仰向けになってくつろぐクッキー7歳メス。甘え方が息子によく似てること。
この稿の5作品はいずれも技巧派だった。
中島京子「冠・婚・葬・祭」
思ったよりもユーモラスで、かつメッセージ性のある短編集だった。昔のお盆を思い出した。
2年目の新聞記者だった菅生裕也は、地方版の記事で思い込みによる誤報記事を出してしまい、辞職に追い込まれる。挨拶回りをしていたおり、記事に掲載した写真の被写体である女性の大道芸人の消息を聞き、興味を持つ。(「ディアボロを高く」)
タイトルから、もっと儀式そのものにスポットを当てた物語かと思っていた。底流のテーマではあれど、それぞれのエピソードを淡々とコミカルに、ていねいに綴った作品集で、小説らしい作りだな、と感じた。
1話めが変化球で、2話め「婚」はかつてお見合いの世話役で辣腕を振るった老婦人が主人公、3話めはそのものの葬式が2回も出て来て、その中での老婦人と若者とのふれあい、最終話「祭」は、田舎のお盆の話。うすーくそれぞれの話の登場人物が被っている
どれも、現代をベースに、コミカルに現代社会の状況を取り上げつつ、かつての冠婚葬祭と比して、含むものがたっぷりとある。この辺が、おそらくの主力読者層の胸をコツコツとノックする。
特に最終話は、昔のお盆を思い出させる。親戚とその子供たちが集まって、しきたりにのっとり迎え火、送り火でお寺さんへ行き帰りした。わいわいと盛り上がり、花火をして楽しんだ。ひと世代を経て、いま故郷を離れ都会に暮らす身には、ただ懐かしい思い出だ。
現代というのは、ただ現象だけでなく、鏡の存在でよりその姿を浮き彫りにする。でも作者は否定しているわけではないとおもう。高名な映画監督は、そんな我々の子供時代にすら日本は死んだ、という意味のことを言っていた。確か、たしか・・。
ファンタジック(ちょいホラー?)な味つけもよし。興味深い一冊だった。
高田崇史「QED ベイカー街の問題」
独特の雰囲気が流れる推理もの。シャーロッキアンものを読む楽しみ。
薬剤師の棚岡奈々は、大学の先輩の緑川友紀子から、緑川もメンバーである「ベイカー・ストリート・スモーカーズ」というシャーロッキアンクラブのパーティーに、桑原崇と2人で来ないかと誘われる。当日、「まだらの紐」の寸劇の最中、クラブのメンバーが殺される。
QEDシリーズを読むのは2作め。シャーロッキアンものとして楽しんで読んだ。この作品によれば日本に自称シャーロッキアンは3000人くらいだそうだ。たぶんなんらかのクラブや団体に属している人数だと思うが、潜在的にはたくさんいるだろう。
横浜を舞台に、どこか厭世的な香りのするミステリー。なんか島田荘司っぽい。漢方薬剤師のタタル=桑原崇が探偵役。
正典がふんだんに出て来て、一般的に挙げられているホームズものの謎や矛盾、仮説についてふんだんに紹介されている。どこかで見た説ではあるなあ、という感はあるがそれでも好きな私は楽しめた。原作についてなんだかんだいうのが楽しいのであって、逆にドイルが完璧でなくて良かったな、とすら思う。
シャーロッキアンものはけっこうたくさん出版されていて、さすがに全部は追えないが、また探して来て読もうと思う。
絲山秋子「イッツ・オンリー・トーク」
筆力があるのには違いないが、より女子向きかと思う。浮遊感、内向、アングラ、生な女感。うーん、どれも部分的にしか合ってないな。
かつて新聞記者で海外特派員にもなった優子は躁鬱病となり、貯金を崩しながら蒲田に暮らす。誰とでもセックスしてしまう優子は、大学時の友人で区議会議員の本間とそういう流れになるが果たせず、以前ネットで知り合った痴漢と快楽に耽る。ある日、自殺する、というメールを送って来たダメ男のいとこ、祥一が優子の部屋に転がり込み、本間の選挙事務所を手伝うことになる。
