2020年7月12日日曜日

7月書評の6




前の日の写真。私はアジアン系チキンライス好き。地元になんとテイクアウトできる店が出現。ヘビロテで食べてます。

今年もムクゲが咲いた。雨の合間。ちと暑かった。

◼️榊莫山「書のこころ」


最澄、空海、一休、良寛ら書家の解題を読みながら「なにが良いんだろう」と作品を眺める。楽しい時間。


故・榊莫山先生が、NHKの「人間大学」というテレビ番組に出演した時のテキストを本にしたもの。


書はまださっぱり分からない。でも有名な作品を見るのも、由来の話を読むのも好き。紹介されている作品はいずれも日本を代表するものばかりで、名作を網羅できて嬉しい。


比叡山の最澄。真摯で純粋。その書はひんやりと清麗、なんとなく淋しげで秋風のよう。やせてスマートな王羲之の書風が見え隠れする、とのこと。空海の弟子に宛てて書いた手紙「久隔帖」ほかが掲載されている。確かにちょっと端正できっちりめのイメージ。


同時代の高野山の空海、弘法大師は、在唐のころ、ねっとりとして書に棲む睥睨力があるニューモードの顔真卿に心酔した。空海の書はエネルギーがあって変幻自在、顔真卿風に書いた時には、歓気があふれてくつろぎがのたうっているそうだ。空海の代表作としては「風信帖」は教科書でポピュラー、でもちょっと王羲之が入っていて莫山先生的には顔真卿っぽい「灌頂記」という書き物の方がいいらしい。


最長と空海は仲が良く、手紙もよくしていたが、空海から送られた詩の言葉がやたら難しく、分からない言葉を師匠に聞いて教えてくれ、という手紙が「久隔帖」。なんか笑える。まじめだから、最澄。


平安の「三筆」は嵯峨天皇、空海、橘逸勢(はやなり)、「三蹟」は小野篁の孫、小野道風(とうふう)、藤原行成、藤原佐理(すけみち)。三蹟が活躍したのは、遣唐使も廃止され、書にも日本的抒情の香気が強まってきたころ。


宮廷書家・小野道風の代表作は「屏風土台」。928年ごろ、大江朝綱の詩を道風が屏風に書いたもの。「しなやかでゆるやかな曲線にはあきらかに日本的抒情への美意識がつよく沈んでいる。」そうだ。たしかに典麗。その中に力強さも伺える。


道風に憧れたという藤原佐理が面白い。名門に生れながら懈怠者、如泥人で、評判が良くない人。残っているのは失敗、あやまちの「詫び状」ばかり。991年、太宰大弐として赴任する時、山口の長門まで来て、摂政関白の藤原道隆に赴任の挨拶を忘れてきたのを思い出した。飲み友達に、道隆に取りなしを頼む情けない内容の「離洛帖」がチョー代表作品らしい。壮快で、筆触のリズムが鮮烈に冴えているこの作品は日本書道史でも稀有の名作、だそうだ。うーん、正直分からないが、きっと劇跡なんだろうな。


ちなみに藤原道隆は清少納言が仕えた中宮定子のお父さん。やがて道長とその娘彰子により地位を奪われる。彰子に仕えたのが紫式部。


時代は下って1326年、京は紫野に大徳寺を興した妙超という人。重厚で実に堂々としている印象。


「この寺に王者の風格があるように、妙超の       書にも王者の貫禄が棲む」


私のお気に入りプレイス、大徳寺。観光地としては静かな方だが、たしかに風格を感じる。妙超の次に取り上げられているのが、大徳寺にゆかりの深い一休宗純。後小松帝の落とし胤。反骨精神が強く、四民平等の禅を解き、世上の人気は抜群。その書は荒っぽく豪快であるが、莫山先生いわく、 造形的な痛烈な感性があり、詩人的なエスプリもあるそうだ。


大徳寺には名書いっぱい。今度行った時見なければ。


江戸時代まで来た。私は物知らずでした。仙厓という、絵を交えた書をものす名人がずっと福岡に住んでたなんて。ユーモアのあるものも多そうだ。次に帰ったら福岡市内、呉服町の聖福寺を訪ねよう。


