2017年11月29日水曜日

やっちゃばる

新幹線に乗るときは、りんごジュースなどを買う。コーヒーはすでに飲んでいる場合が多いからだ。あまり詰まったスケジュールを取りたくない私は、今回も30分前には着いて喫煙可の喫茶店でコーヒーを飲んでから乗った。喫煙とコーヒーの刺激が残る身体にりんごジュースは気持ちいい。曇っていたようなこで諦めていた富士山が意外にくっきり見えた。壮麗だった。

まあ、印象変わったわねえ!

先週京都であった同窓会で、久しぶりに話す女子に言われた言葉だ。変わったね、と言われることは同窓会に行き始めてから初めてだ。そんなことを思い出しつつ、東京の代々木上原のピザ屋で50になった古い研究者の友人とメシを食う。彼はいつまでも若い。体重は増えたらしいが顔が弛んでないため感じさせない。
髪は白髪もなくふさふさだ。同窓会って、老いてきたときに心のよりどころになるグループらしいねーなどというところで話が合う。彼は高校の同窓会には来ないのだが、別にお気に入りのグループを持ってるらしい。でも京都同窓会の写真は興味深げに見ていた。後からもう1人来て、定年後の話題なんかで盛り上がる。民間企業で研究者をしているふさふさの彼は、大学に入りたくても、だいたい東大出の先生方が地方に降ってくるから、と悲観的だった。子供に科学を教えたい、と言っておられた。

隠れ家的ピザ屋で銀杏やジャガイモの窯焼き、もちろん野菜ピザをいただく。ヨーロッパビール。美味かった。

勝手知ったるというと失礼だが、後から来た独身の友人宅に宿泊。夜コーヒーを盛大にこぼし、洗濯してもらう。下の部屋着は奇跡的に替えを持ってきてたから助かった。この季節は暑くもなく寒過ぎもせずだから泊まりやすい。朝は晴れて暖かく、遠目に富士山の頭が見えた。ほおずきに似ていた、って太宰治を気取ってみたかっただけ(笑)。

朝単独でパンを買いに行って食べる。昼はかいわいで、と言ってたが当ての店が休みだったり満員で難民化。そのへんにあった「やっちゃばる」という食事もできる野菜惣菜屋に入ることに。サラダバーと生姜焼き定食。健康的で美味かった。店の名前は八百屋を昔「やっちゃば」と言ってたことに由来するとか。標準語ですよ、と言われ、東京弁もしくは業界用語ではないんだろか、と思った。

友人と別れ、日比谷公会堂の美しいレンガの時計塔を眺めて仕事。夜帰る。

2週続けての東京で今年の遠出はおしまい。帰りの新幹線ではあまおう味の水を買った。

夜の山の坂道で振り返る。眼下に夜景が広がっている。後ろに何が残っているだろうか。何もない。思い出はあれど、全てがただの過去で、自分にしか分からないささいな出来事がたくさん。

これが人生というものか。50年というものか。

2017年11月20日月曜日

ミョーに京都

同窓会が京都であった。私の高校は福岡。なんで京都かというと・・。

同窓生たちが50になった記念に女子旅秋の京都行きを半年がかりで企画したのである。

また、同窓生の1人が同志社大学を出て、いまは京都出町柳で居酒屋レストランのおかみさんをやっていて、当然のようにそこが会場となった。

さて、私はその日午後地元で歯医者に行ってから阪急で京都行き。四条河原町で降りて、外に出た途端、すごい人出に驚いた。さすがシーズンの京都。ちょっと寒いとはいえ、天気が良くで見晴らしがいい。

橋を渡って京阪へ。宴会までの時間に行きたいところがあった。セレクトブックショップが2つ。出町柳ひとつ手前の神宮丸太町で降りて歩く。同じ鴨川沿いなのに、こちらは行き交う人がかなり少ない。鴨川河川敷にも人はまばら。

町屋風の路地をに最初の本屋はあった。小ぢんまりとした店。もひとつ行くところから独立した人がやっているらしい。棚を余さずじっくりと見る。

姿勢としては、ここでしか買えない希少なもの、また珍しいマニアックめの本があれば買おうかなとも思ったが、美術、映画、漫画家周辺などにテーマ分けされた本にはもひとつ心が惹かれない。柴崎友香の「ビリジアン」という文庫が気になったがほかでも買えるし、と雰囲気を楽しんで帰る。町屋の風情に小粋な店、という感じだった。

京阪に戻り、隣の終点出町柳へ。たぶん初めて叡山電鉄に乗る。入り口と出口が決まっている一両電車。降りる時に車内でカードタッチは新鮮だった。

次は京都では有名らしい?恵文社一乗寺店。しばらく歩いて到着。淡いレンガ色の、ほわりとした広い店だった。折しも日は落ちかけで、暖かそうな光が漏れる。ここも、前の店を拡張したような感じ。文豪の他では見ない作品もあったがスルー。オリジナルの栞をもらって出た。なにも買わないの?と言われそうだが、私はこのセレクトブックショップ巡りにミョーにハイになっていて、雰囲気を楽しめれば十分なのであった。

