2018年12月1日土曜日

11月書評の3

ちょっと最近、経験したことのないショックがあった。でも、忙しくてじっくり考える余裕がない。

よく思うが、年齢を重ねるごとに自分だけ、の領域が増える。今回も人に話を聞いて欲しい、私の気持ちを正確に理解して欲しい、と思わないこともない。でもそう簡単にいかない。相手によっては吐露されたところで迷惑に感じるだろうし、自分として強くありたい。そのバランスは難しい。

まあ今回は幸いというか意外というか話さずにいられない、というほどの状態にはならない。ある意味冷たいのかも知れない。


野本陽代「ベテルギウスの超新星爆発」


ベテルギウスが大爆発を起こす、というのがにわかにトピックとなった時期があった。


この本はベテルギウスの爆発の噂をトリガーに、星の一生やこれまでの観測技術と理論の歴史、そしてら1990年頃から激しく動いている最新理論の現状を網羅している。ベテルギウスの話はちょっとだけ。


さすがに理論の詳細は文系には分からんぜよ。面白いけどね。


さて、オリオン座の右肩の赤い星ベテルギウスは太陽の1000倍の直径を持つ赤色超巨星。太陽系に持ってくれば木星軌道くらいまでの大きさ。チョー巨大なのである。


で、距離はというと640光年。天の川銀河内である。史上地球に最も近い位置での超新星爆発になるので、どういう影響が出るのか、という危惧もないではない。しかし結論から言えばこの遠さで超新星爆発をしても、地球には何ら影響はないとのこと。明るさは半月くらいになり、しばらくは昼でも見えるようになるらしい。


一時期2011~12年くらいにベテルギウスの爆発が突然脚光を浴びたような記憶はある。NHKスペシャルを録画して観た。それは2009年にアメリカの観測チームが天文学会でベテルギウスの大きさがこの15年間で15%収縮している、と発表したのが発端のようだ。


ベテルギウスは点ではなく球として観測できる数少ない星で、2010年1月にはパリのチームが表面に大きな白い模様が2つ見られた画像を発表、さらにドイツのチームが、観測の結果、ガスが活発に動いていて表面はデコボコしている、とレポートした。もともとベテルギウスはいつ爆発してもおかしくない末期の星だから、新聞が超新星爆発の兆候、と書いた。


大きさに関しては実は中間赤外域での観測で、直径の2、3倍離れた分子の層を見るものだったとのこと。近赤外域での観測では大きさは変わってない。つまり来ている毛皮のコートになにかしらの変化はあったがコートを着ている人間には変化なし、ということだとか。しかしベテルギウスの表面のガスが活発に動いているのは確かだそうだ。


中ほどは正直他の本でも読める内容。


1990年頃ビッグバン理論が確定し、さらに宇宙は予想に反して加速して膨張していること、宇宙には見えないが質量のあるダークマターが確実にあること、など最新の状況はあまり押さえてなかったから勉強になった。


肉眼で見える超新星爆発は日本ではおうし座で1054年に起きたものが藤原定家によって「明月記」に記録されている。出来るものなら観たいけれど、爆発の時期は今日から10万年後まで幅があるから・・やっぱムリだなこりゃ。


ガブリエル・ガルシア=マルケス

「エレンディラ」


「孤独」以外ばかり読む。魔術的リアリズム?


マルケスといえばコロンビアの人で「百年の孤独」のノーベル賞作家。魔術的リアリズムを操るという。私はひどく読みにくい「族長の秋」、比較的分かりやすく文芸的な「予告された殺人の記録」を読んだ。どれかというと幻想文学はニガテめで、でもマルケスはつい読んでしまう。今回は短編集。


「大きな翼のある、ひどく年取った男」

「失われた時の海」

「この世でいちばん美しい水死人」

「愛の彼方の変わることなき死」

「幽霊船の最後の後悔」

「奇跡の行商人、善人のブラカマン」

「無垢なエレンディラと無情な祖母の信じがたい悲惨の物語」


が収録されている。最初の「大きな翼」はなかなかインパクトが強かった。まさにタイトルのような男が若夫婦の家に落ちていて、見せ物にして金を稼ぐ話。最後は良かったなあ、と牧歌的な雰囲気が漂う。


短いが「美しい水死人」も印象深い。ものすごい美丈夫の水死体を整える女たちの感情と現象。


「幽霊船」「ブラカマン」は幻想的でラストがブラック。


そして「エレンディラ」はごうつくばりの祖母にこき使われていた14才のエレンディラが風の強い日に家を火事にしてしまい、祖母に「この損を償え」と身体を売ることを余儀なくされる。やがてエレンディラの噂は広まり、行列が出来るようになった。何度も逃げ出すが、その度に連れ戻されるエレンディラ。


最後に祖母の金を持って疾走するエレンディラには複雑な、でも理解しやすい歪みを感じてしまう。


悲惨な部分もあるし、突然幻想的にもなるけれど、まあ分かりやすくて心に訴えるものはあるような。オチが面白いのもあるし。何より個性的で、話がきれいではないのがリアルっぽくもある。南米のストーリーはまた特殊な色がある。


興味深かった。


清少納言「枕草子」


才気煥発という言葉が似合う清少納言。ちょっとベルト・モリゾをイメージした。


図書館のビギナーズ古典コーナーでタイトル見てたら読みたくなった。


ご存知、王朝文学を代表する随筆。学生時代に触れた部分を改めて読み思い出の旅をした、なんてね。


春はあけぼの、とか、やうやう白くなりゆく山際、なんてノスタルジーだけでなく、やはり美しさ、表現力を感じる。いやー紫立ちたる雲の細くたなびきたる、もきれいで、いと懐かしい。