新潟で活動した良寛の書はたいへん人気があるという。これまで何度か本や画像で見たが、自由自在な中にもどこそかに品がある、というイメージ。しかし書いてあることはさっぱり分からない。それもそのはず、かなの書状もあるが、なんと万葉仮名を使って書いたりしてたらしい。しかしやはり、小粋で天真爛漫な美しさにあふれた作風のようだ。見てみたいな、実物。


明治。石川啄木は興味深い。莫山先生は明治時代は、書の駄目な時代だったと厳しい。妙に古典的なにおいを持ったものが多いが、石川くんの書には明治を感じない、筆の運びが明るくて近代的な造形美にあふれていると評価している。マンガ「月に吠えらんねえ」の闊達やんちゃなキャラがかぶって面白い。


奈良を愛した奇人っぽい會津八一。書碑は東大寺、唐招提寺、万葉植物園、秋篠寺にあるそうだ。やべ、全部行ったことあるのに、書碑は見てない。再訪の楽しみですな。かな文字ばかりの碑は文字が石に負けてしまうが、會津八一のは違う。自信まんまんで見る人をうならせてしまうとか。ガッチリして、柔らかで、流麗さも併せ持つ感じかな。



元々はもう少し字がうまくなりたいな、から始まった書についての本読み。まだもちろん分からないけれど、楽しい。感性のどこかを刺激される。シリーズ本もあるようなのでまた読んでみようと思う。

7月書評の5





◼️スティーブン・キング「ミスト」


意外に?面白くて夢中に。予備知識なしで読んだのが吉に転んだ。霧の中に、何かがいるー。


地元に設置された交換用本棚で見つけた本。ここは転売されないよう、カバーを外して置いているから、カバー裏のイントロダクションも読まず、キングだからたぶんイケてるだろうしと内容知らずに読んだら、夢中になってしまった。


面白そうかそうでないか、ふだんはwebの書評やカバー裏を多少は読む。今回は知らないことで、中身が霧に覆い隠されたかのように読み手にも見えず、それが吉と出た。あとはイメージ。キングって読んだのはたしか「11/22/63」だけであとは映画「スタンド・バイ・ミー」の印象が強いからここまでホラー色強い人とは思ってなかった、正直。ああ物知らず。


アメリカ北東部、メイン州の避暑地に住む画家デヴィッド・ドレイトンはひどい嵐の翌日、自宅近くの湖面に濃い霧が漂っているのを見る。息子のビリーとマーケットで買い物をしている時、マーケットが霧に包まれる。男が霧の中で何かにさらわれた、という声が上がる。発電室に行ったデヴィッドは、暗闇の中、霧の漂う外で、何かが這って入ってこようとしているような音を聞く。(霧)


「霧」は映画化されたホラーもので、言ってしまえば、霧の中には異様な生物がたくさん居て、人を襲い、喰う。街の近くの秘密施設の科学実験が原因と匂わせている。


スーパーマーケットには約80人がいて籠城する。シャッターを閉めに外に出た店員が悲惨な最期を遂げ、事態を信じられないグループが霧の中に出て、悲鳴とともに消える。主人公も、いつまでもここにいるわけにはいかないと脱出を計画するが、店内には不気味な宗教のようなグループが出来ていて・・という流れだ。


恐怖に支配されたさまざまな個人と集団心理の描写が興味深い。好ましいキャラがあっという間に犠牲になっていく。巨大ザリガニが暴れる有川浩の傑作「海の底」を思い出す。こちらは何種類ものデカい、コワーイ生物たちで、人間が食物連鎖の恐ろしい輪の中に入ってしまった気までする。誰もかれも容赦なく殺される、ってところには、王が臣民親族を信じず殺しまくるシェイクスピア「リチャード三世」をなぜか思い浮かべた。


