3で書き漏らしたが、友人と藤田真央のラフマニノフピアノ協奏曲3番を聴きにシンフォニー・ホールに行った。
迫力というよりは音の美しさで勝負するタイプかなと。オケともよくコミュニケーションを取った後が見えた。満足。
さて、まだいまと写真の差がつまらない。緊急事態宣言から1ヶ月で、大阪・兵庫は感染者が激増し、最高は大阪で1200人、兵庫に至っては500人を超え、第3波の倍近くの過去最多。まん延防止法で減るかどうかは適用2週間後の次週で見るが、すでに3度目の緊急事態宣言は避けられないと見られている。
原因は、感染力の強い変異株。ここに先の宣言解除後、気候の良さ、例年より早い桜の開花、歓送迎会、ストレス発散が重なったと思う。
去年の今頃はとにかく会社に行くな、出歩くな、で緊張感がすごかった。いまは落ち着いていられる。その差はあるけれど、1年経ってもむしろ状況は悪化している。コロナが収まったら行こうな、と言うのも、それっていつ?と思ってしまう。今からアフターコロナなんていうの、どっかおかしくないか?って気持ちにもなるね、
まあだいじょぶだけれどね。
◼️ 宮下奈都「つぼみ」
宮下奈都らしさにふれる短編集。
司書さんと中学校に購入する本のことで宮下奈都の話題になり、最近の作品が読みたくなった。一時期児童小説とか柔らか系の本ばかり読んでて、あなた、チョイスが女子系ねえ、と言われてから数年、久々の柔らか系のような気がする。
6つの短編が収録されている。実験的に、主役と登場人物を挙げつつ。
「手を挙げて」・・和歌子は華道教室の先生。姉と彼氏と彼氏の母親。
「あのひとの娘」・・美奈子は推定40代で華道教室の先生。高校生の頃の彼氏の娘・紗英とその友人の千尋、腐れ縁の男友だち・森太。
「まだまだ、」・・高校生の紗英、友人の千尋、中学で野球部だった朝倉くん、2人の姉、母、祖母。
「晴れた日に生まれた子ども」・・福利厚生が充実し女性の勤続年数の長い堅実な会社に勤める性格の晴子と何事も長続きしない弟・晴彦、春子の彼氏、母。
「なつかしい人」・・亡くなった母の実家へ。東京から鄙びた地へ転校した園田と本屋で出会った黒いセーラー服の「中村」さん。野球部の上別府、やさしい祖父祖母、研究職の父。
「ヒロミの旦那のやさおとこ」・・30歳の美波、ずっと仲良しのみよっちゃん、ノシノシ歩きガッチリした体型で数々の武勇伝を持つヒロミ、ヒロミが行方不明だと探しにきた夫、幼い息子。
最初の3篇は、名作「スコーレNo.4」と地続きの物語らしい。さすがに忘れてしまった。多感な女の子の感性と人生の成り行きを、細やかで、かつなかなかダイナミックな文章で組み上げた長編で、撃ちぬ抜かれてしまった感じがした。
この間短編集「よろこびの歌」、またその続編「終わらない歌」も佳作で、いいなと思っていたら「羊と鋼の森」が本屋大賞となりひとつの結実を見て、ただの一読者ながら良かったなあ、とか思ったもの^_^
まあその、私的にはハズレも正直あるんだけど、それなりに読んできた。今作は凡庸な主人公が多く、すごく練っていてテクニカル。でもひさびさにその筆致の、柔らかく細やかな、いい部分に触れた気がしている。
「あのひとの娘」は世慣れてはいるが、高校生のとき付き合った津川を30年近く想い続けている美奈子の教室に津川の娘・紗英がくる。腐れ縁の森太を通じて、逐一情報は入っていた。紗英は天才型で、物怖じしないタイプ。娘を見つつ、意外に、その友達・千尋がポイントとなる。
気遣いができる千尋を美奈子が褒める。千尋の言葉。
「私は取り柄がないから。真面目にやるしかないんです。」
(中略)
「でも、だいじょうぶです。特別な才能がなく生きるっていうのはけっこうむずかしくて、だからこそやりがいがあって、私はわりと気に入ってます。」
まあ華道の先生になるだけでもそれなりに才能開花だとは思うけれど、このセリフは、平凡な人、を主人公にしているその短編集を強く特徴づけているのかも知れない。
直後に戻ってきた紗英がたんぽぽのような笑顔で「先生の花、大好きです。」
よくそんなことが言えるもの、と美奈子は思うが、いやいや千尋のセリフもあんまし言わないな、と。ただ、この対比は実に上手い。さらに高校生の光を描きながら、美奈子たちの物語にして、締めも小粋でニクいくらいGOOD。
短編なのにちょっとネタバレしすぎかな^_^
集中で最も、いわゆる面白いのがラスト、「ヒロミの旦那のやさおとこ」
遅刻でつかまった時、風紀委員全員に頭突きをかまして逃走した、などの伝説を持つヒロミは20歳の時に家を出て、音沙汰なしだった。しかし・・。
ヒロミの旦那のやさおとこは女性の気を惹くフェロモンを出していて、すでに子持ちのみよっちゃんも美波もすぐに意識する。ヒロミは見つかるのか、出てこないのか、出てこないパターンの話は最近多かったりするのでやめてよ、などと思っていたら、ちゃんと10年ぶりの邂逅を果たす。
こちらも出している要素の噛み合いが実に良い。よくも捻出できるものだというエピソードも入っている。
もはや手練れの感覚。さほど大きな波があるわけではないが、清冽だったり、ダルッと停滞してたり、ホロッとさせたり。シーンをつなぐパッセージはちょっとトガッてほのかに光っていたりする。
まずまず満足でした。
◼️ 坂口安吾「風と光と二十の私と」
青空文庫続きで。興味出てきた、坂口安吾。
webで行きあたった青空文庫で読める佳作特集を参考に、有島武郎「一房の葡萄」を読みました。同じ特集にあった作品を続けて。
本当は他のものを読もうかと思ってましたが、書評欄の"読んでいてこんなに愉しい作品は久々でした。本当に明るく希望に満ちた作品です"という口コミを見て、変更しました。書評って大事ですね〜。
坂口安吾はミステリの「不連続殺人事件」くらいしか読んでませんでした。どうも無頼派の代表っぽくてなんかイメージ悪く(笑)、世間の評価を尻目に敬遠してました。読了して、短編もっと読んでみよう、という気になっています。
ほぼ自伝のような形で、小学校の代用教委として過ごした経験を描いています。生徒には荒っぽく字は書けないけれど力仕事に長けた、愛嬌のある牛乳屋の息子、姉と実の父との関係を噂されている独りぼっちで過ごす女の子、色っぽいが嫉妬や意地悪心のない石津、再婚した母の連れ子で、身体ががっしりして運動能力はあるが無口で笑わない山田。
山田の母は主人公のもとに相談に来る。姉弟のうちこの子だけが父が違うが、別に差別はしてないんだからもう少し現在の父になつくように娘に諭して欲しい、と。
それに対して主人公の答えは明瞭。「あなたの胸にきいてごらんなさい」他にも言葉はあります。青春教師ものドラマを地で行ってますが、これが若さを表すかのようにハマってます。
また金持ちの地主の息子、萩原は主人公に甘えたいがために、先生に叱られた、とウソをつく。主人公は萩原の性格や目的がよく分かっていたから直に話してすぐ解決する。
「坊っちゃん」のように主人公を取り巻く騒動もあり、定番的な先生方の描写も面白く、ちゃんとマドンナも登場します。
その中、妙に老成した主人公は風景と戯れ、なんの欲もなく過ごし、周囲の事象について思索を深めているかのよう。石津には思い入れがあるようで、結婚してもいい、なぞとのたまってます。
安吾も使っている言葉を用いていうと、作風は思いの外、カンジダ(キャンデイード 無垢という意味)っぽい。もう少し読みたくなりました。
2021年4月17日土曜日
4月書評の3
福岡から帰って奈良めぐり。といっても寺や神社ではなく、学園前の松柏美術館。
上村松園の日本美人画を見て、息子の松篁、孫の淳之の甘い堪能。駅の反対側にある大和文華館では白磁の展覧会を見た。敷地内に福島県の三春の瀧桜の株分けがあって、大きくて綺麗だった。
◼️ 有島武郎「一房の葡萄」
久々に青空文庫で短編。プリミティブな優しさに明るい気持ちになる。
青空文庫のおすすめランキング、というのをwebで見つけて、7位に入っているこれを読んでみた。幼年時代らしい感性と、ぐずぐずしたうまく表現できない気持ちと、女の先生への憧れ。優しすぎるオチにホロリとし、かつ明るい心持ちになる。
横浜の山の手の小学校に通い、帰りに海岸近くを通って帰っていた僕は、海に商船や軍艦が並んでいる光景を家で絵に描いていた。透き通るような海の藍色と、船の水際近くに塗ってある洋紅色がうまく出せなかった。
僕はクラスメイトのジムが持っている舶来の絵の具、その藍と洋紅が欲しくてたまらなくなり、盗むがすぐに発覚、ジムたちに憧れの担任の先生のところへと突き出されるー。
洋紅色とはわずかに紫味の入った赤色で、カーマイン、カーミンレッドなどというらしい。色の名前はともあれ、喫水線までの船体の、赤系統の色はすぐに想像できる。そこに洋紅、という名がつけられたような気がした。
理知的な担任の先生はすばらしい措置を講じる。モダンな景色、想像できる色合いの明媚な風景、ハイカラな絵の具が呼び起こす羨望の感情、幼年の心の揺れが見事にマッチした、悪意のない物語と言えるだろう。私はホームの都市が神戸なので、ちょっと共鳴したかな。
小学生のころ、皆に好かれていた女の先生が担任で可愛がってもらった。就職時にも電話をくれた。名前も名乗らず「私よ私、げんきー!?」というのには苦笑したけれども、いてくれて本当に良かったと思う。
次は田中英光という人の「オリンポスの果実」でも読んでみようかと。
6位が「檸檬」でオリンポスは5位。4位3位は坂口安吾で2位が宮沢賢治のアレで、1位は芥川の「トロッコ」。たしかに「一房の葡萄」っぽい。ここは著者の好みかも。
私的にはおなじ芥川でも「蜜柑」を推します^_^
◼️ 杉本苑子「能の女たち」
上村松園の謡曲から能で杉本苑子。つながってる感が強い。
上村松園の絵の解説を読んでいると謡曲から題材を取ったものが多い、と。謡曲とは能の曲、謡(うたい)らしい。ほんのりと興味が出てきて図書館で良さそうな本ないかなと見てみたところ、杉本苑子さん著の本書があった。
「天智帝をめぐる七人」など古代歴史ものの著作を好ましく思っていたので即借りた。杉本さんでなければ借りなかったかも。これも出会いかな。
本書はタイトル通り12の能の演目に出演する女性たちにフィーチャーした本。用語集もあって嬉しい。
取り上げた演目と女性は
「清経」の愛人
「黒塚」の鬼女
「恋重荷」の女御
「羽衣」の天女
「鉢木」の妻
「鉄輪」の女
「海人」海女
「松風」の妹
「籠太鼓」の妻
「隅田川」の母
「藤戸」の母
「山姥」の老女
といった12人。どこか小説の中で見かけ袖擦りあったことはあるかもしれないが、一つもよく知らない、が正直なところ。
鬼や山姥のほか、幽霊もよく出演している。ざっと読むと、やはり悲恋や生き別れが主題のものが多く悲しい結末もある。しかし、どこか判官びいき的、観ていてスカッとしたり、報われて終わり、という演目も多いようだ。
例えば「籠太鼓」は脱獄した夫の代わりに牢に入れられた妻が発狂したふりをして人の好い役人の武士をやり込め、夫ともども無罪を約束させる。
「藤戸」は源平合戦のさなか、功名の陰で源氏方の佐々木三郎盛綱に漁師の息子を殺された母親が盛綱と会い、罪を追及し認めさせる。
ふむふむ、なるほど。男女の悲恋ものも高貴な階級のスキャンダラスな部分がウケるのはシャーロック・ホームズと一緒だな、とか思いつつ読んだ。私的な好みでは鬼や山姥に心惹かれる。
