◼️町田康「ゴランノスポン」
これがまちだこうか、と。底意は安部公房風にして口頭ギャグのような味付けで、文学的な香りもする。
初町田康である。なんとなくしみじみとした作風をイメージしていたが、まあ、まったく違った笑。
マシンガンのような言葉の羅列が基本で、しかも、単語がむつかしい。
吶喊、蹌踉とした、金剛不壊、手妻使い、蟠る、推挽、狎る・・漢字と言い回し、古典語に文豪のあて漢字となかなか手練れだなと。
30〜50ページくらいの短編が収録されている。
「楠木正成」
巻末の中村文則の解説によれば「町田さんの読者なら楠木正成はお馴染みの存在」らしい。へえ。楠木正成に憧れる男が、どういう人物だったのか、柔らかくかつイメージ早口に説明していく。最後はその空想に自ら飛び込み、楠木正成と軽めにまみえる。
この時点で、なんか成り行きは分かるが??てな感じだった。
「ゴランノスポン」
いつもポジティブな仲間たち。不自然さを最初から含み持つ。ある時1人が自殺する。葬儀で亡くなった者が作った下手な曲を延々と聞かされ、火葬場までのあまりに遠い道のりと開かずの踏切、ポジティブな仲間たちはついに・・
アイロニーとユーモアの作品。ふむうむ。タイトルは、おそらくテレビの、この番組は、ご覧のスポンサーの提供でお送りします、の一部だと推測されるとのこと。途中でブチっと切った印象を残している。
「一般の魔力」
薄田併義は、自分中心に物事を考え行動する男。隣の家の雑草が自分の家の敷地に伸びてきているのをきらっふりかけた除草剤で隣の猫が死んでしまう。薄田は妻の葵子とともに、隠密裡に埋めに出かける。
なんか周囲にいそうな、自分も客観的に見るとうっかりそうでありそうな間が悪くて意地の悪い、ちっさい男の薄田。妙に昭和で現実的。他とは異質なテイストだ。ここへ来て、安部公房的なものにちょっと舞城王太郎と又吉直樹を混ぜた感じだなあ、と思ったりする。最後はオチが来て決まる。徹頭徹尾薄田が変わらないのが一つの味か。
ほか「二倍」「尻の泉」「末摘花」「先生との旅」の4篇。「末摘花」はご存知源氏物語のもじりで、だらだらと現代風に展開して、言葉も少し古典風でそれなりに楽しめた。
最近大阪のバンクシー展を観て、webの説明を読み込んだ。まあバンクシーって人は、壁に絵を描くだけではなくて、有名美術館の巨匠の絵の横に自作の絵をかけて帰ってくるとか、サザビーズのオークションで1億5000万円の値が付いた絵を落札直後、額縁に仕込んだシュレッダーで裁断したりとハチャメチャだ。その作品の価値は10億を超えるものもある。ピカソ以来の大物か?などと思ってしまう。
町田康にもちょっと同じものを感じないでもないでもない(小説中で使われている表現)笑。
も少し読んでみようかな。
◼️原田マハ「ゴッホのあしあと」
モネに続くあしあとシリーズ。ゴッホと日本人画商との交流を描いた「たゆたえども沈まず」への深い想い。
強く深い愛情を込めた、というのがよく伝わってくる。パリからアルル、サン=レミ、そして終焉の地オーヴェル=シュル=オワーズへ。ゴッホの足跡を現地に追い、考えを巡らせ、感性を研ぎ澄ませる。
ゴッホと弟テオの道行きには胸の詰まる感慨がある。「たゆたえども沈まず」について著者自身の解題と心情の吐露、には紛れもなくまっすぐなものが表れている。
ここ数年、やたらゴッホに関連することに触れる。ひまわりの行方を追う本を読んだり、ゴッホの展覧会が目立ったり、アニメーションでゴッホのアートを辿る作品を観て感銘を受けたり、また別の展覧会では1枚だけ展示されていた「ルーラン夫人ゆりかごを揺らす女」を観て、写真では決して心に浮かびえない、えもいわれぬ温かさを感じたりした。また最近映画になった。
けっこうみなそうではないのかなと思ったりしてしまう。
「たゆたえども沈まず」のカバーに使用されている「星月夜」は、夜の光景がぐねっていて、でもとても美しく、すごくゴッホらしい作品だと思う。
絵を観て感銘を受け、絵はがきを買って少しがっかり、生と絵はがきはかなり違う、と思った人もいるのではと思う。
ゴッホの絵は、外形が美しいばっかりではなく、どこか魅力があるものが多いような気がしている。
原田マハの想いとゴッホの概要にまとめて出逢える一冊。
前回は高樹のぶ子「業平 小説伊勢物語」に沿ったテキスト、今回は「たゆたえども沈まず」、それぞれ解説・解題の本。周辺本ばかりでなく、どちらもちゃんと読まねばだな。
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