2019年3月16日土曜日

母の死

8年前、東日本大震災が起きた日だった。患っていた母が逝った。

昨年6月に末期ガンが発覚し告知。緩和ケア病院、いわゆるホスピスに通いながら寿命をまっとうするー。予断は許さないが、しばらくは平穏だった。

調子が悪い、と病院に行ったのは年明けて2月。告知した医師は、まさか再び生きて会えるとは、と驚いたという。だが病は確実に進行していた。内視鏡手術の結果、手の施しようがないと分かり、あとひと月もつか、と身内では話していた。

ここまで予想以上に長く持ったから、心のどこかにのんびりした気分と、母の中の超然としたものを信じる気持ちがあったのだろう。3月末には息子を連れてきて、ゴールデンウィークにまた帰ろうと思っていた。

具合が悪い、と土曜に連絡があったが、亡くなった日、月曜の医師との面談ではまだ当面は生きられそうな感触だったという。しかし容体は急に悪化。明日までもたない、という連絡が午後3時50分、呼吸が止まったのが4時10分ー。

新幹線の中では、ざわざわした気持ちで、本も読めなかった。朝、あと数日だということを知ってから動揺してるな、と思っていた。行動の端々が制御できない感じで粗くなっていた。幸い人に気づかれるほど極端なものではなかったが、歯磨きをしていてどこか昂ぶってしまい、つい泡が服に飛び散るほど強めに歯ブラシを動かしていた、といったような具合だった。

明日までもたない、と知ったときは落ち着けと自分に言い聞かせ、各所に出張取りやめの手配をしてから新幹線に乗った。乱れてはいけない、と思いつつ、対面した時にどんな感情が噴き出すかとも考えた。新幹線に乗る前に呼吸が止まったと連絡が来た。

着いて、早かったね、と言われた。母は眠っているとしか思えない顔だった。目を閉じているだけで、すぐに目を覚ましそうな気がした。閉じた唇につやがあった。その晩徹夜で付き添っている時も、呼吸や身じろぎをしたのではないか、と何度か思った。

翌日斎場に運ぶ時、皆で抱えてストレッチャーに乗せた。私は肩と頭部を横から掬い上げる形で持ち上げた。二の腕の上で母の頭が揺れ口が開いた。あっ!起きる!とつい瞬間的に思った。腕に感じた、人間の頭の重さと動きがあまりに普通で、生きているそれと変わりなく、そんなはずがない、という現実が信じられなかった。

病院から斎場まで霊柩車に乗った。早春の陽射しが雲間から零れ、光のカーテンのようでどこか神々しく、背振山系の山並みが美しかった。こんな天気の日で良かったね、と涙にくれる姉に声をかけた。姉は「良かったよね・・」と小さな声で、自分に言い聞かすようにつぶやいた。目に入る、幼い頃からよく見た風景、小学校への通学路やラジオの電波塔など、そのいちいちが鮮やかに懐かしく心を侵食した。

泣くまいと決めていたが、抑えなければならないほどの感情は湧いてこない。告知があってから、いつかこの現実が崩れると、常に心に重いものがのしかかり、独りでいる時、ふとした拍子に涙ぐんだりしていた。そこから解放されてほっとしているのか、とも考えた。

さすがに亡くなった晩から時間も経ち、母の顔にはようやく、命が絶え弔われる人の色が現れてきた。しかし棺に入り死化粧をしても、これまで葬儀で見てきたどの遺体の顔よりも母はきれいで、眠っているようにしか思えなかった。

きれいな斎場で、滞りなく葬儀は終わった。懐かしい幼なじみの友人も来てくれた。彼はもとの実家で自治会の役員をしているらしく、地域やほかの幼なじみの近況を聞いた。関東に住む伯父、また母が育った柳川からいとこたちも駆けつけた。いとこさんとはいえ、彼女らの父親は戦争で亡くなってしまったため、母の父、祖父は子供たち全員を連れて柳川に帰り、13人を育て上げたという。

出棺の際にはみな泣いていた。花と好きなお菓子、果物、セーター、毛糸の帽子。

火葬されるのを待つ間は柳川にかつてあった実家の想い出話に華が咲いた。木造で土間に石臼、火鉢。長い廊下があって、井戸水で沸かしたお風呂。広い2階に蚊帳を吊って寝たこと。母からよく聞いた、柳川のお濠で泳いでいて溺れかけたこと、水害があって家の前を漁船が通ったこと。伯父、いとこさんたちは当時のことを懐かしそうに話していた。

骨を拾い、帰る。もうみんな明るい。兄弟も全員、姉の家族も全員。私も、心置きなく送れたことに満足感があった。

母の親族の方から、母の母、祖母の弟にそっくりだと言われた。きょうしばらくぶりに対面してびっくりしたという。海軍の潜水艦乗りで、戦死した方らしい。父方の顔には2種類あって、目がぱっちり二重のタイプと目が細くエラが張っているタイプがいるが、私は後者の伝統を継いでいると思っていた。しかし、母方の血もきっと混ざっているのだと、確信した。

全て終わって、死んだ夜の病院で、通夜の斎場で泊まり込み、弟たちとは色々な話をした。連絡係となった末弟は、伝え方を悔やんでいた。午前中に危ない、と掴んでいたら死に目に間に合ったのに、と。気にするなと諭した。

緩和ケア病棟に入院してから住んでいた部屋に戻れなかったからと、簡単な祭壇を設けて拝んだ。翌日は小さめの遺影を持って、故郷の柳川に出かけた。お濠の川下り、名産のさげもん、うなぎ。独特の雰囲気と思い入れがある。よく遠足で行ったという三柱神社まで足を延ばした。寒かった。

その夜は親族会議。今できていること、今後のこと。清算の件。みな忌引きで、姉弟たちがこんなに長く一緒にいるのは珍しい。姪っ子の高校の合格発表があり姉はバタバタしていたが、弟たちとは男ばかり、束の間の共同生活。いろんな話をした。

子供の頃から一緒にいて思い出を共有し、母が12年間住んでいた部屋に出入りしていた。私も帰省の折には必ず泊まった。母の死も、この部屋がもうすぐ引き払われることも、信じられないな、と末弟が呟いた。

疲労感があり、終わって安心した気持ちも強い。これも前に進むということ。時の歩みは止まってくれない。

今回は覚悟が出来ていたのが大きかったと思う。母がおらず、電話しても話せない。誕生日に花を贈る相手もいない。人並みとは思っているけれど、私もまだ信じられない。母は旅立った。きれいな想い出と、きれいな死に顔、きれいな葬儀ー。私も新たな一歩を踏み出さなければ。これが人生だ。

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