この辺の街は下町風山手風情のような感じでセンス良さげなショップもあった。

さて、0.5次会やろうと参加の男子たちと1時間以上前に集まるも、出町柳駅周辺には気軽な居酒屋、バーのようなものがない。仕方なくロッテリアでコーヒーだったが狭く限界が来て、会場の店に向かう。

32年ぶりの同窓生おかみとの会話は言い訳から始まった。
どうもー高校の〇〇ですー。
「早いわねえ!」
(ちょっとビビりつつ)すんません。京都シロートのぼくたちは、時間つぶしに失敗してもう来ちゃいました。なにもいらないので、座らせてもらえませんでしょうかー。
「まあどうぞ。上ね。」
すみませんー。手伝えるものはなんでもやりますからー。
「今はないから。」

ということで2階の広い部屋でしばし男寄り集まる。私は、けっこう来るメンバーを知っていた。女子とはいえバスケ部4人もいるし。しかし我が方には3年間男子クラスの者もいて、名前の読み方から、近況で気をつけるべしのとことか確認(笑)。

女子はレンタルの和服姿で大挙到着。その数、関西の女子も入れて24人。男はバラける。お酒も入って来るともうくだけた大人同士会話も弾む。

女子バスケは東京組が多く、なかなか会えない中、ミョーにとても会いたかった。すぐに打ち解けて、近況を報告し合う。それが楽しい。なぜか、いま会いたい、話したい、となっていた。他の人ともひと通り話して、バスケ部で写真も撮っておひらき。楽しかった。

女子たちは泊まり、翌日も観光。我々は大阪方面向けて帰る。関西女子が朝早くから疲れたと(笑)。まあ旅行とは気分が違うわね。
京阪特急とJRで最寄り駅まで。これでもう深夜0時近く。やはり京都は遠い。

でも次は、おかみさんの店に、関西のメンバーで行きたいな。後で聞いたがおかみさん風でボーッとしてたとかで、次はカウンターでゆっくり話が出来たらね。楽しみが増えました。

50というのはやはり節目で、最近の我々は見た目若い部分もあるかと思う。でも、ここからはやはり老いてしまう。だから、いま会いたかったのかもしれない。それに、やはり、関西で、京都で会える機会なんて今後もう1回あるかないかだろう。

なんかほわっとした気分に浸りつつ考えてしまった同窓会でした。

2017年11月13日月曜日

マフラー

オロビアンコ
アクアスキュータム
ポールスミス
ジョンストンズ
ドレイクス
ポロラルフローレン

パリで買ってきたアニエス・ベーのマフラーが行方不明。黒白グレーの3色縦縞なのだが、さすがに17年も使っているので白の部分がだいぶ汚れて、買い替えようかなと思っていた矢先の失踪。

寒くなってききたから、安くていいのないかと探した結果が上のブランド。何はともあれ、早く買わねば。ちゅーかコンビニに売ってる首巻きで持たそうかな。しばらく。いやいや、三宮元町の高架下で探そうかな。。トアウエストあたりでもいいな、などと決まらない。

ここのところ芸術強化期間。バベルの塔展、エルミタージュ展に続き、あべのハルカスでやっている北斎展に行ってきた。実は2週間前に偵察に来て、めっちゃ混んでたのを見て今度は絶対朝イチ!と撤退して今回のチャレンジ。

結果は・・やはり多かった。その、おじいさんおばあさん方は朝に強いので、後から聞いたところでは夕夜が狙い目らしい。

ともかく、10時に着いたのに、チケット買うまで30分、入るのにどれくらいかかる?と売り場で聞いたら1時間くらい、と言われたので、トイレ行ってから覚悟決めて並ぶ。ずっと彩瀬まる「骨を彩る」を読んで待っていた。おかげでこの日1日で読了。

さて中もすごく混んでいた。作品見えない。また北斎は漫画本なんかも書いてるから、腰くらいの高さのケース展示もあったがまるでの状態。しかし並んでるわけではないので、混雑に慣れて来た頃合いには人垣が薄くなったところを狙って前にするすると入り込んでいた。おかげで、いっちゃん有名な

「富嶽三十六景 神奈川沖浪裏」

は目の前で見ることができた。「凱風快晴」もそうだが、海、水、空、山の色と構図がニクいほど上手い。

「雪中寅図」や鳳凰、中華古典の英雄、龍なども目を引いたけども、やはり北斎は風景画というのか、その方がいい気がした。

水を細くまっすぐ区切って色を変えるところなんかは確かに一つの描法で見事。多少遠近を無視した描き方もハマっている。エキゾチックで、中華ではない、日本的。

おじいさんおばあさんと押し合いへしあいして観たけれど、さすが世界のホクサイ、感じるものは大いにあった。絵はがき6枚買って退散。

土曜日。いつも活動的な身体がもひとつダルいのと、あの、変な感じだが、バスに乗ると危険な予感がしたからもう街には出掛けなかった。

先日行き方を聞かれた、ある古文化研究所へ。刀剣の展示をしている。

歩いて15分ほど。少し登って、自宅より一段標高が高い。山の端が近い。

入場料は安く、それなりの展示なのだが、絵はがき1枚プレゼントとのこと。何種類もある中に、琳派の鈴木其一(きいつ)の上品な絵を見つけてラッキーとありがたくいただいた。

