2018年11月13日火曜日

10月書評の3






「伊勢物語」


昔、男ありけり。昔男は在原業平。有名な、私でも知っている和歌が多く出てきて意外に、めっちゃ面白かった。


読もうと思ったのは川端康成「美しい日本の私」で王朝文化隆盛時の書として繰り返し触れられていたから。「古今和歌集」と前後して成立し歌の被りもある。


昔、男ありけり、で始まる昔男の恋物語。エピソードをいくつも書き連ねているのだが、大きな流れがあるようだ。


鬼一口と呼ばれる第六段、男は相愛の二条の后を盗み出し、荒れはてた蔵に入れて自分は雷雨の中表を守っていた。その間に后は鬼に食われてしまった。実は、追っ手となった后の兄たちに取り返されたのが真相だが、后が露のように消えてしまったのを男は嘆くー。


そして昔男は都にいる気力を失い、東国へ下る。昔男の東下り。都とおそらく后を思い数々の歌を詠む。


これが一つの流れ。


その後、高校で習った歌


筒井つの井筒にかけしまろがたけ

過ぎにけらしな妹見ざるまに


比べこし振り分け髪も肩過ぎぬ

君ならずしてたれかあぐべき


というみずみずしい幼なじみの恋など年齢や立場が様々な男女の恋が描かれる。後半に「伊勢の斎宮」と昔男の物語がまた一つの主題となる。


斎宮と一夜の契りを交わした後の


君や来しわれや行きけむ思ほえず

夢かうつつか寝てか覚めてか


と女が夢かうつつか分からない、と言ってきたのに対し男は、では今夜逢ってはっきりさせよう、と送るが、諸事のため結局逢えずに別れてしまい、切なさが募る。


やがて昔男も老いてきた後段に政争に敗れた惟喬親王や紀有常ら負け組と花見をして詠んだ歌、


世の中にたえて桜のなかりせば

春の心はのどけからまし


また、さらに後には


ちはやぶる 神代もきかず 龍田河

唐紅に水くくるとは 


などの名歌を残し、やがて昔男も死に至る。


基本的に恋の歌物語である。主役に高貴な人や伊勢の斎宮というタブーを含み、駆け落ち、鬼、連作短編性などの要素で読む人に刺激を与えようとしているのが分かる。


また、その間を渡っていく不思議な昔男にも愛嬌や悲哀、女性への優しさが感じられる。そのモテモテさ加減は異常だけどね(笑)。


「筒井筒」の歌となった井筒は奈良の在原神社にあるらしく、ぜひとも行って見てみたくなった。私も物語性に豊潤さを感じ、有名な和歌の物語とその背景を楽しんだ。めっちゃ面白かった。


この秋は在原神社と龍田川を回るのもオツかも。考えてみよう。また古典も読もうっと。


椹野道流

「最後の晩ごはん 旧友と焼きおにぎり」


ご当地もの楽しいライトホラー第6弾らしい。このシリーズは1、2、5、今回6と飛ばし飛ばしに読んじゃってるので3、4の展開にしばしついていけなかったりする。最新巻に追いつくのはいつのことやら(笑)。


スキャンダルで芸能界を追われた五十嵐海里。地元兵庫の芦屋で定食屋を営む夏神留二に拾われ、今は料理の修行を積んでいる。海里と、元は眼鏡で人の姿になれるロイドには霊感があった。海里の兄の親友で刑事、仁木の元に独り暮らしの版画家、西原茜音から家に何かが潜んでいる気配がすると相談が寄せられ、仁木は海里とロイドを連れて山手の奥池に住む茜音の家へ様子を見に行く。


ロイドの霊感で人形を探し当て、その人形の願いを叶えるために海里が奔走する、という流れ。


今回は料理が中心の話ではなかったがこれまでの話の展開に乗った進行で、無理なく明るくすらすらと読めた。焼きおにぎりの簡単レシピは作ってみようかな、という気にさせる。食事の合間に読むとお腹が鳴る。


奥池というのもまた地元民の眼を引く。高級住宅街でなるほど別荘として買ってる家もあるだろうな、という感じだ。阪神、大阪と神戸の間は海と山との間にある平地が狭く、山手へ行くほど高級とされる。


茜音は夢の中である少女と出会う。ちょうど夢での出逢いがキーになるラブストーリー、ベルリン映画祭金熊賞のハンガリー映画「こころと体と」を観たとこだったので、不思議な暗合に胸が踊った。


のほほんと読めるラノベシリーズ。読んでるとそれぞれのキャラが抱える事情を小出し生かしてうまく進行させてるなと思う。


ご当地ものとしてホントに楽しい。展開が気になるしまた読まなきゃね。


川端康成「浅草紅団・浅草祭」


昭和初期の浅草の混沌とした雑多な雰囲気を書き下している。ちょっと破綻ぎみ?


著者は浅草を題材にした小説をものそうと、路地の奥にある長屋を借りようとする。そこで会った美女・弓子は、男に捨てられ気のふれた姉の相手、赤木を探し当てて紅丸という舟に誘い込む。そしてー。(浅草紅団)


上記のストーリーは最も目立つところをシンプルに書いただけで、実際はかなり雑多、取り上げる男女も次々と変わり、ドキュメントタッチで描いている。あくまで著者は傍観者の立場である。


関東大震災の余波まだ見える頃の浅草は様々な老若男女が入り乱れ生活する異空間のような、掃溜のような場所だった。売春、芝居、怪しい見世物小屋、少女を食い物にするジゴロ、女衒のおばさん・・。紅団は不良グループのようなもので、秘密の札があり、赤い札は危険を報らせる信号、青い札はカモを引っ掛けたサイン、というのもある。


色々な底辺の者たちの表情が断片的に語られる。会話も、正直なんのことを言っているのか判別しにくく、読むのに時間がかかった。


「浅草紅団」に続く「浅草祭」では6年の月日が流れ、警察は一帯の「浄化」を進めている。昔の風情を引きずりながらもすでに大きく変わりつつある浅草。


川端康成はこの中で「紅団」は下らない作品だったと自ら断罪している。とか言いながら、「浅草祭」でも人間模様をだらだらと書いていて、変わらずに結構楽しんでるんじゃないか、と思わせる。一高、東京帝大時に通っただけあって強い愛着をうかがわせる。


川端康成は昭和2年に「伊豆の踊子」が刊行され、この作品は昭和5年刊行。踊り子の完成度を考えると、断片な性格を持つためか下らない、という気持ちも分かるかも。実験的作品だったのではとも思える。新進作家がドキュメントタッチで浅草をレポートする「紅団」は世間の評判を呼んだようである。


私にとっては、また新たな一面というか、さらさらと読んできたこれまでの作品に比べてやはり違和感はあったかな。精度を高めようとすれば出来たような気もするし。やはり多少老成した時期のほうが好きかも。


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