2018年11月13日火曜日

10月書評の1





10月分アップするのを忘れてて今になった。あれあれ。

内田百閒「第ニ阿房列車」


内田百閒、稀代のつむじ曲がりの文章。それぞれ読みどころをうまく出している。最後の「雷九州阿房列車」が面白かった。


先に出された「阿房列車」の続編。昭和28年、百間と相棒の「ヒマラヤ山系君」との列車旅。「雪中新潟阿房列車」「雪解横手阿房列車」「春光山陽特別阿房列車」「雷九州阿房列車」という4つの旅が収録されている。


山陽は招待されての乗車だが、他は思い立ったら、の旅。横手と熊本の八代は百間のお気に入りのようだ。基本的には列車に乗っての道中や風景が楽しみで、観光は好きでないようだ。


ちょっとはすに構えているからかえって押し付けがましくなく、どこかコミカルな風情がずっと続く。それぞれがちょうど読みやすい長さにまとまっている。


全編に当時の百閒の知名度の高さが伺える。相棒のヒマラヤ山系くんは国鉄の職員で、宿を手配したり、切符を手配するのに先に内田百閒先生が行くと話しているようで、車中、宿でひっきりなしに新聞や放送の記者がインタビューに来る。中には「阿房列車」の取材、というのを了解してくる記者もいるから、著作も売れてたのだろう。質問への素っ気なさすぎな態度がまたつむじ曲がりさ加減を表していて面白い。


自分も回ったことがあるから、「雷九州」編が興味深かった。災害となるほどの豪雨の中の旅。熊本、八代、そして熊本から豊肥線に乗り九州中央部を通って大分へ。大分から東海岸沿いに小倉まで北上する日豊本線で帰路に就く。楽しみにしていた車窓からの阿蘇山も雨景色。しかも豊肥線も日豊線も百閒たちが通った後不通になるのだからウソみたいなラッキー旅。


豊肥線の山中のローカル具合や大分高崎山の話、おそらくは別府の丘の上の温泉宿のくだりもどこか懐かしい。


また、前後と章が分かれ長い雷九州編は、豊後竹田で荒城の月に触れるなど旅情を漂わせ、文芸的でちょっと心に響く。ラストに来てこの雰囲気。上手い書き方だと思った。


「続・森崎書店の日々」で出てきて探してみた。古本屋で「阿房列車」を見つけた時「分厚っ!」と腰が引けて薄い「第二」で味見をしようとこちらを購入。まあこれで様子が分かったからそのうちトライしようかな。


酒も弁当も美味そう。東京からだから今では考えられないくらい長い乗車時間のはずだけど、とても楽しそうだ。寝台車乗りに行きたくなる。


「私の漱石と龍之介」を読んだ時からなんとなく感じてはいたけど、内田百閒って、ボヘミアン的生活のだらくささに加え文調はつむじ曲がり。こういう書き方だとたまに出る旅情やおかしさがより強まる感じがする。


面白いものだ。


村上春樹「東京奇譚集」


ん、面白かったと思う。ラストの短編は伊坂っぽかった?


ピアノ調律師、41歳でゲイの主人公は、いつも火曜日の午前、読書のために訪れるショッピングモールのカフェで、偶然同じ本、ディッケンズ「荒涼館」を読んでいた人妻と知り合うー。(偶然の旅人)


「偶然の旅人」「ハナレイ・ベイ」「どこであれそれが見つかりそうな場所で」「日々移動する腎臓のかたちをした石」「品川猿」が収録されている。どれも40ページちょっとで読みやすい。


ハルキお得意の「喪失」がいかにも的に入っている。そもそもジャズの音楽や読む本、会話の言葉など独特の小粋な雰囲気を創り出す著者に、不思議な話の短編集。どういった効果を産むのか。


「偶然の旅人」は主人公がゲイであることが主軸。彼が喪失するのは姉。嘘でしょまた出来過ぎ、都合良すぎ、と思う前に、話に心が持っていかれ、「しっかり抱きしめてもらいたかった」というセリフが胸を打つ。


「ハナレイ・ベイ」は19歳の息子を喪った母、サチが主人公。息子はハワイでサーフィン中にサメに襲われた。夫はすでに亡く、少しクールなサチの絶対的な喪失感、孤独感がしみる。


タイトルの長い2つはどれかというと平和な話で、あまり害がなく訴えかけるものはないがそこそこ面白い。


ラストの「品川猿」。突然自分の名前を忘れてしまうという症状が出たみずきは区のカウンセラーに通う。そこで女子校の寮での不思議な出来事を思い出す。この編は仕掛けも面白く、オチはやや強引だが上手に落とす。なんか伊坂のような展開だな、と思ってしまった。


