2019年3月31日日曜日

3月書評の6




写真は柳川の三柱神社。

3月は書評ページが6にもなったが、読んだのは13作品14冊。1ヶ月平均13冊で年間150冊になるのでそれくらいが目標かな。全体的にもう少しだけペースアップ。

3月最後の土日はひたすらハルキを読んでいた。土曜はそこそこ気温は高かったが風が吹くと寒い。日曜は寒の戻り。風が冷たく、ネックウォーマー、手袋がないと寒い。月火水と気温が上がらないという。やれやれ新年度だっちゅうのに、春物スーツどころか、ダウンが手放せない。

桜、関東は満開だけどこちらはまだまだ。五分にも行ってないんじゃないかな。

でも寒いとホッとする。冬は着ればあたたかい。家や食べ物の暖かさが身にしみる。なにより大雨も台風もなくて虫もわかず食べ物も悪くならず雪がきれいで静か。汗もかかないし。なんつったって冬が好き。

もうGWには暑くなるからね。やだやだ。

◼️村上春樹

「騎士団長殺し 第1部 顕れるイデア編」


ちょいホラーも入ったサスペンス・ミステリみたいだが、ハルキらしい飛躍ぶりも見られる。


愛する妻に離婚を切り出された画家の新生活。高名な画家の留守宅に住み、裕福で怪しげな人物と関係ができ、夜中に不気味な現象が起きる。また画家のパーソナリティと仕事を掘り下げる。


ハルキらしく、いやいつもよりセックス描写が綿密。また捨てられた男の心象もセンシティブに描いている。音楽については今回、オペラとクラシック。


妻に離婚を切り出された画家の男は、その日に家を出て長い旅の末、友人雨田政彦の父で高名な日本画家の雨田具彦の留守宅に住むようになり、屋根裏部屋で雨田具彦の未公開の絵を発見する。谷を隔てた豪奢な家に住む、裕福な独身男、免色(めんしき)渉から肖像画の依頼を受けた画家は、ある夜、不思議な鈴の音で目を覚まし、免色に相談する。


免色は少しずつ身の上を話す。彼は自分の娘かもしれない少女の肖像画を描いて欲しいと画家に依頼する。


謎の絵、巨匠の身の上に起きたこと、鈴の怪奇、少女まりえと、読ませる要素が多い。もちろんいつものように妻に捨てられた男の心象が画家という媒体を経て興味深く丹念に綴られる。


物語の成り行きに心惹かれて、ポンポンと読み進めてしまう。美術好きだし。ただ、いつものツールというか、あまり日常的ではない会話の構成、いわゆる「騎士団長」、日常生活の事細かでおしゃれな描写やユーモラスな直喩、そのへん。


ハルキらしさに浸るというよりは、マンネリだなというのが正直な心の声だった。


全てが明らかになる、のか?第2部へー。


◼️村上春樹

「騎士団長殺し 第2部 遷ろうメタファー編」


第1部とは打って変わってイデアでメタファー炸裂の巻。


前巻は、不思議なところとか過去の因縁もあれど、まだ普通めの流れという感じで受け取ったが今巻のクライマックスは理解が難しかったな。ネタバレで書いちゃいます。


振り返りから。妻のユズに離婚を切り出された画家の「私」は高名な日本画家雨田具彦の留守宅に住むことになり、屋根裏部屋から未公開の「騎士団長殺し」という絵を発見する。日本の飛鳥時代の風俗で、騎士団長が刺し殺されている光景。そばには女、従者、そして四角い穴から顔を出しのぞいている「顔なが」が描かれていた。モーツァルトのオペラ「ドン・ジョバンニ(ドンファン)」を模したものでもあった。


谷を挟んで向こうにある邸宅に住む裕福な男・免色(めんしき)に肖像画を頼まれた画家。雑木林から響く夜中の鈴の音に悩まされた「私」は免色に相談、免色は重機を手配し音のする場所を掘り返すと、大きく深い穴が出てくる。


やがて「私」の前に雨田具彦の「騎士団長」そっくりの小人が現れ、自分はイデアだと名乗る。鈴を鳴らしていたのは、穴に閉じ込められていた、この「騎士団長」だった。


免色は「私」に、娘かもしれない少女の肖像画を依頼する。その少女、中学1年生の秋川まりえは「私」が講師を務める絵画教室の生徒だった。


そしてこの巻では、学校帰りに秋川まりえが失踪する。騎士団長に彼女を救う方法を乞い詰め寄る「私」。施設にいる雨田具彦の見舞いに行った「私」のもとに騎士団長が現れ、自分を殺せという。そして刺殺した時、「顔なが」が現れたー。


失踪から「顔なが」出現までのプロセスは面白いし見事だと思った。疾走感も申し分ない。


一つ断っておくと、私はハルキストではない。そして、アンチでもない。村上春樹は確かにその高名さに見合う世界を確立しているのかも知れないなと思っている。私にとっては読書の1ジャンルであって好きな作品もそうでないのもある。なぜこういうかと言うと、今回あまり良くない感想を抱いたから。


主人公は「顔なが」の穴に入って行くのだが、ここからがどうもよく分からないし、「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」の焼き直しのような感じもした。まあ分からないのはいいとして、スケール感や強い印象に欠けたのも確かだと思う。


で、まりえの失踪の真相って、逆にこれでいいのかいな、と思うタネだったりした。謎の部分もあった秋川まりえがかなり普通っぽくなっていた。回想部分やたら長いし、「私」の1人称がちょっと揺らぐような書き方だった。


で、最初の方に説明されてはいたが、ユズと久しぶりに会う「私」。結局ここまでの長い旅路は「私」の自己を見つめ直すためにあったのか、という部分がスッキリしないな。大山鳴動してネズミ一匹感が強い。うーん。


全部は要素で説明し尽くす必要はないと思うが、免色の過去や謎の部分とか戦争に絡む雨田具彦の過去ほかどうもバラけている。


第1部でも書いたが、今回も読ませる力は充分にあったし、美術とか古代とかまりえの謎さ加減とか、なにやら面白そうなネタがたくさんあった。仕掛けも面白かった。しかしたたみ損ねたようにも見えたし、マンネリ感からは結局逃れられなかったかな。


3月書評の5




写真は柳川・沖の端。小さい範囲だけど外国人旅行者も多かった。

◼️中島敦「李陵・山月記」


実は読んでなかった作品。これからもたくさん出てきそう。


本屋やブックオフに行くと実によく見かけるのだが、読んだことなかった、という中島敦。万城目学が少年のころ影響を受け、書いたのが「悟浄出立」らしい。この本にも「悟浄出世」という作品名が見える。


