◼️谷崎潤一郎「春琴抄」
かなわんな、色んな意味で。やっちゃうのが谷崎なんだなあと。耽美的な女性美。
覚悟して読んだのだが、やっぱそのシーンでは目を背けてしまう。「盲目物語」は既読なので「春琴抄」だけで。
明治十九年に没した裕福な薬商の娘、鵙屋の春琴。舞台は大阪・道修町。春琴は容貌が端麗にして高雅、美しい娘だったが、九歳にして病で視力を失う。琴三味線に才能があり、高名な先生に習った。いつも手を曳くのは、春琴の指名により、丁稚の佐助となった。
年頃になった時、春琴は佐助との間に子を成すが、佐助を丁稚としか見ておらず、結婚なんてとんでもない、という態度を取り続ける。そして、弟子を取るようになった春琴は、その態度と美しさが不幸を呼び、押し入った者の手で醜い姿となる。見られたくない、と言われた佐助は・・
有名な話なので成り行きをご存知の向きも多いだろう。佐助、後の温井検校、は盲目となり、お嬢さんと使用人、という態度を崩さなかった春琴は、佐助に心を許す。佐助は生涯にわたりこのお嬢さんのすべての面倒を見る、という話。
女性を礼賛する、佐助は盲目となってからそれまで見えなかった春琴の美しさが見えてきた、という。
佐助がトイレも風呂もすべての面倒を見ていた、とするのが谷崎らしい。視覚だけでなく肌の手触りも、嗅覚も、五感を使いさらに物理的に視覚を捨て去ってもさらに女性に仕え新たな美を得る、その行きすぎて危険なところもまた谷崎。
春琴が佐助に教えるきっかけとなる、深夜、闇の押入れの中、佐助の三味線練習は暗示的でまことに上手すぎる。ため息が出る。
文体は、句読点と「」を極力省いた、実験的な文体。もともと一文が長くてでも上手い谷崎にしても異様な文体だが、特に意味が取りにくいわけでもないのが面白い。
昔、北野武監督のオムニバス映画「Dolls」を思い出す。
トップアイドルの春奈は交通事故で顔に大きな怪我を負い、片眼を失って芸能界から姿を消す。春奈にどうしても会いたい熱狂的なファンの温井は、春奈が誰にも見られたくないと親戚の家に身を寄せている、と聞いた温井は見られたくないのなら、と・・。会いに来た温井を春奈は覚えていて、手をつなぎ散歩する。
春奈は公開当時19歳の深田恭子だった。菅野美穂と西島秀俊の恋愛譚、三橋達也と松原智恵子の老いらくの不思議なデートものとのオムニバスだった。芸術系のイメージが強い作品。
この危うさ、狂気をも伴いながら、女性の美しさを、稀有なバランス感覚で表出するのが独特の技だろうと思う。ただの芸術ではない。
ここのところ谷崎をだいぶ読んで、記念館行って、「細雪」の舞台、谷崎が住んでいた神戸の倚松庵も訪ねた。
「刺青」の怪しい耽美とモダニズム、「吉野葛」の歌舞伎などの知識を絡め母への憧れを浮き立たせた傑作「吉野葛」、別れない夫婦を描き、途中の淡路島人形浄瑠璃見物行がまるでヘミングウェイ「日はまた昇る」の牛追い祭りを想像させた「蓼食う虫」、そして関西の四姉妹を描く「細雪」。数々の作品で、さまざまな手法で女性の美しさや、女そのもの、また日本文化を彩り豊かに描く、文学的な谷崎。
また国会で「芸術家猥褻か」と論争になった「鍵」ほか今作でも、「やっちゃう人」というイメージも強い。いや、谷崎ってすごい人、と最近感じてきた。
さて、NHK「100分de名著」本日(2020年10月19日)のテーマが「春琴抄」もうすぐだ、ギリギリ間に合った〜!
◼️長野まゆみ「あめふらし」
ものなれた妖し、異界の描写。サラサラと流れる文章。長野まゆみの変遷。
先行の連作短編集「よろづ春夏冬(あきない)中」の一篇「雨師」の世界を広げたものらしい。
よろず屋・ウヅマキ商会の橘河のもとでアルバイトをしている市村は、依頼により蛇を生け捕りに行くという橘河と一緒に出向く。礼装で来た橘河に風呂に入れと命じられ、風呂では脱皮の途中だという女と出会う。そして風呂から出ると、下帯に白装束を着せられ、未婚のまま死んだ娘と祝言を挙げることになるー。(蛻のから)
橘河は人外の者どもを相手にする存在で、市村はタマシイが器となる人を渡り歩く存在。また社員の男前な仲村と同じように橘河にタマシイをつかまえられてしまっている。市村には立派な「うろこ」がある。
生と死、タイムスリップ、よく降る雨、蛇、女・・不可解な出来事とその解決は分かるようなそうでないような。怪しい気の漂う、レトロで異質な世界。
お得意のボーイズラブも絡む不思議な物語は文章的にもサラサラと進む。
時に味のあるテイストや緊張感のある表現にクスッとしたり唸ったり。
「紅葉狩りには鬼が出るんだよ。おとうさんがそう云ってたんだ。」と能や歌舞伎でも演じられる戸隠山の鬼伝説に触れたりする。
「夜半に唐紙をひっかく音が聞こえた。(中略)ふいに、唐紙のすきまから糸のように細くあかりがもれた。畳のうえを一筋の光がのびてゆく。誰かが連れだって座敷のなかにはいってくる。市村は起きあがろうとしたが、どうにもからだを動かせない・・」
これが後者の例で、夜の闇に息を殺しそっと襖を開けて入ってくる様が見えるようだ。これがいいタイミングで入り、読んでるこちらが引き締まる感じがする。いつもながら長野まゆみは張りつめた感覚の表現がうまい。
ところで長野まゆみといえば、美少年、男しか出てこない話を多く書き、宮沢賢治風の「少年アリス」で多くのファンを獲得した。関連作品の「夏至祭」「野ばら」や、近未来的な「天体議会」なんかもナイス、また「東京理科少年」もおもしろいと思う。
ある時期から、いまのような、含蓄深く少し妖しく、サラサラと流れる文章のスタイルに変わったような気がする。最初読んだ時は長野まゆみに女が出てる、とおどろき、興味深く読んだもの。本書の解説に変遷が触れてある。著者の文が取り上げてある。
「謎めいた密やかな生きものに似た少年をさんざん書き散らしたあれはいったい何だったのだ、と思う人があるのは承知だが」
「舞台装置がさまがわりしたことは認める。でも、いつまでも同じ場所に立ちどまっていられるわけでなし」
「かつて書いたものを帯のなかにいっしょに巻きこんで先へ進むわけにはいかない。」
とのこと。この変化の後、同様の文調で書かれた「冥途あり」で泉鏡花文学賞と野間文芸賞を獲得している。
なるほど、泉鏡花と言われれば、確かにそんな気が強くなる。幻想的、家族的な面を持つかなと。
好きか嫌いかと言われるとまだなじめない。まあまた長野作品を手にするだろう。新スタイルで、かつての「少年アリス」のようにバズる作品を心待ちにしている。
「改造版 少年アリス」も読みたいな。
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