川の芭蕉庵を離れ、日光、那須から白河の関を越え、仙台、松島から岩手、念願の平泉に辿り着く。そこから東北地方を西に横切る形で日本海側に出て北上、秋田の象潟を訪れ、海沿いにずっと南西に下り、いまの新潟、富山、石川、福井を通過、内陸側に転じて岐阜の大垣へ8月下旬から9月初めに至りさらに伊勢神宮へでかけている。この一連の旅を文章で書き留め、各所に俳句を散らした書。

もちろん「月日は百代の過客にして、行きかふ人もまた旅人なり」の名文で始まって

芭蕉庵を売り旅立ち。

草の戸も住み替はる代ぞ雛の家
行く春や鳥啼き魚の目は涙

は新しい生活のスタート、旅立ち、離別の哀しさを漂わせる。別れ、出会い、新たな出発は現代の我々にしても春の雰囲気を深く味わえる表現だと思う。

北へ向かい、蝦夷征伐の根拠地、多賀城のはるか古の碑に感動し、日本三景の松島を回る。

松島は名文の誉れ高い章とのこと。流れるように景観の豊かさを生き生きと書き連ね、賛美している。

「その気色えう然として、美人の顔(かんばせ)を粧ふ(よそおふ)。ちはやぶる神の昔、大山祇(おおやまつみ)のなせるわざにや、造化の天工、いずれの人か筆をふるひ、詞(ことば)を尽くさむ。」

美人の顔にたとえ、大自然を造る神の霊妙なしごとは、ビヨンドザディスクリプションである、と。
実は松島では(感動しすぎて?)句を残していないのにちょっと驚く。あれ?でもこの章の文章の流れは本当に美しいと思った。

そして念願の平泉では、源頼朝の軍と戦い散った源義経・奥州藤原氏の道行きに想いを馳せ、栄華を極めた藤原清衡、基衡、秀衡の棺が納められている中尊寺光堂の美しさに心を奪われる。

夏草や兵どもが夢の跡
五月雨の 降り残してや 光堂

文を読み解説を見ながら、自然とひとつひとつの句が醸し出す情景を想像してしまう。

みちのくの西側、山形藩の閑静な立石寺では

閑かさや 岩にしみ入る 蝉の声

蝉の声が清澄感をいっそう深めた光景を詠み、その次の章、最上峡でも

五月雨を 集めて早し 最上川

ポピュラーな名句が連続する。

さらに松島と並び優れているという象潟の文章はその松島との比較になっている。長くて饒舌、ウキウキとした気分が伝わってくる。

「俤(おもかげ)松島に通ひて、また異なり。松島は笑ふがごとく、象潟は憾む(うらむ)がごとし。寂しさに悲しみを加えて、地勢魂を悩ますに似たり。」

松島は笑顔の美人、象潟は心悩ませる美女。どちらもまだまみえる機会が無いから両方一度に行ってみたくなる。
こちらでは句は書いているが、私的には芭蕉が心酔していた西行法師の和歌の方が心に残った。

象潟の 桜は波に埋もれて
花の上こぐあまの釣り舟 西行法師

さらに南下して越後路ー。

荒海や 佐渡に横たふ 天の河

この句が出てくるタイミングも、描写もとても心地よくダイナミックでありながら静か。暗い海と星空。佐渡が流刑の島だったことも踏まえ、また七夕伝説の意味も込めているらしい。素人の私にも明らかに分かる句の力。堪えられない。

松尾芭蕉といえば、高校生の時分だったろうか、辞世の句である、

旅に病んで夢は枯野をかけ廻る

を知り、ずっと心に残っていた。今回いつかは、と思っていた「おくのほそ道」を通読して、旅と心の有り様がダイレクトに伝わってきた。それにしても、なんてロマンチックなものを投げてくる人なんだろう!


原田マハ「モダン」

最初の一編でホロリ。MoMAを舞台にした短編集ー。

モダン・アートの聖地とも言われるMoMA・ニューヨーク近代美術館で働く人々に絡んだ人間ドラマ。美術作品を題材としてキュレーターでの経験を持ちMoMAに勤務していた原田マハの思い入れが伺える。

「中断された展覧会の記憶」

東日本大震災ー。MoMAの展覧会ディレクター、杏子ハワードはニューヨークでそのニュースを見た。MoMAの理事会はふくしま近代美術館に貸し出しているアンドリュー・ワイエス「クリスティーナの世界」の即時撤収を決め、杏子は返送の付き添いを命じられる。先方の担当者長谷部伸子の熱意を知っている杏子は展覧会中の強権発動に釈然としないまま日本へと向かう。