1980年の作で、たしかにその時代っぽく、これは映画化に向いてる、っていう感じだった。もっと不気味さと、SF的科学現象が主かと思ったらそっちへ来たか、と。でも途中から忘我で、夜遅くまでかかって読了した。


この物語には完全解決がなく、ジョン・ウインダム「トリフィド時代」を思い起こさせる。ディストピア化してしまった世界。当世のコロナ化になぞらえて不吉な感を抱きつつ、でも楽しくて夢中になって完読した。


勇敢な老女教師、ミセス・レプラーに乾杯。


「霧」の他にいくつかの短編が収録されている。これまたはちゃめちゃに暴力願望を爆発させてしまう「ノーナ」がまあまずかな。


7月書評の4




さあ寝ようと寝転んで隣を向いたらクッキーの顔。日常の風景。

◼️荒川博「王選手コーチ日誌1962-1969 

                           一本足打法誕生の極意」


垣間見えるのは日本の最前線。

超スター選手への道と、そのコーチの葛藤。


私は巨人ファンの父のもと、巨人ファンの野球好きとして育ち、晩年の王選手の活躍が目に灼きついている。他の誰とも違った、美しさすらある一本足打法は野球界の象徴だった。


高卒で入団して4年目の1962年(昭和37年)、川上監督は若き王を大選手に育てようとして、榎本喜八を育てた実績のある荒川博をコーチに招く。荒川の目から見て自主トレ時の王は、バットと体とがバラバラになっていたという。まずはシャープに振れるように素振りから始めた。荒川はバットが下から出る、始動がやや遅く内角球に差し込まれる、などの欠点に対応した練習をし、さらに居合道、合気道と荒川が研究している武道の要素も注入していった。有名な、紐で吊った新聞紙の短冊を真剣で切る練習もさせた。


そして、196271日、当日のコーチ会議で「なんとか王を打たせろ」と言われた荒川は、一本足打法にバッティングフォームを変えるように指示、王はなんと爆発的に打ち始める。それまでの日記に、一本足打法、という言葉は出てこなかったと思う。5月のひとこと「なにかバックスイングの仕方が悪いようだ」にハッとしたくらいだった。本人の述懐ー。


「左足一本で立って、大きく体重移動をする一本足打法は、タイミングの取り方が難しく、最初は三振もたくさんしましたが、当たった時はけた違いに強い打球が打てました。」


という受け止め方だった。荒川は、何度も、二本足に戻す、という記述をしていて、あくまで将来への通過点と考えていたようだ。まあ極端なフォームではあるから。王も、一本足は欠点を矯正するためのもので、実際二本足に戻す練習もしていたが上手くいかず、1964年(昭和39年)に一本足打法で行くことを決意、この年シーズン55本のホームラン新記録を樹立した。


しかし一本足打法は、相手投手のタイミング外しに遭い、実際に一部の投手はサッパリ打てなかったようだ。なんとか克服すると広島が王シフトを始めて苦しめられる。二本足にしてレフトへ打て、という川上監督に対し、一本足でもレフトへ打てる、監督は全然解ってない、と思う荒川。王は一本足打法を貫いた。


この本で特徴的かつ焦点なのは、コーチの葛藤だ。当時大人気の巨人軍で、ホームラン王になった王選手、当然取材も付き合いも増えるし自分の判断も入れたい。必然的に荒川との練習の時間が減る。王もスターダムにのし上がったことで、上手く生活をコントロールできかったような印象を受けた。


1965年(昭和40年)には練習不足から35打席ノーヒットというスランプに陥り、自分はうぬぼれていた、とまた荒川の元へ通うようになる。この間の荒川の気持ちたるや、日本一の打者になってしまった王の扱い方に気を遣っている風にも見えるし、練習しなくなった王に厳しい見方をしている。そりゃ相手は大人気の巨人スター選手。どんな子どもでもお年寄りでも知っている。ある意味当時の日本の最前線。関係性も難しかろうと思った。また「打撃の神様」川上監督は当然嘴を挟んでくる。荒川は反発を覚える、などいかにもありそうでリアル。


