2018年11月13日火曜日

10月書評の5





千早茜「あとかた」


恋愛・結婚と人間の裏側。何かがあると信じさせる作家さん。


5年同棲した恋人と結婚を間近に控えた女は、バーで同席した、得体の知れない雰囲気の男と時に激しく身体を重ねるようになる。ある日男は関西の山寺へと女を誘うー。

(ほむら)


連作短編のような形で、次の「てがた」は得体の知れない男の部下だった者の夫婦生活の話となり、次の「ゆびわ」はその妻が若い男と浮気、きついセックスに溺れる。


「やけど」では恵まれているが親が別の家庭を持ち男の家を泊まり歩く美少女サキ、「うろこ」はその女を泊める同級生の男、そしてラストの「ねいろ」は海外の戦地や被災地で活動する恋人を持つ市井のヴァイオリニスト~彼女はまたサキと仲が良い~が描かれる。


文章の印象は、ズバッと生の状況描写をする。説明が少なくダイレクトに伝わる感じ。セックスについてはオブラートに包んでいるとも逆に言えるかも知れないが、より大人の男女の生々しさへ切り込むような印象だ。


男性主人公の話は男がちょっと甘く頼りなく、女性主人公の話はきめ細やかでリアルである。「ほむら」「ゆびわ」「やけど」で女性主人公の行動と気持ちが軋むようで少しショックも与えるような場面も取り入れている一方でラスト2編「うろこ」「ねいろ」は男女それぞれの主人公で少し可愛らしい仕上がりになっている。


通常本を読む時は物語に入って行って感動したりして、読み終わってからちょっと冷静になって、考えてみれば演出過剰かも、などと思う。面白いもので、今回は読みながら、この設定や出来事は少し大仰かも、などと、入り込んだり、醒めた目線で見たりしていた。


何かを求めて熱烈なファックに没入している設定を見ると、満たされない自己の解放を求めて、結果何かを得ているようにも、読者の願望を荒々しく書き出しているようにも受け止められる。性と恋愛・結婚へ向けた女性ならではの視線や、社会問題、男の弱さ、気持ちの可愛らしさと困難取り混ぜ、ちょっとした小粋で鋭い知識を織り込んだりして、大人風味でもある。


浸ったわけではない。でも恋愛を描き出すのに手練手管でかつダイレクト。千早茜は「魚神」「あやかし草子」と不思議な世界の描写が好きで、実は現代恋愛ものはこれが初めて。直木賞候補になった時から気になっていた。


今回は現代ものでも、何か信じられるものがある作家、という印象を得た。


夢枕獏「翁-OKINA 秘帖 源氏物語」


時は平安、主人公は光の君ー。

夢枕獏はたぶん初読み。ふむふむ。


光の君は、妻の葵の上の容態が悪く、何かが取り憑いていると思い祈祷を重ねるが、正体が分からない。播磨の法師陰陽師、強力な力を持つ蘆屋道満に頼んで憑き物を呼び出すと、謎々を投げかけてきた。

「地の底の迷宮の奥にある暗闇で、獣の首をした王が、黄金の盃で黄金の酒を飲みながら哭いている。これ、なーんだ?」


本読み仲間の先輩が「2冊同じの買っちゃったから1つあげるわー」とくれたのが読むきっかけ。夢枕獏氏といえば陰陽師シリーズかと思うが詳しくない。ともかくおどろおどろしいのは確かだろうな、と思い読み始めた。


陰陽師に源氏物語を絡ませエンタメにしたもの。主演はあやかしのものが見える能力を持ち、肝の座った光の君、案内役は安倍晴明の最大のライバルとされる法師陰陽師・蘆屋道満(あしやどうまん)。他のキャストはほとんど寝たきりで喋るのは憑き物の言葉だけの正妻葵の上、恥をかかされる愛人六条御息所、あっさり死ぬ愛人2夕顔、最後に息子夕霧。あ、義兄にして邯鄲相照らす仲の頭中将。


憑き物が分からないため光たちは異国の宗教を調べたり、もののけに調査を頼んだりする。うねうねと話が飛び、源氏物語の根源的な部分、その現代的な解釈にに帰って終わり、という感じである。


あとがきによれば「古代エジプト、ギリシア、唐ーと、神話をたずねて旅するその案内人蘆屋道満がメフィストフェレス役ーとなると自然に、光源氏がファウスト博士役となる」とのこと。うーんそういうことだ(笑)。ちなみに様々な宗教の逸話が出てくるところでいくつかは聞いたことがあり、前後からエジプトやギリシアの話かなあ、とはうっすら分かったが正確な判別は出来なかった。ちなみに、「傑作」と自画自賛してらっしゃいます。


すらすらと読めて楽しくなくはなかったし、最近読んだいくつかの古典を踏まえているな、と感じられた表現があったりして興味は惹かれた。ただ、結論含めて、あまり感じ入るものではなかったかな。まあ経験です。「陰陽師」シリーズ読んでみようかな。


ジョン・L・ブリーン他

「シャーロック・ホームズ ベイカー街の幽霊」


シャーロッキアンの作家たちがテーマに沿った短編を書き下ろした作品集。この巻は幽霊という、合理主義者ホームズと相容れないものがテーマ。さて、どうなるか。


このハードカバーシリーズは1996年から5作品、発行された。私は持ってるのは2つで今回が3つめ。調べてみたら読んでないものが行きつけの図書館にもあったから今後を楽しみにしている。


一編ずつ簡単な感想を。

ローレン・D・エスルマン

「悪魔とシャーロック・ホームズ」


エスルマンといえば「シャーロック・ホームズ対ドラキュラ」というパロディの著者である。私も持っていて、いかにもB級ホラーっぽいタイトルの割にけっこう面白い作品である。