クリスティーナは足が不自由な少女でワイエスがその前向きな姿勢に感銘を受け描いたのが「クリスティーナの世界」だそうだ。

ボストン育ちでアメリカ人の夫と暮らす杏子、本来の担当者が日本への出張を断ったエピソードも織り込まれ、被災地・日本の捉えられ方も俎上に載せる。さらに伸子の娘の話もありー
ホロリとしてしまった。弱いなあこういうの。

「ロックフェラーギャリーの幽霊」

MoMAの監視員、スコット・スミスは美術にはさして興味がなく帰りになじみの店でウイスキーをやるのが楽しみの独身中年男。閉館間際、いつのまにか現れ、ピカソの「アヴィニョンの娘たち」を熱心に見ていた青年と言葉を交わすー。

飲み屋で青年について話すうちに周囲のピカソへの興味を知り、興味が深まったその時、というストーリー立て。思い入れを感じる一編。

「私の好きなマシン」

インダストリアルデザイナーのジュリア・トンプソンにはMoMAに勤める旧友のパメラと会い、MoMAの初代館長、アルフレッド・H・バー・ジュニアが亡くなったと聞く。ジュリアは幼い頃両親とMoMAの斬新な「マシン・アート展」に行って感銘を受け、当時の若き館長、バーに記憶に残る言葉を聞いたのだった。

まさにMoMAのモダンな側面を味わう作品で、バーへの更なるオマージュでもある。

「新しい出口」

9.11同時多発テロでMoMAのアシスタント・キュレーター、ローラ・ハモンドは同僚で親友のセシルを失い、PTSDを患っていた。折しもセシルとともに深く関わっていたマティスとピカソの展覧会がロンドン、パリで成功しMoMAで開催されようとしていたー。

教科書的な作品でもある。原田マハ氏は、女性の友情、男女の愛情、そして9.11テロに対して感情的な表現を重ねる傾向があると思う。短編だけにいい収まりだと思ったが、受け止め方が分かれるところかも。

「あえてよかった」

東京で私立美術館の開設に関わる森川麻美は、新美術館を開発の目玉とし、MoMAに多額の寄付をしている企業から研修員としてニューヨークに派遣されていた。MoMAでの同僚で、麻美の世話をしてくれているパティに、麻美はある日、「ニュー・ジャパネスクフェア」のディスプレイ展示に感じた違和感を相談する。

公式HPによれば、原田マハ氏はやはり日本から派遣されてMoMAに勤めたことがあり、その経験を元にしたのではと推察される。「お客さん」である自分の遠慮といつも「イッツオーケー」と答えバイタリティーにあふれるパティの微妙な関係性を上手にキレよく描いている。

全編に作品の紹介とまつわる話、例えば「アヴィニョンの娘たち」の登場や「ゲルニカ」の展示の経緯がひとつのテーマとなり、MoMAの特徴、職員の仕事の知識にニューヨークの暮らしも取り入れて、すらすら読める小粋な作品集になっている。

もっと読みたいな。今後も原田マハ氏に期待。

鯨統一郎
「月に吠えろ! 萩原朔太郎の事件簿」

11月1日は萩原朔太郎の誕生日とのこと。2日遅れで、「吠える」ではなく「吠えらんねえ」でもなく「吠えろ!」を読む私。にしてもめっちゃコミカルなミステリラノベで朔ちゃんハマりすぎ。しかもホームズも!

萩原朔太郎は1886年、明治19年生まれで、全七話の中で第一話の27歳で始まり、第三話までは個人詩集を出していない名もない詩人、第五話では「月に吠える」の再刊が決まった37歳と月日の流れを追っている。舞台は東京だ。

小笠原での療養から北原白秋が戻り、萩原朔太郎、室生犀星、山村暮鳥に北原の4人は日本橋呉服町の人気絵草紙店へ出かける。大人気の竹久夢二の店で4人は夢二夫婦と知遇を得る。後日開店記念パーティーに出向いた朔太郎と犀星は、鍵のかかった店から夢二の絵が盗まれたと聞かされる。最後に鍵をかけたのは「青鞜社」に所属する神近市子だったー。
(第三話 消えた夢二の絵)

