2020年7月12日日曜日

7月書評の4




さあ寝ようと寝転んで隣を向いたらクッキーの顔。日常の風景。

◼️荒川博「王選手コーチ日誌1962-1969 

                           一本足打法誕生の極意」


垣間見えるのは日本の最前線。

超スター選手への道と、そのコーチの葛藤。


私は巨人ファンの父のもと、巨人ファンの野球好きとして育ち、晩年の王選手の活躍が目に灼きついている。他の誰とも違った、美しさすらある一本足打法は野球界の象徴だった。


高卒で入団して4年目の1962年(昭和37年)、川上監督は若き王を大選手に育てようとして、榎本喜八を育てた実績のある荒川博をコーチに招く。荒川の目から見て自主トレ時の王は、バットと体とがバラバラになっていたという。まずはシャープに振れるように素振りから始めた。荒川はバットが下から出る、始動がやや遅く内角球に差し込まれる、などの欠点に対応した練習をし、さらに居合道、合気道と荒川が研究している武道の要素も注入していった。有名な、紐で吊った新聞紙の短冊を真剣で切る練習もさせた。


そして、196271日、当日のコーチ会議で「なんとか王を打たせろ」と言われた荒川は、一本足打法にバッティングフォームを変えるように指示、王はなんと爆発的に打ち始める。それまでの日記に、一本足打法、という言葉は出てこなかったと思う。5月のひとこと「なにかバックスイングの仕方が悪いようだ」にハッとしたくらいだった。本人の述懐ー。


「左足一本で立って、大きく体重移動をする一本足打法は、タイミングの取り方が難しく、最初は三振もたくさんしましたが、当たった時はけた違いに強い打球が打てました。」


という受け止め方だった。荒川は、何度も、二本足に戻す、という記述をしていて、あくまで将来への通過点と考えていたようだ。まあ極端なフォームではあるから。王も、一本足は欠点を矯正するためのもので、実際二本足に戻す練習もしていたが上手くいかず、1964年(昭和39年)に一本足打法で行くことを決意、この年シーズン55本のホームラン新記録を樹立した。


しかし一本足打法は、相手投手のタイミング外しに遭い、実際に一部の投手はサッパリ打てなかったようだ。なんとか克服すると広島が王シフトを始めて苦しめられる。二本足にしてレフトへ打て、という川上監督に対し、一本足でもレフトへ打てる、監督は全然解ってない、と思う荒川。王は一本足打法を貫いた。


この本で特徴的かつ焦点なのは、コーチの葛藤だ。当時大人気の巨人軍で、ホームラン王になった王選手、当然取材も付き合いも増えるし自分の判断も入れたい。必然的に荒川との練習の時間が減る。王もスターダムにのし上がったことで、上手く生活をコントロールできかったような印象を受けた。


1965年(昭和40年)には練習不足から35打席ノーヒットというスランプに陥り、自分はうぬぼれていた、とまた荒川の元へ通うようになる。この間の荒川の気持ちたるや、日本一の打者になってしまった王の扱い方に気を遣っている風にも見えるし、練習しなくなった王に厳しい見方をしている。そりゃ相手は大人気の巨人スター選手。どんな子どもでもお年寄りでも知っている。ある意味当時の日本の最前線。関係性も難しかろうと思った。また「打撃の神様」川上監督は当然嘴を挟んでくる。荒川は反発を覚える、などいかにもありそうでリアル。


全体で興味深かったのは、調子の良い時期はすぐ過ぎるということ。本書でも、良いところで打ち続けていた王が不調に陥るのは早い。また、一本足打法を固めてから、打っている時と不調時の差、調子の波が極端になったと感じた。もう、すぐに不調が来て、その度に荒川は日記上で王をけなしたり分析をしたり。荒川の感情面も阪神タイガースに一喜一憂する関西のスポーツ紙のようである。

不調に陥った時の指導ポイントは最後までほぼ一緒。バットが下から出る、始動が遅い、打つポイントがずれる・・丹念に書き連ねたからこそ説得力が増す、また人間らしい心の動きが把握できる数々のメモたち。


練習練習、また練習。プロは努力し続けるべし、というのがよく分かる一冊。満足。



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