刀剣は興味深かった。備前や美濃、相模など産地がいくつかある。備前長船もあった。鎌倉時代までは、刀身が細く、先の尖った部分が小さい。その次の南北朝時代あたりからがっしりした刀身、長い切っ先となったようだ。鍔は芸術的な意匠が好まれたという。ふむふむ。

展示室のとなりに広いサロンがあってテラスもある。広々とした大阪湾の眺望は一見の価値ありだ。当然だが我が家より視界が広い。そしてサロンはふかふかのソファで蔵書が読めるようになっている。私は分厚い西洋美術史、日本美術史にハマってしまった。インスタントコーヒーも無料サービスだ。

個人的には喫煙所がないのが残念だが、面白かった。鈴木其一は嬉しかった。家に帰って昼ごはん食べて島本理生「七緒のために」を読む。いつもの恋愛ではなく女子の友情もの。痛い。救いがない。表現も好きではなく、もひとつ。

翌朝はバスに乗ってお出かけ。ちょっといつもより気をつける。事故に遭わないように。最高気温も最低気温も低いからとライトダウン。下も厚めのシャツを着て行ったら暑かった。

海近くにある芦屋市立美術博物館で歌川広重展を観る。北斎が富嶽三十六景ならこちらは東海道五拾三次という名作がある。ともに印象派の作家らに大きな影響を与えた点は同じ。

今回東海道五拾三次のシリーズ全部の絵を展示してあり、めっちゃ楽しんで観た。小ぢんまりしている美術館だが、静かで、ゆったりと観れる。人もまばらというか、ほとんどいない。なんてもったいない・・。

1枚1枚観ていく。スタートの日本橋、次の品川から神奈川を通って箱根を抜け静岡へ。京都までの長い旅。著名な「蒲原 雪之図」「庄野 白雨」はやはり良い。「白雨」はいきなりにわか雨が降り出して脚を早める人々だけでなく、背景に揺れる竹林、その影などが不穏、不安な様子をよく出している。

五拾三次終わっても、木曽街道六十九次、美人画、江戸名所絵など多作。解説によれば、東海道五拾三次のヒットで、次から次から旅絵の注文が指名で来たらしい。

スケールを出そうとわざと絵の枠をはみ出させた富士、異常に険しい坂道、また毬子のとろろそばなどユーモラスで味のある描写、旅人と現地の農民らの混在など、面白みもけっこうある。

帰りは海の近くの美術館から、山手の阪急芦屋川まで、懐かしい芦屋川沿いを北に向かって歩いた。私は独身の頃8年間芦屋に住み、思い出深い時を過ごした。久しぶりの散歩は、楽しく、天気も良くて気持ちよかった。

ここのところ、美術多い。芸術の秋満喫中。次週半ばからは12月並みに寒くなるというし、まずはしのぐマフラーをどこかで買いたいな。

2017年11月5日日曜日

10月書評の4

写真はバックハウスイリエのクリームパン。並んで買った。シュークリームみたいな中身で、美味しい。

10月は16作品16冊。すでに年間140冊を突破した。我ながら、史上ナンバーワンのペース。よく読んでるなあ。

米澤穂信「満願」

多才な作家の、多彩な短編集。何というか、どんな筆致がフィットするか、は微妙なことだ。

警察学校を出て、緑1交番に配属された川藤。交番長の柳岡は、川藤が警官に向いていないと見抜く。ある、朝からおかしな事が続いた日の夜、女性から、夫が刃物を振り回しているとの通報があり、柳岡、川藤らは出動する。(「夜警」)

上記のほか、温泉宿での推理もの「死人宿」、離婚家庭の話で、イメージが転調する「柘榴」、海外の開発で犯罪に手を染める商社マンの話「万灯」都市伝説を追いかけるライターが事故の多い峠を取材する「関守」そして表題作を収録した短編集である。

それぞれに小気味良い短編なのでさくさくと読み進められる。色合いの違う力作を詰め込んでいる、という点では佳作だろう。ミステリー3部門1位制覇、山本周五郎賞を受賞している。

んー、でも、どこか足りない、何か足りない。「柘榴」「関守」は先が読めてしまった。雰囲気として好きなのは「死人宿」だろうか。

短編集だと余計に、どこまでを読者への想像力に放るか、というのはポイントになると思うが、少しくそこにずれがあるよな気もする。私だけかもしれないが。

森絵都「つきのふね」

こういうのを読むところが女子系なのだが、ラストの疾走感にホロリと泣いてしまう。野間児童文芸賞。

中学生の鳥井さくらは、万引きで捕まった時のことがもとで親友・中園梨利(りり)と口をきかなくなってしまった。店から逃がしてくれた店員、戸川智のアパートに、行き場をなくしたさくらは通いつめ、さくらと梨利、2人の世話を焼こうとする同級生の勝田尚純に見つかる。智は優しかったが、言動におかしなものが見えていたー。