精神病院にいるある患者がまるで悪魔で、彼と話した入院患者は自殺未遂を起こし、看護師の女性は理性を失ったという。ホームズは対面すべく病院へ赴くー。


うーん、エスルマンだったし期待したが、これはいまひとつかも。あくまで個人的感想だけどかなりスルーされた。


ジョン・L・ブリーン「司書の幽霊事件」


貴族にして議員の依頼者の屋敷には古い図書室があった。そこに幽霊が出ては何らかの書物の一部分に赤い印をつけて置いていくというー。


まあまず面白かった。パズルのような推理や動機。図書館へ出入りできる謎の理由が簡単すぎたのは気になったけど。


ギリアン・リンスコット

「死んだオランウータンの事件」


塔をよじ登るオランウータンの幽霊ー。恐るべき陰謀が隠されていた。

 

どうも、最初は飲み込みにくかったが、最後の方で一気に事情が分かる。


キャロリン・ウィート

「ドルリー・レーン劇場の醜聞、あるいは吸血鬼の落とし戸事件」


目の前で人消える?わがまま名女優が発端となった劇場の歴史にも絡む事件。劇的でハデだったからかなかなかエキサイティングで面白かった。


H・ポール・ジェファーズ「ミイラの呪い」


タイトル通り、ミイラの発掘に関わった人が次々と死んでいく話。うーん、ホームズが活躍した1800年代末に会う話かな。


コリン・ブルース「イースト・エンドの死」


ロンドン市中の貧民街で子だくさん一家の大黒柱となっている母親が急死した。しかし留守番をしていた幼子は、母の死骸が動き喋るというー。


著者は科学と数学のホームズ・パロディ「ワトスン君、これは事件だ!」を書いた方。私も持っているが難解だった記憶がある。


ポーラ・コーエン「"夜中の犬"の冒険」


22才の兄グレゴリーと17才、盲目の妹エレンが行方不明に。調べていくと2人の忠犬が奮闘したことが分かるー。


いい感じに少しの超自然現象。


ダニエル・スタシャワー「セルデンの物語」


かつて「ロンドンの超能力男」というパロディ・パスティーシュで奇術師ハリー・フーディーニをホームズものに登場させたスタシャワー。持ってるがまずまず楽しい作品。


セルデンといえばそりゃ「バスカヴィルの犬」に重要な役で出演する脱獄囚。話はセルデンの独白。「バスカヴィル」大好きな話だし、いいね、こういう視点を変えたもの。


ビル・クライダー

「セント・マリルボーンの墓荒らし」


これなんかはいわゆる聖典にもありそうな話だ。おどろおどろしい霊園での墓荒らしと無残に切り刻まれた死体。この本の中でも雰囲気を楽しめた作品。


マイケル&クレア・ブレスナック

「クール・パークの不思議な事件」


ホームズとワトスンはアイルランドに住む作家のレディ・グレゴリーに招待され、アイルランドの彼女の屋敷に出向く。劇作家バーナード・ショーや詩人のウィリアム・バトラー・イェーツが登場。ホームズたちは魔女的な?不思議な出来事に巻き込まれる。


バーナード・ショーは他のパロディ・パスティーシュでもたまに出てくる。しかしこれは・・この本のほとんどが超常現象と思えることをホームズが解決していく形を取っているのだが、この作品は違うとだけ書いておこう。


あとはホームズに関するエッセイだったり、近年のサイキック探偵ものの流れを分析したり。なるほど超常現象にホームズの合理的な思考は対比として面白い。なかなか面白いテーマの一冊でした。


10月書評の4





青山文平「白樫の樹の下で」


悲哀を含んだストーリー。引き締まった佳作。松本清張賞。


江戸深川、同じ道場の村上登、青木昇平、仁志兵輔はいずれも代稽古を務める腕前の幼なじみ。役のない年三十俵の御家人だったが、昇平は子供を襲おうとした危険な浪人を衆目の前で斬ったことから評判となり、端役に就いていた。兵輔は世間を騒がせている斬殺魔を捕えて自分も役に就こうと独自に見回りをする。登は、道場に通う商人、巳乃介から人気の刀、「一竿子忠綱」を借りてくれと頼まれる。


主人公は登で、兵輔の妹、佳絵と相思相愛となり結婚を約束するが・・。


時は贈収賄が横行した田沼意次の時代が去り松平定信の寛政の改革が始まった1790年ごろ。世の中は変わるはずだが、3人の若者の立場は変わらず、提灯貼りなどの内職をしなければ食っていけない。鬱屈とした気分をべったりと敷き、若者らしい希望や夢を抱かせる。同時に常に事件の匂いをさせ、緊張感を失わせない。


そして事件は哀しい方向に動く。川で父が育てている金魚の餌の糸みみずを採りながら号泣する登の姿が不憫でならないが、事はもう感傷に浸る余裕の無いくらい激しく畳み掛けるような展開となる。


ラストも綺麗にまとまっているが、それだけに腑に落ちないところもあったような気がして考えてしまった。うーん。斬殺魔の動機はこれでいいんだろうか、とかね。


でも若者たちの、明日が見えない、抜け出せない気分に、幼い頃の思い出や夢を閃かせて哀しみを強調したこと、剣術や緊張感の織り込ませ方など、エンタテインメントとして完成度が高いのではと思わせる。


時代物は定期的に読んでいて「火天の城」「利休にたずねよ」の山本兼一、「王になろうとした男」「巨鯨の海」の伊東潤、「秋月記」「蜩ノ記」の葉室麟などをよくチョイスする。最近ではあさのあつこの「弥勒の月」シリーズにゾクゾクし、木下昌輝「宇喜多の捨て嫁」のクセに唸った。色は違うが朝井まかてや松井今朝子なんかもいいと思う。


お家騒動、時代の雰囲気、剣術、設定、元になったエピソードなど要素は数あると思うし仕上げ方は様々。今回一読するには良かったけれど、上手さが先に立ち、人へのこだわりが薄いようにも感じられた。


