2020年3月29日日曜日

3月書評の7





写真はとても小さい花、ヒメオドリコソウ。下の「月下の門」で思わぬ形で「伊豆の踊り子」を再読した。タイミングが合って妙に嬉しかった。

さて、コロナである。

なんで他国は検査の数を増やしているのか、日本は違うのか、が知りたかった。テレビではなかなか解説してくれない。断定するには情報不足なのかも知れない。私なりの解釈、間違ってるかもなので信用しないように。

コロナはまず中国で爆発的に感染者、死者が増大した。そこからしばらくして、ヨーロッパ・アメリカで拡大、死者も信じられないくらい激増している。日本も感染者は増えるペースが上がっている。しかし欧米と比べると死者は格段に少ない。

「方式」の問題がある。なぜ他国は検査を多く行うのか。

やはり先例が中国にあったから、というのが大きい。大規模に検査して、感染者をすべて隔離し、都市封鎖をして抑え込む、という手段だ。中国はこの方法で、すでに国家的危機が去った状態とされている。

先例が中国にしかなく、成功しているように見える。そして、やはり現状を正しく把握したい、というのは人情であり近道とも思える。

しかし・・体育館や倉庫、さらに外にテントを張って簡易ベッドを敷き、銀紙のような毛布をかけて感染者を収容する。衛生状態はシロウト目にもいいとは見えない。おまけに医師は足りず、現場ではかなりの医療従事者が過重労働の上に多く亡くなっている。感染者に充分な治療が行き渡らず、貴重な治療する側の人間が減っているのだ。

まだ寒い時期、このような状況では死者はやはり増えて当然と思える。

日本はここ数年の新型インフルエンザの脅威から、マスクをするのは当たり前というベースがあり、手洗い、うがいも以前より励行されている。外国人観光客は、マスクしている日本人が多いのに驚くことが多いが、それだけ欧米ではマスクをするのが一般的ではないということだ。

もうこれでだいたい結論に近いかと思うが、日本が大規模検査をしないのは医療崩壊を招かないため。前提として特に若い層では死亡リスクが高くない、ということがある。

この方針と日本人の習慣が死者増を抑えている。欧米各国は、中国のやり方を真似ているがうまくいっていない。どちらが良かった、仕方がなかった、はまだまだ先の議論だし、日本でまだオーバーシュートが起きる可能性も十分高いのだ。

東京都はきょう判明した感染者が68人。この数日で40人台から60人台となり、日々最高を更新している。うち20人から30人は特定施設のクラスター。関西は数的には落ち着いている。

以前書いたと思うが、3月初頭から検査が簡易になったので、1日の検査人数はかなり増えている。で、クラスターが判明している。

私的には、まだコントロールできる数では?と思う。都市封鎖なんて先の議論であり、先に非常事態宣言、外出原則禁止の先にあるものだと思う。心の準備は必要だが騒ぎすぎ。死者少ないんだから。

さて、来週は悠長にこんなこと言ってられるだろうか?先のことは誰にも予想できない。

◼️マイケル・ルイス「マネー・ボール」


盗塁禁止、送りバント禁止、ヒットエンドランなんてとんでもない!?頑迷なメジーリーグに貧乏球団アスレチックスが投じた手法とは。


映画にもなったんだろうか。長らく積ん読しててようやく手に取った。2000年代初頭のアスレチックスの進撃の話をまとめた本作は話題をさらい、多くの感情的な反応も起きたようだ。


本書をひとことで言えばデータの活用法、となると思うが、また人の活性化でもある。


将来を嘱望されながらメジャーリーグで活躍できなかったビリー・ビーンはフロント入りを希望し、やがてアスレチックスのGM・ゼネラルマネージャーとなる。独自の野球データ論を構築したビル・ジェイムズの本に衝撃を受けたビリーは、ハーバード大学卒のポール・デポデスタを補佐として、新たな指標をもとに大胆なチーム戦略を立てる。


彼らはこれまでの打率、打点、ホームラン数という指標に疑問を持ち、出塁率や四球を選んだ数、投手に何球投げさせたか、などを重視して選手をセレクトしていった。ドラフトでは他球団が注目しなかった選手を取る。高校生に投資するのは効率が悪いとして大学生ばかりだ。面白いのは背が低い、太っている、球が遅い、などの理由でプロ球団が獲得を見送る選手を多く獲得したこと。トレードでも評価されていないプレイヤーを安く取る。そして強い。


メジャーリーグは、年間162試合制。1998年に74勝で負け越したアスレチックスはビリーがGMに就任した1999年には87勝と勝ち越し、2000年には91勝、2001年には102勝もして2年連続でプレーオフ進出を果たした。


ビリーは柔軟の裏には当然冷酷さも併せ持つ。価値が上がった選手は売って利益を得る。常に補強に動いていて、シーズン中、プレーオフ進出の見込みがなくなったチームから取ったり、評価されずお払い箱になりそうな、でもアスレチックス流の指標に見合う者を迎えたりと活発だ。


盗塁、送りバントは基本的に禁止。選手の判断で行うとビリー自らが選手を叱る。


野球好きの視点でいうと、どんな優れたキャッチャーでも盗塁阻止率は4割程度なので、6割成功するなら、しかも得意とする選手ならもっと確率が上がるし、どんどん走った方がいいと思ってしまう。しかしアスレチックスにとっては2回に1回程度アウトになる作戦は無意味ということなのだろう。送りバントは貴重なアウトを費やすことはない、である。明快だ。


また、GM自らが口を出すのは現場にとって嫌な雰囲気をもたらしかねないが、逆に球団としてのメッセージが明確とも言える。なにせ結果が出ているのである。


基本的に守備力は勝利にどのくらいつながるのか、明確な指標がないので重視しない。一方でグラウンドを何百の地点に割り、豊富にある打球方向のデータを駆使して、どこのどんな打球を選手がアウトにすれば得点率を下げることができるか、なんて研究もしたりする。ホームラン、四死球、三振以外は投手の責任ではない、というラディカルな理論も入れたりする。シーズン前に自軍の得点数、失点数、勝利数まで計算し、大きく間違わないのだから恐れ入る。


この本で読む限りは、アスレチックスの内情が表に出たことで、さまざまな拒否反応が出た。で、読む限りは、非難の方が理論的でないように思える。戦略に対してネガティブな側面を捉えるという簡単な反論のように見える。


でもそうだろうな、とも考える。日本の場合は期待の高校生選手は観る方の期待感を刺激するし、盗塁や送りバントは理に適っているようにも見える。作戦成功の陶酔感も捨てがたい。


ただ、体格や足の遅さ、投球のスピードだけで選手を図らず、評価する、というのには好感を覚える。また、私的にももう少し野球は科学できるのではと常々思っているので、新しい指標を作り、戦略を組み立て、結果を出すのは素晴らしいと思う。ルール違反なんて全然してないんだから。


まあ日本の野球にもなじまないんだろうけど、こういうヒントはいくらあってもいいんじゃないかな。


面白いもので、この前の本が川端康成の、しっとりした文調のものだっただけに、ネタは好きだがのっけからアメリカンな文調ー!生き馬の目を抜くメジャーリーグー!というのに押されてそのギャップについていけなさを感じたまま完読しました。


