◼️幸田文「流れる」
芸者の世界、騒動と死と移り変わり。女の世界だねえ、と。
幸田文の初期作品で、日本芸術院賞、新潮社文学賞などを受賞して作家としての地歩を固めたとされる作品。
後家の梨花は、芸者置屋「蔦の家」で住込みの女中になる。女主人、その娘勝代、女主人の姪の米子とその娘不二子が同居、猫と病気の犬がいた。通いは蔦次、染香に若いなな子。通いの一人だった雪丸は旦那を持って出て行き、借金を踏み倒し逃げたなみ江については、叔父の鋸山がたびたびゆすりに来る。
やがて零落が進み・・
芸者の世界、いわゆる花柳界に集まる女性の姿。若くもなく借金まみれの染香。若いだけにお座敷の声もかかり、几帳面な性質のなな子。強気でおぼこの勝代、梨花が死の予感を抱く不二子。鋸山は姪のことで談じこみ、トラブルを恐れた主人は金を渡してしまう。
やがて鋸山の件は警察の関わるところとなり、蔦次は囲われていた大尽の正妻が亡くなり、蔦の家をでて行く。
やはり、いわゆるくろと(玄人)の世界、女の世界を生々しく描いている。しろとの梨花はこの変な社会をかしこく立ち回る。鋸山の件で女主人は少なくない金額を2度も渡す。警察の厄介にはなりたくないし、税金面でも未納があるため公に出したくないとして主人はズルズルと鋸山とつきあう。通い芸者にも公正でないような感じ。
しかし梨花はいいかげんな女主人のことを芸者としてはとても艶やかだと思う。また、なな子を可愛らしく愛おしく感じたりする。それぞれのキャラをそれなりに組み上げていて、なかなか幸田文厳しいな、と思うキャラもいる。特に最初の方はなかなか人間関係が把握できない物語だ。
期間が過ぎて行くにつれ変化が現れる。その頃には各キャラの特質も分かってくる。
解説にも取り上げてあるが、幸田文は擬声が多く、かつ上手い。私が引っ掛かったのは
最後の方、国電の走る音を「とどろとどろ」としているのにはほお、とおもった。
サラサラとした文章で、置屋の裏側的な女の日常やごたごたした状況を丹念に描いている。ただ愉しむ話ではないが、相変わらずそこかしこに面白い表現もあった。
犬の死や時の移り変わりは効果的に物語の波をつけている。「おとうと」よりも劇的要素は小さいけども。
うーんもひとつかな?次は随筆を読みたいな。
◼️谷崎潤一郎「陰翳礼讃」
読みものとして本当に面白い。谷崎が美を見つめる眼と、その表現。懐かしさも。
私が子供の頃、ニュータウンというものが出来つつあり、今に連なる新築の建売住宅に住み、おやつにケーキが出るような家庭が増えていた。我が家は少し古かったから、まだ障子も襖もあって、貼り替えはちょっとしたイベントだった。
そんな日本人の家屋、また寺や和風の造り、その光と闇に美しさを見い出す感じ方と、賛美の文章が素晴らしい。
日本の家屋はおそらく必然から来た暗さがある。谷崎はこう述べる。
「われ/\の先祖は、いつしか陰翳のうちに美を発見し、やがては美の目的に添うように陰翳を利用するに至った。事実、日本座敷の美は全く陰翳の濃淡に依って生れているので、それ以外に何もない。」
そして.障子について、
「私は、書院の障子のしろ/″\としたほの明るさには、ついその前に立ち止まって時の移るのを忘れるのである。」
大きな伽藍の座敷などでは
「何か眼の前にもや/\とかげろうものがあって、視力を鈍らせているように感ずる。それはそのほのじろい紙の反射が、床の間の濃い闇を追い払うには力が足らず、却って闇に弾ね返されながら、明暗の区別のつかぬ昏迷の世界を現じつゝあるからである。」
と、やや大仰に分析、表現する。
ここはもう、障子の中で暮らしたことのある人の実感を、ふつうに過ごしていた日々の美がいかに心に残っているかを、思い出させてくれるくだりだ。心がツンツンする。
さらに金色の効用について。
「暗がりの中にある金襖や金屏風が、幾間を隔てた遠い/\庭の明りの穂先を捉えて、ぽうっと夢のように照り返しているのを見たことはないか。」
と呼びかける。
これを沈痛な美しさ、とし、さらに回り込んでみると・・長いがそのまま引用。
「金地の紙の表面がゆっくりと大きく底光りする。決してちら/\と忙がしい瞬きをせず、巨人が顔色を変えるように、きらり、と、長い間を置いて光る。時とすると、たった今まで眠ったような鈍い反射をしていた梨地の金が、側面へ廻ると、燃え上るように耀やいているのを発見して、こんなに暗い所でどうしてこれだけの光線を集めることが出来たのかと、不思議に思う。」
見たことあるような気がする。少なくとも金色がぽうっと照り返しているのは記憶にある。夜の金色のイメージだ。もうこの表現にはやられる。金が多いのは、闇が多いからだ、と。
さて、前後して切り貼りするが、食べ物の表現も本当にみずみずしい。谷崎一流だ。
「第一飯にしてからが、ぴか/\光る黒塗りの飯櫃めしびつに入れられて、暗い所に置かれている方が、見ても美しく、食慾をも刺戟する。あの、炊きたての真っ白な飯が、ぱっと蓋を取った下から煖かそうな湯気を吐きながら黒い器に盛り上って、一と粒一と粒真珠のようにかゞやいているのを見る時、日本人なら誰しも米の飯の有難さを感じるであろう。かく考えて来ると、われ/\の料理が常に陰翳を基調とし、闇と云うものと切っても切れない関係にあることを知るのである。」
なるほど、容易に想像できる。現代の家の照明は明るいけれど、それでも我々なら誰もが分かる。そして、めっちゃ美味しそう。ひとつぶひとつぶ、の書き方がまたいいな、と。
スイーツ編。羊羹について。
「玉ぎょくのように半透明に曇った肌が、奥の方まで日の光りを吸い取って夢みる如きほの明るさを啣んでいる感じ、あの色あいの深さ、複雑さ」
「あれを塗り物の菓子器に入れて、肌の色が辛うじて見分けられる暗がりへ沈めると、ひとしお瞑想的になる。人はあの冷たく滑かなものを口中にふくむ時、あたかも室内の暗黒が一箇の甘い塊になって舌の先で融けるのを感じ」る、と。
論の中で、谷崎は陶器よりも漆器のほうが陰翳を反映する、と言っている。1933年から34年、にしたためられたこの随筆は、西洋文化と東洋文化をしつこいくらい対比している印象批評だ。
現代では、西洋のラグジュアリーな、スッキリとした雰囲気に憧れる一方、日本的なものも見直されている。両者の度合いはますます強くなっているように私には見える。
子どもの頃ふつうだった和心が特別感を帯びて来たのは、再評価か、それとも西洋がより張り出してきたために日本人が本能的に求めるその強さが増したのか。西洋人並みにすでに日本人が東洋趣味的になっているのか。
戦前の当時も洋服、ナイフ、フォーク、電燈というものは巷に定着していた。谷崎は鋭い審美眼と、おそらく日本人としての矜持があったのだろうと思われる。
いずれにしろ混在している中で、日本の良さを見る、その現代がだから良いような、なんだか逆にノスタルジーが増すような、なんて考えながら読み終えた。満足。
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