直木賞受賞作「妻をめとらば」もあるし、どのような作風なのか、また認識を深めるのが楽しみだ。


谷崎潤一郎「刺青・秘密」


発表は明治末。大谷崎のデビュー作。うむ、なるほど、といった感があった。


「刺青」「少年」「幇間」「秘密」「異端者の悲しみ」「二人の稚児」「母を恋うる記」が収録されている。


「刺青」は明治43年の発表である。若い刺青師の清吉は人々の肌に針を刺す時、客のうめきが激しければ激しいほど不思議に言い難い愉快を覚えていた。清吉の年来の宿願は光輝なる美女の肌に己れの魂を彫り込むこと。ある日、清吉がたまたま見かけてその素足に魅了された少女が、馴染みの芸妓の使いとして清吉のもとを訪れたー。


この短いデビュー作のあらすじは概ね知っていたが、読んでみると確かに妖しい魅力を放っている。どちらかというとサディスティックな面だけでなく、光輝な女に刺青を施すその魔界的な雰囲気と美しさを含んだ独特のムード、娘の変化(へんげ)が放つ艶やかさに呑み込まれる。


次の「少年」もまた、幼い物語ではあるが、マゾヒスティックな感覚に惹かれる子供たちにどこそか妖しさの続きを感じ、ラストもまたSM的な香りが匂い立つ。ちょっと江戸川乱歩的かも。完成度の高い作品だ、とつい思ってしまった。あんまり倒錯的なものは好きじゃないはずだったんだけど思わず。ともかくこの並びには唸ってしまった。


「幇間」「二人の稚児」は、時代の前後と2人の関係はあろうが、最初の印象は芥川龍之介的、だった。「二人の稚児」は王朝もののようで、仏教の色合いが濃い説話風な話である。


昔付き合っていた男女が少々風変わりな再会をする「秘密」はもうひとつ惹かれるものがなし。100ページ近くで最も長い「異端者の悲しみ」は旧制一高に通う学のある主人公が家族との葛藤や友人との不義理で付き合い方を通して自分というものを問いかける。谷崎自ら自叙伝的作品としている。うーんまた毛色が違う破滅的な話。


ラストの「母を恋うる記」はファンタジー。心象風景のような風景の中、どういった方向へ進むんだろう、と思っていると小説的に気持ちよく収まる。ほうっとした気分で読み終えた。


谷崎はまだ慣れないのか読むのに随分と時間がかかった。でも特に最初の2編には新鮮な境地に陥って納得感があった。


武田双雲「『書』を書く愉しみ」


面白かった。書道のライトな歴史から書体、道具、書き方まで。


良寛、日下部鳴鶴、そして空海も熱中したスーパースターだという王羲之の書を見せながら、うまい字とよい字について語っていく。書の世界において価値あるもの、というのも新鮮な知識だったし、やはり美しいと評価されている作品は見たいしでサクッとつかまれてしまった。


そして5つの書体、すなわち篆書、隷書、草書、楷書、行書を説明しながら書の歴史を綴る。言葉は知っているけどどんな書体か厳密に区別できない私には非常に分かりやすい流れだった。そして日本の文字の歴史へと移る。漢字の登用からひらがなの誕生へ。ここも聖徳太子の肉筆、空海の手紙の筆、和様書の創始者とされる小野道風の文字などが眼を惹く。江戸寛永時代の発展と近代まで。


さらに書の道具、紙、筆、墨、硯について、それぞれの歴史を混じえて紹介されている。紀元前1500年には筆が存在し、墨は紀元前3500年に原型があったという。ごく最近まで書きものといえばずっと墨と筆だったわけで、その歴史は長く深い。とても興味深く愉しんで読んだ。


書に対する色々な捉え方はなるほどという部分もあったし、新しいものに触れられた感覚があった。全体的にはかなり初心者向けの優しい本。伝わるようにと心を砕いているのがわかる。


書道の専門店というものに行ってみたくなった。目につく文字に少し注意する方向に意識が向いている。正倉院にあるという現存している最古の筆で聖武天皇の宝物として奉納された「天平筆」が見てみたいな。染まりやすい私。


10月書評の3






「伊勢物語」


昔、男ありけり。昔男は在原業平。有名な、私でも知っている和歌が多く出てきて意外に、めっちゃ面白かった。


読もうと思ったのは川端康成「美しい日本の私」で王朝文化隆盛時の書として繰り返し触れられていたから。「古今和歌集」と前後して成立し歌の被りもある。


昔、男ありけり、で始まる昔男の恋物語。エピソードをいくつも書き連ねているのだが、大きな流れがあるようだ。


鬼一口と呼ばれる第六段、男は相愛の二条の后を盗み出し、荒れはてた蔵に入れて自分は雷雨の中表を守っていた。その間に后は鬼に食われてしまった。実は、追っ手となった后の兄たちに取り返されたのが真相だが、后が露のように消えてしまったのを男は嘆くー。


そして昔男は都にいる気力を失い、東国へ下る。昔男の東下り。都とおそらく后を思い数々の歌を詠む。


これが一つの流れ。


その後、高校で習った歌


筒井つの井筒にかけしまろがたけ

過ぎにけらしな妹見ざるまに


比べこし振り分け髪も肩過ぎぬ

君ならずしてたれかあぐべき


というみずみずしい幼なじみの恋など年齢や立場が様々な男女の恋が描かれる。後半に「伊勢の斎宮」と昔男の物語がまた一つの主題となる。


斎宮と一夜の契りを交わした後の


君や来しわれや行きけむ思ほえず

夢かうつつか寝てか覚めてか


と女が夢かうつつか分からない、と言ってきたのに対し男は、では今夜逢ってはっきりさせよう、と送るが、諸事のため結局逢えずに別れてしまい、切なさが募る。


やがて昔男も老いてきた後段に政争に敗れた惟喬親王や紀有常ら負け組と花見をして詠んだ歌、


世の中にたえて桜のなかりせば

春の心はのどけからまし


また、さらに後には


ちはやぶる 神代もきかず 龍田河

唐紅に水くくるとは 


などの名歌を残し、やがて昔男も死に至る。


基本的に恋の歌物語である。主役に高貴な人や伊勢の斎宮というタブーを含み、駆け落ち、鬼、連作短編性などの要素で読む人に刺激を与えようとしているのが分かる。


また、その間を渡っていく不思議な昔男にも愛嬌や悲哀、女性への優しさが感じられる。そのモテモテさ加減は異常だけどね(笑)。


「筒井筒」の歌となった井筒は奈良の在原神社にあるらしく、ぜひとも行って見てみたくなった。私も物語性に豊潤さを感じ、有名な和歌の物語とその背景を楽しんだ。めっちゃ面白かった。