朔太郎は犀星と暮鳥を巻き込み勝手に「S探偵倶楽部」と称し、北原白秋をボス、暮鳥を山さんと呼んでいる。この事件の手掛かりを得るため、与謝野晶子、田村俊子、平塚らいてう、神近市子、伊藤野枝の青鞜と合同コンペティション=合コンを開催する。

日本の時代性、文芸界の流れを押さえた、ある意味豪華キャストのミステリラノベである。新思潮や白樺など雑誌、作品の話題、批評など朔太郎は女に弱く金はなくにぎやかしであつかましい変人キャラ。詩人特有のインスピレーションで事件を調べて真相を突き止める。そこは鋭さも感じるしトリック自体はまずまずなのだが、事件捜査ではなくインスピに重きを置いて大した調査はしないし、いかんせん軽い。てゆーかそういう作りなのかもだが。ミステリとして評価する方が間違いか。

なぜか朔太郎キカイダーよろしく必ずマンドリンを弾きながら登場するし(笑)。

第一話のみ三人称で、第ニ話以降はある人物のモノローグ。だいぶ後になって室生犀星と分かる。第七話は文藝春秋社長の菊池寛の紹介で八王子で養蜂を営むエルロック・ショルムスなるイギリス人に会いに行く。彼はバリツという武術を極めるために来日しており、本国では化学者で色、緋色を特に研究したという。東京の屋敷ではミルクを舐める蛇を飼っているー。と私のような者にはくふ、と笑ってしまうネタが、満載だ。

これ、マンガの「月に吠えらんねえ」よりもかなり昔の刊行なのだが、朔ちゃんて、なんてこんなキャラが似合うんだろう。続編頼むから書いてくれという感じである。文芸好きとしてもお願いしたい。ちなみにタイトルはもちろんドラマ「太陽に吠えろ!」と詩集「月に吠える」の二重のパロディである。

鯨統一郎氏は覆面作家とのこと。「邪馬台国はどこですか?」で1998年にデビューという段も踏んでいるが、ことホームズに関しては、島田荘司に姿勢が似ているなと思った。「まだらの紐」でヘビがミルクを舐めること、口笛で呼び戻すこと、また「マザリンの宝石」で身長180センチの男がおばあさんに変装すること。この作品ではそのいずれもが揶揄されていたから。

ともかくも、面白かった。重ねて書くが、続編読みたい!


矢口高雄「マンガ日本の古典 奥の細道」

秋田出身で「釣りキチ三平」作者の矢口高雄が描くとなれば。

図書館で古典コーナーをブラブラしてて見つけたマンガ。「釣りキチ三平」全65巻、さらに矢口高雄監修釣りガイドをコンプリートした身として久々にあの絵を楽しみたくなった。

また、ついこないだ「おくのほそ道」を読了したばかりで、今いまが読むチャンスと思い即、手に取った。


「おくのほそ道」は出発時、松島、奥州平泉、山越えして象潟がクライマックスであるが、平泉以外は名句を残していないこともあってか、平泉、生い立ち、山越え、そして

閑かさや岩にしみ入る蝉の声

五月雨を集めて早し最上川

の場面を描いている。

また当時の句会の情勢、句会の様子なども描写されていてより分かりやすかった。句会があってその発句を詠んだとか百韻、歌仙など不勉強だった部分が一気に氷解した。マンガの力は偉大である。

尾花沢の富裕な紅花商人・鈴木清風、大石田の高桑川水らのもてなし、案内など人とのつながりも詳しく紹介されていている。

当地で過ごしもてなされた実感を方言に託した

涼しさをわが宿にしてねまるなり

の部分はちょっと感動した。「おくのほそ道」の注釈はけっこう断定型でこの場面、「当地へのサービスだろう」とドライめに済ませていたからこれもマンガ的な流れかなと。

羽黒山、月山、湯殿山ほ出羽三山も印象深い。

懐かしい矢口高雄氏。東北の自然を描きこむのにこんな適任者もいないと思う。人の顔の造作や表情、また物腰や態度の描き分けも素晴らしい。本来は芭蕉46歳、同行の曾良41歳であるが、曾良をぐっと若く描くことでマンガ的に関係性が上手く流れていると思う。

良い読み物でした。。

2018年11月13日火曜日

10月書評の5





千早茜「あとかた」


恋愛・結婚と人間の裏側。何かがあると信じさせる作家さん。


5年同棲した恋人と結婚を間近に控えた女は、バーで同席した、得体の知れない雰囲気の男と時に激しく身体を重ねるようになる。ある日男は関西の山寺へと女を誘うー。

(ほむら)