全体で興味深かったのは、調子の良い時期はすぐ過ぎるということ。本書でも、良いところで打ち続けていた王が不調に陥るのは早い。また、一本足打法を固めてから、打っている時と不調時の差、調子の波が極端になったと感じた。もう、すぐに不調が来て、その度に荒川は日記上で王をけなしたり分析をしたり。荒川の感情面も阪神タイガースに一喜一憂する関西のスポーツ紙のようである。

不調に陥った時の指導ポイントは最後までほぼ一緒。バットが下から出る、始動が遅い、打つポイントがずれる・・丹念に書き連ねたからこそ説得力が増す、また人間らしい心の動きが把握できる数々のメモたち。


練習練習、また練習。プロは努力し続けるべし、というのがよく分かる一冊。満足。



7月書評の3




レオン!

◼️宮沢賢治「サガレンと八月」


樺太で物想う宮沢賢治を想像する。


「何の用でここへ来たの」

「俺は内地の農林学校の助手だよ、だから標本を集めに来たんだい。」


呼びかけるのは山地から吹いてきて海の青い暗い波へ抜ける風。答えているのは賢治と思われる主人公。


鏑木蓮「イーハトーブ探偵」で最愛の妹トシを亡くした後、賢治が樺太を訪れたのを知った。農林学校の生徒の就職を頼みに行ったということだが、やはり賢治の心の旅路ではないかと思わせる。


後段は、タネリという少年が浜へ行き、おっかさんに止められていたのに、くらげを透かして風景を見てしまい、犬神により蟹に変えられ、ちょうざめの下男にされる。そこで終わっている。いかにも先を読みたくなる切れ方。


かつて道東・知床を訪れた時、国後島がよく見える野付半島を走ったことがある。キタキツネが道路を横切り、何もない夏の草原にはエゾカンゾウのオレンジの花がぽつぽつと咲いていた。九州で生まれ育った私は北海道の気候と植生の違いに感銘を受けていたのだが、雪を頂いた高峰の見える国後島、その向こうにあるはずの択捉島に思いを馳せた。あの島々にも、こんな風景が広がっているのかな、と。


社会的諸情勢に照らさない、極めて軽い心持ち。まだ見ぬ北の島々、樺太も見てみたい、という気持ち。それまでの自分の環境とかけ離れた北方と、「国境」という日々の生活ではなかなか実感しないもの。双方が折り重なった妄想ともいえる念がうずく。


「そして、ほんとうに、こんなオホーツク海のなぎさに座すわって乾いて飛んで来る砂やはまなすのいい匂を送って来る風のきれぎれのものがたりを聴いているとほんとうに不思議な気持がするのでした。」


「イーハトーブ探偵」で樺太の話が出てきた時には、賢治が訪れたとは知らなかったから少々面喰らったが、まだ見ぬ北の自然に、思うものはきっとあっただろうと想像してしまう。


この話も、「イーハトーブ探偵」も、ぜひ続きが読みたいものです。

7月書評の2





野いちごの一種、ナワシロイチゴ。食べられるらしい。子どもの昔は野山を駆け巡って、気にせず食ってたなあ。

◼️川端康成 幸田文ほか「犬」


文豪たちの、犬にまつわる小説・エッセイ。折々に川端康成の動物好きが出てきて、おもしろい。


ふと目について入手した。1954年に刊行された本を、著述・編集ブックデザインを手がけるユニットが文庫にリニューアルしたもの。戦前の話が多く、放し飼いの時代感や犬種の流行が見える。動物を多く飼っていた川端康成のちょっとした奇人ぶりも伺える。漫画入りのものを含めて10篇を収録。


◇阿部知二「赤毛の犬」

愛嬌があって強く、子供たちに可愛がられている赤犬ジュジュ。翻訳などを手がけている主人公は、背の高い、目の大きい謎の女がジュジュをとりわけ可愛がっているのを知る。ジュジュをかばうおばさまたちに、この女は不審がられていた。