「黒塚」の鬼女、は福島県二本松市のホームページに載っている、奥州安達ヶ原の鬼婆伝説の脚色もの。
山奥に棲んでいる人食い鬼女のところへ東光坊祐慶ら山伏の一行が一夜の宿を求めて来る。
鬼女は高名な修験者ならば元の人に戻してくれるかもしれないと思い、正体を隠してもてなす。山伏たちの暖のため、外へ薪を取りに行く時
「私が帰るまで、この閨の内をごらんになりませんように」
と言い残すが、山伏たちはそこに死骸の山があるのを見て、逃げ出す。見たな〜と追って来る鬼女に逃げ道を断たれた山伏たちは声高に祈る。鬼女は退散するー。
まさに子供の頃に胸躍らせた民話の世界。しかし昔話と違い、救われたい女の心情を底に敷き、山伏たちの仏法に抗って猛り狂う自分をふと客観視し恥じて、鬼のまま生きる運命を受け入れる、という悲痛な諦観を鬼女に持たせている。
「鉄輪の女」は夫に見捨てられた先妻が鬼と化す。五徳を頭に逆さにかぶり、角に見立てられる3本の脚に火のついた灯心を結ぶ。すごい迫力、調伏するのは安倍晴明という派手さ。
不実な男への怨念を晴らす物語。昔は「後妻打ち(うわなりうち)」といって、夫が先妻を離縁して後妻と結婚するとき、先妻が徒党を組んで後妻を襲うこともあったとか。これも庶民的感情?こわっ。
ラストの「山姥」の老女は意外な展開を見せる。
百万(ひゃくま)山姥、という芸名の曲舞の名手がいた。彼女は「山姥の山廻り」を得意として謡い舞い、洛中洛外に名をとどろかせていた。
かねて信心していた善光寺に参詣すべく、山越えの道を行く。するとあたりが暗くなり、老女が現れる。
「私は本当の山姥だ、あなたの名声を聞き、謡いが聞きたくて、待っていた。ウチに宿して、月が出るころ、謡ってほしい。その時私は移り舞いに舞ってみせよう。」
百万はびびるが、約束通り月が出るころ謡い始める。すると山姥が姿をあらわし、豪華絢爛な衣装に山姥の面で、堂々と移り舞い、かき消えるー。
詞章が、山姥の超自然性を表現しており、月光の中、ほんものの山姥の舞は、その成り立ち、
性質をも示しているかのようだ。
そもそも山姥は昔話でコワーい存在。それがよくも私の名を騙ったなぁ〜と百万に怒るわけでもなく、食うでもなく、美しく妖しく、激しく舞い踊るのだからかなり予想外。しかしそもそも山姥とは、また、曲舞と観阿弥との関係とは、ということも杉本さんは盛り込んでいる。百万は実在した踊り手らしい。
正直、能、狂言、謡曲、さらに歌舞伎、人形浄瑠璃などの知識は小説で読みかじるくらいでほとんどなかった。でも今回はどこか縁も感じている。
杉本さんの能への愛着と、出演女性についての深い洞察を堪能した。
良い読書でした。
上村松園の日本美人画を見て、息子の松篁、孫の淳之の甘い堪能。駅の反対側にある大和文華館では白磁の展覧会を見た。敷地内に福島県の三春の瀧桜の株分けがあって、大きくて綺麗だった。
◼️ 有島武郎「一房の葡萄」
久々に青空文庫で短編。プリミティブな優しさに明るい気持ちになる。
青空文庫のおすすめランキング、というのをwebで見つけて、7位に入っているこれを読んでみた。幼年時代らしい感性と、ぐずぐずしたうまく表現できない気持ちと、女の先生への憧れ。優しすぎるオチにホロリとし、かつ明るい心持ちになる。
横浜の山の手の小学校に通い、帰りに海岸近くを通って帰っていた僕は、海に商船や軍艦が並んでいる光景を家で絵に描いていた。透き通るような海の藍色と、船の水際近くに塗ってある洋紅色がうまく出せなかった。
僕はクラスメイトのジムが持っている舶来の絵の具、その藍と洋紅が欲しくてたまらなくなり、盗むがすぐに発覚、ジムたちに憧れの担任の先生のところへと突き出されるー。
洋紅色とはわずかに紫味の入った赤色で、カーマイン、カーミンレッドなどというらしい。色の名前はともあれ、喫水線までの船体の、赤系統の色はすぐに想像できる。そこに洋紅、という名がつけられたような気がした。
理知的な担任の先生はすばらしい措置を講じる。モダンな景色、想像できる色合いの明媚な風景、ハイカラな絵の具が呼び起こす羨望の感情、幼年の心の揺れが見事にマッチした、悪意のない物語と言えるだろう。私はホームの都市が神戸なので、ちょっと共鳴したかな。
小学生のころ、皆に好かれていた女の先生が担任で可愛がってもらった。就職時にも電話をくれた。名前も名乗らず「私よ私、げんきー!?」というのには苦笑したけれども、いてくれて本当に良かったと思う。
次は田中英光という人の「オリンポスの果実」でも読んでみようかと。
6位が「檸檬」でオリンポスは5位。4位3位は坂口安吾で2位が宮沢賢治のアレで、1位は芥川の「トロッコ」。たしかに「一房の葡萄」っぽい。ここは著者の好みかも。
私的にはおなじ芥川でも「蜜柑」を推します^_^
◼️ 杉本苑子「能の女たち」
上村松園の謡曲から能で杉本苑子。つながってる感が強い。
上村松園の絵の解説を読んでいると謡曲から題材を取ったものが多い、と。謡曲とは能の曲、謡(うたい)らしい。ほんのりと興味が出てきて図書館で良さそうな本ないかなと見てみたところ、杉本苑子さん著の本書があった。
「天智帝をめぐる七人」など古代歴史ものの著作を好ましく思っていたので即借りた。杉本さんでなければ借りなかったかも。これも出会いかな。
本書はタイトル通り12の能の演目に出演する女性たちにフィーチャーした本。用語集もあって嬉しい。
取り上げた演目と女性は
「清経」の愛人
「黒塚」の鬼女
「恋重荷」の女御
「羽衣」の天女
「鉢木」の妻
「鉄輪」の女
「海人」海女
「松風」の妹
「籠太鼓」の妻
「隅田川」の母
「藤戸」の母
「山姥」の老女
といった12人。どこか小説の中で見かけ袖擦りあったことはあるかもしれないが、一つもよく知らない、が正直なところ。
鬼や山姥のほか、幽霊もよく出演している。ざっと読むと、やはり悲恋や生き別れが主題のものが多く悲しい結末もある。しかし、どこか判官びいき的、観ていてスカッとしたり、報われて終わり、という演目も多いようだ。
例えば「籠太鼓」は脱獄した夫の代わりに牢に入れられた妻が発狂したふりをして人の好い役人の武士をやり込め、夫ともども無罪を約束させる。
「藤戸」は源平合戦のさなか、功名の陰で源氏方の佐々木三郎盛綱に漁師の息子を殺された母親が盛綱と会い、罪を追及し認めさせる。
ふむふむ、なるほど。男女の悲恋ものも高貴な階級のスキャンダラスな部分がウケるのはシャーロック・ホームズと一緒だな、とか思いつつ読んだ。私的な好みでは鬼や山姥に心惹かれる。
「黒塚」の鬼女、は福島県二本松市のホームページに載っている、奥州安達ヶ原の鬼婆伝説の脚色もの。
山奥に棲んでいる人食い鬼女のところへ東光坊祐慶ら山伏の一行が一夜の宿を求めて来る。
鬼女は高名な修験者ならば元の人に戻してくれるかもしれないと思い、正体を隠してもてなす。山伏たちの暖のため、外へ薪を取りに行く時
「私が帰るまで、この閨の内をごらんになりませんように」
と言い残すが、山伏たちはそこに死骸の山があるのを見て、逃げ出す。見たな〜と追って来る鬼女に逃げ道を断たれた山伏たちは声高に祈る。鬼女は退散するー。
まさに子供の頃に胸躍らせた民話の世界。しかし昔話と違い、救われたい女の心情を底に敷き、山伏たちの仏法に抗って猛り狂う自分をふと客観視し恥じて、鬼のまま生きる運命を受け入れる、という悲痛な諦観を鬼女に持たせている。
「鉄輪の女」は夫に見捨てられた先妻が鬼と化す。五徳を頭に逆さにかぶり、角に見立てられる3本の脚に火のついた灯心を結ぶ。すごい迫力、調伏するのは安倍晴明という派手さ。
不実な男への怨念を晴らす物語。昔は「後妻打ち(うわなりうち)」といって、夫が先妻を離縁して後妻と結婚するとき、先妻が徒党を組んで後妻を襲うこともあったとか。これも庶民的感情?こわっ。
ラストの「山姥」の老女は意外な展開を見せる。
百万(ひゃくま)山姥、という芸名の曲舞の名手がいた。彼女は「山姥の山廻り」を得意として謡い舞い、洛中洛外に名をとどろかせていた。
かねて信心していた善光寺に参詣すべく、山越えの道を行く。するとあたりが暗くなり、老女が現れる。
「私は本当の山姥だ、あなたの名声を聞き、謡いが聞きたくて、待っていた。ウチに宿して、月が出るころ、謡ってほしい。その時私は移り舞いに舞ってみせよう。」
百万はびびるが、約束通り月が出るころ謡い始める。すると山姥が姿をあらわし、豪華絢爛な衣装に山姥の面で、堂々と移り舞い、かき消えるー。
詞章が、山姥の超自然性を表現しており、月光の中、ほんものの山姥の舞は、その成り立ち、
性質をも示しているかのようだ。
そもそも山姥は昔話でコワーい存在。それがよくも私の名を騙ったなぁ〜と百万に怒るわけでもなく、食うでもなく、美しく妖しく、激しく舞い踊るのだからかなり予想外。しかしそもそも山姥とは、また、曲舞と観阿弥との関係とは、ということも杉本さんは盛り込んでいる。百万は実在した踊り手らしい。
正直、能、狂言、謡曲、さらに歌舞伎、人形浄瑠璃などの知識は小説で読みかじるくらいでほとんどなかった。でも今回はどこか縁も感じている。
杉本さんの能への愛着と、出演女性についての深い洞察を堪能した。
良い読書でした。
4月書評の2
妻に頼まれた、生まれ故郷の近くのパン屋のオムレット。現地に行ったこともある。しかし博多駅に入るとはオドロキだった。最後に車中で食べるかしわおにぎりとチロリアン買って帰る。かしわおにぎりって、福岡の人にはふつうだろうけど、他ではなかなか食べられないのよ、ホント。またね、福岡。
◼️ ジョルジュ・シムノン「メグレと若い女の死」
やはりメグレは面白い。脂が乗りきった頃の作品に、造形の美に近いものすら覚えた。
hackerさんの書評を参考に図書館にあるメグレシリーズからチョイス。1954年の作品です。
若く美しく、肩をむき出しにしたイブニングドレスの女。被害者の行動の謎を解き明かしていくストーリー展開で、犯行と犯人については最後の最後、一気に解決します。
少しずつ明らかになる謎の要素、そして、所轄署のロニョン刑事の独走が物語に不穏な色を与え、読み手の心理に効いてきます。
深夜3時、パリ警視庁にいたメグレに若い娘の死体を発見したとの報が入る。死因は撲殺で頭部への致命打の前に膝をつき、顔を殴られていた。血中からはアルコール分が検出された。
関係者への捜査により、娘ルイーズは当夜に貸衣装屋でイブニングドレスに着替え、以前共に暮らしていたことのあるジャニーヌと富豪の男性との結婚パーティーに出ていたことが分かった。肌寒い雨の夜、会場を出てから殺されるまでの数時間、ルイーズは何の目的で、どこへ向かったのかー。
見えない行動を追う。どこか宮部みゆき「火車」を思い出したりする。犯人を想像したり捜査するのではなく、メグレの被害者へのこだわりに焦点を当てて長く引っ張る。少しずつルイーズの素性が明らかになり見えてくるものはある。そして最後の謎はすなわち殺人の動機と方法に結びつく。急ぎめの解決にもわずかな不運、被害者の悲劇的人生、というものが覗く。
所轄署のロニョン刑事は身体が不自由な妻を抱え、下っ端としてあくせく働き、報われないというキャラで懸命になるあまり連絡もせず独走する。そちらにも、社会での悲劇が表されていて、被害者ルイーズの境遇と共鳴、増幅している。
興味喚起の力と読み物としての魅力がマッチしている。ルイーズとロニョンというキャラが醸し出す高い擦過音のようなノイズ。ラストの早さを含め、技巧が凝らされた作品。フランスっぽいっていうのかな?