この秋は在原神社と龍田川を回るのもオツかも。考えてみよう。また古典も読もうっと。


椹野道流

「最後の晩ごはん 旧友と焼きおにぎり」


ご当地もの楽しいライトホラー第6弾らしい。このシリーズは1、2、5、今回6と飛ばし飛ばしに読んじゃってるので3、4の展開にしばしついていけなかったりする。最新巻に追いつくのはいつのことやら(笑)。


スキャンダルで芸能界を追われた五十嵐海里。地元兵庫の芦屋で定食屋を営む夏神留二に拾われ、今は料理の修行を積んでいる。海里と、元は眼鏡で人の姿になれるロイドには霊感があった。海里の兄の親友で刑事、仁木の元に独り暮らしの版画家、西原茜音から家に何かが潜んでいる気配がすると相談が寄せられ、仁木は海里とロイドを連れて山手の奥池に住む茜音の家へ様子を見に行く。


ロイドの霊感で人形を探し当て、その人形の願いを叶えるために海里が奔走する、という流れ。


今回は料理が中心の話ではなかったがこれまでの話の展開に乗った進行で、無理なく明るくすらすらと読めた。焼きおにぎりの簡単レシピは作ってみようかな、という気にさせる。食事の合間に読むとお腹が鳴る。


奥池というのもまた地元民の眼を引く。高級住宅街でなるほど別荘として買ってる家もあるだろうな、という感じだ。阪神、大阪と神戸の間は海と山との間にある平地が狭く、山手へ行くほど高級とされる。


茜音は夢の中である少女と出会う。ちょうど夢での出逢いがキーになるラブストーリー、ベルリン映画祭金熊賞のハンガリー映画「こころと体と」を観たとこだったので、不思議な暗合に胸が踊った。


のほほんと読めるラノベシリーズ。読んでるとそれぞれのキャラが抱える事情を小出し生かしてうまく進行させてるなと思う。


ご当地ものとしてホントに楽しい。展開が気になるしまた読まなきゃね。


川端康成「浅草紅団・浅草祭」


昭和初期の浅草の混沌とした雑多な雰囲気を書き下している。ちょっと破綻ぎみ?


著者は浅草を題材にした小説をものそうと、路地の奥にある長屋を借りようとする。そこで会った美女・弓子は、男に捨てられ気のふれた姉の相手、赤木を探し当てて紅丸という舟に誘い込む。そしてー。(浅草紅団)


上記のストーリーは最も目立つところをシンプルに書いただけで、実際はかなり雑多、取り上げる男女も次々と変わり、ドキュメントタッチで描いている。あくまで著者は傍観者の立場である。


関東大震災の余波まだ見える頃の浅草は様々な老若男女が入り乱れ生活する異空間のような、掃溜のような場所だった。売春、芝居、怪しい見世物小屋、少女を食い物にするジゴロ、女衒のおばさん・・。紅団は不良グループのようなもので、秘密の札があり、赤い札は危険を報らせる信号、青い札はカモを引っ掛けたサイン、というのもある。


色々な底辺の者たちの表情が断片的に語られる。会話も、正直なんのことを言っているのか判別しにくく、読むのに時間がかかった。


「浅草紅団」に続く「浅草祭」では6年の月日が流れ、警察は一帯の「浄化」を進めている。昔の風情を引きずりながらもすでに大きく変わりつつある浅草。


川端康成はこの中で「紅団」は下らない作品だったと自ら断罪している。とか言いながら、「浅草祭」でも人間模様をだらだらと書いていて、変わらずに結構楽しんでるんじゃないか、と思わせる。一高、東京帝大時に通っただけあって強い愛着をうかがわせる。


川端康成は昭和2年に「伊豆の踊子」が刊行され、この作品は昭和5年刊行。踊り子の完成度を考えると、断片な性格を持つためか下らない、という気持ちも分かるかも。実験的作品だったのではとも思える。新進作家がドキュメントタッチで浅草をレポートする「紅団」は世間の評判を呼んだようである。


私にとっては、また新たな一面というか、さらさらと読んできたこれまでの作品に比べてやはり違和感はあったかな。精度を高めようとすれば出来たような気もするし。やはり多少老成した時期のほうが好きかも。


10月書評の3


「伊勢物語」


昔、男ありけり。昔男は在原業平。有名な、私でも知っている和歌が多く出てきて意外に、めっちゃ面白かった。


読もうと思ったのは川端康成「美しい日本の私」で王朝文化隆盛時の書として繰り返し触れられていたから。「古今和歌集」と前後して成立し歌の被りもある。


昔、男ありけり、で始まる昔男の恋物語。エピソードをいくつも書き連ねているのだが、大きな流れがあるようだ。


鬼一口と呼ばれる第六段、男は相愛の二条の后を盗み出し、荒れはてた蔵に入れて自分は雷雨の中表を守っていた。その間に后は鬼に食われてしまった。実は、追っ手となった后の兄たちに取り返されたのが真相だが、后が露のように消えてしまったのを男は嘆くー。