夏の蛍は一つ二つ、秋の夕暮れのカラスは三つ四つ二つ。風情に満ちて章段の言葉の操り方も軽やかだ。


冬はつとめて。さむっ!だが分かるような気はする。張りつめたような寒い冬は季節の象徴でもある。


うつくしきもの。瓜に描きたる稚児の顔。雀の子の、鼠鳴きするに躍り来る。


いやいいですね。いかにもかあいらしい。


雪のいと高う降りたるを・・「少納言よ、香炉峯の雪、いかならむ」と仰せらるれば、御格子上げさせて、御簾を高く上げたれば笑はせ給ふ。


微笑ましい中宮定子とお付きの女房たちのエピソード。藤原道隆の娘・中宮定子に仕えた清少納言。定子は時の帝の妻だが、その栄華は1年半くらいしか続かなかった。


道隆が急死、父の弟道長が猛然と権力へチャージをかけたため、後ろ盾を失った定子は帝の寵愛頼みの身の上となり、第二子を産んだ際に25才で亡くなってしまう。道長の娘で一時は定子と並び后となる彰子に仕えたのが紫式部だった。


清少納言は道長に内通しているという噂を立てられ実家に里下がりしている時、定子からもらった紙に書いたのが枕草子だという。


28才で定子に仕えた清少納言、最初はひどく緊張したようだが、やはりもの慣れてきて書の達人・藤原行成と知的なやりとりをし、百人一首に採られた歌も残している。


「夜をこめて鶏の虚音ははかるとも

   よに逢坂の関は許さじ」


よく知られているようにこの随筆には、清少納言の感性が散りばめられている。あてなるもの、心ときめきするもの、などの賛美ばかりではなく、むしろすさまじきもの  昼吠ゆる犬、の有名な段はもちろん、にくきもの、あさましきもの、くちをしきもの、などなど舌鋒鋭いものも多い。ただ、その生の感情も面白い。ズバッと言うのがやはりいい。


絵に描き劣りするもの、描きまさりするもの、は短いがふむふむとなったし、近うて遠きもの、遠くて近きものは人間的でどこか達観していて興味深い。


才気煥発。

うれしきもの

「我はなど思ひてしたり顔なる人、はかり得たる。女どちよりも、男は、まさりてうれし。」


我こそはと得意顔の人を一杯食わせた時。女同士より、相手が男の方がずっとうれしい。と書いている。話の筋が違うかもだが、「今昔物語集」にも出てきた夫・橘則光は豪胆で思慮深く評判のいい男だったが和歌はからっきしで清少納言にもやり込められる。両方とも気持ちはあったようなのだが、噛み合わなかったと思われる。


才気煥発。

そこまで詳しくないのだが、私は印象派の女流画家、ベルト・モリゾをマネが描いた

「すみれの花束を持つベルト・モリゾ」

がとても好きである。写真のベルト・モリゾには似ていない。だが、彼女が持つ才気、内面を見事に捉えた肖像画だと思う。清少納言を思う時、ベルト・モリゾの絵が浮かんでくる。才気を重ねているが、才木浩人は阪神タイガースの未来のエース。ともあれ、才気は女性の大きな魅力の一つってとこかな。



田中鳴舟

「一週間集中講座 

                 みるみる字が上手くなる本」


「ことめらかさる」と、つい覚えてしまった。エウレカの多い本。


文字を手で書くシーンというのはどれくらいあるだろうか。会社生活ではデスクトップで大半の業務が終わるが、会議でノートパソコンを手に、というスタイルではなくまだまだメモをとる仕事もよくある。また大事な仕事の予習の時はやはりレジュメなんかに手で書き込むものだ。

先日書道家武田双雲氏の著書を読んで字が気になりだし、良寛の手を見てもっと文字の知識を深めたいと思い、とりあえず目に付いた本を買ってきた。最近はホワイトボードの日付とか曜日とか書くときも字が気になったりする。


前置きが長くなったが、タイトルのごとく第1日目から7日目までの章分けで、その中に見開き2ページで、テーマごとにレッスンが重ねてある。


ペンの持ち方から中心と左右対称、点画の間隔、右肩上がりなど基本の解説、うまく見せるポイントなどが展開されている。


前半が漢字中心の章で、中盤はひらがな・カタカナ。また漢字に戻って書きにくい部位、そして行書のレッスンの章となる。


まあやはり行書は先というか、多分自分が書くのは難しい。基本にはやはりふむふむ、だ。


「ことめらかさる」というのは、とりわけ小さく書く文字のこと。ひらがなは漢字より小さく書くのが基本で、「ことめらかさる」はとりわけ小さく書いた方がいい文字だそうだ。漢字では白、日、田、口も小さくした方がバランスが良いらしい。ちなみに本で推してある記憶法ではなく、私が勝手に作った言葉遊びだ。


店、厚などたれの中の部分はやや右寄りに書く、山や土などの小さく書いた方が良いへん、逆に紅や知などつくりを小さく書いた方がいいもの、よこ線は一本だけ長くする、ひらがなのむすびはまるくしない、などそうか、という事が多かった。


書道は小学生の一時期習っていた。習い始めて1年後に地域に少年野球のチームが出来たため毛筆5級、硬筆6級でやめて今に至る。でも何もないけど経験したからか書道には少し興味を持っていて、中学の必修クラブは書道部で文化祭に出品、高校の芸術も書道にした。


でも字は下手。受験の小論文の添削の時、丁寧に何度書いて持ってっても、国語の先生にはもっときれいに書け、と言われたものだ。


姉は教える資格のある段まで取ったから、もう少し習っておけば、なんて今更思ったりする。


いっぺんには覚えきれないな。デスクに置いて折にふれ見直そう。






iPhoneから送信

0 件のコメント:

コメントを投稿