2019年12月23日月曜日

12月書評の4







京都同窓会では、夕方の開始前にプチツアーで大徳寺、さらにその前に単独で京都御苑の東側の隣にある廬山寺へ。ここで源氏物語は執筆された。なるほど帝の中宮彰子に仕えていた紫、御所のすぐそばに住んでたのねーと納得。寺から京都の空を見上げて、ここで書いたんだなあ、と1000年前を想う。御所南の天皇家御用達、松屋常盤の松風も買って満足。

◼️アーシュラ・K・ル=グウィン 村上春樹訳

「帰ってきた空飛び猫」


早く続編を読みたくて。天使猫、生まれた街への旅。


街の路地裏でジェーン・タビーお母さんが産んだ4匹の猫たちセルマ、ロジャー、ハリエット、ジェームズにはなんと羽が生えていた。お母さんは子供たちに独立を促し、4匹は連れ立って飛び立つ。冒険の末、みなは田舎の農場に落ち着いていた。


ハンクとスーザンの兄妹にご飯をもらいながら納屋に住んでいた猫たち。お母さんに会いたくなり、ハリエットとジェームズは帰郷の旅に出た。やっとたどり着いた街は様変わりしていた。2匹は建物の最上階に、小さな黒猫を見かけるー。


「空飛び猫」の続編。いろいろと展開も考えられるが、王道とも言える帰省もの。やっぱ飛ばないとねー。4匹を送り出したタビーお母さんは次の旦那さんとの新生活に目が向き、未来への割り切った心持ちと猫の本能を伺わせていた。その後、は誰もが気になるところ。時の移り変わりを描いている。猫の一生は短い。その間にもさまざまな事が起きる。この4匹の兄弟姉妹たちの成長を描く事で、人の一生までが垣間見えるような気もする。全員が縞柄の猫、というのはなんか和風テイストでもある?なじみやすくていいですね。


なんといっても猫たちが、初めて見る物事を相談しながら、初々しく対処していくのか魅力で、この巻では、お姉さん、お兄さんぽいところが出でいて頼もしく見える。


「エルマーのぼうけん」という童話シリーズがある。エルマーが苦心の末動物たちに虐待されているりゅうを救い出し、2人は空を飛んで冒険するー。子どもに何回も読んで、自分も楽しんだ。


空飛び猫シリーズの、猫が翼で長い距離を飛行する、という大人も子どもも想像力をかきたてられる設定とハートフルなストーリーにエルマーを思い出した。


加えて私も犬を飼っているし、猫も飼った事があるが、身の回りの動物たちは、敏感で警戒心が強いところも見える反面、野生のなせるワザなのか間が抜けているのかわからないところがある。なんとも言えずコミカルなことは、同じ犬飼い、猫飼いなら分かっていただけると思う。そんな可愛らしさも漂っている。


訳者の村上春樹氏はあとがきを「この楽しくて素敵な子供だましの役に立たない(?)ファンタジーをーどうか楽しんでください」と締めている。


ハデハデな話ではないけれど、よく出来た物語で、だから心の中でイマジネーションが広がっていく作品だったと思う。楽しみましたよ。



◼️岡本千紘「鬼切の綱」


なんと!渡辺綱と茨木童子がパートナーに。あるもんですねー。


源頼光四天王、大江山の鬼・酒呑童子を退治したことで名高い渡辺綱(わたなべのつな)は、京の都で酒呑童子の部下・茨木童子と対決し、髭切の太刀(鬼切の太刀)で腕を切り落とした。幼い頃から好きな逸話。


この小説では対決以来、茨木童子こと薔薇(そうび)は綱の美しいパートナーとなり、BLの匂いを漂わせている。源頼光、藤原保昌、そして四天王の卜部季武(うらべすえたけ)、碓井(うすい)貞光、金太郎の坂田金時らに囲まれた綱は、光源氏のモデルとも言われる源融(みなもとのとおる)の玄孫で美男子。薔薇の宿る鬼切の太刀とともに鬼に立ち向かう。


ラノベコーナーで見つけて、私が買わんで誰が読むーくらいの勢いで^_^即購入。いやーあるもんですね世の中には。四天王や頼光が登場し、なんといっても綱と薔薇が動いているのが楽しい。


物語はそうハデハデしくはなく、薔薇との関係性も怪しいが何かが起きるわけでもない。

綱はそろそろ後進に道を譲りたいと思っている四十男。小さな男の子を育てている。どこかしみじみとして読んでしまう感じ。それはそれでいいのだが、もう少し展開できそうな気はする。


茨木童子は女の鬼で、酒呑童子の恋人だったという説もある、大江山退治の時の生き残り。最初は女役と思いしばらくそのつもりで読んでいた。


ぜひ続編出してくれ、という気持ちである。もっと綱と茨木童子を動かして、鬼とは何か、を掘り下げてほしい。

12月書評の3




ひっさびさに新宿行ったが、なんつっても人が多い。西新宿一丁目の交差点でドトウの人波を見た時には、オレもう東京では暮らせないわと思ったな。

◼️「全訳 竹取物語」


原典で読んでみると、かぐや姫の強気っぷりやコミカルな求婚者たちの顛末が楽しすぎる。日本最古、かなで書かれた物語ー。


かぐや姫はよく寝かしつけで話していた。ストーリーが面白い上に、月の光というのはやはり神秘的なものを感じさせるからで、子どもにはうってつけ。後年書かれた「鶯姫」バージョンも読み聞かせした。


さて、概ねのストーリーは敷衍しているが、全訳で読むと、心の機微や物語に込められたものが分かってなかなか楽しい。


光る竹にいた小さな女の子はなよ竹のかぐや姫と名付けられ、翁嫗のもとで育てられる。3ヶ月で美しい女性に成長した姫の噂を聞いて、5人の貴族が求婚し、姫はこれこれを持ってきてくださいと難題を出す。


光が宿るという「仏の御石の鉢」。石作りの皇子はインドに探しに行きます、と言っておいて近所の山寺にあった鉢を錦の袋に入れて差し出すが、光が見えず却下。


「蓬莱の玉の枝」。したたかな計略家、庫持(くらもち)の皇子は秘密裏に最高の職人を集め、完璧なものを作り上げる。さしものかぐや姫も「我はこの皇子に負けぬべし」と打ちひしがれてしまう。庫持の皇子は、探し求めた旅での全ウソの苦労話をえんえんと自慢するが、職人が費用をもらってないと直訴に来て露見。かぐや姫に「本物かと思ったら、言の葉で飾り立てた玉だったのね。」とキツイ一撃を食らって退散。


燃えないはずの「火鼠の皮衣」を商人から裏ルートで買い求めた右大臣・阿部御主人(あべのみうし)は高くついた毛皮を目の前で燃やされアウト。


聞いただけで出来るわけない「竜の首の珠」。探せ?えームリっすよー、と部下の離反に遭った武人大納言・大伴御行(おおとものみゆき)は、自ら探索の旅に出るが、海神の怒りに触れ大嵐に遭ってダウン。かぐや姫を妻に迎えようと豪邸を新築し元からの妻たち全員を離縁し追い出したのに世間の笑いもの、元妻たち溜飲下げまくり、というオチになっている。


最後の「燕の子安貝」。人柄が良く部下も穏やかな中納言・石上麻呂足(いそのかみまろたり)は、あれこれと意見を聞き入れ、高い所にある燕の巣を自ら探るが、落下して重傷、ついには死んでしまう。かぐや姫はこれまでなかったかわいそう、という気持ちを初めて見せる。


9世紀末、つまり800年代終わりごろの成立とされる竹取物語は藤原氏体制への批判を含んでいるとされる。姫をもだましかけた庫持の皇子のモデルは藤原不比等とも言われているらしい。


また全編に、どうしても誰かの妻(の1人)にならなければならないのか、という主張が垣間見える。将来を考えていそいそと結婚話を進めよう、すぐ共寝の床をのべようとまでする翁嫗らとあまりに対照的。この時代にしては大胆で人間的な発想、かつ多少古典に親しんだ身としては、ありそうなアイディアで読者の好みを考えているな、とも思う。現実が身近にあったからこそリアルにも思える。