祖父、2人の伯父が漢学者という一族に生まれた中島敦は、中華古典から題材をとった物語を書いた。解説では芥川龍之介が国文学作品に題材を得たのに対し、という分かりやすい言い方をしている。中島敦は芥川作品の蔵書を多く持っていたという。


収録作品は

「李陵」

「悟浄出世」

「牛人」

「盈虚(えいきょ)」

「名人傳」

「弟子」

「山月記」


武帝の時代、漢の武将李陵は匈奴と乱闘で倒れ、捕虜となってしまう。敵方の侯、単于(ぜんう)は李陵の強さを認め、厚遇を与えた。軍略や騎射で信頼を得た李陵は、激怒した武帝に自分の妻子が殺されたと聞くに及び匈奴に降る。一方、李陵の二十年来の友、蘇武もまた匈奴に囚われていたが、長い間頑なに降伏を拒んでいたー。(李陵)


まずもって、言葉、漢字が難しい。私は小説を読むときに、気になった言葉があれば書き留めておく習慣があるのだが、この本に関しては、最初の方で書くのをやめた。あまりにも漢文味が濃くて分からない言葉が多すぎるから。役職や人名も聞き慣れないので、時々人間関係が分からなくなった。どうしても読むスピードが遅くなったが、途中から、難解だから、エッセンスが浮き上がって見えるような、不思議な感覚に襲われた。


李陵の悩みはいかにも人間的である。私もそうだが、気がつくと随分と遠くまで来ていて、遠きに離れて思う故郷は、複雑な感慨もあれど、特別なものだ。


「悟浄出世」はまるでキングオブクエスチョンの悟浄がさまざまな師からの教えを糧に、三蔵に巡り合ったときのスカンと抜けた感覚が読みどころか。いやー難渋した一作品だった。


「牛人」「盈虚」を経て「名人傳」からは読みやすかった。弓を極めんとする者とその師匠の、どこかで聞いた短い物語。まぶたを閉じないようにする努力、ものをよく見るための修行は5年に及ぶ。自信をつけた弟子の危険な考えを見抜いた師は、さらに上達する道を教えてそらす。


「弟子」は知ってる人には有名なのであろう、孔子の弟子・子路の話。孔子に弟子入りするところからその死まで。師の教えに疑問を抱きつつも、精神的にはべったりともたれかかる、まっすぐな気性の子路の姿を描いている。孔子となると三国志でも読んだし、興味が出てすらすら読める。


そして「山月記」うーん、こんな話とは思わなかった。短い、怪奇譚とも言うべきもの。まあ分かりやすくはある。


先述したように、漢籍に題材を採った芥川、と思えば、刹那的にも見えるエッセンスにも、ちょっと衒学的にも思える文章にも納得がいくような気がする。


私はここのところ、国文学、平たく言えば日本の古典文学、を読んでいるが、古典の文章の中には、中華古典の故事や詩歌の影響が散見され、いつかそちら方面も・・と思っていた。中島敦は私のそんな気分にちょっとした新鮮さをもたらした。


中華古典は重々しさと独特の緊張感とシブさ、さらにはエンタメ的な雰囲気をも醸し出す。勉強になった気分である。


まあ、読む人は少年のころ読んだであろう作品に、まだまだ未読のものは多い。こんなのも一つの本読みの楽しみ方かもね。



◼️松村栄子「僕はかぐや姫」


・・いいですね。少女から女への心象。キレよくむき出しの感性が突きつけられる。エクセレント。


女子高生もの「僕はかぐや姫」が95ページ、女子大生もの「至高聖所(アバトーン)」が105ページ。


千田裕生(ちだひろみ)は進学校の女子高校、新3年生。自分のことを「僕」という。小さい頃からの友人・原田らと文芸部に入っている。似たものどうしの尚子と思いを分かち、白鹿のような狭山穏香(しずか)の外見に恋をし、また男子とも少し付き合ったりする。


・・ダメだ。この物語たちはあらすじを書くのが難しい。「僕はかぐや姫」は女子校でのあるいは画一的な、またちょっと退廃的な学生生活を時にコミカルに描きつつ、友人との関係性の不安定さ、心の拠り所、尽きることのない自分の内面、外界との関わりの煩わしさ、悦びなどを感性のまま文章化している。


「至高聖所」は女子大生となった主人公が受験で知り合った友人との付き合いつつ、よくできた彼氏も持ちつつ、鉱物サークルで趣味関心を満たしつつ、同室の子に悩まされつつ、愉しげに過ごすキャンパスライフの中での葛藤と育ちつつある感性、家族関係で傷のついた心などを表現している。


たまにこういった風味の作品に出逢う。サガン「悲しみよこんにちは」とか、安達千夏「モルヒネ」、宮下奈都「スコーレNo.4」、辻村深月「冷たい校舎の時は止まる」とか。多かれ少なかれ少女、女性の心持ちをアンニュイさ加減を含んだ揺れる自我を表現しているという特徴を持つ作品。そういえばもっとストーリー的ではあったが、先日読んだ「真珠の耳飾りの少女」もそうだった。


「かぐや姫」は学のあるところを見せながらも、その考え方に幼さが漂う。またこの時代にしかない、大人への階段に足をかけたばかりの頼りなさが、暗すぎることなく表されていると思う。いい感じだ。むき出しのものを突きつけられている気分で読み込む。ちょっと設定と心象に考えすぎのようなものも感じた。


「僕」について主人公がいろいろ考えるのは確かだが、私はジェンダーへの疑問の投げかけではないと思う。


この作品は1991年に出版されたデビュー作で、2006年センター試験の問題として出題されたこともあり、絶版となっていてのが多くの読者の支持でこの春復刊となった。


「至高聖所」は1991年の芥川賞作品。主人公が愛する鉱物と、主人公と同室の真穂のエキセントリックな行動と哀しい背景、若者らしいエネルギーの中に、根源的な自我の揺らぎや感性が絡む。異質さと軽さが、嫌いじゃなかった。難しすぎない、でも芥川賞らしい一篇。


これも作品のタイプというものだが、読者をおいてきぼりにするような感もいい方に傾いたと言えるだろう。


なんか満足。表紙や扉絵もいいですね。


2019年3月24日日曜日

3月書評の4




どうも読書のスピードが落ちている。昨年は意識して速くたくさん読み、年間200冊を突破したが、長いものや難解そうな作品をわざとパスしていたので、今年は色んなゆっくり読もうとしている。ただ、そんな中でもスピード落ちたな、という感覚がある。まあまだ1/4にも満たない時期なんだけどね。