そして昔男は都にいる気力を失い、東国へ下る。昔男の東下り。都とおそらく后を思い数々の歌を詠む。


これが一つの流れ。


その後、高校で習った歌


筒井つの井筒にかけしまろがたけ

過ぎにけらしな妹見ざるまに


比べこし振り分け髪も肩過ぎぬ

君ならずしてたれかあぐべき


というみずみずしい幼なじみの恋など年齢や立場が様々な男女の恋が描かれる。後半に「伊勢の斎宮」と昔男の物語がまた一つの主題となる。


斎宮と一夜の契りを交わした後の


君や来しわれや行きけむ思ほえず

夢かうつつか寝てか覚めてか


と女が夢かうつつか分からない、と言ってきたのに対し男は、では今夜逢ってはっきりさせよう、と送るが、諸事のため結局逢えずに別れてしまい、切なさが募る。


やがて昔男も老いてきた後段に政争に敗れた惟喬親王や紀有常ら負け組と花見をして詠んだ歌、


世の中にたえて桜のなかりせば

春の心はのどけからまし


また、さらに後には


ちはやぶる 神代もきかず 龍田河

唐紅に水くくるとは 


などの名歌を残し、やがて昔男も死に至る。


基本的に恋の歌物語である。主役に高貴な人や伊勢の斎宮というタブーを含み、駆け落ち、鬼、連作短編性などの要素で読む人に刺激を与えようとしているのが分かる。


また、その間を渡っていく不思議な昔男にも愛嬌や悲哀、女性への優しさが感じられる。そのモテモテさ加減は異常だけどね(笑)。


「筒井筒」の歌となった井筒は奈良の在原神社にあるらしく、ぜひとも行って見てみたくなった。私も物語性に豊潤さを感じ、有名な和歌の物語とその背景を楽しんだ。めっちゃ面白かった。


この秋は在原神社と龍田川を回るのもオツかも。考えてみよう。また古典も読もうっと。


椹野道流

「最後の晩ごはん 旧友と焼きおにぎり」


ご当地もの楽しいライトホラー第6弾らしい。このシリーズは1、2、5、今回6と飛ばし飛ばしに読んじゃってるので3、4の展開にしばしついていけなかったりする。最新巻に追いつくのはいつのことやら(笑)。


スキャンダルで芸能界を追われた五十嵐海里。地元兵庫の芦屋で定食屋を営む夏神留二に拾われ、今は料理の修行を積んでいる。海里と、元は眼鏡で人の姿になれるロイドには霊感があった。海里の兄の親友で刑事、仁木の元に独り暮らしの版画家、西原茜音から家に何かが潜んでいる気配がすると相談が寄せられ、仁木は海里とロイドを連れて山手の奥池に住む茜音の家へ様子を見に行く。


ロイドの霊感で人形を探し当て、その人形の願いを叶えるために海里が奔走する、という流れ。


今回は料理が中心の話ではなかったがこれまでの話の展開に乗った進行で、無理なく明るくすらすらと読めた。焼きおにぎりの簡単レシピは作ってみようかな、という気にさせる。食事の合間に読むとお腹が鳴る。


奥池というのもまた地元民の眼を引く。高級住宅街でなるほど別荘として買ってる家もあるだろうな、という感じだ。阪神、大阪と神戸の間は海と山との間にある平地が狭く、山手へ行くほど高級とされる。


茜音は夢の中である少女と出会う。ちょうど夢での出逢いがキーになるラブストーリー、ベルリン映画祭金熊賞のハンガリー映画「こころと体と」を観たとこだったので、不思議な暗合に胸が踊った。


のほほんと読めるラノベシリーズ。読んでるとそれぞれのキャラが抱える事情を小出し生かしてうまく進行させてるなと思う。


ご当地ものとしてホントに楽しい。展開が気になるしまた読まなきゃね。


川端康成「浅草紅団・浅草祭」


昭和初期の浅草の混沌とした雑多な雰囲気を書き下している。ちょっと破綻ぎみ?


著者は浅草を題材にした小説をものそうと、路地の奥にある長屋を借りようとする。そこで会った美女・弓子は、男に捨てられ気のふれた姉の相手、赤木を探し当てて紅丸という舟に誘い込む。そしてー。(浅草紅団)


上記のストーリーは最も目立つところをシンプルに書いただけで、実際はかなり雑多、取り上げる男女も次々と変わり、ドキュメントタッチで描いている。あくまで著者は傍観者の立場である。


関東大震災の余波まだ見える頃の浅草は様々な老若男女が入り乱れ生活する異空間のような、掃溜のような場所だった。売春、芝居、怪しい見世物小屋、少女を食い物にするジゴロ、女衒のおばさん・・。紅団は不良グループのようなもので、秘密の札があり、赤い札は危険を報らせる信号、青い札はカモを引っ掛けたサイン、というのもある。


色々な底辺の者たちの表情が断片的に語られる。会話も、正直なんのことを言っているのか判別しにくく、読むのに時間がかかった。


「浅草紅団」に続く「浅草祭」では6年の月日が流れ、警察は一帯の「浄化」を進めている。昔の風情を引きずりながらもすでに大きく変わりつつある浅草。


川端康成はこの中で「紅団」は下らない作品だったと自ら断罪している。とか言いながら、「浅草祭」でも人間模様をだらだらと書いていて、変わらずに結構楽しんでるんじゃないか、と思わせる。一高、東京帝大時に通っただけあって強い愛着をうかがわせる。


川端康成は昭和2年に「伊豆の踊子」が刊行され、この作品は昭和5年刊行。踊り子の完成度を考えると、断片な性格を持つためか下らない、という気持ちも分かるかも。実験的作品だったのではとも思える。新進作家がドキュメントタッチで浅草をレポートする「紅団」は世間の評判を呼んだようである。


私にとっては、また新たな一面というか、さらさらと読んできたこれまでの作品に比べてやはり違和感はあったかな。精度を高めようとすれば出来たような気もするし。やはり多少老成した時期のほうが好きかも。






10月書評の5

10月書評の4

10月書評の3

10月書評の2





佐藤泰志「そこのみにて光り輝く」


別作品が映画化されてて、興味を持った。若さと、ナマの生。


函館出身の作家(故人)が1989年に描いた三島由紀夫賞候補作。北の港町で育ち、労使闘争の激しい造船会社を辞職した29歳の達夫は、パチンコ屋で知り合った拓児の家に誘われる。バラックの家には、拓児の姉の千夏と両親が住んでいた。帰りに、千夏が達夫を追いかけて来たー。