さらに多くの男を破滅させたかぐや姫の噂を聞いた帝の使者の女性にもかぐや姫は会おうとせずかみつく。使者内侍中臣房子の


「国王である帝の命令に、この国に生きる者が従わないで許されるとお思いか。」という言葉には、


「国王の仰せ言を背かば、はや殺し給ひてよかし。」


さっさと殺してかまわないわよ、と返すのである。いやー当時も読んだ人スカッとしただろうな。そりゃかぐや姫は月星人だからそう簡単に殺されはしないだろうけど、ここまで露骨に書いてあるとは思わなかった。


さて帝は諦めず翁の家に現れ強引にかぐや姫の顔を見てそのまま連れ帰ろうとするが・・。SFチックな展開に諦める。そこから帝とは文の交換が始まる。少うし、軟化したかぐや姫。


ラストはご存知の通りである。


神秘的なばかりでなく、庶民的な感慨、昔話らしいとんちのようなもの、教訓、体制批判、女性の立場など、様々なものを含み、かつ文学的でもある。


源氏物語に「物語の出で来はじめの祖(おや)」とあるように、我が国最古といわれるかな物語は最高の面白さを含んでいる。最後に富士山が出てくるのも壮大でいいですね。


竹取の翁の名前は讃岐造。奈良時代に舞台のようで、ゆかり所のひとつ、奈良にある讃岐神社に行ってみたくなった。


◼️オスカー・ワイルド「サロメ」


結末の衝撃度。短い芝居。


「サロメ」というのは本屋でも図書館でも目に入る本で、いつかと思っていた。だいたいの筋は有名で、どういう物語か、クライマックスの演出はどうか、が気になっていた。


サロメはユダヤ王エロドの妃エロディアスの娘。王宮には預言者ヨカナーンが出入りし託宣のようなものを始終喚いていた。父に、ローマの使者もいる宴会で舞えば褒美は思いのままに、と命じられたサロメは、ヨカナーンの首を望む。


短い劇だが、最初から不穏なものが漂う。エロド王はエロディアスの先夫を殺している。ヨカナーンの批難が自分に向いていると思い込み、また美しいサロメを気にする夫に不快感を隠さないエロディアス。


兵士やお付きの者もナザレ人、ユダヤ人、パリサイ人ら出自と信教の異なる者が配されている。神やメシア、救世主に対する考え方も台詞に表れている。ヨカナーンのモデルはヨハネだそうである。


一般的にサロメは妖艶な女というイメージだが、父王と約束をする前はおとなしく、ややアンニュイで謎な印象。サロメがヨカナーンの首を所望したとたん物語のトーンが一気に変わる。そして皿に載せられたヨカナーンの首の出現シーンとサロメの独り語り。

様々な要素が散らされているとはいえ、中盤まではと演出もあんまりないな・・と思っていたらラストに一気に来る、という感じだった。


兄弟で同じ妃、というのはさほど珍しい話ではない、とどこかで読んだが、ギリシャ悲劇にしろ、シェイクスピアにしろ、悲劇の黄金パターンなのかしら。


オスカー・ワイルドは初読みだが、同時代の有名人ということで、シャーロック・ホームズのパロディ、パスティーシュにはよく登場するのでなぜか親近感が。うるさ型の批評者、という先入観を持っているがこの作品からはあんまり伺えないかな。


月イチ芝居もの、を心がけているがなかなか見聞が広がって、共通項を見つけるのも楽しい。西洋だけでなくて近松なんかも興味あるし。おススメあればお教えください。

12月書評の2




ちょっとほったらかしました。先々週3泊の東京出張があり、高校同級生と5人会い、翌週末は同窓忘年会で1日京都へ。よく同級生と遊ぶきょうこのごろ。

京都はだいぶ情報を集めて下見も行ったのでここのところ詳しくなった。大徳寺はすっかりファンになったし。次は宇治かな〜?

◼️アーシュラ・K・ル=グウィン作

                                       村上春樹訳

「空飛び猫」


静かで不思議で微笑ましい童話。


お母さん猫、ジェーン・タビーの産んだ4匹の場所仔猫には、全員に翼が生えていた。ジェーンは大きくなった子達に、独立を促す。4匹は育った街の路地裏を離れ、空を飛んで、小川のある森に降り立つ。初めて触れる自然だったー。


もちろん何事もないわけではなく、鋭い鉤爪を持った肉食の鳥につけ狙われる。しばらく木のうろを住まいにしていたが、新たな出会いがある。


訳者の村上春樹氏のもとに読者から紹介・送付があったそうだ。


街から出たことのなかった小さな猫たちか空を飛び、頭を使って新しい環境へとなじんでいく、その冒険の可愛らしさが充分に表されているが、まだ序盤といった感じ。続編もあるのでいずれ読もう。



◼️「手塚治虫エッセイ集成  ルーツと音楽」


手塚治虫好き。大きな物語に出逢いたい。


手塚治虫の漫画が好きである。 全部ではないが「三つ目がとおる」以外の主要なものはほとんど読んでいる。


幕末か舞台の「陽だまりの樹」は本当に名作だった。戦争中の話、「アドルフに告ぐ」のハードボイルドで乾いた、宿命的なストーリーには無常観すら感じたし、白村江の戦いから壬申の乱後までを描く「火の鳥 太陽編」はもう、こんな発想どうしたら出来るのか、と思うほどの、未来を絡ませたファンタジードラマだった。それがまたちゃんとマンガ的なのである。


電車に乗って手塚治虫記念館に行き、まず最初に見える屋外の火の鳥像に感動し、屋内のブラック・ジャック像と写真を撮った。


つい熱くなってしまった。タイトル通り、治虫氏が雑誌、パンフレットなどに書いた文章をテーマごとに集めたもの。新幹線を初体験したときの感動を綴った1964年のものもある。そこから亡くなる前年の1988年までのエッセイ。それぞれの章は


SFは娯しい」

「未来予想図」

「私の読書遍歴」

「私の好きな言葉」

「私の好きな音楽」


となっている。私なぞが言うのもなんだが、一見して学識を積んだ方のちゃんとした文章である。というか評論家というよりは半分学者、残り半分が表現者、といった感じ。


治虫氏はSF、という言葉そのものはあまり好きではなさそうだ。まあともかく、最初の章はそこを論じるというよりは好きなSF小説とか作家の話が多い。ハインラインとも交流があったとは知らなかった。


さて、手塚治虫が挙げた、海外SFベストテン書いときますね。私は見事にひとつも読んでませんー。ひとつ目標ができました。


①「山椒魚戦争」カレル・チャペック

②「火星年代記」レイ・ブラッドベリ

③「月世界最初の人間」HG・ウェルズ

④「火星のオデッセイ」

      スタンリイ・G・ワインボウム

⑤「アルジャーノンに花束を」

     ダニエル・キイス

⑥「発狂した宇宙」フレドリック・ブラウン

⑦「盗まれた街」ジャック・フィニィ

⑧「モロー博士の島」HG・ウェルズ

⑨「トンネル」ベルンハルト・ケラーマン

⑩「輪廻の蛇」ロバート・A・ハインライン


ところどころに現代にも通じる言葉が散見される。科学の革命的発展は、歴史上戦争なり大天災なりの必要に迫られて起こり得たもので、平穏無事な人生を送れる時代では、生活そのものを変える必要がなく人間自身がおっくうがるにちがいない、という意見には納得というか、胸のつかえが取れた想いがした。最近の電子マネーブームには正直辟易したりもしているし。まあついていけてないだけなんだけど^_^


手塚治虫だけに、ロボットにはこだわりがあるようだ。1984年のエッセイでは鉄腕アトムのようなアンドロイドの登場を2003年としている。さらに、やがて来たる高齢化社会に鑑み、介護ロボット開発、販売競争を予想し、また望んでいる。