連作短編のような形で、次の「てがた」は得体の知れない男の部下だった者の夫婦生活の話となり、次の「ゆびわ」はその妻が若い男と浮気、きついセックスに溺れる。


「やけど」では恵まれているが親が別の家庭を持ち男の家を泊まり歩く美少女サキ、「うろこ」はその女を泊める同級生の男、そしてラストの「ねいろ」は海外の戦地や被災地で活動する恋人を持つ市井のヴァイオリニスト~彼女はまたサキと仲が良い~が描かれる。


文章の印象は、ズバッと生の状況描写をする。説明が少なくダイレクトに伝わる感じ。セックスについてはオブラートに包んでいるとも逆に言えるかも知れないが、より大人の男女の生々しさへ切り込むような印象だ。


男性主人公の話は男がちょっと甘く頼りなく、女性主人公の話はきめ細やかでリアルである。「ほむら」「ゆびわ」「やけど」で女性主人公の行動と気持ちが軋むようで少しショックも与えるような場面も取り入れている一方でラスト2編「うろこ」「ねいろ」は男女それぞれの主人公で少し可愛らしい仕上がりになっている。


通常本を読む時は物語に入って行って感動したりして、読み終わってからちょっと冷静になって、考えてみれば演出過剰かも、などと思う。面白いもので、今回は読みながら、この設定や出来事は少し大仰かも、などと、入り込んだり、醒めた目線で見たりしていた。


何かを求めて熱烈なファックに没入している設定を見ると、満たされない自己の解放を求めて、結果何かを得ているようにも、読者の願望を荒々しく書き出しているようにも受け止められる。性と恋愛・結婚へ向けた女性ならではの視線や、社会問題、男の弱さ、気持ちの可愛らしさと困難取り混ぜ、ちょっとした小粋で鋭い知識を織り込んだりして、大人風味でもある。


浸ったわけではない。でも恋愛を描き出すのに手練手管でかつダイレクト。千早茜は「魚神」「あやかし草子」と不思議な世界の描写が好きで、実は現代恋愛ものはこれが初めて。直木賞候補になった時から気になっていた。


今回は現代ものでも、何か信じられるものがある作家、という印象を得た。


夢枕獏「翁-OKINA 秘帖 源氏物語」


時は平安、主人公は光の君ー。

夢枕獏はたぶん初読み。ふむふむ。


光の君は、妻の葵の上の容態が悪く、何かが取り憑いていると思い祈祷を重ねるが、正体が分からない。播磨の法師陰陽師、強力な力を持つ蘆屋道満に頼んで憑き物を呼び出すと、謎々を投げかけてきた。

「地の底の迷宮の奥にある暗闇で、獣の首をした王が、黄金の盃で黄金の酒を飲みながら哭いている。これ、なーんだ?」


本読み仲間の先輩が「2冊同じの買っちゃったから1つあげるわー」とくれたのが読むきっかけ。夢枕獏氏といえば陰陽師シリーズかと思うが詳しくない。ともかくおどろおどろしいのは確かだろうな、と思い読み始めた。


陰陽師に源氏物語を絡ませエンタメにしたもの。主演はあやかしのものが見える能力を持ち、肝の座った光の君、案内役は安倍晴明の最大のライバルとされる法師陰陽師・蘆屋道満(あしやどうまん)。他のキャストはほとんど寝たきりで喋るのは憑き物の言葉だけの正妻葵の上、恥をかかされる愛人六条御息所、あっさり死ぬ愛人2夕顔、最後に息子夕霧。あ、義兄にして邯鄲相照らす仲の頭中将。


憑き物が分からないため光たちは異国の宗教を調べたり、もののけに調査を頼んだりする。うねうねと話が飛び、源氏物語の根源的な部分、その現代的な解釈にに帰って終わり、という感じである。


あとがきによれば「古代エジプト、ギリシア、唐ーと、神話をたずねて旅するその案内人蘆屋道満がメフィストフェレス役ーとなると自然に、光源氏がファウスト博士役となる」とのこと。うーんそういうことだ(笑)。ちなみに様々な宗教の逸話が出てくるところでいくつかは聞いたことがあり、前後からエジプトやギリシアの話かなあ、とはうっすら分かったが正確な判別は出来なかった。ちなみに、「傑作」と自画自賛してらっしゃいます。


すらすらと読めて楽しくなくはなかったし、最近読んだいくつかの古典を踏まえているな、と感じられた表現があったりして興味は惹かれた。ただ、結論含めて、あまり感じ入るものではなかったかな。まあ経験です。「陰陽師」シリーズ読んでみようかな。


