◼️青木玉「幸田文の箪笥の引き出し」
母・幸田文ときもの。娘・玉による佳作。写真は彩深く、文は胸にしみわたる。働きもののスーパーな母・幸田文の生きるエネルギーとセンスが伝わる佳作。読了後いい気分で、本との出会いは不思議だと考える。
すごくいい。和服についてはまったくの素人だが、川端康成や谷崎潤一郎が丁寧に描写するのを読んで少しは分かるようになってみたいという漠然とした思いがあった。また和のデザインが織り成すものは鮮やかで感性をつつくのでけっこう好き。
街の商業ビルの一角に本棚があり、2冊持ってきたら1冊取っていい、というルールで交換を推奨している。その棚で偶然見つけたこの本に呼ばれた。出会いは不思議だ。すごくいい。いまの悩み、この本の佳さをどう伝えようか。
見出しの通り、きもの、身に付けるものについて、娘の青木玉が母・幸田文の想い出を情趣たっぷりに綴ったエッセイ集。幸田文は幸田露伴の娘で、結婚して玉を設けたが、夫の商売がうまくいかず協議離婚、玉を連れて東京・小石川の父の家に戻った。戦時は老いた父と娘を連れて長野へ疎開、戦後東京へ戻って焼けた家を再建した。自分がすべての中心となって切り回す家族。その人生がこの本のベースとなっている。
冒頭の「赤姫」。玉の結婚の衣装を考える。文の言い分はのっけからてきぱきして、オリジナリティがあって的確。
「(振袖の色は)あんたの好みはピンクだろうが、淡い色はよほど図柄がきっぱりしてないと、ぼやけて駄目だね」
と赤の羽二重を見に行く。五月の光を反射して鮮やかな赤の布を見た瞬間。
「ああいい風合いだ。これにしなさい。もう他のものを考えることは無い、これに白い花を散らそう。下に紅があるから、真白な所も少し紅が透けるところもあって綺麗だよ、きっと」
この考え通りに晴れの着物があつらえられる。その写真が鮮やか。その時に文が自分用に作った紫の着物も、かつて文自身が結婚した時の黒に松、鶴の婚礼衣装の写真もあって目が奪われる。
文才はもちろん、「手まめ小器用、センス抜群の親」、「龍の勢いに蛇は及ばない」と玉が評している幸田文。
「誰が袖」では玉の羽織を黒で作る時に、可愛らしい小花模様を袖先に配することを思いつく。黒の羽織の袖先に、白地に小花模様。愛らしく目を惹く意匠。写真で目でも楽しめる。文は、黒を着るにはまだ若く落ち着いてない、と見て、似合うようなったら外しなさいと言う。
文が好きだった黄八丈、玉に買った鳶八丈の裾回しには花紺という反対色を付けた。大胆なデザインの矢絣、着物一枚帯三本、お七帯、塩瀬の染帯、つづれの帯。文が文筆で認められた初期の親子の思い出と、写真、座談会などが増えて、戦後初めて買った紺地に白と赤の飛び絣が入った着物。まだ生活に余裕はなく、玉には新しい着物一枚買ってやってなかったため、母さん買ってもいいかねえ、と娘に許しを請うたという。文の人生、親子の道のり、忘れがたい会話。
「どうしてもあれを着てお嫁に行きたい」幸田家の家事手伝いの願いに気持ちよく譲った、黒に元気で伸びやかな菜の花の着物、合間に吉野格子、菜の花が入った塩瀬の帯の写真。「すがれの菜の花」には幼くして母に死に別れ、継母と合わず里子に出されそうになった文の話が挿入されている。
で、次の「あじさいの庭」で、庭の濡れた敷石の上で緑に生える雨下駄の小粋さにやられてしまった。また読んだのがしっとりとした雨の日だったんでちょっとしたリア充感を覚えつつ。
文は訪れる人のための貸し傘をも楽しんで用意していたという。コート地で着物を作ってみたりもした。
もうその他にも、魅力的な話ばかり。着物をほどき、洗ってふのりで板に貼って干す「洗い張り」「伸子張り」でのエネルギッシュな文、家で紫の染め物をして、その残り水で白猫を洗い、出来上がったパープル猫を外国人たちが見におしかけたエピソードなど茶目っ気たっぷりの話など盛りだくさん。
芸術院賞の授賞式で昭和天皇に話しかけられたこと、奈良は法輪寺の塔の再建に関わり、工事を見るため法隆寺近くに一時移住したこと、作家として著名になっていく中で、玉は文の身の回りの世話係となっていく。