達夫の境遇と時代をていねいに描き、拓児の家の生々しく強烈な情況を読者にぶつけてくる。文脈から函館に近い北海道の街が舞台と思われ、夜景の表現が印象的だ。すでに嫁いで青森にいる妹との距離感を海峡になぞらえていて特有の情緒、寂寞感を出している。


セックス、喧嘩、祭りなど人の営みを要素に組み入れ、青春終了期の男たちの姿をその手ざわりとともに鮮やかに描き出していると思う。まあやはりどこかひと昔風だけれど。


第2部では達夫と千夏は結婚しはや娘が産まれている。そこへ持ち込まれる魅力的な提案と暗い影ー。まあ起きるだろうな、ということが起こってしまう。


直上で人懐こく、憎めない拓児、無口で思慮深いが突っ走る部分もある達夫、そして大人だがどこかに鬱屈を抱えた千夏と人物の設定がしっかりしている。


著者の芥川賞候補作「きみの鳥はうたえる」か映画化され、いま上映されていて興味を持った。映画はスケジュールの都合で観に行けそうにないけれど、なんかテイストは分かったような気もする?次は「きみの鳥」を読んでみたいな。


細々と考え抜かれているようにみえるし、ナマの姿の人間臭さも良い方向で受け取った。ただ面白いが、揺さぶるものは足りなかったかも、だな。


川端康成「みずうみ」


倫理観なぞどこへやら。太宰治か、という性格の主人公はストーカー。


34歳の桃井銀平は軽井沢で女の後をつけ、大金の入ったハンドバッグを投げつけられる。銀平がバッグを投げた女の事を考えるうちに、教職を追われる原因となった女生徒・久子との関係を思い出すー。


久子と銀平の断片的な成り行きがあり、バッグを投げつけた女、老人に囲われている宮子のストーリーがある。そして銀平の関心は、宮子の弟である啓助の親友・水野の恋人の少女・町枝に移り、またストーカーをする。


久子に口止めするだけでなくて久子がなんでも話す親友恩田信子にも告発しないよう頼み、しまいに信子をぞんざいに扱い、荒っぽく遠ざける桃井くん。町枝と逢引していた水野に「お楽しみですな。」と話しかけ、しまいに土手下に突き落とされる銀平氏。最低である。恩田にも思惑があって久子に近づいているらしくちとダークな面も見えるが、それにしても倫理観無視、カッコ悪さはどこか太宰治の描く男に似ている。


銀平の心象には、父が亡くなった場所、みずうみのある母の郷里での出来事と、憧れていたいとこのやよいと過ごした経験が強くある。ちょっと内面に狂気もあるのか自分の中の少女美、女性美に惹きつけられる本能に忠実なのか。


解説によれば、この作品は戦後の名作と言われる「千羽鶴」「山の音」の後に書かれたもので、川端の支持者までが困惑し嫌悪したという。まあそうかも。「山の音」なんか完成度高いし。


でも私はバリエーションの一つとして受け取った。変化球と聞かされていたし。倒錯的ではあるが美しさを追求している姿勢は変わっておらず川端らしさが見える。クライマックスの蛍のシーンなんかも彼らしい。


気に入った表現があった。


「この世で最も美しい山はみどりなす高山ではない。火山岩と火山灰とで荒れた高山だ。朝夕の太陽に染まってどのような色にも見える。桃色でもあれば紫でもある。」


九州の学生の時、阿蘇や高千穂、霧島あたりのドライブ旅行へよく行ったが、この色の表現は言い得て妙だな、と思った。


川端康成「美しい日本の私」


川端康成文学館で購入した本。表題作はノーベル文学賞受賞の際の現地での記念講演。


さまざまな随筆や新聞に寄せた短文などを収録してある。「美へのまなざし」「戦争を経て」「日本文化を思う」というタイトルで大きく3部に分けられていて、テーマに沿った文章を集めてある。執筆時期も、昭和の始めから昭和40年代まで幅がある。


「美しい日本の私」では冒頭13世紀の道元の歌、


春は花  夏ほととぎす 秋は月

冬雪冴えて冷しかりけり


を始めとし、いくつかの歌を例に取って四季折々の自然の美を賞でる心を説く。

さらに、良寛、芥川龍之介の遺書、一休、華道、日本庭園、焼きもの、さらに平安の王朝文学から古今集まで、様々な例を取りながら、日本古来の美について自ら感じるところを訥々と述べている。


「美しい日本の私」はいわば世界へ向けた日本の美の説明で、流れるような文章に私も啓発されたが、外国の方はどう受け取ったのかな。

この講演に関しては巻末に英訳付きだ。


この本の中で、特に日本の美について語られる中で目立つのは11世紀に成立した紫式部の「源氏物語」が今に至るまで日本最高の小説である、と繰り返し書いていること。その憧憬は強いものがある。さらに、物語文学は「源氏」に高まってそれで極まり、軍記文学は「平家物語」、浮世草子は井原西鶴、俳諧は松尾芭蕉、水墨画は雪舟が極まり、だとのこと。


そして中国の文化を受け入れこなして平安王朝の美を生み出した日本人は明治百年で西洋文化を受け入れ、王朝に比べられるような美、文化を果たして世界に向けて生み出すのか、そこへの期待感を表している。


全体に多くの古今の多くの芸術人が取り上げられていて、考え方もきっぱりとし、豊潤な文化論だと思う。終盤の「枕草子」あてなるものの段から


水晶の数珠。藤の花。梅の花に雪の降りたる。いみじううつくしき稚児のいちご食ひたる


に焦点をあて追求していく編は楽しかった。


川端康成の作品を読むとき、技巧と描写、物語の成り行きには、月が放つ透き通った銀の光のようなものをいつも感じている。その元をなす考え方に触れたのは今回新鮮だった。クセがあるな、と思わなかったわけではないが、日本の美を語る文章もまたやはり美しい。


私も一時期は日本の文豪と言われる人達が書くものは辛気臭い感じがして読まず、暗い雰囲気が嫌いで日本映画を観ず、日本の美術にも興味がなく過ごしていた。新しい何かを求めて海外ミステリーを読み、ヨーロッパ映画を観に出かけ、印象派とピカソが好きだった。