ミステリはメグレが好きでたまに読んでる、ほらあの名探偵コナンに出てる目暮警部もここから来てるんだよ。元祖は警視なんだけどね、という話も最近よくするかな。
構成と表現の妙にまるで織部焼のような造形の美まで感じてしまった。良き読書でした。
◼️ 上村松園「青眉抄」
一心に励んだ画業への念いが、心に響く。さらさらと読める和風のエッセイ。
読みたいな〜という想いを日月さんに後押ししてもらい借りてきました。さらさら読めて、心になじんでと、嬉々として読み込みました。
和風。ジャンルは違うし、名前も出てこないけれど、きものに詳しい幸田文のエッセイのように落ち着いた独特のチャーミングさ、川端康成や谷崎潤一郎のような文化の習熟と活用を感じました。明治初期生まれ、その時代の人なんだなあと。
眉へのこだわりや育ててくれた母親への愛も滲み出て、芳醇な作品だと思います。文章も、文人チックではないものの、エッセンスがシンプルに提示されて、ひと刷毛、ふた刷毛、独自の色がつけてある感じです。
簡略に自分画家としての来し方、子供の頃の思い出、師の思い出などが綴ってあります。
この時代の人らしく、パーマ?について物申したり、「賢母」を強調したりしています。今の時代には違和感、という部分もありますが、それも私的には面白みのひとつ。
松園はなにせ明治の世、文明開化とはいえ、女性で絵の塾にいるのは寥々たるもの、ほんのわずかだったという修行時代を過ごしています。
また生まれてすぐに父親をなくし、再婚話や長姉を養子に出す話もあった中、親戚の援助を断りバリバリ商売をした母親に育てられています。
10代で描いた四季美人図がイギリス王族に買い上げられ、万博にも出品。天稟の才は画壇に花開き、女性として初めての文化勲章を受章した日本美人画のトップランナー。その歩みと時代を考え合わせると、とても興味深く思えます。
そしてやはり自分の絵に関しての創作秘話、解題が面白い。このところマイブームですので、代表作はすっかり覚えてしまっててかなり楽しめました。
幕末期に大和魂を示して自害した「遊女亀遊」へのシンパシー、また29歳で仕上げたこの作品が評判を呼んだことの余波でひどいいたずら書きをされ、主催者の失礼な態度に腹が立ち毅然と対応したこと。
源氏物語で、嫉妬心からの怨霊が葵の上や紫の上を苦しめた六条御息所、その怨霊の姿を描いた「焔」はスラリとした容姿、桃山風という扮装が目を惹きます。眼に金泥を用いた顔はもちろんおどろおどろしいのですが、全体的にどことなくエロい。
松園の絵は、着物や髷、所作、題材などは大変美しい。容貌は日本美人らしい顔が多いなと思います。本人も「私は芸妓ひとつ描く場合でも、粋ななまめかしい芸妓ではなく、意地や張りのある芸妓を描くので、多少野暮らしい感じがすると人に言われます」と書いてます。その中「焔」は「たった一枚の凄艶な絵」と振り返っています。凄艶、ゾッとするほど艶やかで美しい。この絵を描いたころ松園はスランプで、描いた後に脱出したとのこと。六条御息所の怨霊は源氏物語と違って、閨秀画家の不調を取り去ったようですね。ふむふむ。
小説のタイトルにもなった「序の舞」。この絵に関しては思い入れ深く、
「私の理想の女性の最高のものと言っていい、自分でも気に入っている『女性の姿』」
「優美なうちにも毅然として犯しがたい女性の気品を描いたつもりです。」
としています。能の舞の二段おろし、というのを描いたこの絵は、燃えるような着物の赤に淡い彩雲の模様、黄色基調の鳳凰の帯、文金高島田に簪。着物は振袖で扇を逆手に持ち前に出した右の腕には返った袖が巻いています。凛とした、という表現をさらに増幅したような雰囲気。
モデルは息子・松篁の妻たね子で、京都で一番いい髪結へやって整えたとか。女性の画家が描いた絵として初めて重要文化財に指定された作品だそうです。
233×141cmと大きい絵。先日、上村三代の作品を収蔵する松柏美術館で「鼓の音」を観た時も、実物と画集には隔たりを感じたもの。生でぜひ観てみたいですね。
松園は謡曲・能を学び、多く絵の題材をとっています。「焔」も「葵の上」という謡曲、また小野小町が主人公の能舞台から、小町の能面を生きた美女の顔として扱ったという、スカッとした表情の「草子洗小町」、「砧」、狂女を研究して描いた「花がたみ」などなど。
いずれも麗しい着物、肌、髷など細部まで描き込まれてて、美しい。オーラが出てます。
「一点の卑俗なところもなく、清澄な感じのする香高い珠玉のような絵こそ私の念願とするところのものである。その絵を見ていると邪念の起こらない、またよこしまな心を持っている人でも、その絵に感化されて邪念が清められる・・・・・・といった絵こそ私の願うところのものである。」
良い読書。馥郁たる香り。滋味掬すべき一冊。続編もあるようなのでぜひ読んでみたいと思います。夏にある松園の展覧会が無事挙行されますように。
◼️ ジョルジュ・シムノン「メグレと若い女の死」
やはりメグレは面白い。脂が乗りきった頃の作品に、造形の美に近いものすら覚えた。
hackerさんの書評を参考に図書館にあるメグレシリーズからチョイス。1954年の作品です。
若く美しく、肩をむき出しにしたイブニングドレスの女。被害者の行動の謎を解き明かしていくストーリー展開で、犯行と犯人については最後の最後、一気に解決します。
少しずつ明らかになる謎の要素、そして、所轄署のロニョン刑事の独走が物語に不穏な色を与え、読み手の心理に効いてきます。
深夜3時、パリ警視庁にいたメグレに若い娘の死体を発見したとの報が入る。死因は撲殺で頭部への致命打の前に膝をつき、顔を殴られていた。血中からはアルコール分が検出された。
関係者への捜査により、娘ルイーズは当夜に貸衣装屋でイブニングドレスに着替え、以前共に暮らしていたことのあるジャニーヌと富豪の男性との結婚パーティーに出ていたことが分かった。肌寒い雨の夜、会場を出てから殺されるまでの数時間、ルイーズは何の目的で、どこへ向かったのかー。
見えない行動を追う。どこか宮部みゆき「火車」を思い出したりする。犯人を想像したり捜査するのではなく、メグレの被害者へのこだわりに焦点を当てて長く引っ張る。少しずつルイーズの素性が明らかになり見えてくるものはある。そして最後の謎はすなわち殺人の動機と方法に結びつく。急ぎめの解決にもわずかな不運、被害者の悲劇的人生、というものが覗く。
所轄署のロニョン刑事は身体が不自由な妻を抱え、下っ端としてあくせく働き、報われないというキャラで懸命になるあまり連絡もせず独走する。そちらにも、社会での悲劇が表されていて、被害者ルイーズの境遇と共鳴、増幅している。
興味喚起の力と読み物としての魅力がマッチしている。ルイーズとロニョンというキャラが醸し出す高い擦過音のようなノイズ。ラストの早さを含め、技巧が凝らされた作品。フランスっぽいっていうのかな?
ミステリはメグレが好きでたまに読んでる、ほらあの名探偵コナンに出てる目暮警部もここから来てるんだよ。元祖は警視なんだけどね、という話も最近よくするかな。
構成と表現の妙にまるで織部焼のような造形の美まで感じてしまった。良き読書でした。
◼️ 上村松園「青眉抄」
一心に励んだ画業への念いが、心に響く。さらさらと読める和風のエッセイ。
読みたいな〜という想いを日月さんに後押ししてもらい借りてきました。さらさら読めて、心になじんでと、嬉々として読み込みました。
和風。ジャンルは違うし、名前も出てこないけれど、きものに詳しい幸田文のエッセイのように落ち着いた独特のチャーミングさ、川端康成や谷崎潤一郎のような文化の習熟と活用を感じました。明治初期生まれ、その時代の人なんだなあと。
眉へのこだわりや育ててくれた母親への愛も滲み出て、芳醇な作品だと思います。文章も、文人チックではないものの、エッセンスがシンプルに提示されて、ひと刷毛、ふた刷毛、独自の色がつけてある感じです。
簡略に自分画家としての来し方、子供の頃の思い出、師の思い出などが綴ってあります。
この時代の人らしく、パーマ?について物申したり、「賢母」を強調したりしています。今の時代には違和感、という部分もありますが、それも私的には面白みのひとつ。
松園はなにせ明治の世、文明開化とはいえ、女性で絵の塾にいるのは寥々たるもの、ほんのわずかだったという修行時代を過ごしています。
また生まれてすぐに父親をなくし、再婚話や長姉を養子に出す話もあった中、親戚の援助を断りバリバリ商売をした母親に育てられています。
10代で描いた四季美人図がイギリス王族に買い上げられ、万博にも出品。天稟の才は画壇に花開き、女性として初めての文化勲章を受章した日本美人画のトップランナー。その歩みと時代を考え合わせると、とても興味深く思えます。
そしてやはり自分の絵に関しての創作秘話、解題が面白い。このところマイブームですので、代表作はすっかり覚えてしまっててかなり楽しめました。
幕末期に大和魂を示して自害した「遊女亀遊」へのシンパシー、また29歳で仕上げたこの作品が評判を呼んだことの余波でひどいいたずら書きをされ、主催者の失礼な態度に腹が立ち毅然と対応したこと。
源氏物語で、嫉妬心からの怨霊が葵の上や紫の上を苦しめた六条御息所、その怨霊の姿を描いた「焔」はスラリとした容姿、桃山風という扮装が目を惹きます。眼に金泥を用いた顔はもちろんおどろおどろしいのですが、全体的にどことなくエロい。
松園の絵は、着物や髷、所作、題材などは大変美しい。容貌は日本美人らしい顔が多いなと思います。本人も「私は芸妓ひとつ描く場合でも、粋ななまめかしい芸妓ではなく、意地や張りのある芸妓を描くので、多少野暮らしい感じがすると人に言われます」と書いてます。その中「焔」は「たった一枚の凄艶な絵」と振り返っています。凄艶、ゾッとするほど艶やかで美しい。この絵を描いたころ松園はスランプで、描いた後に脱出したとのこと。六条御息所の怨霊は源氏物語と違って、閨秀画家の不調を取り去ったようですね。ふむふむ。
小説のタイトルにもなった「序の舞」。この絵に関しては思い入れ深く、
「私の理想の女性の最高のものと言っていい、自分でも気に入っている『女性の姿』」
「優美なうちにも毅然として犯しがたい女性の気品を描いたつもりです。」
としています。能の舞の二段おろし、というのを描いたこの絵は、燃えるような着物の赤に淡い彩雲の模様、黄色基調の鳳凰の帯、文金高島田に簪。着物は振袖で扇を逆手に持ち前に出した右の腕には返った袖が巻いています。凛とした、という表現をさらに増幅したような雰囲気。
モデルは息子・松篁の妻たね子で、京都で一番いい髪結へやって整えたとか。女性の画家が描いた絵として初めて重要文化財に指定された作品だそうです。
233×141cmと大きい絵。先日、上村三代の作品を収蔵する松柏美術館で「鼓の音」を観た時も、実物と画集には隔たりを感じたもの。生でぜひ観てみたいですね。
松園は謡曲・能を学び、多く絵の題材をとっています。「焔」も「葵の上」という謡曲、また小野小町が主人公の能舞台から、小町の能面を生きた美女の顔として扱ったという、スカッとした表情の「草子洗小町」、「砧」、狂女を研究して描いた「花がたみ」などなど。
いずれも麗しい着物、肌、髷など細部まで描き込まれてて、美しい。オーラが出てます。
「一点の卑俗なところもなく、清澄な感じのする香高い珠玉のような絵こそ私の念願とするところのものである。その絵を見ていると邪念の起こらない、またよこしまな心を持っている人でも、その絵に感化されて邪念が清められる・・・・・・といった絵こそ私の願うところのものである。」
良い読書。馥郁たる香り。滋味掬すべき一冊。続編もあるようなのでぜひ読んでみたいと思います。夏にある松園の展覧会が無事挙行されますように。
4月書評の1
姉がインスタに載せる写真に凝っているらしく、途中で止まって、「玉ボケ」狙い。こういうとこも糸島、ドライブしがいがある土地柄。
翌日中に帰るので、宮地嶽神社を初訪問。評判通り、いい眺め、のどか。
️ 藤原道綱母「蜻蛉日記」
和歌の才には感嘆。恨み言ばかりの中にはどこか見えるものがある。
古典は少しずつ読んでいて、次は何にしようと思っていた。国語の先生と話した時に「蜻蛉日記」を薦められて手に取った。以前室生犀星「かげろうの日記遺文」を興味深く読み、犀さんが原作をどう翻案したのかも楽しみだった。
高級貴族の娘、美人で和歌の才にたけている著者・道綱母は、藤原兼家に求婚され妻となる。兼家は目覚ましい出世を遂げる磊落な男。先に時姫という妻がいた。さらに小路の女、後年には近江の女などに手を出して訪れも途絶えがちになる状況に道綱母は耐えられず、兼家が来てもプンプンと怒り、冷たい態度を取る。
上巻は贈答歌のやりとりで恨み言満載、さらに兼家の邸宅のすぐそばに住まうことになるが時姫と道綱母の従者が喧嘩してしまい、離れた所へ移る。また時姫は二男三女に恵まれて妻のしての地位を固め幸福そうに見えるのに対し、道綱母は息子の道綱1人だけ、というところにも引け目を感じる。
中巻では夜離れ(よがれ、夫の訪れがなくなること)がひと月以上ともなり、石山寺への参詣や般若寺でのお籠り、また世が騒然とした969年の安和の変なども盛り込んである。夫を想い、やりきれない心のうちを繰り言として述べはするが、新鮮な描写と独詠歌が特徴的。下巻はかき消えるような印象で終わる。
