2020年11月21日土曜日

11月書評の4






神戸の王子公園なぞうろつく。パンダがいる王子動物園は息子とだいぶ行った。公園は初めて。スタジアム、テニスコート、弓道場や体育館、ジブリものに出てくるような通路もあって、それなりに楽しかったかな。

コロナ感染者が急拡大。最初の緊急事態宣言のころなんて比較にならないくらいの多さ。みな慣れてきてるからすぐにはとても減らないだろう。あれこれ自粛して、2週間くらいで効果が出始めて、下がって緩んでまた上がって。果てはどこにあるんだろう。


◼️阿刀田高

「アラビアンナイトを楽しむために」


アラビアンナイトの世界のさわりを、楽しむ。いつも思うが著者の紹介具合がうまいなあ。


阿刀田高氏のさわり紹介シリーズは「ギリシャ神話」「旧約聖書」「新約聖書」「コーラン」と読んできたが上手に柔らかく、しかも文芸的に各筆致にいつも感心。今回も楽しめた。


ササン朝ペルシャという651年に滅んだ国のシャーリャルという王様が妻の不貞に怒り、女というものに強い不信感を抱く。夜ごと生娘を召しては、朝には処刑してしまうという所業を繰り返したため町中に処女がいなくなり、大臣の娘シャーラザッドが夜伽に立候補した。シャーラザッドは妹のドゥニャザッドとともに王の寝室に赴き、王の枕辺でたぐいまれな話を語り、その面白さに王はシャーラザッドを殺すことができず、物語は千と一夜も続いた、というのはよく知られた前段だ。



阿刀田氏は十いくつの話をチョイスして展開していく。ギリシャ神話は基本的に神の話。こちらは王家もよく出てくるが、大商人、床屋、染物屋など市井の人々も主役となり、中世イスラム社会の庶民生活をよく伝えるものだとか。


感想第一は、まあコーランの国だというのに男女の生々しい話が多いなと。各国の王にまつわるものもめくるめく感じですな。逆に庶民的であり、いかにも説話風でもある。厳しい戒律があるから、生活が楽ではないから、王室のこと、美しいお姫さま、王子さまのストーリーを聞きたい、というのも自然。なおかつ肉欲的なオトナ面白いのも正直かと思える。異国も含めた絶世の美女、また美少年だなんてやはり誰しも心がくすぐられる。


あとファンタジー的要素も興味深い。磁石島なんていうのがあったり、魔法が出てきたり、財宝が見つかったりで、アラビアの神秘っぽくもある。最後の方、アラジンと魔法のランプなんかまさにそう。


正直者怠け者、因果応報的な話もあり、なんとなく古事記を感じたりして。


阿刀田氏は、20世紀パリで、名乗りを上げた警官を含め、宿泊者が次々と首を吊ったという「自殺ホテル」から入ったり、ジャン・ジロドウの戯曲「オンディーヌ」をイメージしたり、類似の豊富な知識で読み手をうまく誘ってくれる。


「オンディーヌ」は湖の王の娘・オンディーヌが地上の若者ハンスに恋する話。水界の王から「ハンスがお前を捨てたら、彼はただちに死ぬ」という厳しい条件付きながらも許しを得て結婚する。そしてハンスは心変わりをする。水界の王はオンディーヌを憐れみ、ハンスの死と同時に彼女の記憶を消し去る。


死んだハンスを見る、もはや記憶のないオンディーヌのセリフがさりげなく虚しく観客の心に響く。


で、その導入からのアラビアンナイトの物語は、水界の娘・ジュルナールがある権勢ならびなき王を愛し、妊娠する。ジュルナールは水界の一族を陸に招き、両者は親交を結んでめでたしとなる。しかし生まれた王子バドル・バシムがやがて王となった時、海の世界のとびきり美しいヤワハラー姫を妻にと願ったことから諍いがおき、魔法が飛び交ったりするファンタジックドタバタコメディのような話が展開されるというもの。冒険を経てオチがつく。


陸の世界と水の世界。コメディと悲劇の組合せに、章として、なにやら立体的に織りなされた印象を持った。


オジサンらしくやらしいとこもあるのだが、その筆致が時に文人っぽくもあって、相変わらず気持ちよく読める。


アリババとかシンドバッドは外してあるが、どんな話だったっけ、とそそられる。


ワクワクするものばかりではないかもしれないが、バートン版読んでみようかな。




◼️須賀しのぶ「革命前夜」


オルガンの「銀の音」が聴きたくなる。

1989年、旧東ドイツ。ドラスティックな時代。


友人からバッハの曲のことが出てたよ、と聞きチョイス。クラシックもミーハーに好きだけど、バッハは不勉強。宗教色が強いイメージで、勉強したくも敬遠していた。面白いことに、演奏経験のあるオケや音大出の人ほど強く私に薦めてくれたイメージがある。いい機会かと。


1989年、バッハの平均律クラヴィーアに感銘を受け、東ドイツのドレスデンに留学していたピアノ科の眞山柊史はドレスデン市内の旧宮廷協会で「銀の音」を奏でるオルガン奏者、金髪で美貌のクリスタに出逢う。学内では天才ヴァイオリン奏者で組んだ相手を「壊し」次々と換える不遜なハンガリー人、ヴェンツェルからピアノ伴奏の声をかけられる。ヴェンツェルとのデュオは好評を博すが、自分のピアノが不調に陥る。柊史はクリスタを探していたー。


柊史のモノローグで語られる。だからか、しかしなのか、主人公の成長は、個性豊かで事情が複雑な多くのキャラクター、ダイナミックな出来事の中で促され、周りのエピソードの光が強い。


伴奏者を食い散らかし、自分に惚れた女性の気持ちも顧みず、評判は最悪、しかしその実力は群を抜く強いキャラのヴェンツェルは一つの中心。特に後半、気がよくチェリストと学生結婚していて、秀才タイプの巧者イェンツとの対比に光が当てられている。


謎の実力者でひどく冷たいクリスタや、ヴェンツェルに想いをかけて翻弄されるベトナムからの留学生スレイニェット、学生たちを受け止めるヘルマー牧師に、同じマンションでなにくれとなく柊史の面倒を見るファイネン女史、柊史の父の知り合いの娘で、ハリー・ポッターのハーマイオニーを連想させる可愛らしいニナなど、それぞれ存在感のある人物像が物語を彩る。


