2021年10月27日水曜日

10月書評の3

嵐山に行きました〜。

◼️ 「紫式部日記」

紫さんて・・暗い。笑
清少納言と紫式部の関係、ほんとうの意味。

紫式部については源氏物語を読み、京都ゆかりの地を訪問した。ただ、人となりについては断片的なエピソードを知っていただけだった。紫式部日記、内容は明るいとは言えないので古典の中でもひとつ地味な位置付け。しかし、とてもおもしろかった。

「蜻蛉日記」で藤原道綱母にさんざんに書かれた藤原兼家、その息子たちの時代。長兄の道隆が一条天皇のもとへ入内させたのが娘の定子。定子に仕えたのが清少納言。道隆が早死にしてしまい定子は後ろ盾を失う。そこへ台頭してきたのが弟の道長だった。道長は娘・彰子を一条天皇の后とし、源氏物語の作者として名をなした紫式部を彰子お付きの女房に引っ張った。

日記は彰子の出産のドキュメントっぽい記録で始まる。彰子が皇子を産んで自分が外戚となることは道長の悲願であり、彰子にとっては果たさなければならない使命であり、国母になることを意味した。道長はもちろん、道長派の人々、女房たちの、栄華の悦びが伝わってくるようだ。

政治的な勝負としては紫式部は清少納言に勝っていたはずだった。しかし紫式部は彰子付きの女房たちの有り様を嘆いている。

身分の高い上臈女房たちはお嬢さん的気質で仕事ができず、用件の取り次ぎさえ滞る。それを恥ずかしがってよけいに出て来なくなる。その結果下級女房が務めを果たすこととなり、こちらは「軽い」とうわさされる。華やかさもない。

清少納言が定子に仕えていたころは、定子自身が明るく知的で、一条天皇ともラブラブだった。お付きの女房方も清少納言を筆頭に、華やかでかつ学もあり、明朗闊達、仕事もできた。殿上人とのつきあいも上手く人気があった。


このあと道長は我が世の春を迎えたとはいえ、一条天皇は定子ほどには彰子を愛さず、女房たちはどうもとっつきにくく、周りからすればあまり面白くない、モテない。


この日記執筆時は、定子が亡くなってから10年が経っていた。清少納言は直近まで枕草子を書き続けていたようだ。女房方同士として、紫式部と清少納言が直接顔を合わせたことはない。

有名な三才女批評は、初めて原文に触れた。
和泉式部は恋文や恋の歌は天才的だ。でも恋多き女で素行は感心できないと。ここ笑ってしまう^_^赤染衛門の歌は格調高いとの評価。確か2人も彰子女房、紫の同僚だ。そして清少納言のことは「したり顔」で、「さかしだち」、利口ぶって漢字を書き散らしたりしているが、「まだいと足らぬこと多けり」とまあひどい書きっぷり笑。


解説によれば当時、随筆よりも物語文学の位置付けは低かったとか。時代の趨勢は変わっても、紫にとって清少納言と、定子女房方の頃というのは、大きな壁だったのではとのこと。いやーめっちゃ面白いなあ。


紫式部の性格については、とても引っ込み思案で、宴会の際隠れたところを道長に見つけられ、歌を詠め、と命じられたりしている。そこでまた見事な一首を詠んでいるのが英才というか。筆致を見るとつねに暗澹としているというか、はっきりいってぐじぐじしてて、暗い。

紫式部は、曽祖父の代は名門で、その後受領階級に没落していた。年の離れた夫との間に子を成したが夫は結婚後3年で死んでしまう。常に自分と娘の先行きが不安、という状況だった。

またいきなり内裏に引き抜かれ、最初の務めで疎外感を感じてショックを受けてなんと5ヶ月も出勤しなかったとか。この日記には、同僚の女房の話を聞いてみると当時「源氏物語」を引っ提げて内裏に出仕した紫のことを、きっと気取っていて、近づきにくくて、人を見下す人だと毛嫌いしてたのだとか。でも付き合ってみるとこんなにおっとりした人だとは思わなかったと。紫式部自身も溶け込むために芝居を打っていたところもあるようだけれど、この物言いには驚いたようだ。


環境にも慣れて女房の友人もでき、問題点を鋭敏に把握した紫、やがて後年は清少納言のような、有能な女房へと成長したようす。


ふむふむ。華やかな宮廷の中に、現代社会を見るようでもある。しかしこの鬱屈したようにも見える感覚こそ、いまだわが国最上の物語と評される作品、源氏物語を書いた人の姿なのかな、とも思えた。

楽しく読書できました。

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