もう母が亡くなってから1週間過ぎた。感情はそう簡単におさまらない。傷ついているな、と思う。私はこんな人生を、いつまで歩くんだろうか。それとも、宿命的に父と同じになるんだろうか。やれやれ、こんなことを考えるのは良くないな。でもそう考えるのも理性。感情の前に羽根のように軽い理性は無力なのである。


◼️福永武彦「古事記物語」


何度読んでも新鮮だ。


数年に一度、神代ものを読む。古事記については様々な出版物があり、目にする機会が多い。今回は、久々に古典でも借りようと図書館に行ったら休みで、息子が児童向けの本書を持ってたな、と思い出して読んでみた。福永武彦も、私は初めて。興味深い。


国産みから天岩戸、スサノオノ命、オオクニヌシ、タケミカヅチ、ホノニニギノ命、海幸山幸、神武天皇東征、ヤタガラス・・。


古事記は推古天皇までの、神話、歴史、伝説、歌謡などを広く集めている。だいたい古事記の特集本などは私が上に挙げたあたりの話を中心にまとめられているのだが、本書は仁賢天皇の時代まで下って描かれているので、ほう、となった。同時に、あんまりちゃんと読んでなかったんだな、と実感した^_^。


大筋の話は憶えているが、細かい部分はさすがになので、目にするたびに新鮮な神話のエピソードたち。天沼矛、ぬぼこだ、とかオオクニヌシが高天原の命を長きにわたりはぐらかしただとか、山幸、ホオリノ命の冒険とか。


記憶に残るのは、やはりヤマトタケルノ命だろうか。残忍な性向から天皇の御子でありながら親に愛されず、戦いに明け暮れてついに死ぬ。


大和は 国のまほろば

たたなづく青垣

山ごもれる大和しうるわし


とても好きな歌である。


お后や御子たちが悲しむ中、ヤマトタケルノ命は八尋もある大きな白鳥に姿を変えて海の方へと飛んで行く。冒険、哀しみの人生、そしてはかなく美しいフィナーレ。


もう一つ、スサノオノ命の歌もいいな、と。ヤマタノオロチを退治したスサノオがクシナダ姫と住む須賀宮という宮殿を建てる際、空を見て。


八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに

八重垣作る その八重垣を


雲の湧き出る出雲の国に、七重に八重に雲はわく。八重のかきねをめぐらすように。私と妻とはその中に。


もはや言葉がないですな。今回、概ね関西が舞台のことも多かったし、最近奈良がマイブームなので、親近感が湧いたが、出雲ってひとつの憧れだよな、と改めて思った。


そういえば日本書紀の方はほとんど読んでない。次は、ちょっと探してみようかな。福永武彦も調べてみよう。


◼️とりのなん子「とりぱん 1」


鳥のエサ台を置いてみたくなる。

webで本を探してた時にたまたま思いついて購入。おもしろく、かつ学習。


「鳥類学者だからって鳥が好きだと思うなよ」を読んだ時に、鳥に詳しくなるには「とりぱん」を読むことから始めようかな、と書いたが、ホントにやってみた。


北東北に住む著者は、自宅に鳥のエサ台を2ヶ所設置している。エサ台に来る鳥たちとの四季。


ボス的存在の青ゲラのポンちゃん、気が荒いヒヨドリ、地味で腰が低いツグミ、実は肉食で牛脂をよく食べるシジュウカラ、エナガ、オナガ、メジロ。忘れちゃいけないスズメ。


山の上にある妻の実家でもエサ台をセットしていて、そこでメジロだけ覚えた。ほかはパッと見ても正直分かんないだろうなと思う。


買い物に出るお母さんのごとくパン切れを持ち帰っていってり、実は果実をを食べなかったりするスズメの姿や暴れん坊たが子煩悩なヒヨ、そのヒヨドリにいじめられるツグミ、ちょっと臆病なポンちゃんの行動などを観察し、ユーモラスに描いている。


冬場はマイナスふたケタ度になる土地での、四季の移り変わりやご当地ネタも楽しい。豊島ミホという作家は、青春もの小説の舞台を生まれ育った北東北にしているが、私はマンガや小説に描かれるご当地ならでは、駅を離れれば自然豊かで電車の数も少なそうな土地の描写は好ましいと感じる。


作中に出てきたジェローム・K・ジェローム

「ボートの三人男」も読んでみようかな。


単行本はもう20巻を超えているという。すぐ大人買いはしないけれど、少しずつ読んでみよう。


2019年3月17日日曜日

3月書評の3




写真は北原白秋記念館。そういえば、記念館の類は神戸文学館、川端康成文学館、与謝野晶子文学館と回った。今回は母の故郷の柳川市。

福岡から帰って来て自分のベッドでぐっすり寝る。やはりなにはなくとも楽しいわが家。

永井路子「裸足の皇女」


天の火もがも。奈良の黒い政治と恋の断片。


大化の改新、いわゆる乙巳の変で中大兄皇子(天智天皇)サイドは政治の主流を握った。しかし天智サイドは壬申の乱で(大海人皇子)天武天皇サイドに敗れてしまう。乙巳の変の前から権力争いがあり、壬申の乱後も実に様々な権謀術策が渦巻いた政界。その中の男女の恋を描いている。


8つの作品が入った短編集。それぞれ面白かったが、後段の大伴坂上郎女を主人公にした連作の四篇「恋の奴」「黒馬の来る夜」「水城相聞」「古りにしを」がメインとも取れる。穂積皇子と恋した郎女が、穂積の歌う恋の奴とは何か、と思い、異母兄の宿奈麻呂が解説する。天武天皇の第一皇子、高市皇子の妻、但馬皇女が、年少の穂積のもとに走ったエピソードを印象的に浮かび上がらせている。そして話は、天武と後の持統天皇の子、草壁皇子と大津皇子が石川郎女を争った恋に及ぶ。直接的な原因になったのかどうか、傲岸と取られたか、その後、大津皇子は誅殺されている。


「黒馬の来る夜」では大伴坂上郎女は藤原麻呂、藤原不比等の子と恋をする。傑物不比等亡き後、廟堂でなんとか権力を保とうと奮闘した藤原四兄弟の四男坊ー。やがて麻呂は訪ねてこなくなり、郎女は宿奈麻呂と結婚する。


「水城相聞」は宿奈麻呂に反発するように、郎女は、妻を亡くし悲しんでいる大伴旅人の元へ、大宰府へ単身赴く。そしてここでも恋をする。九州の地、それきりの、夢のような恋。


「古にしを」宿奈麻呂のもとに戻った郎女。しかし痘瘡で藤原四兄弟も、宿奈麻呂も死んでしまった。郎女は遺品の中で見つけた一首の歌について悩む。そして自分の女をまた意識する。