バッハの本場、しかし東ドイツは密告・監視社会だった。少しずつ、公安機関シュタージ、組織化された密告者たちの存在が明らかになってくる。そして、天安門事件があり、東欧共産圏は崩壊しようとしていた。


ストーリーが進むにつれて、主要人物たちの本当の姿が明らかになってくる。柊史の危険も増す。その転生のような成り行きは計算されていて、リーダビリティを高めている。


ヴェンツェルのキャラ造形を見て、ああ、須賀しのぶって女性作家さんだったんだ、と思った。特に恋愛を絡めていて顧みないところが。うまく説明てきないが、映画を観ててもよくあることだ。


最初はちょっとクラシックにしても土地の説明にしてもペダンチックで慣れず、読み進むのが遅かった。しかし中盤以降は奔流のようで、熱中した。全部に納得できたわけではないが、面白かったのは間違いない。


音楽が生まれるバッハの本場と旧体制、時代のうねり、その中の若者たち。クリスタの銀の音を想像したくて、読みながら劇中のバッハのオルガン曲を探して聴いたりした。


春江一也「プラハの春」を思い出したりして、成り行きが予想できるなとか、当初思ったけれども、ちょっと外されたかな。


ちょうどこの時代に国際政治学を学んでいたこともあり、楽しめた一冊だった。

11月書評の3






大阪モダン。秋によく似合う。昔このあたりに勤めていて、懐かしさも満載。数年前にプロジェクションマッピングも観に行って、冬にもイルミネーションがきれい。また行きたいけど、人が混む今年はあるのかな。

◼️大久保純一「北斎  HOKUSAI


ベロ藍の美しさ、図形の相似・・。改めて感心のため息が。


カラーの絵が豊富にありお手軽に北斎の世界を堪能できるポケット版紹介本。出た時に買おうと思ってそのまま、最近見かけたから手に取った。やっぱいいですねえ、世界の北斎。


水の表現、幾何学、美人絵、挿絵、風景画など北斎の特徴的なポイントに分けて解説してある。


美人図はこれまで、瓜実顔の細身ばかりかなというイメージがあったが、読んでから見ると、硬質な線に柳腰、着衣の模様と色合いなどに見入ってしまう。そのすっきり、凛とした美しさは部分でもトータルでも強い光を放っている。


そしてやはり風景画。1830年ごろから用いられ始めた舶来の化学顔料「ベロ藍」、プルシアンブルーの濃淡で摺り出した画面の深いこと。こちらでは世界中でもっとも有名な日本美術作品、と打ってある「神奈川沖浪裏」そして「千絵の海  総州銚子」などには改めて歎息。


朝焼けの富士、赤富士の「凱風快晴」に黒富士、「山下白雨」もやはりいい。


北斎が図形の相似を用いていることはどこかで読みかじった気もする。ともかく三角形の相似を用い、真ん中の漁師が網?鵜?を放っている三角と富士の三角がマッチしている「甲州石班澤(こうしゅうかじかざわ)」も見事すぎる。


大胆な構図、形に色使い、幾何学模様なんかにも心酔。数年前、入るまでに1時間半もかかった北斎展で観た絵たちに再開。今度はもっとゆっくり回りたい。所蔵美術館も書いてあるので、行ってみようかな。



◼️砥上裕將「線は、僕を描く」


まっっすぐで、心を揺らす。表現に集中し自分に問いかける。実際の水墨画家が書いた、墨絵と人の物語ー。


大学生の青山霜介は、2年前、17歳の時に両親を事故で失い、会話ができず、ほとんど食べずの生活をしながら、変わり者の友人古前くんらとかろうじて大学とのつながりを保っていた。展示会の飾り付けのバイトに行った際、会場を訪ねてきた老人、水墨画の巨匠篠田湖山と知り合い、なんと直々に教えを受ける内弟子となる。修行中の、湖山の美貌の孫娘・千瑛(ちあき)は祖父の挑発に反発、青山と千瑛は次の年の湖山賞で勝負することになる。



本屋大賞3位で、水墨画の物語と評判良かったからぜひに読んでみたいと思っていた。ただ、最初は少し懐疑的に。展開がマンガラノベっぽいな、と。早さは良かったけど。



しかし、さすが専門の技術と経験に裏打ちされた題材からの発展は面白かった。たくさんの水墨画に触れたであろう、そして画家として考え、会話し、苦悩しただろう、ことがペダンチック過ぎずストーリーに落とし込まれ、魅力となっている。



大学の友人である古前くん、川岸さん、大家の篠田湖山、ふだんはガテン系のお兄ちゃん風、でも湖山の弟子で実力者の西濱、超絶技巧を持ち、でも悩める美青年絵師・斉藤など登場するキャラも非常に魅力的。


そして湖山の孫娘で近寄りがたいほどの美貌を持ち、最初は青山に反発するが、水墨画に対してあまりにひたむきで、青山の心に寄り添うヒロイン、千瑛(ちあき)が光る。青山がおとなしくぼっとした存在だけに対比が鮮やかだ。



深い悲しみと同居する青山は水墨画に打ち込むこと、そして彼を取り巻く人々によって成長してゆく。正直ストーリーテリングとしては手練れではないと思ったものの、でも隠れた技巧がほの見える。まっっすぐ、な展開、ラストも予定調和だけど、その清々しさとみなの邂逅に泣いてしまった。こんなの久しぶり。



青山の心のうちの描写と、湖山や西濱、斉藤が描く際の表現に惹きつけられる。だから読むのに少し時間がかかるが、心地よい集中具合。


映画化して欲しいなと。またサイドキャラなんかスピンオフに最適と思うし、続編を読みたくなる。


余談だが、クライマックスを読んでるときのBGMがチョン・キョンファというヴァイオリニストのベートーヴェンの協奏曲だった。チョン・キョンファの柔らかく繊細なタッチが物語と同じく、心を震わす。この本とともに、おすすめです^_^


11月書評の2






建築家フランク・ロイド・ライトはコルビュジェ、ファン・デル・ローエと並び近代建築の三大巨匠で、1916年から帝国ホテル別館を設計した。ライトが設計した、国内では数少ない住宅が自宅近くにあると知り、折りよくテレビでライト特集なんかがあり、図書館で本借りて、設計会社の友人と行ってきた。

