2019年5月25日土曜日

5月書評の6




前回書いた大雨は深夜で、少し強めに降り続いたくらいのものだった。

最高気温が上がってきて、この日土曜日は5月としては記録的な暑さになるとか。確かに暑い。髭剃りのときに汗をかくのも久しぶり。まだ夜が涼しめだから救われている。半年に一度の歯医者に行ってスッキリ。前回帰るときに、受付の若い女性が、
「予約枠が狭くなってて、1人結婚するんで・・」と、「結婚」を強調した言い方に「おめでたいことですね」と言っておいたが、さすがに誰が入れ替わったか分からない。きょう定期チェックを担当して人は確かに初めて当たった人っぽかったが・・まあどうでもいい。

福岡帰省時に教えてもらった画像で花の名前が分かるアプリを使うのがマイブーム。できるだけ自生しているように見える花を撮ってアプリで調べる。初夏はズミ、ウツギ、バーベナ、スイカズラをすでに確認。会社ももう上着なしの半袖。夏だ。

◼️「汚れつちまつた悲しみに・・・・・・

                                       中原中也詩集」


きっかけは息子の中学教科書。「月夜の浜辺」という作品が載っていた。ほう、と思い詩集を図書館で借りてきた。


表題作が最も有名な作品で、誰しも味わったことがあるだろう。まったく中原中也という人を代表していて、そのイメージを作り上げていると思う。


粗っぽくて、とても繊細で、厭世的なようにも見えるが、生への執着が見える。季節感すらある。そして、とても詩的だと感じる。


「汚れつちまつた悲しみに

   今日も小雪の降りかかる


  汚れつちまつた悲しみは

  なにのぞむなくねがふなく


  汚れつちまつた悲しみに

  なすところもなく日は暮れる・・・・・・」


表題作も入っている、出版するのに苦労したという生前唯一の詩集「山羊の歌」で気になった作品をいくつか。


「追ひ立ちの歌」


「幼年時

   私の上に降る雪は

   真綿のようでありました

   少年時

   私の上に降る雪は

   霙(みぞれ)のようでありました。」


だんだん成長していき、人生を辿っている。リズムのある繰り返し感。


「憔悴」の一部分。


「昔、私は思つていたものだった

   恋愛詩なぞ愚劣なものだと


   今私は恋愛詩を詠み、

   甲斐あることに思うのだ。」


ある意味らしくなく、率直でなかなか可愛らしい。


そして「山羊の歌」ラストの作品、「いのちの声」の最終行。


ゆふがた、空の下で、身一点に感じられれば

万事に於て文句はないのだ


「山羊の歌」では全般的に生をいきるにおいての、中原中也の思いがごつっとぶつかって

くるような印象を受ける。ちょっと達観したようなまとまりもあると感じた。リズム感はあるが、さして例えの上手さとか、語彙の豊富さといったものは感じない。小粋でかつフレーズが強い、と思ったのは「汚れつちまつた悲しみに」くらいである。言葉を弄していなくてもメッセージ性が強い気がする。まあ空中ブランコを擬音化した

「ゆあーん  ゆよーん  ゆやゆよん」

というフレーズが繰り返される「サーカス」は技巧的なところが好きなんだけど。


続く「在りし日の歌」ではもうちょっとだけこなれているイメージか。素朴だったり、詩それ自体が持つ静けさ、激しさが自然と出ているのは同じだが、伝え方を少しひねっているような。


幼獣の歌」


「一匹の獣が火消し壷の中で

   燧石(ひうちいし)を打って星を作った

   冬を混ぜる 風が鳴って」


「冬の夜」


「えもいはれない弾力の

   澄み亘つたる夜の沈黙

   薬缶の音を聞きながら

   女を夢見ているのです」


「春日狂想」は面白い。


「愛するものが死んだ時には、

   自殺しなけあなりません。」


最初はどこか破滅的な示唆だが、その後はのんきな、新たな人生を明るく生きていくためのような言葉が並んでいる。最後の方は、


「ではみなさん、

   喜び過ぎず悲しみ過ぎず

   テムポ正しく、握手をしませう。」


を含むブロックで締まる。


「在りし日の歌」は30歳で病没する前にまとめ、親友の小林秀雄に渡したらしい。


「未完詩篇」より


「猫の声と生きる意味」はなかなかハッとする。深夜、猫の鳴く声が聞こえる。しばらく鳴き声、濃密感を醸し出すような表現をして、


「あのやうに悲しげに憧れに充ちて

   今宵ああして鳴いているのであれば

   なんだかわたしの生きているといふことも

   まんざら無意味ではなささうに思へる・・・・・・」


余談だが、この人の語尾の点々は決まって6つなんだなあと書き写しながら思った。ちなみに「汚れつちまつた」を始め引用したいくつかの詩は、中略しているものがある。一応注記。


ところで中原中也といえば、やはり写真のインパクトがある。帽子をかぶって、マントのようなものを身につけているように想像させる、明るい部分が飛びぎみの写真。


これも、「汚れつちまつた悲しみに」と同様、中原中也というイメージを植え付ける写真だと思う。モダンで、芸術的、戸惑いと情熱を感じさせるような、少年と青年がミックスしている表情。まるでこれから銀河鉄道に乗りに行くようだ。


後年の七三分けで薄笑みの写真とのギャップが凄い。


残念ながらこの本に「月夜の浜辺」は載っていなかった。


描写は月夜の晩、波打ち際でボタンを拾ったところ。中原中也は文字の間を空けたり行の始点を下げるなど、細かい変化をつけているが、忠実に再現してみる。男の子の気持ちっぽくて、私の心を誘うには充分だった。


「それを拾って、役立てようと

   僕は思ったわけでもないが

                     月に向かってそれはほうれず

                     浪に向かってそれはほうれず

   僕はそれを、袂に入れた。


   月夜の晩に、拾ったボタンは

   どうしてそれが、捨てられようか?」


◼️佐藤泰志「海炭市叙景」


佐藤泰志には、読み手の心に、独特の、息づくものを感じさせる力がある。

著者の故郷、函館をモデルにした都市で、老若男女それぞれを主人公にした18の物語ー。


その頂からは有名な夜景が見える、ロープウェイがある低い山。周りは海に囲まれた海炭市。炭鉱争議があったり、造船所不況があったり、また大きな産業道路が出来て変わりつつある街並み。


その海炭市に関係するさまざまな人の日常と過去・未来がたんたんと語られる。海炭市の男の両親に挨拶した帰路、青函連絡船に乗っている、結婚を控えたカップル、病気の親のことを考え、妻子とともに海炭市に住むことを決めた男、学校をサボって街へ切手を買いに行く少年、過去に罪を抱え、住み込みの単身赴任をしている男、退屈な墓地の管理事務所に勤め、同僚と不倫している女、成田空港の建設に携わり、いまは職業訓練校に通う年配の男、高校をドロップアウトして空港のレストランに勤め、東京に行くことを夢見ている暴走族の女・・。