最初は、これまでに比べると少しはみ出した悪や突飛な展開に正直違和感があった。しかしちょっと停滞しながらもそれなりにトントンと読み進み、ラストの疾走感には参ってしまった。閉塞感を一気にふりはらう、強いイメージだ。

最近よく考えるが、小説には多かれ少なかれフィクションや偶然があって、それがストーリーを盛り上げる。このラストはその最たるものではあるが、色合いまで含めてよきフィクショナルな感じを出している、と思う。今回はまた、抑制が効いてないのが良い方に向いているのかな。

森絵都は、「カラフル」「リズム」「宇宙のみなしご」「アーモンド入りチョコレートのワルツ」そして直木賞受賞作品のアダルトな「風に舞い上がるビニールシート」を読んだ。これまでのところ、やはり児童文学のほうに惹かれるものがある。「DIVE!!」や「永遠の出口」、評判のいい「みかづき」は未読。まだまだ楽しめそうだ。

東山彰良「流」

どーんと感じたわけではないが、なにより活き活きと描いている感がすごい。深みもある。こんな小説もあるんだなと感心。満場一致だったという直木賞作品。

台北に住む17歳の葉秋生は、国民党の抗日戦士だった祖父・葉尊麟らとともに暮らしていた。5月、総統の蒋介石が死んだ騒動のどさくさの中、営む布屋に泥棒に入られた葉尊麟は店の夜番に出かけるが、翌日の昼、店を見に行った秋生は祖父の死体を発見するー。

あれこれと詰め込んであって、面白みはあるんだけども物語がどこへ行くか分からない、といった感じを受けつつ読み進めた。

抗日戦争後に起きた、大陸の共産党と国民党の覇権争いや、台湾の外省人と本省人と国情、また秋生の家族の設定や街の描写、ハチャメチャな行動に幽霊エピソード、初恋、軍隊生活などなど、本当に様々な要素がたくさん入っている。戦争やそれにまつわる虐殺、さらに殺人事件などシリアスなテーマを扱うけれどユーモアもたっぷりあり、謎もあり、秋生の人生とともに時間が経過していく。

このエッセンスの渋滞ぶりに、どう捉えていいのかとも思ったが、解説を読んで納得したのは、この作品は熱気にあふれ、街の喧騒や生活音が生で聴こえるかのように活き活きとしたリアル感を漂わせていることだ。私は台湾に行ったことはないが、台湾映画なら観ている。当地のある時代の雰囲気を、読みながら味わっているようだった。それでいなから様々なエピソードのバランスが取れていて、かつ哲学的・文芸的な匂いもする。

感動というよりは、「これまでにない感覚で楽しく読めた」というものだろうか。台湾出身で抗日戦士の祖父にルーツのある作者の自伝的な面もある作品。なるほどなるほど。

高野秀行「謎の独立国家ソマリランド」

「アフリカの角」にあるソマリランド訪問記。国の状況はもちろん、分裂した体制とその底にあるもの、海賊自治体、武力衝突から著者の思い入れにいたるまで、ぎゅーっと詰まった作品。

現在国家と見られているソマリアは、事実上5つの勢力圏で成り立っている。その中で独立を宣言しているソマリランドは、氏族を母体に高度な民主主義統治が行われており、治安も良い。国連が介入したり内戦が絶えない地域だが、ソマリランドというラピュタのような国があったー。

著者は2回に渡りアフリカへ渡航、難民キャンプ、ソマリランド、隣の海賊国家プントランド、南部のソマリア首都モガディショなどを訪問する。外国人には危険度が高く、何人もの兵士を雇わなければならなかったり、万事がカネで荒っぽいソマリ人社会で翻弄されたり、国際テレビ局の面々と友情を育んだりと、波乱万丈な取材行。最後には思い入れたっぷりとなり、この作品を出した後にも何度も再訪するなどハマってしまう。

資料もほとんどない中での訪問であり、見て聞いて、じっくりとソマリというものに向き合っているから貴重で読みごたえがある。まただからといっておカタいわけでは全くなく、全編がユーモアに溢れている。

んーまあ、濃くて長いのでちょっと停滞した部分はあったかな。でも興味深く、楽しく読めた。

10月書評の3

プロ野球のクライマックスシリーズは独特の緊迫感があって面白い。この制度のメリットデメリットについては総括が必要かな。いずれ書いてみよう。

絲山秋子「沖で待つ」

芥川賞の表題作を含む短編集。同年代の会社員の、若いころ。懐かしいな、と思わせる佳作。

住宅設備機器メーカーに女性総合職として就職した及川は、福岡支社への配属に、同期でともに関東人の牧原太・太っちゃんと嘆き合うが、仕事を始めると環境にも慣れ、会社ライフを楽しむようになる。やがて太っちゃんは結婚、お互い関東に転勤となり、久しぶりに再会した時、太っちゃんは、及川に、ある協約をもちかける。(「沖で待つ」)

右も左も分からない新入社員だった若者が仕事を覚え、土地にも慣れて、会社でのプライベートを含めた連帯感のようなものを掴んでいき、やがて若手ではなくなるー、という流れを追ったものだ。男女雇用機会均等法が施行されて数年、まだまだ女性総合職も少ない時代、会社としてもその扱い方が分からないような状況も記してある。著者は私の一つ上にあたる。バブル崩壊直後でまだ余裕があった頃だ。