予習してから行くとまた見どころがいっぱいで楽しめる。広い屋上テラスからの眺めも素晴らしく、楽しい散歩だった。

◼️瀬尾まいこ「戸村飯店  青春100連発」


存在感、通り過ぎ感。男子主人公はセオマイコーで初。オモロ楽しい。


都道府県民の特徴とか現象を取り上げて笑う某番組を見ていると、大阪人のことは意図的にちょっと極端めにしていると思う。テレビやアニメで聞く関西弁はちょっと変。まあ、そんなこんなも含みこんで大きく受けとめているのが関西、と、九州育ちの関西在住人は思うのだ。たぶん地の人には、いや、それは違うでShinoちゃん、と言われそうだけど笑。


セオマイコーさんは関西で長く教員をしてた人なんで、その辺の機微は分かっている。その上での展開なんだなと。


大阪にある家族営業の中華料理屋、戸村飯店で育ったヘイスケとコウスケは年子の兄弟。コウスケは、イケメンのヘイスケに憧れを募らせる幼なじみの岡野が好きだが告白できない。ヘイスケは要領がよいタイプで店のことは手伝わない。一方野球部で一本気、幼少から店をよく手伝ってきたコウスケはそんな兄をどこか軽蔑している。2人はほとんど会話をしなかった。


文才のあるヘイスケは高校卒業後、東京の専門学校へ旅立ち、入学金返還無料期間にさっさとやめてレストランのバイトにせっせと通う。彼女もできる。高校3年のコウスケは店を継ぐからと学生生活最後の1年をエンジョイする事に決め、クラス対抗合唱コンクールの指揮者に立候補、ピアノ伴奏の北島君と親しくなるー。


戸村飯店という環境が大阪ベタで気持ち良い。あまりガラのよくない常連さん、タイガースファンでないとは言えない雰囲気、まあここへ座り、と距離感を詰める姿勢、にしてはダジャレや冗談を入れたアホな会話、それをこともなげに受け止めるコウスケー。


コウスケ、ヘイスケ、それぞれのモノローグの章立てで物語は進むー。


コウスケは岡野からヘイスケへの手紙の文章をネタをせがまれ、初めて兄というものを考える。北島君という理知的な親友も出来て影響を受け、岡野に想いを伝えるべくもがく。まあそれも見てて楽しいレベル。


ヘイスケは店を手伝わない、要領がいい、モテる、といった特質は持っていたが、東京で、19才らしく、自分を見つめる。つかめそうでつかめないようなもの、友人、バイト先の信頼する店長、そして年上の彼女・・。


三者面談でコウスケが店を継ぐ、と言ったときの、親父さんの理不尽なキレ方と先生の対応面白い。兄ヘイスケ、岡野とコウスケを取り巻く人々も微笑ましい。


19才と18才、それぞれが、読んでいる人に記憶を呼び起こさせる。世間に対しボーッとしていて、目の前で起きる現象を未熟に咀嚼していた頃。妙に素直だったりするとこもリアル。友人も仲良くなっては離れ、でもどこか影響を受ける。


大阪テイストがやや過剰かなとも思えるけども笑える設定。突き出して凝ったストーリー構成はない。でも、なんでセオマイコーはこんなにしみじみと可笑しく読ませるのだろう。


これまで著者が設定する女性主人公の自然体なところに好感を抱いてきた。でも、男性主人公も良きかも。イジワルテイストのない物語。佳作かなと思います。


◼️フランク・ロイド・ライト「自然の家」


帝国ホテルの設計者にして建築に新思想を吹き込んだライト。建築家の本を読むのは初めてだったが、かなり面白かった。近々観に行きます。


その方面に勤める友人と建築の話になり、ライトの建築した家が自宅近くに公開されていると知って観に行くことに。予習で読んでみた。たまたま我々の話を聞いていたかのようにテレビでもライトの建築特集があったりした。


ライトは1867年生まれのアメリカ人。1913年来日し、帝国ホテル新館を設計した。ル・コルビュジエ、ミース・ファン・デル・ローエとともに、近代建築の三大巨匠とのこと。他の人のことも含め、さっぱり知らなかった。建築界全体でも安藤忠雄と隈研吾と、関西学院大学や近江兄弟社高校はじめ日本に多くの足跡を残しているウィリアム・メリル・ヴォーリズさんくらい。


この本はライト87歳の著作のようだが、最初はどうも青年の主張のようで、家具も建築士が設計すべし、などにはちと敬遠感も覚えた。費用を抑えず、よりアーティスティックな家を造る人かと。


しかしどうしてどうして、読み進むうちに、本来は中産階級のための住宅を建てるべく、おしゃれにコストダウンを考えていたということが分かってきた。白黒だが、家の外観、内観の写真はモダンにして特徴的、機能的でカッコよく、心ときめかせて読んでしまった。


私なりに把握したライト建築の特徴は以下である。


・屋根は平面が多く、庇を張り出している。

外から見えるような背の高い屋根はコストがかかり、かつ不必要、という考え方から。たぶん切妻屋根は採光やスペースの活用によくないという考えから。人体の寸法に合わせた天井の高さを、という信条もあるようだ。


・壁面のガラスが大きく、多い。

庇によって暑熱から屋内を守り、かつ屋内を明るくする工夫と思われる。


・屋内の壁を除去

採光と空調のため。しきりは別に作れる。


・台所(ライト言うところのワークスペース)を中心として見えるところに食堂とリビングを置く。

これも採光と、風通しのため。特にワークスペースに屋内の空気を呼び込み喚起するのが匂いのためにも理想らしい。開放的、機能的。


・木材の素材を活かし樹脂入りの透明オイルを塗るだけ。

ペンキ塗りは木材も呼吸が出来ず、生地が最も長持ちするとか。


ほかもろもろ。車庫はもはや不要で覆い(張り出した屋根?)と壁が2面あればいい、とか、地下室と屋根裏部屋は好ましくなく、どうせ物置でろくに人は出入りせず臭気のもと、とか、照明や電熱器具はできるかぎり壁と一体化するとか、なるほどと思うことが多い。「カーポート」の名付け親、手がけた水平屋根を多用する建築はプレイリースタイル(草原様式)と呼ばれたとか。



広々とした空間に作り付けの本棚、開放的なテラス、すっきりして現代的な外観なぞの写真はいいなあと見入ってしまう。ぜひ検索して見てみてください。


柱の上に梁を乗せるという古典的な単純構造を否定、鋼鉄を曲げて連続性を出し、ガラスを多用して明るくする、というのは新時代の建築、という向きもあったのかなと思う。


老子の研究、浮世絵の購入などもしていて、その建築は東洋的とも言われ、本人もまんざらではないようだ。有機的建築は東洋の思想と共鳴する、と文中で述べている。日本で男爵邸の朝鮮の間で、オンドルに驚き、床暖房を取り入れたりしている。そりゃ東洋的ですね。