◼️川端康成「月下の門」


川端康成をゆったりと、ぜいたくに楽しめる本。随想と短編小説、なんとあの名作も。


川端康成の各時代、随想を18篇、小説を4篇。小説は22才の時の「油」、そしてなんと27才で書いた「伊豆の踊り子」まるまま、戦後まもなく47才の「再会」、59才の「弓浦市」となっている。川端好きな人にはなんとも満足度の高い構成になっている。


まずは随想。川端らしく美術品に関する好み感想、智積院「滝図」高桐院「山水図」、おっと京都、今度チェックしなくては。池大雅、は昨秋「川端康成と美のコレクション展」で所蔵の絵を見たなあ。尾形乾山や浦上玉堂「凍雲篩雪」。思わず調べる。読みながら忙しい。


その合間に谷崎潤一郎が「春琴抄」で描いた鶯だか雲雀だかは、谷崎、鳥を飼ったことないか飼ってから日が浅いか、瑕瑾のようになじまぬ、「蓼食う虫」のグレイハウンドは飼いなれてるかなじんだのは確かという批評がある。面白いじゃない。油断ならない(笑)。


「古都など」では京都や奈良への愛がにじむ。川端は大阪と京都の間、大阪・茨木市で少年時代を過ごした。当地の記念館行った。


「奈良、京都は日本の古里にしても、奈良には古い町がない。京都らしい町のまだあるうちに、私は京都をもっと見ておきたい」


うーんその通りといっては奈良の方に叱られそうだが印象的にはそうかも。


軽井沢の家に暮らした日々のことが多い。「秋山居」では堀辰雄や芥川の名前も見える。美智子妃殿下との思い出も語られる。


昭和22年の「哀愁」は他で読んだことがある。


「敗戦後の私は日本古来の悲しみのなかに帰ってゆくばかりである。私は戦後の世相なるもの、風俗なるものを信じない。現実なるものもあるいは信じない。」


「(織田作之助)「土曜夫人」も「源氏物語」のあはれも、その悲しみやあわれそのもののなかで、日本風な慰めと救いとにやわげられているのであって、その悲しみやあわれの正体と西洋風に裸で向かい合うようには出来ていない。私は西洋風な悲痛も苦悩も経験したことがない。西洋風な虚無も廃頽も日本で見たことがない。」


戦後の価値観を信じない、という矜持があったというイメージがある。戦後間もないだけに生々しくもある。文芸論でもある。


永井荷風の死を悼み、芥川に厳しいとも思える批評をする。特に文芸批評はキレ良くも、どこか小難しく煙に巻く風味があるのも川端か。「伊豆の踊り子」で有名になってしまってから行き難かった伊豆、昔逗留した部屋を40年ぶりに訪れる「伊豆行」、続く「京都」はすっきりして気持ちのいいエッセイ。取り上げられている速水御舟の樹木の絵、にまた興味。


ペンクラブ会長として海外を訪問した経験も軽いタッチで書く。


そして満を持して「伊豆の踊り子」。薫は清冽だ。私的には後の円熟味を増した川端の方がどちらかというとしっくりくるが、踊り子は明確でなく訴えかけてくるものが、やはり名作。出だしの


「道がつづら折になって、いよいよ天城峠に近づいたと思う頃、雨脚が杉の密林を白く染めながら、すさまじい早さで麓から私を追って来た。」


が好ましい。小説の良い匂いがする。


続く小説のタイトルが「再会」なので、すわ、踊り子の後日談?などと色めきたってしまったが違った。かつて別れた男と女が戦争を挟んで偶然の再会を果たし敗戦後すぐの東京を徘徊する話。川端独特の表現が続き、短くもイズムに浸れる小品だ。


最初の方はちょっと時間がかかったけれども、300ページちょっとにたくさんのものが詰まったなんとも贅沢な一冊。借りて良かった。くふふ、などと微笑さえ浮かべて読む私はまったく、ちょっとおかしな、ビブリアの栞子さんみたいな、川端シンドロームである。

3月書評の6




各地桜がピークに向かおうとしている。

この日曜日、福岡はよく晴れた春の天気、関西は曇りのち晴れだが寒くダウンの気候。関東は積もるくらいの大雪。

東京でコロナの感染者が増え、外出自粛要請。大阪・兵庫の往来自粛が先週の3連休に出された関西は現状維持。そう簡単には収まらない。ただ、もう少しだけでも引き締めないといけないかな。次の稿にも。

◼️清家雪子「月に吠えらんねえ 11巻」


半分くらいしか分かってないけどたぶん^_^納得のいく終わり方だったかなと。壮大で難解な実験的文芸マンガ、ついに完結。


全体の、多分20パーセントくらいしか理解してないのですが、途中で読まなくなることもなく、遂に完読しちまいました。自分でも信じられない思いです。シリーズ完読してるのは、他に詩歌好きの私の文芸師匠くらいしか知りません。さっそく師匠にもLINEしようかと思います。「壮大で難解」とはこの年下の女性師匠の言葉です。


さて、全ての謎が解ける巻。このマンガの大きな軸が、文人の戦争協力、翼賛作品を書いた後悔、ということだった。精神的な意味で軍部とともに国民を戦争に駆り立て、積極的に参加させた、多くの若い兵士達の命を散らし、市民にも多大な被害を与えた片棒をかついだ、というものだろう。また、萩原朔太郎、北原白秋をはじめ主要キャストの一部は戦争終結の前に亡くなっているからよけいややこしい。


日本を舞台にしたカズオ・イシグロ「浮世の画家」では、戦争に協力した画家が戦後敬遠され忌避されるようになっていくさまが描かれている。


うーんこのままやはり良くないことだった、で終わるのかな、と思っていたが、三好達治、ミヨシくんの決定的なセリフは、そうそう、そこそこ、というものだった。


戦争は勝ちと負けで大きく善悪が処を変える。残念ながら。その時、その立場で何が出来たか、というのも大事な想像力だと思うし、時代の雰囲気というのも貴重だ。もちろん、厳しく割り切れない現実が残るのも分かる。


しかしまた、その時代の史観に捉われた判断では結局評価しきれないだろうと思ったりもする。


まあともかく、多くの文人を楽しくキャラクター化し、けっこうわけ分からないながら惹きつけられるドラマを作り、見え隠れする壮大な軸をうまく完結させる力にはほんとうに感服。


この作品が持つ魔力というようなものに憑かれた、楽しい時間を過ごしました。通しで読み返すのが今後の楽しみな課題です。


MVPは、やはり室生犀星、犀さんかな。



◼️篠﨑紘一「万葉集をつくった男」


大伴家持の一代記。聖武天皇以降の時代の小説は新鮮で、好きな万葉集の成り立ちが分かって興味深い。少し怨霊系なところにほっとしたりする。


8世紀後半に成立したと見られている万葉集。全204500首以上の歌が収められているが、うち1割以上の歌が大伴家持作であることから編纂に関わったとされる。


聖武天皇、大仏開眼から、平安京遷都した桓武天皇までの時代。家持は平安京を見ることなく没している。私は聖武天皇までの小説はいくつか読んでいるが、その後を題材としたものは未読で新鮮だった。それにしても、奈良時代の権力争いは本当に黒く血なまぐさい。


イメージ外だったのは、大伴家が代々武門であり、貴族中随一の軍団を擁していたということ。筑紫歌壇を主催した大伴旅人、その息子の家持と官位が高い貴族ということは分かるが、やはり文科系のような印象だった。そういえば、たしかに壬申の乱では大伴吹負たちが活躍していた。