ジョン・L・ブリーン他

「シャーロック・ホームズ ベイカー街の幽霊」


シャーロッキアンの作家たちがテーマに沿った短編を書き下ろした作品集。この巻は幽霊という、合理主義者ホームズと相容れないものがテーマ。さて、どうなるか。


このハードカバーシリーズは1996年から5作品、発行された。私は持ってるのは2つで今回が3つめ。調べてみたら読んでないものが行きつけの図書館にもあったから今後を楽しみにしている。


一編ずつ簡単な感想を。

ローレン・D・エスルマン

「悪魔とシャーロック・ホームズ」


エスルマンといえば「シャーロック・ホームズ対ドラキュラ」というパロディの著者である。私も持っていて、いかにもB級ホラーっぽいタイトルの割にけっこう面白い作品である。


精神病院にいるある患者がまるで悪魔で、彼と話した入院患者は自殺未遂を起こし、看護師の女性は理性を失ったという。ホームズは対面すべく病院へ赴くー。


うーん、エスルマンだったし期待したが、これはいまひとつかも。あくまで個人的感想だけどかなりスルーされた。


ジョン・L・ブリーン「司書の幽霊事件」


貴族にして議員の依頼者の屋敷には古い図書室があった。そこに幽霊が出ては何らかの書物の一部分に赤い印をつけて置いていくというー。


まあまず面白かった。パズルのような推理や動機。図書館へ出入りできる謎の理由が簡単すぎたのは気になったけど。


ギリアン・リンスコット

「死んだオランウータンの事件」


塔をよじ登るオランウータンの幽霊ー。恐るべき陰謀が隠されていた。

 

どうも、最初は飲み込みにくかったが、最後の方で一気に事情が分かる。


キャロリン・ウィート

「ドルリー・レーン劇場の醜聞、あるいは吸血鬼の落とし戸事件」


目の前で人消える?わがまま名女優が発端となった劇場の歴史にも絡む事件。劇的でハデだったからかなかなかエキサイティングで面白かった。


H・ポール・ジェファーズ「ミイラの呪い」


タイトル通り、ミイラの発掘に関わった人が次々と死んでいく話。うーん、ホームズが活躍した1800年代末に会う話かな。


コリン・ブルース「イースト・エンドの死」


ロンドン市中の貧民街で子だくさん一家の大黒柱となっている母親が急死した。しかし留守番をしていた幼子は、母の死骸が動き喋るというー。


著者は科学と数学のホームズ・パロディ「ワトスン君、これは事件だ!」を書いた方。私も持っているが難解だった記憶がある。


ポーラ・コーエン「"夜中の犬"の冒険」


22才の兄グレゴリーと17才、盲目の妹エレンが行方不明に。調べていくと2人の忠犬が奮闘したことが分かるー。


いい感じに少しの超自然現象。


ダニエル・スタシャワー「セルデンの物語」


かつて「ロンドンの超能力男」というパロディ・パスティーシュで奇術師ハリー・フーディーニをホームズものに登場させたスタシャワー。持ってるがまずまず楽しい作品。


セルデンといえばそりゃ「バスカヴィルの犬」に重要な役で出演する脱獄囚。話はセルデンの独白。「バスカヴィル」大好きな話だし、いいね、こういう視点を変えたもの。


ビル・クライダー

「セント・マリルボーンの墓荒らし」


これなんかはいわゆる聖典にもありそうな話だ。おどろおどろしい霊園での墓荒らしと無残に切り刻まれた死体。この本の中でも雰囲気を楽しめた作品。


マイケル&クレア・ブレスナック

「クール・パークの不思議な事件」


ホームズとワトスンはアイルランドに住む作家のレディ・グレゴリーに招待され、アイルランドの彼女の屋敷に出向く。劇作家バーナード・ショーや詩人のウィリアム・バトラー・イェーツが登場。ホームズたちは魔女的な?不思議な出来事に巻き込まれる。


バーナード・ショーは他のパロディ・パスティーシュでもたまに出てくる。しかしこれは・・この本のほとんどが超常現象と思えることをホームズが解決していく形を取っているのだが、この作品は違うとだけ書いておこう。


あとはホームズに関するエッセイだったり、近年のサイキック探偵ものの流れを分析したり。なるほど超常現象にホームズの合理的な思考は対比として面白い。なかなか面白いテーマの一冊でした。