帝国ホテルは費用オーバー、工期の遅れで依頼主ともめ、完成を見ずに離日したとか。中産階級向けの住宅と違い、国の顔とも言えるホテルに、リキんじゃったのかなと。


面白かった話をひとつ。


得意の絶頂だったライトは内部空間こそが建物の実体、ということを自分で発見したと信じていた。そんな折、駐米日本大使から


岡倉天心「茶の本」


が送られてきた。ある一文に突き当たった。


「ひとつの部屋の実体は、屋根と壁によって囲み取られた空間にこそ見出されるべきものであって、屋根や壁そのものに見出させるべきものではない。」


東洋にすでにあったのだ、と大きな衝撃を受け、自信をくじかれたんだそうな。「茶の本」は手元にあるから早速探してみよう。


確かに上からで、プライド高く、という感じも受ける。旧弊を嫌う。でも、どこか茶目っ気のあるライト。さて、勉強もしたことだし、その建築探訪がとても楽しみになった。

2020年11月4日水曜日

11月書評の1







磯長の翌日は京都へ。建仁寺で風神雷神のレプリカと綺麗な枯山水を見て、秀吉・ねねゆかりの高台寺、少し南へ歩いて七条の智積院で長谷川等伯一門の国宝を見た。東郷青児の美人画とインスタ映えのゼリーポンチもある、四条河原町の喫茶ソワレも行ってきた。どうかな。

京都は最近通ってだいぶ詳しくなれた。また行こう。

◼️黒鉄ヒロシ「マンガ古典文学  伊勢物語」


黒鉄テイスト健在。懐かしいものと出逢った気がして微笑した。


黒鉄ヒロシといえば、「坂本龍馬」「新選組」「幕末暗殺」という漫画シリーズにはずいぶん楽しませてもらったものだ。NHK100分で de名著」の話をしてて教えてもらった本。即買い即読みでした。


一段ずつ、時折飛ばしつつマンガ化していくのだか、やはり有名な段は序盤に多いかな。

初段、奈良の春日のいとなまめいたる姉妹の話、二段の西の京の女、春の雨。付き合っていた藤原高子(たかいこ)が天皇の后になって元の住まいで嘆く四段「西の対」。


月やあらぬ春や昔の春ならむ

わが身一つはもとの身にして


ですねー。高子を盗んで逃げた芥河の六段、駆け落ちかなわず、京都にいづらくなって東へ、最終的には陸奥へと旅するところがやはりクライマックス。


二十三段の「筒井筒」はあまりよろしくない成り行きだが、やはりみずみずしい。


六十九段はいよいよ斎宮との恋。

八十二段 渚の院は、



世の中に絶えて桜のなかりせば

春の心はのどけからまし。


百六段

ちはやぶる神代も聞かず龍田河

唐紅に水くくるとは


名歌ですねえ。今年こそ龍田川行ってみたい。筒井筒の井戸は実在するらしいのでそちらも回りたいな。


黒鉄氏は動物、今回は狸と馬と猪を解説の導入役として起用しているが、これもおなじみの手法の一つ。また女体の絵を多用するのも特徴。時に忠実に訳し、時にふざける。その絵とテンポの良い進行、台詞回しの文調が面白い。


これだ、と懐かしくなる。暗い、黒い画調も特質。笑いの中にもなぜか説得力があるんだよね。懐かしいものと再会できて嬉しい。このシリーズは作品ごとにマンガ家さんを変えているようだが、黒鉄氏にはもっとやって欲しい。


100分で名著」関連でだいぶ世界が広がっている。あと3回、楽しみだ。



◼️池上英洋 荒井咲紀「美少女美術史」


ちょっと読むの恥ずかしい気もしたが(笑)良書だった。網羅的で楽しい。


タイトルの通り、時代の遷移の解説、その底にある社会史が面白く、また著名な画家の絵を網羅していて、読み甲斐がある。得たい知識が少しずつ積まれている感じで好ましい。


さて、美少女・・ほんとに幼い少女は、そもそも子どもの絵そのものが少なかった。子どもは大人の縮小版とみなされており、絵に描く価値が認められていなかったそうだ。


状況が一変したのは産業革命で、経済的繁栄で、ミドルクラスの人口が増加、郊外に住み都会のオフィスに通う彼らにプライベートな時間を家族に割くようになり、余裕もできた。また、機械化で大量生産が可能となったこともあって子ども向けの商品が急増した。


その社会的変遷をベースに子どもの絵が増えていった、らしい。


最初の方に取り上げられているのはあどけない世代の少女の絵が多い。

ジョン・エヴァレット・ミレイはお人形さんのような幼女を書き、

女流ソフィー・アンダーソンは愛らしい姿を描き、

ウィリアム・アドルフ・ブグローはこれぞ美少女、というイメージに合致する絵を見事に描いた。その瞳には、貧困や信仰心、大人の世界への興味、無垢さの背後に隠れた残忍性というものが垣間見える。


この人たち、いずれも、1800年代後半に活躍した方々。少女像の基本は古典的な写実で、印象派など、アカデミズムへの反発が強くなっていく中、ブグローなどはやがて権威や人気を失い、一時期忘れさられた画家となったと。


「不思議の国のアリス」をはじめとする児童文学での少女の描かれ方、ギリシアのニケ、またプシュケー、パンドラ、アポロンとダフネー、ダフニスとクロエーなどギリシア神話等の少女たちに関する考察はふむふむと読み込んでしまう。


また聖書のマリアについて、では、展覧会で「聖母マリアの少女時代」という作品に感銘を受け名前を覚えたバルトロメ・エステバン・ムリーリョが登場してて嬉しかった。


「真珠の耳飾りの少女」のフェルメール、「読者する少女」で有名なフラゴナールも名を連ねる。


伝説通り首が切り離された遺体が見つかったという、女神チェチリアなど他キリスト教関連の題材や、本書のカバーの絵、ルーブル美術館にあるというヘンリー・レイバーンの「花をもつ少女」、シャーロック・ホームズの宿敵・モリアーティ教授が愛したジャン・バティスト・クルーズの官能的な、セクシュアルな絵も取り上げられている。