まさに私はそのころ若手社員だったわけだが、無性に懐かしさをそそる。仕事をなんとかして覚え、職場では集団行動当たり前で色んなものをみなと共有出来たころ。女性総合職の先輩も同期もいて、飲みに行ってしゃべり倒した時間。

物語は「協約」を巡り急展開する。そこはやはりフィクショナルなわけだが、ターニングポイントとなる出来事にも現実を重ねて思いを馳せてしまう。

絲山作品は、デビュー作「イッツ・オンリートーク」「袋小路の男」と読み、どちらかというと軽妙で現実的、エロチックさを含む女性的なところを感じていたので、今回のようなバブル世代メモリーのような、あまり色気のないストレートな語りは意外だった。でも「沖で待つ」は佳作だと、素直に思った。

カズオ・イシグロ「遠い山なみの光」

うむ、しっとりしている。戦後間もない長崎、時代の狭間。カズオ・イシグロの長編デビュー作。王立文学協会賞。

戦後間もない長崎で夫とともに暮らす妊婦の悦子は、空き地の外れの一軒家に娘の由里子と住んでいる佐知子と親しくなり、仕事の口を世話してほしい、と頼まれる。由里子は小学校へ行っておらず、女の人が自分を連れに来る、と不穏なことを口にしていたー。

そろそろあるかな、と思って本屋に行ってみたら、あまりハデではなかったが一角にカズオ・イシグロコーナーが設置されていた。さすが出版社、書店ともに対応が早い。これともう1冊、初期のものを買ってきた。

さて、いくつかの暗合を駆使した物語である。順調に出世しているサラリーマンの夫と暮らし子宝に恵まれる悦子、子供のことも放ったらかし気味で、奔放に生きる、危なっかしい佐知子。その姿を、いまはイギリスに暮らす悦子が振り返る構造だ。

悦子と佐知子の会話は噛み合ってなく、由里子も悦子には打ち解けない。もう一つ。時代のギャップを物語るキーパースンとして、戦前教師をしていた悦子の夫の父がいる。冷静で、かつ誠実だから、そのギャップが余計に際立つ。悦子と佐知子、夫の父と夫、ままならない会話がこの作品のエッセンスだと思う。

ニュースによれば、カズオ・イシグロは日本語の聞き取りはある程度出来るが、ライティング、スピーキングは出来ないという。取材も丹念だと思うし、訳者の手腕もあろうが、日本人が読んでどこかふうむ、と思えるストーリーを描けるのは少しびっくりだった。

会話で進むプロットで、落ち着いている感じだが、向き合うものは見えてきて考えさせられる。この作品で最初の賞を取っているが、イギリスではどう受け止められたのか、と思うな。悦子の夫の父の感じ方は、ちょっと、と思う方面もあるように書かれているけど、それだけではない、と訴えかけているようにも見える。

長崎への郷愁は、好ましく思える。また、ちょっと階級を意識しているような部分はイギリス的か。

かつての実家の近くに広い庭の家があり、大きな落葉松があった。古い実家の2階の窓から、またあぜ道をつたって近づいたところから、天を目指してまっすぐに立っている落葉松を見ていると、その庭の西洋的な雰囲気とあいまって、子ども心にも感じるものがあった。今回の作品は私に、その心象風景を思い出させた。

望月麻衣「京都寺町三条のホームズ5
シャーロッキアンの宴と春の嵐」

天橋立・城崎温泉への旅あり、シャーロッキアンあり、サッカー京都サンガとのコラボあり、宿敵・円生との緊迫感あふれる対決あり。今回もたくさん詰まった巻。

京都寺町三条の骨董品店・蔵のバイトの女子高生真城葵はゲームで城崎温泉の宿泊券を貰い、友人の香織、俳優の梶原秋人、そして蔵のホームズこと家頭清貴とその父という一行で天橋立を見た後城崎へと向かう。城崎の宿には香織の姉で斎王代の美女・佐織がアルバイトをしていた。佐織は清貴に相談があるというー。

今回はシャーロッキアンの集いが描かれていて、とても楽しかった。何回同じことを聴いても面白く感じるのがシャーロッキアン。先に書いたように、話も多く少し分厚い。折り詰めのような巻。ほんのちょっとだがお色気さえあります。今回は特に、ラノベ〜って感じがしたかな。ちょっとホームズのセリフも若いというか幼いし。恋もふんだんに散りばめられて、にぎにぎしい。すらっと読めました。

ジョン・ウィンダム「トリフィド時代」

トリフィ〜ド時代〜♪
トリフィド時代が〜夢なんて〜♪

てな鼻歌を歌いながら、破滅ものの古典SFを読みこむ。2曲とも分かる人はもうトシですな。

地球が緑の大流星群の中を通った。その光を見たものは、翌日、みな盲目になったー。
目のケガで入院していて難を逃れたビルは、混乱のさなか、やはり流星を見なかった女流作家、ジョゼラと出会い、行動をともにする。街では、三本足で歩き、毒の刺毛のある触手のようなもので人を襲う、トリフィドという植物が活気付いていた。