家庭の問題を抱えた者の話も多く、また働く姿を必ず入れている。合間に海炭市の気候、寂れているがモダンに変わっていく時間の流れ、セックス、などが散らされる。


佐藤泰志の作品は先日「そこのみにて光り輝く」を読んだ。やはり函館を舞台した物語で、まだ発展しない時代の生活、土地柄や男女の出会い、成り行きなどが描かれていた。粗っぽさも感じたけれど、なにか独特の、生に息づくものを感じた。


読んでいて作品から滲み出るのは、やはりリアル感、リアルな人間臭さかもと思う。物語はもちろんフィクション色もある。しかし、ストーリーの端々に仕掛けがある。


例えば、生活や環境、暮らしがきれいな物事ばかりではないこと。私も地方のベッドタウンの育ちで昭和世代。道で寝てる酔っぱらいもいれば、夜のお姉さん系の人、古式ゆかしい男女の不良(福岡では「わるそう」という)などなどがふつうにいた。


町も住宅街もちょっと疲れたような生活の匂いがあって、汚いところも、整備されてように見えるだけのところもある。自然もある。若いお兄さんお姉さん、お父さんお母さん、おじいちゃんおばあさんが住んでいて、Hな雰囲気が漂う部分も場面もある。


そういった、体験の記憶の肌ざわりを思い起こさせて共感を呼ぶ筆致。


加えて、親と自分、町の歩みと自分の人生、故郷と都会、故郷の暮らしなど普遍的な要素がオリジナルな味わいで、鈍色の舞台に展開されていることがまた心のどこかを刺激する。


隣の男女のアノ声が聞こえる部屋に住む家族の、中学2年の少年は、学校をサボってオリンピックの切手を買いに出掛ける。街へ出かけるウキウキ感、大人の女の人との会話、夜の声・・少しませて平静、でも多感。明るく強く。「一滴のあこがれ」はちょっと青いけど、昔を思い出したりした。


激しい声のカップルはヤクザ風の男と水商売ぽい女で、前の話ではプロパンガスで足指にケガをした男を手当てしてくれたりする。


中盤は話どうしのクロスも薄くなり、産業道路をキーワードにした篇が続くのでちょっと冗長かなと思っていたら、海外のタバコに売れ筋の小説、モネ展を心に浮かべ、小粋を気取る負け組の男を描く「衛生的生活」にはハッとしてしまった。どこかマンガ的ではあるが、ちょっとしたどんでん返し。しかもありがち。よく分かってるな・・と考えてしまった。


この作品を含め、佐藤泰志の作品は映画化されているものが多い。その理由が分かった気がした。


今回図書館で「目が合った」本。いま読め、と呼び掛けられた気がした。またいつか、「君の鳥はうたえる」に呼ばれるだろう。楽しみだ。

2019年5月19日日曜日

5月書評の5




明日は大雨になるかも、だそうだ。会社からの帰りがその時間帯で少々心配である。

もうすぐ17歳になるレオンがよたよたしてきて、顔も苦しそう。思うように身体が動かないようだ。もともとガンで告知を受けている身である。人間であればもう80歳くらい。トイレが異常に多くなって、昨夜は私もレオンも眠れなかった。LDKのフローリングにふとんを敷いて、今夜から妻が一緒に寝てやっている。ソファやベッドだと昇降がもはやできず、寝具にしてしまうからである。昨夜は犬のベッドを近くに置いて、ソファで一緒には寝なかったけど、さすがにかわいそう。また、こうなってはいつその時が来るか分からない。ずっとは続かず、いつかは崩れる。母で実感したし。

母について言えばまだ悲しい。ホント悲しみと呼んでいいものには人生初めて逢ったかも。忘れるのは悪いことという意識で、ずっと傷ついていたいのかもしれない。母が天国にいてくれてるから死ぬのが怖くなくなった、なんて青いことも考えてしまう。

庭のバラが最盛期を迎え、明日の雨で散るのに備え、妻が剪定。家中バラの時期が到来。半袖では涼しいくらいの夕方、クッキーの散歩に、中間試験中の息子がついてきた。

あれこれと話しながらゆっくり1時間弱。気候もよく、貴重な時間。息子と話している時間は私の日常生活にとって並ぶものなきナンバーワンの貴重な時間で、誰にも邪魔されたくない。もうあと数年で巣立つんだし。山道で、斜面にキレイに咲いている白い花を発見。とりあえず撮った。自宅近くに腹が赤く少し大きいイソヒヨドリが来て美しい鳴き声を届ける初夏ー。まだ蝉は鳴かない。

◼️永井路子「歴史のねむる里へ」


高校の古典の先生に


「『ゆかし』は『心がゆかし』だ。心が行きたい、なになにしたい、心が惹かれる、ということだ」と教わった。まさに「ゆかしい」一冊。読むのが楽しくて終わるのが惜しかった。


歴史小説家永井路子氏の旅エッセイ。歴史を巡る旅でもあるので、もちろんただの旅味ものではない。由来を説明する中に、資料にあたってきた誠実さ、独自の見解、そして文章的おもしろさも見える。いやー永井氏大好き。


奈良・東大寺では藤原鎌足の子・藤原不比等の娘にして、大仏を造営した聖武天皇のおきさき、光明皇后の話。臣下の娘を立后するための血生臭い事件、そして政情不安に夫・聖武天皇の迷走といった苦悩。


私は光明皇后御願の国分尼寺、法華寺で皇后がモデルと言われる十一面観音像を見たことがある。永井氏は作り方から、後の時代の作品としか思われないとしながらも、


「しかしこの像は、ふしぎに女性をひきつけずにはおかない何かをもっている。きれの長い瞳、やや官能的な口もと、褐色の木膚にのこされた唇の朱色があやしげでさえある。」


と評している。そうそう、とうなずいた。この像は女性だけでなく男性も魅了する。光明皇后はその手、書も評価を得ている。このトップレディの実情はまさに奈良の光と陰の歴史だな、と感じる。


次は飛鳥路。蘇我氏の本拠。蘇我馬子の娘で日本最初の女帝・推古天皇とゆかりの深い飛鳥大仏の「神秘な美しさ」。蘇我氏の屋敷があった甘樫丘、まさに中大兄皇子が蘇我入鹿を刺した場所、飛鳥宮、馬子の墓と言われる巨石遺跡の石舞台古墳などが取り上げられている。


飛鳥は言ってみれば何もないが、近鉄飛鳥駅でレンタサイクルを借りて巡ると、その悠然とした時間の流れに浸るような、歴史の流れに包まれたような雰囲気に浸れることうけあい。私もまたぜひ行ってみたい。好きな方にはおすすめコース。


次いで吉野。後の天武天皇、大海人皇子が壬申の乱前夜に本拠としたほか、歴史にはたびたび登場する。ここは千本桜で有名だが、行ったことがない。谷崎潤一郎の「吉野葛」でも詳しく描写されているように色々と由来が多い土地。鳴滝、西行庵、苔清水なんか行ってみたい。ゆかし。