人生がうまくいかない、というところは「更級日記」にも似ているか。
藤原道綱母は三十六歌仙にも選ばれている。技巧を凝らした歌が多く盛り込まれている。
「うたがはしほかに渡せるふみ見れば
ここやとだえにならむとすらむ」
(なんて疑わしい。よその女に送ろうとする手紙を見ると、もう私のところにはおいでにならないおつもりなのでしょうか。)
文箱を探ると、女に宛てた手紙を発見。兼家を咎める歌。疑わしに「橋」、文に「踏み」、渡すには「手紙を渡す」「橋を渡す」の意をかけるなどして、橋の縁語でまとめている。咄嗟にも滲み出る技巧というか。兼家は妻の追及にも「あなたの気持ちを試してみようと思ってね」などとのたまう。
「嘆きつつ ひとりぬる夜のあくる間は
いかに久しきものとかは知る」
(嘆きながら独り寝をする夜の明けるまでは、どんなに長いものかをご存じでしょうか。門を開ける間さえ待ちきれないあなたにはお分かりにならないでしょうね。)
怪しいと思っていたところ、ある日宮中に用が、と不自然に出ていったので召使いに兼家の後をつけさせ、小路の女のところに行ったのを知る。そして夜やってきた兼家が戸を叩いているのに無視、締め出しを食わせる。兼家は待つことなく帰ってしまう。その後贈った歌。
夜が明ける、と戸を開ける、を掛けている。百人一首にも入り、気持ちをこの仕打ちにも兼家は、夜が明けるまで待とうかとも思ったが宮中から使いが来たから帰った、と怒ることもなくしゃあしゃあと受け流す。
まあそれがなければ、この日記のメインテーマも薄れるのかも知れないのだけれど、意外だったのは藤原兼家が、冷たくされても道綱母が怒って機嫌が悪くても、のらくらと通いをやめず、気を遣ったり機嫌を取ったり世話を焼いたりとプッシュすること。この時代、しかも権勢を誇る人なら見捨てることもありそうな気がする。
極上の歌人にして美人の誉れ高い道綱母、不仲なのが不名誉なのか御したい欲望があるのか。道綱母にしてみればその辺も都合の良い扱われ方をされているようで嫌なのだろう。しかしこれほど想い恨み悩み患うということは兼家に強い気持ちがあるからで、それもはっきりと分かる。間に挟まれあたふたとする少年の道綱がちょっとコミカルでかわいそう。
やがて小路の女は寵愛を失い、子どもも死んでしまう。著者は「今ぞ胸はあきたる」今こそ胸のつかえがおりてすっとした、と憚りなく、ある意味正直に書く。葵祭見物でライバル時姫に会えば自分に才のある連歌をふっかけ、嫌がられる。なかなかドロドロもしています、はい。
少し長くなるが室生犀星の「かげろうの日記遺文」の話も。
「遺文」では道綱母は紫苑、小路の女には冴野と名が付けられている。時姫と紫苑に嫉妬心をぶつけられた冴野は子を失った悲しみの中、紫苑・道綱母にこう諭す。
「殿が来た時、なぜ優しくお迎えにならないのですか。それをなさらないために、その日のはじめのお眼見えがつぶれてしまうのです。あなた様が優しくようこそと仰せられれば、もうそこには殿はご自分のお悪いところがお気付きになられます・・」
さらに冴野の失踪を嘆くあまり兼家は紫苑に「冴野をかえせ」と迫る。
実は、小路の女が著者を諭したり、兼家が取り乱したりという発想の元になった記述があるのでは・・とちょっとだけ期待したが、やはり全くなかった。
犀星は少年の頃養子に出されたが、生家は近く事情が分かっていたので度々実の父母の元に帰っていた。しかし母は父が死んだ後親族に閉め出され行方不明になったという。たおやかで優しく、身分の違いと自らの運命を悟っているふうに冴野を造形し、母への想いを冴野に重ねているらしい。
意のままにならない夫の想い。解説ではかたくなでプライドの高い、ある意味子供っぽい道綱母を客観的に見ている。やはり源氏物語の葵の上を思い出す。
女性の心の動きは現代と変わっていない、と国語の先生。しつこいくらいの恨み言、嘆き節、でもそこに抜群の和歌があって、鮮やかな情景描写がある。教養、才気の煌めきと鬱屈した女心の組合せ。
分かる気はする。いい読み物だった。やっぱり残るものには理由がある。
◼️ブラッドリー・ハーパー
「探偵コナン・ドイル」
若きドイルとホームズのモデル、ベル博士が切り裂きジャックに挑む!!
図書館でパッと見たら目の前にあった。昨年の出版で真新しくノベルスっぽい大きさ上下段。
ジョゼフ・ベル博士はドイルが医学生だった頃の師で、一見しただけで人の職業や旅行の履歴を言い当てていた。その鋭い洞察力に感嘆したドイルはシャーロック・ホームズのインスピレーションを得たという。
シャーロック・ホームズの初長編「緋色の研究」を発表し、次の歴史小説にかかっていたポーツマスの眼科医、コナン・ドイル。1888年9月20日、ドイルの元へ前首相グラッドストンから仕事を依頼したい、という手紙がメッセンジャーを介して届く。
ロンドンに出向いたドイルは個人秘書というウィルキンズと会い、イーストエンドのホワイトチャペル地区で娼婦が3人殺害された連続殺人事件の捜査協力を依頼される。ドイルはベル博士を呼ぶ事にし、ウィルキンズは承諾、女性解放論者の作家・ジャーナリストで当地に住むマーガレット・ハークネスを訪ねるよう告げる。
ジャック・ザ・リッパー、切り裂きジャックの一連の事件は、1888年の8月末から11月にかけて、少なくとも5人の娼婦を、ナイフを使って殺害し死体を切り刻み、内臓を摘出して並べるなどした猟奇連続殺人事件、また犯行声明文が出たことから劇場型の犯罪でもある。
ドイルによるホームズとして初の作品、「緋色の研究」は1887年、ビートンのクリスマス年鑑に掲載されて出版された。しかしそこそこの評判だったというだけで、このパロディ中のドイルはまったく無名の作家。ベル博士は女王陛下がスコットランドに行幸する際は侍医として付き従う、それなりに名声のある医師だった。
少しややこしいかもしれないが、シャーロック・ホームズ劇中の1888年はホームズの最盛期に当たり、なぜホームズは切り裂きジャックの事件を捜査してないのか、という疑問をシャーロッキアンたちが今日も嬉々として議論している。また当然ながらホームズがジャックと対やさ、パロディはあまりにもたくさん執筆されている。私もそれなりに読んだ。代表的なのはエラリー・クイーン「恐怖の研究」だろう。現場主任のアバーライン警部やウォレン警視総監はもはやおなじみの名前だ。
で、なぜ犯人が逮捕できなかったか、については、言うに言えない人物だったから、例えば高貴な血筋だったり、というのは一つのパターンだ。今回もその点を踏まえた結末となっているかな。
マーガレット・ハークネスは実在の人物で、芸歴も合わせてあるらしい。なかなかさっぱりと魅力的なキャラクターとなり、物語の芯となる登場人物。ベル博士が探偵役で、ドイルがワトスン、というのも楽しい。
ドイルが捜査するのはそういえばあまり読んだ事がない。マーガレットへのほのかな想いを抱くのもワトスンそっくり。一旦捜査を中断してポーツマスへ帰ったドイルにジャックから、次は知り合いを殺す、と手紙が届くくだりは読みながら怖気がした。
出演者のキャラ付けが良きも悪きもよく出来ていて、ストーリーの流れも良い。黒いロンドン深部、不可解で残虐な犯行の好対照をなす爽やかさ。ホームズ関連のジャックもの、というパターンにはまってはいるものの、かなり楽しく読める作品となっている。
ジャックの正体はこれまでの経験で言うと早めに露見する。そこへ行き着く試行錯誤には欠けていて、単純ぽいな、というきらいはあるかな。
次 第2弾はマーガレットが主役のストーリーで評判がいいとか。翻訳出るかな?追いかけてみたくなる。
翌日中に帰るので、宮地嶽神社を初訪問。評判通り、いい眺め、のどか。
️ 藤原道綱母「蜻蛉日記」
和歌の才には感嘆。恨み言ばかりの中にはどこか見えるものがある。
古典は少しずつ読んでいて、次は何にしようと思っていた。国語の先生と話した時に「蜻蛉日記」を薦められて手に取った。以前室生犀星「かげろうの日記遺文」を興味深く読み、犀さんが原作をどう翻案したのかも楽しみだった。
高級貴族の娘、美人で和歌の才にたけている著者・道綱母は、藤原兼家に求婚され妻となる。兼家は目覚ましい出世を遂げる磊落な男。先に時姫という妻がいた。さらに小路の女、後年には近江の女などに手を出して訪れも途絶えがちになる状況に道綱母は耐えられず、兼家が来てもプンプンと怒り、冷たい態度を取る。
上巻は贈答歌のやりとりで恨み言満載、さらに兼家の邸宅のすぐそばに住まうことになるが時姫と道綱母の従者が喧嘩してしまい、離れた所へ移る。また時姫は二男三女に恵まれて妻のしての地位を固め幸福そうに見えるのに対し、道綱母は息子の道綱1人だけ、というところにも引け目を感じる。
中巻では夜離れ(よがれ、夫の訪れがなくなること)がひと月以上ともなり、石山寺への参詣や般若寺でのお籠り、また世が騒然とした969年の安和の変なども盛り込んである。夫を想い、やりきれない心のうちを繰り言として述べはするが、新鮮な描写と独詠歌が特徴的。下巻はかき消えるような印象で終わる。
人生がうまくいかない、というところは「更級日記」にも似ているか。
藤原道綱母は三十六歌仙にも選ばれている。技巧を凝らした歌が多く盛り込まれている。
「うたがはしほかに渡せるふみ見れば
ここやとだえにならむとすらむ」
(なんて疑わしい。よその女に送ろうとする手紙を見ると、もう私のところにはおいでにならないおつもりなのでしょうか。)
文箱を探ると、女に宛てた手紙を発見。兼家を咎める歌。疑わしに「橋」、文に「踏み」、渡すには「手紙を渡す」「橋を渡す」の意をかけるなどして、橋の縁語でまとめている。咄嗟にも滲み出る技巧というか。兼家は妻の追及にも「あなたの気持ちを試してみようと思ってね」などとのたまう。
「嘆きつつ ひとりぬる夜のあくる間は
いかに久しきものとかは知る」
(嘆きながら独り寝をする夜の明けるまでは、どんなに長いものかをご存じでしょうか。門を開ける間さえ待ちきれないあなたにはお分かりにならないでしょうね。)
怪しいと思っていたところ、ある日宮中に用が、と不自然に出ていったので召使いに兼家の後をつけさせ、小路の女のところに行ったのを知る。そして夜やってきた兼家が戸を叩いているのに無視、締め出しを食わせる。兼家は待つことなく帰ってしまう。その後贈った歌。
夜が明ける、と戸を開ける、を掛けている。百人一首にも入り、気持ちをこの仕打ちにも兼家は、夜が明けるまで待とうかとも思ったが宮中から使いが来たから帰った、と怒ることもなくしゃあしゃあと受け流す。
まあそれがなければ、この日記のメインテーマも薄れるのかも知れないのだけれど、意外だったのは藤原兼家が、冷たくされても道綱母が怒って機嫌が悪くても、のらくらと通いをやめず、気を遣ったり機嫌を取ったり世話を焼いたりとプッシュすること。この時代、しかも権勢を誇る人なら見捨てることもありそうな気がする。
極上の歌人にして美人の誉れ高い道綱母、不仲なのが不名誉なのか御したい欲望があるのか。道綱母にしてみればその辺も都合の良い扱われ方をされているようで嫌なのだろう。しかしこれほど想い恨み悩み患うということは兼家に強い気持ちがあるからで、それもはっきりと分かる。間に挟まれあたふたとする少年の道綱がちょっとコミカルでかわいそう。
やがて小路の女は寵愛を失い、子どもも死んでしまう。著者は「今ぞ胸はあきたる」今こそ胸のつかえがおりてすっとした、と憚りなく、ある意味正直に書く。葵祭見物でライバル時姫に会えば自分に才のある連歌をふっかけ、嫌がられる。なかなかドロドロもしています、はい。
少し長くなるが室生犀星の「かげろうの日記遺文」の話も。
「遺文」では道綱母は紫苑、小路の女には冴野と名が付けられている。時姫と紫苑に嫉妬心をぶつけられた冴野は子を失った悲しみの中、紫苑・道綱母にこう諭す。
「殿が来た時、なぜ優しくお迎えにならないのですか。それをなさらないために、その日のはじめのお眼見えがつぶれてしまうのです。あなた様が優しくようこそと仰せられれば、もうそこには殿はご自分のお悪いところがお気付きになられます・・」
さらに冴野の失踪を嘆くあまり兼家は紫苑に「冴野をかえせ」と迫る。
実は、小路の女が著者を諭したり、兼家が取り乱したりという発想の元になった記述があるのでは・・とちょっとだけ期待したが、やはり全くなかった。
犀星は少年の頃養子に出されたが、生家は近く事情が分かっていたので度々実の父母の元に帰っていた。しかし母は父が死んだ後親族に閉め出され行方不明になったという。たおやかで優しく、身分の違いと自らの運命を悟っているふうに冴野を造形し、母への想いを冴野に重ねているらしい。
意のままにならない夫の想い。解説ではかたくなでプライドの高い、ある意味子供っぽい道綱母を客観的に見ている。やはり源氏物語の葵の上を思い出す。
女性の心の動きは現代と変わっていない、と国語の先生。しつこいくらいの恨み言、嘆き節、でもそこに抜群の和歌があって、鮮やかな情景描写がある。教養、才気の煌めきと鬱屈した女心の組合せ。
分かる気はする。いい読み物だった。やっぱり残るものには理由がある。
◼️ブラッドリー・ハーパー
「探偵コナン・ドイル」
若きドイルとホームズのモデル、ベル博士が切り裂きジャックに挑む!!