10月書評の4





青山文平「白樫の樹の下で」


悲哀を含んだストーリー。引き締まった佳作。松本清張賞。


江戸深川、同じ道場の村上登、青木昇平、仁志兵輔はいずれも代稽古を務める腕前の幼なじみ。役のない年三十俵の御家人だったが、昇平は子供を襲おうとした危険な浪人を衆目の前で斬ったことから評判となり、端役に就いていた。兵輔は世間を騒がせている斬殺魔を捕えて自分も役に就こうと独自に見回りをする。登は、道場に通う商人、巳乃介から人気の刀、「一竿子忠綱」を借りてくれと頼まれる。


主人公は登で、兵輔の妹、佳絵と相思相愛となり結婚を約束するが・・。


時は贈収賄が横行した田沼意次の時代が去り松平定信の寛政の改革が始まった1790年ごろ。世の中は変わるはずだが、3人の若者の立場は変わらず、提灯貼りなどの内職をしなければ食っていけない。鬱屈とした気分をべったりと敷き、若者らしい希望や夢を抱かせる。同時に常に事件の匂いをさせ、緊張感を失わせない。


そして事件は哀しい方向に動く。川で父が育てている金魚の餌の糸みみずを採りながら号泣する登の姿が不憫でならないが、事はもう感傷に浸る余裕の無いくらい激しく畳み掛けるような展開となる。


ラストも綺麗にまとまっているが、それだけに腑に落ちないところもあったような気がして考えてしまった。うーん。斬殺魔の動機はこれでいいんだろうか、とかね。


でも若者たちの、明日が見えない、抜け出せない気分に、幼い頃の思い出や夢を閃かせて哀しみを強調したこと、剣術や緊張感の織り込ませ方など、エンタテインメントとして完成度が高いのではと思わせる。


時代物は定期的に読んでいて「火天の城」「利休にたずねよ」の山本兼一、「王になろうとした男」「巨鯨の海」の伊東潤、「秋月記」「蜩ノ記」の葉室麟などをよくチョイスする。最近ではあさのあつこの「弥勒の月」シリーズにゾクゾクし、木下昌輝「宇喜多の捨て嫁」のクセに唸った。色は違うが朝井まかてや松井今朝子なんかもいいと思う。


お家騒動、時代の雰囲気、剣術、設定、元になったエピソードなど要素は数あると思うし仕上げ方は様々。今回一読するには良かったけれど、上手さが先に立ち、人へのこだわりが薄いようにも感じられた。


直木賞受賞作「妻をめとらば」もあるし、どのような作風なのか、また認識を深めるのが楽しみだ。


谷崎潤一郎「刺青・秘密」


発表は明治末。大谷崎のデビュー作。うむ、なるほど、といった感があった。


「刺青」「少年」「幇間」「秘密」「異端者の悲しみ」「二人の稚児」「母を恋うる記」が収録されている。


「刺青」は明治43年の発表である。若い刺青師の清吉は人々の肌に針を刺す時、客のうめきが激しければ激しいほど不思議に言い難い愉快を覚えていた。清吉の年来の宿願は光輝なる美女の肌に己れの魂を彫り込むこと。ある日、清吉がたまたま見かけてその素足に魅了された少女が、馴染みの芸妓の使いとして清吉のもとを訪れたー。


この短いデビュー作のあらすじは概ね知っていたが、読んでみると確かに妖しい魅力を放っている。どちらかというとサディスティックな面だけでなく、光輝な女に刺青を施すその魔界的な雰囲気と美しさを含んだ独特のムード、娘の変化(へんげ)が放つ艶やかさに呑み込まれる。


次の「少年」もまた、幼い物語ではあるが、マゾヒスティックな感覚に惹かれる子供たちにどこそか妖しさの続きを感じ、ラストもまたSM的な香りが匂い立つ。ちょっと江戸川乱歩的かも。完成度の高い作品だ、とつい思ってしまった。あんまり倒錯的なものは好きじゃないはずだったんだけど思わず。ともかくこの並びには唸ってしまった。


「幇間」「二人の稚児」は、時代の前後と2人の関係はあろうが、最初の印象は芥川龍之介的、だった。「二人の稚児」は王朝もののようで、仏教の色合いが濃い説話風な話である。


昔付き合っていた男女が少々風変わりな再会をする「秘密」はもうひとつ惹かれるものがなし。100ページ近くで最も長い「異端者の悲しみ」は旧制一高に通う学のある主人公が家族との葛藤や友人との不義理で付き合い方を通して自分というものを問いかける。谷崎自ら自叙伝的作品としている。うーんまた毛色が違う破滅的な話。