大阪は秀吉、京都は古典の舞台。清少納言の清水寺参籠、今昔物語、栄花物語、徒然草の御室・仁和寺。源頼朝の有名な肖像画のある神護寺は調べたらけっこうな山のほうのようだ。紅葉の小倉山・嵐山・嵯峨野。源氏物語で嫉妬のあまり無意識に生霊となる六条御息所と光源氏の別れの場、野宮神社。さらに源氏物語は宇治十帖の舞台、源平宇治川の戦いの舞台・宇治。ゆかしゆかし。心から訪ね歩きたい気になる。


壬申の乱を旅する近江編(一)。(二)は戦国時代織田信長との距離感を間違え、悲劇の運命を辿った六角氏の隠れた居城、近江観音寺城編がとても面白い。日本五大山城の1つらしい。著者の活き活きとした筆致が楽しい。


そこから鎌倉編が5つ。鎌倉時代の北条氏、海辺の歴史散歩、当時の離婚訴訟について書いた駆け込み寺編、平地が少なく山と谷の多い鎌倉、やつ、やと、と読むその谷を巡る編、最後の編では著者の家の近く、鶴岡八幡宮への思い入れを描く。


私は若い頃大仏を見に行ったくらいで鎌倉はほぼビギナー。永井氏は直木賞受賞作の「炎環」など鎌倉幕府を題材に取った作品もあるので思い入れが伺える。和菓子の名店もあるようだし、多くの文人の作品の舞台でもあり、今度はゆっくり回ってみたい。


◼️北原尚彦「ホームズ連盟の冒険」


構成は初歩的。あとはアイディア勝負。


シャーロック・ホームズ物語の訳者がパロディを書いたもの。「事件簿」に続く第2弾。このシリーズの特徴は、ホームズ以外の登場人物たちが主人公の短編集ということ。


「犯罪王の誕生」

ではモリアーティが大学を追われ、犯罪組織のボスになることを決意するまでが描かれ、組織No.2のスナイパー、セバスチャン・モラン大佐と知り合う。


「蒼ざめた双子の少女」

はメアリ・ワトスン夫人が大恩のあるセシル・フォレスター夫人の妹夫婦のため、密偵となる話。ホームズ第2作品の長編「四つの署名」でのヒロイン、メアリは事件をきっかけにワトスンと結婚する。ミセスワトスンの活躍が微笑ましく可愛らしい。


「アメリカからの依頼人」

はベイカー街221の少年給仕ビリーの話。これも初々しく、少年の活躍が嬉しくなるが、正統派すぎるくらいのシャーロッキアンネタも入っている。


「ディオゲネス・クラブ最大の危機」

はもちろんマイクロフトもの。談話室以外は会話はもちろん、発語すら禁じられ、他人に興味を持たない指向のこのクラブに女性の入会希望者が現れた。身元はしっかりしすぎているくらいちゃんとした血統、家柄。女性が入会だなんてかなわんとマイクロフトが阻止のため奔走する話。かなりマンガ調であり、解決も穏やかで笑うようなオチがついている。


R夫人暗殺計画」


はモラン大佐がモリアーティ教授に夫人の暗殺を申し渡される。前作と打って変わってハードボイルド。主に「空き家の冒険」出てきた銃職人、フォン・ヘルダー工房での話。ヘルダーの娘で銃の製造を手伝っているフランツィスカの印象が最初と最後でガラリと変わる。


モラン大佐は、「憂国のモリアーティ」でも女性と組んでミッションに当たるけっこういい男キャラを演じている。またキム・ニューマンが書いたパロディでも主役であり、聖典での凶暴で極悪な印象が最近は変わっている。んー、二次創作の方から見たらそういう変更をしたい立場の者なのかな。興味深い傾向だ。


ラストは「ワトスンになりそこねた男」ベイカー街221bをシェアしてくれる者を探していたホームズにワトスンを紹介した人物。んー、これもかなりマンガ的。


この、主役以外に踊ってもらう、という手法は多く使われているから、斬新さは全くない。あとはアイディア&演出勝負である。シャーロッキアン的なネタはたくさんあるのでその付加もひとつのポイントかも。


今回は硬軟取り混ぜていて、メアリ・ワトスンものの微笑ましさにグランプリかなと思う。モリアーティとモランの短編はまだまだ続きそうだ。うーん、「おやすみなさい、ホームズさん」のように、聖典の事件の裏側的ネタもやって欲しいな。

5月書評の4




最高気温は25度〜27度くらい。最低気温は15度〜18度くらい。次の週末あたりはもっと最高気温が上がるとか。夜がまだ涼しいから助かっている。フランスもの二題。このように図書館で借りた本を優先して読むから、積ん読が減りません。

◼️ジョルジュ・シムノン

「メグレと死体刑事」


ミステリ好きの先輩との会話。

「おれはミステリ好きだけど、シャーロッキアンというのははばかられる」

「私はアマチュアシャーロッキアンですけど、ミステリ好きだー!と公言するのはとてもとても・・」

という話をした。


推理小説は、古典的名作も含めて多少は読んでるけれども、ミステリ好きなら当然読んでるだろうってな作品に未読のものがたくさんある。その一方シムノンはけっこう好きで、王道を外して趣味に走っているかなーと自分で思ったりする。まあどうでもいいか^_^


ジョルジュ・シムノンに関心を抱いたのは、一時人気があったパトリス・ルコント監督の映画「仕立て屋の恋」の原作だったから。今回もキレのある心理描写のシーンが多い。


パリ警視庁のメグレ警視は、田舎町サン・オーバンで起きた若者の轢死事案を非公式に捜査することになる。旧知の判事の義弟が犯人の嫌疑をかけられているため、個人的に頼まれた件。サン・オーバンに向かう列車に、いまは私立探偵の元同僚、カーヴルを見かける。かつて「死体(カダーヴル)」というあだ名だった彼は、サン・オーバンで沈黙のまま次々とメグレを出し抜くー。


1941年の作品。当地に着いたメグレは義弟エチエンヌ・ノオ、ノオの妻ルイーズ、夫妻の友人アルバン・グルー=コテルのもてなしに、違和感を感じる。そして娘のジュヌヴィエーヴはネグリジェでメグレの寝室に来て「私を妊娠させたのは死んだ男よ」と告げる。


死者の帽子を見つけた男は何も語らなくなってしまい、役場に訊いても役に立つ答えは帰ってこない。被害者の母宅で札束を見た郵便配達夫も口を噤む。そして関係者にはいつもメグレより一歩先にカーヴルが接触している。唯一の協力者でメグレを案内してくれる大工見習いのルイも、どこかメグレを苛つかせるー。


いわば町全体がメグレに嘘をつき、大きな力の存在を意識させる状況を作り上げ、メグレを無視して活動するかつてのライバル、カーヴルの存在がその雰囲気と、メインの謎を深めている。


恋愛・異性関係が破綻しているという要素も上手に絡ませているし、霧も効果的。


メグレものは、推理小説というよりは心理描写もの。いくつかの要素と都会や田舎の雰囲気があり、メグレは幻想的とも言える思考に入り、直感・天啓を得たように見える。そこには合理的思考もあるはずだが説明はなく、事態が突然動いたような効果を生み出す。