さまざまな要素を盛り込みながら、女の小説を成していく、という感じである。大学を出てエリートの道を歩み壊れてしまった女がベースで、彼女は男に振られたばかりで登場し、本間、祥一のほか大学の同期小川、精神病仲間のヤクザとも触れ合いがある。
ゆっくりと物事が動き過ごす人間の社会で、おりおり、体調やセックスなどに女子の本音の表現がにじみ出ているような気もする。そこは確かに妙にリアルだ。しっとりとして、どこかコミカルで、アブなさもある。
絲山氏は、営業職として勤めている時に躁鬱病になったと経験があるという。この作品で2003年に文學界新人賞を取ってデビューした。その後の作品も賞を受け、2006年には「沖で待つ」で芥川賞に輝いている。確かに純文学系ではある。
こないだ読んだ「袋小路の男」とは似て非なるテイスト。どう表せばいいのかちょっと分からなくなった(笑)。もう少し読んでみよう。
ケン・リュウ「もののあはれ」
世界が注目するSF作家の短編集第2弾。進歩、死の克服、宇宙への脱出、と本道を行っている。小難しいところもあるが、前作に引き続き、刹那的で哲学チック。
日本人の僕、かつて久留米市民だった清水大翔(ひろと)はおとめ座61番星におよそ300年後に着く宇宙船に、1200人余りの地球人と共に乗っている。地球は小惑星「鉄槌」の衝突の脅威にさらされており、宇宙船を開発したアメリカ人の博士に、知り合いだった大翔の両親が託したのだった。
(「もののあはれ」)
前作「紙の動物園」がファンタジー編だとすれば、こちらはSF編だそうだ。確かに、訳分からない理屈がいっぱいある。地球の危機に宇宙船での脱出、生命への挑戦、生き方の変化など、極端に変化した未来的な物質状況に哲学的な物語と考え方を付けている。ちなみにこの本の中で、この宇宙船「ホープフル号」はおとめ座61番星に辿り着く。あとは読んでのお楽しみだ。
正直、最後の「良い狩りを」がかなり日本的アジア的なのを除けば、今回はシチュエーションと理屈が分かりにくく、あまり集中出来なかったかな。しかし、この先鋭的な設定にして、人の業や触れ合いにスポットを当てストーリーテリングしていく力はふむふむ、と思う。「もののあはれ」は日本が過去の舞台、日本人が主人公で、震災の時に賞賛された日本人のある美徳が焦点だ。もののあはれというと、どうも外国の言語では難しいかも。心的にどうアプローチしていいのか正直迷ったな。
ケン・リュウは前作「紙の動物園」でヒューゴー賞と、ネビュラ賞、世界幻想文学大賞のいずれも短編部門を受賞するという、史上初のメジャータイトル3冠を達成した作家さん。今回は単行本を文庫本にする際、2集に分けて、多少順番を入れ替えている。
SF編も根底に流れるポリシーが統一されてふから、まあそれなりに楽しめた。どこかに、西洋、アメリカに対するアンチテーゼと、アジア的なものへの愛、歴史への興味も感じる、英才の作品である。
岡田光世「ニューヨークのとけない魔法」
人の触れ合いのあたたかみと小粋な英会話を綴ったエッセイ集。1編2〜3ページと読みやすいはずだが、けっこう時間がかかった。
作者は高校時、大学時とアメリカに留学、新聞関係の仕事からエッセイスト、ジャーナリストとなり、この作品から始まるシリーズは現在に至るまでロングセラーとなっているという。
同居のアメリカ人女性、自宅の周囲の人たちから街や地下鉄で会話を交わした人々との会話と思い出が描かれ、イースター、クリスマス、大晦日、新年などの風景もある。1編に必ず短いセンテンスの口語英会話が取り上げられている。ニューヨークの風俗ばかりでなく、社会問題もほの見える。2000年の作品で、続編には9.11テロのことも書いてあるのだろう。
イメージはあったが、やはり街で出会った方々と気軽に会話を楽しむ文化なんだな、というのが具体的によく分かる。んー、憧れとまではいかなかったな。
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