万葉集の編纂を手掛けていた大伴家の氏上(このかみ)、家持は、大仏建立の指揮者・行基に、民に幸をあたえる世とするには、大仏と万葉集、新しい仏法という三つの燈火が必要だ、と諭される。


物語はこの理想を芯として、家持が様々な史上の人物と触れ合いながら奮闘する。叔母の坂上郎女、吉備真備、橘諸兄、若き日の最澄、道鏡、政敵の藤原仲麻呂、藤原種継。皇族は聖武天皇・光明皇后の時代から、孝謙・.称徳女帝、淳仁天皇、光仁天皇、そして桓武天皇である。


さらに熾烈で目まぐるしい政争。橘奈良麻呂の乱、藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱、氷上川継の乱、そして藤原種継暗殺事件などなど。こんなに激しい時代だったとはと少し驚き。関与を疑われる家持の骨太の対応を見ると文人貴族というのは勝手なイメージだったと思う。


ストーリーは怨霊系の色合いが強く出ている。政争に敗れ強い恨みを抱いて死んだ者たちの生霊、死霊が、勝ち残った権力者に災いを及ぼす。完成した万葉集もまた神霊性を帯びる。


有間皇子、長屋王ら謀反人の歌が含まれているとして、国の書にしたいならば外したらどうか、という藤原仲麻呂の問いに対し、家持は国人すべての歌を網羅したことにはならない、と反駁し、こう述べる。


「謀反人とされる歌には、当人の荒魂が憑いておる。それを鎮めねば怨霊として天に昇り、毒、撒き散らし、天下に害を与えることになりまする。」


あくまでも物語の、創作の言葉ではあるだろうし、本当に言いたいことは前半だろうとも思うが、私にはこの作品に貫かれている霊性、怨霊系の出来事、さらにこうした物言いがすん、と腹落ちした。合理性を求めるのもいいが、後世の菅原道真の例にもあるように、官民に至るまで、祟りを恐れる気風がある方が多少リアリテイがある気がする。タタリ系をあまり入れるとライトノベル風軽さが増すのも確かだし、そこはバランスだと思うけれども。


父母が頭かき撫で幸(さ)くあれて

言ひし言葉(けとば)ぜ忘れかねつる

                                      丈部稲麻呂


万葉集おなじみの歌も散りばめられている。謀反人も、防人も、皇族から無名の民まで、日本の東西を貫き、荒々しい方言も含まれ、史実の中の人々の心を網羅している万葉集には、私もまた神霊性を感じるのである。


楽しめた。

2020年3月22日日曜日

3月書評の5







コロナの専門家会議が、大阪と兵庫の往来を控えるよう、と両府県に伝えたのを受けて3連休直前に知事よりおふれが出た。

息子の学校は休校要請を受けて休み、卒業式だけ1週間延期して保護者、他学年抜きで実施予定だったのに、この通達を受けて完全中止、部活再開もいったん凍結、次週の発表待ちになってしまった。

たしかに兵庫大阪多いからね。一見そんなことで防げるの?とも思うがここまで地道な封じ込め策が功を奏しているとも言えるし。ちなみに通勤は不要不急には当たらないそうで、自分にはあまり影響ないかも。

欧米が直面している爆発的な感染者増、オーバーシュート。イタリアなどでは信じられないペースで死者も出ている。いずれ日本にも来る、という人もいる。日本は積極的に検査をしない方策のため、判明した感染者の数は少ないが、しかし死者も少ない。

気持ちは重い。潮目が変わったのではという感触もあるが、たとえオーバーシュートしても冷静に動くこと。かかったら即死の病気ではなし、冷静に。

◼️遠田潤子「雪の鉄樹」


謎、というものを考えさせられる。ひたすら濃く疾走する筆致に捉えられる。


長いこと積んでいた本。なかなか手が伸びなかったのに読み始めたらあっという間だった。


庭師の男、雅雪は30歳を過ぎたばかり。身体中がひきつれている。頭は真っ白な白髪。荒れた中学生・遼平のため警察に行く。遼平の祖母・文枝はこれ以上ないくらい雅雪に冷淡だ。家は「たらし」の家系。清々しく思える作庭関連の言葉の上に、不穏な影と重い過去を想像させる。


過去と現在を行ったり来たりしながら、次第に謎が明かされていく。雅雪の理解者は、あんたのせいやない、という。舞子、郁也という名前がバラに出てくる。殺人?事故?誠実に思えた雅雪の頑なぶりが浮かび上がる。不必要な不幸を背負い込む。


ミステリーばかりでなく、だいたいの物語には謎があってそれを引っ張ることが多い。だからこそストーリーに魅力が出る。本作はその隠し方と真相が分かってくる過程に趣向が凝らされている。ん?ん?と感じさせて中盤に全て分かる。そこからは過去から現在へ疾走感が続いているような感じで息つくヒマなく一気に加速して読ませる。熱量に溢れた作品であることは間違いない。


作庭のことや小道具などは細かく行き届いていてまた魅惑的。東福寺の市松模様の庭は見に行きたいと密かにロックオンしていて、これを機会に訪れようかなと。


さて、正直違和感もあった。


多くの物語はフィクションで、当然ながら架空の話の流れを著者が組み立て創り出す。ただこの作品には著者のいいようにシチュエーションを組み過ぎているような気がしてしまった。架空、フィクションなので矛盾はあるのだが、人工的すぎるというか。自動車事故の裁判や、感情の発露などどうも甘く見える部分もある。


雅雪は不幸な生い立ちで、それこそ過去現在問わずずっとひどい目に合っている。無視され罵られ、火に包まれ、悪天候の断崖を泥まみれとなってもがく。さらに何にどう意地を張ってるのか、こだわっているのか、おかしく思えてくるくらい。それが狙いなんだろうとは思う。


そして最後に光が・・。先は読めるのだが、ここでやっぱり良かったなあと。予定調和。でもこの濃ゆい設定と悲惨さと疾走感があってこそ生まれる心持ちの良さ。これもひとつの形かな、と最後に思えた。夢中で読めます。




◼️「陶淵明」


帰りなん、いざ。隠逸の田園詩人。評価は死後だが、新しいものを生み出した人。


これまで漢詩は「香炉峰の雪」の白居易、「国破れて山河あり」の杜甫、また李白といった唐代の詩人を読んできた。陶淵明はぐっと古く、六朝、300年代から400年代の方。後のように五言、七言、絶句、律詩といった型式も確率はされていないが、対句は多用されている。


陶淵明は、若い頃には雄飛の願望も持っていたようだが、官についてもすぐに辞し、田園生活を好んだ。当時は農耕の日々や家族のことを題材にするのは異質で、また珍しい寓話的な話も創作しており、死後、唐や宋の時代に至って評価が高まったらしい。陶淵明を源とする言葉もある。不思議となじみやすいな、と読んでて感じた部分もあった。


◇形影神 


言神辨自然以釈之


神の自然を弁じて以て之を釈(と)けるを言う。


たましいが「自然」について説明して、肉体と影、両者の惑いを解いてやることを述べる。


形影神は、形、肉体と影、に悩みを述べさせて、最後に神、たましいが判断を下してやる、という型式を取った問答の詩。「自然」とは陶淵明がよく使う言葉で、山川などのことではなく本来そうあるべき状態であること、人間本来の生き方をさすとのこと。「自然」は陶淵明の考え方を示している。


