2018年10月8日月曜日

9月書評の2




公園はたまにしか草刈りをしないんで夏場はぼうぼうに伸びている、で、ひと夏一度だけ草刈りが来る。だからこんな風に晩夏に緑が鮮やか、という光景が現出する。夕方薄暗い中、一面緑色に染まっているようで幻想的だった。

谷崎潤一郎「猫と庄造と二人のおんな」


見事だな、と思う。面白い。谷崎って意外に現代的?


兵庫・芦屋の荒物屋、石井庄造は飼い猫のリリーを異常に可愛がっていた。庄造は最近いとこの福子と再婚したが、別れた元妻の品子がリリーを欲しいと申し入れてきた。庄造が猫に入れ込むのに辟易していた福子に押し切られ、庄造はリリーを品子に渡す。


庄造は荒物屋をついでいるがのほほんとして欲も能力もないタイプ。品子との離婚と福子との再婚も母のおりんが絵を描き、それにのっかった形である。品子が猫を欲しいと言ったのにはもちろん目論見がある。


リリーは一度他にやって帰ってきた事があり、品子も逃げ帰るかもと思うが猫の行動は止められない。しかし、意外といえば意外な展開が・・。


2人は猫が原因で愛憎の感情を露わにし、風当たりが強いほど庄造はリリーに傾倒する。結果的に猫に振り回される若い男女。その姿をコミカルに、コンパクトにまとめている。男の、はたから見たらどうでも良さそうな、でも本人は大事と思い込んでいる、そんな子供っぽい執着を上手に描いていると思う。


また谷崎の、猫の描写がいかにもツンデレで、可愛くて、自然と愛着が湧く過程をシンプルで的確に表現している。好きなんだなあ、猫、と思ったりする。


舞台は兵庫県の尼崎、芦屋、六甲と私の住まいにも近い。有馬や宝塚歌劇、甲子園球場の話も出て来るのでなじみやすい。谷崎は現在の神戸市東灘区付近に住んだ。芦屋市には記念館もある。


さて、私には谷崎2作品めの本。なんとなくまだ谷崎の特徴である耽美主義に踏み込む事がためらわれ、有名な作品を読んでないが、ここまでの印象は意外に現代的だな、ということ。


「吉野葛」にしてもこの「猫と庄造」にしてもまとまりがよくはっきりとしたメッセージがある。芸術的な煌めきとかわけわかんなさはない。もう少し抽象的かしらと思っていた。ただ作家の特徴に生で触れたような感覚はまだないので、やっぱ代表作読まなきゃかな。


谷崎は一文が長いと思う。でも接続詞の使い方が上手で、きれいに書いている、と今回感ずるものがあった。


私が幼少の頃、我が家にも猫がいた。三毛猫で、祖母が飼っていた。名前は「リリ」。谷崎の影響ってことは多分ないけど、久しぶりに思い出した。


芥川龍之介「戯作三昧・一塊の土」


大きく構えるよりは、小さな話の方が好きかな。


13の短編を集めた作品。


「或る日の大石内蔵之助」は吉良邸討ち入り、仇討ちを済ませた後、細川家にいる志士たちの心境と世に与えた影響、その中で大石はどんな心持ちかを描いた作品。


「戯作三昧」は滝沢馬琴の、「枯野抄」は松尾芭蕉の死の床に集まる門下の者たちの心境を題材としている。


設定は面白く、文章も引き締まっているが、なんとも正直響かなかった。自分は王朝ものが好きなのかな、なんて自問したが、他の作品にはまずまず興味深く思えるものがあった。


日本での経験を元に「お菊さん」という小説をものしたフランス人、ピエール・ロティと鹿鳴館でのパーティーを描いた「舞踏会」は品良くまとまってたし、


幕末の緊張感高まる江戸での危うい邂逅を寓話のようにした「お富の貞操」、雑貨店の若おかみを巡る微笑ましい話「あばばばば」などは創作物として楽しい。


姉妹の恋愛・結婚話「秋」、お雛様を外国人に売ることになった家の15歳の娘とその家族の心境を扱う「雛」も現代へ続く近代を描き表しているような印象だ。


どれかというと上段に振りかぶった設定よりは、「蜜柑」のような市井の話がいいな、と思った。


芥川は物語的の創作に天才性が見える。これまでけっこう切れ味鋭かったのに、今回はややスピードを緩めたように見えなくもない。


北村薫「太宰治の辞書」


ヤバい。最終章で感動した。名シリーズの続編、再読。タイミングを整えて読んだらより味わい深かった。


女子大生だった「私」が小さな出版社に勤めだしてから20年余り、結婚して中学生の息子がいる。「私」は芥川龍之介の「舞踏会」、さらに無二の親友の高岡(旧姓)正子からもらった太宰治「女生徒」を探究していくー。