1951年の作で、大変な人気を博したSF。世の殆どの人間が盲目となり、少数の目が見えるものたちは、どう行動するのかー。舞台はイギリスである。さらには、トリフィドとという、うまく管理出来ている時は有用だが、秩序が失われるとやっかい極まりなく危険で、なぜか人のいるところに集まり、知能もあるような、そしてちょっとコミカルな植物が、2つめの主要要素として危機を煽る。

人間たちは、コミュニティと自分たちのルールを作り、武装するものも現れる。まだ食糧やガソリンなどがあるうちはいいが、この先どうなるのか、という後戻りのできない破滅的な状況のなかで人間を描いていくストーリーである。

確かに巧妙で、興味深い。「宇宙戦争」などでもそうだが、こういった危難が襲うものはロードムービーっぽいんだな、と思いながら、読み進んだ。続編読んでみたい気もするが、それを作ったら破滅ものではなくなるかな(笑)。ジョン・ウィンダムは他にも佳作があるらしいので、心に引っ掛けておこうと思ったのでした。

10月書評の2

例年より寒くなるのが早い気がする。まあ暑いよりはいいけれど。動きやすいし。秋は活動の季節よね。

ジュンパ・ラヒリ「停電の夜に」

読むきっかけは・・著者近影だった。アメリカ在住ベンガル系の女性作家が描く、インドとアメリカの間(はざま)。

両親がともにインドの出身で30代のシュクマールとショーバはアメリカのある街に暮らしていた。半年前、シュクマールが出張している時にショーバは突然産気づき流産、以来夫婦の間には微妙な空気が流れていた。当面夜の8時から1時間停電、との通知が届いた夜、ローソクの灯りの中で、ショーバはいままで黙っていたことを告白し合おう、と言い出す。(「停電の夜に」)

アメリカ、そしてインドを舞台にした短編集である。表題作など両親または本人がインドやパキスタンの出身でアメリカに暮らしている者のエピソードと、インドに暮らす、ちょっと変わった境遇の者たちを描く話が混在している。

著者の生い立ちと重なる、アメリカに暮らすインド系の者たちの生活を描くことで1世と2世の意識のギャップ、その境遇などが浮かび上がる。

表題作も佳作だったが、パキスタン内乱を絡ませた「ピルサダさんが食事に来たころ」、インドのインテリ通訳兼運転手がアメリカから来たインド系の夫婦を案内する「病気の通訳」、不倫を描く「セクシー」、インド出身の年配の夫人と小学生の交流もの「セン夫人の家」、インド系の新婚夫婦のいかにもありそうな意識のギャップを取り上げた「神の恵みの家」、さらに著者の父をモデルにした?「三度目で最後の大陸」など興味深い作品が多かった。

著者の親世代はやはりインドへの帰属意識が強く、2世はアイデンティティを感じながら、やはり現代風、アメリカ風な性格へと変わってゆくという流れと素朴な現実には惹かれるものがある。ハッピーエンドかそうでないかも作品それぞれで、プロットも楽しめる。

最近ではケン・リュウがアメリカと台湾の間のアイデンティティを書いているし、日本では「さようなら、オレンジ」の岩城けいが、日本人の若い両親と、オーストラリアで生まれ育った子供のギャップを描いている「Masato」という佳作がある。さらに、故・星野道夫氏は、アラスカのイヌイットがアイデンティティに迷う様をエッセイの中で綴っている。興味深いテーマだ。

ジュンパ・ラヒリは「病気の通訳」がO・ヘンリー賞を受賞したのを皮切りに、この短編集で各賞を受賞、さらには新人作家として極めて異例の、ピューリッツァー賞も射止めてしまった。

ブックオフでなんとなく手に取り、表紙を開くと、著者近影がめっちゃ美人でびっくり。同い年、テーマも面白そうで買ってきた。美貌に目が眩んだのは確かだが(笑)^_^才気あふれる作品、興味深い筆致を楽しめた。

百田尚樹「カエルの楽園」

感想ねえ・・。という読み物。

アマガエルのソクラテスは、住んでいた池に、アマガエルを食べるダルマガエルが住み着いたのを機に、楽園を目指して旅に出る。苦しい旅の末、仲間で唯一生き残ったロベルトと「ナパージュ」という平和なツチガエルの国に辿り着く。ナパージュは「カエルを信じろ、カエルと争うな、争うための力を持つな。」という「三戒」を厳守している国だった。

日本の、主に外交、防衛を直接的に例えて大いに皮肉っている物語である。ナパージュはJAPANをひっくり返したもの、三戒は憲法の前文と9条、ナパージュを守る役の、鷲のスチームボートはアメリカだ。

崖の下にいるウシガエルがじわじわと侵攻してくるが、果たしてナパージュではどんな議論が交わされ、どのような結果になるのかー。

なんかヒステリックであり、正直ひねりもなかった。もちろん他国でも日本でも、政治の状況や社会の雰囲気は小説の題材となったこともあるんじゃないかと思う。今回文芸的に評価しろと言われても・・というのが乏しい感想である。もうちょっと書けるでしょ。