このくだりは序文で、長くなるので本文は取り上げないが、なかなか問答は型式としても面白い。後の白居易にも影響を与えたとか。


◇帰園田居       園田の居に帰りて


曖曖遠人村   曖曖(あいあい)たり遠人の村

依依墟里煙   依依たり墟里の煙

狗吠深巷中   狗(いぬ)は吠ゆ 深巷の中

鶏鳴桑樹顚   鶏は鳴く 桑樹の顚(いただき)


田園の住まいに帰って


遠くの人里はぼんやりとかすみ

村里の煙が慕わしげに立ちのぼっていく

犬は露地の奥で吠え

鶏は桑の木の枝で時をつくる


陶淵明は県知事を辞して故郷の廬山付近に帰っている。ありふれた農村ののんびりとした風景。この部分は私にも想像できてのどかな気分になった。当時このような描写は一般的でなかったが、こののびやかさ、のどやかさが陶淵明の詩が今日でも読まれる理由の一つだとか。


◇帰去来辞


帰去来兮   帰りなんいざ

田園将蕪胡不帰  田園将に蕪(あ)れんとす

                            胡(なん)ぞ帰らざる

既自以心為形役   既に自ら心を以って

                             形の役と為す

奚惆悵而独悲     奚(なん)ぞ惆悵

                          (ちゅうちょう)として

                          独り悲しまん


さあ帰ろう、

田園は荒れ果てようとしているのにどうして帰らないのか。

自分から精神を肉体のしもべにしてしまったのだ。

どうしてそれをひとり嘆き悲しんでいてよいだろうか。



陶淵明の言葉で有名なものといえばこの「帰去来」だろうと思う。小説のタイトルにもあり、私はさだまさしのアルバム名で知った。


序文には事情を記し、このくだりの後には官職を辞して軽やかに故郷へ帰る表現が続いている。一種透徹した思想というか、陶淵明の作品を代表する心持ちが綴られている。


漢文を読むときは語感や、言葉の意味などにそそられるものがある。「霞」は朝焼けや夕焼けの燃えるような雲のこと、とか、月の光を表す時の皛皛(きょうきょう)として、だとか。また陶淵明は「桃花源記」という、桃源郷の元となったファンタジックな昔話風の物語を残していて興味深い。


今回も素人なりに漢詩を楽しめた。次は四書五経か歴史書か。まだまだ読みたい。

2020年3月15日日曜日

3月書評の4







上は唐津城からの港。滞在中弟がやたら朝食のパンが厚いというので食べてみたらホンマに分厚かった。さよなら福岡。またまたね。今回は地元近くのホテルだけに、ものすごく妙な安心感があって、次もゼッタイここにしようと思った。帰るときにはいつも福岡で暮らせれば・・とも思うけど、それはやはり夢想であって、私は長く過ごした関西も気に入っている。

でもいつかは、だな。

行く直前は兵庫県で初めて感染者がと言ってたが、帰ってみたら10人超えてた。


◼️ジュンパ・ラヒリ「低地」


しっとりと胸に迫る。「停電の夜に」のラヒリの長い長い物語。


催涙ガスの臭いを嗅いだことがある。学生最後の年に国際交流で釜山大学へ行った。学生による激しいデモが行われ、門の外には機動隊がいて、胡椒を含んだような強烈な臭いが緊張感をいや増していて、息を吸い込むだけで涙が出そうになった。折しも東欧で共産党政権が崩壊していた時期だった。この小説の序盤と時代は違うが、なんとなく思い出した。


カルカッタ近郊、低地のそばで育った冷静な兄スバシュとやっちゃなウダヤン。兄はアメリカへ留学し、学究肌のウガリと結婚したウダヤンは過激な政治運動に身を投じ悲惨な最期を遂げる。スバシュは家族に疎まれていたウガリをアメリカへ連れ出す。


ショッキングな場面がずっと尾を引く。夫婦として暮らす決断をしたスバシュとガウリだったが・・。


ラヒリは、30代で執筆した「停電の夜に」という短編集がいきなりピューリッツァー賞を受賞し、一躍有名となった。同作の文庫版カバーの著者近影が映画女優のように綺麗で驚いた覚えがある。両親ともインド・カルカッタ出身のベンガル人で、幼少時にアメリカのロードアイランド州へ移住した。


作品には自分の出自にちなむベースが敷かれている。今回もカルカッタとロードアイランドがメインの舞台となっている。


イデオロギーと政治状況が混沌としていた1960年代から現代まで。この作品はガウリがアメリカに行ってからがいわば本筋だ。


ガウリには娘ベラが生まれる。すぐ近くに大学がある、娘は自分よりスバシュに懐く。アメリカという環境はガウリには安寧をもたらしたが、どこか納得できない、抑えきれない感情が湧く。小説中に「ぎざぎざの怒り」と表した言葉に胸が突かれる。ガウリは決断し、スバシュやベラと向き合わないまま長い月日が過ぎる。



ベラが成長してスバシュとガウリが老いて現代に至るまでの物語。長い時間に環境が変わり、故郷も変わり、その中でもがく。ある程度の年齢の方なら実感を持って読むことができる話だと思う。



それぞれの時間を過ごし、自分の人生に引っかかったまま残したこと。ガウリにとっては捨てたも同然の娘であり、スバシュにとってはベラに伝えていない出生の秘密だった。そして清算する日がやってくる。受け止めなければならないベラの心持ちは計り難い。


ほのかな温かみと誰にもある後悔を感じさせて終わりを迎える。


ベラの姿には、角田光代「八日目の蝉」を思い出した。父がが愛人を妊娠させ、その愛人にさらわれた娘は親元に帰り成長して不倫の子を宿す。自分が突き放し距離を置いたはずのものに強く囚われている。


ベラもウガリも、スバシュも人間くさい。ありふれた場面でも捨てきれない情が交錯する。女学生から母親、そして老いたウガリのキャラクターと態度、行動には女性作家としての目線を濃く感じる。


この前に読んだオルハン・パムク「赤い髪の女」も時間の経過を追う作品だった。タイトでドラマティックなパムクに比して、静かで長い描写が多いラヒリは対照的。冗長ささえ覚えた。


でもやっぱりしっとり描くのがラヒリらしさだよねえ。まだまだ読みたいな。


◼️オルハン・パムク「赤い髪の女」


タイトルの吸引力があまりに剛力で引っ張られてしまった。予備知識なしのほうが楽しめるでしょう。


トルコのノーベル賞作家、オルハン・パムクは「私の名は赤」「雪」を読み、その文化的ベースとリーダビリティ、内省的な表現と明快な結末が好ましく、もっと読みたいと思っている方。


帰省した博多駅近くの本屋でこの最新作を見かけ、即買いしてしまった。ジャケットもさることながら、なんて魅力的、蠱惑的なタイトルなんでしょう。思い入れで舞い上がってるだけかもしれないが^_^


少年ジェムは政治活動をしていた父が失踪し、大学予備校に通う金を稼ぐため、マフムト親方について、イスタンブール近郊のオンギョレンで井戸掘りの仕事を始める。親方と街に出た宵、ジェムは赤い髪の女を見かけ、熱烈に恋するようになるー。


見出しに書いた通り、あまりストーリーは知らない方が楽しめると思います。赤い髪の女は何者か。その深淵とも思える赤い魅力はどんなものでしょう?


