山の上の小学校も毎年恒例の運動会。雨が心配され、昼食は子供と別々となった。これが最後と思うと、不思議な気がする。
今月は12作品13冊。冊数は年間累計100となった。月日とともに、読書はある。
星新一「ブランコのむこうで」
たまたま見かけて、へー、星新一って長編もあるんだ、と買った作品。児童向けだが、んー、と考えさせられるかも。
ある日、学校から帰る途中、自分によく似た少年を見かけて、後を追い掛けたぼくは、少年にとある家のドアの中へ誘い込まれてしまう。閉じ込められ、ふと後ろを振り向くと、そこには草原が広がっていた。ぼくは、その世界で、亡くなった祖父に出会う。
人の、夢から夢へと、少年が次々と旅をしていくファンタジーである。その数も多いし、色々な教訓的、SF的なシチュエーションがあって面白いが、全体としてなかなかその世界から抜け出せないという、抑圧的なものも感じてしまった。
ベースとなる童話的な設定にもへえ、と思うが、もしこういう世界ならばこんなものも、あんなこともあるだろう、という発想が、楽しんで創っているようで、読んでいてもワクワクするような気分になる。ラストは予定調和だ。
昭和46年の作品。私は断片的に読んでいるが、長編というのは星新一的にどうなのか、誰か解説してください。
最近児童向け多めだな。ま、それなりに楽しいけど。
坂東眞砂子「旅涯ての地」
重厚かつ様々な技巧が織り込まれたドラマ。オチには、坂東眞砂子らしいなあ、と思った。
マルコ・ポーロ一族の奴隷で宋と日本の混血である夏桂(カケイ)は、一族の館のあるヴェネツィアで、盗みの罪を押し付けられて牢獄に入れられる。しかし、夏桂が放浪の楽士から手に入れたイコンに執着する謎の女たちの手引きで、夏桂は脱獄し逃亡する。
中世イタリアの話。マルコ・ポーロ一族は、元のクビライ・ハンに客人として留め置かれていたが、ペルシアのイル・ハン国の王が、妻に迎える姫君を送り届けて欲しい、と言ってきたのを幸いとして、姫君と共に西方へ向かい、24年ぶりにヴェネツィアへ帰国出来たところから話は始まる。
最初はこの夏桂という奴隷の、容貌も、年齢もよく見えないが、所々断片的に鮮烈な記憶が語られることによって、だんだん分かってくるようになっている。
ヴェネツィアでのやや平穏な毎日から、盗み、発覚、逮捕、脱獄と物語は激しく動く。そこから時代はかなり先へと飛び、夏桂たちを追うマルコの古い手紙で、追跡劇が描かれる。下巻では、夏桂たちが辿り着いた隠れ里での生活をある意味のんびりと述べつつ、目線を夏桂側に替えて、逃亡劇が語られる。大きなうねりの中、夏桂のモノローグが続くから、上巻の最後は手紙にしてあるのだろう。
読みながら、塩野七生や、坂東眞砂子のイタリア紀行ものを読んでおいて多少はよかった、と思った。少しでも、作家が描きたい世界にアプローチ出来ているような気がしたからだ。参考文献を眺めてみると塩野七生があった。
さて、日常と、宗教と描きながら、物語を進めていくので、ちょっと重苦しくて長く、なかなか日本人には肌感覚として難しいかな、と読みながら考えていた。
西方世界とキリスト教を、西欧から見てファーイーストの夏桂が直観している、ということや、ポーロ一族が手紙の中で振り返っている流浪の人生、西の涯てに来た夏桂の人生、また坂東眞砂子らしい男女の生の世界がぎゅっと詰まった大河ドラマだと思う。
ある意味すごく大胆なオチだった。
真瀬もと「ベイカー街少年探偵団ジャーナルI
キューピッドの涙盗難事件」
私はアマチュアシャーロッキアン。前から読みたいな〜と思っていた。面白い特徴がある。
貧民街、イーストエンドに暮らすリアムは、シャーロック・ホームズが組織する浮浪児部隊、「ベイカー・ストリート・イレギュラーズ」の一員の少年。父はスリのマイケル、隣には娼婦の娘で盲目のイヴが住んでいる。ホームズの事件への助力に絡み、ベイカー街へ向かう途中で、リアムは爆弾事件に遭遇する。現場近くで見かけた父のような人影も気になっていた。
