月アタマは「檸檬」を読んだのだが、ここ最近になく時間がかかった。恩田陸はもう、半日で読んでしまった。作品によりムラがあるなやっぱり。週末は寒波だったがまだまだ。12月2週めはまた暖かいとか。暖冬なのかね。
◼️恩田陸「祝祭と予感」
映画を見てこのスピンオフを読む。恩田陸の筆は冴えてるな、と思う。
「蜜蜂と遠雷」の映画観ました。まあストーリーはぎゅっと詰めた感じで演出的。演奏部分を楽しみました。ちょっと特に女性のキャラたちに天才オーラがなかったかな、正直ってなとこでした。
「蜜蜂と遠雷」のピアノコンクールで活躍したコンテスタント、3位の少年風間塵、2位の栄伝亜夜、1位のマサル(名前長いから略)のあまり遠くないその後、審査員だったナサニエルと嵯峨三枝子という元夫婦の出逢い、マサルのなかなかやんちゃで計算高い過去、コンクールで亜夜の付き添い役だったヴィオラ奏者の奏(かなで)のエピソード、風間塵と師匠ホフマンとの出逢い、などが語られる。
実を言うと「蜜蜂と遠雷」を読んだのは1年前で、映画もストーリーをだいぶ端折っていたから奏ちゃんぜんぜん覚えてなかったりして、スピンオフの空気になじむまでに終わっちゃった感じだった(笑)。
でもね、「蜜蜂と遠雷」はネタとしてはよくあるものを圧倒的な熱量と恩田陸らしさで描ききった作品だったけど、この作品でも恩田陸の冴えが至るところに出ていたと思う。
以前の恩田とは違うような、ものなれた、でも若者たちの表現に見合った、過不足のない文章。天才たちを描くのにふさわしい、派手さも歪みもなく、どこかキラキラしたものを感じさせる筆致には氏の新しい形を見た思いがする。この作品絡みだと恩田の筆は違うものになってしまうようだ。甘やかさも少女マンガっぽさも気にならない。
ちょっと無意識に入れ込んでるかな。そう思わせられるのも興味深い。あっという間に読んでしまった。
◼️梶井基次郎「檸檬」
積み重ねた本の上に檸檬が置かれたのは京都の丸善。京都行って丸善で限定復刻カバーの「檸檬」買ってきた。
実を言うと当時の丸善は京都市内の別のところにあり、一旦閉店して、最近一番の繁華街、四条河原町のビルに新規オープンした。京都に紅葉狩に行ったついでに立ち寄り、当然のように設置されている檸檬コーナーで「丸善150周年記念 限定復刻カバー版」を買ってきて、丸善の紙ブックカバーで読んだ。
さて、これが時間がかかってしまった。どうも梶井基次郎の描く憂鬱や虚しさ、絶望感や表現の妙には、読みながら周囲をいつのまにか囲まれて出られなくなるような感覚がある。
数ページから50ページくらいまでの短編が20、収録されている。どれにも病気、貧乏といった暗さがつきまとう感じではある。心象風景とその小説化にちょっと苦しんでいるようでもある。そのなかで「檸檬」はやはり巻中の白眉。
見すぼらしいもの、壊れかけているものを描写したかと思えば、花火やびいどろなんかを並べてみせる。周囲の妙に暗い店でレモンイエローの檸檬(文中ではレモンエロウ)を買う。ギャップと色彩を自在に描き、スピード感すら感じさせる。
本の色彩で城壁を築き、レモンで仕上げをする。たわいないこのいたずらが、胸をスカッとさせる。決して複雑な感情ではないメッセージ。そこがいい。
他の短編は、パッと目立つものは少ないが、たまに煌めく表現が出てきてハッとさせる。
ツクツクボウシの鳴き声を「スットコチーヨ」と表してどこかなるほどと腑に落ちたり、「ササササと日が翳る」なんてさりげなく上手いなと唸らせる。
「冬の日」という篇では
「街のアスファルトは鉛筆で光らせたように凍てはじめた。」というのに一瞬で感じ入った。
また最高傑作という人もいるとかの「冬の蝿」の夜の山道を歩いていて車と行き交うシーンでは
「さっと流れてくる光のなかへ道の上の小石が歯のような影を立てた。」
「自動車が走っているというより、ヘッドライトをつけた大きな闇が前へ前へ押し寄せてゆくかのように見えるのであった。」
という立て続けの文章に惹きつけられた。
さすが侮れないな、梶井基次郎、なんて思っていたら「愛撫」では一転可愛らしさをみせる。
猫を愛するあまり、猫の耳というのを子供のときから「一度『切符切り』でパチンとやってみたくて堪らなかった」という主人公はついに猫耳を噛んでしまう。(多少グロではあるが虐待ものではありません^_^)
いかつい顔と荒かったという素行に似合わないからクスリとなる。
1901年に生まれた梶井基次郎は川端康成らと同世代。文壇は自然主義、白樺派、新感覚派の芽吹きと飽和状態のような感じで、同人誌に発表した「檸檬」も黙殺されたという。
でも、特徴あるものは自然残る。今回は表現を追うだけで、物語を味わうとこまで行かなかったな、と思いながら今書いているが、何度も読み直す一冊になるだろう。
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