2018年11月13日火曜日

10月書評の2





佐藤泰志「そこのみにて光り輝く」


別作品が映画化されてて、興味を持った。若さと、ナマの生。


函館出身の作家(故人)が1989年に描いた三島由紀夫賞候補作。北の港町で育ち、労使闘争の激しい造船会社を辞職した29歳の達夫は、パチンコ屋で知り合った拓児の家に誘われる。バラックの家には、拓児の姉の千夏と両親が住んでいた。帰りに、千夏が達夫を追いかけて来たー。


達夫の境遇と時代をていねいに描き、拓児の家の生々しく強烈な情況を読者にぶつけてくる。文脈から函館に近い北海道の街が舞台と思われ、夜景の表現が印象的だ。すでに嫁いで青森にいる妹との距離感を海峡になぞらえていて特有の情緒、寂寞感を出している。


セックス、喧嘩、祭りなど人の営みを要素に組み入れ、青春終了期の男たちの姿をその手ざわりとともに鮮やかに描き出していると思う。まあやはりどこかひと昔風だけれど。


第2部では達夫と千夏は結婚しはや娘が産まれている。そこへ持ち込まれる魅力的な提案と暗い影ー。まあ起きるだろうな、ということが起こってしまう。


直上で人懐こく、憎めない拓児、無口で思慮深いが突っ走る部分もある達夫、そして大人だがどこかに鬱屈を抱えた千夏と人物の設定がしっかりしている。


著者の芥川賞候補作「きみの鳥はうたえる」か映画化され、いま上映されていて興味を持った。映画はスケジュールの都合で観に行けそうにないけれど、なんかテイストは分かったような気もする?次は「きみの鳥」を読んでみたいな。


細々と考え抜かれているようにみえるし、ナマの姿の人間臭さも良い方向で受け取った。ただ面白いが、揺さぶるものは足りなかったかも、だな。


川端康成「みずうみ」


倫理観なぞどこへやら。太宰治か、という性格の主人公はストーカー。


34歳の桃井銀平は軽井沢で女の後をつけ、大金の入ったハンドバッグを投げつけられる。銀平がバッグを投げた女の事を考えるうちに、教職を追われる原因となった女生徒・久子との関係を思い出すー。


久子と銀平の断片的な成り行きがあり、バッグを投げつけた女、老人に囲われている宮子のストーリーがある。そして銀平の関心は、宮子の弟である啓助の親友・水野の恋人の少女・町枝に移り、またストーカーをする。


久子に口止めするだけでなくて久子がなんでも話す親友恩田信子にも告発しないよう頼み、しまいに信子をぞんざいに扱い、荒っぽく遠ざける桃井くん。町枝と逢引していた水野に「お楽しみですな。」と話しかけ、しまいに土手下に突き落とされる銀平氏。最低である。恩田にも思惑があって久子に近づいているらしくちとダークな面も見えるが、それにしても倫理観無視、カッコ悪さはどこか太宰治の描く男に似ている。


銀平の心象には、父が亡くなった場所、みずうみのある母の郷里での出来事と、憧れていたいとこのやよいと過ごした経験が強くある。ちょっと内面に狂気もあるのか自分の中の少女美、女性美に惹きつけられる本能に忠実なのか。


解説によれば、この作品は戦後の名作と言われる「千羽鶴」「山の音」の後に書かれたもので、川端の支持者までが困惑し嫌悪したという。まあそうかも。「山の音」なんか完成度高いし。


でも私はバリエーションの一つとして受け取った。変化球と聞かされていたし。倒錯的ではあるが美しさを追求している姿勢は変わっておらず川端らしさが見える。クライマックスの蛍のシーンなんかも彼らしい。


気に入った表現があった。


「この世で最も美しい山はみどりなす高山ではない。火山岩と火山灰とで荒れた高山だ。朝夕の太陽に染まってどのような色にも見える。桃色でもあれば紫でもある。」


九州の学生の時、阿蘇や高千穂、霧島あたりのドライブ旅行へよく行ったが、この色の表現は言い得て妙だな、と思った。


川端康成「美しい日本の私」


川端康成文学館で購入した本。表題作はノーベル文学賞受賞の際の現地での記念講演。


さまざまな随筆や新聞に寄せた短文などを収録してある。「美へのまなざし」「戦争を経て」「日本文化を思う」というタイトルで大きく3部に分けられていて、テーマに沿った文章を集めてある。執筆時期も、昭和の始めから昭和40年代まで幅がある。


「美しい日本の私」では冒頭13世紀の道元の歌、


春は花  夏ほととぎす 秋は月

冬雪冴えて冷しかりけり


を始めとし、いくつかの歌を例に取って四季折々の自然の美を賞でる心を説く。

さらに、良寛、芥川龍之介の遺書、一休、華道、日本庭園、焼きもの、さらに平安の王朝文学から古今集まで、様々な例を取りながら、日本古来の美について自ら感じるところを訥々と述べている。