ベイカー街不正規隊、ベイカー・ストリート・イレギュラーズは、シャーロック・ホームズもの最初の長編「緋色の研究」に、登場する。ホームズは、ロンドン界隈の浮浪児たちを組織して、ある馬車の御者を探させる。子供なら怪しまれず、どこにでももぐりこめるからだ。
ドイルが書いたホームズものは、長編4つと、56の短篇であるが、この、他に追随を許さない人気探偵が活躍する贋作、いわゆるパスティーシュ、またパロディは現在でも世界中で書かれ、出版されている。ホームズものに出てくるクセのあるバイプレイヤーたちをみな登場させる楽しい話も多く、イレギュラーズもよく出るキャラクターである。
どちらかというと、日本人が書いたパロディ・パスティーシュは読まないのだが、今回は女性作家が描いた主人公リアムや周囲の人々の心理描写がそれなりに細やかで、ほお、と思わせるものもあった。
事件は分かるよな分からんよな部分もあった印象だが、アイルランド絡みの爆弾事件をあつかうことで時代感が出ていると思う。巻末に紹介されていた「マイケル・コリンズ」をはじめ、私はアイルランドものの映画を好んで見ていたというのもあって、雰囲気にはしっくりとなじめた。
さて、もちろん、教授も、オペラ歌手も、レストレイドも話には出てくるが、パスティーシュではおおむね好意的な役で、異国でホームズと再会し子を成した、とかいう設定も珍しくないアイリーン・アドラーの役どころが面白い気がする。私もアマチュアシャーロッキアンだが、確か見たことないような・・。ちょっと興味深い。
てか、めっちゃいいところで次巻に続く、だって。こりゃシリーズ全部(3巻)早く買わなきゃいかんな〜。
最後に一つ。劇中の神父さんの言葉。
「リアム、きみはまだ子どもで、大人ほどは力がない。経験も知恵も大人に劣るかもしれない。でも未来に向かっての可能性だけは、大人たちよりもずっとたくさんもっているんです。」
私が尊敬する読者女子が、「たまに天から降ってくるような言葉に出会うことがある。」と言っておられたが・・。こんな言葉に感動するなんて、私もトシをとったのかな。
瀬川深「チューバはうたうーmit Tuba」
新聞の広告に出てて興味を持った。リクツっぽいけど、いいまとまりをしている、太宰治賞受賞作。音楽ものはいいね。
「私」は26歳独身のOL、チューバ吹き。なぜ私はチューバを吹くのか?それは、うまく説明出来ない。休日、いつものように河川敷で、独りでチューバを吹いている時、「私」は黒い帽子の男に声をかけられる。男は、クラリネット吹きだった。
理屈っぽさは、何度も繰り返される、なぜチューバを吹くのか、から既存の音楽に対する強烈なアンチテーゼにまで及ぶ。一文が長いな〜と感じることもある。一瞬、哲学の本っぽいな、文調も芥川賞ものか?とか思ったし。
ただ、チューバに対する気持ち、それはフツウの恋愛生活においても、フツウの会社員生活においても、強烈に浮かび上がる。
クライマックスは、音楽の洪水で、ここまで理屈っぽく来たものが、一気に弾けまくっていて、一文も短い。このバランスがいいと思う。
私はクラシックが好きだし、楽器もの、音楽ものの小説は基本的に気になるジャンルだ。私は楽器を弾かないから余計その興味が強い。また、音楽もの小説は、やはり想像力を刺激し、特殊な気持ちになれる気がする。
それにしても、文章そのものではなくタッチが誰かに似てるなあ、と思った。ラストシーンにはなぜか、子供の絵本「ベッドの下にだれがいる?」を思い出し、黒い帽子の男のキャラにあっては、桜庭一樹の直木賞作品、「私の男」を想起した。んーほかにも、誰かに似てるよね、と思う。
次にこの作家の作品に出逢うのが、ちょっとだけ楽しみだ。