2021年4月17日土曜日

3月書評の3

太宰府天満宮から常宿に着いた時、見たこともない虹が出た。深くくっきりとした色、見事なアーチ。雨が止んだから虹出るかも、と思ったら前のお姉さんたちがスマホを構えていた。

フロントに荷物置いて、すみません、虹撮ってきます!と。係のおじさんびっくり笑。部屋に入って10分ほどで出てくるともう消えていた。

「ぜんぶ、すてれば」はいただいた本。友だちはありがたい。

◼️ 中野善壽「ぜんぶ、すてれば」

刺さるものもある、卓越の経営者、徹底した「すて」ぶり。

ビジネス書のこの類はあまり読まなかった。スポーツやピアノの天才性は好き。しかしビジネスの場合間口が広いし、だいたい成功した経営者さんのやることは凡人にはマネできないことが多そうだから。

ビジネスのことにも触れているが、「生き方」の側面が強い本になっている。見開きごとに大きな文字で見出しがあって、本文も余白を充分にとってあり長すぎずスッキリしている。

タイトルに沿って中身を要約すると、所有は安定を生まない。捨てるセンスをみがく。

捨てる以前に持たなくてもいい。家もクルマも時計も。

役立たないから思い出も捨てる。ひらめきのための余白をつくるため、予定も捨てる。

飲み会、人付き合いも捨てる、執着を捨てる。本も服も、スマホも捨てる。

著者は伊勢丹の子会社からキャリアをスタートさせ、鈴屋に転職、海外事業に深く関わり、鈴屋を辞めてシンガポールででも暮らしてみようかと行く途中、気が変わってトランジットの台湾に住むことにしたとか。

するといつの間にかビジネスの講師となり、生徒の務める百貨店などで要職をこなした後、寺田倉庫に入社、社長兼CEOとして、同社が拠点とする天王洲アイルエリアをアートの力で独特の雰囲気、文化を持つ街に変身させた、とのこと。財界や建築家隈研吾氏などの面々が仰ぎ見るすごい人のようだ。


ここまでさっぱりできたらすごいなあと感心する反面、やっぱり天才の行動はマネできない諦めのような羨望のような境地と、自分は今の生活が気に入っている、というアンビバレントな想いが交差する。生き方の書とはいえやはりビジネスマン、刺さる指摘もある。

「できたら褒める、できなかったら我慢する。こういう姿勢を貫かないと、人に任せることはいつまで経ってもできないと思います。すると、仕事を一人でたくさん抱えて、本当にやるべきことができなくなる。」

身に沁みます。

やはり会社の代表役員をしている著者の息子さんのコラムもあり、その父親評も興味深い。

「良い面で言うと、いつも原点に立ち返って優先すべき事項を見極められる。本来はたった一つのゴールを目指していたはずなのに、議論を重ねるうちにあれこれとオプションがくっ付いて事象が複雑化してしまう。ビジネスでよく起こりがちなそんな状況でも、父は迷わず「シンプル」に立ち戻って、本質以外を削ぎ落とすのが得意です。」

言葉でにしたら見事に理屈通り、でも社会での実際はあれもこれも考えなきゃいけない、と気がついたら重くなっていることはよくあること。改めて考えてしまった。

「ふるさとに縛られるのも、幻想でしかない」

日本人はなかなかふるさとを捨てきれない、それを前提とした小説も少なからずあるように思える。著者はこだわることにより得られるものもあるけれど、失っていることも大きいかもしれない、一度すべての「当たり前」を疑ってみることをおすすめします、と。

ここはまあ、過剰になっている、足かせになっていることはないか、自分を掘ってみよう、というちょっとした提示だと受け止めた。縁があり故郷から遠いところに根を下ろしている人もたくさんいる。あまり口には出さないけれど、揺れてしまう、心の中のやわらかい部分だろうと思う。そこをちくんと。

著者のもとにはこれまでもビジネス書の話が多く持ち込まれたが、実績をひけらかしたり目立つことを好まなかったため、全て断ってきたそうだ。この本は切り口が違ってタイトルも良く、広報さんがもう一押ししたところ、若い編集者が熱っぽく綴った文章に目を通し、OKを出したそう。