ギリシャ悲劇、ソフォクレスの「オイディプス王」とイランの「王書」にあるロスタムとソフラーブの悲劇、というのが重要な要素となっている。たまたま先日「オイディプス王」を読んだので入りやすい部分があった。


物語を貫くのは「父性」だろうと思う。


パムクはもちろん、1980年代と思われる時代から始まって、現代まで時代を移しつつ、イスタンブールの移り変わり、昔的な労働形態、また政治活動の喪失・変遷を分厚く基盤として敷き、その中でジェムの内省的な部分を深く描いている。


2つの物語に造詣を深めるジェムに絡め、現代トルコの夫婦の生活や悩み、ビジネスシーンも上手に表している。


そしてなんつっても心惹かれるのが赤い髪の女。読者は、比較的長い、女が出てこないパートを、いつ出るか、どう出るか、と焦がれつつ赤い髪を待つ事になる。


実を言うと、ちょっと先が読めてしまう。単館系の映画っぽい作りだな、とも思う。でも様々なものをバランスよく配置し、命題を深堀りし、重要な要素を織り合わせ畳み掛け、読者に読ませる、その筆致に許せてしまう。最後にバランスをとっているようなところも面白い。


満足でした。もっと読みたいけど、地域の図書館はコロナのため4月まで閉館になっちゃったんだよね〜。

2020年3月9日月曜日

3月書評の3






福岡2日めは法事のお食事会が早々に終わり、ホテルに戻って、行きの電車で完読した「メインテーマは殺人」の書評を書いていた。この日の夜お会いする先輩はミステリーマニアで、課題図書として出されてたので必死。終わらないまま出かける。雨。2人ともノンアルで駅隣のビルで軽く食事。

私はフツーのミステリファン中級くらいでシャーロッキアン。先輩は上級。なにせわれわれ「バターとパセリ」と聞いただけでピクリとくるから話が合う合う。先に書評を書いた島田荘司「新しい十五匹のネズミのフライ」でも盛り上がった。最高ですな。

高校の同級生がママのバーに行く。センパイも同じ高校。どうぞこひいきにとご紹介。店もやっぱりコロナでピンチなんだとか。

飲まないから酔ってないけど、ふだん土日はゆっくりしてるからこの日はお疲れで、ついつい風呂上がり半袖短パンで寝ちゃったのでした。

すると翌朝起きた6時半、頭が痛い。これはだいたい寝不足か、身体を冷やした症状。しまった。朝ごはんは食べて持参のバファリン飲んで、筋トレする予定をやめてまた寝る。出発15分前起床^_^びっくりしたが落ち着いて、スーパースピードで準備。ヒゲ剃って歯磨いて着替えてキャリーケース鍵までかけて我ながら天才と思いながらギリに出た。まだ頭が痛い。

車ではひたすら寝た。唐津城から呼子大橋、海の幸で昼食、自然侵食で出来た七ツ釜というところに行く。七ツ釜の他にも象の鼻とか、海と島と自然の造形が荒々しく時に神々しく、楽しく回れたのでした。昼食後はなんとか調子を取り戻しましたとさー。

◼️アンソニー・ホロヴィッツ

「メインテーマは殺人」


荒っぽい感じの一匹狼元刑事・ホーソーン。スキがなく、評価が高い理由が分かる。なんか悔しい(笑)。


散らされた手がかりとミスリードを誘うエピソード。最後に収束させる手際がどこか数学的で漏れがなく、英国の伝統にも乗っ取っているし、動いている現代の味付けもある。


「カササギ殺人事件」で絶賛されたホロヴィッツはコナン・ドイル財団公認のホームズ続編「絹の家」「モリアーティ」を書いていて私も読んだ。実はホームズものは違和感が拭えない部分があったが、こちらはラストを読み終わった感慨が「カササギ」をも上回ったと思う。


ダイアナ・クーパー老婦人は、葬儀社へ赴き、自分の葬儀の段取りを決め予約をしたその日に自宅で絞殺された。脚本家・作家のアンソニーは、ロンドン警視庁の元刑事で、面識のあるホーソーンに、クーパー事件の捜査を本にしないかと持ちかけられ、ホーソーンについていくこととなる。


ダイアナには10年前に交通事故ー双子の幼い兄弟を車で轢き、1人は即死、1人は重い障害が残ったーを起こした過去があった。息子の俳優、ダミアン・クーパーの将来を慮っていったん逃走したダイアナはほどなく自首した。


殺されたダイアンからは死の直前、「損傷の子に会った、怖い」というメッセージが、いまや人気俳優のダミアンに向け発信されていた。そしてダイアナの葬儀の日、新たな殺人がー。


事件の捜査に当たるホーソーンは、腕は抜群だが人望がなく一匹狼で、事情があってロンドン警視庁を退職した元刑事。ぶっきらぼうで強引でしたたか、自分のことを話さない。どこかしら古典的なハードボイルドさが漂う探偵である。ワトスン役は著者本人で、現実のテレビドラマの仕事やスピルバーグとの会見も織り込んであり、現実と物語のあわいを醸し出す役割も果たしている。


見立て殺人を思わせる仕掛けが唐突に現れたり、アンソニーが大ピンチに陥ったりと地道な捜査の中にも上手に面白みをつけている。またシェイクスピアが重要な役割を果たしていて英国もの、という伝統を感じさせる。


また、ホーソーンとアンソニーの衝突を繰り返しながら少しずつ打ち解けてゆくさまも心をつつく。


正直言うと、丹念な捜査が続き、少しずつ全体の様相が明らかになってくるものの、事件そのものは小説としてハデなものでは決してなく、終盤までは、そこまで激賞される作品かな、と思っていた。


しかし・・最終盤の全体の謎解きを読むと

作中に散りばめられた手がかりの解釈がピタピタとはまり、説得力を持って繋がっていく感覚は、悔しさを覚えるくらいスキがなく、まさに推理小説、という出色の出来だったと思う。伏線の回収、という言葉では収まらない見事さを感じさせる。ミステリ好きな読み手にしっくり来る。


ひっかけの要素はノイズであり、有力だけどそれで終わっちゃ面白くないよな、でも排除してしまえない邪魔な要素、と考えが詰まるところに明快な解決。うーん、ここ最近の白眉だった。


ミステリ好きの先輩と久々に会うことになり、課題図書(笑)として出されたので当日までかかって読了。話が弾んだ。


シリーズ化するらしいし、先が楽しみだ。


◼️滝川幸司「菅原道真」


史上最強に祟りを恐れられた学問の神様は才能ゆえに妬み嫉まれ、ついには巻き込まれた。


漢文の研究者が書いた菅原道真の一生。あとがきに「研究者向けではなく、一般書を書くのは難しい」とあり、大学1年生が辞書なしで読めるように、という条件だったそうだが、その、充分難しかったです、はい。


祖父も父も高名な儒者で出世した家系の三男・道真。幼少の頃から能力を発揮し、文章生試(もんじょうしょうし)、官吏登用試験の「対策」という難関の試験に合格、官僚となる。若い頃から祈願文や辞職願の文章の代筆を頼まれるなど優秀さが音に聞こえていたようだ。


若くして文章博士となり、光孝天皇、宇多天皇、醍醐天皇に頼られ、儒者としては異例の出世を果たし、ついに右大臣まで昇りつめる。左大臣は藤原時平である。歴代天皇の後ろ盾があってこそ可能な大出世だった。


以前から妬み嫉みも多かったという。道真自身は何度も身分に合わないからと、右大臣のみならず兼任していた右大将の辞職願を何度も書いている。そりゃま武人でなく学者さんだからね。時平と左右大臣を務めていた時には官僚の大規模なサボタージュに遭ってもいる。こんな反抗の機運さえある中では誹謗中傷もあったことだろう。


