9月はなんと、22作品も読んだ。ここまで数が多くなると、毎月のアップも大変。しかしこれは記録だし過去書評はよく探すしでしなければならぬ。セレクトブックショップの本が入ってきているせいかバリエーションに変化が出たと思う。またこの月は、ある意味天啓を受けた時でもあった。
宮沢賢治「インドラの網」
「風の又三郎」の元となった「風野又三郎」。読みたかった。
インドラとは帝釈天のこと。この童話集には賢治らしく法華経の言葉が使われた作品がいくつ入っている。
表題作のほか「雁の童子」「学者アラム ハラドの見た着物」「三人兄弟の医者と北守将軍」「竜と詩人」「チュウリップの幻術」「さるのこしかけ」「楢ノ木大学士の野宿」「風野又三郎」が収録されている。
「インドラの網」で「私」は夢の中で天人に会う。幻想的な話であるのに、鉱物や理系的な言葉がたくさん出て来てクスッとしてしまう。いや賢治らしい。
「三人兄弟の医者」はやや長めだが韻文形になっているのですらすら進む。長年遠征していた将軍が蔵からお尻が取れなくなり医者にかかる、どこかで聞いたコミカルな話。
どの話も教訓的だったり微笑ましかったりする。心に残ったのはファンタジックな「チュウリップの幻術」かな。ぎらぎら光ってすきとおる蒸気が空へ昇る、青空いっぱいに湧きあがる光の酒。
「風野又三郎」。この編に出てくる又三郎は本当の風の精で赤い髪をして鼻っ柱の強い透明感のある子供。北極、グリーンランド、ハワイまで飛び回り、大循環に乗る。ワクワクするような体験を集まってくる村の子供たちに語り、いずこへかと消え去る。「風の」は自然の厳しさがベースで、又三郎は現実の子供として登場し、全編に切れるような迫力があったが、こちらは伸びやかで作者の願望も多分に入っているのではと思わせる内容だ。
宮沢賢治の作品群には、ビッグバン後広がり続ける宇宙のような想像力と科学、宗教、自然への憧憬、世界への興味、また子供たちへの優しいまなざしに加え、賢治自身の鋭い感性と哀しさを感じさせる願望がぎゅっと詰まっている。書くからには最高のものを、というプロフェッショナリズムもなんとなく感じる。
バラバラになったひとつひとつの作品からも、その複雑な匂いが漂ってくるから凄いなと思う。大人が持つ感性に現代でも訴えかけ、読み解く喜びを与える宮沢賢治ってスペシャルな作家だな、やっぱり。このシリーズ未読の「まなづるとダァリヤ」「ポラーノの広場」も読もう。
ジャン=ピエール・ノーグレット
「ハイド氏の奇妙な犯罪」
ハイド氏目線から見た「ジキル博士とハイド氏」の物語。それだけじゃなくて・・。
この4月にスティーヴンスン「ジキル博士とハイド氏」を読み、二重人格の代名詞となっている元の作品が科学の世紀の流れを汲み、容貌の恐ろしさを前面に出した物語だと知った。
図書館でパッと目に入り即借りて来た。確かに、原作は終わりのキレが良く、それもまた名作っぽいんだけれど、残った謎を明かしてくれるならとこの手の本に興味を惹かれるのもまた真である(笑)。
しかも私にとって外せないことに、シャーロック・ホームズが登場する。長編第2作「四つの署名」とからめて。はっきり言ってこのようなパターンは非常に珍しい。手元に残したいな。おまけに他短編の舞台となる店も効果的に使われる。
「ジキル博士とハイド氏」の書評でも触れたが、この作品が発表されたのはホームズ第1作の長編「緋色の研究」かビートンのクリスマス年鑑に掲載される前年の1886年であり、どちらもロンドンが舞台のストーリーなので結びつけ方は珍しいが自然ではある。面白いトライだ。ホームズの「這う男」という話では老人が薬を飲んで猿のような奇行をするが、明らかにスティーヴンスンの影響らしい。