メグレの、がさつでぶっきらぼう、何を考えているのか周囲に見えにくい、という特徴も探偵としての魅力を強め、このシリーズの特徴を際立たせる。


今回は読了して、雰囲気を出したいあまりにちょっと演出過剰気味で解決に辿り着くのが遅れたような気もした。ちょっと都合良さもあるかも。


でもシムノンのメグレものの魅力には惹きつけられる。マイフェイバリット。入手は意外に簡単ではないが、発掘する趣味は気に入っている。


◼️フランソワ・モーリアック

「テレーズ・デスケルウ」


訳者の遠藤周作も、モーリアック自身も惚れ込んだテレーズという女。


書評から読みたい本にメモしていて、図書館で出会ったんで借りてきた。フランス人モーリアックはノーベル文学賞を受賞した作家で1927年にこの代表作「テレーズ・デスケルウ」を書いた。


舞台はフランス南西部ボルドー県。夫毒殺の嫌疑をかけられ免訴となったテレーズは、家のある乾燥した田舎町、アルジュルーズまでの長い道のりを事件を思い出しながら馬車と列車で辿る。聡明で活動的なテレーズは、亡き母のアルジュルーズの土地で、両家の約束に従い結婚した夫・ベルナールを愛することができなかったー。


最初は娘らしく、夫のベルナールに恋愛っぽい感情を抱いたりするのだが、土着の退屈な生活や家の体裁を重んじ、女性は良き嫁であるべき、という考え方が染み付いた家族・親族たちに倦怠感を抱いたテレーズ。ベルナールとの夫婦仲も急速に冷えていく。


象徴的な物語ー。馬車、列車の暗く長い道行きがこの物語の雰囲気を決定づけているようだ。また恋に浮かれた年下の娘アンヌをいさめ、家の望むような結婚へ向かわせるのにテレーズも大きな役割を担うエピソードがあるが、これも逆説的で、物語の芯に強く影響を与えている。心理描写のための大きな演出が成功している感がある。テレーズのスモーカーぶりも示唆的だ。


テレーズはベルナールとの家に帰った後、砂地の土地アルジュルーズで幽閉生活を送る。お金さえあれば出て行けただろうに全て夫にもらわなければ行動出来ない、というのも暗示的な状況ではある。


憧れていた結婚が、始まってみれば満足のいくものではなく、合わせようとしたものの、夫とも周囲ともズレが出来ていく。身体的、ハッキリ言えばセックスにも高揚感がなく、結婚生活というものに期待が持てない。この話は意外とリアルだな、と思う。


土地の慣習通りに暮らす人々は進歩的ではないが人間くささを感じさせるし、夫のベルナールにしても純粋さがほの見え、毒殺未遂を起こした者にお金を与えないというのはある意味常識的ではあるかな、とも思わせる。モーリアックは、環境のいやらしさと常識を堅牢に組み上げている。


そのベースが、心から納得できない、飛び出したい、でもできない、というテレーズをわがままに思わせたり、同情させたりする。聡明で美人で進歩的な女性を受け入れない社会を嘆いてみせるというよりは、現代人にこそ、不器用で等身大に見えるキャラクターを描いた話と言えるかもしれない。そのバランスは絶妙だな、と思える。


異様な爽やかさの漂うラスト。昔に戻ったように仲睦まじくパリを散策する2人。ベルナールは事件の真相を訊く。そして別れる。テレーズの新しい人生のスタート。前途の希望とあまりにも暗い過去とその残滓。放射される色合いは光と陰と、そして両方が混ざったものがあり、心に残る。どこか映画向きという気がした。


さて、実を言うと、ストーリーや演出に魅力を覚えても、私はテレーズその人に強い引力は感じなかった、のだが、遠藤周作はかつて相当な強行軍でこの「テレーズ・デスケルウ」に由来する土地を巡ったとか。後にテレーズが出演する物語をいくつも書いたモーリアックはこの物語の序文でテレーズに対する感情を露わにしている。


「テレーズ、あなたのような女がいるはずはないと多くの人がいう。だがぼくには、あなたは存在しているのだ。長い歳月のあいだ、ぼくはあなたを探り時には追いすがり、その素顔をみつけようとしてきたからだ。(後略)」

2019年5月13日月曜日

5月書評の3




昨年はひと月に20冊読んだ月もあったのに、今年はペースを上げようと思ってもなかなか上がらず。長いのも読みたいしねえ。あまり数は気にしない方がとは思うけど。まあまず読めてはいる。

◼️「雨月物語」


エンタメのようで、ホラーのようで、そうでもない。夜道で思い出してゾッとした。


読み終わって、強烈なインパクトは正直なかったけれど、正統派なのかな、いう気はした。


上田秋成の作、「雨月物語」「春雨物語」から抜粋した小編が収録されている。


西行と、魔王となった崇徳院が対峙する「白峯」、行きずりの武士と義兄弟となり、固い約束を守る「菊花の約」、商いで京に上った夫を死しても待ち続けた妻の「浅茅が宿」、画家が魚に魂を移すファンタジックかつ美文の話「夢応の鯉魚」、裏切られた妻の幽霊が出奔先の男を襲う「吉備津の釜」、県の真女児(あがたのまなご)が恐ろしい蛇となる「蛇性の淫」、人喰い僧の話「青頭巾」、吝嗇家の武士と黄金の精霊とのリクツもの「貧福論」が雨月物語から抜粋されている。


「春雨物語」からは、少し時代を遡った、桓武天皇の後の平城天皇、嵯峨天皇の話「血かたびら」「天津処女」、土佐日記に材を得たリクツもの「海賊」、親兄弟を殺して盗賊となった男を描く「樊噲(はんかい)」が入っている。


こうして振り返ってみると、「吉備津の釜」とか「蛇性の淫」とか「青頭巾」とか怖いこと。読んでる最中はそうでもないけど、後から来る感じかなと。


雨月物語〜日本を代表する怪奇ものというイメージがあった。古典、とくに物語集はなんとなく平安・鎌倉という先入観があって、江戸時代のものとは実は思ってなかった。


さて、正統派、というのは漢籍や古典を材料として書いている点、物語が読者の期待に応えるような、意表を突くような、その中間のような展開であること、全体として、何を醸し出そうとしてるのだろう、と考えてしまう不思議さ、だ。


今昔物語集、源氏物語、伊勢物語、また今昔に材を得た芥川龍之介にしても上に挙げたようなテイストがあって、割り切れない話もある。ただ、物語を組み上げる時に、漢籍・古典を活かし、しかも読み手が楽しめるものを書くためには相当な労力と推敲がいるだろうな、とは今回も思った。


読み終わった後、バス停から帰りの山道で振り返った時、薄暗い街灯の下に髪の長い女性のシルエットが浮かび上がったのを見て、思わずゾッとした。すぐに現実に戻って笑っちゃったけど。^_^