名貴族でもないのにトップとして政務を執るのは、あの人、社長のお気に入りだからさ・・という現代サラリーマンのような言われ方もしたんじゃないかと。三善清行という官僚からは「引退すべき」という手紙が来たりした。しかし醍醐天皇は道真の辞職願を頑として受け入れなかった。どないせえっちゅうねん状態である。


そして、時平と宇多上皇に絡み、なんと天皇を廃せんとしたとして、大宰権帥に降格、左遷された。道中は衣食の手当ても禁じられ、実質追放だった。


著者によると、時平との間に確執があったわけではなく、宇多上皇派と見られたことが最大のネックで、どうやら別の者が謀りごとについて道真に話していたらしい。ただそんなに真剣な謀略を計画するほどの政治的必要性があるとは思えない。ちょっと罪状が大きすぎて、やはりどこかに不信や私怨の影が見えないのは不自然にも思える。いや史料のこととか何も知らないんですけどね。




太宰府での暮らしのことはほとんど出てこない。私は筑紫の生まれ育ちで太宰府天満宮は親しみ深く、梅ヶ枝餅は普通のおやつである。筑紫地区はもちろん、福岡県人で太宰府天満宮に誰が祀られているか知らない人はいないだろう。太宰府行ってたから、なんとなく京都の北野天満宮には行く気が起きなかった。祟りを鎮めるために建てられた神社だし。でも、当たり前ながら道真は京の都人。4年間の讃岐守の間も帰りたい帰りたいと行ってたし、当然カムバックを夢見ながら太宰府では没するまで3年ほどしか暮らしていない。


死後のことも少し触れられているが関係者が次々と死に、時平も39歳で没する。宮中清涼殿にはひどい落雷があり、多くのものが焼かれて亡くなり、やがて醍醐天皇も薨去する。道真の怨霊のためとされ、罪を許す詔が出され、北野天満宮が創建され、太政大臣の地位が贈られる。左遷も含め、都ではよほどのトピックだったのだろう。


マンガ「応天の門」で出てくる文章生や文章得業生(もんじょうとくごうしょう)、対策のことはよく分かった。妻の宣来子(のぶきこ)も出てきたし、だいたいの人間関係も掴めた。


東風吹かばにほひおこせよ梅の花

あるじなしとて春な忘れそ


この歌はつとに有名だが、道真といえばやはり漢詩であり、この時代は漢詩こそが教養とされていた。和歌の萌芽も見られ、やがて隆盛を誇るようになる。なかなか興味深かった。さて、道真の生涯を読んで、筑紫に帰るー。

3月書評の2






福岡滞在初日の晩は、ホントは5、6人集まるはずが、時節柄見送り。前々日に高校バスケ部グループLINEに打ったら2人が来てくれた。

ふきや、それは青春の味。中学から行ってた定番のお好み焼き。このマヨネーズぼてっ、がすごく魅力的。安いし。

その前に本屋に行ったらオルハン・パムクの最新作が出てて、一応図書館で調べたら15人待ちしかもコロナで3月いっぱい閉館決定。もう買おう、と高かったけど旅の財布はゆるいもの。えいっと買った。

土曜日の法事当日は雨。ささやかな人数で、でも母の実家で子供の頃遊んでいた方と再会できて嬉しかった。

今回は「細雪」下だけです。長いし。

◼️谷崎潤一郎「細雪」下


三女四女に振り回され続ける次女幸子。


時の流れと激動。情緒が醸し出され、物事が進み決まって行く不可逆の折の感傷を引き出すー。


読んでいてどうしても源氏物語の風合いがあると上巻・中巻のレビューに書いた。最終巻のあとがきで谷崎は、源氏物語の影響があるのではないかと聞かれるがそれは作者には判らぬこと、しかし自分が全訳をした後の作品でもあり、影響を受けなかったとは言えないであろう、と述懐している。私だけでなくやはりそう思う人も多かったのかな。


この小説は時局に合わないということで当局から発表差し止めを受け、谷崎自身、あまり不道徳や不倫の部分が大胆に描けなかったようなことを漏らしているので、当局の干渉がなければ、上品な作品ではなかったかも知れないのが面白い。


さて、中巻は波の高い展開だったがこの巻もなかなか慌ただしい。ただ情緒的な表現が織り込んであり、日米開戦が忍び寄る世情も垣間見え、最終巻にふさわしい作りになっている。


蒔岡家の三女雪子に見合いの話があり、次女幸子やその娘・悦子ともども先方の岐阜の家へ招かれ、蛍狩りを楽しむが、あっさりと断られてしまう。見合い話のたび、これまで何度もこちらから断ってきたのに、幸子は立場が変わったことを深く悟る。


次の見合いでは相手も乗り気でうまく進みそうだったが、打ち解けない雪子の態度に男が業を煮やして憤慨してしまう。


一方、恋人の板倉を病で失った末娘のこいさん・妙子は前に付き合っていた奥畑とよりを戻したように見えたが、奥畑の住まいで赤痢にかかってしまう。騒ぎの中、これまでいかに妙子が奥畑に金銭的援助を受けていたかを奥畑の関係者から知らされ、幸子は思い悩む。本家からは妙子義絶の手紙が届き、関西は形ばかりと妙子に夙川で独り暮らしをさせる。


雪子に、また見合い話が降って湧く。子爵の庶子で好条件、トントン拍子に話は進む。しかし、妙子の妊娠が明らかになる。しかも相手は奥畑ではなかったー。


見合いのたびに本家とのやり取りがあり、互いの行き来が何度もあり、上手くいかず、さらに雪子の縁談に悪影響を与えかねない妙子の行動に悩まされ、と分家の幸子が絶えることのない騒動に悩み疲れてかわいそうだがどことなく笑えてしまう。

 

今巻は、これまであまりなかったような、美しく儚い場面も挿入される。序盤の蛍狩りの情景はいつまでも幸子の心に残る。


「真の闇になる寸刻前、落ち凹んだ川面から濃い暗黒が這い上がって来つつありながら、まだもやもやと近くの草の揺れ動くけはいが視覚に感じられる時に、遠く、遠く、川の続く限り、幾筋とない線を引いて両側から入り乱れつつ点滅していた、幽鬼めいた蛍の火は、今も夢の中にまで尾を曳いているようで、眼をつぶってもありありと見える。」


谷崎らしい長い一文。幸子は自分の魂が蛍の群れに交って水の面を揺られていくような感慨を覚えている。このあと見合いの話はあっさりと潰え、幸子ははじめて「敗者の烙印」を捺される側に立たされたと感じる。この場面の並びには考えさせられつつ、微妙なものを暗示しているように思えた。


また、幸子が十五歳の頃、危険を感じるほどの豪雨の日に、もう長くはない病身の母の枕元に居た時の回想。


「白露が消えるように死んで行く母の、いかにもしずかな、雑念のない顔を見ると、恐いことも忘れられてすうっとした、洗い浄められたような感情に惹き入れられた。それは悲しみには違いなかったが、一つの美しいものが地上から去って行くのを惜しむような、云わば個人的関係を離れた、一方に音楽的な快さを伴う悲しみであった。」