「読書遍歴」はホントに面白く読んだ。童話について多くの想いが割かれている。息子が好きだった馬場のぼる「11ぴきのねこ」が激賞されていた。この章ではたくさんメモを取った。


子どもの求めるもの、また仕事への対し方など心に響く言葉も多い。巨匠だからあくせく描かなくとも食えるだろうにというニュアンスを含んだ周囲の言葉に対し、若さを保ちたいゆえに仕事をしている、と書いている。どこかわかるなあー。


最後に好きな言葉の中からひとつ。


「人の一生は重き荷を負うて遠き道をゆくがごとし、いそぐべからず。不自由を常と思えば不足なし。堪忍は無事長久の基。いかりは敵と思え、勝つことばかり知りて負くることを知らざれば害その身にいたる。」


徳川家康である。治虫氏は家康をあまり好きではないが、この一言一句だけは年月とともに心に食い込んで消えないそうだ。


うーんと身につまされた。つまらないことでいかりに走らない。なんか治虫氏も偉人でありかつ、ふつうの人のような感慨を持った。


手塚治虫は古典芸能をも愛し、歴史を知り、作品に投影している。大人向けから子ども対象まで、すごく面白いものを描く。


また「火の鳥  太陽編」のような物語に巡り逢いたい。ワンピースは読んでないけれど、現代の漫画家さん、心から期待しています。

2019年12月8日日曜日

12月書評の1




月アタマは「檸檬」を読んだのだが、ここ最近になく時間がかかった。恩田陸はもう、半日で読んでしまった。作品によりムラがあるなやっぱり。週末は寒波だったがまだまだ。12月2週めはまた暖かいとか。暖冬なのかね。


◼️恩田陸「祝祭と予感」


映画を見てこのスピンオフを読む。恩田陸の筆は冴えてるな、と思う。


「蜜蜂と遠雷」の映画観ました。まあストーリーはぎゅっと詰めた感じで演出的。演奏部分を楽しみました。ちょっと特に女性のキャラたちに天才オーラがなかったかな、正直ってなとこでした。


「蜜蜂と遠雷」のピアノコンクールで活躍したコンテスタント、3位の少年風間塵、2位の栄伝亜夜、1位のマサル(名前長いから略)のあまり遠くないその後、審査員だったナサニエルと嵯峨三枝子という元夫婦の出逢い、マサルのなかなかやんちゃで計算高い過去、コンクールで亜夜の付き添い役だったヴィオラ奏者の奏(かなで)のエピソード、風間塵と師匠ホフマンとの出逢い、などが語られる。


実を言うと「蜜蜂と遠雷」を読んだのは1年前で、映画もストーリーをだいぶ端折っていたから奏ちゃんぜんぜん覚えてなかったりして、スピンオフの空気になじむまでに終わっちゃった感じだった(笑)。


でもね、「蜜蜂と遠雷」はネタとしてはよくあるものを圧倒的な熱量と恩田陸らしさで描ききった作品だったけど、この作品でも恩田陸の冴えが至るところに出ていたと思う。


以前の恩田とは違うような、ものなれた、でも若者たちの表現に見合った、過不足のない文章。天才たちを描くのにふさわしい、派手さも歪みもなく、どこかキラキラしたものを感じさせる筆致には氏の新しい形を見た思いがする。この作品絡みだと恩田の筆は違うものになってしまうようだ。甘やかさも少女マンガっぽさも気にならない。


ちょっと無意識に入れ込んでるかな。そう思わせられるのも興味深い。あっという間に読んでしまった。


◼️梶井基次郎「檸檬」


積み重ねた本の上に檸檬が置かれたのは京都の丸善。京都行って丸善で限定復刻カバーの「檸檬」買ってきた。


実を言うと当時の丸善は京都市内の別のところにあり、一旦閉店して、最近一番の繁華街、四条河原町のビルに新規オープンした。京都に紅葉狩に行ったついでに立ち寄り、当然のように設置されている檸檬コーナーで「丸善150周年記念 限定復刻カバー版」を買ってきて、丸善の紙ブックカバーで読んだ。


さて、これが時間がかかってしまった。どうも梶井基次郎の描く憂鬱や虚しさ、絶望感や表現の妙には、読みながら周囲をいつのまにか囲まれて出られなくなるような感覚がある。


数ページから50ページくらいまでの短編が20、収録されている。どれにも病気、貧乏といった暗さがつきまとう感じではある。心象風景とその小説化にちょっと苦しんでいるようでもある。そのなかで「檸檬」はやはり巻中の白眉。


見すぼらしいもの、壊れかけているものを描写したかと思えば、花火やびいどろなんかを並べてみせる。周囲の妙に暗い店でレモンイエローの檸檬(文中ではレモンエロウ)を買う。ギャップと色彩を自在に描き、スピード感すら感じさせる。


本の色彩で城壁を築き、レモンで仕上げをする。たわいないこのいたずらが、胸をスカッとさせる。決して複雑な感情ではないメッセージ。そこがいい。


他の短編は、パッと目立つものは少ないが、たまに煌めく表現が出てきてハッとさせる。



ツクツクボウシの鳴き声を「スットコチーヨ」と表してどこかなるほどと腑に落ちたり、「ササササと日が翳る」なんてさりげなく上手いなと唸らせる。


「冬の日」という篇では

「街のアスファルトは鉛筆で光らせたように凍てはじめた。」というのに一瞬で感じ入った。


また最高傑作という人もいるとかの「冬の蝿」の夜の山道を歩いていて車と行き交うシーンでは


「さっと流れてくる光のなかへ道の上の小石が歯のような影を立てた。」


「自動車が走っているというより、ヘッドライトをつけた大きな闇が前へ前へ押し寄せてゆくかのように見えるのであった。」


という立て続けの文章に惹きつけられた。


さすが侮れないな、梶井基次郎、なんて思っていたら「愛撫」では一転可愛らしさをみせる。


猫を愛するあまり、猫の耳というのを子供のときから「一度『切符切り』でパチンとやってみたくて堪らなかった」という主人公はついに猫耳を噛んでしまう。(多少グロではあるが虐待ものではありません^_^)


いかつい顔と荒かったという素行に似合わないからクスリとなる。


1901年に生まれた梶井基次郎は川端康成らと同世代。文壇は自然主義、白樺派、新感覚派の芽吹きと飽和状態のような感じで、同人誌に発表した「檸檬」も黙殺されたという。


でも、特徴あるものは自然残る。今回は表現を追うだけで、物語を味わうとこまで行かなかったな、と思いながら今書いているが、何度も読み直す一冊になるだろう。

2019年12月1日日曜日

11月書評の7






今週末は東京へ。しばらくぶりの神保町カレー。ブックカフェでお茶もして帰った。さすがは神保町。次は神保町餃子っ。

東京行く前にクリムトも来ている美術展に行ったが、ひさびさにつまらなかった〜。あーあ。

◼️板野博行

2時間でおさらいできる日本文学史」


んー?少しだけ不満^_^

でもおさらい&発見できました。


「古事記」「日本書紀」「万葉集」から又吉直樹まで。タイトルの通り駆け足で日本の文学史を追って紹介した本。もちろんハデめの見出しが付いていて、キャッチーに作られている。でもなかなか啓発された。品川からの新幹線車中でほぼ完読。


なにが楽しいって、これまで読んだ本の名文や心に残るフレーズをまとめて再体験できること。そこまで体系的でなかった、特に近代の作家の知識を再認識すること。


春過ぎて夏来るらし白妙の

衣干したり天の香具山    持統天皇


あしびきの山鳥の尾のしだり尾の

ながながし夜をひとりかも寝む  柿本人麻呂


何回見てもいいよねえ。


平安時代は竹取物語が思った以上にSF的みたいなんでちゃんと読みたくなったのと、堤中納言物語、浜松中納言物語あたりまた読んでみたい。


鎌倉時代の新古今和歌集では藤原定家の


見わたせば花も紅葉もなかりけり

浦の苫屋の秋の夕暮れ


が取り挙げられている。歌が醸し出すものは、ここに来て味わい深い「幽玄」や定家の説いた「有心(うしん)」、しみじみしていて風雅なこと、へと変わっていった。この世界観はやがて千利休らにより、茶の湯の心を最もよく伝えるものとして評価されるようになったらしい。なんか分かるような気がしますな。


