2019年3月31日日曜日

3月書評の5




写真は柳川・沖の端。小さい範囲だけど外国人旅行者も多かった。

◼️中島敦「李陵・山月記」


実は読んでなかった作品。これからもたくさん出てきそう。


本屋やブックオフに行くと実によく見かけるのだが、読んだことなかった、という中島敦。万城目学が少年のころ影響を受け、書いたのが「悟浄出立」らしい。この本にも「悟浄出世」という作品名が見える。


祖父、2人の伯父が漢学者という一族に生まれた中島敦は、中華古典から題材をとった物語を書いた。解説では芥川龍之介が国文学作品に題材を得たのに対し、という分かりやすい言い方をしている。中島敦は芥川作品の蔵書を多く持っていたという。


収録作品は

「李陵」

「悟浄出世」

「牛人」

「盈虚(えいきょ)」

「名人傳」

「弟子」

「山月記」


武帝の時代、漢の武将李陵は匈奴と乱闘で倒れ、捕虜となってしまう。敵方の侯、単于(ぜんう)は李陵の強さを認め、厚遇を与えた。軍略や騎射で信頼を得た李陵は、激怒した武帝に自分の妻子が殺されたと聞くに及び匈奴に降る。一方、李陵の二十年来の友、蘇武もまた匈奴に囚われていたが、長い間頑なに降伏を拒んでいたー。(李陵)


まずもって、言葉、漢字が難しい。私は小説を読むときに、気になった言葉があれば書き留めておく習慣があるのだが、この本に関しては、最初の方で書くのをやめた。あまりにも漢文味が濃くて分からない言葉が多すぎるから。役職や人名も聞き慣れないので、時々人間関係が分からなくなった。どうしても読むスピードが遅くなったが、途中から、難解だから、エッセンスが浮き上がって見えるような、不思議な感覚に襲われた。


李陵の悩みはいかにも人間的である。私もそうだが、気がつくと随分と遠くまで来ていて、遠きに離れて思う故郷は、複雑な感慨もあれど、特別なものだ。


「悟浄出世」はまるでキングオブクエスチョンの悟浄がさまざまな師からの教えを糧に、三蔵に巡り合ったときのスカンと抜けた感覚が読みどころか。いやー難渋した一作品だった。


「牛人」「盈虚」を経て「名人傳」からは読みやすかった。弓を極めんとする者とその師匠の、どこかで聞いた短い物語。まぶたを閉じないようにする努力、ものをよく見るための修行は5年に及ぶ。自信をつけた弟子の危険な考えを見抜いた師は、さらに上達する道を教えてそらす。


「弟子」は知ってる人には有名なのであろう、孔子の弟子・子路の話。孔子に弟子入りするところからその死まで。師の教えに疑問を抱きつつも、精神的にはべったりともたれかかる、まっすぐな気性の子路の姿を描いている。孔子となると三国志でも読んだし、興味が出てすらすら読める。


そして「山月記」うーん、こんな話とは思わなかった。短い、怪奇譚とも言うべきもの。まあ分かりやすくはある。


先述したように、漢籍に題材を採った芥川、と思えば、刹那的にも見えるエッセンスにも、ちょっと衒学的にも思える文章にも納得がいくような気がする。


私はここのところ、国文学、平たく言えば日本の古典文学、を読んでいるが、古典の文章の中には、中華古典の故事や詩歌の影響が散見され、いつかそちら方面も・・と思っていた。中島敦は私のそんな気分にちょっとした新鮮さをもたらした。


中華古典は重々しさと独特の緊張感とシブさ、さらにはエンタメ的な雰囲気をも醸し出す。勉強になった気分である。


まあ、読む人は少年のころ読んだであろう作品に、まだまだ未読のものは多い。こんなのも一つの本読みの楽しみ方かもね。



◼️松村栄子「僕はかぐや姫」


・・いいですね。少女から女への心象。キレよくむき出しの感性が突きつけられる。エクセレント。


女子高生もの「僕はかぐや姫」が95ページ、女子大生もの「至高聖所(アバトーン)」が105ページ。


千田裕生(ちだひろみ)は進学校の女子高校、新3年生。自分のことを「僕」という。小さい頃からの友人・原田らと文芸部に入っている。似たものどうしの尚子と思いを分かち、白鹿のような狭山穏香(しずか)の外見に恋をし、また男子とも少し付き合ったりする。


・・ダメだ。この物語たちはあらすじを書くのが難しい。「僕はかぐや姫」は女子校でのあるいは画一的な、またちょっと退廃的な学生生活を時にコミカルに描きつつ、友人との関係性の不安定さ、心の拠り所、尽きることのない自分の内面、外界との関わりの煩わしさ、悦びなどを感性のまま文章化している。


「至高聖所」は女子大生となった主人公が受験で知り合った友人との付き合いつつ、よくできた彼氏も持ちつつ、鉱物サークルで趣味関心を満たしつつ、同室の子に悩まされつつ、愉しげに過ごすキャンパスライフの中での葛藤と育ちつつある感性、家族関係で傷のついた心などを表現している。


たまにこういった風味の作品に出逢う。サガン「悲しみよこんにちは」とか、安達千夏「モルヒネ」、宮下奈都「スコーレNo.4」、辻村深月「冷たい校舎の時は止まる」とか。多かれ少なかれ少女、女性の心持ちをアンニュイさ加減を含んだ揺れる自我を表現しているという特徴を持つ作品。そういえばもっとストーリー的ではあったが、先日読んだ「真珠の耳飾りの少女」もそうだった。


「かぐや姫」は学のあるところを見せながらも、その考え方に幼さが漂う。またこの時代にしかない、大人への階段に足をかけたばかりの頼りなさが、暗すぎることなく表されていると思う。いい感じだ。むき出しのものを突きつけられている気分で読み込む。ちょっと設定と心象に考えすぎのようなものも感じた。


「僕」について主人公がいろいろ考えるのは確かだが、私はジェンダーへの疑問の投げかけではないと思う。


この作品は1991年に出版されたデビュー作で、2006年センター試験の問題として出題されたこともあり、絶版となっていてのが多くの読者の支持でこの春復刊となった。


「至高聖所」は1991年の芥川賞作品。主人公が愛する鉱物と、主人公と同室の真穂のエキセントリックな行動と哀しい背景、若者らしいエネルギーの中に、根源的な自我の揺らぎや感性が絡む。異質さと軽さが、嫌いじゃなかった。難しすぎない、でも芥川賞らしい一篇。


これも作品のタイプというものだが、読者をおいてきぼりにするような感もいい方に傾いたと言えるだろう。


なんか満足。表紙や扉絵もいいですね。


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