図書館でパッと見たら目の前にあった。昨年の出版で真新しくノベルスっぽい大きさ上下段。
ジョゼフ・ベル博士はドイルが医学生だった頃の師で、一見しただけで人の職業や旅行の履歴を言い当てていた。その鋭い洞察力に感嘆したドイルはシャーロック・ホームズのインスピレーションを得たという。
シャーロック・ホームズの初長編「緋色の研究」を発表し、次の歴史小説にかかっていたポーツマスの眼科医、コナン・ドイル。1888年9月20日、ドイルの元へ前首相グラッドストンから仕事を依頼したい、という手紙がメッセンジャーを介して届く。
ロンドンに出向いたドイルは個人秘書というウィルキンズと会い、イーストエンドのホワイトチャペル地区で娼婦が3人殺害された連続殺人事件の捜査協力を依頼される。ドイルはベル博士を呼ぶ事にし、ウィルキンズは承諾、女性解放論者の作家・ジャーナリストで当地に住むマーガレット・ハークネスを訪ねるよう告げる。
ジャック・ザ・リッパー、切り裂きジャックの一連の事件は、1888年の8月末から11月にかけて、少なくとも5人の娼婦を、ナイフを使って殺害し死体を切り刻み、内臓を摘出して並べるなどした猟奇連続殺人事件、また犯行声明文が出たことから劇場型の犯罪でもある。
ドイルによるホームズとして初の作品、「緋色の研究」は1887年、ビートンのクリスマス年鑑に掲載されて出版された。しかしそこそこの評判だったというだけで、このパロディ中のドイルはまったく無名の作家。ベル博士は女王陛下がスコットランドに行幸する際は侍医として付き従う、それなりに名声のある医師だった。
少しややこしいかもしれないが、シャーロック・ホームズ劇中の1888年はホームズの最盛期に当たり、なぜホームズは切り裂きジャックの事件を捜査してないのか、という疑問をシャーロッキアンたちが今日も嬉々として議論している。また当然ながらホームズがジャックと対やさ、パロディはあまりにもたくさん執筆されている。私もそれなりに読んだ。代表的なのはエラリー・クイーン「恐怖の研究」だろう。現場主任のアバーライン警部やウォレン警視総監はもはやおなじみの名前だ。
で、なぜ犯人が逮捕できなかったか、については、言うに言えない人物だったから、例えば高貴な血筋だったり、というのは一つのパターンだ。今回もその点を踏まえた結末となっているかな。
マーガレット・ハークネスは実在の人物で、芸歴も合わせてあるらしい。なかなかさっぱりと魅力的なキャラクターとなり、物語の芯となる登場人物。ベル博士が探偵役で、ドイルがワトスン、というのも楽しい。
ドイルが捜査するのはそういえばあまり読んだ事がない。マーガレットへのほのかな想いを抱くのもワトスンそっくり。一旦捜査を中断してポーツマスへ帰ったドイルにジャックから、次は知り合いを殺す、と手紙が届くくだりは読みながら怖気がした。
出演者のキャラ付けが良きも悪きもよく出来ていて、ストーリーの流れも良い。黒いロンドン深部、不可解で残虐な犯行の好対照をなす爽やかさ。ホームズ関連のジャックもの、というパターンにはまってはいるものの、かなり楽しく読める作品となっている。
ジャックの正体はこれまでの経験で言うと早めに露見する。そこへ行き着く試行錯誤には欠けていて、単純ぽいな、というきらいはあるかな。
次 第2弾はマーガレットが主役のストーリーで評判がいいとか。翻訳出るかな?追いかけてみたくなる。
3月書評の5
糸島ドライブ。定番塩プリンの店へ。糸島は風光明媚&おしゃれな店という土地柄がすっかり板に付いた感じで、開発が進んでいるように見受けられる。
時代やね。映え文化は開発を生み出す。一つの方向性が面白い。
◼️ ポール・セロー「ワールズ・エンド」
ねじれを作って、読者を放り出す。小説的おもしろさの一種の特徴か。
本友と訳者の柴田元幸氏の話をしてて、ググったところ、村上春樹の訳のチェックをした作品としてこの短編集が挙がっていた。タイトルに惹かれた部分もあったかと。あとたまに行く古書店が同じような名前だった。
さて、正直な感想は、なるほどハルキ氏が求める小説的おもしろさに合致してるかなと。氏の訳は「グレート・ギャツビー」「フラニーとズーイ」で読んだけれど、その類を、ほんのちょっとだけ一般化した感じかと思う。
9編が収録されている。
「ワールズ・エンド(世界の果て)」
「文壇遊泳術」
「サーカスと戦争」
「コルシカ島の冒険」
「真っ白な嘘」
「便利屋」
「あるレディーの肖像」
「ボランティア講演者」
「緑したたる島」
ほとんどが、アメリカから外国へ出て、そこでなんらかの捻れた、ストレスのかかる状況を発生させ、矛盾というか、割り切れない人間の悲哀を描き出して、そのまま終わる、というパターン。ホラー的でグロなのもある。
好きなのは、父親が息子の言動で妻の浮気に気づく表題作、妻と別れた男がコルシカ島のレストランで働く人妻をナンパしてみる一篇、ぜんぜん明るくないけれど長めで読み応えはあるかな、というラストの「緑したたる島」だろうか。
緑したたるのはプエルトリコ。もう大きなトカゲがネズミを食されたりして異国情緒?満点。ロンドンやパリといった都会もあるが、外国にいること、周囲の環境といわば非日常性が話の成り行きに大いに関係し影響を与えている。そのバランスは確かに上手いと思う。
訳者あとがきでハルキ氏が言うところの、何かが間違っているのだけれど、何が間違っているかがつかめないという居心地の悪さ、というのが直接的間接的に表されている。興味深い短編集だった。
「鉄道大バザール」というのも楽しそうなので読んでみようかな。
◼️ 「上村松園」日経ポケットギャラリー
上村松園の日本美人画に感じ入る。
先日、奈良の松柏美術館へ行ってきた。祖母上村松園、子の上村松篁、孫の上村淳之三代の画業を収集していて、この時は淳之氏の米寿記念の展覧会とかで松園の作品は数点だったけれども、それでも代表作の一つ、「鼓の音」には惹きつけられた。
松園は明治初期に生まれ15歳で英国王室から「四季美人図」を買い上げられたり、18歳で万博に出品したりと早熟の天才然とした女流画家さんと経歴から見える。
ほとんどが美人図で、私はこの人の着物の描写の美しさに惚れ惚れと感じ入ってしまう。
代表作をとしては源氏物語の大きな特徴である嫉妬深い六条御息所の怨霊を描いた「焔」や謡曲の狂女の舞を表した「花がたみ」がある。
現在東京で開催中の「あやしい絵」展覧に展示されている。大阪にも回覧があるそうで楽しみだ。
また正統派、というか、凛とした美しさの「鼓の音」、そして宮尾登美子の小説名にもなっている「序の舞」の雰囲気も良い。
浄瑠璃・歌舞伎劇の「朝顔日記」の深雪を描いたり、平安時代の雪月花を愛でる女性を描いたりと古典や芸能から題材を取ったものも多くそれらがストーリーを感じさせる艶やかで確固とした煌めきを放つ。一方、特に江戸末期の風俗に惹かれるそうで、母親の思い出とも結びついている青眉の女性にはこだわりを持っているようだ。
青眉とは結婚して子が出来たら眉を剃る習慣。柔らかな「母子」、またタイトルそのままの「青眉」には想いがあふれているように思える。
蚊帳を吊ったり、針仕事をしたり、物思いに耽ったりと庶民の姿をも色の組み合わせもセンスよく鮮やかにスッキリと彩るさまはため息が出る。
夏には京都で上村松園の大型展があるそうで、今から心待ち状態。それまでに「序の舞」も読みたい。
どれもいいけど、今回初めて見た「娘深雪」がギャリー中のMVPかな。「鴛鴦髷」も絵葉書買ってきた「若葉」も娘っぽさが出ていてあてなり。
「青眉抄」より「絵三昧」
真・善・美の極地に達した本格的な美人画を描きたい。
私の美人画は、単にきれいな女の人を写実的に描くのではなく、写実は写実で重んじながらも、女性の美に対する理想やあこがれを描き出したいーという気持ちから、それを描いて来たのである。」
すっかりマイブームで期待が膨らんでいる。
時代やね。映え文化は開発を生み出す。一つの方向性が面白い。
◼️ ポール・セロー「ワールズ・エンド」
ねじれを作って、読者を放り出す。小説的おもしろさの一種の特徴か。
本友と訳者の柴田元幸氏の話をしてて、ググったところ、村上春樹の訳のチェックをした作品としてこの短編集が挙がっていた。タイトルに惹かれた部分もあったかと。あとたまに行く古書店が同じような名前だった。
さて、正直な感想は、なるほどハルキ氏が求める小説的おもしろさに合致してるかなと。氏の訳は「グレート・ギャツビー」「フラニーとズーイ」で読んだけれど、その類を、ほんのちょっとだけ一般化した感じかと思う。
9編が収録されている。
「ワールズ・エンド(世界の果て)」
「文壇遊泳術」
「サーカスと戦争」
「コルシカ島の冒険」
「真っ白な嘘」
「便利屋」
「あるレディーの肖像」
「ボランティア講演者」
「緑したたる島」
ほとんどが、アメリカから外国へ出て、そこでなんらかの捻れた、ストレスのかかる状況を発生させ、矛盾というか、割り切れない人間の悲哀を描き出して、そのまま終わる、というパターン。ホラー的でグロなのもある。
好きなのは、父親が息子の言動で妻の浮気に気づく表題作、妻と別れた男がコルシカ島のレストランで働く人妻をナンパしてみる一篇、ぜんぜん明るくないけれど長めで読み応えはあるかな、というラストの「緑したたる島」だろうか。
緑したたるのはプエルトリコ。もう大きなトカゲがネズミを食されたりして異国情緒?満点。ロンドンやパリといった都会もあるが、外国にいること、周囲の環境といわば非日常性が話の成り行きに大いに関係し影響を与えている。そのバランスは確かに上手いと思う。
訳者あとがきでハルキ氏が言うところの、何かが間違っているのだけれど、何が間違っているかがつかめないという居心地の悪さ、というのが直接的間接的に表されている。興味深い短編集だった。
「鉄道大バザール」というのも楽しそうなので読んでみようかな。
◼️ 「上村松園」日経ポケットギャラリー
上村松園の日本美人画に感じ入る。
先日、奈良の松柏美術館へ行ってきた。祖母上村松園、子の上村松篁、孫の上村淳之三代の画業を収集していて、この時は淳之氏の米寿記念の展覧会とかで松園の作品は数点だったけれども、それでも代表作の一つ、「鼓の音」には惹きつけられた。
松園は明治初期に生まれ15歳で英国王室から「四季美人図」を買い上げられたり、18歳で万博に出品したりと早熟の天才然とした女流画家さんと経歴から見える。
ほとんどが美人図で、私はこの人の着物の描写の美しさに惚れ惚れと感じ入ってしまう。
代表作をとしては源氏物語の大きな特徴である嫉妬深い六条御息所の怨霊を描いた「焔」や謡曲の狂女の舞を表した「花がたみ」がある。
現在東京で開催中の「あやしい絵」展覧に展示されている。大阪にも回覧があるそうで楽しみだ。
また正統派、というか、凛とした美しさの「鼓の音」、そして宮尾登美子の小説名にもなっている「序の舞」の雰囲気も良い。
浄瑠璃・歌舞伎劇の「朝顔日記」の深雪を描いたり、平安時代の雪月花を愛でる女性を描いたりと古典や芸能から題材を取ったものも多くそれらがストーリーを感じさせる艶やかで確固とした煌めきを放つ。一方、特に江戸末期の風俗に惹かれるそうで、母親の思い出とも結びついている青眉の女性にはこだわりを持っているようだ。
青眉とは結婚して子が出来たら眉を剃る習慣。柔らかな「母子」、またタイトルそのままの「青眉」には想いがあふれているように思える。
蚊帳を吊ったり、針仕事をしたり、物思いに耽ったりと庶民の姿をも色の組み合わせもセンスよく鮮やかにスッキリと彩るさまはため息が出る。
夏には京都で上村松園の大型展があるそうで、今から心待ち状態。それまでに「序の舞」も読みたい。
どれもいいけど、今回初めて見た「娘深雪」がギャリー中のMVPかな。「鴛鴦髷」も絵葉書買ってきた「若葉」も娘っぽさが出ていてあてなり。
「青眉抄」より「絵三昧」
真・善・美の極地に達した本格的な美人画を描きたい。
私の美人画は、単にきれいな女の人を写実的に描くのではなく、写実は写実で重んじながらも、女性の美に対する理想やあこがれを描き出したいーという気持ちから、それを描いて来たのである。」