永井路子氏を読む理由の1つが、大化の改新で討たれた蘇我氏はその後どうなったのか、壬申の乱で敗れた藤原鎌足サイドは、後の世でどのようにその権勢をつかんだのか、知りたいと思ったからだった。「よみがえる万葉人」「美貌の女帝」そしてこの作品と読んでいくと、史書を読み解き独自の見解を持っている永井氏が、どこにこだわっているわかるようになった気がする。


いわゆる奈良時代の妻訪婚の時代、女たちの姿を創りなし、史実になじませながら女性の恋する気持ちをキレ良く描いていると思う。連作にすることでよりダイナミックに、時の流れを感じられるようになっている。まさしく独創性に富む作風であって、読んでいて爽快ですらある。


そしてー。


「君が行く 道の長手を繰り畳ね

焼き滅ぼさむ天の火もがも」


万葉集でひときわ目を惹くこの歌の背景を描いた「火の恋」が一番印象的だった。時は聖武天皇と光明皇后の時代。規律を犯し、大伴宅守と通じた天皇付女嬬の狭野弟上娘子。宅守は越前へ配流となる。娘子から、宅守への歌である。あなたの行く道を焼き滅ぼしてしまうような天の火が欲しい、と。


鮮やかに意表を突かれてしまった。


他では味わえない永井氏の作風はまた味わいたくなる。他の古代ものも読みたい。


◼️川端康成「愛する人達」


テーマは男女。読後感が爽やか。好印象の作品。


きれいで、小説らしく、ウィットにも富んだ恋愛・夫婦がテーマの短篇たち。


「母の初恋」、「女の夢」「ほくろの手紙」「夜のさいころ」「燕の童女」「夫唱婦和」「子供一人」「ゆくひと」「年の暮」が収録されている。一篇は20ページ~30ページくらいで読みやすい。初版は昭和16年12月8日、真珠湾攻撃の日だという。しかし内容的に戦争の影はないと言っていい。


「母の初恋」は、夫の昔の恋人が亡くなった際、引き取り育てた娘が嫁ぐことになり、これまでのエピソードと、見守る夫婦の微妙な、しかし温かい感情の動きを追う。川端らしく、嫁ぐ雪子の魅力をさりげなく描いている。


「女の夢」独身が長かった医者の男が、誰もが振り返る美人と結婚した。女は深い悩みを抱えていた。特に劇的な会話はなく物事が明るい方へ向くのを川端独特の書き方で収めている。


「ほくろの手紙」はちょっとコミカルで、いかにもありそうな人間くさい話。

「夜のさいころ」は、旅芸人一座で、いつもさいころを振っている少女の一篇。「伊豆の踊り子」を想像する。


「燕の童女」では新婚旅行中の夫婦が、船と列車に乗り合わせた西洋人の小さな女の子を気にかけるうちに打ち解けていく。紺地に細かい花模様の夏服、白いレエス、桃色の下着。色紙、鶴、錆朱色で小紋の友禅のお手玉。可愛らしさと夫婦の会話が微笑ましく、色彩と人情が鮮やかな印象を残す。


「夫唱婦和」は、昔風の夫婦が、妻の母が同居している、亡くなった夫の妾の娘、その結婚をめぐるちょっとしたドタバタ劇で、仲良い夫婦の微妙なすれ違いが浮かび上がるという感触の話。


「子供一人」女学校卒業の時期にできちゃった婚をした夫婦。つわりや心理的な苦しみで2人の間に大きな亀裂が走るがー。なんかわかるな、というストーリー。


「ゆくひと」浅間山の噴火をバックに、嫁ぐ女への少年の憧れその不器用な発露。題材はよくあるが、噴火を身体で感じる情景がリアルで不気味な迫力が伝わってくる。


「年の暮」出戻りの娘・泰子。思い入れの深い娘の声を聴き、戯曲作家の泉太は妻の声を思い出す。泉太の過去のファンの女・千代子の想い出が交錯する。


川端は有名な作品はダイレクトに伝わるような鮮烈さを残すが、クセがあったり、読み手へ放射するものが変化球っぽかったりする。また新感覚派と呼ばれた、みずみずしく少し変わった表現もあったりする。


この短編集は、設定が川端らしくややこしめという感じもするが、熟達した、小説らしい作品が多いなという感想で、読後感が良かった。まだまだ川端シンドローム。。


◼️いぬじゅん

「奈良まちはじまり朝ごはん3」


またほろり。じわっと感涙。

奈良のご当地ラノベ、いよいよ完結。


東大寺や興福寺から歩いて少し。ならまちにある朝ごはん屋「和温食堂」の物語。


今回はならまちにの町家に住むガンコなおじいさんと同居を勧める息子、「和音食堂」の店員にして主人公・詩織と大学生の弟、店の正面にある手葉院の住職、厳しい僧形の男にして中身は女性の和豆と謎の女性、そしてぶっきらぼうだが頼りがいのある店主・雄也と行方不明だった妹・穂香の、それぞれ邂逅が描かれている。


いつもながらスナックのママ、関西のおばちゃん役の園子ちゃんがいい味を出している。


料理は、伝統料理をクレープのようにアレンジした「しきしき」、奈良に伝わる精進料理「七色お和え」、「豆」をキーワードにしたアイディア料理の「まめまめ焼き」、そして片平あかねや大和まな、など大和野菜で作る「大和野菜の雪色煮」である。朝ごはんだけにガッツリではなくほどよくて温かそうで美味しそう。


大団円。このライトノベルは奈良の四季とイベント、名所をさりげなく盛り込んでいるものの決してハデなものではなく、生活感に満ちている。表に現れないそのベースの敷き方に著者の指向性がうかがえる。謎の方も、解決も、決して難しいものではないが、少女マンガのようでなく噛みしめるような部分に好感が持てる。


いやーそりゃあ終わり方きれいだけど、奈良好きの私としてはもっと範囲の広い派手な名所紹介でもいいから、も少し続けてほしいなあ。


2019年3月16日土曜日

母の死

8年前、東日本大震災が起きた日だった。患っていた母が逝った。

昨年6月に末期ガンが発覚し告知。緩和ケア病院、いわゆるホスピスに通いながら寿命をまっとうするー。予断は許さないが、しばらくは平穏だった。

調子が悪い、と病院に行ったのは年明けて2月。告知した医師は、まさか再び生きて会えるとは、と驚いたという。だが病は確実に進行していた。内視鏡手術の結果、手の施しようがないと分かり、あとひと月もつか、と身内では話していた。

ここまで予想以上に長く持ったから、心のどこかにのんびりした気分と、母の中の超然としたものを信じる気持ちがあったのだろう。3月末には息子を連れてきて、ゴールデンウィークにまた帰ろうと思っていた。