もちろん、実は日本を見つめることが大事だ、とは現代でもいろんな面で説かれている。だからとかあまり深くかんがえているわけでもないが、とかく今は本を読む中で、近代の日本小説に心惹かれている。川端康成はその中でもストンと落ちる。不思議なものだ。惹きつけるものを彼の作品は宿している。


ピアニストの中村紘子氏が、ピアニストは知恵熱のように一度はホロヴィッツに憧れる、と書いてた・・と記憶してるが、私もちょっとオン・ザ・川端症候群なのかな。


森見登美彦「きつねのはなし」


ふうむ・・どう受け取るか迷う。


京都を舞台にしたホラーもので、意図的に見せないことてよけいに興味を湧き立たせるのか消化不良を感じてしまうのか。


大学三回生の私は京都・一乗寺にある古道具屋、芳蓮堂でアルバイトをする。私は妙齢の女店主ナツメさんに天城氏という不気味な得意客への使いを私に頼まれ、鷺森神社近くの天城邸へ通うようになるー。

(きつねのはなし)


一乗寺はこないだ有名なセレクトブックショップを訪ね叡山電鉄に乗って行ってきたし、少しずつ勉強もしてるしで関西在住京都シロートの私も多少雰囲気が分かるようになってきた。たしかに妖しのたぐいが似合う街である。


天城氏とナツメさんの両方の妖しさ、また次の「果実の中の龍」のちょっと狂気を含んだような、綾辻行人のホラーのテイストにもどこか似た妖しさ、「魔」の人間の底に潜む暴走する感情のような魅入られ方、最後の「水神」の徹底して水に特化した怖さ。


それらを狐の面、祭り、根付け、不気味で得体の知れない獣などを共通の、しかし薄い接点として演出している。夜の闇も上手に使っている。


だいぶ惹きつけられて読んだし、技巧的には上手だと思う。得体の知れない何らかのものの怖さをよく出している。巷の評判も良いと思う。しかし私は受け取り方に迷ってしまった部分があった。


怖いイメージを植え付けるのは成功している。しかし「きつねのはなし」は説明がなさ過ぎで消化不良のきらいがあるかも。妖しものでは、書いたら逆に強引な筋立てとなりやすく、また書かない部分が多い方が想像力や感受性を刺激して良いのかも知れない。ただ書かなさすぎは読み手に戸惑いを与えるし、都合の良さも覗かせる。ちょっと私は今回その度合いにアンバランスさを感じてしまった。


まあその境界は難しいと思うし、実際わけわからない怖さも味わっている気がするし、この作品はこのテイストで行く、読者はどこかにそのヒントを探して欲しい、という宣言を表題作でしているようにも見えるのだが。


またラストの「水神」は、短編でここまで家族の系譜を作り込む必要があるだろうかと中盤に少々中だるみ感を覚えた。


誤解のないように言えば、この作品で私は楽しんだ。成功していると思う。でも上記のようなことを考えてしまったのも事実、ってとこかな。


10月書評の1





10月分アップするのを忘れてて今になった。あれあれ。

内田百閒「第ニ阿房列車」


内田百閒、稀代のつむじ曲がりの文章。それぞれ読みどころをうまく出している。最後の「雷九州阿房列車」が面白かった。


先に出された「阿房列車」の続編。昭和28年、百間と相棒の「ヒマラヤ山系君」との列車旅。「雪中新潟阿房列車」「雪解横手阿房列車」「春光山陽特別阿房列車」「雷九州阿房列車」という4つの旅が収録されている。


山陽は招待されての乗車だが、他は思い立ったら、の旅。横手と熊本の八代は百間のお気に入りのようだ。基本的には列車に乗っての道中や風景が楽しみで、観光は好きでないようだ。


ちょっとはすに構えているからかえって押し付けがましくなく、どこかコミカルな風情がずっと続く。それぞれがちょうど読みやすい長さにまとまっている。


全編に当時の百閒の知名度の高さが伺える。相棒のヒマラヤ山系くんは国鉄の職員で、宿を手配したり、切符を手配するのに先に内田百閒先生が行くと話しているようで、車中、宿でひっきりなしに新聞や放送の記者がインタビューに来る。中には「阿房列車」の取材、というのを了解してくる記者もいるから、著作も売れてたのだろう。質問への素っ気なさすぎな態度がまたつむじ曲がりさ加減を表していて面白い。


自分も回ったことがあるから、「雷九州」編が興味深かった。災害となるほどの豪雨の中の旅。熊本、八代、そして熊本から豊肥線に乗り九州中央部を通って大分へ。大分から東海岸沿いに小倉まで北上する日豊本線で帰路に就く。楽しみにしていた車窓からの阿蘇山も雨景色。しかも豊肥線も日豊線も百閒たちが通った後不通になるのだからウソみたいなラッキー旅。


豊肥線の山中のローカル具合や大分高崎山の話、おそらくは別府の丘の上の温泉宿のくだりもどこか懐かしい。


また、前後と章が分かれ長い雷九州編は、豊後竹田で荒城の月に触れるなど旅情を漂わせ、文芸的でちょっと心に響く。ラストに来てこの雰囲気。上手い書き方だと思った。


「続・森崎書店の日々」で出てきて探してみた。古本屋で「阿房列車」を見つけた時「分厚っ!」と腰が引けて薄い「第二」で味見をしようとこちらを購入。まあこれで様子が分かったからそのうちトライしようかな。


酒も弁当も美味そう。東京からだから今では考えられないくらい長い乗車時間のはずだけど、とても楽しそうだ。寝台車乗りに行きたくなる。


「私の漱石と龍之介」を読んだ時からなんとなく感じてはいたけど、内田百閒って、ボヘミアン的生活のだらくささに加え文調はつむじ曲がり。こういう書き方だとたまに出る旅情やおかしさがより強まる感じがする。


面白いものだ。


村上春樹「東京奇譚集」


ん、面白かったと思う。ラストの短編は伊坂っぽかった?