後を引く物語集である。


◼️高橋均「グループ会社リスク管理の法務」


たまにはね。勉強。


持ち株会社制により、企業グループが新たな形で多く生まれ、組織再編、またM&Aも頻繁に行われている。


また時あたかも企業の内部統制が叫ばれるようになって久しいが、東芝の例を出すまでもなく企業不祥事、不正は次から次から湧いてくる。


ステークホルダーを守るため、コーポレート・ガバナンスコードはどんどん厳しくなっていき、企業に対する監視の目は厳格化している。


そのような状況の中、親会社は企業集団の内部統制、リスク管理をどのように実施していけばよいか、平成26年会社法改正を起点に原則論と方法、ハード面とソフト面から解説している本。


もと新日本製鉄のコーポレート部門に勤め、法制度を研究している著者の書き方は、実務的でもあり、また親子会社間の訴訟制度にはこだわりもあるようだ。


途中そのこだわりによる法制度の変遷の部分がやや冗長かな、というのと、海外子会社については実務的な論があまりないかな、という点、また内部監査部門の業務についてはやはり分野が違うかなというのがあったりしたが、大いに参考になった。


判例を楽しみに読んだが、これが難しかった。私法学部卒なんですけど^_^ちょっとショックを受けました。えーん。

5月書評の2




最高気温が25度を超えてきて日中暑い。でもまだ湿度が低くて風が気持ちいいので家にいるぶんには快適。湿度上がるなー。このままがいいー。

◼️メアリー・シェリー

「フランケンシュタイン」


善良で幸福な家族と友人になりたいと願った怪物。


この私の可愛い人 モンスター 目をさますのよ・・


最近弟の運転する車中で懐メロをたくさん聴いた。ピンクレディーメドレーも入っていた。詩人バイロンの提案で幽霊話を書こうという企画があり、当時19歳の女性メアリー・シェリーが着想を得て書いた怪奇小説。歌詞はどこかメアリーの心の声のようにも聴こえる。


時代は18世紀。産業革命後、科学の力が認識されてきた時代。ジュネーヴで幸福に育ったヴィクター・フランケンシュタインはインゴルシュタット大学に入って科学を学び、ついに人間様の怪物に命を与えることに成功したが、怪物は逃走するー。ヴィクターの幼い弟が絞殺されたという報が届き、ジュネーヴへ帰る途上、ヴィクターは怪物の姿を 見かけるー。


ヴィクターは怪物こそが弟殺しの犯人と確信するのだが、怪物の策謀でフランケンシュタイン家で育った娘ジュスティーヌが犯人とされ処刑されてしまう。どうしても真実を言い出せなかったヴィクター。やがて外出の際怪物が現れ、ヴィクターはその告白を聞く。


そして怪物は見捨てられた自分がどのような道行きを辿ったかを語る。冒頭の、善良な家族の話が出てくる。隠れ棲んだ小屋から家族の一部始終を見ていた怪物は、言葉を覚え、書物により価値観、当代の知識を吸収し、心から彼らの友人になりたいと願ったが、あまりに哀しい結末を迎える。


フランケンシュタインは、ゴシックホラーの代表的な怪物と言っていいだろうと思う。しかし著者のことも、原作のストーリーも意外に知られていないようなイメージがある。私は昨年「メアリー・シェリーのすべて」という映画を観て読む機会を探っていたが、図書館はいつも貸出中だった。初読で、このような話かとやっと理解した。怪物でなく、産み出した科学者がフランケンシュタイン、というのもどこかで聞いたが、やっと得心がいった。


描き方は、北極へ遠征しようとしているウォルトンの船がヴィクターを拾い、ウォルトンがヴィクターの恐るべき告白を聞いて、姉への手紙にしたためる、という形をとっている。さらにヴィクターは怪物の話をこれまた伝聞で聞いたわけで、いわば三重の伝聞というのは珍しいな、と思った。


しかしながら、その形が人間的なホラーストーリーのエッジを微妙に立てていて独特の雰囲気を出している。またこの作品を読んでいて時々思いが到る、正気と狂気のあわいをも感じさせるちょい幻想の演出にひと役買っているのも確かかもしれない。


実は「吸血鬼」はまだ読んでいないのだが、「透明人間」にはやはり印象的な独白部分があり、それを思い出した。


幸福な家族へのアプローチやヴィクターの放ったらかし方、妻への襲撃を許してしまうところなど、ちょっと脇が甘いなと感じる部分はある。しかしこの怪物の発想と本能的に感じられる恐怖、人間的な部分の創造と哀しさの演出はやはり素晴らしいと思う。


お前はやさしすぎて、ぼろぼろなのね・・。


受け入れられない怪物、もう少しで産み出されたはずの女性モンスター、パロディへ向けた素地も十分。なんか興味が出たな。読んでみようか。


◼️加藤陽子「とめられなかった戦争」


とめられない感覚。現代の目で判断する前に事情を知る。


「それでも、日本人は『戦争』を選んだ」の加藤陽子さんの本。こちらは2011年、NHK4回シリーズで取り上げた内容をまとめたもの。


1章では、敗戦の1年前、サイパン失陥の時点でなぜ戦争を終らせる事ができなかったのかの検証、

2章では、なぜ圧倒的に国力差のあるアメリカと戦ったのか、

3章では、なぜ日中戦争は拡大し、長期化してしまったのか、

4章ではなぜ日本は中国と戦争をするまでに関係を悪化させてしまったのか、


を解説している。


それぞれの章で解説をしていくうちに出てくる疑問点を次の章の焦点とし、しかも時代を遡っている。この分かりやすさと明快さに唸ってしまった。


4章合わせても175ページの薄い本ではあるが、いつものようにとつとつとした文調と

回り道をせず本質を述べていく展開、また史料・証言に基づく冷静な論調は独特で、読み手の興味を惹きつける。


私の戦争との関わりは、祖父が電力会社社員として日中戦争期に北支に渡り、おそらくは電力需要のあった土地で業務に従事し、敗戦後、軍閥の虜となって1年後にやっと帰国した、というもの。日中戦争のことには多少興味があり、またドキュメンタリー映画なども観に行ったことがある。今回も地図付きの記述ではつい当時祖父がいたエリアを探してしまった。


また、敗戦までの道のりは、明治維新から日露戦争が、日本人の意識に影響を与えたのではという考えが個人的にあったりするが、日露戦争からの意識についても言及されていて多少得心がいった。


最後近くの文章がフラットである。昭和恐慌のあおりで分村移民が奨励され、分村して満蒙への移民をすれば、残った村には特別助成金が出た、というくだりのあと、


「(前の文略)国家の責任を強く追求する思いで歴史を振り返りたくなる気持ちも分かります。しかし、たとえば、自らが分村移民を送り出す村の村長出会ったらどう行動したか、あるいは、県の開拓主事であったらどう行動したか、移民しようとしている家の妻であったらどう行動したか、関東軍の若い将校であったとしたらどう行動したか。そのような目で歴史を振り返ってみると、また別の歴史の姿が見えてくると思います。」