母の二十三回忌の話の流れから出てきたシーン。幸子は、死んだ母の年齢になったことを悟る。生々しくかつ幻想的。人にとって大事な映像とはそういうものかも知れない。


興味深かったのは、進む見合い話の中、京都で家を持つとすればの何処を選ぶべきであろうか、という問いに対する幸子の意見。


「京都に住むなら嵯峨辺か、南禅寺、岡崎、鹿ヶ谷方面に限ると云うような話になり」


嵯峨は嵐山のほう、西方面で南禅寺、岡崎、鹿ヶ谷は東方面でこちらも観光名所が多いエリアかなと。岡崎は平安神宮のすぐ近く。ほお、やはり上流階級ではこう考えるのかなと。余談だが年末に立て続けに京都を数回訪れた際、用があった京都御苑南の店の周りが住宅地だったので、あの辺に住むのもいいかも、と京都在住の友人に話したら、自分はあまりいいと思わない。賀茂川より東がいい、と言われたことを思い出した。


さて、せっかくいい縁がまとまりそうになった時、妙子の妊娠。もうやめて状態の中、象徴的なシーンが・・。


「ああ、やっぱり今度も、・・・・・・・・・この話は駄目になるのだ、・・・・・・・・・雪子ちゃんには可哀そうだけれども。・・・・・・・・・

幸子はほっとため息をついて寝返りを打った。そしてぱっちり眼を開けて見ると、いつの間にか部屋の中がすっかり明るくなっていた。隣の寝台では雪子と妙子が、幼い折にしばしばそうしていたように互に背中を着け合って寝ていたが、ちょうど此方へ体を向けてすやすや眠っているらしい雪子の、ほんのりと白い寝顔を、どんな夢を見ているやらと思いながら幸子はいつ迄もまじまじと打ち眺めていた。」


読み直してみると思ったほど濃い表現ではなかったが、幸子を振り回している三女と四女が、まさに利害関係があるにも拘らず子どもの頃のように仲良く眠っている、というのがいかにも皮肉すぎてまた微笑ましく、幸子目線と当事者たちの意識の差を感じさせる。


ラストは、これから動く場面で、さらには日本が進む暗澹とした道をも予感させて終わる。全巻に渡り人妻になりそうでならなかった日本美人・雪子はずっと芦屋の幸子のところに皆と住んでいたいという底意に反して人生の岐路に臨む。


例えば、スポーツで勝負が決まっていく時、不可逆的な流れを感じ、その魅力と、対決の緊張状態が崩れ、終わっていく喪失感を味わうことがある。自分を振り返っても、人生の分かれ道は当時自覚はなくとも振り返ってみればはっきりとした決定的でもう引き戻せない性質を持っていたと思う。「細雪」のラストは喪失感を感じさせて静かに、しかし唐突めに終わる。まさに紡いできた芳醇な物語のエンドにふさわしい味わい深さだと納得する。


東京の白っちゃけた都会さ加減と比べ阪神間の穏やかさに幸子が安心するところなど、大きな時代感、関西の土地柄に対する愛着の表し方はそういえばなかなか他の物語では見られないものだと感じるところもあった。私も両方住んだし。


東京の本家と芦屋の分家、その対比、関西、上方の文化的基盤に立脚したストーリー作り、女所帯の葛藤と愛情の繊細さ、時勢と散りばめられる彩り、時あたかも起きる事件。感情的には複雑だが読みやすく分かりやすく、モダンさと伝統美が匂い立つ。やはり名作、と思わせる。


谷崎に未読はまだまだあるが、「細雪」を完読して、芦屋の「谷崎潤一郎記念館」を訪れるのが当面の目標だったので、近々さっそく行ってみようと思う。楽しみだー。

3月書評の1






母の一周忌で帰省。初日は太宰府天満宮へ。いつもは西日本鉄道に乗り換えるため福岡市営地下鉄か西鉄バスで博多駅から天神まで行くが、新幹線のチケットが福岡市内までOKなんでいっそJR二日市まで行って、そこからバスに乗ろうかと考えた。

太宰府天満宮の最寄駅は西鉄太宰府駅でアクセスは抜群に良い。西鉄二日市駅から2駅である。JR二日市駅からは行ったことないが冒険、と思ったのが間違いだった。

着いてみると佗しい感じで、太宰府天満宮まで行くのは1時間に1本。出たばかり。西鉄二日市駅を回るバスの運転手さんに聞いたらだいぶ遠回りして終着だとのこと。歩けってことかと地図を調べて、西鉄の新駅、紫へ。ももいろクローバーでちょっとだけ有名になりましたね。二日市より北の駅かと思ったら南でホームを間違えた。

無事到着。昼ごはん食べてなかったのでかしわおにぎりがあるという品のいいそば屋に入ったら、かしわおにぎりまで品が良すぎて消化不良の気分。人は、コロナ渦中で少なめ。喫煙所が新たに出来ていたのでびっくり。

池の周りのお茶屋で梅ヶ枝餅をば2つ。参道ではみな食べながら歩いている。楽しそう。京都みたく和服レンタルがあるのか、着込んだ女性2、3人連れが目立った。

書評「細雪」上中下巻それぞれ書いてるので、分割してお届けします。

◼️谷崎潤一郎「細雪」中


阪神大水害でこいさんが・・なにかとこいさん・妙子中心の巻。


「こいさん」とは末娘のこと。冒頭、阪神大水害で消息が分からなくなる四女妙子。なんとか生還を果たすが、職業婦人の地位が確立されていないこの時代、パリに遊学して洋裁を学びたく、本家と資金の交渉をする。一方、言い交わした中の奥畑から心が離れ、丁稚上がりの板倉に恋する。本家との橋渡し役、次女の幸子は振り回されやきもき。東京滞在中には強い台風に遭い、隣のシュトルツ夫人一家ら知り合いの外国人はヨーロッパへ旅立つ。


目まぐるしい展開の中、板倉の妹から急報が・・!


幸子はこいさんの希望を叶えてやりたいながらも、分家としての自分の立場と家柄を大事にする。幸子の心のうちがとつとつと語られる。


中巻らしく、波が逆巻く感のある進行である。途中、銀座や神戸での食事シーンが散らされ、埠頭での別れも彩りか。読んでてやはりどこか源氏物語を想像してしまう。


家が没落しそうになってるとはいえ、この一族の行動にはやっぱり裕福だなあと思う。それとも現代に余裕がなさすぎるのか。


何の予備知識もなく、いよいよ最終巻へー。



◼️谷崎潤一郎「細雪」上


冒頭から3姉妹のにぎにぎしい雰囲気を想像できる。普通で、芳醇な上巻。


最初の場面にすっと入りこむ。出かける用意をしている次女・幸子、手伝う末っ子のしっかり者・妙子、いつも見合いが破談となり卅にして独身、幸子の1人娘・悦子の面倒を見る三女・雪子。舞台は兵庫・阪神間の高級住宅地、芦屋(蘆屋)の幸子夫婦の家。ホームドラマの出だしを見ているようである。


またいかにも関西の女姉妹たちがせわしいときにあれこれとお喋りをする、独特の風情がよく出ていて、登場人物がのっけから多いので関係をつかむのにちょっと考えるけれども、不思議に暖かな雰囲気に好感を持ってしまう。


本家の長女・鶴子は1人異質な感じだが、雪子の見合いを本家の調べの結果断ったり、東京転勤に本来は雪子も妙子も一緒に行くべき、という、本家のどこか異質な印象にマッチしているかな。