すっかりマイブームで期待が膨らんでいる。
3月書評の4
法事は毎度ながら糸島へ。会食は明治の商家をリフォームした店でテーブル分かれて。おしゃれかつモダン、柳川にあった母の実家を思い出した。
◼️ 岸本佐知子「ねにもつタイプ」
ホッホグルグルとかフェアリーランドとか。ミョーでオカシイ。
講談社エッセイ賞。ルシア・ベルリン「掃除婦のための手引書」等の翻訳者・岸本佐知子氏の著書は秘かに本読みに人気らしい。
本友の司書さんが本読みの人に聞いて、程なく本読みの息子さんに本書を薦められたとかで試しに図書館検索してみたら3冊とも貸出中。これは読まねばとなぜか強く思って購入。
3〜4ページほどのエッセイが26に、間には文庫本だけだというクラフト・エヴィング商會の挿絵。クラフト・エヴィング商會って確か文豪の犬にまつわる小説を集めた本、その名も「犬」を出版してたな確か。
中身は軽くぶっ飛んだ感じで笑、日々の生活や妄想、幼児体験などを面白おかしく展開している。そのショートショート風味やかわいらしさに笑ったり、あるあるとうなずいたり。
「ホッホグルグル問題」は十数年前に"ホッホグルグル"という看板の店を見た、という同僚の話から、今になってその言葉を何度もつぶやく心の声がするらしい。さらに「プリティウーマン」の前奏が心で鳴り出すと無限のリフレインでものが考えられなくなったり、思い出したら同じ作用を及ぼすランナウェイズの「チェリーボム」を対抗のために召喚し闘わせたら混乱して収拾がつかなくなることもある、という話。
「お隣さん」では国会図書館の待ち時間に自分の隣の人の書籍分類カードが炭にまつわる本ばかりだったからどんな人か妄想して遊ぶ。
「フェアリーランドの陰謀」では、シャンプーとシャンプーを買わないようにシャンプーとリンスだとしっかり確認して買ったはずなのに家に帰って見るとやっぱりシャンプーを2つ買っている。これは妖精の陰謀だ、と。なんか深くうなづいてしまったりする。私もうっかりミスを責められた時、どっかの小人が動かしたんだよ、なんて言い訳することがある。
あとがきで「ホッホグルグルは成仏したのか、あれきり現れない」なんて読んでぷっと噴き出した。
もとは雑誌「ちくま」の連載だったらしい。
これがあってこう思う、例えば旅に出てこんなことがあった、とか最近の時事について自分にはこう影響が出た、式の随筆的な文章とは違い、内容はやはり妄想的、SFチックだったりちょいホラー?だったり。ツクツクボウシの鳴き声を聴いていたはずなのに実際は年末だったりと不条理さも漂わせつつドライブしている。
本読みが好きな理由を把握できたわけではないが、サラサラ読む分には確かに面白い。
なるほど、って感じです。
◼️ 宮部みゆき
「あんじゅう 三島屋変調百物語事続」
よく出来た怪異譚たち。リキ入ってます。
やっぱり上手すぎる。今回はオチのはっきりした昔話のようで、微笑ましさと迫力が交錯している。
17歳のおちかは神田で叔父伊兵衛と叔母のお民が営む袋物屋・三島屋に住み、叔父の思い付きで江戸の怪しく不可思議な話の聞き役を務めている。ある日、少年を連れて商家の番頭風の男がやって来た。その少年・染松がいると家中の水が無くなるという。おちかは、染松を預かることにしたー。(第一話 逃げ水)
おちかの百物語シリーズの2作め。
第一話はお旱(ひでり)さまの可愛らしいとも言えるエピソード。
第ニ話「藪から千本」は打って変わって長い間終わらなかった怨念の話。
第三話「暗獣」、タイトル分かりますね。いかにもなんか江戸川乱歩ふうに黒くグロいものを想像したりしますが、となりのトトロを思い起こさせるような、老夫婦と暗獣のお話。
第四話「吼える仏」はまた陰惨な、閉じられた里のお話。
交互に重たい話と微笑ましさのある話が展開される。最終話では「楢山節考」にも通じるような、クローズな里の掟が生んだ悲劇と、信心が産んだ狂気が語られる。全編を通じて人の心の身勝手さが露わになるように作ってある。
第二話は長くて、ちと作り込みすぎかも、なんて思ったかな。第三話と第四話は読み応えがあった。
出てくる人々のキャラも良い。お旱さまと共に過ごす少年・染松(本名:平太)とお旱さま、第二話に出演し三島屋に雇われる「縁起物」のお勝。第三話の隠居夫婦、とりわけ妻の初音が賢くて情が深くて柔らかい性質が気持ち良い。最終話を語る偽坊主・行然坊と、おちかをちょっとときめかせる塾の先生で凄腕の侍・青野、そしてベイカーストリート・イレギュラーズをも想起させるやんちゃ小僧たち。
なんだか一気に周りのキャラが出て来たかんじでにぎにぎしい。まあ楽しいシリーズは周囲の人々が大事。初音さんまた出て来て欲しいな。
宮部みゆきは、上手すぎる。その文章は柔らかく艶やかで、洗練されている。ただ私には合わない気もいまだにしている。
でも、今回のお話たちには、アニメや集団催眠のような混乱が取り込んであり、なおかつ昔話の不思議さ、面妖さ、また矛盾や不明点をも含み込んでいるようでリキが入っている。その色はなかなか好ましかった。
先々も貸してもらってるのでゆっくり読んでいこうと思う。京極堂以来怪談といえばぶっとくなるのか620ページの文庫には少々骨が折れるな^_^
◼️ 岸本佐知子「ねにもつタイプ」
ホッホグルグルとかフェアリーランドとか。ミョーでオカシイ。
講談社エッセイ賞。ルシア・ベルリン「掃除婦のための手引書」等の翻訳者・岸本佐知子氏の著書は秘かに本読みに人気らしい。
本友の司書さんが本読みの人に聞いて、程なく本読みの息子さんに本書を薦められたとかで試しに図書館検索してみたら3冊とも貸出中。これは読まねばとなぜか強く思って購入。
3〜4ページほどのエッセイが26に、間には文庫本だけだというクラフト・エヴィング商會の挿絵。クラフト・エヴィング商會って確か文豪の犬にまつわる小説を集めた本、その名も「犬」を出版してたな確か。
中身は軽くぶっ飛んだ感じで笑、日々の生活や妄想、幼児体験などを面白おかしく展開している。そのショートショート風味やかわいらしさに笑ったり、あるあるとうなずいたり。
「ホッホグルグル問題」は十数年前に"ホッホグルグル"という看板の店を見た、という同僚の話から、今になってその言葉を何度もつぶやく心の声がするらしい。さらに「プリティウーマン」の前奏が心で鳴り出すと無限のリフレインでものが考えられなくなったり、思い出したら同じ作用を及ぼすランナウェイズの「チェリーボム」を対抗のために召喚し闘わせたら混乱して収拾がつかなくなることもある、という話。
「お隣さん」では国会図書館の待ち時間に自分の隣の人の書籍分類カードが炭にまつわる本ばかりだったからどんな人か妄想して遊ぶ。
「フェアリーランドの陰謀」では、シャンプーとシャンプーを買わないようにシャンプーとリンスだとしっかり確認して買ったはずなのに家に帰って見るとやっぱりシャンプーを2つ買っている。これは妖精の陰謀だ、と。なんか深くうなづいてしまったりする。私もうっかりミスを責められた時、どっかの小人が動かしたんだよ、なんて言い訳することがある。
あとがきで「ホッホグルグルは成仏したのか、あれきり現れない」なんて読んでぷっと噴き出した。
もとは雑誌「ちくま」の連載だったらしい。
これがあってこう思う、例えば旅に出てこんなことがあった、とか最近の時事について自分にはこう影響が出た、式の随筆的な文章とは違い、内容はやはり妄想的、SFチックだったりちょいホラー?だったり。ツクツクボウシの鳴き声を聴いていたはずなのに実際は年末だったりと不条理さも漂わせつつドライブしている。
本読みが好きな理由を把握できたわけではないが、サラサラ読む分には確かに面白い。
なるほど、って感じです。
◼️ 宮部みゆき
「あんじゅう 三島屋変調百物語事続」
よく出来た怪異譚たち。リキ入ってます。
やっぱり上手すぎる。今回はオチのはっきりした昔話のようで、微笑ましさと迫力が交錯している。
17歳のおちかは神田で叔父伊兵衛と叔母のお民が営む袋物屋・三島屋に住み、叔父の思い付きで江戸の怪しく不可思議な話の聞き役を務めている。ある日、少年を連れて商家の番頭風の男がやって来た。その少年・染松がいると家中の水が無くなるという。おちかは、染松を預かることにしたー。(第一話 逃げ水)
おちかの百物語シリーズの2作め。
第一話はお旱(ひでり)さまの可愛らしいとも言えるエピソード。
第ニ話「藪から千本」は打って変わって長い間終わらなかった怨念の話。
第三話「暗獣」、タイトル分かりますね。いかにもなんか江戸川乱歩ふうに黒くグロいものを想像したりしますが、となりのトトロを思い起こさせるような、老夫婦と暗獣のお話。
第四話「吼える仏」はまた陰惨な、閉じられた里のお話。
交互に重たい話と微笑ましさのある話が展開される。最終話では「楢山節考」にも通じるような、クローズな里の掟が生んだ悲劇と、信心が産んだ狂気が語られる。全編を通じて人の心の身勝手さが露わになるように作ってある。
第二話は長くて、ちと作り込みすぎかも、なんて思ったかな。第三話と第四話は読み応えがあった。
出てくる人々のキャラも良い。お旱さまと共に過ごす少年・染松(本名:平太)とお旱さま、第二話に出演し三島屋に雇われる「縁起物」のお勝。第三話の隠居夫婦、とりわけ妻の初音が賢くて情が深くて柔らかい性質が気持ち良い。最終話を語る偽坊主・行然坊と、おちかをちょっとときめかせる塾の先生で凄腕の侍・青野、そしてベイカーストリート・イレギュラーズをも想起させるやんちゃ小僧たち。
なんだか一気に周りのキャラが出て来たかんじでにぎにぎしい。まあ楽しいシリーズは周囲の人々が大事。初音さんまた出て来て欲しいな。
宮部みゆきは、上手すぎる。その文章は柔らかく艶やかで、洗練されている。ただ私には合わない気もいまだにしている。
でも、今回のお話たちには、アニメや集団催眠のような混乱が取り込んであり、なおかつ昔話の不思議さ、面妖さ、また矛盾や不明点をも含み込んでいるようでリキが入っている。その色はなかなか好ましかった。
先々も貸してもらってるのでゆっくり読んでいこうと思う。京極堂以来怪談といえばぶっとくなるのか620ページの文庫には少々骨が折れるな^_^
3月書評の3
太宰府天満宮から常宿に着いた時、見たこともない虹が出た。深くくっきりとした色、見事なアーチ。雨が止んだから虹出るかも、と思ったら前のお姉さんたちがスマホを構えていた。
フロントに荷物置いて、すみません、虹撮ってきます!と。係のおじさんびっくり笑。部屋に入って10分ほどで出てくるともう消えていた。
「ぜんぶ、すてれば」はいただいた本。友だちはありがたい。
◼️ 中野善壽「ぜんぶ、すてれば」
刺さるものもある、卓越の経営者、徹底した「すて」ぶり。
ビジネス書のこの類はあまり読まなかった。スポーツやピアノの天才性は好き。しかしビジネスの場合間口が広いし、だいたい成功した経営者さんのやることは凡人にはマネできないことが多そうだから。
ビジネスのことにも触れているが、「生き方」の側面が強い本になっている。見開きごとに大きな文字で見出しがあって、本文も余白を充分にとってあり長すぎずスッキリしている。
タイトルに沿って中身を要約すると、所有は安定を生まない。捨てるセンスをみがく。
捨てる以前に持たなくてもいい。家もクルマも時計も。
役立たないから思い出も捨てる。ひらめきのための余白をつくるため、予定も捨てる。
飲み会、人付き合いも捨てる、執着を捨てる。本も服も、スマホも捨てる。
著者は伊勢丹の子会社からキャリアをスタートさせ、鈴屋に転職、海外事業に深く関わり、鈴屋を辞めてシンガポールででも暮らしてみようかと行く途中、気が変わってトランジットの台湾に住むことにしたとか。
するといつの間にかビジネスの講師となり、生徒の務める百貨店などで要職をこなした後、寺田倉庫に入社、社長兼CEOとして、同社が拠点とする天王洲アイルエリアをアートの力で独特の雰囲気、文化を持つ街に変身させた、とのこと。財界や建築家隈研吾氏などの面々が仰ぎ見るすごい人のようだ。