具合が悪い、と土曜に連絡があったが、亡くなった日、月曜の医師との面談ではまだ当面は生きられそうな感触だったという。しかし容体は急に悪化。明日までもたない、という連絡が午後3時50分、呼吸が止まったのが4時10分ー。

新幹線の中では、ざわざわした気持ちで、本も読めなかった。朝、あと数日だということを知ってから動揺してるな、と思っていた。行動の端々が制御できない感じで粗くなっていた。幸い人に気づかれるほど極端なものではなかったが、歯磨きをしていてどこか昂ぶってしまい、つい泡が服に飛び散るほど強めに歯ブラシを動かしていた、といったような具合だった。

明日までもたない、と知ったときは落ち着けと自分に言い聞かせ、各所に出張取りやめの手配をしてから新幹線に乗った。乱れてはいけない、と思いつつ、対面した時にどんな感情が噴き出すかとも考えた。新幹線に乗る前に呼吸が止まったと連絡が来た。

着いて、早かったね、と言われた。母は眠っているとしか思えない顔だった。目を閉じているだけで、すぐに目を覚ましそうな気がした。閉じた唇につやがあった。その晩徹夜で付き添っている時も、呼吸や身じろぎをしたのではないか、と何度か思った。

翌日斎場に運ぶ時、皆で抱えてストレッチャーに乗せた。私は肩と頭部を横から掬い上げる形で持ち上げた。二の腕の上で母の頭が揺れ口が開いた。あっ!起きる!とつい瞬間的に思った。腕に感じた、人間の頭の重さと動きがあまりに普通で、生きているそれと変わりなく、そんなはずがない、という現実が信じられなかった。

病院から斎場まで霊柩車に乗った。早春の陽射しが雲間から零れ、光のカーテンのようでどこか神々しく、背振山系の山並みが美しかった。こんな天気の日で良かったね、と涙にくれる姉に声をかけた。姉は「良かったよね・・」と小さな声で、自分に言い聞かすようにつぶやいた。目に入る、幼い頃からよく見た風景、小学校への通学路やラジオの電波塔など、そのいちいちが鮮やかに懐かしく心を侵食した。

泣くまいと決めていたが、抑えなければならないほどの感情は湧いてこない。告知があってから、いつかこの現実が崩れると、常に心に重いものがのしかかり、独りでいる時、ふとした拍子に涙ぐんだりしていた。そこから解放されてほっとしているのか、とも考えた。

さすがに亡くなった晩から時間も経ち、母の顔にはようやく、命が絶え弔われる人の色が現れてきた。しかし棺に入り死化粧をしても、これまで葬儀で見てきたどの遺体の顔よりも母はきれいで、眠っているようにしか思えなかった。

きれいな斎場で、滞りなく葬儀は終わった。懐かしい幼なじみの友人も来てくれた。彼はもとの実家で自治会の役員をしているらしく、地域やほかの幼なじみの近況を聞いた。関東に住む伯父、また母が育った柳川からいとこたちも駆けつけた。いとこさんとはいえ、彼女らの父親は戦争で亡くなってしまったため、母の父、祖父は子供たち全員を連れて柳川に帰り、13人を育て上げたという。

出棺の際にはみな泣いていた。花と好きなお菓子、果物、セーター、毛糸の帽子。

火葬されるのを待つ間は柳川にかつてあった実家の想い出話に華が咲いた。木造で土間に石臼、火鉢。長い廊下があって、井戸水で沸かしたお風呂。広い2階に蚊帳を吊って寝たこと。母からよく聞いた、柳川のお濠で泳いでいて溺れかけたこと、水害があって家の前を漁船が通ったこと。伯父、いとこさんたちは当時のことを懐かしそうに話していた。

骨を拾い、帰る。もうみんな明るい。兄弟も全員、姉の家族も全員。私も、心置きなく送れたことに満足感があった。

母の親族の方から、母の母、祖母の弟にそっくりだと言われた。きょうしばらくぶりに対面してびっくりしたという。海軍の潜水艦乗りで、戦死した方らしい。父方の顔には2種類あって、目がぱっちり二重のタイプと目が細くエラが張っているタイプがいるが、私は後者の伝統を継いでいると思っていた。しかし、母方の血もきっと混ざっているのだと、確信した。

全て終わって、死んだ夜の病院で、通夜の斎場で泊まり込み、弟たちとは色々な話をした。連絡係となった末弟は、伝え方を悔やんでいた。午前中に危ない、と掴んでいたら死に目に間に合ったのに、と。気にするなと諭した。

緩和ケア病棟に入院してから住んでいた部屋に戻れなかったからと、簡単な祭壇を設けて拝んだ。翌日は小さめの遺影を持って、故郷の柳川に出かけた。お濠の川下り、名産のさげもん、うなぎ。独特の雰囲気と思い入れがある。よく遠足で行ったという三柱神社まで足を延ばした。寒かった。

その夜は親族会議。今できていること、今後のこと。清算の件。みな忌引きで、姉弟たちがこんなに長く一緒にいるのは珍しい。姪っ子の高校の合格発表があり姉はバタバタしていたが、弟たちとは男ばかり、束の間の共同生活。いろんな話をした。

子供の頃から一緒にいて思い出を共有し、母が12年間住んでいた部屋に出入りしていた。私も帰省の折には必ず泊まった。母の死も、この部屋がもうすぐ引き払われることも、信じられないな、と末弟が呟いた。

疲労感があり、終わって安心した気持ちも強い。これも前に進むということ。時の歩みは止まってくれない。

今回は覚悟が出来ていたのが大きかったと思う。母がおらず、電話しても話せない。誕生日に花を贈る相手もいない。人並みとは思っているけれど、私もまだ信じられない。母は旅立った。きれいな想い出と、きれいな死に顔、きれいな葬儀ー。私も新たな一歩を踏み出さなければ。これが人生だ。

母の死

2019年3月9日土曜日

3月書評の2





息子は39度の熱で部活早退だという。深夜帰ってみると眠り込んでるようにみえたが、すぐ起きてきて私のベッドへ。やっぱこういう時はずっと一緒に寝てたから、慣れたパパベッドが安心するのかな。

しかし一晩中うんうん言い、特に両肩が痛いとずっと苦しみ、身体もかなり熱かった。明け方やっと眠れたよう。アイスノンだ、冷えピタだ、湿布だ、飲み物だと徹夜で看病の父は翌日の午前中は寝倒したのでした。

