2025年6月16日月曜日

6月書評の6

◼️ 古川順弘「僧侶はなぜ仏像を破壊したのか」

廃仏毀釈、というものにはかねて興味を持っていた。熱に浮かされたような大騒動。

貴重な仏像、仏具が棄却され、寺院が廃されたという明治維新期の動乱の1つ、廃仏毀釈。なぜそんなことが起きたのか知りたかった。そして、現実の事象は読む前に予想していたより酷かった。

1867年の王政復古の際、明治天皇は神武天皇の時代に行われていたとされる政体に回帰することを宣した。これは祭祀と政治が融合した体制のこと。

これに伴い1868年、混乱の大元である神仏混淆禁止令、といったものが出される。目的は、明治政府が国家神道をして政治の基本としようとし、神社の仏教色を排除することだった。

読んで驚いたが、名の知れた神社でも神仏習合が普通の状態だったという。神道でいう神は如来にまでは達していない存在だと捉え、仏教が神道の上に来て教導する、という時代が長く続いた。権現とは神が仏の化身として現れたもの、という意味だそうだ。別当寺、神宮寺、宮寺など神社に寄り添う形である寺院がそういった存在で、出雲大社にも伊勢神宮にも神宮寺はあった。神社の中には牛頭天王や八幡大菩薩などを祭神とするところも多かった。

この事態に活気づいたのはこれまで寺の僧の下に置かれていた神職や、国家神道の研究者たちであり、政府の役人としてさまざまな施策、時に弾圧ともとれるような、を行った。

おふれが出たため神社に入っている仏具、仏典、仏像などはすべて撤去された。焼却、破却、売却。中には古い由来の、いまなら国宝級のものも多くあった。御神体を鏡にせよ、祀るのを記紀に記されている神にせよ、神社に勤めている僧はすべて還俗せよ、だけでなく、役人の判断で廃寺とされたところも多い。

この影響は甚大で、国学が広まった薩摩藩では寺や僧侶を不要と見る向きが藩論となり、維新前1066箇所あった寺院が維新後はなんとゼロになっている。3000人近くいた僧侶もことごとく還俗させられた。

日本最古の神社とされる奈良の大神神社、中世には隠然とした大きな勢力だった興福寺、京都では観光地として人気の伏見稲荷、八坂神社、北野天満宮、岩清水八幡宮、鎌倉の鶴岡八幡宮、日光東照宮ほかもろもろでも大きな動きがあった。東大寺、法隆寺、薬師寺は被害が小さかったがそれでも何らかの影響を被っている。これら皇室にもゆかりのある寺や、財力を有していた京都の東西本願寺は各寺の擁護に回り、ある程度の発言力はあったようだ。

私の故郷太宰府天満宮、という名前は1947年からのことで、維新前は、安楽寺が取り仕切る宮寺で安楽寺天満宮などと呼ばれ、御神体は菅原道真直筆の法華経。廃仏毀釈の嵐の中で元僧侶の天満宮司が自ら焼き捨てた。安楽寺は廃寺となっている。

この本ではあくまで神仏分離が法令であって明治政府は廃仏毀釈まで命じていないとしている。しかし読むにつけ、結局のところ政府が廃仏毀釈を推進したのと同じだな、という感想だ。

冷静に受け止めたいとは思うが、自分の中でちょっと錯綜した部分はある。ご一新の世情、徳川幕府は倒れ、武士が突然いなくなり、何が起きてもおかしくない雰囲気だった。そもそも対外危機から自身の国体に向き合った日本人は支配層の武士自ら長年自分たちに従っていた朝廷を戴く尊王を言い出したという流れがある。諸外国にも王を中心とする歴史を持った国が多かった。

これまで権力を持ち、上位にあった仏教界の後ろ盾はなくなった。敵対勢力もあり、過剰にムードが盛り上がった、というのも要因の1つだろう。偉そうな立場だったものが一気に叩かれるのは歴史に類例が見られる。

手塚治虫の「火の鳥」で仏教は外来の宗教、という見方を知り、かつて物部氏と蘇我氏系で大戦争があった歴史に刺激を受けた。1000年以上の時を経て、仏教は外国の宗教、という考えが復興し奔流となったことには感じるものがある。そもそも論というのは激流を生むのではと思える。

とはいえ、仏教と神道が結びついていったのもまた歴史であり、民衆にしてみれば信仰として根付いていたものも多いはずなのだが・・と自然とそうなったものにそもそも論を持ち込むことの罪もまたあるとは思う。

廃仏毀釈の大きな動きは10年ほどであって、廃寺の処分を受けた寺も、寺号の復活を許されたりしている。まさに熱は去るのも早かったということか。何だったのか、という気にもなる。

うーん、考えさせる本ではあった。

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