11月19日金、準皆既月食。時間が早かったから帰りバス待ちにきれいに見えた。
◼️ポール・オースター
「最後の物たちの国で」
むむむ・・困った。
名作だという評価が多く、興味津々で読んだ。読了したいま、正直ちょっと迷っている。どう書評を書こうかと。
私は通常、先入観を持たないように自分が書き上げるまで他の書評は読まない。しかし、今回は珍しく、いつもの書評サイトで上がっているものを読んだ。
アンナ・ブルームという女性の手紙という形で物語は進んでいく。アンナは兄ウィリアムが消息を絶った国へと乗り込む。しかし多くの者が住む家もなく、食糧も少ない弱肉強食の世界だった。強奪、奪い合い、詐欺は当たり前。盗みや殺人でさえも野放しの社会。
アンナはこの国での出逢いによりアパートや図書館、静養所などに住み、日々を生き抜いていく。
あー、オースターは「シティ・オブ・グラス」「幽霊たち」「ムーン・パレス」しか読んでいなくて、この設定には少なからずびっくりした。架空の世界であればこれまではもう少しコミカル風味があったような気もするし、常識は圧倒的に機能していた。実在の地名も出てたし。
この茫洋とした舞台、前提は世界史の設定を変えてしまうフィリップ・K・ディックやマイケル・シェイボンなどを連想させたし、カズオ・イシグロ「忘れられた巨人」「わたしを離さないで」などを思い起こさせる。ディック以外はオースターがだいぶ先出ではあるけれど。
さらにちょっと村上春樹「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」の挿話っぽくもある。
二十世紀のどこかで実際に起きたor起きている出来事を小説の下敷きにしているとか。ここではサッカーの名将アーセン・ベンゲルが日本人とヨーロッパ人の違いについて述べていた、ヨーロッパではみな自分の利益のために動き、「自分のためなら、人の頭さえ踏んづけて歩く」と書いていたことを思い出した。
うーん、記憶というものを問うたり、出口のない絶望的な世界観はむしろ好きだし、そういう極限世界での言葉の重みが増す部分もいい具合に感性の弦をひっかく気がする。
この作品が著者の中でも一番好き、というファン方も多いようだ。なんか最後まで、これまでの作品とは違う設定に違和感をずっと引きずってしっくりこないうちに終わったという感じだった。
◼️ 氏原英明「甲子園という病」
改善のスピード化は必要だ。も少しまとめるべき。
甲子園、地方大会での投手の球数過多については、長年続いてきたことで、そんなものだろうという受け止め方があったと思う。故障をしない選手も多くいて、たくさんの有名プロ選手がいて、日本を代表するプレーヤーも輩出している。甲子園に出場すると監督は名士、選手はスター。勝たなければならない。観ている方も期待値ばかりが大きい。
だからアメリカ人にこんな球数は児童虐待だ、と言われても、暑い時期に過密日程すぎると言われても、ファンも含めて違和感を抱くことになると思う。
取り上げられている盛岡大付の松本裕樹投手(現ソフトバンク)の試合は私も観ていて審判か本部か、誰か大人が止めてやらないのかと思っていた。またタイブレークについても球数制限に関しても、議論のスピード、実際の対策ともに納得し難く思っている。
本に関して言えば、まとまりが悪いかなと。新しい取り組みや問題意識を取材のもと掲載していて、それぞれうなずけるケースや意見ばかり。しかしなにをテーマに直言したいのか、言いたいらしいことが散発的で特に後半は捉えにくい。論理的、科学的に正直にいうと取材者としての忖度もほの見えるような気もする。
というのは、やはり取材者ならなおさら、甲子園での高校野球大会が大好きだから、今後も取材したいから、というのも一因。さらにふだんの部活動の考え方そのものから考えると、レアな事例紹介にしかならないからだろう。さらに言えば、ちょっとしたひと言をも大きなネタにしようとしていて、真意も深掘りも直接していないことはよろしくないなと思ってしまう。結果として分厚くないように感じられてしまう。
一時期、夏の大会の季節を変える、夏のままで会場を北海道あたりに変える、という意見が在野から出た。私的には季節や日程やルールを変えるのはむしろ賛成。だってスポーツのゲームだもの。でも、その私も、開催地はやっぱり変えてほしくない。偏った考え方かもしれないが、キングオブ聖地の甲子園はそのままであって欲しいと思っている。人によりその感覚は違う。
タイブレーク議論の時も、おそらく球数制限も、長年見て感動してきた高校野球の形を変えてしまうのは嫌だ、ということに根ざす感情的な理由が先行した気がしている。
好きな高校野球を健全に批判して、さまざまな意見を幹のはっきりした読み物にしていくのはたぶん難しいことだと思う。また私も愛読しているがマンガ「ダイヤのA」ではこの本で批判的に扱われている長時間練習や食トレが人気キャラのもと描かれている。悪いとは思いたくない気になってしまう。
はからずも元阪神のマット・マートンは日本人はなにか1つに没頭する性質が強い、1日8時間も練習している。大事な若い時期にもっとやることがあるでしょう、と話している。ここまで来ると国民的文化の問題である。野球だけでなく、何らかのスポーツ強豪校、個人競技のエリート選手には似たような環境があるのではないだろうか。
日程もそう。サッカー、バスケ、バレー。私が知っているだけで過密日程の大会は多い。ただし大会の機会じたいは減らしてあげたくない。国体以外の全国大会が2つに県大会もしくはブロック大会までの大会が1つ、3回くらいは本番の試合の機会も用意してあげたい。トーナメントやリーグ戦をどう考えるか。
盛岡大付の監督さんは松本の時のあやまちを率直に認めて深く反省し、チーム作りを変えている。少しずつでも高校野球がいい方向に改善していくことを私も望んでいる。高校野球の存在感は大きいだけに、議論し出したら面倒な問題だ。
私的には、根拠をはっきりさせること。感情的ではないかと検討すること。あまり現場の意見を聞きすぎないでもいいのではと思う。はっきり言って高校野球の名監督や長年のファンは変えたくない。しかしいずれ実効的な球数制限はしなければならない。ではさっさとやった方が利口だろう。日程は、少しずつ緩くなっている。ここにプラスの形で複数投手制が根付けばと思う。球数制限をすると良い投手の数を揃えにくい公立に不利、という議論はもう無視していいだろう。あくまでもファンの声であり、対策が前に進まない。意見だけで根拠あるのかと思うし、そもそも私学の方が有利なんだし。
もちろんスポーツに秀でている子どもには思い切りやらせてあげる環境も必要だ。しかしやはりやり過ぎも感じられる。スポーツ界全体にある、長すぎる練習の禁止、まで持っていけるか?
高校野球を論じ出すと、ポイントが多くて定まらない。その典型のような本でした。
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