◼️恒川光太郎「金色の獣、彼方に向かう」


底でつながるのはイタチ。ホラーの旗手。


恒川氏は初読み。ホラーというのは知っていたがふううむと考えた作品集。


時は鎌倉時代。対馬で生まれた仁風は宋の商人に見込まれ海を渡るが、クビライの元に囚われ、やがて日本語を買われて間諜となり博多で活動する。間諜の仲間には鈴華(リンホア)という巫術師の女がいた。鈴華はリリウという鼬を、神の使いといって飼っていたー。

(異神千夜)


たしか蒙古襲来の博多の町を舞台にした本をどこかで読んだな、と考え、あっ坂東眞砂子「旅涯ての地」か、と思い至った。最初の方にその描写がある。


さて、物語はこの後ホラーに入る。文永の役は歴史にある通りの結果に終わり間諜団は博多に見捨てられる。そこで鈴華が妖力を発揮する。登場人物の言葉遣いが時代ものっぽくなくて今風なのが特徴的。


次の「風天孔参り」は時代移って現代。偶然現れる「風天孔」に入ることを求めて自殺志願者の一団が山を練り歩く。山中でレストラン兼民宿を営んでいる私のもとに月野優という若い女が現れ、やがて働くようになる、というもの。


 「森の神、夢に還る」は田舎から上京する美しいナツコに憑依した、霞がごとき存在の「私」の話。ナツコの紆余曲折と「私」の人生ー。


樹海、稲光山、鼬、と共通する物事が交錯する。たしかにホラーファンタジーっぽく、毒もあるが、サクサク読み進む興味深い話ながらあんまりゾクっとしない。なぜかさわやかさすら漂ったりして。


表題作「金色の獣、彼方に向かう」は小学生、大輝が金色の獣、ルークを飼うことに。やがて大輝の意識はルークに乗り移るようになる。ある日大輝は、たびたびルークの様子を見に来ていた千絵から、秘密を打ち明けられる。


すべての短編に共通した要素がいくつもあり、全体としてなにかを構築している。この手の作品はあまり読んだことがない。キーワードのイタチも可愛らしさを感じるものから巨獣までと幅広い。鼬行者はなかなか不思議で土着信仰的な造形だと思う。


怖いってなんだろう、ひいては作品の良さ、とはなんだろうと思いが至った。例えば映画では、私はなにか1つでも強い印象が残れば成功だと思っている。色彩、表情、衣裳、残酷さ、そして怖さ。


現代ホラーの旗手ということで意識して読んだ。上手に各要素を配しているし、あっという間に読める。面白いし。深みも感じる。でも最後まで怖さは感じなかったかな。社会問題や転落の人生の描き方にちょっと簡単すぎだな、という物足りなさもあった。


一番心に残ったのは「風天孔」かな。そのもの哀しさと切れの良さ。「風天孔」という仕掛け自体がほどよく読む心に軟着陸した感じだった。


◼️堀辰雄「菜穂子・楡の家」


ふうわりと感じる作家さんと思ってたが・・けっこう読ませる作品だった。


全体で1つの構成が成り立っている一冊。「楡の家」最初は菜穂子の母・三村夫人の独白。19歳の娘・菜穂子との間の葛藤、長野であろう別荘での、作家森との邂逅が書かれている。分かり合えない母娘のぎくしゃくした雰囲気が伝わってくる。次の文章はもひとつ意が読み取れなかった。突然出てきても、かもしれないがともかくも。


「いまこそ私との不和がお前から奪ったものをはっきりと知った。それは母としての私ではない、断じてそうではない、それは人生の最も崇高なものに対する女らしい信従なのである。」


うーん、なんだろう。

菜穂子は、母に反発するように、叔母が持ってきた縁談で結婚してしまう。


実際は月日を経て書かれた作品なのだが、この本では続いて「菜穂子」が収録されている。結婚して夫の黒川とその母と、都内で3人暮らしをしている。同時並行で東京の建築事務所へ勤める菜穂子の長野での友人、都築明の迷いと悩みも描かれる。


都築は長野で早苗という娘と逢瀬を繰り返すが、熱心な求婚者の元へ嫁ぐ彼女を追いかけることはない。早苗や都内ですれ違った既婚の菜穂子のことをも思い、こう独白する。


「おれがこれまでに失ったと思っているものだって、おれは果たしてそれを本気で求めていたと云えるか?」


なかなかこれは刺さったな。若者らしい自分への反問ではあるが、大事なことを見送ってしまったと、後で思わない人なんているんだろうか。


夫や姑に打ち解けない菜穂子は病気となり長野の療養所へ入る。姑は長い手紙を書くが夫も姑も見舞いには行かない。しかし黒川は夫婦の不和に悩んでいる。


とかくあって、やがて明があわただしく見舞いに訪れ、昔を嬉しく思い出した菜穂子。しかし明はすぐに帰ってしまう。菜穂子の心の描写の一部はこうである。


「云ってみれば、それが現在の彼女の、不為合せなりに、一先ず落ち着くところに落ち着いているような日々を脅かそうとしているのが漠然と感ぜられ出していたのだ。」


この表現は絶妙で、敷衍的だと思う。なにかが動き出す予感に満ちている。が、背景にあまり明るくない色を感じる。そのバランスも好ましいと思う。


何気ない動作の描き方も冴えている。菜穂子の所から、懐かしい村へ帰った明。


「彼は下りた途端に身体がふらふらとした。彼はそれを昇降口の戸をあけるために暫く左手で提げていた小さな鞄のせいにするように、わざと邪慳そうにそれを右手に持ち変えた。改札口を出ると、彼の頭の上でぽつんとうす暗い電灯が点った。彼は待合室の汚れた硝子戸に自分の生気のない顔がちらっと映っただけで、すぐ何処かへ吸い込まれるように消えたのを認めた。」


前段は本当に細かい描写だがいかにもありそうで、ふふっと笑ってしまう。後段は川端康成のようでもあり、芥川龍之介に黒さ、怪しさが似ているな、と思った。


この後、身体を壊し村に逗留する明が、畑を覆った雪が風に舞うのを見ているシーンもとてもいい。雪煙があがり冷い炎のように走りまわる。そして毳立ち(けばだち)が残り、それを次の風が消してゆく。明は自分が過ぎて来た跡に一すじの何かが残るだろうが、すぐに消されてしまう、そうして運命は引き継がれていくと思う。やはり青くささはあるものの、印象に残るシーンだった。


菜穂子は衝動的に東京に帰る。そして夫を呼び出すー。


堀の覚書が挟まり、この本は短い「ふるさとびと」で閉まる。およう、病気の娘を持つ美しい母は「楡の家」にも「菜穂子」にも登場し、一時は明の心の拠り所ともなる。そのおようの人生と暮らしを描いている。どこか超然とした雰囲気が漂う。


