東映太秦映画村。だいぶ前に行った。
きょうちょうど「ロストワールド ジュラシックパーク2」を観ている。
台風14号がこちらへ向かって接近中。990ヘクトパスカル、中心付近の最大風速は25m、瞬間最大35m。このままいけば、大阪の下、和歌山県を横切る。勢力小さいとはいえ台風がまともに大阪湾。どうなることやら。
◼️ アーサー・コナン・ドイル「失われた世界」
地球上の隠された恐竜世界を描く物語の嚆矢とか。ドイルの影響は広く深い。単純に、おもしろい!
シャーロック・ホームズシリーズを生み出したコナン・ドイルはまた、他分野の小説でも開拓者だった。外界と隔絶されたため絶滅したはずの恐竜たちがいまだ暮らす秘境がある、というモチーフの今作が1912年に発表されると、次々と類似的な作品が書かれたという。
たまたまきょう、テレビで「ロスト・ワールド-ジュラシック・パーク2」がオンエアされる。この類の作品たちのもとになったのがドイルの今作かと思うとちょっとした感慨が。
南アメリカ・アマゾン川流域の地で翼竜を見たと主張するチャレンジャー教授は、背は低いが牡牛のように逞しく、黒髪は長く、横柄な目つきをし、また尊大で、暴力もふるう人物だった。彼の論は大きな反響と反発を招く。
動物学会館で行われた講演会ではチャレンジャーの主張を証明するための探検隊を募ることになり、批判派急先鋒のサマリー教授、探検の経験豊富で武器にも詳しいジョン・ロクストン卿、若い新聞記者のマローンが名乗りを上げたー。
一行を送り出したチャレンジャーはブラジルのパラで合流する。
大体ここまで記せば、この後の冒険に何が待っているかは想像できると思う。語り手はマローン。ワクワクするし、ゾクゾクするし、ロマンを味わえますよ。
しかしドイルの発想の豊かさと物語の織り込み方には感嘆してしまう。科学ものはジュール・ヴェルヌやH・G・ウェルズが先行していたとはいえ、誰もが憧れるような世界の、単純に面白い話を独創できるのだから。スゴイねえ。
シャーロッキアン的には、頻度の高い、風景を説明する文章、大仰な仕掛けと現地人の描き方にワトスンの筆との類似点を見るのがちょっと楽しかったかな。
プレシオサウルス登場の描写、そして翼竜がロンドンの空へ逃げるシーンなどは実に心に響く。
実はホームズもの以外のドイル作品はほとんど読んでなくて、これもいまさらの初読み。先に読んだパロディ「シャーロック・ホームズの宇宙戦争」にチャレンジャー教授が出演しているのを見て興味を持った。
とてもおもしろいですよ。
◼️ 石川九楊「書くー言葉・文字・書」
書は触覚の芸術。
ザバッ!と音がしそうなくらいの言い切りの批判、ズバーンという物言い。最初は正直笑ってしまったのだが、後半は面白くて熱中してしまった。やはり書道はおもしろいと思う。いまだ心の中にもう少し字が上手くなりたいな・・という気持ちもあるし。
本書で言いたいことの中心は見出しの通りで、触覚とは何か、ということを書き方から名書のお手本まで引いて解説してゆく。
2009年の出版。のっけから、世は書道ブームだけれども、マンガやテレビで取り上げられる書家、書道家の実態はあまりにもお粗末で、新聞でも彼らの恥ずかしいような字をタイトルに使っている、と強烈。
さらには、
「文学の価値は、個別の作品の良し悪しもあるだろうが、筋書きではなくて、文体にあると言うべきではないだろうか。村上春樹の小説を好きな人は、その文体が好きなのだ。」
「文学の価値は筋書きではない。恋愛小説の筋書きなど、どれも同じだと言っても過言ではないだろう。その文がどのような文体で書かれ、どんな文体で支えられているかに心打たれたり、嫌悪したりするのだ。」
読書家のみなさん苦笑なさるんじゃないかと。
続きで、そしてその文学のスタイル、文体を裏側で支えているのが書字のスタイルであり、これを書体と呼ぶ、と。なるほど、これに誘導したかったのですね^_^
まあまあ、最初は書は触覚だ、と言われてもサッパリ分からなかったのが、だんだんと興味ある内容になっていく。篆書体、隷書体、草書体、行書体に楷書体。
秦のころ?黎明期の篆書、隷書は漢時代で横に長い。これが、東アジア漢字文明圏へ広がっていく。そして隋・唐の時代に、かっちりとした楷書体が一つのスタイルとして確立される。流麗な王羲之、力強い顔真卿の書が支持される。
そして宋代の黄庭堅は、漢字の一部を小さくしたり、「三」の最後の横画を長く波打たせて書いたりと、より奔放にかつバランスを取るような書き方をした。清代の金農の書は、まるでデザインである。無限微動法というそうな。おもしろい、面白い。河東碧梧桐もなかなか
「字は筆触の集合体、すなわち力、力動なのである。力をぐっと入れて、すっと抜きながら筆画を書く。意識を持って書くべき部分と、書字の流れのなか、次へ移っていく過程で力を加える意識なくして結果的にできる部位がある。その区別をせずに、ずっと同じ力を加え続けるのでは、筆画や文字をうまく書けるはずがない。書は線の芸術ではなく、筆触と呼ぶ力と触覚の芸術なのである。」
基本的な文字を見ながら読むと、少しずつ飲み込めてくる、ような。基本は「トン・スー・トン」の三折法。ぐっと入って力を抜いて、止めでまた力を入れる。確かに一の中ほどは線が細くなっている。もちろん全部が全部そうではないし、はねやはらい他ほかもあって、解説を読んで名書の画像を見ると、やはり理解が深まる心地がする。
書には特に詳しいわけでもない、自分で筆を持つわけでもない。小学生のとき書道教室に2年間通い、毛筆と硬筆を習ったけれども字はヘタだ。教室は地元に出来た少年野球クラブの練習日と重なったからやめてしまった。でも書道というのはなぜか心の奥で確固として、でんと自分の中で座っている。中高とバスケ。一方で必修クラブは書道部を選び、「書は私の心の鏡です。」と言った先輩に憧れ、文化祭に出展してやんちゃな女バスの先輩方にからかわれた。高校でも芸術は書道にした。
興味はそこはかとなく続いていて、正倉院展ほかで当時の筆書を見ると、素朴できれいな文字に、悠久の時間の流れの向こう側を覗いたような気がして、感銘を受けることもしばしば。人気が高いという良寛の書の良さを堪能したいがまだ入り込めなかったりする。
折に触れ書道の本を読んだり、書道の展示会を見たり、楽しみのひとつだね。自分の中の書道、どこかでまた書く気になるだろか。微笑。
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