さらにさらにやはり入ってくるルノワール、ピュールレ・コレクション行けなくて観れなかった"可愛いイレーヌ"、加えてベルト・モリゾにメアリー・カサットと実に網羅的。


ドガにミュシャ、ロートレック、「ハムレット」の婚約者オフィーリアを題材に好んだウォーターハウス、特徴があって好きなモディリアーニにローランサン、そしてピカソに行き着く。


宗教色からの脱却、富裕階級の肖像画から庶民や貧困層の少女たちへの大まかな変遷を見ながらたっくさん絵を観ました。少女が題材、というのはあどけなさ、可愛らしさだけでなく官能やエロチシズムもやはり入ってくる。


これだけ多くの表現を観ていくとなかなか素晴らしいと思ったり。やっぱり幼い子どもの顔や身体の造作は天与の素材に近くとても可愛らしい。女の子独特のコケティッシュさも眩しく微笑ましい。


こんなに楽しめるとは意外だった。



10月書評の6







大阪府太子町の磯長(しなが)に行ってきた。ここには、聖徳太子の墓所と、推古天皇陵などの古墳がある。太子は生前から磯長を墓所と決めていた。近くには悲劇の大津皇子が眠る二上山もあり、歴史の息吹に触れると思い込まなければただの田舎だったのも事実かな笑。まあ太宰府みたいなもんだ。

◼️町田康「ゴランノスポン」


これがまちだこうか、と。底意は安部公房風にして口頭ギャグのような味付けで、文学的な香りもする。


初町田康である。なんとなくしみじみとした作風をイメージしていたが、まあ、まったく違った笑。


マシンガンのような言葉の羅列が基本で、しかも、単語がむつかしい。

吶喊、蹌踉とした、金剛不壊、手妻使い、蟠る、推挽、狎る・・漢字と言い回し、古典語に文豪のあて漢字となかなか手練れだなと。


3050ページくらいの短編が収録されている。


「楠木正成」

巻末の中村文則の解説によれば「町田さんの読者なら楠木正成はお馴染みの存在」らしい。へえ。楠木正成に憧れる男が、どういう人物だったのか、柔らかくかつイメージ早口に説明していく。最後はその空想に自ら飛び込み、楠木正成と軽めにまみえる。


この時点で、なんか成り行きは分かるが??てな感じだった。



「ゴランノスポン」

いつもポジティブな仲間たち。不自然さを最初から含み持つ。ある時1人が自殺する。葬儀で亡くなった者が作った下手な曲を延々と聞かされ、火葬場までのあまりに遠い道のりと開かずの踏切、ポジティブな仲間たちはついに・・


アイロニーとユーモアの作品。ふむうむ。タイトルは、おそらくテレビの、この番組は、ご覧のスポンサーの提供でお送りします、の一部だと推測されるとのこと。途中でブチっと切った印象を残している。


「一般の魔力」

薄田併義は、自分中心に物事を考え行動する男。隣の家の雑草が自分の家の敷地に伸びてきているのをきらっふりかけた除草剤で隣の猫が死んでしまう。薄田は妻の葵子とともに、隠密裡に埋めに出かける。


なんか周囲にいそうな、自分も客観的に見るとうっかりそうでありそうな間が悪くて意地の悪い、ちっさい男の薄田。妙に昭和で現実的。他とは異質なテイストだ。ここへ来て、安部公房的なものにちょっと舞城王太郎と又吉直樹を混ぜた感じだなあ、と思ったりする。最後はオチが来て決まる。徹頭徹尾薄田が変わらないのが一つの味か。


ほか「二倍」「尻の泉」「末摘花」「先生との旅」の4篇。「末摘花」はご存知源氏物語のもじりで、だらだらと現代風に展開して、言葉も少し古典風でそれなりに楽しめた。


最近大阪のバンクシー展を観て、webの説明を読み込んだ。まあバンクシーって人は、壁に絵を描くだけではなくて、有名美術館の巨匠の絵の横に自作の絵をかけて帰ってくるとか、サザビーズのオークションで15000万円の値が付いた絵を落札直後、額縁に仕込んだシュレッダーで裁断したりとハチャメチャだ。その作品の価値は10億を超えるものもある。ピカソ以来の大物か?などと思ってしまう。


町田康にもちょっと同じものを感じないでもないでもない(小説中で使われている表現)笑。


も少し読んでみようかな。



◼️原田マハ「ゴッホのあしあと」


モネに続くあしあとシリーズ。ゴッホと日本人画商との交流を描いた「たゆたえども沈まず」への深い想い。


強く深い愛情を込めた、というのがよく伝わってくる。パリからアルル、サン=レミ、そして終焉の地オーヴェル=シュル=オワーズへ。ゴッホの足跡を現地に追い、考えを巡らせ、感性を研ぎ澄ませる。


ゴッホと弟テオの道行きには胸の詰まる感慨がある。「たゆたえども沈まず」について著者自身の解題と心情の吐露、には紛れもなくまっすぐなものが表れている。



ここ数年、やたらゴッホに関連することに触れる。ひまわりの行方を追う本を読んだり、ゴッホの展覧会が目立ったり、アニメーションでゴッホのアートを辿る作品を観て感銘を受けたり、また別の展覧会では1枚だけ展示されていた「ルーラン夫人ゆりかごを揺らす女」を観て、写真では決して心に浮かびえない、えもいわれぬ温かさを感じたりした。また最近映画になった。


けっこうみなそうではないのかなと思ったりしてしまう。


「たゆたえども沈まず」のカバーに使用されている「星月夜」は、夜の光景がぐねっていて、でもとても美しく、すごくゴッホらしい作品だと思う。


絵を観て感銘を受け、絵はがきを買って少しがっかり、生と絵はがきはかなり違う、と思った人もいるのではと思う。


ゴッホの絵は、外形が美しいばっかりではなく、どこか魅力があるものが多いような気がしている。


原田マハの想いとゴッホの概要にまとめて出逢える一冊。


前回は高樹のぶ子「業平 小説伊勢物語」に沿ったテキスト、今回は「たゆたえども沈まず」、それぞれ解説・解題の本。周辺本ばかりでなく、どちらもちゃんと読まねばだな。

10月書評の5






大阪・南港にバンクシー展を観に行ってきた。落書きをするネズミの人、くらいのイメージしかなかったが、無料のwebガイドを読み込み、いろんなアンチテーゼ、反抗の意図を盛り込む人だと分かった。美術館に勝手に自分の絵を描けたり、落札された自分の絵を公開シュレッダーしたり、なにか仕掛けをする、面白い画家。感心した。若い客層なのも納得。なかなか気に入った。