加えて短歌では松尾芭蕉が「奥の細道」でたどったのは新古今和歌集に多くの歌が入っている西行の歌枕。いつか読みたい。


説話集では「古今著聞集」。探してみなければ。


「ゆく河の流れは絶えずして

しかももとの水にあらず。」


「つれづれなるまゝに、日くらし、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書き付くれば、あやしうこそもの狂おしけれ」


「方丈記」「徒然草」鎌倉・室町時代。まだちゃんと読んでない。「源平盛衰記」で女豪傑・巴御前のセリフも読んでみたいような気がしてきた。


「秘する花を知る事。秘すれば花なり。秘せずば花なるべからず、となり、この分け目を知る事、肝要の花なり。」


世阿弥「風姿花伝」はぜひ読んでみたいと思った。同タイトルの小説ってなかったっけ。


井原西鶴に、「日本のシェイクスピア」近松門左衛門、残念なことに読んでない。


荒海や 佐渡によこたふ 天(の)河


松尾芭蕉は長く留まって味わっていたいが、近代が始まらないので割愛^_^


明治初期のベストセラーは「学問のすゝめ」。坪内逍遥は1885年に理論書として「小説神髄」を書き、近代小説の嚆矢は二葉亭四迷「浮雲」。初の言文一致体だった。読みたいなと思いつつまだ手が出ていない。


「紅露」と言われた尾崎紅葉と幸田露伴。紅葉の弟子・泉鏡花は「草迷宮」や「婦系図」をいずれ読んでみたい。浪漫主義、北村透谷、樋口一葉は手が出ず。


まだあげ初めし前髪の

林檎のもとに見えしとき

前にさしたる花櫛の

花ある君と思ひけり


島崎藤村は浪漫主義から後に変化(へんげ)する。


やは肌のあつき血汐にふれも見で

さびしからずや道を説く君


与謝野晶子には本当に参った。大阪・堺の与謝野晶子記念館にも行ってきた。


われ泣きぬれて 蟹とたわむる  石川啄木


母の故郷、福岡・柳川出身の北原白秋生家には幼少の頃より何度か行ったが実は作品には触れていない。うーん白さんゴメン。


ぼちぼち大正。浪漫主義から自然主義文学。島崎藤村は「破戒」をものした。田山花袋「蒲団」に林芙美子「放浪記」。


私小説と化した日本の自然主義に反する立場として生まれて来たのが白樺派と耽美派。白樺派は武者小路実篤、「小説の神様」志賀直哉。実はまだ「暗夜行路」読んでないー。「或る女」は有島武郎。これも読んでない。


森鷗外は「阿部一族」「山椒大夫」だけ。語調が難しい。


智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。


夏目漱石「草枕」より。前期3部作などは老後の楽しみか。


俳句は割愛。シキさんごめん。


凍れる節節りんりんと、

青空のもとに竹が生え、竹、竹、竹が生え


萩原朔太郎は日本近代史の父。病的なまでの幻想的なイメージを、口語自由詩に変えた。

私の好きな室生犀星。詩人から小説家へ。「幼年時代」は素晴らしかった。


宮沢賢治に立ち止まったらヤバいのでスルー。作品の煌めきが分かる中原中也には小林秀雄との因縁あり。高村光太郎はがりりと噛んだ「智恵子抄」。


下人の行方は、誰も知らない。


芥川龍之介は羅生門カッコいいが、死の予感ムンムンの「歯車」が良かった。


耽美派。永井荷風は読んでない。「つゆのあとさき」を読んでみたい。大谷崎は「細雪」上中下巻を近々読む予定。佐藤春夫との因縁。


昭和まで来ました。吉川英治、大佛次郎、江戸川乱歩は人気を得た大衆小説。横光利一と親友の川端康成は新感覚派としてスタートした。


国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。(雪国)


道がつづら折りになって、いよいよ天城峠に近づいたと思ふ頃、雨脚が杉の密林を白く染めながら、すさまじい早さで麓から私を追って来た。(伊豆の踊子)


森鷗外や夏目漱石らには多くのページを割いているのにこちらは実にさらっと、だ。川端ファンの私的にはそこが不満、だった。まあ少し。


ジブリ映画「風立ちぬ」のヒロインはやっぱり「菜穂子」なのねと思った最近。最近、京都の丸善で限定復刻カバー版を買った梶井基次郎。「檸檬」で主人公が本を積み重ねその上にレモンを置いたのがいまと場所は違うが京都の丸善。


ハナニアラシノタトエモアルゾ

サヨナラダケガ人生ダ

 の井伏鱒二、虎になる山月記の中島敦。


戦後、坂口安吾、は「不連続殺人事件」以外読んでないんだなあ。太宰はまあ2/3くらいは読んだかなと。「トカトントン」「女生徒」「斜陽」いいねえ。


ここまでにしときますー。


日本には戦後文壇がなくなったと著者は述べている。確かに、作家たちが自分らの雑誌を主催するわけでもなし、ナントカ主義とかなになに派を結成するなどの動きがない。


山ほどの大衆小説は出ている。エンタメ的だし、その発想に驚かされたり、技巧に唸ったりするのだが、うーん、どうも余裕がないように思えてしまうのは気のせいか。


ともかく、この本を参考にして、かつての本をたくさん読もう。おつかれさまでした。

11月書評の6






ぶらり京都。金閣寺に近い紫野、大徳寺を散策。川端康成が描写している高桐院へ行きました。まあ小振りですが人も少なく、紅葉を楽しめました。

◼️黒岩重吾「落日の王子 蘇我入鹿」上下


蘇我入鹿と蝦夷の親子。日本史上では井伊直弼と一、二を争う悪役である。いつも思うが、大陸文化の影響がひときわ濃いこの時代、この2人の名前は悪すぎる。いくらなんでもそれはないだろう、というレベル。チョー悪役だけに、書き手が意図的に名前を変えたという説があるらしいが、思わず首肯してしまう。


乙巳の変、いわゆる大化の改新に至る過程をつぶさに描く。ラストはスピード感ある怒濤の展開。


640年から645年の古代の政争。蘇我蝦夷が大臣(おおおみ)で、息子入鹿は大夫(まえつきみ)。舒明天皇が亡くなり、妻の宝皇女が女帝・皇極天皇となる。


偉大な祖父蘇我馬子に続き蝦夷、入鹿の父子は強大な政治権力を手に入れようという思いで策謀を巡らしていた。


また大陸からの帰朝者の講義を熱心に聴き秀才であった入鹿は、神祇を司る大王(天皇)の下に政治を担当する大臣がいる自国に比べ、唐では全てを統べる皇帝のもとで律令制が敷かれていることを学ぶ。


朝鮮半島では唐と高句麗、新羅、百済の間に緊張感が高まり、危機感を感じた将軍泉蓋蘇文はクーデターで王と豪族を殺し権力を手に入れた。


泉蓋蘇文に刺激を受けた入鹿は、大王よりも強い独裁者になる野望を抱き、実力行使をも視野に入れるが、専横的に振る舞い、皇極天皇と情を通じ子まで設けた入鹿に対し、皇族や豪族の不満は高まっていった。


やはり蝦夷、入鹿は傍若無人なキャラとして描かれている。蝦夷は入鹿の若さを抑える老獪さがあるが、目まぐるしく動く時の流れに老いを見せるようになる。入鹿は秀才でかつ豪胆、強引、無礼、短気。しかし策謀家としての知恵も目立つ。