堀辰雄は芥川龍之介に目をかけてもらい、軽井沢で文人達と遊んだ。三村夫人は芥川と親しかった片山廣子(筆名松村みね子)、菜穂子は片山の娘總子(ふさこ)とも言われている。堀は總子に恋心を抱いたようだ。作家の森は芥川で、作中三村夫人と森が連れ立って歩いている最中虹を見るシーンがあるが、これは芥川と片山廣子のエピソードを借りたとのこと。


「風立ちぬ」などでどこかフランス風のふうわりとした作風だと感じていた堀に、今回は少し思いが入る作品を見せてもらった。もっと読みたいな。


3月書評の1

あっという間に3月。気温三寒四温。木金は朝晩すごく寒い。読書が進むのはいいが、書評に時間がかかったりしてちょっと寝不足。
週末に送別会があった。同級生&同級生の娘さん。もうこのトシになると、次はいつ会えるか、もう会えないかという気にもなる。勝ち守りと本と絵はがき、栞をあげる。0次会はたこやき、1次会は鶏鍋、2次会はダーツバー。酒は乾杯ビールのみ。飲んで食べて、楽しい晩でした、と思ったら息子が発熱。

◼️青山文平「つまをめとらば」


ユルい、が最初の感想。直木賞受賞作は、男女がテーマの時代もの。ユルさに味があった。


江戸の侍もの短編集。


「人もうらやむ」

「つゆかせぎ」

「乳付」

「ひと夏」

「逢対」

「つまをめとらば」


が収録されている。いずれも武士としてはあまり立場や家格が高くない者が主人公。


本条藩門閥・長倉家の遠い分家の藩士・長倉庄平は、仲の良い本家の長倉克巳とともに馬廻番士を勤めている。庄平は、家老の息子でプリンス的存在にもかかわらず女にはうとかった克巳から、範囲の娘で評判の美人の世津への恋について打ち明けられる。やがて2人は結婚するが半年も経たない時期に、庄平は克巳から、世津に離縁してくれと言われたと告白されるー。(人もうらやむ)


最初からして、なにやらユルそうな展開である。実はこの後かなり血生臭いことになるのだが、根底のゆるやかさは変わらない。


青山文平氏は史上2番めの高齢で直木賞を受賞された1948年生まれの方で、先に読んだ「白樫の樹の下で」でも感じた時代への知識の深さが、主人公の設定の詳細さに表れている。その文調はしかし、衒学的ではなく落ち着いたいい雰囲気だ。それだけではない。


「つゆかせぎ」は貧乏旗本の役のない家侍、しかし俳諧には秀でた男が主人公。心の臓の急な病で妻・朋を失った男は、訪ねてきた地本問屋の者により、妻が戯作を書いて出版していたと知らされる。朋は芝居茶屋の末娘で、家侍と俳諧の二足のわらじをやめ、俳諧に生業として専念するよう勧めていた。妻の所業を知らなかった男は割り切れない日々を過ごすがー、という物語。ちょっとした意外な展開がある。


「乳付」は初子のための乳が出ない母親は乳付をしてくれる遠縁の女の美しさを見て、夫に合わせてはいけないと思う女性目線の話。遠縁の女の述懐が面白い。


「ひと夏」は幕府御領地の中にある小藩の飛び地の支配役という難事に付く男の話。そこには美しく男好きな女が出てくる。男は、その女と関係したらに一揆、と前任者に諭される。単純な図式と思ったら、どこか突き抜けた爽やかさを感じた。


「逢対」は、やはり役のない貧乏旗本の話。主人公は、煮売屋の娘と男女の仲になるが、娘は身分が違う。自分は母と同じく妾として生きて、子供が出来たら別れる、と言っている。逢対とは、登城前の藩の有力者に役を願い出て日参すること。どの有力者もある程度は対応してくれるが、それで役に就けたという話はついぞ聞かない。主人公は、12年も逢対を続けている友人について行ってみると、後に行った先の屋敷から呼び出される。


そして「つめをめとらば」は隠居した幼なじみは所帯を持つことを考えている女がいるが、家を貸している自分との2人の爺さん同士の暮らしが楽で、ずるずると延ばしているー、という話である。主人公は過去の結婚にかかわる借金を抱えていて、2人の共通の知り合い、佐世という魅力的な女がカギとなる。


さて、冒頭に男女の話と書いたが、いくつかの特徴が、はっきりと分かるようにある。どの話にも、進歩的もしくは能動的な女性が登場している。また男性も現代にも通じる問題を抱えている。


加えて、紹介が長くなるのですべては書けなかったが、「人もうらやむ」の主人公庄平は釣り道具作りという特技を備えている。「つゆかせぎ」は俳諧、「乳付」のヒロイン民恵は漢詩の才があり、同門の番士と結婚した。などなど、出演の主役クラスには何かと深くのめり込んでいる趣味・特技がある。仕事ばかりにとらわれる時代は終わって、誰もがなにかの趣味を持つ現代を充分に意識していると言えるだろう。


さてさて、整理すると、この「つまをめとらば」は、ユルい雰囲気。血生臭い話もあるが、楽天的な結末が多い。また時代もの特有の、身分や運命の厳しいしばりもほぼ感じさせない。


さらに開放的、現代的で逞しい女性像も、家庭に悩む男の苦悩も、可愛らしい女心、母心も描かれている上、主役にはもれなく文化的な趣味がある。おまけにストーリーの成り行きには意外性まである。


あたかも様々な、少し似た色彩を描きこんで、全体として良い印象の個性を感じさせる絵を見せられているようだ。なるほど、である。


評判の高い同氏の「半席」も読んでみたくなった。


◼️髙田郁「あきない世傳 金と銀 本流篇」


終章の爆発。やば。瞳潤む


大阪・天満の呉服屋、五鈴屋当主、六台目徳兵衛が急な病で亡くなった。実質的な店主の妻・幸、女は店を継ぐことが出来ないという掟を前に悩む。折しも早々に呉服仲間の寄合から意向伺いがある。


女名前禁止の掟ー。これを解決してから、物語は一気に江戸出店へと傾く。幸は江戸に居を移して土地柄を実感し、店前現銀売りに挑む。木綿の扱いにもチャレンジ。


準備期間、少ないスタッフたちが知恵を出し合い、あれこれと工夫を凝らし、ついに開店の日を迎える。終章、不安を抱えながらの開店の日、長年の宿願の門出の日の描写には不覚ながら瞳が潤んだ。