◼️高樹のぶ子

NHK100de名著 伊勢物語」


昔、男ありけり。古典の一大傑作。

10月の谷崎潤一郎特集も終わり、11月はなんと伊勢物語だという。楽しみ。テキスト買ってきた。  


「業平 小説伊勢物語」が売れている高樹のぶ子さんが講師となり、伊勢物語の魅力を紐解いていく。


在原業平、皇孫にして臣籍降下、公文書である漢文や、漢詩が苦手。出世は覚束ないが和歌の腕前はバツグン。対句などの技巧が得意、言葉の選び方には慎重で自然のあわれや情景を読ませたら絶品。


ちはやぶる 神代もきかず竜田川

からくれないに水括るとは


なんかは素晴らしい。筒井筒も、たえて桜のなかりせば、も月やあらぬ、も大好きで、伊勢物語は本当に名歌が揃っていて、良い読みものだと思う。


後に清和天皇の后となる藤原高子(たかいこ)との恋に敗れ、都にいづらくなった業平は東国へと下る。この、高子を連れて逃げ、鬼に喰われてしまう芥川の段、そして都を離れて遠く坂東の隅田川で舟に乗るシーンなどはクライマックスの一つ。


戻って、役を得るが、在原家はあまり重用されず。


同様に負け組の紀有常、源融(みなもとのとおる)、惟喬(これたか)親王と友情を育む。高樹のぶ子氏はこれをエロス的親愛、としている。ふむふむ。


境遇も、みやびも、西の京の女&高子&伊勢斎宮らとの恋についても、楽しんで振り返れる。解釈も楽しめる。テレビでそのへん、高樹氏がどう語るのか楽しみだ。


感性の触手をたくさん持っているという業平。やっぱ小説業平、読みたいな。



◼️吉田輝幸「腹筋を割る技術」


腹筋はもともと割れている。見えるようにどう外に出すか。それが問題だ。


EXILEほか有名スポーツ選手のパーソナルトレーナーである著者の「割り方」。


大きく言えば核となるトレーニング、また食事について、が後の方に書いてある。そこが全て。


それまでに、なぜ腹筋を割るために筋トレをするのがいいのか、また腹筋を割るために良くないこと、関連の筋肉の説明などがある。で、コア、体幹のこと、またアメリカでショックを受けたメソッド、モーレツトレーニングからの脱却などがある。


私は、実は我流で毎日筋トレをしている。で、昨年頸をひどく痛めたんで、首を動かす腹筋は敬遠している。ふんふんと我流に合わせた理解で読んでいた中、心にクサビが打ち込まれたのは、ジムなら週2回、自宅筋トレなら1日おきにすべし、ということ。


なぜなら、筋肉は筋トレで傷つくので、その回復の期間が必要だ、というもの。張り切って毎日やっても、筋肉は大きくならないどころか、ダメージを繰り返して筋レベルを低下させてしまう、とか。


今のやり方で最大時から12㎏減らしたので、現状で悪い気はしないが、確かに長くなってくると進歩がないような気もしている。うーん、どうしよう。一日置きにして太らないかな。


食事は、どれくらい取り組むか、著者はこまめに6食、週に1日はフリーデイという、何を食べてもいい日をつくるとしている。サラリーマンには難しいかも。あまり取らない方が、と書いているお米、私は大好きなんですね・・


やはり継続の難しさが、最大の問題点だろうと思う。最後の方は心構えや手法などのガイドだ。目標を明確に、計画的に、PDCAっぽいことも掲載されている。


ものごとを分析的に、自分を掘る。また、一流の方を担当しているからか、出来る、という主張がちょっとハードル高い雰囲気も感じさせるかな。


かといって、慮りすぎて、家事中にかんたんダイエット、と続くものとは思えないんだよね。こういう私も、自分のノウハウを崩したくない、という気が強いのか。


ヒントとなれば、という本でした。毎日はやめようか、どうしようか。

10月書評の4





父から季節の便り、大分・日田市の新高梨が。やっぱこの季節には大型の新高がなくっちゃね、と。新梅田シティに中国映画「鵞鳥湖の夜」を観に行った。凝った正統派カメラワークをする監督さんで評価も高い。「藍色夏恋」に女子高生役で出ていたグイ・ルンメイが娼婦役できわどい演技をしていた。

◼️幸田文「流れる」


芸者の世界、騒動と死と移り変わり。女の世界だねえ、と。


幸田文の初期作品で、日本芸術院賞、新潮社文学賞などを受賞して作家としての地歩を固めたとされる作品。


後家の梨花は、芸者置屋「蔦の家」で住込みの女中になる。女主人、その娘勝代、女主人の姪の米子とその娘不二子が同居、猫と病気の犬がいた。通いは蔦次、染香に若いなな子。通いの一人だった雪丸は旦那を持って出て行き、借金を踏み倒し逃げたなみ江については、叔父の鋸山がたびたびゆすりに来る。


やがて零落が進み・・


芸者の世界、いわゆる花柳界に集まる女性の姿。若くもなく借金まみれの染香。若いだけにお座敷の声もかかり、几帳面な性質のなな子。強気でおぼこの勝代、梨花が死の予感を抱く不二子。鋸山は姪のことで談じこみ、トラブルを恐れた主人は金を渡してしまう。


やがて鋸山の件は警察の関わるところとなり、蔦次は囲われていた大尽の正妻が亡くなり、蔦の家をでて行く。


やはり、いわゆるくろと(玄人)の世界、女の世界を生々しく描いている。しろとの梨花はこの変な社会をかしこく立ち回る。鋸山の件で女主人は少なくない金額を2度も渡す。警察の厄介にはなりたくないし、税金面でも未納があるため公に出したくないとして主人はズルズルと鋸山とつきあう。通い芸者にも公正でないような感じ。


しかし梨花はいいかげんな女主人のことを芸者としてはとても艶やかだと思う。また、なな子を可愛らしく愛おしく感じたりする。それぞれのキャラをそれなりに組み上げていて、なかなか幸田文厳しいな、と思うキャラもいる。特に最初の方はなかなか人間関係が把握できない物語だ。