好きな方が実に多い「円紫さんと私」の最新刊が17年ぶりに出たと知り、歓喜を持って読んだのが一昨年の年末。しかし同シリーズ「六の宮の姫君」と同じく、対象となっている本を読んでから読むのと、そうでないのとでは大違いだという事に気付いた。


そこから、というわけではないが、太宰治を読み、芥川龍之介を読み出し、こないだ「舞踏会」を読んだので、満を持した感じで再読することにした。


そしたらどうだろう。「舞踏会」も「女生徒」もほんの短い作品であるのにこんなに深く味わえるなんて、とちょっとびっくりした。


「舞踏会」はフランスの軍の将校として日本を訪れたピエール・ロチが鹿鳴館での舞踏会を題材に描いた「日本印象記」を翻案した作品。社交界デビューとなる17歳の令嬢明子がロチと思われる外国将校と踊り、花火を眺める。三島由紀夫や江藤淳の評など資料を引きつつ、芥川龍之介と「舞踏会」の本質に迫っていくー。


瑣末と思われる部分もあるが、文学作品の謎に迫る、ほんとう、をおしはかる、物語の運びには考えつつ唸らされる。芥川の天才性を考察する機会でもあった。


次は太宰治の「女生徒」。種本というか、ホントの女学生の日記を下敷きにした創作ということは多分この作品で知っていたが、「女生徒」を2回ゆっくり読んだ身としては、ほとんどが日記の作者有明淑(しず)の表現通り、というのには改めて驚かされた。「キウリの青さから夏が来る」も、そうだし、他もたくさん。まさに有明淑は太宰治になって書いた、としか言いようがない。


太宰治の辞書を巡り、探索の旅は前橋へ。「私」の亡くなった先輩の出身地でもあり、萩原朔太郎の故郷。記念館に立ち寄る。

先輩が、食べさせてやりたいが、焼きたてでないと美味くない。持ってこれないものはあるもんだな、というような事を言っていた想い出の焼きまんじゅうを「私」が食べたところで、ジンと来た。


縦横な活躍で読む人に新鮮な感銘を与えて来たこのシリーズに月日の流れ、が重く加わったから、だと思う。


文学探偵、リテラリー・デテクティブ。キャラ造形もエピソードも探索の旅も、実に魅力的。いつ読んでも新鮮だ。いずれまたきっと新編を読めると信じている。


ああ、平和な気持ちでまた太宰府の梅ヶ枝餅食べたいな、あれも持ってこれないもんな、と思ってしまった。


ジュール・シュペルヴィエル

「海に住む少女」


透明感、というのは感じたかな。響きはもひとつ。


ウルグアイにゆかりの深いフランス人、シュペルヴィルの短編集。長くとも20数ページのつの作品が収録してある。


イエス誕生を扱う「飼葉桶を囲む牛とロバ」「ノアの箱舟」と聖書に題材を取ったものがいくつか。


また表題作や「セーヌ河の名なし娘」「空のふたり」などちょっと異質な設定から存在感、死生観を謳っているものが多い。


いずれもスパッとオチる話ではなく、静かに始まってなにかしら無常観のようなものを感じさせるちょっと哀しげな終わり方をする。著者は詩人でもあり、詩的な面もある。


分類が難しい。宮沢賢治っぽい、と薦められたが、ちょっと違うかも、というのが正直。


私的には「セーヌ河の名なし娘」が気にかかったかな。十九歳の溺死した娘がセーヌ河を流れていく。娘はやがて足に鉛をつけられ河底で暮らす死者のグループで過ごすようになるが、異端者と嫌われ、自ら出て行くー。お話っぽく、暗喩的だった。


全体に、独特の透明感は感じたが、あまり響きはしなかった。これも読書の抽斗という事で。

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