蘇我本宗家に動きを悟らせずに暗殺の陰謀を構築した中臣鎌足が対抗軸としてある。


5年にも満たない期間ではあるが、入鹿を取り巻く人々、女や警護隊長の人間性もつぶさに追われ、海外情勢や皇極天皇の生々しい人となり、皇族、豪族の思惑なども散りばめられて、壮大な大河ドラマになっている。


キャラがやや単純化され、手の読み合いも多く、芝居掛かったところもありクライマックスまで長いが、これも大河風叙事物語ならではだろう。額田王も少しだけ登場する。


暗殺の場面も、まだか、まだかとちょっと思わせて一気にラストまで動く。


そし乙巳の変を成功させた天智天皇・藤原鎌足サイドは後に壬申の乱で大海人皇子サイドに敗れる。一旦苦渋を舐めた藤原氏は鎌足の子・傑物不比等の台頭により後の栄華に続く権力を得る、と歴史は続く。


かつて飛鳥に行って、蘇我氏の城塞のような屋形があった甘樫丘に登り、乙巳の変の際中大兄皇子の軍が集まった飛鳥寺を訪ねた時、悠久の歴史、時の流れに感じる雰囲気に浸った。


自然と歴史ある奈良。そのままでいて欲しい気がする。


人の名前なんかが難しかったりちょっと時間もかかったが、楽しめた。また奈良・飛鳥に行きたいし、聖徳太子の物語にもトライしたい。



◼️蒲池明弘

「邪馬台国は『朱の王国』だった」


「動かしたもの」は何か。邪馬台国とヤマト王権から伊勢神宮まで。なぜか読んでて不思議に興奮してしまった。


「朱」、朱色のもととなる硫化水銀により、古代史を考察する作品。日向から神武天皇東征まで古事記には記されているが、どうして土地の移動はあったのか、という理由を考える。


鉱山で算出される硫化水銀は重要な輸出品もしくは財産のもとであり、大きく言えば権力を成す基盤だったのではないか、というもの。水銀換算の産出量は昭和以降に開発された北海道65%に次ぎ、奈良県24%、三重県11%。かつては九州にも多くの産出地があり、伊都(福岡の糸島市あたり)から輸出されていた。


神話にある天皇ほかの遠征や権力地の移動について、争いの主軸に朱を置いて解説されている。


邪馬台国説等はまったく専門的な知識があるわけではない。でも確かに神々や古代の天皇の移動に関して明確な根拠の元になるものは欠落していた。経済的な理由は現実的で面白い解釈。魏志倭人伝、邪馬台国九州説、畿内説、記紀をつないだこの論はリアルでなおかつロマンがあり、読んでて妙に興奮した。


朱塗りに関して「丹生(にゅう)」という全国に数多ある地名がキーポイントにあるが文中糸島市の大入(だいにゅう)駅が出て来て、おお、いつも海水浴に行ってたとこだ、とちょっと響いた。金印の志賀島といい、福岡の沿岸は古代ロマンに満ちているんだな。


糸島は万葉集にも歌われており、今夏その風景を見ながら浸ってきた。糸島というのは夏が似合う、荒々しい地形も見える土地柄なのだが、大陸へ向けた朱の集積地として考えると古代の活気を彷彿とさせまた違う風景が見えてくる。


古代史の常で、言葉の解釈とか意味合いには確かにこじつけっぽいところも感じるけれども、興味深く読み進められる良書だったと思う。

11月書評の5




ちょっと間が空きました。先週末は京都へぶらりと。37年ぶりの金閣寺は、金ピカすぎました。拝観料は400円と良心的。さすが日本の中でもキング・オブ・観光地。こうでなくっちゃね。

◼️柴崎竜人

「三軒茶屋星座館1 冬のオリオン」


星空とギリシア神話を楽しみ、ホロっとしちゃったりする。懐かしさもたくさん。


少々エグさも匂わせた、親しんで読めるライトノベル。たしかにこんな店、1軒くらいあの三茶のエリアにはありそうだ。


三軒茶屋でプラネタリウムのあるバーを営む和真。マッチョな学者の弟・創馬と8歳の月子と住むことに。ある日月子が元野球部のやんちゃ高校生・奏太(かなた)を連れてきた。奏太はバッティングセンターで会った36歳の美女・智子と付き合っていて、大学進学をやめて智子が紹介した金融会社に勤めるというー。

(第一章 オリオン座)


オリオン座、おおいぬ座、山羊座、水瓶座、うお座の5つの物語が展開される。それぞれの章では、テーマの星座にまつわるギリシア神話、をかなり今風というか、イマドキの若者ことばにしてさらにくだいたように語られる。これが面白い。


ある時は彼氏の浮気調査の相談、女子高生の1泊のアリバイ作り、奏太とヤクザな会社との物騒な騒動、そして月子のこと、という連作短編でストーリーが進む。だんだんと和真の過去が分かってくるようになっている。


プラネタリウムのバーは何というか、人の心をくすぐる設定だよね。


東京にいた頃、三軒茶屋の近くに住んでいて、細い道が非常識に入り組んでいて、小さなバーなどが異常なくらい密集する狭いエリアを何度もウロウロしたが、すぐ迷うからホントに油断できないところだった。で、もう絶滅状態の昔風の名画座のような映画館もあってたまに観に行った。


ギリシア神話をかみ砕いてあるのがいい。物語の進行に、神話が時に厚く、時には少し引いた立ち位置で絡む。


混沌、というにはこぢんまりとした、愛すべき三茶。あんなとこなら劇中のようなプラネタリウムの店もあるかもしれない 、似つかわしい、と思った。


また小学校の時理科クラブに入っていて、2ヶ月に1回くらい学校での天体観測会があった。人気のあった若い女性の先生は、下駄箱の板を校庭の真ん中に並べて、皆を寝転ばせ、夜の空を観ながらギリシア神話を語ってくれた。この天体観測会が、ホントに好きだった。


ただ、星座にまつわるギリシア神話は何度聞いても覚えない(笑)。だからというわけではないがおおいぬ座の超高速の犬の話や、牧神パーンの笛シュリンクスの話も新鮮だった。なかなか深いところまでおもしろおかしく説明するのはこの作品の特徴で、セールスポイントかも。


そこそこに疑惑やピンチもあり、面白く気持ちよく読める。エピソードごとに、常連が増えていく。そして最後の月子の章では、ああよくある場面だ、と思いながらグスッと泣いてしまった。


面白み、趣味の心、東京、そして子供の頃の懐かしさ。いろんなものを刺激してくれたライトノベルだった。



◼️あさのあつこ「花を呑む」


殺された男の口には牡丹の花が。

暗い、黒い、重い、でも痛快で心震わす時代劇ミステリー。


あさのあつこの弥勒シリーズ。タイトルが本宮ひろ志みたいになってきた^_^出だしもハデで幽霊がいて、カーを思い出したりする。


油問屋の大店・東海屋の店主が寝所で殺された。死体の口には牡丹の花びらが押し込まれていた。別に寝ていた妻のおけいは発見した時、夜明けの薄闇に幽霊を見る。東海屋がかつて囲っていて捨てた女・お宮が死体で見つかり、お宮の怨霊の仕業だという噂が広がる。


同心小暮信次郎と岡っ引きの伊佐治が捜査する中、次々と男女の死体が発見される。そのうち1人の袖から元武家の殺し屋、信次郎と伊佐治とはなじみの、清之介が営む遠野屋の包み紙が出てくるー。


事件の推理に異常な関心と才能を示すが、心根が冷たく、人間の心に踏み込んで来るような性格の信次郎、抜け目ない岡っ引きで信次郎の父親にも仕えた伊佐治は諫め役。信次郎が遠野屋に対して執拗に絡むのにもその度に諫言をはさむ。


商売に才能を見せ、新しいことに取り組む意欲も強い遠野屋清之介のもとに、かつての同輩が多額の借財を申し込みに来た。清之介の腹違いの兄の具合が悪く、医師から高値の薬を買う必要があるのだというー。