小手鞠るい「素足の季節」

自伝的な?女子高生の青春もの。読み始めと読了の感慨はちょっと違った。渾身の一作だなと。

1971年・岡山。高校生になったカオこと杉本香織は、サボりや喫煙を教えてくれたマミ・間宮優美に、演劇部再創設のメンバーになるよう頼まれ、入部する。演劇部には、女優志望のなっちん、ゴージャスなメグ、キュートなエイミー、病弱だが色気のあるベス、スタイルが良く女王然としたジョーらがいた。チェーホフの「かもめ」を上演することになり、カオは脚本を引き受ける。

演劇部のエネルギッシュな活動の中、恋のさや当て、女子の友情などがあり、それはまた、オリジナルな演目への要素として取り込まれる。ラストは怒涛の展開だ。

1956年岡山生まれの著者にとって、1971年は高校入学の年。はっきりとは書かれていないが、自伝的な部分はあるだろう。

同じく岡山の高校時代を描いた原田マハ「でーれーガールズ」に似ている、とか序盤がややスローだな、などと思い、ちょっとじりじりしたが、劇を組み上げていくところから、上演の怒涛の展開には迫力を感じたし、適度に端折る筆致には味を感じた。高校時代の後のエピソードも含めて渾身、という感慨も持った。女流作家西条ミチルのアドバイスの言葉は、物語に合わせてあるものと分かってはいるけれど、じわっと沁みた。

高校時の、女子の友情とその後は、物語のひとつのモチーフとしてあるようだ。「でーれーガールズ」や、イメージが強いのは台湾の映画「藍色夏恋」。小説でもよく見られると思う。

正直、いい歳をした男性読者からすると、そんなもんなのかー、という域を出ないが、個人的には別に鼻白むものではなく、全体として良い物語を求めて、また読むのである。それなりに面白かった。

太宰治「津軽」

くすくすと微笑ったり、ホロリとしたり。いつのまにか太宰治の小説でこんなリアクションをするようになった。

太宰治が故郷の青森・津軽半島へ里帰りし、半島のあちこちを訪ね歩き、懐かしい友人らをおとなう。また資料から、郷土についてひもといたり、自分を歓待してくれる人を描写したり、歓待される自分の、相変わらずの煮え切らない心情を、ユーモアを交えて書いてみたり、訪れる土地や岩木山の見え方などの表情をさらっと描いて見せたりと変幻自在だ。

津軽と津軽人の事を書くときは、はためにも愛情たっぷりで人間的。しかしその中で、こういう言い方はよくないんじゃないか、とか、歓待に、遠慮の意を示したほうがいいんじゃないか、とかあれこれと考えるところは、けっこう突っ込みどころ満載で、くふっと笑ってしまう。ある意味売りとは言え、しょーもない逡巡ぶりである。また、昔の酒はアルコール度低かったぬんじゃない?というくらいよく酒を飲む。

そしてラストは、さわやかな感動で締めくくられる。個人的には演出も入っていると思うが、それでも鮮やかだ。独特の、訴えかけるものがあって、太宰はうまい、と思う。

これまで「人間失格」「晩年」は暗さしか感じず、「斜陽」でほお、となり、「女生徒」「富嶽百景」「走れメロス」「駆け込み訴へ」でさらりとして彩り豊かな表現や旺盛な創作意欲を感じ取り、「ヴィヨンの妻」「桜桃」では、晩年の暗さと定番のダメ夫、ダメ父ものに味わいを見た。

今回は、ラストにこう持ってきたかー、と感心しきり、また少しその良さが分かったような気もする。

10月書評の1

写真は草野球あがりのビール。10月っていろいろあったなあ。ではレッツスタート!


伊岡瞬「代償」


ムカつく悪(わる)との対決。前半はかわいそう。後段は一転、法廷、捜査もの。


小学6年の奥山圭輔の家では、近くに住む遠縁の浅沼道子、息子の達也とのつきあいがあったが、達也を預かっていた年の暮れ、失火による火事で圭輔の両親が焼死する。圭輔は浅沼家に引き取られたが、そこでは過酷な生活が待ち受けていた。


なんかですな、読んでて、嫌あな気分から逃れられなかった。作者の狙いにハマっているな。


達也という、典型的な悪(ワル)と、それを引き立たせる、大人になってもちょっと弱気な圭輔との対比、道子のキャラククター、また尋常じゃない感の出し方などなどが強烈で、イヤな感じの中で謎を追いかけるミステリーだ。


謎もまた、達也という悪が、そう簡単にヘマをするはずがない、という観点からなので、ちょっと興味が湧く。探偵役の魅力の出し方を抑えているように見えるのも計算だろうか。


これが嫌ミスってものかいな、やだなあ、と思いつつ、けっこうなスピードで読み終わった。ちょっと悔しい(笑)。


山根一眞

「スーパー望遠鏡『アルマ』の創造者たち」


いやあ〜、興奮した。過去最大の国際科学プロジェクト、電波望遠鏡アルマ。チリに行きたくなるなあ。


アルマ(ALMA)とは、欧米などの各国と共同で66台の電波望遠鏡をチリの5000mの高地アタカマ砂漠に展開し、それぞれの観測で得られたデータを集積して、天体の研究・観察をするプロジェクトの総称だ。