人気者の野良犬ジュジュもだんだん周囲の目が変わっていきついに・・。ジュジュは秋田犬とポインターの混血。へええ、という取り合わせ。


◇網野菊「犬たち」


物書きで苦しい暮らしをしているヒロ子は、下宿先の離れにいるテルとポチを気にかけていた。エアデール系統で噛みつきグセのある牡犬テルと雑種で母性愛のないポチ。ヒロ子は2頭に振り回されるが・・


犬の性格はホントにさまざま。丁寧な描き方に好感。噛みつきグセにも脱走にも手を焼いたことのある身としてはシンパシーが湧いた。


◇伊藤整「犬と私」


昭和7年ごろ、著者は川端康成の上野の家を訪ねるたび犬に吠えたてられ、川端のあのマバタキをしない目で見つめられると「この世には隠れ場所がない」と思ったものだとか。それを前段として高貴に育てられたもらい犬ミミィと著者の細やかでコミカルな日々の話。


◇川端康成「わが犬の記述  愛犬家心得」


巨匠川端康成の評論はなにかにつけ、高説をぶつ、とはこんな感じかなあ、という物言い。今回も川端らしいなあと思ったエッセイ。それにしても数が多い。グレイハウンドとワイヤア・ヘエア・フォックス・テリヤ、コリイ、ボルゾイなど一時は十五六頭にも殖えるだらうと書いている。飼いすぎでしょー、とツッコミたくなる。


「犬ばかりでなく、いろいろな動物のために設計した家を建て、動物の群のなかに一人住むことは、私のかねがねからの一つの空想である。」


動物王国構想・・川端は鳥もたくさん飼っていた。上記伊藤整の前段にも出てくる。すごいなあ。


愛犬家の心得もいくつか。愛する犬のうちに人間を見出すべきではなく、愛する犬のうちに犬を見出すべきである、と書いた後、その段落をこう締める。


「忠犬は忠臣よりも遥かに自然である。犬の忠実さには、本能的な生の喜びがいつぱい溢れ、それが動物のありがたさである。」


他にもいろいろ心得はあるが、この一文には得心がいった。犬にしかない忠は確かにあるかも。


◇幸田文「あか」

ちいさなア子ちゃん。どうやら幸田文本人のようだ。ア子ちゃんは赤い大きな犬、アカを飼うことになった。アカは毎朝の学校やおつかいの時、ア子ちゃんを送っていく。けれど可愛がろうとすると逃げてしまう。ある日のおつかいの途中、アカとア子ちゃんは闘犬の雄、ブルのゴンと出会い、激しい戦いが始まったー。


川端の高説の次にかわいらしい話を読むと心がいい具合によろけてしまう。これが幸田文の作品読み始め。言葉の種類が多く、気が利いている印象。


◇志賀直哉「クマ  犬の遠足」


志賀直哉は家族と奈良に住んでいた。東大寺かいわいを散歩しているのを読むと羨ましい気になってくる。その散歩の途中、東大寺の境内で娘が雑種の子犬を見染め、クマと名付けて飼うことになり、東京にも連れて行ったが、鎖を外してやるとほどなく迷子になった。心配する志賀と家族。そして、バスの中から偶然クマを見かけ、志賀直哉、クマを追いかけ爆走ー。