ラストの「母を恋うる記」はファンタジー。心象風景のような風景の中、どういった方向へ進むんだろう、と思っていると小説的に気持ちよく収まる。ほうっとした気分で読み終えた。


谷崎はまだ慣れないのか読むのに随分と時間がかかった。でも特に最初の2編には新鮮な境地に陥って納得感があった。


武田双雲「『書』を書く愉しみ」


面白かった。書道のライトな歴史から書体、道具、書き方まで。


良寛、日下部鳴鶴、そして空海も熱中したスーパースターだという王羲之の書を見せながら、うまい字とよい字について語っていく。書の世界において価値あるもの、というのも新鮮な知識だったし、やはり美しいと評価されている作品は見たいしでサクッとつかまれてしまった。


そして5つの書体、すなわち篆書、隷書、草書、楷書、行書を説明しながら書の歴史を綴る。言葉は知っているけどどんな書体か厳密に区別できない私には非常に分かりやすい流れだった。そして日本の文字の歴史へと移る。漢字の登用からひらがなの誕生へ。ここも聖徳太子の肉筆、空海の手紙の筆、和様書の創始者とされる小野道風の文字などが眼を惹く。江戸寛永時代の発展と近代まで。


さらに書の道具、紙、筆、墨、硯について、それぞれの歴史を混じえて紹介されている。紀元前1500年には筆が存在し、墨は紀元前3500年に原型があったという。ごく最近まで書きものといえばずっと墨と筆だったわけで、その歴史は長く深い。とても興味深く愉しんで読んだ。


書に対する色々な捉え方はなるほどという部分もあったし、新しいものに触れられた感覚があった。全体的にはかなり初心者向けの優しい本。伝わるようにと心を砕いているのがわかる。


書道の専門店というものに行ってみたくなった。目につく文字に少し注意する方向に意識が向いている。正倉院にあるという現存している最古の筆で聖武天皇の宝物として奉納された「天平筆」が見てみたいな。染まりやすい私。


10月書評の3






「伊勢物語」


昔、男ありけり。昔男は在原業平。有名な、私でも知っている和歌が多く出てきて意外に、めっちゃ面白かった。


読もうと思ったのは川端康成「美しい日本の私」で王朝文化隆盛時の書として繰り返し触れられていたから。「古今和歌集」と前後して成立し歌の被りもある。


昔、男ありけり、で始まる昔男の恋物語。エピソードをいくつも書き連ねているのだが、大きな流れがあるようだ。


鬼一口と呼ばれる第六段、男は相愛の二条の后を盗み出し、荒れはてた蔵に入れて自分は雷雨の中表を守っていた。その間に后は鬼に食われてしまった。実は、追っ手となった后の兄たちに取り返されたのが真相だが、后が露のように消えてしまったのを男は嘆くー。


そして昔男は都にいる気力を失い、東国へ下る。昔男の東下り。都とおそらく后を思い数々の歌を詠む。


これが一つの流れ。


その後、高校で習った歌


筒井つの井筒にかけしまろがたけ

過ぎにけらしな妹見ざるまに


比べこし振り分け髪も肩過ぎぬ

君ならずしてたれかあぐべき


というみずみずしい幼なじみの恋など年齢や立場が様々な男女の恋が描かれる。後半に「伊勢の斎宮」と昔男の物語がまた一つの主題となる。


斎宮と一夜の契りを交わした後の


君や来しわれや行きけむ思ほえず

夢かうつつか寝てか覚めてか


と女が夢かうつつか分からない、と言ってきたのに対し男は、では今夜逢ってはっきりさせよう、と送るが、諸事のため結局逢えずに別れてしまい、切なさが募る。


やがて昔男も老いてきた後段に政争に敗れた惟喬親王や紀有常ら負け組と花見をして詠んだ歌、


世の中にたえて桜のなかりせば

春の心はのどけからまし


また、さらに後には


ちはやぶる 神代もきかず 龍田河

唐紅に水くくるとは 


などの名歌を残し、やがて昔男も死に至る。


基本的に恋の歌物語である。主役に高貴な人や伊勢の斎宮というタブーを含み、駆け落ち、鬼、連作短編性などの要素で読む人に刺激を与えようとしているのが分かる。


また、その間を渡っていく不思議な昔男にも愛嬌や悲哀、女性への優しさが感じられる。そのモテモテさ加減は異常だけどね(笑)。


「筒井筒」の歌となった井筒は奈良の在原神社にあるらしく、ぜひとも行って見てみたくなった。私も物語性に豊潤さを感じ、有名な和歌の物語とその背景を楽しんだ。めっちゃ面白かった。


