東京で単身赴任をしていたころ、初めて1ヶ月で2ケタ10冊読んだ。8月だった。7年後のこの8月は、20作品21冊も読んでしまった。スピードは上がっている。好みも変化している。8月って本読みにはいい季節なのかしらひょっとして。
トム・ロブ・スミス「チャイルド44」上下
旧ソ連が舞台のサスペンス劇。んー、「なぜだ?なんで危険を冒した?」という問いが全てを表しているかな。
ソ連国家保安省のレオは息子の死を事故ではなく殺人だと主張する同僚をなだめに派遣される。息子の父フョードルは幼い息子は裸で、口に泥が詰められていたと主張した。役目をこなしたレオだったが部下の陰謀により左遷され、妻ライーサとともにモスクワのはるか南、ロストフ州に赴任、その地で、裸で切り裂かれ、口に泥の入れられた少年の死体を発見する。
2009年このミス大賞海外編第1位。友人にきっと好きだと思うと薦められてた作品。
少年少女への陰惨な犯罪、というよりは、ソヴィエト連邦の恐怖政治下での生活と、追われる身になったレオとライーサの逃亡活劇、さらに無慈悲だったレオの人生、また夫婦の絆の再生などがメインの物語。
誤認逮捕と部下の恨み、両親もろとも特権を失ったレオの田舎町への左遷、大量の異常犯罪、職務範疇を超えた捜査に逃亡劇、思わぬ真相、などなど、映画のような話で、スリルあふれる展開は読み手のページをめくる手を急がせる。
さて、上に挙げたセリフは捜査途中、レオを恨むかつての部下が再び捕まったレオに問い掛ける場面。なぜレオが命の危険を冒してまでこの事件の捜査に固執するのか、はストーリー全体から推し量るしかない。犯人はどうしてこんな犯罪方法をとったか、も同様である。明示するのが必ずしもいいのかどうかは難しいが。
また意地悪な見方なのかもだが、レオの捜査、逃亡へ協力する側の理由も正直腑に落ちかねるかな。
雰囲気的にソルジェニーツィン「イワン・デニーソヴィチの一日」をも思い出した。
続編もあるようなのでまた気が向いたら読もう。
内田百閒「私の『漱石』と『龍之介』」
漱石は大らかで怖く、龍之介は、才あるカッコいい変人、てとこかな。
内田百閒は中学生じぶんの明治38年、ホトトギスに掲載された「吾輩は猫である」を読んで崇拝者となり、自作の小説を送るなど教理の岡山から漱石と文通し、帝大に入学、上京してから木曜日の面会日に漱石の家に集まる中の1人となった。後から入ってきた芥川龍之介とはいい友人関係であった。漱石が世を去り命日に「九日会」が催され、また龍之介が自殺した後は「河童忌」が行われ、百閒は両方の出席者だった。
この本は百閒の著作の中から夏目漱石と芥川龍之介に関して書いたくだりを抜粋したもので私は初百閒。
内田百閒はしかしデカダン、生活がだらくさな上に貧乏だった。お金がないときに漱石に借りに行ったら湯河原に行っているというので旅費をかき集めて湯河原に行き借財を申し込む。漱石は鷹揚で二つ返事でOKするばかりでなく、夕飯ビール付きで泊まらせ、小遣いをやって車で返す。漱石かっこいい、こんな大物の余裕あふれる大盤振る舞い、やってみたいもんである。他にも当時夏目漱石という人がスーパースターだったと推測される跡が文章のそちこちに感じられる。
それにしてもこの本によれば、まあ多分脚色もあるのかもだが、百閒はあまり漱石と話をしないばかりか畏怖しているようにも見える。それでこんな無茶をやって金を借りに行くとはと、そのギャップにちょっと驚く。
漱石が亡くなった時には百閒はその存在の重さを改めて感じ、泣く。確か寺田寅彦か誰かが夏目漱石の人柄を書いていたが、同門の文人たちにとっては大きな存在だったのだろうと感じられた。