「美しい日本の私」はいわば世界へ向けた日本の美の説明で、流れるような文章に私も啓発されたが、外国の方はどう受け取ったのかな。

この講演に関しては巻末に英訳付きだ。


この本の中で、特に日本の美について語られる中で目立つのは11世紀に成立した紫式部の「源氏物語」が今に至るまで日本最高の小説である、と繰り返し書いていること。その憧憬は強いものがある。さらに、物語文学は「源氏」に高まってそれで極まり、軍記文学は「平家物語」、浮世草子は井原西鶴、俳諧は松尾芭蕉、水墨画は雪舟が極まり、だとのこと。


そして中国の文化を受け入れこなして平安王朝の美を生み出した日本人は明治百年で西洋文化を受け入れ、王朝に比べられるような美、文化を果たして世界に向けて生み出すのか、そこへの期待感を表している。


全体に多くの古今の多くの芸術人が取り上げられていて、考え方もきっぱりとし、豊潤な文化論だと思う。終盤の「枕草子」あてなるものの段から


水晶の数珠。藤の花。梅の花に雪の降りたる。いみじううつくしき稚児のいちご食ひたる


に焦点をあて追求していく編は楽しかった。


川端康成の作品を読むとき、技巧と描写、物語の成り行きには、月が放つ透き通った銀の光のようなものをいつも感じている。その元をなす考え方に触れたのは今回新鮮だった。クセがあるな、と思わなかったわけではないが、日本の美を語る文章もまたやはり美しい。


私も一時期は日本の文豪と言われる人達が書くものは辛気臭い感じがして読まず、暗い雰囲気が嫌いで日本映画を観ず、日本の美術にも興味がなく過ごしていた。新しい何かを求めて海外ミステリーを読み、ヨーロッパ映画を観に出かけ、印象派とピカソが好きだった。


もちろん、実は日本を見つめることが大事だ、とは現代でもいろんな面で説かれている。だからとかあまり深くかんがえているわけでもないが、とかく今は本を読む中で、近代の日本小説に心惹かれている。川端康成はその中でもストンと落ちる。不思議なものだ。惹きつけるものを彼の作品は宿している。


ピアニストの中村紘子氏が、ピアニストは知恵熱のように一度はホロヴィッツに憧れる、と書いてた・・と記憶してるが、私もちょっとオン・ザ・川端症候群なのかな。


森見登美彦「きつねのはなし」


ふうむ・・どう受け取るか迷う。


京都を舞台にしたホラーもので、意図的に見せないことてよけいに興味を湧き立たせるのか消化不良を感じてしまうのか。


大学三回生の私は京都・一乗寺にある古道具屋、芳蓮堂でアルバイトをする。私は妙齢の女店主ナツメさんに天城氏という不気味な得意客への使いを私に頼まれ、鷺森神社近くの天城邸へ通うようになるー。

(きつねのはなし)


一乗寺はこないだ有名なセレクトブックショップを訪ね叡山電鉄に乗って行ってきたし、少しずつ勉強もしてるしで関西在住京都シロートの私も多少雰囲気が分かるようになってきた。たしかに妖しのたぐいが似合う街である。


天城氏とナツメさんの両方の妖しさ、また次の「果実の中の龍」のちょっと狂気を含んだような、綾辻行人のホラーのテイストにもどこか似た妖しさ、「魔」の人間の底に潜む暴走する感情のような魅入られ方、最後の「水神」の徹底して水に特化した怖さ。


それらを狐の面、祭り、根付け、不気味で得体の知れない獣などを共通の、しかし薄い接点として演出している。夜の闇も上手に使っている。


だいぶ惹きつけられて読んだし、技巧的には上手だと思う。得体の知れない何らかのものの怖さをよく出している。巷の評判も良いと思う。しかし私は受け取り方に迷ってしまった部分があった。


怖いイメージを植え付けるのは成功している。しかし「きつねのはなし」は説明がなさ過ぎで消化不良のきらいがあるかも。妖しものでは、書いたら逆に強引な筋立てとなりやすく、また書かない部分が多い方が想像力や感受性を刺激して良いのかも知れない。ただ書かなさすぎは読み手に戸惑いを与えるし、都合の良さも覗かせる。ちょっと私は今回その度合いにアンバランスさを感じてしまった。


まあその境界は難しいと思うし、実際わけわからない怖さも味わっている気がするし、この作品はこのテイストで行く、読者はどこかにそのヒントを探して欲しい、という宣言を表題作でしているようにも見えるのだが。


またラストの「水神」は、短編でここまで家族の系譜を作り込む必要があるだろうかと中盤に少々中だるみ感を覚えた。


誤解のないように言えば、この作品で私は楽しんだ。成功していると思う。でも上記のようなことを考えてしまったのも事実、ってとこかな。


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