この秋は在原神社と龍田川を回るのもオツかも。考えてみよう。また古典も読もうっと。


椹野道流

「最後の晩ごはん 旧友と焼きおにぎり」


ご当地もの楽しいライトホラー第6弾らしい。このシリーズは1、2、5、今回6と飛ばし飛ばしに読んじゃってるので3、4の展開にしばしついていけなかったりする。最新巻に追いつくのはいつのことやら(笑)。


スキャンダルで芸能界を追われた五十嵐海里。地元兵庫の芦屋で定食屋を営む夏神留二に拾われ、今は料理の修行を積んでいる。海里と、元は眼鏡で人の姿になれるロイドには霊感があった。海里の兄の親友で刑事、仁木の元に独り暮らしの版画家、西原茜音から家に何かが潜んでいる気配がすると相談が寄せられ、仁木は海里とロイドを連れて山手の奥池に住む茜音の家へ様子を見に行く。


ロイドの霊感で人形を探し当て、その人形の願いを叶えるために海里が奔走する、という流れ。


今回は料理が中心の話ではなかったがこれまでの話の展開に乗った進行で、無理なく明るくすらすらと読めた。焼きおにぎりの簡単レシピは作ってみようかな、という気にさせる。食事の合間に読むとお腹が鳴る。


奥池というのもまた地元民の眼を引く。高級住宅街でなるほど別荘として買ってる家もあるだろうな、という感じだ。阪神、大阪と神戸の間は海と山との間にある平地が狭く、山手へ行くほど高級とされる。


茜音は夢の中である少女と出会う。ちょうど夢での出逢いがキーになるラブストーリー、ベルリン映画祭金熊賞のハンガリー映画「こころと体と」を観たとこだったので、不思議な暗合に胸が踊った。


のほほんと読めるラノベシリーズ。読んでるとそれぞれのキャラが抱える事情を小出し生かしてうまく進行させてるなと思う。


ご当地ものとしてホントに楽しい。展開が気になるしまた読まなきゃね。


川端康成「浅草紅団・浅草祭」


昭和初期の浅草の混沌とした雑多な雰囲気を書き下している。ちょっと破綻ぎみ?


著者は浅草を題材にした小説をものそうと、路地の奥にある長屋を借りようとする。そこで会った美女・弓子は、男に捨てられ気のふれた姉の相手、赤木を探し当てて紅丸という舟に誘い込む。そしてー。(浅草紅団)


上記のストーリーは最も目立つところをシンプルに書いただけで、実際はかなり雑多、取り上げる男女も次々と変わり、ドキュメントタッチで描いている。あくまで著者は傍観者の立場である。


関東大震災の余波まだ見える頃の浅草は様々な老若男女が入り乱れ生活する異空間のような、掃溜のような場所だった。売春、芝居、怪しい見世物小屋、少女を食い物にするジゴロ、女衒のおばさん・・。紅団は不良グループのようなもので、秘密の札があり、赤い札は危険を報らせる信号、青い札はカモを引っ掛けたサイン、というのもある。


色々な底辺の者たちの表情が断片的に語られる。会話も、正直なんのことを言っているのか判別しにくく、読むのに時間がかかった。


「浅草紅団」に続く「浅草祭」では6年の月日が流れ、警察は一帯の「浄化」を進めている。昔の風情を引きずりながらもすでに大きく変わりつつある浅草。


川端康成はこの中で「紅団」は下らない作品だったと自ら断罪している。とか言いながら、「浅草祭」でも人間模様をだらだらと書いていて、変わらずに結構楽しんでるんじゃないか、と思わせる。一高、東京帝大時に通っただけあって強い愛着をうかがわせる。


川端康成は昭和2年に「伊豆の踊子」が刊行され、この作品は昭和5年刊行。踊り子の完成度を考えると、断片な性格を持つためか下らない、という気持ちも分かるかも。実験的作品だったのではとも思える。新進作家がドキュメントタッチで浅草をレポートする「紅団」は世間の評判を呼んだようである。


私にとっては、また新たな一面というか、さらさらと読んできたこれまでの作品に比べてやはり違和感はあったかな。精度を高めようとすれば出来たような気もするし。やはり多少老成した時期のほうが好きかも。