ここまでさっぱりできたらすごいなあと感心する反面、やっぱり天才の行動はマネできない諦めのような羨望のような境地と、自分は今の生活が気に入っている、というアンビバレントな想いが交差する。生き方の書とはいえやはりビジネスマン、刺さる指摘もある。
「できたら褒める、できなかったら我慢する。こういう姿勢を貫かないと、人に任せることはいつまで経ってもできないと思います。すると、仕事を一人でたくさん抱えて、本当にやるべきことができなくなる。」
身に沁みます。
やはり会社の代表役員をしている著者の息子さんのコラムもあり、その父親評も興味深い。
「良い面で言うと、いつも原点に立ち返って優先すべき事項を見極められる。本来はたった一つのゴールを目指していたはずなのに、議論を重ねるうちにあれこれとオプションがくっ付いて事象が複雑化してしまう。ビジネスでよく起こりがちなそんな状況でも、父は迷わず「シンプル」に立ち戻って、本質以外を削ぎ落とすのが得意です。」
言葉でにしたら見事に理屈通り、でも社会での実際はあれもこれも考えなきゃいけない、と気がついたら重くなっていることはよくあること。改めて考えてしまった。
「ふるさとに縛られるのも、幻想でしかない」
日本人はなかなかふるさとを捨てきれない、それを前提とした小説も少なからずあるように思える。著者はこだわることにより得られるものもあるけれど、失っていることも大きいかもしれない、一度すべての「当たり前」を疑ってみることをおすすめします、と。
ここはまあ、過剰になっている、足かせになっていることはないか、自分を掘ってみよう、というちょっとした提示だと受け止めた。縁があり故郷から遠いところに根を下ろしている人もたくさんいる。あまり口には出さないけれど、揺れてしまう、心の中のやわらかい部分だろうと思う。そこをちくんと。
著者のもとにはこれまでもビジネス書の話が多く持ち込まれたが、実績をひけらかしたり目立つことを好まなかったため、全て断ってきたそうだ。この本は切り口が違ってタイトルも良く、広報さんがもう一押ししたところ、若い編集者が熱っぽく綴った文章に目を通し、OKを出したそう。
人たらしな、凄腕の、魅力的な経営者、という色が滲み出る。
◼️ 多和田葉子「雪の練習生」
読み進むほどに、読ませる。ホッキョクグマ3代、不思議な話。
多和田葉子さんは初読。先日のノーベル文学賞の事前記事で名前が挙がり、ドイツ在住で権威あるクライスト賞を受賞されているとテレビで観て興味を深めていた。さてさて。
サーカスの人気者だったメスのホッキョクグマの「わたし」。ふと書き始めた自伝が売れて著名人となり、国際会議にも出席するようになる。イデオロギーの匂いのする会の誘いでソ連から東ベルリンに行き執筆するが、やがて、より寒いカナダに亡命したいと思うようになる。
(第1部 「祖母の退化論」)
まず最初、ああこれはこういう物語なんだな、というのをつかむのに少し思考がいる。誰が書き手か分からないようにするフェイクもあったりする。「わたし」はものを書き、人間とも会話ができて会議に出る。飛行機や電車で移動する。最初に自伝を出版した編集長はオットセイだし。
2次大戦を含む時代的な風景、「わたし」の、人に近い言動や、ホッキョクグマとしてのものの感じ方、心情を示しながら、第2部「死の接吻」へ。
こちらは、「わたし」の娘トスカが主要な一頭。トスカはバレリーナを目指したが認められず東ドイツのサーカスが引き取った。語りはサーカスの猛獣使いの女性ウルズラ。ウルズラとトスカは心を通い合わせ、タンゴを踊り、ウルズラが舌先に出した角砂糖をあたかもキスするように顔を寄せてトスカが舌で取る、という芸が当たって海外公演までするようになる。
こちらも進む時代と不思議な前提がまぜこぜ。トスカを含む10頭ものクマをショーに出すのはクマをプレゼントしたソ連のご機嫌取り。クマたちは労働組合を結成し、サーカスの長に労働環境・条件改善の要求を突きつける。ウルズラの半生や動物と心を通じる能力や心模様が語られる。そして、途中で突然語り手が変わりびっくりする。語り手に関してひと工作するのがこの人の常套手段かな?と思ってしまう。
そして第3部はトスカの息子・クヌートの物語「北極を想う日」。クヌートは動物園で、地球温暖化のシンボル化していて人気者。もはやPCが普及しつつある世の中。ニュースは世界に届けられる。環境は最も、なんというか正常で、クヌートは、最終盤に出てくる幽霊チックなミヒャエル以外とは人間と話も出来ないし、社会活動もしない。しかしここまでのベースがあるからか、その訥々とした心情の露呈を読み込んでしまう。
この作品は野間文芸賞を受賞。解説によれば、多和田葉子の小説はいつも不思議だけれど、ひときわ不思議な作品だそうだ。ちなみに「犬婿入り」という作品でかつて芥川賞も受賞している。
著者はドイツ文学で博士号を持つベルリン在住の方。ソ連・ドイツの戦後から共産主義権崩壊へのダイナミックな変遷を滲ませつつ、日本をも作中トピックに入れ、主人公であるホッキョクグマは本能的に遠く北極を想う、総じて著者と読み手が激動の日々と人生を思い返し、平和な現代での自分の存在感を深めに掘ってみる、というふうにも読める。
時代と自らの歩み、には親近感が湧く。そこに主語を揺らしたり、動物と人間の世界を交差させたり、というテクニカルでファンタジックな味付けがある、てな感じかな。
サーカスの団員と結婚しているウルズラの独白に感じ入る。
「人間も怖い声で吠えることがある。単語の連なりにはなってはいても実際は吠える声が立ち上がってきて、聞く方も言語ではなく吠え声を聞いて、吠え返す。吠え合う仲になってしまった夫婦はもう会話を交わすことはなく、片方が吠えるともう一方が吠え返すというパターンができてしまう。」
読み応えのある一冊。多和田葉子さん、難しかったらどうしよう的敬遠をしていたが、ひときわ不思議らしいものから入ったので変な安心感がある。また読んでみよう。
フロントに荷物置いて、すみません、虹撮ってきます!と。係のおじさんびっくり笑。部屋に入って10分ほどで出てくるともう消えていた。
「ぜんぶ、すてれば」はいただいた本。友だちはありがたい。
◼️ 中野善壽「ぜんぶ、すてれば」
刺さるものもある、卓越の経営者、徹底した「すて」ぶり。
ビジネス書のこの類はあまり読まなかった。スポーツやピアノの天才性は好き。しかしビジネスの場合間口が広いし、だいたい成功した経営者さんのやることは凡人にはマネできないことが多そうだから。
ビジネスのことにも触れているが、「生き方」の側面が強い本になっている。見開きごとに大きな文字で見出しがあって、本文も余白を充分にとってあり長すぎずスッキリしている。
タイトルに沿って中身を要約すると、所有は安定を生まない。捨てるセンスをみがく。
捨てる以前に持たなくてもいい。家もクルマも時計も。
役立たないから思い出も捨てる。ひらめきのための余白をつくるため、予定も捨てる。
飲み会、人付き合いも捨てる、執着を捨てる。本も服も、スマホも捨てる。
著者は伊勢丹の子会社からキャリアをスタートさせ、鈴屋に転職、海外事業に深く関わり、鈴屋を辞めてシンガポールででも暮らしてみようかと行く途中、気が変わってトランジットの台湾に住むことにしたとか。
するといつの間にかビジネスの講師となり、生徒の務める百貨店などで要職をこなした後、寺田倉庫に入社、社長兼CEOとして、同社が拠点とする天王洲アイルエリアをアートの力で独特の雰囲気、文化を持つ街に変身させた、とのこと。財界や建築家隈研吾氏などの面々が仰ぎ見るすごい人のようだ。
ここまでさっぱりできたらすごいなあと感心する反面、やっぱり天才の行動はマネできない諦めのような羨望のような境地と、自分は今の生活が気に入っている、というアンビバレントな想いが交差する。生き方の書とはいえやはりビジネスマン、刺さる指摘もある。
「できたら褒める、できなかったら我慢する。こういう姿勢を貫かないと、人に任せることはいつまで経ってもできないと思います。すると、仕事を一人でたくさん抱えて、本当にやるべきことができなくなる。」
身に沁みます。
やはり会社の代表役員をしている著者の息子さんのコラムもあり、その父親評も興味深い。
「良い面で言うと、いつも原点に立ち返って優先すべき事項を見極められる。本来はたった一つのゴールを目指していたはずなのに、議論を重ねるうちにあれこれとオプションがくっ付いて事象が複雑化してしまう。ビジネスでよく起こりがちなそんな状況でも、父は迷わず「シンプル」に立ち戻って、本質以外を削ぎ落とすのが得意です。」
言葉でにしたら見事に理屈通り、でも社会での実際はあれもこれも考えなきゃいけない、と気がついたら重くなっていることはよくあること。改めて考えてしまった。
「ふるさとに縛られるのも、幻想でしかない」
日本人はなかなかふるさとを捨てきれない、それを前提とした小説も少なからずあるように思える。著者はこだわることにより得られるものもあるけれど、失っていることも大きいかもしれない、一度すべての「当たり前」を疑ってみることをおすすめします、と。
ここはまあ、過剰になっている、足かせになっていることはないか、自分を掘ってみよう、というちょっとした提示だと受け止めた。縁があり故郷から遠いところに根を下ろしている人もたくさんいる。あまり口には出さないけれど、揺れてしまう、心の中のやわらかい部分だろうと思う。そこをちくんと。
著者のもとにはこれまでもビジネス書の話が多く持ち込まれたが、実績をひけらかしたり目立つことを好まなかったため、全て断ってきたそうだ。この本は切り口が違ってタイトルも良く、広報さんがもう一押ししたところ、若い編集者が熱っぽく綴った文章に目を通し、OKを出したそう。
人たらしな、凄腕の、魅力的な経営者、という色が滲み出る。
◼️ 多和田葉子「雪の練習生」
読み進むほどに、読ませる。ホッキョクグマ3代、不思議な話。
多和田葉子さんは初読。先日のノーベル文学賞の事前記事で名前が挙がり、ドイツ在住で権威あるクライスト賞を受賞されているとテレビで観て興味を深めていた。さてさて。
サーカスの人気者だったメスのホッキョクグマの「わたし」。ふと書き始めた自伝が売れて著名人となり、国際会議にも出席するようになる。イデオロギーの匂いのする会の誘いでソ連から東ベルリンに行き執筆するが、やがて、より寒いカナダに亡命したいと思うようになる。
(第1部 「祖母の退化論」)
まず最初、ああこれはこういう物語なんだな、というのをつかむのに少し思考がいる。誰が書き手か分からないようにするフェイクもあったりする。「わたし」はものを書き、人間とも会話ができて会議に出る。飛行機や電車で移動する。最初に自伝を出版した編集長はオットセイだし。
2次大戦を含む時代的な風景、「わたし」の、人に近い言動や、ホッキョクグマとしてのものの感じ方、心情を示しながら、第2部「死の接吻」へ。
こちらは、「わたし」の娘トスカが主要な一頭。トスカはバレリーナを目指したが認められず東ドイツのサーカスが引き取った。語りはサーカスの猛獣使いの女性ウルズラ。ウルズラとトスカは心を通い合わせ、タンゴを踊り、ウルズラが舌先に出した角砂糖をあたかもキスするように顔を寄せてトスカが舌で取る、という芸が当たって海外公演までするようになる。
こちらも進む時代と不思議な前提がまぜこぜ。トスカを含む10頭ものクマをショーに出すのはクマをプレゼントしたソ連のご機嫌取り。クマたちは労働組合を結成し、サーカスの長に労働環境・条件改善の要求を突きつける。ウルズラの半生や動物と心を通じる能力や心模様が語られる。そして、途中で突然語り手が変わりびっくりする。語り手に関してひと工作するのがこの人の常套手段かな?と思ってしまう。
そして第3部はトスカの息子・クヌートの物語「北極を想う日」。クヌートは動物園で、地球温暖化のシンボル化していて人気者。もはやPCが普及しつつある世の中。ニュースは世界に届けられる。環境は最も、なんというか正常で、クヌートは、最終盤に出てくる幽霊チックなミヒャエル以外とは人間と話も出来ないし、社会活動もしない。しかしここまでのベースがあるからか、その訥々とした心情の露呈を読み込んでしまう。