加藤氏は文章の中で現代に至る矛盾も衝いている。ただ、現代の目で斬ってしまう前に当時の事情、その時代を生きた人の意識を知ることの大事さを訴える姿勢には共感するものがあった。

2019年5月11日土曜日

別れの福岡行2





4月28日。

前夜寝たのが夜9時ごろだったため、早朝に目が覚めた。粉末カフェオレを入れて、朝ごはん食べる。一服しに近くのコンビニ。23月とも薄手の服しか着て行かず、福岡ナメてたーと言っていた。今回も春爛漫のはずなのに曇り雨で朝はひどく寒かった。末弟によればいつも私が寒波を連れて来てる、とのこと。


弟が風呂に入っている間に筋トレ。汗かいて、風呂にお湯張って入る。午前から姉のマンションで四十九日。と言っても簡易な仏壇に、創価学会である家族が経を唱えるだけ。終わった後、お蕎麦屋さんに食事に行った。25歳で一番上の甥っ子、この春就職した22歳の姪っ子も一緒。自分の家も、息子50の時妻は85歳。こんなものかもと思ったりした。


母宅に帰り、香典返しの金額と送り先を整理、イオンに買い出しに出かける。大人数で行っても実働は姉と姪っ子。私はぶらぶらしている役立たず。弟たちは姉と甥姪の旅行によく一緒に行っているようだ。今年は年末年始北海道と姉は言っているとか。


馬出の九大病院にいとこを見舞いに行く。虫歯から細菌が入って心臓を手術した。死を意識して、怖い幻を見たと言っていた。父はこのいとこを毎日見舞い、自分は良い父親だったのだろうか、ということを滔々とまくしたてるとか。うーむ。


この日の行事は終わり。帰りにスーパーに寄り近くのブックオフ。母が亡くなった老司のホスピスの近く。仙頭直美「萌の朱雀」川端康成「川のある下町の話」を買う。川沿いのサイクリングコースが近く、幼少の頃おじいちゃんの自転車の前の座席で走った記憶、写真がある。もう老司なんて来ることがあるんだろうか。晩ごはんはスーパーの弁当ですます。朝ごはんにアップルデニッシュとハムマヨミニのそれぞれ4個入りを買う。上の弟は洗濯にお茶とよく働く。筋トレして寝る。

2019年5月6日月曜日

別れの福岡行 vol.1





写真は那珂川町。

お母さんが余命わずかと知ってからずっと悲しかった。亡くなってから、その現実が信じられず、こたえる辛さを味わった。


当初は四十九日を4月の初めの方の土日にしようという話だったから帰らないつもりだった。納骨堂が空いてなくて初盆の時になるとも聞いていたし。遠い我々に配慮する形で、また上の弟の強い希望でGWになったのはひと月前のこと。弟は羽毛ぶとんほか引き取りたいものが多くて車で帰るから、交通滞在費の節約のため関西からいっしょに乗って行かないかと誘いが来た。


10連休。毎年GWは義父の法事のため後半に妻が実家に帰る。息子は適度にブカツ。今回は四十九日ともろもろのほかに我々にとって大きな意味があった。


実家が亡くなってこのかた、母が住んでいたコーポをついに引き払うタイミングなのである。12年間母はこの部屋で暮らした。すぐ近くにスーパー、道を挟んで大病院。郵便局コンビニ等々も近くにあって実に滞在しやすく、また地元なので我々は問題なく帰省し、友人と会い、子どもを泊まらせた。


姉が母のそばに住んでいるが、子ども3人がいてとてもその家庭に入って泊まることはできない。


つまり何日でもタダで滞在できる場所が地元になくなる、もう地元には帰ってこないということになる。納骨堂はずっと離れたところだし、そもそも母がいないと帰る意味がない。地元に足場を失った友人は少なくない。母の柳川の実家ももうなかった。


だから、2月、3月、4月とあったこの帰省でできるだけ想い出の場所をなぞり、人に会うようにした。ついに最後の数日を過ごすための帰省。こだわりたかった。


弟に早朝7時、自宅近くのバス停に迎えに来てもらう。荷物の点は、車は楽だ。最初は何度もトイレ休憩を願い出た。出発前数日、書評書きなどでつい寝不足になっていたし、やはり緊張もあったのだろう、GWに車で高速道路遠い道のりを帰るというのは。周りからも心配されたし。


中国道は、車がいなかった。ほんとうにガラガラ。楽勝すぎる道行きとなった。トイレは、3回めあたりに落ち着いてきた感があって、その後はもうだいじょうぶ、2時間ごとの休憩時で余裕となった。PAはさほどでもないが、車がいない中国道でもサービスエリアは駐車場を探すのに手間取るくらい混雑していた。


出発前には関門海峡で夕陽かと言っていたのに15時すぎには壇ノ浦PAに着いた。ここだけは関門橋がきれいに見えるスポットなので車列ができる。でもすぐ停まることができた。出口近くが空きやすいポイント。


そこから福岡インター、都市高速に入って板付インターから高架下道沿いに進み1630分には到着した。


ここのところなじみの母親のコーポ。その夜はドライバーの弟と2人泊まり。歩いてすぐの王将で、チャーハンとギョーザを食べた。帰りにスーパーで朝ごはんを買った。やはり母の部屋は、とても落ち着く。


母と離婚し再婚した父は地元には住んでいないし、その家には気持ち的にひどく行きにくい。年老いた母を見捨てたという感情もある。


だいじょうぶかと思っていたが、ロングドライブによる体力的なダメージは大きく、またここ数日睡眠不足だったため、晩ごはん食べて、処方箋薬局の入っているすぐ近くのローソンに行ってバファリン買ってーこういうところも便利だー部屋に帰り着く頃にはもうダメダメで、風呂にも入らず寝てしまった。頭痛がひどく、明日生きて起きれるかと思いつつ意識が遠のいた。

5月書評の1




福岡から帰ってきて数日。午前中外出して図書館行っていくつか買い物して、昼ごはんは家で食べて午後から西武ライオンズ戦をつけて読書といういつものパターン。気が抜けている、そして悲しい。ひょっとして、生まれてから今までで一番悲しんでいるかも知れない。

◼️仙頭直美「萌の朱雀」

カンヌ映画祭カメラドール・受賞作品を監督がノベライズ。奈良の山間部が舞台の、家族の物語。

河瀬直美監督がこの作品でカメラ・ドール(最優秀新人監督賞)を獲ったのは97年のこと。その後目覚ましい活躍で、「殯の森 」ではカンヌで最高賞パルム・ドールに次ぐグランプリ(審査員特別大賞)を受賞、日本を代表する監督となった。奈良を舞台とするのが特徴の監督さん。

昭和60年、奈良県南部の過疎の地、恋尾地区。高校生の私・田原みちるは、幸子ばあちゃんと母の泰代、予定されている新鉄道の掘削作業員の父・孝三、いとこで7歳年上、ほのかに恋心を抱く栄介と暮らしていた。15年もの間掘削に従事した孝三だったが、新鉄道計画は中止と決まり、身体の弱い泰代が、栄介の働く旅館に勤めることになるー。