人たらしな、凄腕の、魅力的な経営者、という色が滲み出る。

◼️ 多和田葉子「雪の練習生」

読み進むほどに、読ませる。ホッキョクグマ3代、不思議な話。

多和田葉子さんは初読。先日のノーベル文学賞の事前記事で名前が挙がり、ドイツ在住で権威あるクライスト賞を受賞されているとテレビで観て興味を深めていた。さてさて。

サーカスの人気者だったメスのホッキョクグマの「わたし」。ふと書き始めた自伝が売れて著名人となり、国際会議にも出席するようになる。イデオロギーの匂いのする会の誘いでソ連から東ベルリンに行き執筆するが、やがて、より寒いカナダに亡命したいと思うようになる。
(第1部 「祖母の退化論」)

まず最初、ああこれはこういう物語なんだな、というのをつかむのに少し思考がいる。誰が書き手か分からないようにするフェイクもあったりする。「わたし」はものを書き、人間とも会話ができて会議に出る。飛行機や電車で移動する。最初に自伝を出版した編集長はオットセイだし。

2次大戦を含む時代的な風景、「わたし」の、人に近い言動や、ホッキョクグマとしてのものの感じ方、心情を示しながら、第2部「死の接吻」へ。

こちらは、「わたし」の娘トスカが主要な一頭。トスカはバレリーナを目指したが認められず東ドイツのサーカスが引き取った。語りはサーカスの猛獣使いの女性ウルズラ。ウルズラとトスカは心を通い合わせ、タンゴを踊り、ウルズラが舌先に出した角砂糖をあたかもキスするように顔を寄せてトスカが舌で取る、という芸が当たって海外公演までするようになる。

こちらも進む時代と不思議な前提がまぜこぜ。トスカを含む10頭ものクマをショーに出すのはクマをプレゼントしたソ連のご機嫌取り。クマたちは労働組合を結成し、サーカスの長に労働環境・条件改善の要求を突きつける。ウルズラの半生や動物と心を通じる能力や心模様が語られる。そして、途中で突然語り手が変わりびっくりする。語り手に関してひと工作するのがこの人の常套手段かな?と思ってしまう。

そして第3部はトスカの息子・クヌートの物語「北極を想う日」。クヌートは動物園で、地球温暖化のシンボル化していて人気者。もはやPCが普及しつつある世の中。ニュースは世界に届けられる。環境は最も、なんというか正常で、クヌートは、最終盤に出てくる幽霊チックなミヒャエル以外とは人間と話も出来ないし、社会活動もしない。しかしここまでのベースがあるからか、その訥々とした心情の露呈を読み込んでしまう。

この作品は野間文芸賞を受賞。解説によれば、多和田葉子の小説はいつも不思議だけれど、ひときわ不思議な作品だそうだ。ちなみに「犬婿入り」という作品でかつて芥川賞も受賞している。

著者はドイツ文学で博士号を持つベルリン在住の方。ソ連・ドイツの戦後から共産主義権崩壊へのダイナミックな変遷を滲ませつつ、日本をも作中トピックに入れ、主人公であるホッキョクグマは本能的に遠く北極を想う、総じて著者と読み手が激動の日々と人生を思い返し、平和な現代での自分の存在感を深めに掘ってみる、というふうにも読める。

時代と自らの歩み、には親近感が湧く。そこに主語を揺らしたり、動物と人間の世界を交差させたり、というテクニカルでファンタジックな味付けがある、てな感じかな。

サーカスの団員と結婚しているウルズラの独白に感じ入る。

「人間も怖い声で吠えることがある。単語の連なりにはなってはいても実際は吠える声が立ち上がってきて、聞く方も言語ではなく吠え声を聞いて、吠え返す。吠え合う仲になってしまった夫婦はもう会話を交わすことはなく、片方が吠えるともう一方が吠え返すというパターンができてしまう。」

読み応えのある一冊。多和田葉子さん、難しかったらどうしよう的敬遠をしていたが、ひときわ不思議らしいものから入ったので変な安心感がある。また読んでみよう。

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