この作品は野間文芸賞を受賞。解説によれば、多和田葉子の小説はいつも不思議だけれど、ひときわ不思議な作品だそうだ。ちなみに「犬婿入り」という作品でかつて芥川賞も受賞している。
著者はドイツ文学で博士号を持つベルリン在住の方。ソ連・ドイツの戦後から共産主義権崩壊へのダイナミックな変遷を滲ませつつ、日本をも作中トピックに入れ、主人公であるホッキョクグマは本能的に遠く北極を想う、総じて著者と読み手が激動の日々と人生を思い返し、平和な現代での自分の存在感を深めに掘ってみる、というふうにも読める。
時代と自らの歩み、には親近感が湧く。そこに主語を揺らしたり、動物と人間の世界を交差させたり、というテクニカルでファンタジックな味付けがある、てな感じかな。
サーカスの団員と結婚しているウルズラの独白に感じ入る。
「人間も怖い声で吠えることがある。単語の連なりにはなってはいても実際は吠える声が立ち上がってきて、聞く方も言語ではなく吠え声を聞いて、吠え返す。吠え合う仲になってしまった夫婦はもう会話を交わすことはなく、片方が吠えるともう一方が吠え返すというパターンができてしまう。」
読み応えのある一冊。多和田葉子さん、難しかったらどうしよう的敬遠をしていたが、ひときわ不思議らしいものから入ったので変な安心感がある。また読んでみよう。
3月書評の2
だいぶ長い間さぼってしまった。
3月、法事で福岡に帰った。博多駅から在来線に乗る時、鹿児島本線の待ちは25分。西鉄二日市から太宰府線の待ち時間も30分近く。福岡は電車少ない、都会なのに、と思う。
金曜日の太宰府天満宮は人出が少ない。梅ヶ枝餅は参道の店で梅昆布茶。やっぱいいね。最高。
◼️ 春江一也「ウィーンの冬」上下
外交官・堀江亮介シリーズ完結編。壮大特盛り。一気読み必定。
何年前のことか、さる社会的地位のある女性の方とお仕事した時にふと本の話題になり、春江一也のデビュー作「プラハの春」が面白かった、と聞いてすぐ読んだ。その後しばらくして続編でベルリンの壁崩壊を描いた「ベルリンの秋」を通読、ようやく本作で完結した。
チェコスロバキア、西ドイツ、ジンバブエなどの在外公館に勤務し、東欧の専門家と目されていた堀江亮介は外務省を退職して外郭団体へ出向するよう斡旋され受け入れる。裏があることを匂わされていた堀江のもとに、ウィーン行きの片道チケットが届いた。
国際的にマークされている武器商人のロシア人と日本のカルト宗教幹部が連れ立ってフランクフルト国際空港に現れ、ウィーンにはその宗教団体の支部が設置されて急速に信者を増やし、北朝鮮の工作員や日本人の出入りが確認されていた。ウィーンで諜報捜査班に組み入れられた亮介は特別の身分と武器を与えられ、情報収集にあたる。時折しも湾岸戦争が勃発しようとしていたー。
ドイツとオーストリアの防諜機関にCIA、イギリス情報部も登場、湾岸戦争、ビンラディンに北朝鮮、オウム真理教に擬した宗教が複雑に絡み合い、核爆弾争奪戦を繰り広げる壮大な物語である。大盛りだ。
著者はプラハの春と呼ばれる民主化運動で日本にソ連軍侵攻の第一報を打電した外交官だった。
その小説の特徴は外交官の経験からしか知り得ず説得力と臨場感あふれる描写である。今回も外務省の体質を含めてふんだんに取り入れられている。日本の防諜、警備の甘さへの痛烈なアイロニーをも含ませている。
亮介は「プラハの春」では東ドイツ人のカテリーナと熱烈に愛し合う。また「ベルリンの秋」ではカテリーナの娘で美しく成長したシルビアとも恋人関係となる。この2つの作品は歴史的事件、当事者たちに課される厳しい制約の中、愛欲をも描くラブ・ロマンスの性格も強い。
今回も亮介はドイツに恋人シルビアを残し帰国しているが、前2作に比べてラブロマンはない。タイトルの冬、は亮介の人生が冬に差し掛かったということと思われるが、わずかにのぞくエロな描写はなかなか煽情的でもある。
オペラを鑑賞したり、美術館に行ったりウィーン市街の風情と地理関係を織り込み、工作員との暗闘、元タカラジェンヌ監禁、核爆弾を巡るダイナミックな動きに次は次はとページをめくってしまった。ところどころ著者の外交官、防諜要員としての心象、また人生観が醸し出されるのもいいアクセント。
都合の良さも多少気になり、ミステリーではないのだけれど、ラストの方は釈然としないものも感じたし、エピローグにもっと幅があってもとは思った。ラブロマンも欲しかったかも。
堀江亮介は別の作品「カリナン」にも少しだけ出演する。これで完結。私的にも長い期間に及んだ3部作の読了には感慨もある。シリーズ最終作のエンドのあっけなさは、私の心の寂寞感でもある。
寡作の著者はすでに故人で、新作はない。「上海クライシス」は読んだかどうか忘れてしまった。いつか「プラハの春」を再読しよう。
◼️ 内田康夫「イーハトーブの幽霊」
宮沢賢治に触れたくワイド劇場のヒーロー・浅見光彦を読んでみた。
本屋でタイトルを目にした瞬間、宮沢賢治いいね!と買ってきた。見立て殺人でないはずがないよね、と思ったし、辰巳琢郎の浅見光彦はイメージ良かったし。花巻の、賢治の作品に出てくる場所のことも知りたい。1995年の作品が2018年に新装版で出たものらしい。
花巻祭りの取材に出向いた浅見光彦は、地元の人々が山車を作るテントを訪ねる。そのテントにいた主婦・侑城子の夫、40代のブティック経営者の郡池の遺体が、宮沢賢治にゆかりのある「イギリス海岸」で見つかる。さらに3日後、郡池の小中学校の同窓生で特定郵便局長の代田が毒殺され、「さいかち淵」で見つかった。浅見は調査に乗り出していく。次は銀河鉄道なのかー。
祭り、地域の特徴、方言、人間関係、どんでん返し。そしてなんと言っても宮沢賢治。おまけに浅見につくガチガチの刑事や、おなじみ刑事局長の弟と捜査本部長が知った時の分かりやすい軟化など、クスッとくるようなコミカルさもある。ワイド劇場的でやっぱり面白い。
仕掛けは万端。90年代のサスペンスものの匂いというか、浅見の行動や物言いは強引にも思える。どこかしらポワロっぽい、裏付けなしの推論の印象を受けるが、最後まで宮沢賢治で上手くまとめてある。
もと担当編集者さんによる故・内田康夫氏の取材から内田流サスペンスが出来上がるまでの話も興味深い。警察の近くをうろうろしていて、警官に声をかけられたらしめたもの、面白い話が聞けます、というのがなかなかウケた。それは作品に活かされているのがよく分かる。
やっぱり浅見光彦は続き物ワイドドラマとして楽しい。ネタに興味がある「戸隠伝説殺人事件」や「飛鳥の皇子」「平城山を越えた女」なんかも読んでみようかな。
3月、法事で福岡に帰った。博多駅から在来線に乗る時、鹿児島本線の待ちは25分。西鉄二日市から太宰府線の待ち時間も30分近く。福岡は電車少ない、都会なのに、と思う。
金曜日の太宰府天満宮は人出が少ない。梅ヶ枝餅は参道の店で梅昆布茶。やっぱいいね。最高。
◼️ 春江一也「ウィーンの冬」上下
外交官・堀江亮介シリーズ完結編。壮大特盛り。一気読み必定。
何年前のことか、さる社会的地位のある女性の方とお仕事した時にふと本の話題になり、春江一也のデビュー作「プラハの春」が面白かった、と聞いてすぐ読んだ。その後しばらくして続編でベルリンの壁崩壊を描いた「ベルリンの秋」を通読、ようやく本作で完結した。
チェコスロバキア、西ドイツ、ジンバブエなどの在外公館に勤務し、東欧の専門家と目されていた堀江亮介は外務省を退職して外郭団体へ出向するよう斡旋され受け入れる。裏があることを匂わされていた堀江のもとに、ウィーン行きの片道チケットが届いた。
国際的にマークされている武器商人のロシア人と日本のカルト宗教幹部が連れ立ってフランクフルト国際空港に現れ、ウィーンにはその宗教団体の支部が設置されて急速に信者を増やし、北朝鮮の工作員や日本人の出入りが確認されていた。ウィーンで諜報捜査班に組み入れられた亮介は特別の身分と武器を与えられ、情報収集にあたる。時折しも湾岸戦争が勃発しようとしていたー。
ドイツとオーストリアの防諜機関にCIA、イギリス情報部も登場、湾岸戦争、ビンラディンに北朝鮮、オウム真理教に擬した宗教が複雑に絡み合い、核爆弾争奪戦を繰り広げる壮大な物語である。大盛りだ。
著者はプラハの春と呼ばれる民主化運動で日本にソ連軍侵攻の第一報を打電した外交官だった。
その小説の特徴は外交官の経験からしか知り得ず説得力と臨場感あふれる描写である。今回も外務省の体質を含めてふんだんに取り入れられている。日本の防諜、警備の甘さへの痛烈なアイロニーをも含ませている。
亮介は「プラハの春」では東ドイツ人のカテリーナと熱烈に愛し合う。また「ベルリンの秋」ではカテリーナの娘で美しく成長したシルビアとも恋人関係となる。この2つの作品は歴史的事件、当事者たちに課される厳しい制約の中、愛欲をも描くラブ・ロマンスの性格も強い。
今回も亮介はドイツに恋人シルビアを残し帰国しているが、前2作に比べてラブロマンはない。タイトルの冬、は亮介の人生が冬に差し掛かったということと思われるが、わずかにのぞくエロな描写はなかなか煽情的でもある。
オペラを鑑賞したり、美術館に行ったりウィーン市街の風情と地理関係を織り込み、工作員との暗闘、元タカラジェンヌ監禁、核爆弾を巡るダイナミックな動きに次は次はとページをめくってしまった。ところどころ著者の外交官、防諜要員としての心象、また人生観が醸し出されるのもいいアクセント。
都合の良さも多少気になり、ミステリーではないのだけれど、ラストの方は釈然としないものも感じたし、エピローグにもっと幅があってもとは思った。ラブロマンも欲しかったかも。
堀江亮介は別の作品「カリナン」にも少しだけ出演する。これで完結。私的にも長い期間に及んだ3部作の読了には感慨もある。シリーズ最終作のエンドのあっけなさは、私の心の寂寞感でもある。
寡作の著者はすでに故人で、新作はない。「上海クライシス」は読んだかどうか忘れてしまった。いつか「プラハの春」を再読しよう。
◼️ 内田康夫「イーハトーブの幽霊」
宮沢賢治に触れたくワイド劇場のヒーロー・浅見光彦を読んでみた。
本屋でタイトルを目にした瞬間、宮沢賢治いいね!と買ってきた。見立て殺人でないはずがないよね、と思ったし、辰巳琢郎の浅見光彦はイメージ良かったし。花巻の、賢治の作品に出てくる場所のことも知りたい。1995年の作品が2018年に新装版で出たものらしい。
花巻祭りの取材に出向いた浅見光彦は、地元の人々が山車を作るテントを訪ねる。そのテントにいた主婦・侑城子の夫、40代のブティック経営者の郡池の遺体が、宮沢賢治にゆかりのある「イギリス海岸」で見つかる。さらに3日後、郡池の小中学校の同窓生で特定郵便局長の代田が毒殺され、「さいかち淵」で見つかった。浅見は調査に乗り出していく。次は銀河鉄道なのかー。
祭り、地域の特徴、方言、人間関係、どんでん返し。そしてなんと言っても宮沢賢治。おまけに浅見につくガチガチの刑事や、おなじみ刑事局長の弟と捜査本部長が知った時の分かりやすい軟化など、クスッとくるようなコミカルさもある。ワイド劇場的でやっぱり面白い。
仕掛けは万端。90年代のサスペンスものの匂いというか、浅見の行動や物言いは強引にも思える。どこかしらポワロっぽい、裏付けなしの推論の印象を受けるが、最後まで宮沢賢治で上手くまとめてある。
もと担当編集者さんによる故・内田康夫氏の取材から内田流サスペンスが出来上がるまでの話も興味深い。警察の近くをうろうろしていて、警官に声をかけられたらしめたもの、面白い話が聞けます、というのがなかなかウケた。それは作品に活かされているのがよく分かる。
やっぱり浅見光彦は続き物ワイドドラマとして楽しい。ネタに興味がある「戸隠伝説殺人事件」や「飛鳥の皇子」「平城山を越えた女」なんかも読んでみようかな。
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