いやーハデで、どこか美しいスタートですね。しかも中盤で次々と死体が上がる。東海屋の口になぜ花びらがあったのか?推理小説の設定としては上々でしょう。


そこへ、いつもの、クセのある天才・信次郎が清之介の過去をネタにいじり、なじり、ねっとりと弄ぶような挑発をし、といういつもの展開が入る。信次郎のこのような性格は、心に刺激を与える材料で、物語最大の特徴だと思う。清之介を通して、人間の行動そのものをなぶっているようにも見える。


清之介は冷静に対処するが、内面どうしても心がざわめく。信次郎には清之介を魅するものがあるようだ。

伊佐治はいつも通り常識に沿った大人の意見、小言をあれやこれやと信次郎に言う。


シリーズも7作目となり、3人の関係性が進んだなと言う場面があった。信次郎の事件関連の質問に清之介は答えない。信次郎はいきなり清之介の胸ぐらをつかみしょっぴいてやってもいいんだぜ、とすごむ。


それを見ていた伊佐治がひと言。

「それで遠野屋さんを脅してるつもりなんですかねえ。遠野屋さん、あんたもあんただ。旦那が掴みかかってきたら避けりゃいいでしょうが。あんたなら造作もねえことでしょうに。お二人がじゃれ合いてえなら、あっしは止め立てはしやせんが、できるなら話を前に進めてもらいてえもんで。」(テキトーに中略)


これに対して信次郎は

「ちょっと遊んだだけじゃねえか」と。


マンネリ打破か。それにしてもここまで来たか、と笑ってしまった。


全編に亘って事件の連続、伊佐次家の人情話も入り、魅力的な巻になっている。


ただ惜しむらくは、最初の方で殺人の方法と事件の関連性がある程度読めてしまったこととかな。ミステリーをよく読む人なら気付くと思うな。

シリーズ第一作品「弥勒の月」から読むのはおススメです。「バッテリー」など児童小説から本格的オトナエンタメへと舵を切った作品だと思います。

2019年11月17日日曜日

11月書評の4




クリームパンが大人気のバックハウスイリエのドーナツ。


ソファに膝をつこうとしたところ、オットマンとソファとの間についてしまい、ソファオットマン間にパカッとできた溝へ瞬間で墜落、高さ40センチから体重の乗った片膝をフローリングの床にしたたか打った。


家での活動に支障はないが、外ではうまく足が動かず鈍い痛みも伴う。これ以上ダメなら整形外科医で診てもらおう。


◼️チェーホフ「かもめ・ワーニャ伯父さん」


絶望から忍耐、その先には。チェーホフ四代劇は文学的。


シェイクスピアをひと通り読んでから、定期的に劇ものを読む習慣がついた。

「かもめ」はまた、北村薫の「円紫さんと私」シリーズの主人公である女子大生が最初の方に読んでいた本でもあり、覚えていた。


「かもめ」は裕福な地主の美しい娘で女優志望のニーナが有名作家のトリゴーリンへの憧れからトリゴーリンと一緒になり子を設けるがやがて捨てられる。ニーナはモスクワで女優として一時活躍もするが、今となっては地方興行、いわゆるドサ回りをするしかない立場に落ちぶれた。


田舎でニーナを囲む者たちは元女優のアルカージナ、元彼でアルカージナの息子、後に作家となるが、戻ってきたニーナにふられ自殺するトレープレフ、トレープレフに抱いた恋心を吹っ切り、教師で貧乏を嘆いてばかりいるメドヴェージェンコと結婚したマーシャら。


容赦ない現実と、それに対する忍耐を医師や地主、教師、栄光の時が去った女優ら多くの視点から描いている。きらびやかなものを求める若さゆえの熱情ともはや取り返せない結果を見せ、なにかが産まれる胎動を感じさせる。


マーシャとニーナ、トレープレフといった若者の対比が神韻縹渺たる雰囲気。忍耐かー。


シェイクスピアは、喜劇も悲劇も舞台効果を考えながら作った脚本ということが分かる。しかしチェーホフは土臭い部分もある、文学作品といった、文学作品というイメージだ。かもめ、の意図は直截ではあるが、陰鬱な暗示で、効いているな、と思う。


「ワーニャ伯父さん」


は亡くなった妹の元夫である大学教授〜今は若く美しい妻のいる〜に人生を尽くし、領地の経営をしてきた47歳のワーニャたちに対して、教授はワーニャの姪で教授と先妻の娘・ソーニャのものであるこの土地を売却してしまってはどうか、と提案しワーニャが猛反発する。


老教授と美貌の妻エレーナが街へと去ってしまった後、残った姪のソーニャがワーニャを諭す。


「でも、仕方がないわ、生きていかなければ!」


この戯曲の最も感動的なシーン、だとのこと。


忍耐については「三人姉妹」へと続き、それが新たな喜びを生むのが「桜の園」とか。


うーん、もう少し読み込まなければ分かってこないかな。「かもめ」は若さのほとばしりと対比がよく見えたが、「ワーニャ伯父さん」はどうしてそんなに尽くす必要があるのか、というとこから分からず、最後の盛り上がりについていけなかった。正直。


シェイクスピアは先にも行ったように題材も、その時代より古く、余興としての劇というイメージが強いが、チェーホフは忍耐と労働、という、おそらくロシア的な価値と現実への対応を主軸に置いている。


ふむうむ。「三人姉妹」「桜の園」に進んでみよう。


◼️長野まゆみ「レモンタルト」


ふふふ、なんて感じの読後感。

かわいいタイトルとは程遠い、手練れのクセある作品。


少年、のみを脱した進化版の近著。でもテイストはやっぱり(笑)生きていた。ミステリっぽくもある興味深い雰囲気の連作。


長野まゆみはわりに多く読んできた。「少年アリス」を筆頭とする異世界美少年もの、「カンパネルラ」などの親族(男性限定)葛藤ものがその代表的な作品の性格だが、最近は違うようだ。


近著はそんなに読んでないが、賞を取った「冥途あり」をはじめ、女性も出てくる(ここちょっと力説・笑)ちょっと深めの、面白いものに手が届きそうな、そうでないような独特の雰囲気を醸し出しているものに変わってきたのかな、という感触だけ、ある。今作もまたそのようなテイストを纏った興味深い作品だった。


両親のいない士(つかさ)は姉を病気で失い、姉の夫だった義兄と2世帯住宅に住んでいる。士は某企業の重役の庶子であり、現役員のYの手引きで入社した。総務部に席を置くが実際の仕事は役員が振ってくる、少々闇色の業務。


必要であればカラダを使ってターゲットの情報を集めろ、とか。人事部長の息子を雪山の別荘に連れて行ったり、役員の家族へのプレゼントを買っておいたり、犬の散歩をさせたり、愛人関係の業務も書いてたかな、挙げ句の果てに入社試験最終面接の学生たちの前で服を脱げと命じられたりする。


念のためだが、士は男だ。長野まゆみが描く恋愛はBLが基本である。この作品ももう花盛りでござった。


それでエピソードの中での士はもう、やられ放題のキャラである。


最初の「傘をどうぞ」では

家に侵入された男に椅子に縛りつけられ危うく犯されかける。その時、士は男を冷静に文学的に分析して、襲われることに暗鬱になっていた、とのんきにのたまう。困ったことになっちゃったなーって雰囲気にあまりにやられなれちゃいすぎだろーっとツッコミをかましてしまい、苦笑してしまう。


次の「レモンタルト」では唇を奪われ、さらに鈍器で頭を殴られて意識を失う。その次「北風吹いて、雪が降ったら」では冬の高速のサービスエリアに取り残される。「とっておきの料理」では厳しい入社試験を潜り抜けた同期のエリートに役に立たない縁故入社の社員、役員の犬、と侮られ、殴られたうえに罵倒される。


ここまでだけでもマンガ風の物語になりそうだ。しかしところが、それだけではない。


各短編はおおむね軽いミステリー仕立てになっている。「傘をどうぞ」では駅で女に手渡された傘をめぐり士は中年の男に凌辱されかける、また鈍器で殴られる、部長の息子に車を乗り逃げされる、同期の男にどつかれる、などなどの理由は?というもの。