日本もお椀型の直径12mアンテナの望遠鏡4台と7mの望遠鏡12台を造り参加している。この巨大な望遠鏡製造には、極小の電波を観測するため、厳しい基準が課せられた。しかも部品はものすごく多い。


巨大なパラボラアンテナの鏡面は厚さ2ミリのアルミ板を貼り合わせるが、板を削るのに求められる精度は凹凸1ミリの200分の1、5ミクロンだった。鏡面ばかりでなくバックパネルや骨組みも、昼夜で40℃もの温度差がある砂漠で、膨張や収縮が極小になるようにしなければならない。


アルマの望遠鏡は三菱電機が主体となったが、これらの鏡面加工やバックパネル等の製造を行ったのは、最高の技術を持つものの決して大きいとはいえない町工場の人々だったりする。


この本では、アルマの電波望遠鏡に携わった人々の試行錯誤や製作の苦労を丹念に追っている。もちろん、ものすごく多くの天文学者たちの、計画段階から30年の足跡と夢の軌跡も記されている。


サブミリ波と呼ばれる1ミリ以下の宇宙電波をキャッチしようというアルマは、視力6000、東京から大阪の1円玉が見えるほどの能力があるそうだ。私は読んだ後、東京にいた時通った国立天文台のHPで、アルマが捉えた、系外惑星が産まれる課程の画像と記事を読んで、久しぶりにワクワクした。次々と成果は上がっている。


私はこの人の「小惑星探査機はやぶさの大冒険」も読んだが、すごいジャーナリストだと思います。ホンマに。


面白かったなあ〜。


望月麻衣「京都寺町三条のホームズ4

                          ミステリアスなお茶会」


今巻は、シリーズの雰囲気に似つかわしくないよな、生臭い事件。京都が生き生きしてるな。


京都寺町三条にある骨董品店のホームズこと家頭清貴とアルバイトの女子高生・真城葵は、作家である清貴の父に頼まれて、ミステリー作家相笠くりすの「朗読会」に参加する。なにやら解決して欲しいことがありそうなのだが・・。朗読会にはくりすの親友という2人の女性と元担当編集者、カメラマンとその助手、私立探偵が来ていたー。


これまでは、血を見ないタイプの問題を解決してきたが、今回はなにやら本格ミステリーっぽい感じである。まあやはりラノベなんだけど。プロットに、アガサ。味のある前半。後半は最近多い豪華屋敷の鑑定対決のようなもの。もちろんホームズの宿敵も登場するが、なんか覇気がない?出演だった。


相変わらず京都シロートの私には目を惹く観光案内がいくつか。


京都へ遊びに来る友人をどこへ連れて行けばいいか、という葵の問いに清貴は、八坂神社、清水寺、祇園と答えるのだが、これって友人がかつて私のために案内してくれたコースそのままだったり。


玉の輿神社と呼ばれる今宮神社、あぶり餅や、吉田山荘など興味をそそられるスポットも登場。楽しく読めた。


ウィリアム・シェイクスピア「オセロー」


いやあ、イアーゴーって悪いやつだなあ〜。


肌の黒いムーア人の軍人オセローは、ヴェニスの純粋な美女デズデモーナと結婚する。トルコ軍がサイプラス島目指して進撃してきたため、オセローはヴェニス公に防御の将に任命され、デズデモーナとともに赴く。オセローに誠実さを認められていた旗手イアーゴーは副官になれなかったことでオセローを逆恨みし、奸計を巡らすー。


いやー、シェイクスピア面白いな〜、イアーゴー悪賢いやつやな〜と思いながら読んでいた。イアーゴーはそのもったいぶり方、悪い仕掛け、口の巧みさなどなかなかの悪役っぷりである。


物語が進むうちに、ちょっと上手く行きすぎ感もあり、オセローがあまりにも直情すぎ、信じすぎという印象も受けた。


解説によれば、1599年に書かれた「ジュリアス・シーザー」の後、シェイクスピアの創作は悲劇の時代に入る。四大悲劇のひとつ「オセロー」もこの時代に書かれた。イタリアのツィンツィオという作家が書いた物語がベースになっている。四大悲劇の他の物語のように、魔女や亡霊が出てこない人間だけの悲劇で超自然的な雰囲気が感じられないこと、家庭悲劇であることなどから、四大悲劇の中でも例外的と見る向きもあるようだ。まあ、確かにトルコ軍との戦闘もないし、メロドラマに徹しているかも。


オセローの肌が黒くムーア人と書かれている。7世紀にアラブ人勢力がアフリカに伸張し征服地の住民をイスラム教に改宗させ混血した。8世紀にはこの混血人種がポルトガルに攻め入った。ヨーロッパ人たちは「回教徒」という意味でこの者たちをムーア人と呼ぶようになったという。「オセロー」では軍功のある頼もしい傭兵の将軍として登場する。ツィンツィオの元の話からそうなっている。歴史を垣間見る思いだ。


まだまだシェイクスピアは作品が多い。また探そうっと。