◼️遠田潤子「雪の鉄樹」
謎、というものを考えさせられる。ひたすら濃く疾走する筆致に捉えられる。
長いこと積んでいた本。なかなか手が伸びなかったのに読み始めたらあっという間だった。
庭師の男、雅雪は30歳を過ぎたばかり。身体中がひきつれている。頭は真っ白な白髪。荒れた中学生・遼平のため警察に行く。遼平の祖母・文枝はこれ以上ないくらい雅雪に冷淡だ。家は「たらし」の家系。清々しく思える作庭関連の言葉の上に、不穏な影と重い過去を想像させる。
過去と現在を行ったり来たりしながら、次第に謎が明かされていく。雅雪の理解者は、あんたのせいやない、という。舞子、郁也という名前がバラに出てくる。殺人?事故?誠実に思えた雅雪の頑なぶりが浮かび上がる。不必要な不幸を背負い込む。
ミステリーばかりでなく、だいたいの物語には謎があってそれを引っ張ることが多い。だからこそストーリーに魅力が出る。本作はその隠し方と真相が分かってくる過程に趣向が凝らされている。ん?ん?と感じさせて中盤に全て分かる。そこからは過去から現在へ疾走感が続いているような感じで息つくヒマなく一気に加速して読ませる。熱量に溢れた作品であることは間違いない。
作庭のことや小道具などは細かく行き届いていてまた魅惑的。東福寺の市松模様の庭は見に行きたいと密かにロックオンしていて、これを機会に訪れようかなと。
さて、正直違和感もあった。
多くの物語はフィクションで、当然ながら架空の話の流れを著者が組み立て創り出す。ただこの作品には著者のいいようにシチュエーションを組み過ぎているような気がしてしまった。架空、フィクションなので矛盾はあるのだが、人工的すぎるというか。自動車事故の裁判や、感情の発露などどうも甘く見える部分もある。
雅雪は不幸な生い立ちで、それこそ過去現在問わずずっとひどい目に合っている。無視され罵られ、火に包まれ、悪天候の断崖を泥まみれとなってもがく。さらに何にどう意地を張ってるのか、こだわっているのか、おかしく思えてくるくらい。それが狙いなんだろうとは思う。
そして最後に光が・・。先は読めるのだが、ここでやっぱり良かったなあと。予定調和。でもこの濃ゆい設定と悲惨さと疾走感があってこそ生まれる心持ちの良さ。これもひとつの形かな、と最後に思えた。夢中で読めます。
◼️「陶淵明」
帰りなん、いざ。隠逸の田園詩人。評価は死後だが、新しいものを生み出した人。
これまで漢詩は「香炉峰の雪」の白居易、「国破れて山河あり」の杜甫、また李白といった唐代の詩人を読んできた。陶淵明はぐっと古く、六朝、300年代から400年代の方。後のように五言、七言、絶句、律詩といった型式も確率はされていないが、対句は多用されている。
陶淵明は、若い頃には雄飛の願望も持っていたようだが、官についてもすぐに辞し、田園生活を好んだ。当時は農耕の日々や家族のことを題材にするのは異質で、また珍しい寓話的な話も創作しており、死後、唐や宋の時代に至って評価が高まったらしい。陶淵明を源とする言葉もある。不思議となじみやすいな、と読んでて感じた部分もあった。
◇形影神
言神辨自然以釈之
神の自然を弁じて以て之を釈(と)けるを言う。
たましいが「自然」について説明して、肉体と影、両者の惑いを解いてやることを述べる。
形影神は、形、肉体と影、に悩みを述べさせて、最後に神、たましいが判断を下してやる、という型式を取った問答の詩。「自然」とは陶淵明がよく使う言葉で、山川などのことではなく本来そうあるべき状態であること、人間本来の生き方をさすとのこと。「自然」は陶淵明の考え方を示している。
このくだりは序文で、長くなるので本文は取り上げないが、なかなか問答は型式としても面白い。後の白居易にも影響を与えたとか。
◇帰園田居 園田の居に帰りて
曖曖遠人村 曖曖(あいあい)たり遠人の村
依依墟里煙 依依たり墟里の煙
狗吠深巷中 狗(いぬ)は吠ゆ 深巷の中
鶏鳴桑樹顚 鶏は鳴く 桑樹の顚(いただき)
田園の住まいに帰って
遠くの人里はぼんやりとかすみ
村里の煙が慕わしげに立ちのぼっていく
犬は露地の奥で吠え
鶏は桑の木の枝で時をつくる
陶淵明は県知事を辞して故郷の廬山付近に帰っている。ありふれた農村ののんびりとした風景。この部分は私にも想像できてのどかな気分になった。当時このような描写は一般的でなかったが、こののびやかさ、のどやかさが陶淵明の詩が今日でも読まれる理由の一つだとか。
◇帰去来辞
帰去来兮 帰りなんいざ
田園将蕪胡不帰 田園将に蕪(あ)れんとす
胡(なん)ぞ帰らざる
既自以心為形役 既に自ら心を以って
形の役と為す
奚惆悵而独悲 奚(なん)ぞ惆悵
(ちゅうちょう)として
独り悲しまん
さあ帰ろう、
田園は荒れ果てようとしているのにどうして帰らないのか。
自分から精神を肉体のしもべにしてしまったのだ。
どうしてそれをひとり嘆き悲しんでいてよいだろうか。
陶淵明の言葉で有名なものといえばこの「帰去来」だろうと思う。小説のタイトルにもあり、私はさだまさしのアルバム名で知った。
序文には事情を記し、このくだりの後には官職を辞して軽やかに故郷へ帰る表現が続いている。一種透徹した思想というか、陶淵明の作品を代表する心持ちが綴られている。
漢文を読むときは語感や、言葉の意味などにそそられるものがある。「霞」は朝焼けや夕焼けの燃えるような雲のこと、とか、月の光を表す時の皛皛(きょうきょう)として、だとか。また陶淵明は「桃花源記」という、桃源郷の元となったファンタジックな昔話風の物語を残していて興味深い。
今回も素人なりに漢詩を楽しめた。次は四書五経か歴史書か。まだまだ読みたい。
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