ピアノ調律師、41歳でゲイの主人公は、いつも火曜日の午前、読書のために訪れるショッピングモールのカフェで、偶然同じ本、ディッケンズ「荒涼館」を読んでいた人妻と知り合うー。(偶然の旅人)


「偶然の旅人」「ハナレイ・ベイ」「どこであれそれが見つかりそうな場所で」「日々移動する腎臓のかたちをした石」「品川猿」が収録されている。どれも40ページちょっとで読みやすい。


ハルキお得意の「喪失」がいかにも的に入っている。そもそもジャズの音楽や読む本、会話の言葉など独特の小粋な雰囲気を創り出す著者に、不思議な話の短編集。どういった効果を産むのか。


「偶然の旅人」は主人公がゲイであることが主軸。彼が喪失するのは姉。嘘でしょまた出来過ぎ、都合良すぎ、と思う前に、話に心が持っていかれ、「しっかり抱きしめてもらいたかった」というセリフが胸を打つ。


「ハナレイ・ベイ」は19歳の息子を喪った母、サチが主人公。息子はハワイでサーフィン中にサメに襲われた。夫はすでに亡く、少しクールなサチの絶対的な喪失感、孤独感がしみる。


タイトルの長い2つはどれかというと平和な話で、あまり害がなく訴えかけるものはないがそこそこ面白い。


ラストの「品川猿」。突然自分の名前を忘れてしまうという症状が出たみずきは区のカウンセラーに通う。そこで女子校の寮での不思議な出来事を思い出す。この編は仕掛けも面白く、オチはやや強引だが上手に落とす。なんか伊坂のような展開だな、と思ってしまった。


私の読者の師匠は短編は「余韻」だと仰られた。私は多分に誤解を招きそうだが「色気」も正解の一つだと思う。ストーリーとしての色気や艶、構成の妙といった要素が見える短編小説は内容に深く頷けなくともその面白さで心に残る。今回特に最初の2つは内容に惹かれた。残りの3つはちょっとした色気に楽しませてもらった。軽く読めるハルキ、旅のお供に最適、といった感じかな。


芥川龍之介「奉教人の死」


「南蛮もの」「切支丹もの」を集めた短編集。興味深いが、読みにくかった。


太宰治には「駈込み訴え」という作品があるが、芥川はまた彼らしい角度からキリスト教ものを創っているな、と思った。多くは江戸時代におけるキリシタン信仰をベースにした話。切り口を様々にとり、設定に工夫を凝らしている。


「煙草と悪魔」はお伽話のようなテイストの悪魔と牛商人との賭けの話。鬼と大工が、短い期間に橋をかけられるかどうかで目玉や命を賭ける「大工と鬼六」を彷彿とさせる。なかなか微笑ましい。悪魔は他の短編でも触れられるが、芥川に悪魔って、黒くて似合いすぎである。


「さまよえる猶太人」は聖書、世界史上の話だなと思い、表題作「奉教人の死」は長崎の民間のキリシタン信仰の様子を描写していて興味深い。ただ、仕掛けはあるが必然性があるかと言われると、王朝もののみたいに「印象」「効果」のみを狙ったかにも思えた。


「るしへる」は題材は興味があるが、芥川に時々ある、古文そのものの文体ですらすら読めずもひとつ興醒めだった。


「きりしとほろ上人伝」はシリアが舞台の寓話、「黒衣聖母」は短くブラックな幕切れの話。


「神神の微笑」では日本の神の中でのキリスト教、というものに一種疑問を投げかけている。神話が直接的だが、角度を変えているのが興味を惹く。

「おしの」は武家の誇りを持った現実的な母と神父の噛み合わない考え方を示している。現実にもあっただろうな、という歴史に出てこないようなミクロな話だと思った。

また「おぎん」は隠れ切支丹が信仰を棄てる時が主題である。


「報恩記」は、破産しかけた裕福な商人、大泥棒、商人の極道息子の話。読み物としては面白い。


こう一歩離れて眺めてみると、確かに興味深い素材に対して料理の仕方もいろいろ考えて技巧や工夫を凝らしているのが分かる。素材、角度、書き方、印象・効果だけを狙った筋立てとそういう色は芥川だな、と思う。ただまあ「羅生門」ほどの煌きはないかな。


古文ことばはやはり読みにくい。またこの版は、文字が異常に小さくて、ホント時間がかかった。


ジョルジュ・シムノン「或る男の首」


メグレ警視、探偵部長もの。今回はミステリーとか警察小説に近いかな。


メグレ警視ものは1929年から72年まで書かれているらしく、初期1932年の作品。本はまた古本屋で見つけた1963年刷りの堀口大学訳。55年前。元のカバーはもはやなく、ビニールと紙できれいに作られた手製のカバーに好感を持った。


サン・クルーの富豪の屋敷で年配の未亡人と同伴婦が刺殺された。現場に残った足跡や指紋などから花屋の配達人ウルタンが犯人として逮捕され、裁判で死刑が確定する。しかし違和感を覚えたメグレはウルタンが誰かと接触すると踏み、刑務所からわざと脱獄させるー。


テレビやミステリ小説であるあるがけっこう。わざと逃亡させる、警察への挑戦的な展開、粘り強い捜査で逆転・・。


途中で出てきた主役級の赤毛の男に、メグレは振り回される。読んでいる方も、間違いなく怪しいけど、と思いつつ考える。トリックもちょっと気になる。


次々と不思議な出来事が起き飽きさせない。しかしいつまでたっても分からない部分も多い。今回不可解な事実は作中で整理されていて、それに基づいて考えることができた。「謎」が面白い作品だ。


ラストの、疑問を一気に解決する説明のシーンでは、ああ、現代のミステリー作品みたいだな、と思った。インターネットはないがネタもそう。


前回読んだ1950年作の「モンマルトルのメグレ」は都会的で心理的効果の面が大きいと感じたが、今回は探偵モノ。堀口大学の訳はちょっと首をひねるところもあったが、全体的には粗く、細かい描写は神経が行き届き張り詰めているという印象だった。


まだまだメグレ警視もの、読みたいな。