最初は駄犬と思い、東京に連れていく気もなかったがだんだん志賀が心奪われる過程が楽しい。爆走ってもう、ドラマか映画みたい。


◇徳川夢聲「トム公の居候」

トムとクロ、牡犬どうしの不思議な同棲。関係性がなかなか興味深い。


◇長谷川如是閑「『犬の家』の主人と家族」

空想的な作品。犬舎で多くの犬を飼う「私」。家が兵庫・芦屋の高台。風景が分かるだけに、親近感。


◇林芙美子「犬」

林芙美子が大きいポインターの雑種、赤犬を飼い始めた。動物嫌いだったのが「此犬がうちへ来てから、さう厭でもなくなり始めた。」


「犬の神経には、非常にデリカシイがある。」

芝生に寝っ転がる林にチョッカイを出しに来る、夜遅く帰ってくると、この犬だけが起きて待っていて、くんくん鼻を鳴らす。それはもう、

「全く新婚の奥さんよりも甘く優しい。」


弱味噌で猫に負けて帰ってきたり、夜番の提灯のカチカチという音がお気に入りで聞こえると走って出て行く。初めて犬を知った林の溺愛ぶりが伝わる。


ところが!川端康成氏の紹介でみみづくのププを飼うことになった。また出ました川端氏(笑)。興味を持ってかまう林芙美子。するとすぐポインターは家出してしまった。


微笑ましいが、途中からみみづくに心が行ったような書き方で、移り気な林芙美子^_^


ポインター多いな。ハイソ層に人気だったのかな。101匹わんちゃんの犬・・はダルメシアンか。


◇クラフト・エヴィング商會

「ゆっくり犬の冒険  距離を置くの巻」


うん、犬の漫画。なんか黒鉄ヒロシを思い出す。



私は環境的に、物心ついた時から家にはずっと犬がいた。スピッツ、ポメラニアン、チワワに雑種。歌を歌うチワワ、忠実だが噛んだり逃げたり困ったちゃんの雑種。そして今もミニチュアダックスフントを2頭飼っている。筋骨隆々で健康だが車と見ると爆走して追いかけたり、愛嬌抜群だけれどガンコで運動嫌いだったりとそれぞれ手が焼ける。


今回、犬にも共通のかわいげ、独特の忠実さに加えさまざまな性格や癖が細かく描かれていたから実感として分かる部分もあった。


私は猫も飼っていたのでこちらも慣れている。でもトータルではやっぱ犬飼いかな。ちなみにシリーズで「猫」もあるそうです。谷崎とか内田百閒とか、知らないが想像はできる。こちらも出逢ったらまた読もう。



7月書評の1




今年も、川沿い遊歩道わきに、キョウチクトウの花が咲いた。

◼️菅原孝標女「更級日記」


娘の憧れと、現実と、後悔。山に川に、闇から現れる遊女が心に残る。


更級日記の作者は菅原孝標女(すがわらのたかすえのむすめ)。菅原道真の6代後の子孫。また伯母は「蜻蛉日記」の藤原道綱母。毛並みの良さもあるのか、やはりキラリと光るものを見せている。


菅原孝標女は1008年生まれで、藤原道長の娘、中宮彰子が一条天皇の子を産んだ年。紫式部は彰子に仕えている間に「源氏物語」を完成させているから、熱烈に恋い焦がれる源氏物語の「宇治十帖」はまだ出来てさほど経ってない時期ということになる。まさに流行りものを当代に読む感覚か。


著者は父親の赴任先、上総国で思春期を迎えたが、姉や継母が源氏物語のことなどをあれこれと話しているのを聞いていて、物語を読みたくてたまらない娘だった。祖父の任期切れに伴い京に帰るが、その途中で「竹芝伝説」を聞く。


庭を掃いていた男に帝の娘があなたの故郷に連れてってくれと頼み、男は姫を背負って武蔵国まで逃げのびるー。


伊勢物語で、在原業平が藤原高子を連れて逃げた芥川の段に通ずるものがある。こんな話を聞いてこのルートを逆に向かっている13歳の著者はワクワクしたはずだ。


足柄山の麓に泊まった晩、鬱蒼として月もなく真っ暗な夜、宿の前に突然、色が白く美しい、髪の長い遊女の集団が現れ、空に澄みのぼるように上手に歌い、また闇に去っていった。後の段、真っ暗な川に舟に乗った遊女が現れ、というエピソードがある。


京に着いてついに源氏物語全巻を手に入れ、夢中になった菅原孝標女(長いので、以下、

「菅女」)。太秦広隆寺にこもった時は法華経を習いなさいと夢で言われるなど夢関係で色んなお告げがあったのに歯牙にもかけず、きっと自分も夕顔や浮舟のようになると思い込み、ついには