期間が過ぎて行くにつれ変化が現れる。その頃には各キャラの特質も分かってくる。


解説にも取り上げてあるが、幸田文は擬声が多く、かつ上手い。私が引っ掛かったのは

最後の方、国電の走る音を「とどろとどろ」としているのにはほお、とおもった。


サラサラとした文章で、置屋の裏側的な女の日常やごたごたした状況を丹念に描いている。ただ愉しむ話ではないが、相変わらずそこかしこに面白い表現もあった。


犬の死や時の移り変わりは効果的に物語の波をつけている。「おとうと」よりも劇的要素は小さいけども。


うーんもひとつかな?次は随筆を読みたいな。




◼️谷崎潤一郎「陰翳礼讃」


読みものとして本当に面白い。谷崎が美を見つめる眼と、その表現。懐かしさも。


私が子供の頃、ニュータウンというものが出来つつあり、今に連なる新築の建売住宅に住み、おやつにケーキが出るような家庭が増えていた。我が家は少し古かったから、まだ障子も襖もあって、貼り替えはちょっとしたイベントだった。


そんな日本人の家屋、また寺や和風の造り、その光と闇に美しさを見い出す感じ方と、賛美の文章が素晴らしい。


日本の家屋はおそらく必然から来た暗さがある。谷崎はこう述べる。


「われ/\の先祖は、いつしか陰翳のうちに美を発見し、やがては美の目的に添うように陰翳を利用するに至った。事実、日本座敷の美は全く陰翳の濃淡に依って生れているので、それ以外に何もない。」


そして.障子について、


「私は、書院の障子のしろ/\としたほの明るさには、ついその前に立ち止まって時の移るのを忘れるのである。」


大きな伽藍の座敷などでは


「何か眼の前にもや/\とかげろうものがあって、視力を鈍らせているように感ずる。それはそのほのじろい紙の反射が、床の間の濃い闇を追い払うには力が足らず、却って闇に弾ね返されながら、明暗の区別のつかぬ昏迷の世界を現じつゝあるからである。」


と、やや大仰に分析、表現する。


ここはもう、障子の中で暮らしたことのある人の実感を、ふつうに過ごしていた日々の美がいかに心に残っているかを、思い出させてくれるくだりだ。心がツンツンする。


さらに金色の効用について。


「暗がりの中にある金襖や金屏風が、幾間を隔てた遠い/\庭の明りの穂先を捉えて、ぽうっと夢のように照り返しているのを見たことはないか。」


と呼びかける。


これを沈痛な美しさ、とし、さらに回り込んでみると・・長いがそのまま引用。


「金地の紙の表面がゆっくりと大きく底光りする。決してちら/\と忙がしい瞬きをせず、巨人が顔色を変えるように、きらり、と、長い間を置いて光る。時とすると、たった今まで眠ったような鈍い反射をしていた梨地の金が、側面へ廻ると、燃え上るように耀やいているのを発見して、こんなに暗い所でどうしてこれだけの光線を集めることが出来たのかと、不思議に思う。」


見たことあるような気がする。少なくとも金色がぽうっと照り返しているのは記憶にある。夜の金色のイメージだ。もうこの表現にはやられる。金が多いのは、闇が多いからだ、と。


さて、前後して切り貼りするが、食べ物の表現も本当にみずみずしい。谷崎一流だ。


「第一飯にしてからが、ぴか/\光る黒塗りの飯櫃めしびつに入れられて、暗い所に置かれている方が、見ても美しく、食慾をも刺戟する。あの、炊きたての真っ白な飯が、ぱっと蓋を取った下から煖かそうな湯気を吐きながら黒い器に盛り上って、一と粒一と粒真珠のようにかゞやいているのを見る時、日本人なら誰しも米の飯の有難さを感じるであろう。かく考えて来ると、われ/\の料理が常に陰翳を基調とし、闇と云うものと切っても切れない関係にあることを知るのである。」


なるほど、容易に想像できる。現代の家の照明は明るいけれど、それでも我々なら誰もが分かる。そして、めっちゃ美味しそう。ひとつぶひとつぶ、の書き方がまたいいな、と。


スイーツ編。羊羹について。


「玉ぎょくのように半透明に曇った肌が、奥の方まで日の光りを吸い取って夢みる如きほの明るさを啣んでいる感じ、あの色あいの深さ、複雑さ」

「あれを塗り物の菓子器に入れて、肌の色が辛うじて見分けられる暗がりへ沈めると、ひとしお瞑想的になる。人はあの冷たく滑かなものを口中にふくむ時、あたかも室内の暗黒が一箇の甘い塊になって舌の先で融けるのを感じ」る、と。


論の中で、谷崎は陶器よりも漆器のほうが陰翳を反映する、と言っている。1933年から34年、にしたためられたこの随筆は、西洋文化と東洋文化をしつこいくらい対比している印象批評だ。


現代では、西洋のラグジュアリーな、スッキリとした雰囲気に憧れる一方、日本的なものも見直されている。両者の度合いはますます強くなっているように私には見える。


子どもの頃ふつうだった和心が特別感を帯びて来たのは、再評価か、それとも西洋がより張り出してきたために日本人が本能的に求めるその強さが増したのか。西洋人並みにすでに日本人が東洋趣味的になっているのか。


戦前の当時も洋服、ナイフ、フォーク、電燈というものは巷に定着していた。谷崎は鋭い審美眼と、おそらく日本人としての矜持があったのだろうと思われる。


いずれにしろ混在している中で、日本の良さを見る、その現代がだから良いような、なんだか逆にノスタルジーが増すような、なんて考えながら読み終えた。満足。

10月書評の3







「細雪」の舞台は芦屋だが、神戸・東灘区には住まいのモデルとなった家が保存・公開されている。谷崎はここで、松子夫人とその妹、娘と女所帯で暮らした。2階の部屋は、冒頭の、女所帯のにぎやかな身支度の光景を思い出させる。また、母の実家の福岡・柳川市の古い家を思い出した。かなわないけど、もう一度あそこに泊まりたい。

◼️谷崎潤一郎「春琴抄」


かなわんな、色んな意味で。やっちゃうのが谷崎なんだなあと。耽美的な女性美。


覚悟して読んだのだが、やっぱそのシーンでは目を背けてしまう。「盲目物語」は既読なので「春琴抄」だけで。


明治十九年に没した裕福な薬商の娘、鵙屋の春琴。舞台は大阪・道修町。春琴は容貌が端麗にして高雅、美しい娘だったが、九歳にして病で視力を失う。琴三味線に才能があり、高名な先生に習った。いつも手を曳くのは、春琴の指名により、丁稚の佐助となった。