物語の中心は次女である幸子。雪子は幸子宅を気に入ってほぼ住んでいるような感じ。運が悪いという未年の女で知らない人の前ではへどもどしてしまう性質で、あまりものを言わず柳のようなイメージで、しかしミステリアスな魅力を感じさせる。妙子は創作の才があり、すでに収入を得ていて、電車でひと駅の夙川にアトリエを持ち、言い交わした男性もいる。うまく書き分けてるな、と感心する。


物語は雪子の2度の見合い、本家の東京転勤を中心に動く。合間に昭和10年代初頭の世情や見合いの際の、あれこれと七面倒くさいやりとりや感情が混ざる、幸子は見合いを挟み流産してしまう。


谷崎の、一文が長い筆致がまた物語によく合う。以前読んだ、与謝野晶子訳の源氏物語を思い出す。そういえば谷崎も源氏を訳していて思い入れがにじむ。



そしてなんといっても有名な、京都、平安神宮や嵯峨の桜のシーンが、季節と関西の雅やかな雰囲気、絆を醸し出す。


上巻から、粘っこいけれど豊かな匂いがして、さらに、サクサクと読める。幸子の家などは、自分の生活圏でよく分かるし、最近廻った京都の、往年の雰囲気を読みながら実感する。


さて、続きはどうなるのか、楽しみに中巻へー。

2020年3月2日月曜日

2月書評の5







お気に入りのパン。土日どっちかは食べちゃうなー。

世の中コロナ渦。ついに兵庫県でも私の住む自治体から感染者。休校の要請で学校は休み。期末テストも途中中止。図書館も人は少なめ。

Vリーグのファイナルは西田の活躍でジェイテクト初優勝。続けてドラえもんの映画テレビ放送を観ていた。

金土は寒く、この冬一番の厚着をした。なんとか早くコロナは終息して欲しいけど、検査を簡易にするというので感染者が増えるのは必至。うーん。かなわんな。

◼️島田荘司

「新しい十五匹のネズミのフライ」


シャーロッキアンもの。うーん・・エンタメとしては楽しめるかな。正直書きます。


「赤毛組合」はさらなる真相があった?さらに「四人の署名」のサディアス・ショルトーはワトスンとアフガニスタンで知り合っていた?ワトスンが戦争で受けた負傷箇所の食い違いは?また同氏の複数回結婚の謎は?


プロローグで質屋の主人と銀行頭取の不穏な会話からスタートし、ホームズとワトスンの出逢いである「緋色(ひいろ)の研究」をひもといてさらに複数の物語を絡めていく。

そしてバスカヴィル家の犬」の舞台、荒涼として不気味なダートムアで展開する活劇ドラマ。序盤は正直進まない。しかしさすがは大御所、活劇の部分はワトスン君、追い込まれまくり、大活躍、大恋愛。解説まで入れると660ページの大作なのだがサクサク読んでしまった。


シャーロッキアン的要素が随所に散らしてあり、相当好きな人が複雑な工夫を凝らして作ったエンタテインメント・パロディ、である。そこは間違いない。


ここから先は好みの問題。


私は島田氏のミステリはそれなりに読んでて、面白い推理小説は?と聞かれたら3つくらい挙げるうちに「斜め屋敷の犯罪」は必ず入る。御手洗潔は好きな探偵の1人。


しかし、実はホームズに対する島田氏の歪んだ愛情を含むパロディは笑い飛ばしてしまえない。


まあシャーロッキアンという言葉がある通り、学者を含む多くのファンがホームズ物語を分析するのみならず、多くの疑問を呈している。最もと頷ける指摘もたくさんあり、ドイルのルーズな部分も炙り出されている。それもまた大きな意味でシャーロック・ホームズの楽しみ方だ。



島田氏は著作等で、「まだらの紐」で蛇がミルクを飲むわけがない、精巧な耳などないのに口笛を合図に戻るなどあり得ない、などという指摘をちょっと過剰だな、と思えるくらい強めに書いているイメージがある。ホームズは麻薬中毒だった、という意識も強いようで、今作でホームズは完全におかしくなり精神病院で暴れ回る。それも楽しみではあるし、終盤救いはあるのだが。


正直今作でもまだらの紐、またか、麻薬中毒、またか、であった。ひつこい。とうの昔に世界中で言われてる。だからなんだ、そもそもホームズ物は推理小説というよりは物語だし、ホームズが世界中で愛されていることは揺るぎもしないし、私はそうではないが、常に「まだらの紐」は読者の人気No.1なんだから、と思います。今回「這う男」を駄作としている。確かに月日が経つごとに明らかにドイルのホームズ短編はパワーダウンするしネタも??の作品ではある。だけど、なんか、あまり有名じゃないけど、この短編はおかしいじゃないか、と言ってやりたいみたいな意図を感じるな。


ついでにもうひとつ。同氏、「緋色の研究」の「緋色」に「ひしょく」とルビをふっている。ホームズ関連翻訳の経験が長い日暮雅通氏は今作の解説で「ひいろ」とまたわざわざルビをうっている。対象の作品「A Study in Scarlet」は記念すべきホームズ初作ということもあって注目度も高いが、面白いもので、研究者の中には本来の意味を考えて「緋色の習作」とする人もいる。なにかと日本語的にいろいろあるのね、とクスッとなってしまう。


他の人は知らないし、この作品のタイトルについて話をしたことはない。私的には「ひいろのけんきゅう」がタイトルとして一番カッコいいと思っている。


こうして書くと、どうでもいいことも多いな(笑)。


ホームズ物語を繋げて大掛かりで面白いエンタメにしたのは見事。ただ、各作品の裏の物語のはずが表にも近くて、どうしたいのかよく分からない部分があったり、大ネタも、ちょっと、なんだ、感があって、腑に落ちなかったのでした。





◼️「文豪ナンバーワン決定戦」


文豪特集や文学史を読むほどに自分は読んでないなあ、なんて思う。また興味が湧いた!


幅広い層へのアンケートをもとに、1位から50位までを決めた本。上位は概ね有名な文豪が占めている。10位は坂口安吾、同点の6位に三島由紀夫と太宰治、5位は意外に大岡昇平、芥川は4位、3位はなるほど幅広くポピュラーな宮沢賢治、2位は夏目先生、では1位は?私的には少々のサプライズだったかな。「好きなんですよ〜」と私に語った方もいらした。


あまり幅のないのも多少の自省はするが、私淑する川端康成先生は15位。うーん、「伊豆の踊り子」、やっぱりの「雪国」、「古都」あたりまでは名高く、「片腕」や「眠れる美女」は好む方もいるが、広く一般的ではないかも。個人的には「美しさと哀しみと」のように完成度は高度でないが、恋情を切々と語る作品が好きだったりする。短編集「愛する人達」とか、なんつっても「山の音」とか。


その川端は美文ランキングでは1位。その他面白さランキング、思想性ランキング、独自性ランキング、読みやすさランキングなど総合評価以外の企画ものも面白い。恋多き人生、固い美学、エッセイの達人、若者に愛され度といったさらなるミニ企画もある。身勝手男1位は島崎藤村。トーソンさんひどい人だったのね・・。


自分でも作っちゃうグルメランク1位向田邦子の手料理味わってみたかった。ムリだけど。妹さんが出している「向田邦子の手料理」という本には興味ありあり。


幸田文や山本周五郎のエッセイ、獅子文六のおもしろ小説、林芙美子「風琴と魚の町」、門弟三千人の佐藤春夫「田園の憂鬱」、安部公房にもやっぱり少し惹かれるな。


大谷崎ももっと読みたい。1位だしー!