年老いた母娘は近所住まいだった。昏倒したとき、玉は母の死装束、白の着物を作る。その布にも想い出がにじむ。
全面的に母を立ててはいるが、私的には著者の筆力も相当なものだと思った。覚えておきたいような和語が多く、ついメモしてしまう。はめ込み方も妥当で控えめでチャーミング。
実を言うと、母・幸田文の文章は読んだことがない。先日文学史の本に幸田文は「おとうと」などの小説だけでなくエッセイの名手だ、とあった。今度はお母さんの方の著作を読もうと思う。
いやー、すばらしく気持ちよかった。
◼️「決定版 日中戦争」
大まかな流れを追い、ところどころに感じることがある。強気だった日本。そして最後で、繋がった。
安倍首相と胡錦濤国家主席の合意により始まった日中の歴史の共同研究に参加した学者たちを中心に執筆された本。1928年の張作霖爆殺事件から終戦後の居留民引き揚げまで、史実と当時の事情、史実の流れを追う本。
満州事変で満州国ができ、1937年には北京の盧溝橋で衝突が起きる。この戦闘は局地的なものだったがら偶発的に発生した盧溝橋事件が、その後の日中両国の対応によって拡大した典型的なエスカーレションであった、とする。
これを契機に一撃を加え早期解決をはかろうとした日本、無抵抗だった満州事変の二の舞を演じまいとした蒋介石。詳しい経過は割愛するが、日中戦争は日本軍と蒋介石のスタンスの違いと目まぐるしく変わる情勢がひとつの特徴か、と思った。
上海戦の時、すぐに終わると思っていた日本は蒋介石が自信を持っていた中央直系の精鋭部隊に大苦戦し、多数の犠牲者を強いられる。しかし日本の猛攻でついに制圧、南京に進撃し陥落させる。無差別爆撃も行われたようだ。蒋介石は日本の総攻撃が始まる前に脱出。史上初の首都占拠となった。改めて、近代国家建設のスタートから軍隊を育て、大国ロシアに勝ったという流れの中にいた日本の雰囲気を想像する。
日中の間で解決したかった日本に対して、蒋介石は欧米諸国が介入してくることを望んでいた。対アメリカと違い、中国には「負けていない」という自負もある日本軍、戦争は長大化し、最終的には蒋介石の思惑通りになった、という文脈だと思う。しかし、蒋介石も内戦に敗れてしまう。
壮大なようでもあり、泥沼であり、目まぐるしくどこか理解しにくい。そういうイメージは読んだ後も消えない。欧米が中国に対して抱くエキゾチックで神秘的な憧れに似たようなもの、それと同じように日本人にもなんらかの確固とした感情があったのかも、なんて思ってしまった。
南京事件、日中の宣伝戦にも触れられており興味深かった。
ここからは個人的な事柄である。
私の祖父は電力会社に勤めていた。戦争期、祖父母は生まれたばかりの父を連れて渡支している。私は写真が好きできちんと整理された祖父のアルバムに「渡支」と書かれた文字と家族写真を見た。
内モンゴルに近い所にいて、後で山西省の大同に移って終戦を迎えたらしい。祖父のアルバムには当地に捕らわれ、1年間働かされた、と書いてあった。
この本によれば、満州にいた155万人、中国49万の居留民が一斉に帰国すれば危機的な食糧難や混乱を招くとして、日本政府は現地定住させる方針だったらしい。ただ影響力維持を恐れ、早期の引き揚げを望んだアメリカと、特に高度技術者の残留を望んだ中国の間で見解が分かれた。
そして、特に1章が割いてあるので少々驚いたが、山西省太原で、国民党系の閻錫山は日本人居留民を保護し、技術者の残留を求めた。さらに日本軍の武装解除をせず指揮権まで認めた。多くの兵士たちは日本軍を現地除隊し閻錫山の軍に入り中共軍と戦ったという。太原と大同は離れているが、そんな雰囲気があったということを読んで、心のどこかがホッとして、繋がったような感覚を覚えた。
じいちゃん、ばあちゃんたちの帰国の裏には、政府、アメリカ、国民党の思惑があったわけだ。大変な時代、若い夫婦は幼い子供たちをかかえて駆け抜けた。もしできるなら、話してみたい。