今回は物語として純粋な面が多く、きれいすぎるな、と思わないでもないけれど、まっすぐな思い入れのもと、一丸となって事に当たる姿勢に感銘。多く書くことはない。


次巻はまた困難が降りかかるのだろう。これからの展開にまた期待。







3月書評の1

2019年3月3日日曜日

2月書評の4





今週ホントは3冊なんだけど、月またがりで1冊は3月書評に回します。2月は13作品13冊。しかもマンガ入れて。のんびり読んでるなと我ながら思う。でもこれくらいでいいんだよ。

福岡から帰ると多忙週。おみやげで買ってきたチロリアンを密かな悦びに。で、私は海南チキンライスが好きでどっかで食べらんないかなと思っていたところ、会社の近くで遭遇。毎週金曜のメニューだとか。うわーい嬉しい〜。

会社のモネのカレンダー1・2月分を持って帰ってミニイーゼルに立て悦に入る。小さな幸せ好き。

土曜日息子の皮膚の薬をもらおうと皮膚科に行くことに。9時に開くので8時45分くらいのバス。自宅出るのが遅れて久々に超絶ダッシュ。ところがバス来ない。目の前の渋滞を見てこりゃダメだと歩いて下ることに。途中の神社に用があったしちょうどだと前向きに歩く。

気候は、気温は低くないが冷たい風が吹いて寒い。冬みたいにシャツの下にハイネックのヒートテックなぞ着ず軽装にライトダウンにネックウォーマー。でも歩くうちに暑くなる。やっぱり事故で下りのダンプが道を横切って対向車線に逆向きになり、向こうのガードレールにぶつかっている。破片からして他の車もいたのか。こりゃしばらく動かんわと隣を通り過ぎる。当初予定より30分遅く皮膚科に着いたら1時間ちょっとの待ち。ま、本を読めばいいので待ちは得意である。薬もらって帰る。

図書館で本を返して買い物して、いつもより1時間バスを遅くしたのに、道を見る限りあまり改善されてない。今度は上りが激混み。仕方なく歩いて山を登る。しんどい、昼になり気温も上がって暑い。風は相変わらず冷たいがダウンは脱いで、シャツ袖まくって半袖になる。家に辿り着くまで暑いこと。やっと着いて昼ごはん食べたら眠気が来た。

たまにある事故。よく歩いたな。

◼️三島由紀夫「金閣寺」


プライド、独善、衒学。三島のエネルギーを感じた。


身体が弱く吃りの少年・私は舞鶴近郊に育った。僧侶の父の影響で、幼い頃から金閣寺に憧れていた私は、父が友人である住職に頼み、徒弟として金閣寺に入ることになった。同じ徒弟の誠実な鶴川とともに仏教系の大学に進学した私は、内飜足の悪友、柏木に出会うー。


舞鶴の少年時代、私は想っていた美しい有為子の悲劇的な死を目にする。金閣寺では米兵に命令され日本人の女の腹を踏みつける。


何十年ぶりかの再読で、ああ、こんなことあったかなあ、という感覚だった。


悪友で弁舌家の柏木と学校をサボり、女を紹介される。だんだんと勉学には不熱心になって行き、ついには、という流れだ。


物語の中心は、私の独白だ。吃りにコンプレックスを抱きながら、金閣に魅入られる私の心は多くの言葉で語られ、微妙な動きの表現が重ねられる。そこに感じるのは若さならではの独善性とプライドである。


世間に疎まれながら、理解されないのをむしろ誇りと思い、自分だけの理屈を愉しむ。さらす機会もないから発展性もない。怖ささえ見て取れる。


大人は現実と折り合いをつけるものだが、青春期の私は自分の心のままに行動して、行き違いがあって暗転すると弱さを露呈する。大人の汚さのようなものに反抗する。


そして毒のあるワルの柏木が、終いに真っ当な側に立っているのが面白い。私に友情を向けた、光り輝くような良い子の鶴川の末路との対照が見事だと思った。


人は基本的に自分のことが好きで、どんなに仕事上の笑顔を浮かべていても裏には本当の顔がある。たくさんの自分だけの時間、自分だけの感情を抱えている。そんなことを思うほど、暗いな、私、と思った。いや、私が影響されやすいんだな(笑)。


陥りやすい独善的な性格は計算されたもので、三島由紀夫は筆を尽くしてストーリーを構築していると思う。終戦を絡め、戦後の日本の中の、伝統の美と破壊。


ただまあ、いかにも歪んだ青春もので、若い三島のこれでもかと迸る文面が、正直食傷気味でもあった。これ、読んでみろ、みたいな押し付けと衒学的な傾向が。その読者の感じ方も含めて名作なんだろうか。昭和25年に寺僧の放火で金閣寺が焼けた史実を題材にしている作品でもある。


さて、かつて参加していた文芸の会では時折、日本の名作って読んでる?という話になり、ちゃんと読まなきゃねえ、という感じで終わっていた。文豪ものに暗い私はこの数年で少しずつ読んだものの三島由紀夫は全然これから。去年酔っ払った勢いで「今年は三島を読む!」と宣言したのに初読はもう2月も末。読む読む詐欺っぽい。


金閣を日本の美とし、敗戦と金閣の滅びを暗示的に表現しているようにも見えるこの作品は、ちょっとうざったいが、さすが名作、という感を持った。


金閣寺行ってみようかな。



◼️椹野道流

「最後の晩ごはん 忘れた夢とマカロニサラダ」


たしかに、「最後の晩ごはん」だった今回。


兵庫・芦屋市にある「ばんめし屋」。元イケメン俳優の海里は店主の夏神、眼鏡の付喪神ロイドとともにこの店で働いている。ある夜、先日バイク事故で死んだ塚本という若者の幽霊が店に来る。塚本には幽霊が留まっている理由、現世で執着するものが思い当たらないというー。


ドタバタに見えて、ちょっと社会派。親子の情、孤児の話、現代の若者らしさ、遭難事故の遺族の話も取り入れて、幽霊もので、さらに料理がところどころに挟まる。そして地域の風合いも醸し出す。これで200ページちょっと。ワザの世界ですね。


書評から逸れるが、映画は2時間、ラノベは250ページまで。映画は1時間半でも優れた作品はたくさんある。本も長ければ重厚、というわけでもないんじゃないかと。


塚本の話から、海里が自分の家族と向き合う。合わせて義姉・奈津の人生を聞き出し、紹介する。それが一巻まるまる引っ張った塚本の未練の理由を引き出すヒントになる。奈津と塚本の境遇が似ていることで先行きは予想できるが、ディテールで上手に外されたかな。


ガパオ風ごはんに、マカロニサラダ。ばんめし屋のメニューのもろもろ。気に入ったシリーズ。


うまく収まったように見えるし、物語ではあるんだけど、塚本くんの哀しさに考えこんでしまった。ちょっと「金閣寺」の主人公にも似てるかな。