ふと見かけて購入。この作品は興味がありながら観ていない。河瀬監督みずからの書き下しというのに興味を持った。

一般的に映画は、映像とセリフで語るもの。場面の説明はめったにない。少女の心象や家族の微妙な感情、また山あいの季節感、人間関係などはなおさら表情や仕草、風景、背景で表現する向きが強いので二重に興味深かった。

物語は地域に結びついた感情と人間の再生へ向かう道かと思う。最初の説明では、著者は舞台となる恋尾と周辺の環境を丁寧に、詩的に書き連ねる。

章は2つ。4歳と、18歳。1人称の「私」。幼い頃の話は、ポイントとなるトンネルと、父の存在を印象付けている。高校生では、栄介への恋心と、家族の変化を描き、そして深刻な「事件」が起きる。

物語の構成として、シーンの作り方として、映画監督さんらしいものを感じた。眼に見えるものは、見方、表現の仕方により変わってくる。出口の見えるトンネル、向こうに見える光、を印象的に捉えている。また、クライマックスに感動するには、序盤から敷かれた薄いベースがひとつのポイントと思っているが、幼い頃の章で環境を書き込み、高校生の章では時間の経過とともに避けようのない変化を端的に示している。栄介の心のありよう、みちるの素朴なかわいらしさが潤沢な色を添えている。

イギリス映画にはサッチャー時代の炭鉱争議を描いたものが多い。「ブラス!」や「リトルダンサー」。物語の成り行きは違うが、今回似たようなものを感じてしまった。

1人称の展開については考え込んでしまった。みちるが直接見ていないものまで、主観と客観が混ざったような形で描写されている。他の物語はどうだったっけと。表現としてマッチしているのか、ということも気になったかな。映画は主人公がいないシーンでも関係なく複眼的に重ねられるからな、と思ったし。

もひとつは、再生。大事な人の死に大きなダメージを受ける。そして再生の端緒をつかむ。よく分かるが、本来長い時間がかかるはずのものを詰めすぎている感があった。心の底からの納得はちょっと難しかったかな。

ただ作品そのものはとても気に入った。地域に注目し、様々なものを絶妙なバランスでぎゅっと濃縮してある。映画のテンポとみずみずしさが感じられるような気がした。考えるより観る、かな。

奈良好き、でも河瀬監督の作品は、あまり観ていない。これをきっかけに観るようにしよう。


◼️立原正秋「たびびと」


変わらず品がいい。枯れ、も意識させる大人の恋愛小説。


立ち読みしていたら、最近興味のある京都・紫野大徳寺の章があったので、それだけで買ってしまった。


立原正秋は基本は恋愛小説である。以前「花のいのち」という作品をよんだが、今回と同じく、男性主人公が芸術に関係する裕福な男である。美を意識させる陶磁器や寺、史上の人物、美食などを絡ませて、立原は品の良い世界を創る。


そこで展開されるのはややベタとも見える恋愛模様。もと編集者であり離婚経験があって子持ちの麻は、文筆家で所帯持ちの高桑と4年間不倫関係を続けている。麻は3回も高桑との間に出来た子を堕胎する。


麻には親族によりカメラマン・野島との見合いから再婚の道が敷かれる。高桑は麻と会わないようにしていたが、心は決まらない。一方の麻は高桑に執着があり、会う機会を求める。高桑は医師に肝臓の不調を宣告され、死の影に怯える。


作中2人は箱根や東北、京都へと旅をするが、もちろん「たびびと」の「たび」は心の旅路である。高桑は京都の大徳寺真珠庵で見た一休宗純の絵から、一休が54歳で自裁を計ったことから自己破壊行動に進む自分を考えてみたり、「風の裂け目」に死の予兆を感じる。


高桑もしばらく麻に対する行動を自ら封じるが、麻と同じく、はっきりと執着している。3度も堕胎させたことを罪と自覚しているし、執着が、麻の世間的な幸福を止めることであると頭では分かっていながら。


さらさらと薄く人生が流れ、後でその交差を思い出すのも恋愛かも知れないが、行き詰まるところまで進み、矛盾を押してまで・・というところも人の想いだろうと感じる。逆にリアルだと思う。立原は年齢を重ねた時の男女の心の成り行きや心理的に影響するものをもていねいに描き、舞台を彩り豊かに、でも現実的なところも外さずに織り成している。


どこか日本近代の正統な恋愛小説という風味がするな、と。立原正秋らしい、上品でかつ人間的でもある話という気がした。


ともかくも真珠庵には興味も出たし、大徳寺行こうかな。

◼️仙頭直美「萌の朱雀」


カンヌ映画祭カメラドール・受賞作品を監督がノベライズ。奈良の山間部が舞台の、家族の物語。


河瀬直美監督がこの作品でカメラ・ドール(最優秀新人監督賞)を獲ったのは97年のこと。その後目覚ましい活躍で、「殯の森 」ではカンヌで最高賞パルム・ドールに次ぐグランプリ(審査員特別大賞)を受賞、日本を代表する監督となった。奈良を舞台とするのが特徴の監督さん。


昭和60年、奈良県南部の過疎の地、恋尾地区。高校生の私・田原みちるは、幸子ばあちゃんと母の泰代、予定されている新鉄道の掘削作業員の父・孝三、いとこで7歳年上、ほのかに恋心を抱く栄介と暮らしていた。15年もの間掘削に従事した孝三だったが、新鉄道計画は中止と決まり、身体の弱い泰代が、栄介の働く旅館に勤めることになるー。


ふと見かけて購入。この作品は興味がありながら観ていない。河瀬監督みずからの書き下しというのに興味を持った。


一般的に映画は、映像とセリフで語るもの。場面の説明はめったにない。少女の心象や家族の微妙な感情、また山あいの季節感、人間関係などはなおさら表情や仕草、風景、背景で表現する向きが強いので二重に興味深かった。


物語は地域に結びついた感情と人間の再生へ向かう道かと思う。最初の説明では、著者は舞台となる恋尾と周辺の環境を丁寧に、詩的に書き連ねる。


章は2つ。4歳と、18歳。1人称の「私」。幼い頃の話は、ポイントとなるトンネルと、父の存在を印象付けている。高校生では、栄介への恋心と、家族の変化を描き、そして深刻な「事件」が起きる。


物語の構成として、シーンの作り方として、映画監督さんらしいものを感じた。眼に見えるものは、見方、表現の仕方により変わってくる。出口の見えるトンネル、向こうに見える光、を印象的に捉えている。また、クライマックスに感動するには、序盤から敷かれた薄いベースがひとつのポイントと思っているが、幼い頃の章で環境を書き込み、高校生の章では時間の経過とともに避けようのない変化を端的に示している。栄介の心のありよう、みちるの素朴なかわいらしさが潤沢な色を添えている。