年頃になった時、春琴は佐助との間に子を成すが、佐助を丁稚としか見ておらず、結婚なんてとんでもない、という態度を取り続ける。そして、弟子を取るようになった春琴は、その態度と美しさが不幸を呼び、押し入った者の手で醜い姿となる。見られたくない、と言われた佐助は・・


有名な話なので成り行きをご存知の向きも多いだろう。佐助、後の温井検校、は盲目となり、お嬢さんと使用人、という態度を崩さなかった春琴は、佐助に心を許す。佐助は生涯にわたりこのお嬢さんのすべての面倒を見る、という話。


女性を礼賛する、佐助は盲目となってからそれまで見えなかった春琴の美しさが見えてきた、という。


佐助がトイレも風呂もすべての面倒を見ていた、とするのが谷崎らしい。視覚だけでなく肌の手触りも、嗅覚も、五感を使いさらに物理的に視覚を捨て去ってもさらに女性に仕え新たな美を得る、その行きすぎて危険なところもまた谷崎。


春琴が佐助に教えるきっかけとなる、深夜、闇の押入れの中、佐助の三味線練習は暗示的でまことに上手すぎる。ため息が出る。


文体は、句読点と「」を極力省いた、実験的な文体。もともと一文が長くてでも上手い谷崎にしても異様な文体だが、特に意味が取りにくいわけでもないのが面白い。


昔、北野武監督のオムニバス映画「Dolls」を思い出す。


トップアイドルの春奈は交通事故で顔に大きな怪我を負い、片眼を失って芸能界から姿を消す。春奈にどうしても会いたい熱狂的なファンの温井は、春奈が誰にも見られたくないと親戚の家に身を寄せている、と聞いた温井は見られたくないのなら、と・・。会いに来た温井を春奈は覚えていて、手をつなぎ散歩する。


春奈は公開当時19歳の深田恭子だった。菅野美穂と西島秀俊の恋愛譚、三橋達也と松原智恵子の老いらくの不思議なデートものとのオムニバスだった。芸術系のイメージが強い作品。


この危うさ、狂気をも伴いながら、女性の美しさを、稀有なバランス感覚で表出するのが独特の技だろうと思う。ただの芸術ではない。


ここのところ谷崎をだいぶ読んで、記念館行って、「細雪」の舞台、谷崎が住んでいた神戸の倚松庵も訪ねた。


「刺青」の怪しい耽美とモダニズム、「吉野葛」の歌舞伎などの知識を絡め母への憧れを浮き立たせた傑作「吉野葛」、別れない夫婦を描き、途中の淡路島人形浄瑠璃見物行がまるでヘミングウェイ「日はまた昇る」の牛追い祭りを想像させた「蓼食う虫」、そして関西の四姉妹を描く「細雪」。数々の作品で、さまざまな手法で女性の美しさや、女そのもの、また日本文化を彩り豊かに描く、文学的な谷崎。


また国会で「芸術家猥褻か」と論争になった「鍵」ほか今作でも、「やっちゃう人」というイメージも強い。いや、谷崎ってすごい人、と最近感じてきた。


さて、NHK100de名著」本日(20201019日)のテーマが「春琴抄」もうすぐだ、ギリギリ間に合った〜!





◼️長野まゆみ「あめふらし」


ものなれた妖し、異界の描写。サラサラと流れる文章。長野まゆみの変遷。


先行の連作短編集「よろづ春夏冬(あきない)中」の一篇「雨師」の世界を広げたものらしい。


よろず屋・ウヅマキ商会の橘河のもとでアルバイトをしている市村は、依頼により蛇を生け捕りに行くという橘河と一緒に出向く。礼装で来た橘河に風呂に入れと命じられ、風呂では脱皮の途中だという女と出会う。そして風呂から出ると、下帯に白装束を着せられ、未婚のまま死んだ娘と祝言を挙げることになるー。(蛻のから)


橘河は人外の者どもを相手にする存在で、市村はタマシイが器となる人を渡り歩く存在。また社員の男前な仲村と同じように橘河にタマシイをつかまえられてしまっている。市村には立派な「うろこ」がある。


生と死、タイムスリップ、よく降る雨、蛇、女・・不可解な出来事とその解決は分かるようなそうでないような。怪しい気の漂う、レトロで異質な世界。


お得意のボーイズラブも絡む不思議な物語は文章的にもサラサラと進む。


時に味のあるテイストや緊張感のある表現にクスッとしたり唸ったり。


「紅葉狩りには鬼が出るんだよ。おとうさんがそう云ってたんだ。」と能や歌舞伎でも演じられる戸隠山の鬼伝説に触れたりする。


「夜半に唐紙をひっかく音が聞こえた。(中略)ふいに、唐紙のすきまから糸のように細くあかりがもれた。畳のうえを一筋の光がのびてゆく。誰かが連れだって座敷のなかにはいってくる。市村は起きあがろうとしたが、どうにもからだを動かせない・・」


これが後者の例で、夜の闇に息を殺しそっと襖を開けて入ってくる様が見えるようだ。これがいいタイミングで入り、読んでるこちらが引き締まる感じがする。いつもながら長野まゆみは張りつめた感覚の表現がうまい。


ところで長野まゆみといえば、美少年、男しか出てこない話を多く書き、宮沢賢治風の「少年アリス」で多くのファンを獲得した。関連作品の「夏至祭」「野ばら」や、近未来的な「天体議会」なんかもナイス、また「東京理科少年」もおもしろいと思う。


ある時期から、いまのような、含蓄深く少し妖しく、サラサラと流れる文章のスタイルに変わったような気がする。最初読んだ時は長野まゆみに女が出てる、とおどろき、興味深く読んだもの。本書の解説に変遷が触れてある。著者の文が取り上げてある。


「謎めいた密やかな生きものに似た少年をさんざん書き散らしたあれはいったい何だったのだ、と思う人があるのは承知だが」



「舞台装置がさまがわりしたことは認める。でも、いつまでも同じ場所に立ちどまっていられるわけでなし」

「かつて書いたものを帯のなかにいっしょに巻きこんで先へ進むわけにはいかない。」


とのこと。この変化の後、同様の文調で書かれた「冥途あり」で泉鏡花文学賞と野間文芸賞を獲得している。


なるほど、泉鏡花と言われれば、確かにそんな気が強くなる。幻想的、家族的な面を持つかなと。



好きか嫌いかと言われるとまだなじめない。まあまた長野作品を手にするだろう。新スタイルで、かつての「少年アリス」のようにバズる作品を心待ちにしている。


「改造版 少年アリス」も読みたいな。