さて内容はというと、ハイド氏といえば「少女踏み付け」のエピソードだがその真相とか、どうやって動き回り、どのような活動をしていたかなどが明かされる。そして殺人の情景、最大の読みどころは殺人からラストまでの激しい冒険、とも言えるものだ。ハイドのモノローグと3人称が混ざった文体で違和感がないでもないが、まあまずエキサイティングで原作の裏側を読んでるな、という感覚も味わえる。
そして原作に出て来ていない、もうほとんどかすっているが、という人物がカギとなる。んー、また謎が残るじゃん、という終わり方だった。
最後に「ジキル博士とハイド氏」について30ページほど著者の論文が収録されている。分析的で興味深い。訳者あとがきによればはイギリス文学者でスティーヴンスンの専門家だとか。ほー。2003年に日本で出版されている。
ジキルとハイド、という言葉だけでなく、内容を掘り下げる読み方が出来て良かったと思う。私にとっては、認識していなかったシャーロッキアンものの、思わぬ発掘ができて嬉しい限りだった。
川端康成「山の音」
自分が、川端シンドロームではないかと疑ってしまった。ちと感服した。
老いを感じる60代の主人公、尾形信吾は妻・保子と新婚の息子夫婦、修一、菊子と鎌倉に暮らしていた。信吾は美しい菊子をことさら可愛がり、菊子も甲斐甲斐しく家で働いていたが、信吾は修一が外に女を作ったのを知るー。
最初はちょっと枯れた風味がして、淡々としているな、と思った。しかし読み進めるにつれ唸ってしまった。
うまい。シーンの作り方、底に隠れた意図。また章の最後にさりげなくショッキングな事実を入れスパッと切る。突然来る大きな動揺、事態の動かし方が絶妙だ。
菊子と修一のこと、また夫と別れ帰ってきた娘の房子についてもなかなか決断しないままの信吾。繰り返される老いの描写の中、信吾は後半動くが数々のエピソードの中には常に、信吾がかつて憧れた妻・保子の亡き美しい姉の姿があり、それを投影した菊子への耽美的とも言えるいとおしさがある。
新宿御苑での2人の場面、
「喬木に重いほど盛んな緑が、菊子の後姿の細い首に降りかかるようだった」
という文章にはその儚さと美しさに浸ってしまった。
もうひとつ、作中成り行きで買った能面の美しさに魅せられ、ある時菊子に被らせる。その時美しい面の中で菊子の感情が溢れ出す。この場面の流れにも良い意味で意表を衝かれるし、何よりまして意外な映像美がある、と思った。
信吾は義父、という立場を崩さないが、内面では葛藤している。その戦後間もなくの男の、家庭での姿が重く生々しい。また修一とその女・絹子が時代の影響を受けているのも心がじくっとする要素だ。
菊子は義父に尽くし甘える嫁である。戦後間もなくを舞台にしたこの家族像と女性の立場は現代目線ではありえないものかも知れない。でも、私たちの父母の時代まではあったことではある。
本当にさまざまな要素を実に上手く織り込み、四季の中で家族の葛藤、老い、そして美を表現して響く物語にしていると思う。
川端康成は映像的、色彩的な作家だと思う。なおかつ仕掛けが粋でストーリーの組み方、シーンの作り方が抜群だ。
川端シンドロームに陥ってるのかも。いや感じ入った。
千住博「絵を描く悦び」
熱いエネルギー。日本画家の著者が、京都造形芸術大学での講義をもとに書き上げた美術の「授業書」。
例えば2つのリンゴを描く時、何も描いていない空間がポイントとなる、ということから、普段のデッサン、モチーフとの出会い方、技法、材料などなど画家に必要なものを多岐にわたって書いている。
内容は、自然と千住氏が通ってきた道を振り返るもの。千住家は父が工学博士、母はエッセイスト、博氏の弟は作曲家の千住明、妹はヴァイオリニストの千住真理子である。
