北村薫「六の宮の姫君」
難解でないとは言わないが、霧が晴れたような気はする。「円紫さんと私」シリーズ。リテラリー・デテクティブ(文学探偵)もの。
4年生になった女子大生の「私」は卒論のテーマに芥川龍之介を考えていた。そんな折、小さな出版社からのアルバイトの話が舞い込む。作家の田崎信と会った「私」は「六の宮の姫君」について芥川当人が「あれは玉突きだね。・・・いや、というよりはキャッチボールだ」と言っていたのを知らされる。
多くの人に愛される(と思う)シリーズ第4弾。日常の謎を解いていく「空飛ぶ馬」「夜の蝉」、このシリーズにしては事件色の強い「秋の花」と来て、「六の宮の姫君」で文学探偵色を強め、卒業の「朝霧」でも薄く続いている印象だったと思う。
さて、最初に読んだときは芥川の作品を読んでない時分だったから、難解で長いなあ、という感想があったが、今回はタイトル作品と、重要なポイントとなる「往生絵巻」を読んだので、霧が晴れたような感があった。
「六の宮の姫君」は古い宮腹の生れである官職の父と母に育てられた箱入り娘の姫君が、両親に死なれてしまい零落し、救いのない死を迎える話だが、最後の方に違和感が残った。その違和感に正面からスポットを当ててくれていて、その説明にふむふむ、でも原文からは読み取れないー、とは思った。
さてそれとは別に、なぜ芥川は「六の宮の姫君」を書いたのかー。当時活躍していた志賀直哉、芥川と論争もした谷崎潤一郎、そして仲の良かった菊池寛と探究が深まっていく。そこには作家同士の、馴れ合いではない「キャッチボール」があった。
近代文学上の論。今回は実感を持った理解が多少は出来た気がする。文学が好き過ぎる作家さんが書いた、清楚で知的、箱入りの女子大生を主人公に、同級女子との歯切れの良い友達トーク、噺家の円紫さんとの交流、恋の予感、そしてリテラリーデテクティブぶりが詰まった、知的でかわいく上品な雰囲気にまとまっている作品。
でも難解でないとは言わない。今回もまあ、全部は理解できなかったな。
ちなみに、すでに40代の夫子持ちになった「私」を描いた「太宰治の辞書」という続編も久し振りに出ている。これまた読んだ時はそうでもなかったが、太宰をちょっとは読み込んだ今なら楽しいかも知れない。保存版の文庫買って再読しようかな。
森絵都「気分上々」
作りこまれていて、まずまず好感。アダルトなものもあるが、やはり少年少女小説に惹かれるな。
17歳の誕生日、千春はクールな親友・イヅモに絶交を申し渡した。「イキがいい」友人たちと付き合っていく、「自分革命」を始めたのだー。(17レボリューション)
イメージとしては、ちょっと可愛くした江國香織、てなとこだろうか。「ウエルカムの小部屋」のような、クスと笑ってしまう大人ものあり、「東の果つるところ」のような、ちょっと異界めいたものあり、「ブレノワール」ではフランスを舞台に若い料理人と母親の確執の物語を描いているし、「ヨハネスブルクのマフィア」は、アダルトな表現も入った、大人の男女の話。
短編集だからか、どれも作り込んだな、という感があるが、著者独特の、なんというか「許せる」感があって、楽しく読めてしまう。
「17レボリューション」「本物の恋」「気分上々」が少年少女もの。これまで「宇宙のみなしご」「つきのふね」などに感じるものがあったが、やっぱこの手のほうが好きかな、という感じである。
なんというか、作りこむのも、知恵を使って、くるくる回して、恋愛らしい要素を盛り込んで、うまく演出していると思う。トータルですすっとなじむ、いい構成の本かもな、と思った。
嚴歌苓「シュウシュウの季節」
近代の中国、少女たちの物語。テンポや訴えるものに、なぜかケン・リュウを思い出した。
成都に住んでいた少女、文秀は、軍馬放牧班の指導者となるため、僻地の草原に行かされる。ともに住むことになった歌の上手い大人の男・老金は文秀を意識していたが手は出さず、少女を守っていた。半年が過ぎても迎えは現れず、文秀は言い寄ってきた物売りの男に身を任せてしまうー。
(シュウシュウの季節)
表題作は映画化され、アカデミー賞で作品・監督・主演女優・男優賞を獲得したとか。また作者は作品が政治的に不適切とされ、天安門事件の年にアメリカに渡っている。
表題作のほか、「白蛇」「少尉の死」「リンゴ売りの盲目の少女」「しょせん男と女しか」「少女小漁」が収録されている。
どの作品にも少女が出演し、性的な描写がある。文化大革命で失脚し囚われた舞台女優、問題を抱えた家に嫁いだ娘、オーストラリアで金のためにイタリア人の老人と結婚する子と、重い現実の中で主人公たちは生きる。
性描写がさほど過激なわけではないが、剥き出しの欲望は、リアルで前時代的なものを感じさせる。たんたんとした文章は現実を哀しくもたくましく受け入れる女性たちを浮き立たせる。
「シュウシュウの季節」は短く思いつめた話だった。むしろ婚約者の家で過ごし、余命短い義弟に惹かれる「しょせん男と女しか」や便宜的に老齢のイタリア人の妻となり、老人と、そのガールフレンドと、自らの恋人との間で揺れる「少女小漁」なんかのほうが向いてるんじゃないのかな、と思ったら「少女小漁」もまた映画化されたそう。
著者は一貫して性を主題として捉えることを旨としているそうである。社会の中でいやおうなく向き合う少女たちの物語に、人間的な色合いを与えているとは思う。
それにしても、いつか魯迅を読んだ時も、ケン・リュウの作品でもそうだったが、中国に関係ある方の話は、どこか土の匂いがして、独特な、ヒューマンな香りがするな、と思った。ちょっとおおざっぱなくくりかもだけど。
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