イギリス映画にはサッチャー時代の炭鉱争議を描いたものが多い。「ブラス!」や「リトルダンサー」。物語の成り行きは違うが、今回似たようなものを感じてしまった。


1人称の展開については考え込んでしまった。みちるが直接見ていないものまで、主観と客観が混ざったような形で描写されている。他の物語はどうだったっけと。表現としてマッチしているのか、ということも気になったかな。映画は主人公がいないシーンでも関係なく複眼的に重ねられるからな、と思ったし。


もひとつは、再生。大事な人の死に大きなダメージを受ける。そして再生の端緒をつかむ。よく分かるが、本来長い時間がかかるはずのものを詰めすぎている感があった。心の底からの納得はちょっと難しかったかな。


ただ作品そのものはとても気に入った。地域に注目し、様々なものを絶妙なバランスでぎゅっと濃縮してある。映画のテンポとみずみずしさが感じられるような気がした。考えるより観る、かな。


奈良好き、でも河瀬監督の作品は、あまり観ていない。これをきっかけに観るようにしよう。


◼️立原正秋「たびびと」


変わらず品がいい。枯れ、も意識させる大人の恋愛小説。


立ち読みしていたら、最近興味のある京都・紫野大徳寺の章があったので、それだけで買ってしまった。


立原正秋は基本は恋愛小説である。以前「花のいのち」という作品をよんだが、今回と同じく、男性主人公が芸術に関係する裕福な男である。美を意識させる陶磁器や寺、史上の人物、美食などを絡ませて、立原は品の良い世界を創る。


そこで展開されるのはややベタとも見える恋愛模様。もと編集者であり離婚経験があって子持ちの麻は、文筆家で所帯持ちの高桑と4年間不倫関係を続けている。麻は3回も高桑との間に出来た子を堕胎する。


麻には親族によりカメラマン・野島との見合いから再婚の道が敷かれる。高桑は麻と会わないようにしていたが、心は決まらない。一方の麻は高桑に執着があり、会う機会を求める。高桑は医師に肝臓の不調を宣告され、死の影に怯える。


作中2人は箱根や東北、京都へと旅をするが、もちろん「たびびと」の「たび」は心の旅路である。高桑は京都の大徳寺真珠庵で見た一休宗純の絵から、一休が54歳で自裁を計ったことから自己破壊行動に進む自分を考えてみたり、「風の裂け目」に死の予兆を感じる。


高桑もしばらく麻に対する行動を自ら封じるが、麻と同じく、はっきりと執着している。3度も堕胎させたことを罪と自覚しているし、執着が、麻の世間的な幸福を止めることであると頭では分かっていながら。


さらさらと薄く人生が流れ、後でその交差を思い出すのも恋愛かも知れないが、行き詰まるところまで進み、矛盾を押してまで・・というところも人の想いだろうと感じる。逆にリアルだと思う。立原は年齢を重ねた時の男女の心の成り行きや心理的に影響するものをもていねいに描き、舞台を彩り豊かに、でも現実的なところも外さずに織り成している。


どこか日本近代の正統な恋愛小説という風味がするな、と。立原正秋らしい、上品でかつ人間的でもある話という気がした。


ともかくも真珠庵には興味も出たし、大徳寺行こうかな。

2019年5月2日木曜日

4月書評の6





写真は関門橋。壇ノ浦PA、久しぶりに立ち寄った。この福岡行はまた別稿で。

4月は13作品13冊。月末の方が忙しかったり、妻子が風邪インフルエンザに倒れた影響もあり、こんなもの。

数に走りたいのと、がっつり読みたい気があったりと変なせめぎ合いが起きてるな。

◼️砂田弘「坂本竜馬」


どのレベルで何度読んでも、爽快だ。


児童向け伝記。子供の部屋で見つけて手に取った。身体も気も弱くて、勉強もダメだった竜馬。しかし姉の乙女に鍛えられ、やがて東京の剣術道場でも免許皆伝の腕前となる。


時は幕末、ペリー率いる黒船が現れ、攘夷派武市半平太の土佐勤王党、公武合体派に開国派と国論が割れきなくさくなった世相の中、土佐を脱藩するー。


紙で読むのはずいぶん前の、黒鉄ヒロシ「坂本龍馬」以来。当然なのだが、ほぼ同じエピソードをなぞっていて、思い出しながら読んだ。もちろん大河ドラマは見ていた。


川田小竜との会見、斬ろうと思って訪ねた勝海舟への弟子入り、西郷との出逢いと付き合い、高杉晋作からもらった銃、亀山社中、外国薩摩藩長州藩の武器購入、長州から薩摩への米のお返し、薩長同盟、寺田屋で襲われた際、風呂に入っていたおりょうが裸で知らせに来たこと。おりょうとの新婚旅行。


そして海援隊の結成から、いろは丸事件、船中八策、大政奉還、そして近江屋での・・。


近年の研究の結果、龍馬の立場が違ったとか、そんなに大活躍はしていない、という論もあるらしい。黒鉄ヒロシ氏はヒーローはヒーローのままでいい、というようなことを確か書いてたが、まあ賛成かな。


幕末は好きで、関連本を読み込んだ時期があった。たまには読み返すのもいいものだ。車で四国一周をした時、桂浜で龍馬のポスターを買って長らく自室に貼っていたのを思い出した。


◼️椹野道流

「最後の晩ごはん 黒猫と揚げたてドーナツ」


ペットがらみはやっぱ感涙。


今月2冊めのこのシリーズ。たまたま本屋に未読のものがあったから続けて買った。


兵庫・芦屋市の「ばんめし屋」で料理修行中の五十嵐海里は店長の夏神、眼鏡の付喪神の相棒、イギリス紳士姿のロイドと京都へ旅行する。帰った海里は後輩に頼まれ、店の休みに遺品整理のバイトを手伝うが、部屋の主人が飼っていたらしい黒猫の幽霊がついてきたー。


霊になるということは未練を残しているということ。海里、ロイド、夏神、そして常連客の小説家・淡海も一緒になって解決策を考える。


やっぱりペットと飼い主の絆は泣けてしまう。私も物心ついたころからずっと犬を飼い、死を見てきたからなおさら。


読みながら、ひょっとして昔飼っていた犬の霊がすぐ近くにいるのかも、なんて考えた。


月日の流れは早い。想い出は強い。生き物であるペットは人の心に忘れられない印象を残す。思い出す時、去り行き積み重なった月日の遠さを、人は悟るのではないだろうか。


ドーナツも、たくさんの人に自家製のものを食べた記憶があると思う。売っているフカフカのやつではなくて、固い油っ気のあるもの。途中出てくるそぼろ弁当や海里のお手製テキトー(笑)サンドイッチも面白い。くすぐられるものがある。


霊を待つ場所も、住んでるとこの近場だけあって想像できた。ちょっとしたトリックも興味深い。


料理、幽霊の謎、動物への情にバラエティに富んだ登場人物たちの個性が絡み、すらすら読めて満足させる地元もの。いい感じのラノベ。


まだ読んでない巻に出会うのが楽しみだ。でも楽しい時が長くなり、そろそろ終わりそうな予感もする。