博氏も音楽をしていたが絵の道に進む事を決め2浪して東京藝術大学に入学、博士課程まで修めている。浪人の時は美術系予備校で朝7時から夜10時まで絵を描いていたそうだ。
読んでいて著者の絵に対する情熱が伝わってくる。
代表作の「フラットウォーター」や「ウォーターフォール」の絵なども口絵として収録されている。1種類だけではないようだ。「ウォーターフォール」は1995年、ヴェネツィア・ビエンナーレで東洋人として初めて絵画部門優秀賞を受賞したとか。確かに、これだ、というモチーフを持っている画家は強いという気がする。
30代で評価された際、自分より外国人の方が日本の芸術に貪欲なことに衝撃を受け日本の古典を読み漁るようになったエピソードから本書を貫く思想のようなものが伺われ、おそらくその後も熱い心ですべきことをしたのだろうと思わせる。
その思想とは、世界が置き忘れたものが20世紀の日本にあったのではないか。自信を持って日本人であることが大事、そのための勉強を、というメッセージ、だと受け取った。
そもそも日本画というと水墨画や浮世絵を思い浮かべ、自分の中で整理がされていなかった。油絵に代表される西洋の絵に対し、岩絵具など伝統的な材料や技法が用いられるもので明治以降の概念だとか。彩色画もあり、誤解を恐れず言えば、パッと見西洋画と同じように見えるものもある。
全体的な印象では、なすべき修行をして評価され、その理論は積み上げが成せるものと思うが、どこか若い、と感じさせる。
うー、なんか染みたな。大徳寺の襖絵を観に行ってみようかな。と、思ったら非公開ですって。軽井沢の千住博美術館に行くしかないかな。
大谷康子「ヴァイオリニスト今日も走る!」
大谷康子さんと大阪交響楽団のコンサートに行き、現地で買った一冊。優しい文体で書かれているが、それだけではないものを感じた。
大谷康子さんは現在はソロ活動のみをしているが、私にとっては「題名のない音楽会」で演奏している、東京交響楽団のコンサートマスターのイメージだ。時たま「クラシッククイズ!」などの企画コーナーがあれば解答者席にも座る、チャーミングな笑顔のコンマス。
私もコンサートでまさに体感したが、マイクでのトークあり、アンコールのチャルダッシュを客席に降りていって弾いて回るなどサービス精神も満点のヴァイオリニストさん。
今年夏に出たこの著書には、生い立ちから音楽家としての道のり、マエストロその他の人々との出会い、また子供たちへの考え方、教え方なども盛り込まれている。
正直、お付き合いしている人脈がハイソ過ぎる部分があって、すごいなぁ、と思う。内容は難しい部分はなく、チャプターも短く切ってあり、読みやすい。
きっとそれだけでは決してないと分かっていても、光の中を歩んだ、生きる活力に溢れたバイタリティーある人、というイメージだ。
広めよう、としているのがクラシックというハードル高めなもののせいか、心がけているのは「むずかしいことをやさしく やさしいことをふかく」で始まる井上ひさしの言葉だそう。
感性豊かな子供たちが増えたら社会は変わる、極端な話戦争もなくなって明るい未来が・・という言葉にはパッと読んで甘さも感じるが、でもただ理想を言っているのではないと、この本を通じて感じた。願望としては持っていなくちゃ、そのために音楽家は頑張らなくちゃ、と思わせる。
人間的魅力にあふれた人である。いまでも「できないはずがない」といつも思っているという。岐路に立って悩んでも、選んだ方を楽しむ。どこかこの前に読んだ千住博氏とも通じるものがある気がした。
この本を読んで、うまく行く人は人種が違う、とも思えるかも知れない。自分とは違う、と。でも、できないはずがない、と頑張りたくなった。サインありがとうございました。。