探偵役はそういうのが好きな義兄で、スラスラとうさんくさげな、しかし言われると鋭いような気もする三文小説推論を仕立ててみせる。が、本当に合っているかは分からない。ゆえに、この短編集には北村薫のような、日常の謎を追う風情から幻想的っぽさまでが漂う。


劇中で士は殴られた同期とムフフしちゃったりそれを義兄に見られちゃったりするが、この連作短編中では士の義兄に対する恋心が全編を貫いていて、じわじわと高められる。

義兄は士が死ねば、家と土地の権利や姉から受け継いだ財産が手に入る。劇中では「毒があればもっとよかったけどな」なんて緊張感のあるセリフが出て来たりする。再婚の話も出ている、と複雑だ。


さらにさらに、作中には士の亡き姉への想い、義兄の姉に対する心持ちと大人の行動が散りばめられ、最後の方では泣いちゃったりするのである。


少し不思議な設定にまるで伊坂幸太郎のような遊びとサスペンスがあったり、すべて解決しないところに魅力が逆にあったり、さらに食べ物、ケーキ、煮込みにほっこり感があったり、情事の後の素っ裸のプレゼンなど、刺激的で笑える場面があったりする。決して夢中になったり大笑いできるような作品ではないのだが、手練手管と作者の特性を込めており興味深い。


いやー、この感じと技術はもはやマジシャン、魔術師、を通り越して魔道士ではないでしょうか。


近著、さらに読みたくなった。


11月書評の3







むかごごはんのおにぎりと、息子の修学旅行のお土産、長崎カステラ。話を聞くと、長崎では平和祈念像、グラバー邸と私の小学校の修学旅行コースを回ったとか。関西に移り住んでもう四半世紀。まさか親子2代で同じとこ行くとはね。

◼️安部公房「笑う月」


「空飛ぶ男」が改稿されていた?


安部公房の評価がヨーロッパで高いのは知っていたが実際に読んだのは「砂の女」そして昔教科書で読んだ「空飛ぶ男」のみ。


図書館で物色していたところ目に入ったから、目次で「空飛ぶ男」が入っているのを確認してから借りてきた。


この「笑う月」という本は「創作ノート」的なものだという。たしかに「箱男」の登場人物に関する言及と掘り下げっぽいものがあったり、自分が見た夢は朝起きてすぐテレコに吹き込むという習慣であり、見た夢に関してのエッセイのような短編が続く。


しかしその内容から現実の自分に即しての考察なのか、エッセイの皮を被った創作なのかよく分からなくなってくる。説明されてても理解に困るような頭良すぎる学生の論のような言葉が紡がれている、というのが正直なところ。


後半ははっきり創作と分かる作品がいくつか。そしていよいよ「空飛ぶ男」となるのだが、なんと結末が違った。


昔教科書で読んだ時には空飛ぶ男と話している主人公は穏やかさを保っているものの、ある瞬間冷静さの糸が切れたように恐怖を感じ、叫ぶ?空飛ぶ男は逃げ去る、というもので、納得感は深かったのだが、今回の短編は終始落ち着いた会話を交わし、何事もなく空飛ぶ男と別れる、という終わり。あれ?と。


色々調べてみたら改稿された作品らしい。これってあり?有名な話なのかな?とちょっと混乱した。


文中の「冷えていないビールの栓を抜いたような息づかい」とか「汚れた黒い水のようなおびえ」とかの直喩が文をかみくだく脳を刺す。やはりどちらにしても非常に印象に残る作品だと思う。朝の空に背広、ネクタイをして眼鏡をかけたふつうのサラリーマン然とした男が飛んでいる、というのはとんでもなくシュールだ。



全体的には、リアルな描写もあるが、まあ幻想的というか普通の現実からの飛躍が激しい話、という感じである。


他には、謎の大きな鞄に人が振り回される「鞄」。これは鞄を持ってきた男の「私の額に開いた穴をとおして、何処か遠くの風景でも見ているような、年寄りじみた笑い」を浮かべる。分かるようでいて、とても謎めいた例えだと思った。

船が沈没し、食料のない救命ボートに乗った医者とコックと二等航海士が、我こそはと犠牲になりたがるカニバリズムの話、「自己犠牲」もシンプルで良かったかなあ。


安部公房は笑う月が追いかけてくる夢が怖かったという。ところで自分が怖かった夢といえば・・


巨大なゼンマイの一部が捻くれてしまい、時計だがなんだかはうまく動かなくなってしまう。自分に全責任があり、朝までに直さなければならないが、絶望して泣く、というのを小さい頃よく見たな、と思った。


ちょっと読む順番をミスったかな、もっと有名作をいくつか知ってから読むべき本だったかと後悔しかけたが、「空飛ぶ男」の事を知ったのは良かったかも、と今では感じている。


◼️澤田瞳子「泣くな道真 大宰府の詩」


大宰府はこの地の統治組織の名前で、住む土地としての名称が太宰府だったと思う。確か。


失脚させられ権帥として左遷の憂き目にあった菅原道真。消沈していたが、博多津に集まる外国からの書画骨董への目利きに能力を発揮し、元気を取り戻す。


道真を取り巻くのはうたたね様と陰口をたたかれているやる気のないお人好しの官僚・龍野保積、小野篁の孫娘・恬子(しずこ)、いわば長官である大宰大弐の副官であり恬子の兄、小野葛根、そして道真お付きの安行ら。


劇中に苗字は出てこないが、安行というのは味酒(うまさけ)安行という実在の人物。道真が死んだ時、味酒が棺を牛車で運んでいたところ突然牛が動かなくなり、そこを墓所としたのが太宰府天満宮の始まり。今でも太宰府天満宮では味酒さんが関係者として役に就いている。


話はややコミカルに進み、恬子が人でごった返す博多津に連れ出したり、保積や安行が右往左往したりして進む。平民に身をやつし、動き回るうちに民草の暮らしのあまりの悲惨さを知り、さらに幼い我が子の死に打ちのめされる。大宰府では大問題に保積の息子三緒が絡み、保積はその解決法を道真に相談する。


という進行なのだが、どうも乗り切れなかったのが正直。言葉や当時の制度など時代考証はよくなされ、過剰なくらい散りばめられている。しかし、正直もうひとつ面白くない。物語としての盛り上がりも、ちょっと人工的、作り込んでいるのが見えるような気がした。せめて壮大にして終わって欲しかったかな。


読みつつ大宰府から博多津までは二時間もあれば歩ける・・昔の海岸線は今より南

つまり大宰府に近い方にあったというし、祖母からそんな話を聞いたような気もするが、いや、二時間では絶対歩けないから、とか地元民の突っ込みをしたり、めったに雪は降らない・・日本海側の福岡の寒さを知らないな、関西より寒いぞ、なんて思ったり。


うーんどうも読み方も悪かったようだ・苦笑。


菅公の人生のほとんどは京にあり、死後の祟りはそれはものすごい威力だったのが有名ではある。先ほどの天満宮の話も死んだ後だし。そんな中太宰府での物語を作るとちょっと浮いたような感じになってしまうのだろうか。伝説はそれなりにあってもっと寄り添って欲しいような気もした。逆にコミカルに徹底もしても良かったかとも思う。


ちょっと期待したけどね。。ただ「応天の門」読んで多少の知識があったからそこは楽しめた。


澤田瞳子氏には奈良時代の著作もいくつかあるとか。また読んでみようか、というところ。






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2019年11月10日日曜日

11月書評の2







奈良でいつも行くフルーツ専門店のサンド。飲み物はカリンティー。

神戸の旧居留地ではルミナリエの準備が。久しく行ってないなー。

◼️武田珂代子「太平洋戦争 日本語諜報戦」


「山河燃ゆ」が蘇る。英語圏の国における日本語諜報要員育成の過程を追ったもの。


1984年、「山河燃ゆ」というNHK大河ドラマがあった。私がそれと認識して初めて続けて観た大河だと記憶している。松本幸四郎が日系二世のアメリカ軍言語官の主人公で、東京裁判の法廷通訳モニターを務めていた。途中で殺されてしまうが、沢田研二もアメリカ軍所属として出演していた。おそらくNHK交響楽団が演奏していた重々しく葛藤を感じさせるオープニングテーマは今でもメロディを覚えている。実在の人物をもとにした山崎豊子の「二つの祖国」が原作ということは今回初めて知った。