私の読者の師匠は短編は「余韻」だと仰られた。私は多分に誤解を招きそうだが「色気」も正解の一つだと思う。ストーリーとしての色気や艶、構成の妙といった要素が見える短編小説は内容に深く頷けなくともその面白さで心に残る。今回特に最初の2つは内容に惹かれた。残りの3つはちょっとした色気に楽しませてもらった。軽く読めるハルキ、旅のお供に最適、といった感じかな。


芥川龍之介「奉教人の死」


「南蛮もの」「切支丹もの」を集めた短編集。興味深いが、読みにくかった。


太宰治には「駈込み訴え」という作品があるが、芥川はまた彼らしい角度からキリスト教ものを創っているな、と思った。多くは江戸時代におけるキリシタン信仰をベースにした話。切り口を様々にとり、設定に工夫を凝らしている。


「煙草と悪魔」はお伽話のようなテイストの悪魔と牛商人との賭けの話。鬼と大工が、短い期間に橋をかけられるかどうかで目玉や命を賭ける「大工と鬼六」を彷彿とさせる。なかなか微笑ましい。悪魔は他の短編でも触れられるが、芥川に悪魔って、黒くて似合いすぎである。


「さまよえる猶太人」は聖書、世界史上の話だなと思い、表題作「奉教人の死」は長崎の民間のキリシタン信仰の様子を描写していて興味深い。ただ、仕掛けはあるが必然性があるかと言われると、王朝もののみたいに「印象」「効果」のみを狙ったかにも思えた。


「るしへる」は題材は興味があるが、芥川に時々ある、古文そのものの文体ですらすら読めずもひとつ興醒めだった。


「きりしとほろ上人伝」はシリアが舞台の寓話、「黒衣聖母」は短くブラックな幕切れの話。


「神神の微笑」では日本の神の中でのキリスト教、というものに一種疑問を投げかけている。神話が直接的だが、角度を変えているのが興味を惹く。

「おしの」は武家の誇りを持った現実的な母と神父の噛み合わない考え方を示している。現実にもあっただろうな、という歴史に出てこないようなミクロな話だと思った。

また「おぎん」は隠れ切支丹が信仰を棄てる時が主題である。


「報恩記」は、破産しかけた裕福な商人、大泥棒、商人の極道息子の話。読み物としては面白い。


こう一歩離れて眺めてみると、確かに興味深い素材に対して料理の仕方もいろいろ考えて技巧や工夫を凝らしているのが分かる。素材、角度、書き方、印象・効果だけを狙った筋立てとそういう色は芥川だな、と思う。ただまあ「羅生門」ほどの煌きはないかな。


古文ことばはやはり読みにくい。またこの版は、文字が異常に小さくて、ホント時間がかかった。


ジョルジュ・シムノン「或る男の首」


メグレ警視、探偵部長もの。今回はミステリーとか警察小説に近いかな。


メグレ警視ものは1929年から72年まで書かれているらしく、初期1932年の作品。本はまた古本屋で見つけた1963年刷りの堀口大学訳。55年前。元のカバーはもはやなく、ビニールと紙できれいに作られた手製のカバーに好感を持った。


サン・クルーの富豪の屋敷で年配の未亡人と同伴婦が刺殺された。現場に残った足跡や指紋などから花屋の配達人ウルタンが犯人として逮捕され、裁判で死刑が確定する。しかし違和感を覚えたメグレはウルタンが誰かと接触すると踏み、刑務所からわざと脱獄させるー。


テレビやミステリ小説であるあるがけっこう。わざと逃亡させる、警察への挑戦的な展開、粘り強い捜査で逆転・・。


途中で出てきた主役級の赤毛の男に、メグレは振り回される。読んでいる方も、間違いなく怪しいけど、と思いつつ考える。トリックもちょっと気になる。


次々と不思議な出来事が起き飽きさせない。しかしいつまでたっても分からない部分も多い。今回不可解な事実は作中で整理されていて、それに基づいて考えることができた。「謎」が面白い作品だ。


ラストの、疑問を一気に解決する説明のシーンでは、ああ、現代のミステリー作品みたいだな、と思った。インターネットはないがネタもそう。


前回読んだ1950年作の「モンマルトルのメグレ」は都会的で心理的効果の面が大きいと感じたが、今回は探偵モノ。堀口大学の訳はちょっと首をひねるところもあったが、全体的には粗く、細かい描写は神経が行き届き張り詰めているという印象だった。


まだまだメグレ警視もの、読みたいな。


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