「后の位も何にかはせむ」


后の位なんて、いらない。物語世界に浸るほうが楽しいわ。


という有名なフレーズを記す。


継母と離婚により別れ、乳母の死に遭い、さらに大納言で書道の大家藤原行成の娘が疫病で亡くなる。菅女は彼女が書いた和歌を文字の手本としていた。やがて、かわいらしい猫が現れ、夢で「私は行成の娘の生まれ変わり」と姉に告げる。姉妹はこの猫を可愛がる。しかし、火事で猫が死んでしまい、姉も病死してしまう。


30代となった菅女。父が引退、母は出家。初めての宮仕えを始める。勤めていればなんらかの引き立てもあると思っていたら娘の将来を心配した両親が突然結婚を決めてしまう。現実と向き合い、あからさまにガッカリしているさま、考えるべきこともあるやもだが、どこか微笑ましい。


パートタイムのような宮仕えで、菅女は35歳にして殿上人の源資通(すけみち)というイケメンと風流なやりとりをするが仄かな触れ合いに終わる。


やがて菅女は良妻賢母を目指し、これまでの自分を反省して、初瀬(奈良の長谷寺)、石山寺に、熱心に物詣でをするようになる。しかし、夫の死により家族は散り散りとなり、最後は孤独の寂しさを噛みしめる。


にぎやかな日記物語だなあ、という感覚。最初はもう信心なんて知らないよーと自分のことをあまり考えずに驀進したのは良かったが、厳しい現実の壁に遭い、またタイミングがズレたりとうまくいかない人生を送る菅女。晩年の物詣での際に宇治川に出会ったり、ところどころ印象深い描写があるから心がつつかれる。


大河ドラマのようではなかったけれど、日常の悦びも記してあって、とても面白い、考えさせる読み物だった。

2020年7月5日日曜日

2020上半期ランキング!

【上半期ランキング2020】

https://www.honzuki.jp/smp/book/215435/review/244947/


あっという間に今年も半分終わった。コロナの半年。読了したのは73作品。このままいけば年間150くらいで今年もいいペースかなというところ。上半期のランキング、今年も作りました。各賞も。巣篭もり期間の再読もちらほらあったな。ではどうぞ!


1 青木玉「幸田文の箪笥の引き出し」

2 星野道夫「イニュイック」

3 真藤順丈「宝島」

4 杉本苑子「天智帝をめぐる七人」

5 谷崎潤一郎「細雪」


6 ジャック・リッチー

         「クライム・マシン」

7  川端康成「月下の門」

8  オルハン・パムク「赤い髪の女」

9  深緑野分「ベルリンは晴れているか」

10 京極夏彦「今昔百鬼拾遺  河童」


11 アンソニー・ホロヴィッツ

               「メインテーマは殺人」

12 瀬尾まいこ「図書館の神様」

13 中野京子

「名画で読み解く ロマノフ家  12の物語」

14 青山文平「半席」

15 原田マハ「異邦人」


やはり、感銘に素直に、あまりジャンルを考えずに選びました。物語ではないものを1位に持ってきたのは初めて。文の味わいと幸田文の姿、鮮やかな写真がとても良かった。幸田文関連はもう少し読みたい。2位は、想い出に火がつきましたねー。3位、エネルギーと、物語を貫く、南国っぽい明るさのようなものを評価。


では各賞。


◇食のエッセイ賞

平松洋子「肉まんを新大阪で」


とにかく美味しそうだった。コロナで移動制限の中、いつか行きたい、がたくさん溜まった。


◇特別賞

森野正子 堀内興一「昔話 北海道


以前よく行っていた北海道を思い出す。語り尽くせない、異国情緒あふれる北の自然。


◇まぼろし賞

川村湊「満州鉄道まぼろし旅行」


決して読者に優しい本ではなかった。が、まぼろしぐあいに不思議と感銘を受けた。


◇文豪短編賞

芥川龍之介「南京の基督」

菊池寛「身投げ救助業」


この2つは、いかにもあの時代の短編小説らしくてとても良かった。短いのがいいですね。


色々なジャンルの本を楽しく読んでいる。まだまだ、書とか絵とか、色についても学んでみたい。残り半年も、読むぞ〜!