アメリカ、イギリス、オーストラリア、カナダは第二次大戦前夜、日本との間に軍事的緊張の高まりに応じ、もしくは開戦してから、日本語を理解し駆使する要員の必要性を感じ、養成機関を設立する。


オーストラリアやカナダは立ち上がりも遅く、また特にカナダでは国内で日本人移民に対する暴動が勃発したこともあり、国軍から二世を排除していたが、立場は高くないながらもアメリカ、イギリスは大勢の人員を必要としたことから積極的に起用した。


捕虜や遺体が所持していた「捕獲文書」の翻訳、捕虜の尋問、傍受した通信・暗号の解読、さらには投降を呼びかけるビラや戦地での実際の説得などその任務は多岐にわたり、さらには日本の兵舎敷地に潜入して作戦会議や指示を聴いたり、交戦時例えば日本軍が退却の指示を出している中「進め」「突撃」と声を出し撹乱する役目も担った。


これらの周到な準備により戦況を有利に勧められたとしてマッカーサーは「実際の戦闘前にこれほど敵のことを知っていた戦争はこれまでになかった」と発言したという。


任務に当たったのは二世ばかりではなく、日本から帰国したアメリカ人、イギリス人などももちろん含まれている。ドナルド・キーンをはじめ、彼らが戦後、日本関連の業績を残したのも戦争の副産物として興味深いものがある。


この本では主に各国の要員育成の実情を資料をもとに述べているが、最終章に二世たちの葛藤もまとめている。


いわゆる二世たちは、親が日本からアメリカやカナダへ渡り、子どもを日本へ送り日本の教育を受けさせてまた帰ってくる「帰米」「帰加」の人々が多い。戦時、家族とともに収容所へ入れられており、その中で志願した者も多かった。父母の祖国と戦うことに加え、軍の中での人種差別や偏見とも対峙しなければならなかった。「山河燃ゆ」の松本幸四郎も様々な矛盾・葛藤に苦しみ最後は自殺する。


この本では最初の章で、戦前ハワイや北アメリカに渡った一世たちが日本の文化を学ばせたいと日本へ子弟を送った際、数少ない受け入れ機関だった熊本県の九州学院を紹介している。私の父は、九州学院卒だ。なんとなく縁を感じる作品ではあった。


さて、ひとこと。助成の費用を得て書かれた作品とのこと。ようは論文かと思う。研究書、新書の類には、淡々と事実、数字を羅列していて、あまりにも読ませようとする姿勢に欠けている本が見られる。これもその一つ。事実は興味深いが、とても退屈だった。もう少し学者さん、そして何より編集者は心に留めてもらいたいと思う。もう少し、できるだろう。


◼️アンソニー・ホロヴィッツ

「カササギ殺人事件」上下


「えーっ」と。

下巻に進んだ時のびっくり感は特筆もの。


大戦後のイギリスの片田舎と現代のロンドン。上下巻で2つの大きなミステリが楽しめます。


帰郷した時に呑んだ大学の先輩。ミステリ好きで話が合う方と読書の話をしていたら


「もう『カササギ』読んだか?いいぞ〜イヒヒヒ」


と言われた。書店でも目立つし、ホロヴィッツといえばコナン・ドイル財団公認のシャーロック・ホームズの「新作」である「絹の家」や「モリアーティ」を読んでいるので当然知ってて楽しみにしていた。


さて、上巻。戦時はユダヤ人の収容所に入っていたこともあるアティカス・ピュントが探偵役で物語は展開する。


イギリスの片田舎の村の屋敷で家政婦が階段から落ちて死ぬ。家政婦の息子が殺したのではと噂が立ち、その婚約者がロンドンのピュントのもとに救いを求めて依頼に来る。


ピュントは余命いくばくもないことを医師に告知されたばかりということもあり、依頼を断りアドバイスをして娘を返す。ところが、その屋敷の主人が首を切断されて殺され、ピュントは捜査に乗り出すー。


アガサ・クリスティーへのオマージュ的要素を持つ作品、というふれこみもあった。私はクリスティーの有名作を中心に昔読み、最近いくつか再読したくらいで詳しくはない。ただ「オリエント急行」や「そして誰もいなくなった」のように、登場人物たちそれぞれに謎の要素を匂わせる手法はよく似ている。人々と物語に「揺らぎ」を与えていて上手い。


お気に入りの森を売却され怒る牧師、若い愛人を囲っている屋敷の主人の妻、実妹でありながら屋敷を追い出され、果ては家政婦がいなくなったからやらないか、と主人に勧められた婦人と容疑者それぞれに動機がないことはない。ピュントは手がかりから仮説を立て、犯人は分かった、というところで下巻へ。


ところが!下巻はまったく現代の話。えーっ、そんな、どうなるの?と読者を当惑させるのが作品の大きな仕掛け。アティカス・ピュントシリーズを書いていたアラン・コンウェイが自分の家にある塔から落ちて死ぬ。アランもまた不治の病で、遺書が見つかった。担当編集者のスーザンは「カササギ殺人事件」の失われた解決編を探して関係者の間を巡るうちにコンウェイの死は殺人ではないかという思いに突き動かされ、調査するようになる。殺人かどうかも分からない中、こちらも多くの人が動機ある容疑者候補として挙げられる。


さて、アランを殺した犯人は誰か、そして「カササギ殺人事件」の結末はー。


読み手は突然の二重構造の提示にびっくりした後、ダブルの伏線が劇中劇とスーザンのいる現実世界とにオーバーラップしてないかと気をつけて下巻を読むことを強いられる。そして無事、全てを手にした時の安堵感というか、虚脱感を味わう。


ハンパない「おあずけ」で悶絶したぶん、ラストに2つの解決を一気に経験して2倍のカタルシスに浸るというわけですね。


いやー練りに練った作品、という感じでしたねー。古き良きイギリスミステリーの味もしっかり味わえたし、何よりこの過去と現在、架空の作品と現代の事件を絡めたダイナミックな仕掛けを楽しむものでしょう。下巻に入った時本当にえーっと思ったし^_^


謎、森、葬儀、夜の訪問者、過去、など雰囲気の作り方も良く、また現代編では同性愛、中年の女性編集者の立場と恋人との岐路など上手に色合いもつけている気がした。


見事なものだと思う。


ただ違和感もすこうし。ストーリーを導くように配した伏線が先を予想させてしまったり、証拠によって十分な結論を出すのではなく、結論に推測部分があるかな、少しジャンプしてるかな、と思ったり、登場人物の考えに対してズレを感じたりした。登場人物への愛着ももひとつ湧かないかな。


まあ特にプロの探偵と違うスーザンの行動の素人っぽさを浮き立たせる狙いもあるのかも。


ただ全体的には満足できる読後感だった。最後の方は実はオリエント急行よろしく、容疑者全員がまさか?なんて思ってしまったし。ホロヴィッツというのは、器の大きさとキレを感じさせる作家さんだと思う。


アランの恋人、ジェイムズ・テイラーは、ラグビーワールドカップの影響で、南アフリカのスクラムハーフで金髪をなびかせたデクラークを想像してしまった。この時期ならでは。


カササギ、マグパイというのはシャーロック・ホームズのパスティーシュで美術品を愛好する犯罪者のあだ名だったり、海外のミステリーでちょいちょい目にするイメージではある。


そういった闇にまぎれ人間社会をすり抜けるような感覚も相まって楽しめるミステリーだった。