芥川龍之介は、内田百閒を慕っていて、対等の付き合いのエピソードが盛り込まれている。芥川の口利きで海軍機関学校の教諭となったこと、訪ねていくとこれから自分の婚礼だ、と芥川が言ったこと、薬でおかしくなっていた自殺前後の様子・・。
「私の文章が多少世人の理解と鑑賞を享けるようになって、最初に思ふ事は、芥川の既にいない事である。」という想いが胸を打つ。
芥川は多少読んだが、漱石も百閒も未読が多い。こないだ読んだ漱石「文鳥」周辺の話が書いてあったのは面白かった。百閒も読んでみよう。
この時代の文章は漢字が難しい。八釜しい、とか興味深いのもあるが、読めないものも多数。
あと夏目漱石の息子が私と同じ名前というのはなんかちょっと嬉しかったかな。。
フィリップ・キンドレド・ディック
「ユービック」
多元世界というべきもの、急激でスリリングで不可解な展開、その中をさまよう化け物。そしてユービック。あーなんか生還した気分。
1992年。反エスパー会社に勤めるジョー・チップは、読心能力者や予知能力者を無効化する「不活性者」達と社長のグレン・ランシターとともに月へエスパーの摘発に赴くが罠に落ち爆弾でランシターが殺されるー。
ほうほうの体で地球に帰ってきたジョーたちだったが周囲の時間がどんどん過去に遡る現象の中、不活性者たちが死んでいく。そんな中、死んだはずのランシターからメッセージが届くー。
設定といい物語のヤマの作り方といい絶妙。不可解状況もテンポよくパラレルワールドともいえる世界の進み方が明らかになる。爆弾もバケモノもよき唐突さを持ち怖さがある。
正直いうと分かるや分らんやの線上で、危ういが抜群のバランス感覚を持って異世界を創造しどこか魅力的とまで思わせるな、と思った。そしてまたタイトルのユービックが効いていること。
訳者あとがきによればこの作品は「アンドロ電気羊」と同時期の1969年に書かれた、ディック第三期の代表作だとのこと。
全てが説明されるわけではないのでもやっとした気分もあるが、筆力が絶妙で絶好調、もいった感じだった。
名作のようだし図書館にあるだろうと検索したら書庫にあり、1978年の初版で職員の方も「年季入っちゃってますねー(苦笑)」というシロモノだった。
ディック次は「パーマ・エルドリッチの三つの聖痕」が読みたいな。
「高村光太郎詩集」
再読。やっぱり同じとこに目が止まった。「智恵子抄」、哀しい愛の讃歌。
「道程」「猛獣編」「大いなる日に」「をぢさんの詩」「智恵子抄」などから抜粋して網羅している。
「道程」は小学校の卒業式だったか、書にして飾ってあったな。根本的だが、近代の詩人は言葉をよく知り進取の気鋭が読み取れる。
「犬吠の太郎」っていう詩は一瞬朔ちゃんのことかと思ってしまった。
さて、断片的な感想。「五月のアトリエ」の「五月の日光はほんとに金髪の美少年」という出だしにはちょっとびっくりし唸ってしまった。なかなかない例えであろう。感覚的。他の部分にも賞賛が見え、新緑が萌え新たなパワーを感じる5月に、光太郎は特別な魅力を感じているように見える。
「智恵子抄」はあらゆる言葉を駆使して智恵子への慕情を謳い上げているが「人類の泉」での「あなたが私にある事は 微笑みが私にある事です」には初読でも惹かれたことを思い出した。素朴でストレート。恋愛でも、子育てでもズバンと当てはまるフレーズ。
「東京に空が無いといふ」で有名な「あどけない話」、きれいな歯ががりりと噛んだ「レモン哀歌」、そして亡くなった智恵子が帰ってきたアトリエー。高村光太郎をwikiで引くと智恵子の画像も出てくるが、2人の関係と道行を考えてしまう。
夫婦2人の時、奥入瀬渓流を歩いて、十和田湖畔の「乙女の像」を見たことを思い出した。